2018年12月10日月曜日

たからさがし


五歳の娘と、その友だちが公園で「なんかおもしろいことしてー」と言ってきたので、
「じゃあ宝さがししよっか」と云った。

よくわからないままに「するー!」と手を挙げる五歳児たち。
「じゃあちょっと待ってて」と鉄棒をさせて、その間にぼくは宝を隠す準備をする。

ノートの切れ端を使い、メモを書く。
「いちばんたかいてつぼうのしたをみろ」と。
で、鉄棒の下に「すべりだいのうえをみろ」と書いた紙をわかりやすく埋めておく。
すべりだいの上には「せがさをんだか  ヒント:はんたいからよむこと」を挟んでおく。
十回ぐらいあちこちいったりきたりさせてあげくに、最後には「おっちゃんのぼうしのなか」として、ぼくの帽子の中にどんぐりを入れておいた。

これを五歳児にやらせたところ、とても楽しんでいた。
ずいぶんやさしいヒントにしたつもりだが、それでもときどき迷いながらああでもないこうでもないと宝をさがしていた。

「たのしかったー!」「またやってー!」
とお褒めの言葉をいただき、その後、何度も宝さがしをした。



これはぼくが子どものときに好きだった遊びだ。
『きょうはなんのひ?』という絵本で知って、真似をして何度もやった。


『きょうはなんのひ?』は、女の子が家中に散りばめた謎を、おかあさんが解いてゆくという話だ。
絵本にはめずらしく子どもよりおかあさんの登場シーンが多いが、それでもこの絵本の主人公はあまり姿を見せない"まみこ"だ。姿は現さなくても、いたずら好きで頭のいいチャーミングな女の子を感じることができる。
この本を読んだ子は、ぜったいに"まみこ"のように宝さがし(の仕掛人)がやりたくなる。

少し前に脱出ゲームなるものが流行っていたが、それを思いついた人もきっとこの絵本を読んだことのある人なんじゃないかな。



何度か宝さがしゲームをやっているうちに、娘たちも仕掛人をやりたくなった。
「今度は子どもたちがつくるからおっちゃんがやって!」

そう。
この遊びは、仕掛ける側のほうが楽しいのだ。

しかし五歳児たちがつくった宝さがしはめちゃくちゃだった。

「いしのした」とか(どの石やねん!)
「すなのなか」とか(どこやねん!)
「したをみろ(うそ)」とか(じゃあどこ見たらええねん!)。
とても解けない。

そもそも五歳児の書いた文字が読めないし。

2018年12月7日金曜日

カンタのおばあちゃん


何度も観た『となりのトトロ』だけど、ひさしぶりに観てみたら新たな発見だらけだった。

ぼくは現在、ふたりの娘の父。
かつてはサツキやメイの立場で観ていた『となりのトトロ』も、今ではおとうさんの視点で観てしまう(たぶんサツキとメイのおとうさんはぼくより若い)。

いちいち感動して泣いてしまう。
それも、なんでもないシーンで。

たとえば病院におかあさんのお見舞いに行った帰りに
サツキが「メイは大きくなったからひとりで寝るんじゃなかったの!?」と言い、
メイが「おかあさんはいいの」と返すシーン。

ああ。
メイもがんばってるんだよなあ。おかあさんが入院した当初は、毎晩寝る前に泣いていたんだろうなあ。サツキは自分も寂しいのに「メイのそばにいてあげる」という役割を自らに課すことで寂しさをまぎらわせていたんだろうなあ。
そんな日々を乗りこえて「大きくなったからひとりで寝るんじゃなかったの?」という冗談を言いあえるようになったんだねえ。ふたりともよくがんばったねえ。

おとうさんが大学に行く日だからおばあちゃんにメイを預けたのに、メイが寂しくなって小学校に来ちゃうシーン。
我慢しなくちゃいけない、いい子にしていなくちゃいけないと思いながらも、やはり耐えきれなくておねえちゃんに会いにいってしまう。だけどわがままを言ってはいけないとも思っているから、おねえちゃんを前にすると何も言えない。
しょうがないよ、まだ四歳だもん。メイちゃんはよくがんばったよ。

病院に行ってサツキがおかあさんに髪を結ってもらうときの表情。
サツキはおかあさんと話しながらはにかんでいる。メイに対するときの「姉の顔」とはまったくちがう。おとうさんにも見せない顔。おかあさんだけに見せる、こどもの顔。

