2018年5月14日月曜日

【読書感想】垣根 涼介『君たちに明日はない』


『君たちに明日はない』

垣根 涼介

内容(e-honより)
「私はもう用済みってことですか!?」リストラ請負会社に勤める村上真介の仕事はクビ切り面接官。どんなに恨まれ、なじられ、泣かれても、なぜかこの仕事にはやりがいを感じている。建材メーカーの課長代理、陽子の面接を担当した真介は、気の強い八つ年上の彼女に好意をおぼえるのだが…。恋に仕事に奮闘するすべての社会人に捧げる、勇気沸きたつ人間ドラマ。山本周五郎賞受賞作。

リストラ(本来の意味である「再構築」ではなく、いわゆる「首切り」)を代行する会社に勤める男が主人公。
この本が刊行されたのが2005年。デフレまっただなかで、もう「リストラ」という言葉にも目新しさはなくなっていた時代だが、それでも今読むと隔世の感がある。

なにしろリストラ時に会社側が提示するのが「二倍の退職金、最大半年間の完全有給休暇、再就職先の斡旋」なんて好条件なのだ。それを提示された社員が「ふざけんな」と怒っていたりする。
ぼくからすると「めちゃくちゃいい条件じゃん。乗らなきゃ損でしょ」と思うのだが、それでも社員たちは辞めるかしがみつくか悩んでいる。
2005年というのはまだまだ終身雇用意識の強かった時代なんだなあ。

ぼくなんかすでに今の会社が四社目だし(正確には関連会社出向もあるので五社目)、今のところに不満はないけどもっといい会社があれば移ってもいいと思っている人間なので、会社を辞めることにあまり抵抗がない。
まあこれは時代のせいというより業界のせいかもしれないけど。ぼくはウェブ広告の仕事をしているが、同じ会社で五年働いていたら長いほう、って業界だからね。業界自体の歴史が浅いし会社もどんどんできてはなくなってゆくし。
また人材紹介会社に身を置いていたこともあるので、転職はよくあるイベントのひとつだと感じている部分もある。


少し前に、学生時代の友人から相談をされた。彼は新卒で某メーカーに就職し、十年以上勤めている。つまり一社しか知らない。
しかし転勤で希望していない支社に行くことになってしまった。実家のある関西に戻りたいのだが、戻れるかどうかもわからない……。で悩んでいるとのことだった。

「転職活動したらいいやん。じっさいに転職するかどうかは別にして」
とぼくは云った。
転職エージェントに登録したり求人を見たりすれば、自分の市場価値がわかる。今までのスキルを活かしながらもっといい条件で働ける会社も見つかるかもしれない。「いつでも転職できる」と思えば今いる会社に対してももっと強気で給与や勤務地の交渉ができる。それでも希望が聞き入れられないなら転職すればいいじゃないか……と。

だが彼はあいまいな顔で「それもそうかな」とつぶやいただけで、どうも煮えきらない様子だった。半年ほどたってから「転職活動してる?」と訊くと案の定「いや何もしてない」とのことだったのでぼくも何も云わなかった。本人がそれでいいなら他人がそれ以上口をはさむことでもあるまい。

ぼくにとって会社は「働きに応じて金をくれるビジネスパートナー」だが、「自分が帰属するコミュニティそのもの」だと思っている人もまだまだ多いのだとそのとき知った。
後者の人にとっては転職活動をすること自体が(実際に出ていかなくても)コミュニティに対する裏切りのように感じてしまうのだろう。不倫が家族に対する裏切りであるのと同じように。
どっちが正しいというつもりはないが、後者の人にとって「会社を辞める」というのは、ぼくにとっての離婚や帰化と同じくらい「極力避けなければならない災難」なのだろう。
特に大手企業にいる人は後者の考え方が今も多いようだ。

じっさいは、会社なんて辞めたってたいていなんとかなるんだけどね。
もちろんなんとかならないこともあるけど、それは会社に残ったって同じだ。転職で成功する確率より、リストラをしなくてはならない状況に陥った会社がV字回復をする可能性のほうがずっと低いだろう。



