2018年5月15日火曜日

【読書感想】ブレイディ みかこ『労働者階級の反乱 ~地べたから見た英国EU離脱~』



『労働者階級の反乱
地べたから見た英国EU離脱』

ブレイディ みかこ

内容(Amazonより)
2016年の英国EU離脱派の勝利。海外では「下層に広がる排外主義の現れ」とされたが、英国国内では「1945年以来のピープル(労働者階級)の革命」との声も多かった。世界で最初に産業革命、労働運動が起きたイギリスでは労働者こそが民主主義を守ってきた。ブレグジットは、グローバル主義と緊縮財政でアウトサイダーにされた彼らが投じた怒りの礫だったのだ――。英国在住の注目の著者がど真ん中から現状と歴史を伝える。

ブレグジットとは、イギリスがEUから離脱すること。2016年6月におこなわれた国民投票で離脱派が残留派を上回ったのは世界中を驚かせ、同年のアメリカ大統領選で排他的な政策を掲げるトランプ氏が勝利したこととあわせて、世界中が右傾化・排他的になっていると語られた……。
が、イギリスのブレグジットはアメリカ大統領選とはまったく違う現象だったとこの本の著者は主張する。

著者のブレイディみかこ氏はロンドンに住んで保育士として勤務する。「移民」ではあるが、戦争から逃れてやってきたわけではないし、アイルランド人の夫もいるし、資格を持って専門職についているので、ヨーロッパ中で大きな問題になっている中東系の移民とは立場が異なる部分も多い(同じところも多いだろうが)。



まず前提として、著者はイギリスの政治や労働問題の専門家でもないし、研究者でもない。この本に書かれている「市井の人々の意見」も、個人的体験だったり、身近な友人へのインタビューだったりするので、データの偏りは信憑性に欠ける部分は免れないだろう。

それでも日本にいる研究者が新聞やテレビを見ているだけでは手に入らない「地べたの意見」には大きな価値がある。この人の解釈が正しいかどうかはわからないが、少なくともこう解釈をする人も現場にはいる、ということは間違いない。

 2016年のEU離脱投票の頃は、左派のインテリたちは、遠巻きに彼らを見て、「排外的だ」「冷静に物を考えていない愚かな人々だ」と批判し、眉をひそめていた。
 しかし、「我ら」対「彼ら」の構図で見ている限り、「彼ら」を「我ら」に取り込むことはできない。
 左派は、いまこそ労働者階級の人々と対話し、その価値観や不満や不安を理解しなければならない。その努力を放棄したら、英国にも経済政策に長けた右派勢力(UKIPはその点がお粗末だった)が登場し、彼らがそちらに流れる可能性は十分にある。
 もはや労働者階級を悪魔化し、離れた場所から批判していればすむ時代ではない。ブレグジットという「労働者階級のちゃぶ台返し」を経験した英国の左派は、ようやくそれに気づいた。コービン労働党の躍進とその戦略の進め方は、世界の左派にヒントを与えるはずだ。

ブレイディ氏の見解によると、多く語られていた「教育程度の低い労働者階級が移民を拒むためにブレグジットに賛同した」という解釈は誤りそうだ。
労働者階級の多くがブレグジットに賛成したのは事実だが、彼らのほうが中間層よりも移民と接する機会も多く、寛容であるという。ブレグジットに票を投じたのは、ブレグジットそのものに賛成というよりも金持ち優遇政策をとる政権にノーをつきつけるための手段であったというのだ。

たしかに、選挙の結果というのは必ずしも素直に主張が反映されるわけではないだろう。
2015年に大阪都構想の賛否を問う住民投票がおこなわれた。大阪市に住民票を持つぼくも投票に行き、反対に票を投じた。だがそれは都構想そのものに反対だからというより、都構想を主導している大阪維新の会のそれまでの政策に賛成できなかったからだ。
「都構想自体はどうでもいいが気に食わないあいつらに一泡ふかせたい」という理由で反対票を投じた人はぼくだけではなかっただろうし、「都構想はよくわかんないけど維新/橋下市長を支持する」という人も多かっただろう。選挙なんてそんなものだ。