おかあさんの退院が延びたと聞かされたときのサツキとメイの喧嘩。
ずっと我慢して退院の日を心待ちにしていたのにそれが先になると聞かされたメイの悲しみ。
おかあさんの病気が重いのではという不安に押しつぶされそうになりながらも、懸命に「しっかり者の姉」という役割を果たそうとする、けれど折れてしまいそうになるサツキの心細さ。
ついでに、好きな子が困っているからなんとかしてあげたいけど自分の立場では何もできないカンタのもどかしさ。

子どもの頃に読んだときには気づかなかった心の動きに胸がしめつけられる。



しかし、ぼくがいちばん感情移入をしてしまったのはカンタのおばあちゃんだった。

メイが行方不明になったときのおばあちゃんの心境を思って、ぼくも心がつぶされそうになった。

「ばあちゃんの畑のもんを食べりゃ、すぐ元気になっちゃうよ」
と言ってしまったせいで、メイがトウモロコシを持って病院に行ってしまった。

「メイちゃんはここにいな」
と言ったにもかかわらずメイは駆けだしてしまった。

そして今、メイがいなくなった。
池からは女の子のサンダルが見つかった……。

幼い子どもを持つ親として、おばあちゃんの心境が痛いほどよくわかる。
子どものときはなんとも思わなかったが、四歳の子が行方不明になるというのはとんでもないことだ。まっさきに命の心配をする。

あのとき「すぐ元気になっちゃうよ」なんて言わなければよかった。励ますために言ったつもりだったが、おかあさんの退院を心待ちにしている四歳の子に言うには無責任すぎる言葉だった。
あのとき、むりやりにでもメイの手をつかんで止めていれば……。
もしものことがあったら一生悔やんでも悔やみきれない。

ばあちゃんは自分のことをずっと責めていただろう。
自分のせいで小さい子が死ぬなんて、自分が死ぬことよりもおそろしい。
サツキの到着を持っているときのばあちゃんの「ナンマンダブナンマンダブ」には魂の祈りが込められている。

だからばあちゃんはサツキの「メイんじゃない」にどれだけ救われただろう。
池の中をさがしていた男の人(おそらくばあちゃんの息子)からは「なんだぁ。ばあちゃんの早とちりか」と"人騒がせなばあさん"扱いされたが、その言葉にどれだけ安堵しただろう。自分が人騒がせなばあさんになっただけで良かったと心から思っただろう。

最終的にメイと再会したおばあちゃんはめちゃくちゃ泣いただろうなあ。メイが生きていたことに心から感謝しただろうなあ。
そして、メイはもちろん、サツキも、おかあさんもおとうさんも、おばあちゃんがどれだけ祈っていたかを知らないんだろうなあ。

でもぼくはわかっているからね、おばあちゃん。ぐすっ。

2018年12月6日木曜日

【読書感想文】ピクサーの歴史自体を映画にできそう / デイヴィッド・A・プライス『ピクサー ~早すぎた天才たちの大逆転劇~』


ピクサー

~早すぎた天才たちの大逆転劇~

デイヴィッド・A・プライス (著) 櫻井 祐子(訳)

内容(e-honより)
『トイ・ストーリー』から現在まで、大ヒット作を連発し続けているピクサー・アニメーション・スタジオ。だがその成功までには長い苦難の時代があった。CGに対する無理解、財政危機、ディズニーとの軋轢…。アップルを追放されたジョブズとディズニーを解雇されたラセター、ルーカスフィルムに見限られたキャットムルら天才たちは、いかに力を結集し夢を実現させたのか?

