2019年5月22日水曜日
精神病という病
昨年、小学校の同級生と約二十年ぶりに再会した。
Facebookで友だち申請が来た。
「今どこにいんの?」
「〇〇市」
というやりとりをへて、
「近いやん。じゃあそのうち飯でも行こか」
と送ったら、
「いつにする?」
と返事があった。
ぼくの送った「そのうち飯でも行こか」は挨拶みたいなものだったので、具体的な日程調整を持ちだされて少し当惑した。
だがなつかしいという気持ちもあったので日程と場所を決めて会うことにした。
待ち合わせ場所にいた彼は、以前とずいぶんちがって見えた。
最後にあったのは高校生のとき。それから二十年もたつのだから変わっているのはあたりまえだ。
ちがって見えたというのは、「二十年もあればこれぐらい変わるだろう」というぼくの予想をはるかに超えて変わっていたということだ。
一言でいうと、彼は老けこんでいた。
二十年たったとはいえ、ぼくたちはまだ三十代半ば。
「老けこむ」と形容されるような年齢ではない。
だが、ひさしぶりに会った彼はぼくより十歳以上も年上に見えた。三十代、だよな?
おどろきを、ぼくはあえて口にした。
「老けたなー!」
すると彼は言った。
「え? そんなに老けた?」
真顔で。
かぼそい声で。
てっきり「ほっとけ!」「おまえもやろ!」的な言葉が返ってくるとおもっていたぼくはおもわずたじろいでしまった。
「あ、いや、お互いさまやけどな」
とあわててフォローまで入れてしまった。
そのまま近くの店に入り、注文をしてから話をはじめた。
「久しぶりやなー。高校卒業以来やな。同窓会にも来てなかったもんな?」
「まあな」
「ってことは……だいたい二十年ぶりか」
「そうやな」
どうも会話がぎこちない。
「学生時代の友人とひさしぶりに再会」という経験は何度かあるが、話しはじめたらすぐに昔のペースをとりもどせるようになるものだ。
だが今回はぜんぜんペースがつかめない。というより、こちらのペースに彼が乗ってこない。
「仕事何してんの?」と訊くと、少しの沈黙の後、彼が口を開いた。
「おれ、精神科にずっと通ってて、最近になってやっと外に出られるようになってん。市役所に仕事紹介してもらって。週に三日、短時間やけど」
「えっ。精神科? いつから?」
「二十歳ぐらいのときから」
「ってことはもう十年以上?」
「そう」
訊くと、専門学校に通うようになってから人と会うのがこわくなり、しばらく社会から隔絶された生活を送っていたという。
精神病院に三回入院したという。監獄のようで気が狂いそうだったという。今でも人と会うのがこわい、それどころかテレビを観るのもこわいという。
彼の言葉を聞いて、ぼくは言葉を失った。
小学生のときは毎日のように遊んでいた友だちだ。
人にはない独特な発想をもったやつで、休み時間になるとクラスの男子たちが彼のまわりに集まってきた。
ぼくらは野球をしたり、ゲームをしたり、漫画の貸し借りをしたり、勝手に人の家の敷地内に入って教師から叱られたりした。つまり、ぼくも彼もごくごくふつうの男子小学生だった。
精神病患者が世の中にいるということは知っていた。精神病院という施設があることも。
だが、ぼくの記憶の中にある彼と、精神病院というのがどうしても結びつかなかった。
そういうのってもっと特別な人が入るところじゃないの? 生まれたときからそういう気質のある人が。
小学生のときの彼をおもいだしていた。
野球をするときはめずらしい左投右打だった彼、自分でつくったオリジナルのゲームをノートに書いていた彼、漫画の台詞を真似していた彼、オリジナルキャラクターを校舎の壁に落書きして担任に怒られていた彼、ふだんはどちらかといえばおとなしいほうなのに林間学校で担任から叱られたときだけは泣いて抗議していた彼。
どのエピソードを思いかえしても、彼が「人が怖いからテレビも観られへんねん」と言う人間になるようにはおもえなかった。
もちろんぼくは医者でもなんでもないからどんな人が精神病になりそうかなんてわからないんだけど、でも、ちがうだろ。
なぜ彼が。