だから「イギリス国民はEUからの離脱に票を入れたから排他的だ」とするのは、あまりに単略的すぎる解釈だ。




今イギリスで移民や外国人よりも不遇の扱いを受けているのは白人労働者階級だという指摘に驚かされた。

 白人労働者階級の人々の多くが、「自分たちは差別の対象にされている」という認識を抱いており、白人のミドルクラスだけでなく、移民からも差別されているという感覚を持っている。
 第Ⅲ部で紹介する歴史学者のセリーナ・トッドも指摘しているように、たとえば母親たちが育児の悩みを語り合っているネットの掲示板を覗くと、「白人労働者階級の子どもが多い学校は成績も悪いし荒れているので、自分の子どもを通わせたくない」と大っぴらに話し合っている英国人や移民たちの書き込みを見ることができる。
 また、BBCが放送した人気コメディ番組『リトル・ブリテン』などでは、白人労働者階級の若者は子だくさんで頭が悪いというようなステレオタイプのキャラクターを登場させて嘲笑の対象にしているし、タブロイド紙や一部高級紙でさえも、社会の足を引っ張っているグループとして彼らを蔑視することが正義だと思って叩いてきた節がある。
 労働者階級の人々は、このような偏見のせいで、雇用や福祉、公共サービスの現場で、自分たちが平等な扱いを受けられなくなっていると信じている。

移民や外国人は差別されがちなので固まって暮らし、集団として行動を起こすことができる。ところが白人でイギリス人で男性となるとマジョリティ・強者として認識されてきた歴史があるがゆえに保護の対象からはずれやすく、また当人たちも団結して行動を起こさない。結果として、政治や福祉の面でも周縁に置かれてしまうという。
外国人や女性が貧困にあえいでいると「社会的な問題だから手を差しのべてやらねば」となるのに対し、「強者」とされているイギリス人の白人男性が貧困に陥っても「自分の努力が足りないからでしょ」という目で見られてしまうのだ。

日本でも同じことだよね。高齢者や母親や子どもが苦しんでいるのは「社会が助けてやらねばならない」となるのに、若い男性が貧困生活に陥っても「自己責任だ」あるいは「若いときは苦労したほうがいい」みたいな言われ方をされてしまう。

結果として貧困層はべつの貧困層への攻撃に走ることになる。

 一方、米国の政治学者のゲイリー・フリーマンは、『The  Forum』に発表した論考「Immigration, Diversity,  and  Welfare  Chauvinism(移民、多様性、そして福祉排他主義)」の中で、「政府から生活保護を受けることに対して、白人労働者階級は〝福祉排他主義〟と呼ばれる現象に陥りやすい」と指摘している。「福祉排他主義」とは、一定のグループだけが国から福祉を受ける資格を与えられるべきだ、という考え方だ。顕著に見られるのは、「移民や外国人は排除されるべき」というスタンスだが、同様に、ある一定の社会的グループ(無職者や生活保護受給者)にターゲットが向けられる場合もある。
 こうした排他主義は、本来であれば福祉によって最も恩恵を受けるはずの層の人々が、なぜか再分配の政策を支持しないという皮肉な傾向に繋がってしまうという。「恩恵を受ける資格のない人々まで受けるから、再分配はよくない」という考え方である。
 本来は彼らの不満は再分配を求める声になって然るべきなのに、それが排外主義や生活保護バッシングなどに逸脱してしまい、自分たちを最も助けるはずの政策を支持しなくなる。白人の割合が高い労働者階級のコミュニティほど、この傾向が強いという。

