2018年5月22日火曜日

バンザイ酒離れ


「若者の酒離れ」だそうだ。
ほんとかどうか知らない。
まあ減ってるんだろう。若者の数自体が減ってるし。
ぼく自身、ほとんど飲まない。月に1回か2回ぐらいしか飲まない。と思ったけどぼくはもう若者じゃなかった。中年だった。まあそれはいいや。

「酒離れが進んでいるのは今の若者に金がないからだ」
という説がある。ほんとだろうか。
昔の若者のほうが経済的余裕があったとは到底思えない。バブルの頃とかはわからないけど、一時期の例外を除けば若者は金がないのがふつうだ。それでも呑んでいた。
金は関係ない。

「いい酒を呑ませないから若者が酒のおいしさを知らずに、酒から離れていっちゃうんだよ」
という説もある。ほんとだろうか。
昔の若者はいい酒を飲んでいたのだろうか。いやいや、ぜったいちがう。今のほうが味も良くなって選択肢も増えたから、うまい酒に出会える可能性は上がっているはずだ。昔なんて日本酒と焼酎と電気ブランしかなかったのだ(いつの時代だ)。
味のせいでもない。


結局、「飲まないという選択肢」ができたのがいちばん大きな原因だろう。

ぼくがお酒を呑めるようになった十数年前ですら「呑めない人も乾杯だけはビールで。一口だけでいいから」という風潮があった。
それより昔は「呑まなきゃいけない圧力」はもっと強かっただろう。呑めない人も、酒に弱い人も、呑めるけど好きじゃない人も、みんな呑まされていた。
でも今は無理やり呑ませる人はいない。いるんだろうけどぼくの周りにはいない。そういう輩と付き合わないようにしてるから、ってのもあるけど。
今では一杯目からウーロン茶を飲んでも「なんでビールじゃないの?」と言われない。呑まない、という選択が許されるようになった。

あと、少し前まで車を運転する人も平気で呑んでいた。若い人は信じられないかもしれないけど、これほんと。2006年に起こった飲酒運転の車が三人の子どもを死なせた事故が転機となって流れが変わったけど、それまでは「飲酒運転で捕まるのは運が悪い」という風潮があったんだよ。
ぼくが子どものとき、親戚の集まりがあると、みんな車で来ているのに呑んでいた。顔を真っ赤にした人が「酔ったからちょっとだけ寝てから帰るわ」なんて云って、一時間ぐらい寝てから車を運転していた。うちの親戚が特殊だったわけではない(たぶん)。反社会的職業についていたわけでもなく、みんなふつうのサラリーマンだった。そういう人たちがみんな平気で飲酒運転をしていた。「けっこう呑んだから気をつけて運転してねー」ぐらいのもんだった。
21世紀のはじめぐらいまでは日本はそれぐらい野蛮な国だったのだ。十代の人は知らないだろうけど、2000年頃の日本なんてまだ腰蓑だけ巻いて半裸で暮らしてたからね。その頃の日本人は手づかみで生魚を食べていたからね。スシっていうんだけど。

つまり、かつてのアルコール消費量を支えていたのって、呑めない人呑みたくない人呑んじゃいけない人だったわけよ。
そういう人たちが呑まなくなった。呑まなくてもよくなった。そりゃ消費量は減る。すばらしいことに。

アルコール消費量は減っていても、飲み物に使うお金の総量は増えてるんじゃないかな。ぼくが子どものころは、水どころかお茶ですら「お金を出して買うものじゃない」という感覚がまだ一般的だった。


あ、統計とか一切見ずに適当に書いてるからね。真に受けないでね。

「若者の酒離れ」なんて、「二層式洗濯機離れ」「脱脂粉乳離れ」と同じだ。なくてもいいものが、もっといいものに取って代わられているだけ。

ぼく自身はお酒を呑むけど、基本的にお酒は悪いものだ。身体にもよくないし、うるさいし、暴れるし、くせえし、ゲロは吐くし、大学生は居酒屋を出た後「次どうするー」と歩道いっぱいに広がるし。
だから「毎日お酒呑んでます」なんて「毎日風呂に入らないです」と同じくらい恥ずべきことだという意識を持ってなきゃいけない。酒呑みはお天道様に隠れてこそこそ呑まなきゃいけない。体育館の裏とかで。
それを忘れて「若者の酒離れが進んでいる。ゆゆしき時代だ」だなんて、盗人猛々しいにもほどがあるよね。


