2019年5月28日火曜日

ダンゴムシ来襲


娘(五歳)と、その友だちSちゃん、Sちゃんの妹Kちゃんといっしょに公園に行った。

Kちゃんがダンゴムシを見つけてつかまえた。
おねえちゃんのSちゃんがうらやましくなったらしく、
「ねえまるぶた(ぼくは保育園児たちからまるぶたと呼ばれている)、ダンゴムシさがして」
とおねだりされた。
若い女性からおねだりされたらノーとはいえない。

Sちゃんといっしょに茂みに入り、「岩の隙間とか落ち葉の下とかにダンゴムシはいるよ」と教え、何匹かつかまえた。

すると、娘が怒りだした。
「Sちゃんにだけダンゴムシをとってあげてずるい!」

いやずるいって君、ダンゴムシやで……。

しょうがないので娘にもダンゴムシの取り方を教える。すると今度はKちゃんが
「Kちゃんもダンゴムシもっといっぱいほしい!」
と泣きだし……。

ダンゴムシをめぐる女の闘い。
しかたなく、なだめすかしながら子どもたちといっしょにダンゴムシを収集した。

しかしアレだね。
ダンゴムシ集めってかんたんだね。

ダンゴムシ集めって虫の採集の中でもいちばんビギナー向けじゃないですか。
こんな捕獲しやすい虫いないでしょ。
どこにでもいるし、歩くのは遅いし、飛ばないし、刺さないし、くさい汁とかも出さないし、硬いから少々乱暴につかんでも平気だし、触感もあまりキモくないし。
虫採集RPGがあったら、フィールドに出て最初に遭遇する虫。昆虫採集界のスライム。
もはや子どもに獲られるために生きているといっても言いすぎではない(いやさすがにそれは言いすぎた)。

ほいほい捕まえてたら、ぜんぶで六十匹ぐらいになった。うへえ。
バケツいっぱいのダンゴムシ。六十匹ってことは足は千本ぐらい。うへえ。

子どもたちはそれを「家で飼いたい!」という。

ぼくも昔はいろんな虫を飼っていたが、とっくにそのころの少年の心は捨ててしまった。虫とは暮らしたくない。

だがこれも教育、とおもい娘に
「三匹だけやで。元気なやつ選び」
と云う。

一方、SちゃんとKちゃんは「ぜんぶ持ってかえる!」と云う。
おいおい。まじかよ。
どうします? と、彼女たちのおばあちゃんを見る(彼女たちは近所に住むおばあちゃんといっしょに公園に来ていた)。

おばあちゃんは「そう。逃げないように気をつけて連れてかえるんやで」とあっさりした返事。
おばあちゃん、自分の家じゃないからって……。
SちゃんとKちゃんのおかあさん、かわいそうに。五十匹以上のダンゴムシが家にやってくるなんて……。



そんなわけでうちにダンゴムシ三匹がやってきた。
虫かごに土と落ち葉と石を入れ、霧吹きで湿り気を与え、餌として野菜くずを入れてやる。
ダンゴムシにはもったいないほどの好待遇だ。

翌朝、娘に
「ダンゴムシ元気かな?」と言ったら
娘「ダンゴムシがどうしたの?」
ぼく「ほら、昨日捕まえたじゃない」
娘「あー。そうだった」
と言ってあわてて虫かごを見にいった。もう忘れとる!

野菜くずがそのまま残っているのを見て
娘「ぜんぜん食べてないやん」
ぼく「昨日入れたとこだもん。ダンゴムシは小さいからすぐにはなくならないよ」
娘「ふーん。つまんない」
とのこと。もう飽きとる!

2019年5月27日月曜日

未開部族だったぼくら


「最近の大学生は二十歳になるまで飲酒禁止。ばれたら停学」
という話を聞いた。

へえ厳しい時代になったねえ、とおもったけど、よく考えたら昔が異常だったのだ。

若い人からしたら信じられないかもしれないけど、ぼくが学生の頃は「大学に入学したら酒を飲まなきゃいけない」時代だった。
「飲んでもいい」じゃない。
「飲まなきゃいけない」だった。

入学式の茶話会、学部の新歓コンパ、サークルの説明会、バイトの歓迎会……。
とにかく飲まされた。
十八歳でも十九歳でも飲めない体質でも関係なかった。
二十歳を超えた先輩、教授、バイトの店長などの"大人"は誰も止めなかった。"大人"が音頭をとって飲ませていた。