これもわかる気がする。日本でも生活保護受給者をやたらとバッシングするのは、いわゆるワーキングプア層が多いように見受けられる(じっさいはどうだか知らんけど)。貧困を脱した経験のある人や、ちょっとしたきっかけで自分も生活保護を受給することになる危険性の高い層ほど、他人の需給に対して厳しい。「おれはこんなに苦労して生活しているのにあいつばっかり楽してずるい」と。
金持ち喧嘩せずというけど、金で苦労したことのないような人が他人の生活保護受給に対してごちゃごちゃ言ってるのを、少なくともぼくは聞いたことがない。


だが「低所得者層間の争い」は為政者にとっては思うつぼなのだろう。政治への不満から目を背けることができるから。
サッチャー政権下では失業率が高くなった際に「各種手当の不貞受給を知らせるホットライン」を設けて低所得者層の分断を促したそうだ。
「おれの生活がこんなにひどいのはズルをしているやつがいるせいだ」と思ってくれれば、政権にとってはこんなにありがたいことはない。サッチャーも「あいつらチョロいぜ」と舌を出していたにちがいない。鉄の女の鉄の舌を。




イギリスの状況はまったく知らず、ぼくも「イギリス人はプライドが高くて偏狭だったかったからEUでまとまるのが嫌だったのかな」ぐらいにしか思っていなかった。
しかし『労働者階級の反乱』を読むにつれ、ブレグジットは単なる移民受け入れ拒否ではなく、労働者たちの怒りの噴出だったのだ、と思うようになった。
イギリス労働者の置かれている状況は、日本とも重なる部分が多いことに気づく。

度重なる規制緩和や労働組合の弱体化などで労働者をとりまく状況は悪くなるばかり。しかし当人たちは団結して経営者、権力者と対抗するばかりか、生活保護受給者叩きや外国人バッシングに明け暮れ、社会は断絶。
弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く。その音が響きわたれば「働き方改革」は加速してゆく……。

はたして反乱は起きるのだろうか。



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2018年5月14日月曜日

【読書感想】垣根 涼介『君たちに明日はない』


『君たちに明日はない』

垣根 涼介

内容(e-honより)
「私はもう用済みってことですか!?」リストラ請負会社に勤める村上真介の仕事はクビ切り面接官。どんなに恨まれ、なじられ、泣かれても、なぜかこの仕事にはやりがいを感じている。建材メーカーの課長代理、陽子の面接を担当した真介は、気の強い八つ年上の彼女に好意をおぼえるのだが…。恋に仕事に奮闘するすべての社会人に捧げる、勇気沸きたつ人間ドラマ。山本周五郎賞受賞作。

リストラ(本来の意味である「再構築」ではなく、いわゆる「首切り」)を代行する会社に勤める男が主人公。
この本が刊行されたのが2005年。デフレまっただなかで、もう「リストラ」という言葉にも目新しさはなくなっていた時代だが、それでも今読むと隔世の感がある。

なにしろリストラ時に会社側が提示するのが「二倍の退職金、最大半年間の完全有給休暇、再就職先の斡旋」なんて好条件なのだ。それを提示された社員が「ふざけんな」と怒っていたりする。
ぼくからすると「めちゃくちゃいい条件じゃん。乗らなきゃ損でしょ」と思うのだが、それでも社員たちは辞めるかしがみつくか悩んでいる。
2005年というのはまだまだ終身雇用意識の強かった時代なんだなあ。

ぼくなんかすでに今の会社が四社目だし(正確には関連会社出向もあるので五社目)、今のところに不満はないけどもっといい会社があれば移ってもいいと思っている人間なので、会社を辞めることにあまり抵抗がない。
まあこれは時代のせいというより業界のせいかもしれないけど。ぼくはウェブ広告の仕事をしているが、同じ会社で五年働いていたら長いほう、って業界だからね。業界自体の歴史が浅いし会社もどんどんできてはなくなってゆくし。
また人材紹介会社に身を置いていたこともあるので、転職はよくあるイベントのひとつだと感じている部分もある。


少し前に、学生時代の友人から相談をされた。彼は新卒で某メーカーに就職し、十年以上勤めている。つまり一社しか知らない。
しかし転勤で希望していない支社に行くことになってしまった。実家のある関西に戻りたいのだが、戻れるかどうかもわからない……。で悩んでいるとのことだった。