『トイ・ストーリー』をはじめて観たときの衝撃は今でも鮮明におぼえている。

高校一年生の林間学校の帰りのバスだった。バスガイドさんが、社内のテレビで『トイ・ストーリー』を流しはじめた。

なんだよ、ディズニーかよ。おれたち高校生だぜ。ディズニー見て胸をときめかせるような歳じゃねえんだよ。しかもおもちゃの話? ガキっぽいな。

そんな感じで斜に構えながらぼんやりと『トイ・ストーリー』を観ていた。
あっという間に心をつかまれた。
おもちゃが動くというアイディア。その動きのなめらかさ。動きだけでなく、嫉妬やプライドや絶望や憐憫や諦観や友情といった感情が活き活きと描かれている。
少年の日におもちゃに対して持っていた気持ちを思いだした。
食いいるようにバスの小さなテレビ画面を観ていた。ふと周りを見わたすと、クラスメイトは誰ひとり寝ていなかった。みんな真剣に『トイ・ストーリー』に魅いっていた。林間学校の帰りで疲れていたにもかかわらず。

すごい映画だ。今までにないぐらい感動した。
その映画をつくったのはピクサー・アニメーション・スタジオという制作スタジオだと知ったのは、ずっと後のことだ。

以来、ピクサー作品だけはほぼ欠かさず観ている。あまり映画は観ないんだけど。
『モンスターズ・インク』『カールじいさんの空飛ぶ家』『ウォーリー』『Mr.インクレディブル』……。
現時点でピクサーの長編アニメーションは20作あるが、まだ観ていないのは『カーズ/クロスロード』だけだ(カーズシリーズだけは好きじゃない)。
延期に延期を重ねている『トイ・ストーリー4』もずっと楽しみにしている。

ピクサーのすごいところは、打率がめちゃくちゃ高いところだ。『カーズ』シリーズ以外はみんなおもしろい。
しかもすごい完成度を誇る『トイ・ストーリー』よりも『トイ・ストーリー2』のほうがおもしろい。『トイ・ストーリー2』よりも『トイ・ストーリー3』のほうがもっとおもしろい。続編がつくられている映画はたくさんあるが、回を重ねるごとにおもしろくなっていく作品は他にほとんどない。



そんな、世界が誇る3Dアニメーションスタジオ・ピクサーの歴史を書いた本。ピクサーファンとしてはすごくおもしろかった。
ディズニーやスティーブ・ジョブズはもちろん、ジョージ・ルーカス、ティム・バートンといった大御所の名前も随所に出てくるのでアメリカ映画好きなら楽しめるんじゃないかな。

ピクサースタジオの物語は、それ自体が映画にできそうなぐらい波乱万丈だ。

ピクサーはコンピュータソフトウェアの会社だったが、アップルを追いだされたスティーブ・ジョブズに買収される。
1989年に一般人向けに3Dレンダリングをできるソフトを売りだして大コケしたエピソードが紹介されているが、早すぎるとしか言いようがない。2018年でも一般の人が3D画像処理をしてないのに。
買収された後もピクサーはずっと赤字続きだった。だがスティーブ・ジョブズは手を引かない。おそらく成功を信じていたわけではないだろう。意地になっていただけだ。
「アップルでのジョブズの成功はたまたまだった」という世間の評価を覆すため、それだけのためジョブズはピクサーを支えつづける(かなり口も出していたようだが)。

ディズニーを辞めたジョン・ラセターが加わり、ピクサーは「アップルを見返す」「ディズニーを見返す」「世間を見返す」という目標のために世界初の全編3Dによる長編映画製作にとりかかる。
もちろんそれだけで動いていたわけではないだろうが、個人的怨恨がかなりの原動力になっていたことはまちがいなさそうだ。

ディズニーに宣伝してもらったこともあって『トイ・ストーリー』が大ヒット、さらに『バグズ・ライフ』『モンスターズ・インク』『ファインディング・ニモ』と次々にヒットを飛ばすピクサー。
その勢いに反比例するかのようにディズニーは低迷期を迎え、気づけばディズニーとピクサーの立場は逆転していた……。

と、つくづくドラマチックな展開。プロジェクトXのような大逆転劇だ。逆襲劇といったほうがいいかもしれない。



スティーブ・ジョブズといえばアップルの人というイメージを持つ人が大半だろうが、ジョブズ抜きにはピクサーは語れない。
立場としてはパトロンみたいなもので制作に携わっていたわけではないが、ジョブズという濃厚なキャラクターがピクサーに与えた影響は大きいだろう。
この本の主役はジョブズではないが、やはりいちばんインパクトを与えるのはジョブズだ。