つくづく異常な時代だった。
そんなに大昔じゃない。十五年ぐらい前の話だ。


当然ながら死ぬやつもいた。
急性アルコール中毒になったり、酔って交通事故を起こしたり、けがをしたりけがをさせたり。
野蛮な時代だった。なにしろ当時の日本人は未開部族だったのだ。


それが、法律にしたがって二十歳で解禁という風潮になりつつある。
いい時代になったとつくづくおもう。

「十八歳で飲みはじめる」と「二十歳で飲みはじめる」は、危険性がぜんぜんちがうんじゃないかとおもう。

十八歳だと「大学でもバイト先でもサークル内でもいちばん下っ端」ということが多いだろう。
ほんとは飲みたくないとおもっていても、勧められたら断りにくい立場だ。

二十歳であれば中堅ポジション。ノーと言いやすい。

しかも十八歳から二十歳まで「酒を飲まずにコンパに参加する」という二年間を経ている。
飲酒が人にどういう影響を与えるのかを冷静に観察することができる。
これは大きい。
ぼくは大学に入ってほぼはじめて「たちの悪い酔っ払い」を目の当たりにした。周囲に酒癖の悪い人間はいなかったから。
「たちの悪い酔っ払い」を観察しておくことは、いざ自分が飲むときのブレーキとして機能するだろう。

「二十歳になるまで飲酒禁止」ルールを厳密に適用することで飲酒による事故やトラブルは大きく減るだろうな。知らんけど。

2019年5月24日金曜日

娘の知ったかぶり


毎晩、五歳の娘に本を読んでいる。

以前は絵本を読んでいたが、最近は小学校低学年向けのいわゆる児童書が多い。

「絵のないページがある本」は娘が嫌がるので、「どのページにもイラストがある本」を図書館で借りて読んでいる。

一冊読むのに三十分くらいかかる。
という話を他のおとうさんおかあさんにすると「たいへんですね」といわれるが、ぼくからしたらむしろ楽になったと感じている。

絵本を読むほうがぼくはつらかった。
絵本って「内容が単調」または「ストーリーが不条理」なことが多い。

子どもにはそれがおもしろいのかもしれないが、大人からすると「おもったとおりの展開」か「意味わかんねえ」のどっちかになることが多く、退屈きわまりなかった。

その点、児童文学はストーリーは整合性がとれつつもそこそこ裏切りや謎解きの要素があって、大人も楽しめる。

最近読んだ本だと、石井 睦美『すみれちゃん』シリーズなんて、五歳~八歳の少女の動きが丁寧に描かれていてすごくよかった
娘もいたく気に入って、ぼくに読んでもらった翌日にひとりで読みかえしていた。


あとは富安陽子さんの『サラとピンキー』シリーズもおもしろいし、角野英子さん(『魔女の宅急便』の作者)の本もはずれがない。

ぼくも娘といっしょに夜の読書の時間を楽しんでいる。



さて、児童書を読んでいるとときおりむずかしい表現に出会う。

「じゆう」とか「こどく」とか「ふこうへい」とか。
ものの名前ではない、概念を表す言葉。

こういった言葉が出てくると、ぼくは娘に尋ねる。
「ふこうへいってどういう意味かわかる?」

娘は、わかれば自分なりに説明してくれるし、わからなければ「わからない」と言い、ぼくが説明してやる。

以前は、よく知ったかぶりをしていた。
「知ってる」というので「どういう意味?」と訊くと、まるで答えられないことがたびたびあった。

娘もいっちょまえにプライドが出てきて、虚勢を張るようになったのだ。

そのたびにぼくは注意をした。
「知らないことがあるのは恥ずかしいことじゃないよ。でも知らないのに知ってるふりをするのはすごくかっこわるいことだし、自分が困るよ」
と。

知ったかぶりをしたときはたしなめるが、知らないというときはわざとらしいぐらい優しく教えてやる。
これを何度もくりかえしていたら、知らないことは素直に知らないといってくれるようになった。