2018年5月21日月曜日

クーラー使ったら気温下がるやん


高校生のとき、現代社会の授業で「地球温暖化を止めるために私たちができることを考えてみましょう」という問いの書かれたプリントが配られた。

ぼくは「なるべく車に乗らずに自転車や徒歩で移動するようにする」と書いて、ふと隣の友人Kの回答をのぞきこんだ。
Kはこう書いていた。
「クーラーを使う回数を増やす」

Kは悪ふざけの好きな男だったのでふざけているのだと思い、ぼくは笑いながら「おまえそれ逆効果やないか」と云った。
するとKはきょとんとした顔で「え? なんで? クーラー使ったら気温下がるやん」と云った。
ボケたのではなく、いたってまじめにクーラーを使うことが地球温暖化防止になると考えていたのだ。

Kは少し抜けたところはあったが、決してバカではない。後に関西では名門とされる大学にも合格した。ただ、クーラーの原理を知らなかっただけ。
ぼくも原理はよく知らないからえらそうなことは言えないけど、エアコンが外に熱を逃がしていることぐらいは知っていた。
「室外機ってあるやん。エアコン使ったらあれめっちゃ熱くなるやろ。だから地球温暖化にとってはむしろ悪影響やで。あと電気作るのに石油燃やしたりしないとあかんやん」というと、
「ん? ああ、そうか。そういやそうやな」とKは納得してくれた。

彼はただ知らなかっただけだった。

最前線で研究をしている賢い人たちには想像もつかないだろうけど、様々な問題解決の糸口は、一般に思われているよりもずっと手前にあるのかもしれない。

クーラーをがんがん使った世界



2018年5月19日土曜日

バブルでゆとり


昭和から平成に変わったとき、ぼくは幼稚園児だった。

だから、昭和生まれだけど昭和の記憶なんてない。あるのは半径五メートル以内の記憶だけだ。
昭和を象徴する戦争も高度経済成長もバブルも美空ひばりも平成になってから知った(万博記念公園の近くに住んでいたので太陽の塔だけは知っていた)。

そんな世代だから「昭和生まれ」でくくられると、うーんたしかにそうなんだけど……と腑に落ちない。戦前生まれと一緒かよ。
たぶん「明治生まれ」とか「大正生まれ」の人たちも同じように感じていたんだろう。大正なんか十五年しかないから、大正元年に生まれた人ですら大正が終わるときには十四歳だ。大正生まれはみんな大正の世の中を生きた実感がなかったんじゃないだろうか。

平成に関しては社会情勢を知る年齢になっていたし、平成後半は選挙権もあったので、「平成の世」に対して多少の責任感はある。
でも昭和については完全無責任だ。知ったこっちゃない。戦争も復興も成長も五輪も七輪も万博もわんぱくもあずかり知らぬ。

だけどもっと後の世代から見たらそうは見えないんだろう。
「あいつは昭和生まれだから」という理由で「いいよな、バブル時代の恩恵を受けてたやつは」なんて言われるんだろう。
恩恵受けてないのに。バブルが崩壊したときまだ十歳にもなってなかったのに。
うちの父親なんて1988年にローン組んで家買ってるのに。いちばん高いときに。バブルの恩恵は受けずにバブル崩壊の巻き添えだけ食らってたのに。


きっとあと十年ぐらいしたら、下の世代からはバブル世代扱いされ、上の世代からはゆとり世代扱いされるんだろう。どっちも違うけど、他の世代から見たら同じようなものだ。
ぼくにとって年寄りはみんな団塊の世代に見えるように。


2018年5月18日金曜日

【読書感想】伊坂 幸太郎『陽気なギャングは三つ数えろ』


『陽気なギャングは三つ数えろ』

伊坂 幸太郎

内容(e-honより)
陽気なギャング一味の天才スリ久遠は、消えたアイドル宝島沙耶を追う火尻を、暴漢から救う。だが彼は、事件被害者のプライバシーをもネタにするハイエナ記者だった。正体に気づかれたギャングたちの身辺で、当たり屋、痴漢冤罪などのトラブルが頻発。蛇蝎のごとき強敵の不気味な連続攻撃で、人間嘘発見器成瀬ら面々は断崖に追いつめられた!必死に火尻の急所を探る四人組に、やがて絶対絶命のカウントダウンが!人気シリーズ、9年ぶりの最新作!