もやもやした思いがこみあげてきたが、ぼくにできることはほとんどないがせめてこれ以上彼を苦しめないように、とおもってあたりさわりのない昔話をして別れた。
それから数日たっても、彼のことが頭から離れなかった。
ふとおもった。
「彼が精神病じゃなくて他の病気でも同じように感じただろうか?」
たとえば、ひさしぶりに会った友人が胃の病気になっていた。
ずっと体調が悪くて仕事もままならない。あまり外にも出歩かないのだと聞かされた。
「それはたいへんだなあ」とはおもうだろう。
でも「どうして彼が」とはおもわない。
「小学生のときはあんなに元気だったのだから病気になるなんて信じられない」ともおもわない。
「気の毒なことだけど、誰だって病気にはなるしな。まあそういうこともあるだろう」と受けとめるだろう。
精神病も他の病気も、現象としてはたいして変わらない。たぶん。
脳内である物質が多く分泌されたとか、どこかしらがうまくはたらかなくなったとか、原因はそんなもんだろう。
胃の具合が悪くなるのと、本質的に変わりはない。
胃の細胞の調子が悪くなれば食べ物をうまく消化できなくなるし、脳細胞の調子が悪くなれば人とうまく話せなくなる。それだけのことだ。
だから病気になるのはたいへんなことだけど、それが精神病だからってことさら深刻に受けとめるのは余計なことかもしれないな、とおもいなおした。
絶句するほどのことじゃなかったな。
「彼にどんな言葉をかけてやればよかったのだろう」と悶々としていたけど、「たいへんやなー。早く良くなるといいな」ぐらいでよかったのかな。
次会うときは、そう言ってやろう。
2019年5月20日月曜日
【読書感想文】平均が良くなれば世の中は良くなるのか / 『FACTFULNESS』
FACTFULNESS (ファクトフルネス)
ハンス・ロスリング オーラ・ロスリング アンナ・ロスリング・ロンランド
上杉 周作(訳) 関 美和(訳)
貧困は解消されていない、あいかわらず世界中で多くの子どもたちが栄養失調で苦しみ、若くして命を落としている……。
そんなのはすべて間違いだ、世の中はまちがいなく良くなっているのだ、と多くの証拠を挙げて主張するのが『FACTFULNESS』だ。
話題になっているのは知っていた。
おもしろそうな本だとおもっていた。
でもぼくの「流行りものには手を出したくない」という悪い癖が顔を出し、「そのうち読もう」と放置していた。
ところが、訳者の一人である上杉周作氏が書いたnote( 『ファクトフルネス』批判と知的誠実さ: 7万字の脚注が、たくさん読まれることはないけれど )を読み、
「こんなに知的誠実さを持った人の訳した本がおもしろくないわけがない! すぐ買ってお金を落とさねば!」
という謎の使命感に駆られ、購入した。
やはり話題になっているだけあって、おもしろかった。
中盤以降は同じようなことのくりかえしでやや退屈だったが前半はめっぽうおもしろかった。
誤った"常識"を正してくれる良書であることはまちがいない。
翻訳もいいし、ぜひ多くの人に読んでもらいたい。
まずは、上記上杉氏が作成した チンパンジークイズ をやってみてほしい。
全部三択問題で十二問。すべて勘で答えても四問は正解する計算になる。
しかし、ほとんどの人の正答数は四問を下回る。誤った知識が邪魔をするのだ。生兵法は大怪我の基。
ぼくも大半まちがえた。
じっさいは、ぼくがおもっているよりずっと世界は良くなっているのだ。
悪いことが起こったときはニュースになる。
人が殺された、新しい病気が流行っている、戦争がはじまった、痛ましい事故が起こった、天災が起こった。
けれどいいことはあまりニュースにならない。
赤ちゃんがたくさん産まれて健康に成長している、医療機関が多くの命を救った、戦争を未然に防いだ、事故数が昨年より減少した、今年は地震が起こらなかった。
そんなことはニュースにならない。
赤ちゃんが産まれてすくすく育っていることがニュースになるのはパンダだけだ。
だから世の中はどんどん悪くなっていっているような気がする。
少年犯罪も高齢ドライバーによる交通事故も餓死も戦死も難民も減っている。