今のところ、ぼくの中での唯一の教育方針は「学ぶことの愉しさを知ってもらう」だ。

わからないことがわかるようになる。こんなに愉しいことはない。

嫌々勉強することがないように、「本読んでいいよ」「パズルしよっか」ということはあるが、「本を読みなさい」「勉強しなさい」とは言わないようにしている。

愉しく学ぶ上で最大の障壁となるのが「知ったかぶり」だ。
知ったかぶりをしたとたん、学びはストップする。

だから知ったかぶりをしたときは容赦なく糾弾するし、わからないことに対しては決して責めずに教えていこうとおもう。

自戒の念もこめて。


2019年5月23日木曜日

ゲスい飲み会


前いた会社は若い営業社員が多く、体育会系のノリだった。

ある飲み会のとき、男性社員数人が新しく入った美人社員をつかまえて
「この会社の男の中で誰がいちばんタイプ?」
と訊いていた。

ぼくは少し離れた席でそれを聞いていて「美人もたいへんだな」とおもっていた。

先輩社員に対して「それセクハラですよ」とはなかなか言えないだろう。

適当に受けながしても、この手の質問をするやつは相手の気持ちなんて考えないから答えるまでしつこく訊くだろう。

「みんないい人なんで全員です」なんて返事では済ませてもらえないだろう。

かといって適当に誰かの名前を挙げて、本気にされても困るだろう。仕事もやりづらくなるだろう。


すると美人は言った。
「犬犬さん(ぼくのこと)です」と。

なるほどな、とぼくは感心した。

ぼくは、その会社ではめずらしい既婚者だった。
既婚者、しかも別部署で仕事上の接点がほとんどない人の名前をあげておけば、本気にされる可能性も低い。
もともと仕事上のつきあいもないから、万が一気まずくなっても大丈夫。

さすがは美人。
しょうもない質問をかわしなれてるなあ、と感心した。

と同時に、こうもおもった。

逃げ口上に使われただけとわかってはいても、おっさんはちょっとドキドキしちゃうんだからな!




またべつの飲み会のとき、男性社員三人が女性のSさんをつかまえてこんな質問をした。

「この三人の中でつきあうとしたら誰がいい?」
(ゲスな会話ばっかりしてるとおもわれるかもしれないが、じっさいゲスいやつばっかりの会社だったのだ)

すると、Sさんはこう答えた。
「んー。顔だけでいったら〇〇さんかなー。でもつきあって楽しそうなのは××さん。結婚するなら△△さんかな」

おお。
三人ともにいやな気をさせない返事。と同時に三人とも恋愛対象ではありませんよと伝えている。うまい。
さすがは営業成績トップのSさんだ。

はぐらかされた三人は、気を良くしたような、少しがっかりしたような、なんとも言えない顔をしている。
完全にSさんが上手だったな。


三人は懲りずに、横にいたべつの女性Nさんに同じ質問をした。
「この三人の中でつきあうとしたら誰がいい?」

するとNさんは間髪を入れずに答えた。
全員イヤです

男「えっ、いや、じゃあ地球上にこの三人しか男がいないとしたら?」

Nさん「そのときは誰ともつきあわずに死んでいきます


お、おとこまえー!

隣で聞いていたぼくが、Nさんに惚れそうになってしまった。


2019年5月22日水曜日

精神病という病


昨年、小学校の同級生と約二十年ぶりに再会した。

Facebookで友だち申請が来た。
「今どこにいんの?」
「〇〇市」
というやりとりをへて、
「近いやん。じゃあそのうち飯でも行こか」
と送ったら、
「いつにする?」
と返事があった。

ぼくの送った「そのうち飯でも行こか」は挨拶みたいなものだったので、具体的な日程調整を持ちだされて少し当惑した。
だがなつかしいという気持ちもあったので日程と場所を決めて会うことにした。


待ち合わせ場所にいた彼は、以前とずいぶんちがって見えた。

最後にあったのは高校生のとき。それから二十年もたつのだから変わっているのはあたりまえだ。
ちがって見えたというのは、「二十年もあればこれぐらい変わるだろう」というぼくの予想をはるかに超えて変わっていたということだ。

一言でいうと、彼は老けこんでいた。
二十年たったとはいえ、ぼくたちはまだ三十代半ば。
「老けこむ」と形容されるような年齢ではない。

だが、ひさしぶりに会った彼はぼくより十歳以上も年上に見えた。三十代、だよな?