陽気なギャングが地球を回す』は、伊坂幸太郎作品の中でぼくがいちばん好きな小説だ。
その続編である『陽気なギャングの日常と襲撃』は『地球を回す』ほどの疾走感はなかったものの、四人の魅力的なキャラクターが存分に発揮されていた。

で、三作目である『陽気なギャングは三つ数えろ』。
前作までに引き続き、嘘を必ず見破る公務員、シングルマザーの天才ドライバー、動物好きのスリ名人、そして何の役に立つのかわからない演説の達人(?)の銀行強盗四人組が活躍する。

なんといっても演説好きの響野という男が魅力的。
「いろんな特技を持った人たちが集まって大きなプロジェクトを成し遂げる話」は、『七人の侍』や『オーシャンズ11』など数あるが、『陽気なギャング』シリーズが一線を画すのは特に活躍しない響野という人物がいる点だ。
銀行強盗をするときにはおしゃべりで多少注意を惹きつける役をするが、他の三人の「嘘を見抜く」「スリ名人」「天才的なドライビングテクニック」という能力に比べれば圧倒的に見劣りがする。彼の役目だけは「他の人でも務まるのでは」と思えて仕方がない。
しかし小説として見たときにこの物語を支えているのはまちがいなく響野であり、彼が根拠のない自信と珍妙なへりくつをふりまわしているからこそ彼らは「陽気なギャング」となる。

「四分は短い、ですからこの四分を我慢すれば、あなたたちは無事に自分たちのスマートフォンを手にし、その後で友人たちにメッセージを送ることができるはずです。『銀行に行ったら銀行強盗が来たの!』と話せます。もしくはSNSを使って、銀行強盗を見た、と言うことができます。尾ひれや背びれをつけて、話を拡げてもらえると我々としては助かります。『銀行強盗は十人だった』『それぞれが派手な衣装を着ていた』『未来から来た』『明日の天気を予想した』『猛獣を連れていた』『それを猟師が鉄砲で撃った』『煮て焼いて食った』。警察には事実を、ネットには面白い脚色を」

銀行強盗中にくりひろげられるこのどうでもよいおしゃべりにこそ、『陽気なギャング』の愉しさが詰まっている。



小説には、リアリティが求められる小説と、嘘っぽさが求められる小説があるとぼくは思っている。
「さも本当にあったかのような話」であれば徹頭徹尾矛盾を感じさせない説得力が必要だし、「荒唐無稽なほら話」であればくだくだしい説明は省いて話のおもしろさを追求しなくてはならない。
これは小説のジャンルとはあまり関係がない。SFやファンタジーでもつじつまを合わせる必要はあるし、ミステリや私小説に大胆な虚構が混ざっていてもいい。

伊坂幸太郎の小説は、「荒唐無稽なほら話」のほうに属している。
カカシがしゃべったり死神が現れたり。そんなわかりやすい「嘘っぽさ」がある小説はもちろん、『フィッシュストーリー』や『アヒルと鴨のコインロッカー』あたりも「そんなにうまくいくわけあるかい」というばかばかしさを楽しむ小説だ。
落語と同じで「リアリティとかしゃらくさいこと言わずに楽しめばいいんだよ」というケレン味たっぷりなところが伊坂作品の魅力だとぼくは思っている(だから変にリアリティを求めて説明が冗長な『ゴールデンスランバー』は好きじゃない)。


『陽気なギャングは三つ数えろ』のストーリー展開も「んなあほな」要素が満載だ。荒唐無稽なばかばかしさがあふれ、その「ありえない設定」と「その割に妙に丁寧に作りこまれたストーリー」のギャップが楽しい。
しかし、散りばめられた洒脱な会話やドライブ感のあるストーリー、そして容赦なく襲いかかる「非現実的な展開」で、つっこませる隙を与えない。十個中一個が嘘くさかったら興醒めするけど、一から十まで嘘っぽかったらかえって説得力がある。そういうものだ。

シリーズ一作目、二作目も「おもしろかった」という記憶はあるけれどストーリーはまったく覚えていない。たぶんこの本も一ヶ月もすればどんな内容だったか思いだせないような気がする。
そういう軽さも含めて、『陽気なギャング』は読んでいて楽しい小説だ。