そこをついつい忘れて「昨今の日本は……」とか「最近の若いやつは……」と言いたくなってしまう。気を付けなければ。
今の日本には、「食っていけない」「病気になっても医者に診てもらえない」「我が子に教育を受けさせられない」というレベルの貧困にあえぐ人はほぼいない。
『FACTFULNESS』では経済状態に応じて、レベル1(最貧層)~レベル4に分けている。
日本人の大半は最も豊かな層であるレベル4に位置している。「金がない」「貧困世帯だ」とおもっている人たちも、世界水準で見ればほとんどはレベル4だ。
1日に32ドル以上の収入があり、家の蛇口をひねれば水道が出てきて、ガスで調理ができ、自動車で移動をする。
ぼくらはレベル4の生活をしているし、ぼくらの親世代もたぶんレベル4の暮らしを送っていた。
だからレベル1やレベル2の人々の暮らしをまるで理解していない。
病気でなくなる子どもが多いと知ると、ぼくらは「病院を建てて医師や看護師の数を増やせばいい」とおもう。
でもそれはレベル3やレベル4の人の発想だ。ほんとに貧しい人たちはそもそも病院に行けないのだ。
この本の中では、子どもの死を減らすためには医療の充実より、たとえば交通を整備することのほうが重要だと書いている。
道路をきれいにして町へ向かうバスが走れるようにする、そうすれば病院に行けるようになる。
なるほど、たしかにこういう発想はなかったな。
想像力は大事だが、想像力には限界がある。自分から遠すぎる世界の暮らしは想像の範疇を超えている。
貧困は減っている、ということが『FACTFULNESS』にはくりかえし書かれている。
うん、たしかにそうなんだろう。事実なんだろう。
でも、なんかしっくりこない。
平均として世界が良くなっているといわれても、それがどうしたという気がする。
ぼくらが実感する不幸って相対的なもんなんだよね。
もちろん生きていけないほどの貧困は重要問題で、最優先で解決しなきゃいけないことなんだけど。
でもそれを解決したからいいってもんじゃないんだよね。
江戸時代の殿さまは今のぼくらよりまずいものを食べて汚い身なりをしてろくな医療を受けられなかった。冷暖房もなかったし娯楽も乏しかった。
今の基準でいえば貧困に相当するだろう。レベル1~レベル4で言えばレベル2ぐらいの暮らしだ。
でも殿さまが経済的に不幸だったかというと、まったくそんなことはない。
同じように、現代の裕福な生活だって百年後の人たちから見たら貧しい暮らしに見えるだろう。
自動移動装置もナノ医療も標準食品もオート秘書も安全住宅もなしに生活してたの、かわいそう、と言われるかもしれない。
百年後にも『FACTFULNESS』みたいな本が出版されて、世界は悪いことだらけのように見えるけど、でも2019年頃に比べると世の中にはこんなにも良くなっているんです! と書かれているかもしれない。
だからってぼくらが不幸だということにはならないし、2119年の人たちが幸福だということにもならない。
シリコンバレーのエンジニアの平均年収は、日本円にして1000万円を超えているという。
そこに暮らす年収800万円の人は、経済的な満足感は得にくいだろう。あなたは世界水準で見ればたいへんなお金持ちなんですよ、といわれても納得できないだろう。
ぼくらが感じる幸福や満足は「隣人と比べた」相対的なものだからだ。
その考えはぼくらの脳の仕組みに由来するものであって正確な考えではないのですよといわれたって、現に幸福につながらない以上なんの気休めにもならない。
『FACTFULNESS』には、「相対的な満足度」の話がほとんど出てこない。
著者が見落としていたわけではなく、本題がぶれるから意図的に書かなかったんだろうけど、ぼくはひっかかりを感じてしまう。
極端なことをいうと、「みんなが年収200万円の世界」と「9割が年収100万円で1割が年収1億円の世界」を比べたとき、後者のほうが平均収入が増えてるでしょ、だから後の世の中が良いんですよ、と言われているようなひっかかり。
そこまで極端なことを言わなくても、「みんなが年収200万円の世界」が「半分が年収250万円で半分が年収1000万円の世界」になったとしたらどうだろう。
