2019年2月2日土曜日
修学旅行の方法
ふと思ったんだけど、日本人って修学旅行によって旅行の方法を身につけてるんじゃないかな。
修学旅行ってめちゃくちゃ準備するじゃない。
たかだか二泊三日なのに、何ヶ月も前から綿密なスケジュール立てて、持ち物を用意して、何度も何度も忘れ物がないかチェックして、出発前日には結団式とかいうわけのわからん儀式までやって、やっと旅行に行く。
で、大人になって何度か旅行をしてみてやっと気づく。
ぜんぜんスケジュールなんて立てなくていいや。どうせ予定通りにならないし。予定通りにしすぎたらつまんないし。
持ち物も、わざわざ用意しなくてもふだん使っているものを鞄に詰めこめばいいや。何か忘れたって、お金とパスポートさえあれば後はどうとでもなるし。
修学旅行のときにかけられた呪いがようやくとける。
どっちのやりかたがいいというわけでもないんだけどさ。すべてをコントロール下に置きたい人だっているだろうけどさ。
でも修学旅行式の旅行ってダサいよね。
何週間も前から下準備していよいよ旅行当日です、ってよりもふらっと思いたってリュックひとつで旅に出ました、のほうがだんぜんかっこいい。
群ようこさんの本に『鞄に本だけつめこんで』ってのがあるけど(内容は旅行記ではなく読書エッセイ)、鞄に本だけつめこんで旅立つなんて理想の姿だ。
修学旅行の準備をガチガチにやるのもわかるんだけど。極力トラブルを起こさないようにしようというやりかた。教師の立場だったらそっちのほうがいいに決まってる。
でもあれは旅行の準備というより出兵の準備だよなあ。
2019年2月1日金曜日
国境に作るのは壁か溝かの考察
米大統領が国境に壁をつくるといってるけど、なぜ壁なんだろう?
素人考えだけど、不法移民の侵入を防ぐなら、壁より溝(または堀)のほうがいいんじゃないかと思うんだけど。
以下、その理由。
1.壁より溝のほうが建設コストが小さそう
壁を建てるより、穴を掘るほうがかんたんなんじゃないのかな。
掘った分の土を溝の両脇に固めれば、壁+溝+壁でより強固になるし。
2.溝を越えるほうがむずかしくない?
壁だったら、その近くに足場をつくって超えることができる。 でも溝から這いあがるためには、溝の中に足場を作らないといけない。こっちのほうがむずかしい。
3.不法入国者を捕まえやすい
溝の中に入ってしまえば、進むのも退くのも容易ではなくなる。溝の中にいるときに衛兵に見つかったらまず逃げられない。
……と、溝のほうがいいんじゃないか? と思ったんだけれど、よく考えると万里の長城やベルリンの壁など、人の行き来を制限するときに作られるのはまず壁だ。
日本の城は堀で囲まれていることが多いが、城は緊急時以外は出たり入ったりしないといけないものだから、国境に作られる壁とは性質がちがう。
先人たちが壁を選んでいるということは、やはり溝より壁のほうが侵入を防ぐのに向いてるんだろうな。なぜだろう。
以下、溝のデメリットを考えてみた。
1.壁のほうが建設コストが小さい?
ぼくは建築の素人なので溝を掘るほうがかんたんと思っているけど、実際は壁をつくるほうが穴を掘るより楽なのかもしれない。
壁は頑丈であればせいぜい一メートルぐらいの幅でいいけど、溝は最低数メートルの幅がないとかんたんに越えられるもんな。
2.向こう側が見える
溝は壁とちがって向こう側が見える。
刑務所が壁で囲っているのは、中が見えるとまずいからだろう。向こうが見えれば、あらかじめサインを決めておけば中と外で意思疎通もできるし。
また、弓矢や銃などの飛び道具を使えば溝を越えなくても攻撃をすることもできる。防衛上は壁のほうがはるかに強い。
しかしアメリカとメキシコを隔てる壁に関していえば、移民の侵入を防ぐのが目的なのだから、見えることは大した問題ではないと思うんだが。
3.橋をかけやすい
対岸に協力者がいた場合、溝のほうが壁より容易に向こう側に渡りやすい。ロープを渡して縄ばしごをつくるとかして。
4.埋まる
あっそうか。ここまで書いて気がついた。
溝は埋まるんだ。風などによって土砂が堆積して埋もれる。
それよりなにより、大雨が降ったら川になる。そしたら泳いだり船に乗ったりして渡れる。
そうかー。
やはり溝はだめだな。壁がいい。いや、国境に壁をつくるのがいいとは思わんけど。
2019年1月31日木曜日
【読書感想文】"無限"を感じさせる密室もの / 矢部 嵩〔少女庭国〕
〔少女庭国〕
矢部 嵩
(ネタバレ含みます)
女子中学生が意識を失い、気づいたときには閉ざされた部屋の中にいた。ドアには貼り紙。
“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ”
……と、コンビニに置いてある安っぽいマンガみたいな手垢にまみれた導入だなと思っていたが、さすがは奇才・矢部嵩。安易なデスゲームにはさせない。
米澤穂信『インシテミル』を読んだときにも感じたんだけど、そんなに都合よくサバイバルゲームはじまらねえだろっておもうんだよね。
ふつうの人にとって「人を殺す」って相当なハードルの高さだよ。極限まで追い詰められないと殺し合いなんてはじまらねえよ。「(文字通り)死んでも人は殺さない」って人も相当するいるとおもうよ。「殺られる前に殺るのよ!」なんて発想にいたるのはむしろ少数派なんじゃねえの?