『君たちに明日はない』の話に戻るが、転職に対して抵抗のないぼくにとっては「そこまでじたばたしなくたっていいのに」としか思えないようなエピソードが多かった。
明日から来なくていいと言われたとか、五十歳過ぎてから退職を促されたとかならまだしも、三十歳前後の人が「半年以内に退職したら規定の倍の退職金をあげます。会社に来なくても給料払います」と云われたら「ラッキー!」ぐらいのもんだと思うんだけど。

そもそもリストラという言葉をあんまり聞かなくなったよね。不況を脱したっていうのもあるけど、そもそも正社員が減って派遣社員などの非正規雇用が増えたってのもあるよね。わざわざリストラ専門会社なんかに依頼しなくても、あっさり契約期間終了にしちゃえる世の中になっちゃったからね。
考えようによっちゃあ、リストラの嵐が吹き荒れていた時代よりももっと労働者にとって不幸な世の中になったのかもしれない。




あ、いかん。また話がそれた。小説の感想だ。

すぐれたエンタテインメントでした。リストラという重くなりそうなテーマを扱っていながら、前向きな未来が提示されているので湿っぽくならないしあくまで読後はさわやか。
登場人物も会話もステレオタイプではなく「ちょっと変わっているけど現実にいてもおかしくない」ぐらいの絶妙なリアリティを保っている。スーパーマンも超ラッキーもなく、地に足のついた登場人物たちができる範囲でちょっとだけ未来を切りひらいてゆく。エンタテインメント小説のお手本みたいだった。

読んだからといって特に何か得られるというわけではないが、そういうところも含めてエンタテインメントとしてよくできていた。


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2018年5月13日日曜日

虫養い


虫養い(むしやしない)」という言葉を知った。

ちょっとした間食、小腹が空いたので腹に入れるもの、そんな意味だそうだ。
腹の虫をおさめるためにちょっとした食べ物をあげる、ということが由来らしい。「養う」という表現がおもしろい。「腹の虫さんとなんとかうまく折り合いをつけて付きあっていこう」という感じがする。

京都の古い言葉だそうだ。ぼくは京都に住んでいたこともあるが一度も聞いたことがなかったが。

腹の虫(イメージ)

腹の虫は怒りを担当しているのかと思っていた。
「腹の虫が収まらない」といえば、怒りが持続する様子を表す慣用句だからだ。
でも、腹の虫は怒りだけでなく空腹も担当しているらしい。
言われてみれば、怒りと空腹はかなり近いところにある。

子どもを見ているとよくわかる。
特に二~三歳ぐらいの子どもは、食事前に大暴れする。
「こんなの食べたくない!」
「この席じゃない!」
「自分でスプーンとりたかった!」
何度、こんな難癖をつけてわめきちらされたことか。

こういう怒りは、ご飯を食べたらすぐに鎮まる。
一口ごはんを口に入れただけで、大暴れしていた子がとたんににこにこして「おいしい」と言う。

なのに、食べない。
腹がへって血糖値が下がるから怒る。怒って食べない。食べないから腹がへる。腹がへるから激怒する。
もう手が付けられない。地獄だ。
(あと眠いときも同じことが起こる。眠い→激怒→眠いけど寝られない→さらに怒る)

大人の場合はコントロールできているように思うけど、じっさいどの程度コントロールできているんだろう。
表面上は抑えているだけで、じつは大人も大差ないんじゃないだろうか。


衝動的な暴力事件の発生と胃袋の中の状態を検証したら、見事な相関関係が得られるんじゃないかとぼくは思う。
「魔が差した」という言い方があるけど、「腹の虫が暴れた」のほうがより正確な表現かもしれない。


2018年5月12日土曜日

コロッケは不当に安すぎる


コロッケが六十円で買える世の中、最高。


六十円やるからコロッケ作ってくれって頼まれたら、やります?