みんな年収増えましたよ、以前に比べて不幸になった人はいませんよね、といえるだろうか。
「格差」という切り口があれば、より満足度の高い本になったかなあ。
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2019年5月16日木曜日
ごめんって言った
(途中まで実話)
公園で子どもたちとあそんでいると、不意にKちゃん(三歳)が火がついたように泣きだした。
その場にいた大人が目を離したすきに、なにか痛い目に遭ったらしい。
「どうしたの?」と訊いても、泣くばかりで要領を得ない。
Kちゃんの隣にいたMちゃん(やはり三歳)に
「Kちゃんがなんで泣いてるのか知ってる?」
と訊くと、
「Mちゃん、ちゃんとごめんって言ったよ!」
との返事。
どうやらKちゃんとMちゃんがぶつかったかなにかしたらしい。
ぼく「何が起きたのか知りたいから教えてくれるかな?」
M「Mちゃん、ごめんって言ったよ!」
M「Mちゃん、ごめんって言った!」
ぼく「うん、ちゃんとごめんなさい言えてえらかったね。で、Kちゃんはなんで泣いてるのかな?」
M「ごめんって言った!」
ぼく「ほら、おじさんぜんぜん怒ってないでしょ。おじさんは何があったのかを知りたいだけなんだよ。ぶつかったの? どことどこがぶつかったのかな? それによって手当てのしかたも変わってくるから」
M「ごめんって言ったのにー!(泣)」
ぼく「ご、ごめん……」
そこに駆けよってくるMちゃんのおとうさん。
M父「おい、どうしたんだ。なんでうちの子は泣いてるんだ!」
ぼく「私、ごめんって言いましたよ!」
M父「うちの子に何をしたんだよ!」
ぼく「私はきちんとごめんって言いました!」
ぼく「ですからごめんと言ったと言ってるじゃないですか!」
2019年5月15日水曜日
仕事の愚痴
仕事で、とある会社と揉めた。
「〇〇をやってほしいんだけど」と言われて相談に乗っていたのだが、採算に見合わないと判断したので「やっぱり受けられません」と断った。
すると、相手の会社の担当(おじいちゃん)が怒りだした。
「ここまでやったのだから最後まで責任を持つべきでしょ!」と。
メールで断ったのだが、何度も電話をしてくる。
言った言わないの話になるとややこしいので文書でやりとりしましょうよといったのだが、おじいちゃんはメールが苦手なのか、しつこく電話をしてくる。
「契約も交わしていないしお金も受け取っていないので、うちが仕事を受ける義務はありません」
と言っても、
「契約の問題じゃないでしょ。道義の問題でしょ。ビジネスマナーの問題でしょ。やりなさいよ!」
と、ずっとわめいている。ずいぶん都合の良いビジネスマナーだ。
こちらがあれこれ説明しても、一切聞く耳を持たない。
ずっと一方的にまくしててている。
「いくら出せばやってくれますか」とか「どこまでならやってくれますか」とかならまだ交渉の余地もあるのだが、おじいちゃんの言うことときたら「やってくれないと困る!」「おたくには信義がないのか!」などの自分の都合&精神論ばかりなので、てんで話にならない。
あまりにしつこいので、受話器をデスクに置いてみた。
3分ぐらいして「そろそろ切れたかな?」と受話器を耳にあてたら、おじいちゃんはまだしゃべってる。
相手の反応など一切おかまいなしなのだ。すごい。
相手の話聞く気ないなら電話じゃなくてメールにせえよ。せめてFAXか。
「メールじゃ細かいニュアンスが伝わらないので」と言って電話してくるやつって、細かい調整をする気なんかさらさらなくって、ただ自分の言いたいことを言うだけだよね。例外なく。
2019年5月14日火曜日
授業を聞かないほうが成績がよくなる
耳から入ってくる情報の処理が苦手だ。
脳のはたらきの問題だろうか。
耳から入ってきた情報が、ぜんぜん脳に定着しない。
子どもの頃から「人の話を聞かない子」と言われていた。
じっさい、そのとおりだった。
授業なんてまるで聞いていなかった。