なのにフィクションの世界だと、変なマスクかぶった人が「さあゲーム(殺し合い)の始まりです!」と言うだけで、あっさりその無理めな設定が通用してしまう。
こういうところに常々不満を抱いていたので、〔少女庭国〕の展開には感心した。
“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ”
の貼り紙に気づいた女生徒たちは、けれどいっこうに殺し合いをはじめない。
いつ始まるんだと思っていると、ついに殺しがはじまるが詳細な描写はなくたったの数行であっさり説明されるだけで、そのまま話は終わってしまう。
ん? なんだこりゃ? 幽遊白書の魔界統一トーナメントか?
……と思っていたらはじまる第二章。
そこにはまた別の部屋に閉じこめられた女子中学生がおり、壁にはやはり貼り紙が。
これが延々続く。
この世界では部屋は無限にあり、閉じこめられた女子中学生も無限に存在する。
となると、女子中学生がとる行動も無限にあるわけで、〔少女庭国〕はその ”無限” を書いてみせる。
二人で殺しあう世界もあれば、十人で殺しあう世界もある。殺しあわずにそれぞれ死んでゆく世界もあれば、どんどん人や土地が増えてゆく世界もある。
中にはこんな一大文明が発達する世界も。
もちろん本のページは有限なので実際には有限なのだが、ありとあらゆる行動パターンが書かれることで、まるで無限の選択肢をすべて提示されたかのような気になる。
「クローズドな世界」を描いていたはずなのに、気づいたら時間も場所もシチュエーションもどんどん拡大して、いつのまにか無限を目の当たりにしているのだ。
なんともすごい小説だ。よくこんな奇天烈な話を書こうと思ったし、出版しようと思ったものだ。
とはいえ、「すごい」と「おもしろい」はまたちがうわけで、物語としておもしろかったかというとそれは微妙なところでして……。
2019年1月30日水曜日
【読書感想文】部活によって不幸になる教師たち / 内田 良『ブラック部活動』
ブラック部活動
子どもと先生の苦しみに向き合う
内田 良
ぼく自身、「熱心な部活動」とはあまり縁のない学生生活を送っていた。
中学校では陸上部。
陸上部というのは基本的に個人競技なので、運動部のわりに「やりたいやつはやればいい」という雰囲気が強い。リレーや駅伝を除けば、サボっても自分の成績が悪くなるだけだから。
顧問があまり熱心でなかったこともあって、ほどほどに手を抜きながらやっていた。
高校では「ちょっとおもしろそう」ぐらいの軽い気持ちでバドミントン部に入ったものの、コーチ(顧問とはべつにコーチなる存在がいた)が怒鳴りまくっている部だったのでこりゃたまらんと思って二週間で退部した。こっちはべつに全国大会に行きたいわけじゃなく羽根つきを楽しみたいだけだったのだ。
で、野外観察同好会という部(同好会という名だが一応部扱いだった)に入会。ここは居心地が良かった。なにしろ三年間で活動日が四日しかなかったのだ。最高。
かくして高校時代は友だちの家でだべったり、勝手に弓道部にまぎれこんで気楽に弓をひいたり、本屋に足しげく通ったり、陸上部にまぎれて走りたいときだけ走ったり、公園でサッカーや野球やテニスやバドミントンをしたり、学校近くの川でパンツ一丁になって泳いだり、最高の放課後生活を送っていた。
あんな充実した時間はもう味わえないだろう。部活をやらなくて心底よかったと思っている。
というわけで個人的には部活反対派だが、他人に「やめなよ」とは言わない。やりたい人は好きにしたらいいと思う。
中学生のときは「部活をやらないと内申点が……」みたいな脅し文句を聞いて真に受けていたが、今思うとくだらないと思う。内申点なんて「同じ点数だったら部活を真面目にやってたほうを合格させる」ぐらいの話だろう。受験のために部活をやるんだったらその時間に勉強するほうがずっと効率的だ。
しかし「部活はやりたい人だけやればいい」というのは生徒の話であって、教師にとって部活はそう言えるものではない。
仲の良い友人がいた。月に一、二度は遊ぶ間柄だった。酒の席が好きで、飲み会に誘えばよほどのことがないかぎりは来てくれた。
だが彼が公立高校の教師になってからはほとんど会っていない。年に一度も会わない関係になってしまった。
なにしろまったく時間がないのだから。