ジョブズがアップルにいたときのエピソード。
 一年後、状況は逆転していた。ケイはまだアップルで働いていたが、ジョブズはもういなかった。アップルにはジョブズのビジョンと完璧主義を崇拝する社員は多かったが、彼には鼻持ちならない面があって、上から下まで多くの社員を敵に回した。マッキントッシュ・プロジェクトの考案者ジェフ・ラスキンは、ジョブズと一緒に働けない十の理由を列挙した絶縁状を叩きつけ、のちに会社をやめた(その一「認めるべき功績を認めない」、その四「人格攻撃が多い」、その一〇「無責任で思いやりに欠けることが多い」)。ジョブズは愛車のメルセデスをマッキントッシュ・チームの建物の目の前にある、身体障害者専用スペースに停めるのを常としていた。その理由は、建物のうしろや横の目の届かない一般向けスペースに停めると、誰かに腹いせにキズをつけられるからだと囁かれていた。
たったこれだけの文章で、ジョブズがどんな人物だったかがなんとなくわかる。
他の社員に何をしたのかはこの本には書かれていないが、相当なことをしないかぎりはここまで嫌われないだろう。

とはいえジョブズの話を聞いていると誰もが引きこまれてしまうカリスマ性についても書かれていて、良くも悪くも強烈な個性の持ち主だったようだ。

「なぜ日本にジョブズは生まれないのか」なんてことを言う人がいるが、こんなクレイジーな人物、どこの国でも居場所がないだろう。
彼がアップル、ピクサー、そしてアップルで成功をしたのはたまたま時代と場所にめぐまれた奇跡のような出来事だったのだと思う。

しかしその奇跡のおかげでぼくらはピクサーの上質な映画を楽しむことができるのだから、ジョブズ被害者の会の人たちには申し訳ないが、ジョブズに感謝したい。



ピクサー映画の特徴として、「何度観ても楽しめる」ということがある。
『トイ・ストーリー』なんて何度観たかわからない。それでも、観るたびに新しい発見がある。こんなとこでこんな動きをしていたのか、この台詞が後から効いてくるんだな、ここの映像はすごいな、と。

それは映像、音楽、台詞、ストーリーすべての細部に至るまで丁寧につくりこまれているからだ。
「だが全般的にいって、リアリズムへのこだわりは狂信的なほどだった。マーリンとドリーがクジラに飲み込まれるシーンの下調べとして、美術部門の二人がマリン郡の北部海岸で座礁して死んだコククジラの体内によじ登って入った。魚の筋肉や心臓、えら、浮き袋などの生体構造を知るために、死んだ魚を解剖したクルーもいた。サマーズは世界的権威を何人も連れてきた。スタンフォード大学のマーク・デニーが波に関する講義を行ない、カリフォルニア大学サンタクルーズ校のテリー・ウィリアズがクジラについて、バークレーのマット・マクヘンリーがクラゲの推進力について、バークレーのミミ・ケールが藻や海草の動きについてくわしく説明した。海中には半透明な、つまり完全に透明でも完全に不透明でもない物体が多いことから、デューク大学のゾンケ・ジョンセンを呼んで水中の半透明感について話をしてもらった。モス・ランディング海洋研究所のマイク・グレアムから、ケルプ(藻の一種)は珊瑚礁には生えないという指摘を受けると、スタントンは珊瑚礁のシークエンスのデザインからケルプをすべて取り除くよう指示した。
これは『ファインディング・ニモ』を製作時の逸話だ。
はっきりいって、観客の99%は気にしない。クジラの体内が本物とちがっていようが海藻の動きが不自然だろうが、珊瑚礁に藻が生えていようが、ほとんどは気づきもしない。
だがこういうところで徹底的にリアリティにこだわることで、「大胆な嘘」が説得力を持つようになるのだろう。

読んでいるうちに、またピクサー作品を観かえしたくなってきた。
この本を読んだ後だとまた新たな発見があるんだろうな。


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2018年12月5日水曜日

手作りカヌーと冬のプール


「おい犬犬、カヌーつくるから放課後、詰所にこい」
高校一年生の冬。現代社会の授業中、H先生から突然声をかけられた。

いろいろと説明が必要だ。



詰所というのは、北校舎一階にある小部屋のこと。
H先生はなぜか学校内に自分だけの部屋を持っていて、職員室にも社会科準備室にもめったにおらず、詰所にいることが多かった。
公立高校で、いくらベテランとはいえ何の権限もない一教師がなぜ自分だけの部屋を持っていたのかは謎だ。
たぶん「空いている部屋に勝手にH先生が棲みついて、校長含め誰もが黙認していた」のだと思う。