「転職活動したらいいやん。じっさいに転職するかどうかは別にして」
とぼくは云った。
転職エージェントに登録したり求人を見たりすれば、自分の市場価値がわかる。今までのスキルを活かしながらもっといい条件で働ける会社も見つかるかもしれない。「いつでも転職できる」と思えば今いる会社に対してももっと強気で給与や勤務地の交渉ができる。それでも希望が聞き入れられないなら転職すればいいじゃないか……と。

だが彼はあいまいな顔で「それもそうかな」とつぶやいただけで、どうも煮えきらない様子だった。半年ほどたってから「転職活動してる?」と訊くと案の定「いや何もしてない」とのことだったのでぼくも何も云わなかった。本人がそれでいいなら他人がそれ以上口をはさむことでもあるまい。

ぼくにとって会社は「働きに応じて金をくれるビジネスパートナー」だが、「自分が帰属するコミュニティそのもの」だと思っている人もまだまだ多いのだとそのとき知った。
後者の人にとっては転職活動をすること自体が(実際に出ていかなくても)コミュニティに対する裏切りのように感じてしまうのだろう。不倫が家族に対する裏切りであるのと同じように。
どっちが正しいというつもりはないが、後者の人にとって「会社を辞める」というのは、ぼくにとっての離婚や帰化と同じくらい「極力避けなければならない災難」なのだろう。
特に大手企業にいる人は後者の考え方が今も多いようだ。

じっさいは、会社なんて辞めたってたいていなんとかなるんだけどね。
もちろんなんとかならないこともあるけど、それは会社に残ったって同じだ。転職で成功する確率より、リストラをしなくてはならない状況に陥った会社がV字回復をする可能性のほうがずっと低いだろう。



『君たちに明日はない』の話に戻るが、転職に対して抵抗のないぼくにとっては「そこまでじたばたしなくたっていいのに」としか思えないようなエピソードが多かった。
明日から来なくていいと言われたとか、五十歳過ぎてから退職を促されたとかならまだしも、三十歳前後の人が「半年以内に退職したら規定の倍の退職金をあげます。会社に来なくても給料払います」と云われたら「ラッキー!」ぐらいのもんだと思うんだけど。

そもそもリストラという言葉をあんまり聞かなくなったよね。不況を脱したっていうのもあるけど、そもそも正社員が減って派遣社員などの非正規雇用が増えたってのもあるよね。わざわざリストラ専門会社なんかに依頼しなくても、あっさり契約期間終了にしちゃえる世の中になっちゃったからね。
考えようによっちゃあ、リストラの嵐が吹き荒れていた時代よりももっと労働者にとって不幸な世の中になったのかもしれない。




あ、いかん。また話がそれた。小説の感想だ。

すぐれたエンタテインメントでした。リストラという重くなりそうなテーマを扱っていながら、前向きな未来が提示されているので湿っぽくならないしあくまで読後はさわやか。
登場人物も会話もステレオタイプではなく「ちょっと変わっているけど現実にいてもおかしくない」ぐらいの絶妙なリアリティを保っている。スーパーマンも超ラッキーもなく、地に足のついた登場人物たちができる範囲でちょっとだけ未来を切りひらいてゆく。エンタテインメント小説のお手本みたいだった。

読んだからといって特に何か得られるというわけではないが、そういうところも含めてエンタテインメントとしてよくできていた。


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2018年5月13日日曜日

虫養い


虫養い(むしやしない)」という言葉を知った。

ちょっとした間食、小腹が空いたので腹に入れるもの、そんな意味だそうだ。
腹の虫をおさめるためにちょっとした食べ物をあげる、ということが由来らしい。「養う」という表現がおもしろい。「腹の虫さんとなんとかうまく折り合いをつけて付きあっていこう」という感じがする。

京都の古い言葉だそうだ。ぼくは京都に住んでいたこともあるが一度も聞いたことがなかったが。

腹の虫(イメージ)