平日は遅くまで仕事、土日も部活。平均すると週に6.5日ぐらいは仕事をしないといけないと言っていた。これでは遊ぶ時間などとれるはずがない。
彼はろくにやったこともないバスケットボール部の顧問にさせられ、土日も部活に参加。
もらえるのは交通費と昼食代で消えてしまう程度の手当だけ。
「そりゃひどいな」とぼくは言ったが、彼は「若手は断れないからなー」とむなしそうにつぶやくだけだった。
彼は部活によって不幸になっているように見えた。
彼だけが特殊なのではない。ごくごく平均的な教師の姿だ。
こんなむちゃなことが日本中の学校でまかりとおっている。
部活と教師をめぐる問題については、大きくふたつある。
ひとつは「やりたくなくてもやらないといけない」という問題であり、
もうひとつは「やりたい人がどこまでもやってしまう」という問題だ。
いやいややらされるのもよくないが、どこまでもやってしまうのもよくない。必ずどこかにひずみが出る。
『ブラック部活動』には、教師のこんな言葉が紹介されている。
これはたしかに気持ちがいいだろう。だから他のことを投げ捨ててでものめりこんでしまう。
授業に関しては教育方針が細かく定められている。週に何時間、年間に何時間、どういった教科書を使ってどこまでやるのか。日本全国の公立中学校でほぼ同じ教育が受けられるようになっている。
だが部活に関しては明確な規定がない。形式としては「放課後の時間を利用して教師と生徒が勝手にやっている」という扱いだ。
規定がないということは限度がないということだ。朝五時から夜の十時までやったとしても、生徒・顧問・保護者がそれぞれ納得しているのであればそれを規制する決まりはない。
どんなに熱心な教師が訴えても「数学の授業時間を週三十時間にしてください!」という要望は通らないが、野球部の練習を週三十時間やれば熱心な先生だと褒めたたえられる。
ぼくの中学生時代、前日の部活や朝練で疲れはてて、授業中に寝ている生徒が多かった。
学生の本分は学業なのだから、勉強に支障の出るような部活はするべきではない。
教師だって部活に割く時間があるのなら休息するなり授業をより良くすることに使うほうがいいはずだ。
こんなあたりまえのことが守られていないのが現状だ。
明らかに狂っているのだが、あまりにも長く続きすぎていて、深く関わっている人ほど狂っていることに気づけなくなっている。
最近、あちこちの学校で教師が不足しているという話を聞く。
そりゃそうだろう。ぼくにとって教師なんてぜったいにやりたくない職業のひとつだ。子どもに何かを教えることは好きだが、そのために自分の時間や命を削りたくない。
だが部活に関しては明確な規定がない。形式としては「放課後の時間を利用して教師と生徒が勝手にやっている」という扱いだ。
規定がないということは限度がないということだ。朝五時から夜の十時までやったとしても、生徒・顧問・保護者がそれぞれ納得しているのであればそれを規制する決まりはない。
どんなに熱心な教師が訴えても「数学の授業時間を週三十時間にしてください!」という要望は通らないが、野球部の練習を週三十時間やれば熱心な先生だと褒めたたえられる。
ぼくの中学生時代、前日の部活や朝練で疲れはてて、授業中に寝ている生徒が多かった。
学生の本分は学業なのだから、勉強に支障の出るような部活はするべきではない。
教師だって部活に割く時間があるのなら休息するなり授業をより良くすることに使うほうがいいはずだ。
こんなあたりまえのことが守られていないのが現状だ。
明らかに狂っているのだが、あまりにも長く続きすぎていて、深く関わっている人ほど狂っていることに気づけなくなっている。
最近、あちこちの学校で教師が不足しているという話を聞く。
そりゃそうだろう。ぼくにとって教師なんてぜったいにやりたくない職業のひとつだ。子どもに何かを教えることは好きだが、そのために自分の時間や命を削りたくない。
半数以上が過労死ラインを超えている職場。
誰がどう見ても異常だ。制度に欠陥があるとしか考えられない。
しかし外から見たらどれだけ異常であっても、渦中にいる教師たちにとってはこれが日常なんだよね。
もちろん月80時間の残業のすべてが部活のせいではないが、半分以上は部活が原因だろう。