おどろきを、ぼくはあえて口にした。
「老けたなー!」

すると彼は言った。
「え? そんなに老けた?」
真顔で。
かぼそい声で。

てっきり「ほっとけ!」「おまえもやろ!」的な言葉が返ってくるとおもっていたぼくはおもわずたじろいでしまった。

「あ、いや、お互いさまやけどな」
とあわててフォローまで入れてしまった。

そのまま近くの店に入り、注文をしてから話をはじめた。

「久しぶりやなー。高校卒業以来やな。同窓会にも来てなかったもんな?」

 「まあな」

「ってことは……だいたい二十年ぶりか」

 「そうやな」

どうも会話がぎこちない。

「学生時代の友人とひさしぶりに再会」という経験は何度かあるが、話しはじめたらすぐに昔のペースをとりもどせるようになるものだ。

だが今回はぜんぜんペースがつかめない。というより、こちらのペースに彼が乗ってこない。

「仕事何してんの?」と訊くと、少しの沈黙の後、彼が口を開いた。

「おれ、精神科にずっと通ってて、最近になってやっと外に出られるようになってん。市役所に仕事紹介してもらって。週に三日、短時間やけど」

「えっ。精神科? いつから?」

「二十歳ぐらいのときから」

「ってことはもう十年以上?」

「そう」

訊くと、専門学校に通うようになってから人と会うのがこわくなり、しばらく社会から隔絶された生活を送っていたという。
精神病院に三回入院したという。監獄のようで気が狂いそうだったという。今でも人と会うのがこわい、それどころかテレビを観るのもこわいという。

彼の言葉を聞いて、ぼくは言葉を失った。

小学生のときは毎日のように遊んでいた友だちだ。
人にはない独特な発想をもったやつで、休み時間になるとクラスの男子たちが彼のまわりに集まってきた。
ぼくらは野球をしたり、ゲームをしたり、漫画の貸し借りをしたり、勝手に人の家の敷地内に入って教師から叱られたりした。つまり、ぼくも彼もごくごくふつうの男子小学生だった。

精神病患者が世の中にいるということは知っていた。精神病院という施設があることも。
だが、ぼくの記憶の中にある彼と、精神病院というのがどうしても結びつかなかった。
そういうのってもっと特別な人が入るところじゃないの? 生まれたときからそういう気質のある人が。

小学生のときの彼をおもいだしていた。
野球をするときはめずらしい左投右打だった彼、自分でつくったオリジナルのゲームをノートに書いていた彼、漫画の台詞を真似していた彼、オリジナルキャラクターを校舎の壁に落書きして担任に怒られていた彼、ふだんはどちらかといえばおとなしいほうなのに林間学校で担任から叱られたときだけは泣いて抗議していた彼。

どのエピソードを思いかえしても、彼が「人が怖いからテレビも観られへんねん」と言う人間になるようにはおもえなかった。
もちろんぼくは医者でもなんでもないからどんな人が精神病になりそうかなんてわからないんだけど、でも、ちがうだろ。
なぜ彼が。

もやもやした思いがこみあげてきたが、ぼくにできることはほとんどないがせめてこれ以上彼を苦しめないように、とおもってあたりさわりのない昔話をして別れた。



それから数日たっても、彼のことが頭から離れなかった。

ふとおもった。
「彼が精神病じゃなくて他の病気でも同じように感じただろうか?」

たとえば、ひさしぶりに会った友人が胃の病気になっていた。
ずっと体調が悪くて仕事もままならない。あまり外にも出歩かないのだと聞かされた。

「それはたいへんだなあ」とはおもうだろう。
でも「どうして彼が」とはおもわない。
「小学生のときはあんなに元気だったのだから病気になるなんて信じられない」ともおもわない。

「気の毒なことだけど、誰だって病気にはなるしな。まあそういうこともあるだろう」と受けとめるだろう。

精神病も他の病気も、現象としてはたいして変わらない。たぶん。

脳内である物質が多く分泌されたとか、どこかしらがうまくはたらかなくなったとか、原因はそんなもんだろう。
胃の具合が悪くなるのと、本質的に変わりはない。
胃の細胞の調子が悪くなれば食べ物をうまく消化できなくなるし、脳細胞の調子が悪くなれば人とうまく話せなくなる。それだけのことだ。

だから病気になるのはたいへんなことだけど、それが精神病だからってことさら深刻に受けとめるのは余計なことかもしれないな、とおもいなおした。
絶句するほどのことじゃなかったな。

「彼にどんな言葉をかけてやればよかったのだろう」と悶々としていたけど、「たいへんやなー。早く良くなるといいな」ぐらいでよかったのかな。
次会うときは、そう言ってやろう。