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2018年5月17日木曜日

【読書感想】高橋 和夫『中東から世界が崩れる』


『中東から世界が崩れる
イランの復活、サウジアラビアの変貌』

高橋 和夫

内容(e-honより)
かつて「悪の枢軸」と名指しされるも、急速にアメリカとの距離を縮めるイラン。それに強い焦りを覚え、新しいリーダーの下で強権的にふるまうサウジアラビア。両国はなぜ国交を断絶したのか?新たな戦争は起きるのか?ISやシリア内戦への影響は?情勢に通じる第一人者が、国際政治を揺るがす震源地の深層を鮮やかに読みとく!

中東。
多くの日本人と同じようにぼくも中東のことをよく知らない。砂漠があって石油が出てイスラム教徒がいてイスラエルとパレスチナがもめていてしょっちゅう内戦やクーデターが起こっていて……というイメージ。

ニュースではアラブの春だとかIS(イスラム国)だとかシリア内戦だとか耳にするから、「革命が起きたのか」とか「難民が増えてるんだな」とかぐらいはわかるけど、そもそもシリアがどこにあるのかすらわかっていない。

……という程度の人間が『中東から世界が崩れる』を読んでみたのだが、これはすごくわかりやすい。良書だ。
ここ二十年ぐらいの中東社会の動きがよくわかる。教科書にも載っていない、新聞でもいちから説明してくれない、そういうところが明快にまとめられていて痒い所に手が届くような一冊。

前提としてあるのが「宗教対立の話にしない」というスタンス。

 この複雑な問題を、時間の限られたテレビ解説などでは、どうしても説明し切れない。そこで日本のテレビでは、「二〇〇〇年続くユダヤとイスラムの対立」といった解説がまかり通る。しかし、宗教対立・宗派対立という図式は一見わかりやすいが、実は何も言っていないに等しい。
 現実の中東では、イスラム教徒同士でもケンカをするし、ユダヤ教徒同士でも争っている。ユダヤとイスラム、シーア派とスンニー派などと言うから本質が見えなくなるのであって、「平家と源氏の争い」と言えば、日本人でも腑に落ちるだろうか。土地をめぐる人間同士の紛争は、その人々の信じている宗教がイスラム教だろうがユダヤ教だろうが、仏教だろうが神道だろうが、どこででも起こっている普遍的な現象と言える。宗教にこだわるから、かえって難しくなってわからなくなる。
 そもそもイスラム教は、歴史的に見ても異教徒には寛容だ。統治者や支配層がイスラム教徒になった国では、国民が強制的にイスラム教に改宗を迫られたケースはほとんど見られない。

この姿勢がいい。じっさい、「宗教・宗派の対立」という概念から離れてみると中東で起こっていることはさほど難しくない。
「スンニー派とシーア派が……」とかいうからイスラムからほど遠い日本人には「ようわからんわ」となるんだけど、
「政府の要職についていた人たちがクーデターによって職を失ったから反政府勢力になった」
「異なる民族をむりやりひとつの国にまとめてしまったから対立が起こっている」
なんて説明されると、世界中どこにでもあるような話としてすんなり飲みこめる。

イスラエル・パレスチナ問題なんかは宗教の話を抜きには語れないかもしれないけど、その他ほとんどの問題は宗教はさほど関係ないんだよね。
中国だって東南アジアだってイスラム教徒は多いのにイスラム教とセットでは語られない。なのに中東だけはすべてがイスラム教と結びつけられた説明をされてしまう。だから余計にわかりづらくなるんだろうね。



イラク、イラン、サウジアラビア、アフガニスタン、シリア、イエメンなどのお国事情がそれぞれ語られているんだけど、「中東の諸問題って99%欧米が原因じゃねーか」と読んでいて思う。

アメリカ、ロシア、ヨーロッパ諸国、トルコなど周辺国が
  • 民族や歴史を無視して勝手に国境を定めたり
  • 民主主義的に選ばれたイスラム系のリーダーを倒してしまったり
  • 石油ほしさからいろんなグループに武器を提供したり
こんな「いらんこと」ばかりやっているせいで戦争や内紛になっている。
欧米各国の思惑が交錯して中東問題をややこしくしているだけで、元々いた人たちだけならそこまで大きな争いにはなってなかっただろう。