ジャガイモふかして、あちちちちって言いながら皮むいて、つぶして、
タマネギ切って、ひき肉こねて、味を調えて、
小麦粉と卵とパン粉をつけて、油で揚げて、
ジャガイモをつぶしたボウルとタマネギ切った包丁まな板と小麦粉卵パン粉を入れたバットと油でギトギトのフライパンを洗う。

これだけのことをやってもらう、と考えたら二千円ぐらい払ってもいい気がしてくる。

そんなコロッケがスーパーでたった六十円で買える。
もしかしてどっかの国から連れてこられた奴隷の子どもたちがコロッケを作らされてるんじゃないだろうか。
コロッケだけ昭和二十五年に作られてて時を超えて出荷されてるんじゃないだろうか。

大丈夫か世の中。大丈夫か時代。


2018年5月11日金曜日

ぼくのほうがエセ科学


「エセ科学」という言葉に違和感がある。

たとえば「エセ科学」の代表格として語られる
「水に『ありがとう』とかのきれいな言葉をかけると美しい結晶をつくる」

あれを「エセ科学」と断じてしまっていいのだろうか。


科学とは理論ではなく真実に対するアプローチの方法だ。
だから

  • 「水に『ありがとう』という言葉をかけつづけると美しい結晶をつくる」という仮説を立てて
  • 「美しい結晶」の定義付けをおこない
  • 温度や気圧などいろんな条件を変えながら何千回と実験をして客観的な数値を出し
  • そのデータに基づいて結論を出したのであれば

それは科学と言えるのではないだろうか。
(仮に出した結論が誤っていたとしても)


ぼくは「水に『ありがとう』という言葉をかけつづけると美しい結晶をつくる」とは思っていない。
でもそれを証明できる理論は持っていないし、実験をくりかえして「そんなことは起こりえない」と確かめたわけではない。
根拠といえば、どこかのえらい人が「そんなことはありえない」と言ってるから、というものだけだ。

「水に『ありがとう』という言葉をかけつづけると美しい結晶をつくる」なんて、常識的にありえないじゃないか、と思っている。
少しも科学的でない。
「地球が球形だなんて、そんなこと常識的にありえない」と信じていた時代の人と変わらない。


「みんながそう言ってるから」という理由でエセ科学をばかにしている人のほうが、よっぽど非科学的だ。

2018年5月10日木曜日

バカなほうのピザ



 「イタリアンレストランでピザを食べない?」という誘いを受け、

「ピザは嫌いじゃないけど、でもバカなほうのピザのほうがぼくは好きなんだよね」と答えた。


 「バカなほうのピザ?」

「そう。マルゲリータとかマリアーナとかペスカトーレとかコンサドーレみたいなシャレオツなピザはそんなに好きじゃないんだよ」

 「なんかいっこ違うの混ざってたけど」

「ぼくが好きなのは、ソーセージとチキンとマヨネーズとコーンとツナとジャガイモが乗ってる、バカみたいなピザなんだよ。四分の一ずつ違う味が楽しめたりするとなおいい」

 「……要するに、イタリアンピザじゃなくてアメリカンピザがいいってこと?」

「そうそう、それが言いたかった。恥ずかしいから声を大にして言いにくいけど、アメリカンなバカピザのほうが好きなんだよ。イタリアンみたいな水牛の乳から作ったモッツァレラを選んだ素材厳選ピザじゃなくて、とにかくうまそうなものは全のっけだ! みたいなバカ丸出しのピザ」

 「言わんとすることはわかるけど」

「イタリアのピザって、パスタとかサラダとか肉料理とかいろいろあるうちの一品って感じでしょ。そういうんじゃなくて、主食はピザ生地でおかずはトッピングです、みたいな栄養のことなんか何も考えてない、ていうか何も考えてない、そんな知性を感じないピザが好きなんだよね」

 「いやなんていうか……」

「イタリアのピザはワインと一緒につまむものでしょ。アメリカのはコーラで流しこむものでしょ。イタリアのはレストランで会話を楽しみながら食べるものでしょ。アメリカのはソファに寝そべってくだらないテレビ番組を観ながら脳みそセーフモード起動してIQ60にして食べるものでしょ。そういうアメリカンピザが好きなんだよ!」

 「いやその言い方。ほんとに好きなの?」