一刻も早く教師から部活指導の義務をひっぺがしてやらないと、教師が疲弊し、人員は不足し、学校教育は劣化してゆく。誰も得をしない。
こうして部活指導に警鐘を鳴らす本も出て、少しずつ世の中は変わりつつあるように見える。
ぼくは、部活を断る教師を応援したい。
学校は勉強をするところなんだから、教師も生徒も、部活ではなく勉強で評価される"あたりまえ"の学校になってほしいなあ。
その他の読書感想文はこちら
2019年1月29日火曜日
【読書感想文】そう、"まだ"なだけ / 『吾輩は童貞(まだ)である』
吾輩は童貞(まだ)である
童貞について作家の語ること
筒井康隆 平山夢明 中島らも 原田宗典 武者小路実篤 谷川俊太郎 森鴎外 小谷野敦 室生犀星 中谷孝雄 結城昌治 開高健 車谷長吉 穂村弘 しんくわ 寺井龍哉 みうらじゅん 横尾忠則 澁澤龍彦 三島由紀夫 川端康成 バカリズムのオールナイトニッポンGOLD
武者小路実篤、森鴎外、三島由紀夫、川端康成などの文豪から童貞界の大家であるみうらじゅんまで、さまざまな人たちが「童貞の思い」について書いた文章を集めたアンソロジー。
なかなか読みごたえがあった。どんな文豪においても「童貞卒業」というのは男の一生において避けては通れないメインイベントなのだ。
いいアンソロジーだ(しかし編者の名前がないのはなぜ?)。
まずこのタイトル『吾輩は童貞(まだ)である』についてだが、実にいいタイトルだ。童貞と書いて"まだ"と読ませるのはすごく優しい。
そう、「まだ」なだけなんだよね。だけど童貞にとっては童貞と非童貞の間にはマリワナ海溝より深い断絶がある。童貞にとっては、「一線」を超えた先にはめくるめく夢の世界が広がっているような気がするのだ。
このごろは聞かなくなったがぼくが子どものころは、知的障害児のことを「知恵遅れ」と言っていた。
今だと差別用語なのかもしれないが、「知恵遅れ」には「差はあるが決定的な断絶があるわけではない」というような寛容さを感じる。乳歯が抜けるのが遅い子や声変りが遅い子がいるように、違いはあれど彼我は地続きになってるというニュアンスを感じる。
「健常者」「障害者」と分けてしまうと、もうまったくべつの人間、という感じがしてしまう。当事者がどう思うかは知らないけど。
「童貞(まだ)」にも同じような寛容さを感じる。
中島らも『性の地動説』より。
ぼくも小学四年生のときに同じような論争をしたことがある。
なぜか男女数人で話しているときに「セックスって知ってるか?」という話になったのだ。その場にいた誰もが、セックスに関する正確な知識を持ちあわせていなかった(知らないふりをしていただけかもしれないが)。
そこで我々が出した知識は
「男と女が重なるらしい」「すっぽんぽんでやることらしい」「エックスの字に交わるそうだ」
というものだった。
”エックスの字” に関しては完全なるデマだが、たぶん ”セックス” という音に引っ張られたガセネタなのだろう。
そして、「そんなことして何がおもしろいんだ?」と口々に言いつつ、ぼくの内心には「何がおもしろいのかはわからんがやってみたい」という思いが湧いてきていたのだった。
その気持ちはそれ以後もずっとぼくの中にある。父親となった今でも、何がおもしろいのかわからない。でもやってみたい。
三島由紀夫は『童貞は一刻も早く捨てろ』の中でこう書いている。
この意見にはぼくは反対だ。
たしかに童貞は女性というものを誤解している。だが童貞を卒業したからといって女性が理解できるようにはならない。
はじめてセックスをした男は「この程度のもんか」と思う。
しかし、そこから「この程度のものに人生の多くを費やすのはもったいない」と思う男はそう多くない。
「この程度のものならもったいをつけずにどんどんやればいい」と思う。または「今回はこの程度だったがどこかにもっとすばらしいセックスが待っているのではないか」と夢見る。
童貞の誤解から解けても、男は一生勘違いをしつづける生き物なのだ。
だから、いろんな作家が童貞について語るこの本を読んで「あーそうそう。こんな気持ちなんだよね」と思うけれども、「ほんと童貞のときってバカだったよなあ」と笑い飛ばすことができない。だって今も同じような気持ちを持ちつづけてるんだもん。
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