 アメリカがイラクを抑えるためにイランを育てたが、イランに革命が起こり反米政権が樹立
  ↓
 こんどはイランを抑えるためにイラクのフセイン政権を支援
  ↓
 フセイン政権が暴走してクウェートに侵攻したため湾岸戦争
  ↓
 イランともイラクとも関係が悪化したのでサウジアラビアに力を入れるようになった

ほんと、アメリカが引っかきまわしてるだけじゃねーか。

中東にかぎらず、外国が支援しなければ争いなんてそんなに大規模化・長期化しないんじゃないかな。
力の差があれば早めに決着がつくし、差がない場合でも戦いが長引いていいことなんてないからどこかで手打ちになる。
ところがよその国が援助をしだすと、朝鮮戦争やベトナム戦争のように際限なく続いてしまう。
アメリカやヨーロッパは過激派組織撲滅だとかいってるけど、長い目で見たら中東和平のためにいちばんいいのは「何もせずに放っておく」なんじゃないかな。

でもそれができないのは、中東には「聖地メッカ」「石油」というみんなが欲しがるものがあるから。
石油は「何もしなくても金が入ってくる宝の山」であると同時に「争いの火種」でもあるわけで、持っている人には持っている人の苦労があるんだなあ。
「庭から石油が出たらいいな」なんて思うけど、じっさいに出たら平和に暮らせなくなっちゃうね。だからぼくは石油王にならなくていい。富だけほしい。

最近はアメリカが自国内でシェールガスを取りだせるようになったことで中東から手を引きはじめてる、ってのも皮肉な話だね。アメリカが手を出さなくなるのはいいけど石油のパワーが衰えるわけだから、産油国からしたら一長一短だ。



イランという国について。
イランのことなんてほとんど考えたことがなかった。ぼくがイランに関して持っている知識といえば「ダルビッシュ有は日本人とイラン人のハーフ」というものだけだった。
でもイランは日本の四倍以上の大きさの国土を持ち、人口はドイツとほぼ同じ。中東屈指の大国なのだ。

 しかし実際は、イランはもっと大きいはずだ。というのは、普通に目にするメルカトールの地図は、赤道に近ければ近いほど面積が小さく見え、赤道から離れれば離れるほど大きく描かれる。そもそも丸い地球を平面に表現するのだから無理が生じているのだ。
 つまりイランは、赤道に近いので比較的小さく描かれている。ところがヨーロッパは、赤道から遠いので大きく見える。この歪みを修正してイランのサイズを描いてヨーロッパにかぶせると、イランはもっと大きい。イギリスからギリシアまで届いてしまう。この図体の大きさだけからでも、イラン人が自分の国は大国だと思っても自然だろう。
 しかもイランはかつて、もっともっと途方もなく巨大だった。古代アケメネス朝ペルシア帝国(前五五〇~前三三〇年)の時代は、現在のパキスタンからトルコ、ギリシア、エジプト、中央アジアまで広がる途方もない帝国を建設し、維持していたのである。

著者は「イランは中国と似ている」と書いている。
かつては文明の中心であったにも関わらず、下に見ていた欧米列強に蹂躙されてしまったところも同じ。東アジアにおける中国のような「中華思想」を持っている。

イランはシーア派が主流で、民族もペルシア人が多数で、公用語もペルシア語。他のアラブ諸国(スンニー派が主流、アラブ人、アラビア語)とはまったく違う。
これがわかると周辺の理解がぐっと楽になった。「イランもイラクも同じようなもんでしょ」という感じだったけど、オーストラリアとオーストリアぐらい違うんだね。
中国抜きに東アジアを語れないように、アメリカ抜きに北中米を語れないように、イラン抜きには中東は理解できない。逆にイラン目線で周辺国を見ると中東のパワーバランスはわかりやすい。



「イラン≒中華」説もそうだし、「中東には国もどきはたくさんあるが帰属意識を持った国民を有する国家は少ない」「イスラム主義の先鋭化は尊王攘夷運動に似ている」など、中東を理解する上で大きな手助けとなる大胆な解釈が盛りこまれているので、読み物としても楽しい。

宗教を離れてみると、中東問題ってこんなにもわかりやすいのか。


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