H先生はとにかく変わった人だった。
五十歳を過ぎていたがトンボが大好きで、よく巨大な虫取り網を持って学校の周りをうろうろしていた。
沖縄出身で、幼いころにはトンボを追いかけているうちに基地内に入りこんでしまい、米軍に捕まったこともあるそうだ。

野外観察同好会という部活(同好会という名称だが一応学校公認の部活だった)の顧問をしていた。
ぼくがどういういきさつでぼくが野外観察同好会に入ったのかはおぼえていない。部員は三人だった。まったく口を聞かない三年生と、バスケ部とかけもちしているぼくの友人。
三年生は引退し、友人はバスケ部の練習が忙しいので実質ぼくひとりだけの部活だった。

野外観察同好会の活動は、びっくりするぐらい何もなかった。
入部したものの三か月ほど何もしない。あまりに何もしないのを不安に思ってH先生に「何かしないんですか」と訊いたら、「じゃあトンボ取りに行くか」と、ぼくと友人を郊外の山まで連れて行ってくれた。
山歩きをして、釣りをした。その間H先生はずっとトンボを追いかけていた。

文化祭では、文科系の部活は何か出展しないといけない。美術部は絵や彫刻を出展するし、吹奏楽部や軽音部は演奏をする。
だがぼくらは何もしなかった。文化祭当日、生物室には「野外観察同好会」名義でトンボの写真が飾られていた。H先生がひとりでやったらしい。

ぼくは部員というよりH先生の助手、というか手下のような扱いだった。
H先生が授業で使う資料をよく運ばされた。
あるとき、女子生徒が「コートをかけるハンガーがないのが不便」と漏らすのを聞いたH先生が「ハンガー掛けをつくろう」と思いたった。
H先生はどこからか板や棒切れを持ってきて、それをぼくに運ばせた。
そして教室の後ろの掲示板にがんがん釘を打ちつけてハンガー掛けを作ってしまった。「ここに釘打っていいんですか」と訊くと「知らん!」と言われた。



話を戻す。
どういうわけか、H先生は急にカヌーを作りたくなったらしい。
カヌーなんて作れるの? と、疑問に思った。アボリジニーが大きな丸太をくりぬいてカヌーを作っているのをテレビで見たような気がする。まさかあれ?

と思ったが、ちゃんと「手作りカヌーキット」みたいなものがあるのだった。
ぼくとH先生は放課後、一週間ほどかけてカヌーを作りあげた。板を組み立て、最後には防水シートでぐるぐる巻きにした。手作り感満載のカヌーだった。
「これってカヌーというよりカヤックっていうんじゃないですか?」と訊くと「カヤック? なんやそれ。これはカヌーや!」と言われた。H先生がカヌーというからカヌーなのだ。

完成した余韻にひたる間もなく、「犬犬、そっち持て」とカヌーを運ばされた。車にでも積むのかと思ったら、着いたところはプールだった。
冬の屋外プール。もちろん誰もいない。
H先生はプール入口の鍵を開けた。ぼくらは手作りカヌーをプールに浮かべた。すぐにぶくぶく沈むのではないかと心配したが、意外とちゃんと浮いていた。
近くで部活をやっていたバレー部やテニス部の女子生徒がなんだなんだと集まってきた。またH先生が変なことやろうとしてる。嫌な予感。
「よっしゃ、犬犬、先に乗っていいぞ」
ぐええ。やはり。先に乗る名誉を与えられたというより、実験台にされた形だ。冬のプール。もちろん掃除もしていないから藻が繁殖して水は緑色。落ちたらタダでは済まない。
「いやここは先生が」
「何を言ってるんや」
半ばむりやりカヌーに乗せられた。おっかなびっくりだ。なにしろカヌー自体、人生で数回しか乗ったことがないのだ。この緊張感。寒空の下で緑色の水にはまるのはつらすぎる。おまけにバレー部やテニス部の女子たちが見ているのに。

転覆しそうになるたびにわあわあ言っていたが、しばらく乗っているうちにコツをつかめてきた。乗るときが一番揺れるが、いったん落ち着いてしまえば安定するし、プールだから波もない。もうひっくりかえりそうになることはない。
集まっていた女子生徒たちは「なーんだ」という顔で練習に戻っていった。明らかにぼくが転覆して緑色の水にはまることを期待していたのだ。残念だったな!