中学校のとき、英語のテストで満点をとったのに通知表の評価が「9」だった(10段階評価で)。
「テストが100点で提出物もぜんぶ出してるのになんで10じゃないんですか」と抗議したら、「だって授業態度が悪すぎるから」と言われた。
よっぽど態度が悪かったのだろう。不良でもないのに。
高校のとき、数学の先生が言った。
「もうわかっている、という人は授業にあわせなくていい。ぼくの授業のときはどんどん教科書を読みすすめてくれてええで」
言われたとおりに、ぼくは授業を聞かないことにした。
教科書を読みすすめ、問題集を解いた。
授業で取りあげるまえに問題を解いて、授業を聞きながしながら問題を解き、テスト前に問題を解いた。同じ問題を三回ずつ解いた。
それからだ。
ぼくの成績が飛躍的に伸びたのは。
高二のときに数Bのテストが五回あったが、五回とも百点だった。
数Ⅱでも五回中三回百点をとった。
ぼくはやっと気づいた。
授業を聞かないほうが成績がよくなる、と。
そのとき、今までのあれやこれやの謎がとけた。
わかった。ぼくは人の話を聞けないんだ。
小学生のときは忘れ物が多かった。
先生が黒板に「もちもの:コンパス」と書いてくれたときは大丈夫だったが、「明日は雑巾を持ってきてください」と言われたときはダメだった。
「何回注意されても同じミスをする」と叱られたことも一度や二度ではない。
言語だけではない。
音の高低がわからない。もちろん音痴だ。
合唱コンクールの練習でまじめに歌っていたのに「ちゃんと歌いなさい」と注意された。
外国語の発音やアクセントがよくわからない。
学生時代、英語の成績は良かったが、発音・アクセントだけはまるでダメだった。
小説や漫画を読むのは好きだが、ドラマやアニメは楽しめない。洋画は字幕のほうが楽だ。
すべてが一本につながった。
そうか。ぼくの脳は、音を処理するのが人より苦手なんだ。
苦手なものはしかたがない。だが自分の苦手がわかれば対策が立てられる。
数学以外の教科も、勉強のやりかたを変えた。
授業を聞いて理解することは一切あきらめた。
英語の授業中は古文の勉強をし、古文の授業では世界史の教科書を読み、世界史の授業中には化学の問題を解いた。
わざわざ他の教科の勉強をしたのは、教師の声を完全にシャットアウトするためだ。有機化学の問題を解いているときに無機化学の話をされるより、世界史の話のほうが無視しやすい。
ぼくは塾には通っていなかったが進研ゼミ高校講座をやっていた。
これも自分にあっていた。
人の話を聞くのは苦手だが、読んで理解するのは得意だ。
文字とイラストだけですべて説明してくれる進研ゼミは、ぼくのような人間にはありがたい。
成績はぐんぐんよくなっていった。
ほとんどの教科で学年トップクラス。悪いのは音楽だけだった。
あのとき「授業を聞かなくてもいい」と言ってくれた教師には感謝している。
ぼくだけに向けたアドバイスではなかったが、たまたまぼくの能力にはぴったりとあっていた。
大学進学後も、就職してからも、自分の不得意分野を把握していることは役に立った。
身につけたい知識は文字で読むようにする。
おぼえなきゃいけないことは文字にする。
人とやりとりするときは会話ではなくなるべく文書でやりとりするようにする。
苦手なことにリソースを割かなくてよくなった。
そんなぼくにとっての天敵は「すぐ電話してくる人間」だ。
「話したほうが早いから」という身勝手な理由で、メールやチャットでできる話を電話でやろうとする人間。
「メールじゃ正確に伝わらないから」というむちゃくちゃな理由で電話してくる人間(こういう人間が電話で正確に伝えてきたためしがない)。
こういう人間とはとことん相性が悪い。
たぶんぼくが耳からの情報をうまく処理できないように、連中も文字による情報を処理できないのだろう。
相性が悪いのがわかりきっているから、「すぐ電話人間」とは極力かかわらないようにしている。
……という判断ができるようになったのも、自分の苦手を把握できるようになったからだ。
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