腹の虫は怒りを担当しているのかと思っていた。
「腹の虫が収まらない」といえば、怒りが持続する様子を表す慣用句だからだ。
でも、腹の虫は怒りだけでなく空腹も担当しているらしい。
言われてみれば、怒りと空腹はかなり近いところにある。

子どもを見ているとよくわかる。
特に二~三歳ぐらいの子どもは、食事前に大暴れする。
「こんなの食べたくない!」
「この席じゃない!」
「自分でスプーンとりたかった!」
何度、こんな難癖をつけてわめきちらされたことか。

こういう怒りは、ご飯を食べたらすぐに鎮まる。
一口ごはんを口に入れただけで、大暴れしていた子がとたんににこにこして「おいしい」と言う。

なのに、食べない。
腹がへって血糖値が下がるから怒る。怒って食べない。食べないから腹がへる。腹がへるから激怒する。
もう手が付けられない。地獄だ。
(あと眠いときも同じことが起こる。眠い→激怒→眠いけど寝られない→さらに怒る)

大人の場合はコントロールできているように思うけど、じっさいどの程度コントロールできているんだろう。
表面上は抑えているだけで、じつは大人も大差ないんじゃないだろうか。


衝動的な暴力事件の発生と胃袋の中の状態を検証したら、見事な相関関係が得られるんじゃないかとぼくは思う。
「魔が差した」という言い方があるけど、「腹の虫が暴れた」のほうがより正確な表現かもしれない。


2018年5月12日土曜日

コロッケは不当に安すぎる


コロッケが六十円で買える世の中、最高。


六十円やるからコロッケ作ってくれって頼まれたら、やります?

ジャガイモふかして、あちちちちって言いながら皮むいて、つぶして、
タマネギ切って、ひき肉こねて、味を調えて、
小麦粉と卵とパン粉をつけて、油で揚げて、
ジャガイモをつぶしたボウルとタマネギ切った包丁まな板と小麦粉卵パン粉を入れたバットと油でギトギトのフライパンを洗う。

これだけのことをやってもらう、と考えたら二千円ぐらい払ってもいい気がしてくる。

そんなコロッケがスーパーでたった六十円で買える。
もしかしてどっかの国から連れてこられた奴隷の子どもたちがコロッケを作らされてるんじゃないだろうか。
コロッケだけ昭和二十五年に作られてて時を超えて出荷されてるんじゃないだろうか。

大丈夫か世の中。大丈夫か時代。


2018年5月11日金曜日

ぼくのほうがエセ科学


「エセ科学」という言葉に違和感がある。

たとえば「エセ科学」の代表格として語られる
「水に『ありがとう』とかのきれいな言葉をかけると美しい結晶をつくる」

あれを「エセ科学」と断じてしまっていいのだろうか。


科学とは理論ではなく真実に対するアプローチの方法だ。
だから

  • 「水に『ありがとう』という言葉をかけつづけると美しい結晶をつくる」という仮説を立てて
  • 「美しい結晶」の定義付けをおこない
  • 温度や気圧などいろんな条件を変えながら何千回と実験をして客観的な数値を出し
  • そのデータに基づいて結論を出したのであれば

それは科学と言えるのではないだろうか。
(仮に出した結論が誤っていたとしても)


ぼくは「水に『ありがとう』という言葉をかけつづけると美しい結晶をつくる」とは思っていない。
でもそれを証明できる理論は持っていないし、実験をくりかえして「そんなことは起こりえない」と確かめたわけではない。
根拠といえば、どこかのえらい人が「そんなことはありえない」と言ってるから、というものだけだ。

「水に『ありがとう』という言葉をかけつづけると美しい結晶をつくる」なんて、常識的にありえないじゃないか、と思っている。
少しも科学的でない。
「地球が球形だなんて、そんなこと常識的にありえない」と信じていた時代の人と変わらない。


「みんながそう言ってるから」という理由でエセ科学をばかにしている人のほうが、よっぽど非科学的だ。