数ヶ月後、遠足で京都の嵐山に行った。
遠足は昼過ぎに解散。
見ると、H先生がカヌーを持っている。
「先生、まさか……」
H先生はおもしろくもなさそうに言った。「これで帰るんや。おまえも乗るか?」
ぼくは即座に断った。学校のプールとはわけがちがう。

だがH先生は手作りカヌーで桂川を下り、五時間かけて無事に淀川までたどり着いたらしい。そしてカヌーをかついで阪急電車に乗って帰ったのだそうだ。

後からその話を聞いて、やっぱりやっておけばよかったなあと後悔した。
カヌーは一人乗りだったけど。


2018年12月4日火曜日

【読書感想文】ちゃんとしてることにがっかり / 綿矢 りさ『勝手にふるえてろ』


『勝手にふるえてろ』

綿矢 りさ

内容(e-honより)
江藤良香、26歳。中学時代の同級生への片思い以外恋愛経験ナシ。おたく期が長かったせいで現実世界にうまく順応できないヨシカだったが、熱烈に愛してくる彼が出現!理想と現実のはざまで揺れ動くヨシカは時に悩み、時に暴走しながら現実の扉を開けてゆく。妄想力爆発のキュートな恋愛小説が待望の文庫化。

三ヶ月くらい前に映画『勝手にふるえてろ』のDVDを観た。
映画がおもしろかったので原作小説も手に取ってみたのだが、
「あれ、なんかこぢんまりしてる……」という印象。

映画を先に観たのがよくなかった。
映画のヨシカは突きぬけたキャラクターだったのだが、それに比べると小説のヨシカはずっとまとも。拍子抜けしてしまった。

映画版の主人公・ヨシカは、人とコミュニケーションがとれない、他人の気持ちを理解しようとしない、そのくせ行動力だけはある、ひたすらいかれた人間だった。傍から見ているにはおもしろいけどお近づきにはなりたくないタイプ。

小説版のヨシカはちゃんと他人の痛みが理解できるし(理解するのが遅いけど)、自分の行動を反省したりもする。
小説を先に読んでから映画を観たら、二度楽しめたかもしれないなあ。
 初めて付き合うのは好きな人って決めてた。自分に嘘をつきたくないし、逆に好きじゃなきゃ付き合えないし。いつか来留美が言ったみたいに私もまた自分自身を、いまどきめずらしいくらい純情で、純愛を貫いていると思っていた。初恋の人をいまだに想っている自分が好きだった。でもいまニを前にして、その考えが純情どころかうす汚い気さえする。どうして好きになった人としか付き合わない。どうして自分を好きになってくれた人には目もくれない。自分の純情だけ大切にして、他人の純情には無関心だなんて。ただ勝手なだけだ。付き合ってみて、それでも好きになれないならしょうがない、でも相手の純情に応えて試してみても、いいじゃないか。自分の直感だけを信じず、相手の直感を信じるのも大切かもしれない。ニは私とうまくいくと確信しているのだから。
(※注 「ニ」ってのは自分に言い寄ってくる男につけたあだ名。ひどいあだ名だ)
なんかちゃんとしてるなー。ちゃんとしてない人が出てくる小説が読みたかったんだけどな。

この「自分の純情だけ大切にして、他人の純情には無関心」ってのは、まさしく自分に思いあたる。
学生時代、すごく好きな女の子に対しては「これだけ好きなんだから付き合ってくれてもいいじゃない。イヤだったらすぐ別れてくれていいから。まずはぼくという人間を知ってよ」と思ってた。
じゃあ、自分が好きでない子のことを知ろうとしてたかというと、百パーセントのノーだ。好きでない子のことは少しも知ろうとしていなかった。

若いときに「自分の直感だけを信じず、相手の直感を信じるのも大切かもしれない」という境地に達していれば、ずっと楽に生きられただろうなあ。



『仲良くしようか』という短篇も収録されているが、こっちはどんな内容かぜんぜんおぼえてない。二日前に読み終わったばかりなのに。そんな感じの短篇でした。

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【DVD鑑賞】『勝手にふるえてろ』



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