2018年5月10日木曜日

バカなほうのピザ



 「イタリアンレストランでピザを食べない?」という誘いを受け、

「ピザは嫌いじゃないけど、でもバカなほうのピザのほうがぼくは好きなんだよね」と答えた。


 「バカなほうのピザ?」

「そう。マルゲリータとかマリアーナとかペスカトーレとかコンサドーレみたいなシャレオツなピザはそんなに好きじゃないんだよ」

 「なんかいっこ違うの混ざってたけど」

「ぼくが好きなのは、ソーセージとチキンとマヨネーズとコーンとツナとジャガイモが乗ってる、バカみたいなピザなんだよ。四分の一ずつ違う味が楽しめたりするとなおいい」

 「……要するに、イタリアンピザじゃなくてアメリカンピザがいいってこと?」

「そうそう、それが言いたかった。恥ずかしいから声を大にして言いにくいけど、アメリカンなバカピザのほうが好きなんだよ。イタリアンみたいな水牛の乳から作ったモッツァレラを選んだ素材厳選ピザじゃなくて、とにかくうまそうなものは全のっけだ! みたいなバカ丸出しのピザ」

 「言わんとすることはわかるけど」

「イタリアのピザって、パスタとかサラダとか肉料理とかいろいろあるうちの一品って感じでしょ。そういうんじゃなくて、主食はピザ生地でおかずはトッピングです、みたいな栄養のことなんか何も考えてない、ていうか何も考えてない、そんな知性を感じないピザが好きなんだよね」

 「いやなんていうか……」

「イタリアのピザはワインと一緒につまむものでしょ。アメリカのはコーラで流しこむものでしょ。イタリアのはレストランで会話を楽しみながら食べるものでしょ。アメリカのはソファに寝そべってくだらないテレビ番組を観ながら脳みそセーフモード起動してIQ60にして食べるものでしょ。そういうアメリカンピザが好きなんだよ!」

 「いやその言い方。ほんとに好きなの?」


2018年5月9日水曜日

【読書感想】小松 左京『日本沈没』


『日本沈没』

小松 左京

内容(Amazonより)
 日本各地で地震が続くなか、小笠原諸島近海にあった無人島が一晩で海中に沈んだ。
調査のため潜水艇に乗り込んだ地球物理学者の田所博士は、深海の異変を目の当たりにして、恐るべき予測を唱えた。
――早ければ二年以内に、日本列島の大部分は海面下に沈む!
 田所博士を中心に気鋭の学者たちが地質的大変動の調査に取り組むと同時に、政府も日本民族の生き残りをかけて、国民の海外移住と資産の移転計画を進めようとする。
しかし第二次関東大震災をはじめ、様ざまな災害が発生。想定外のスピードで事態は悪化していく。はたして日本民族は生き残ることができるのか。

日本SFを代表する超大作。
筒井康隆氏によるパロディ作品『日本以外全部沈没』のほうは読んだことがあるけど、こっちは読んだことなかった。

刊行は1973年だけど、その後に起こったいろんな地震・噴火とも重なるような部分もあり、街が、そして国がめちゃくちゃに破壊されていく様は読んでいて息苦しくなるほどだった。

 そして──これは、まったく前々から予測されていたように、江東区を筆頭に、台東区、中央区、品川区、大田区の海岸よりの人家密集地帯、文京、新宿、渋谷等の住宅地帯、江戸川、墨田区の中小工場地帯の一部に、まったく瞬時にして火の手があがった。大正十二年の関東大震災は昼食事、そして今回は夕食の支度にかかりはじめた時の、各家庭の火の気が原因だった。江東区では、いくつかの橋がおち、また地盤沈下のはげしい海抜マイナス地帯のため、堤防が各所でやぶれ、地盤変動でふくれ上がった水が道路にあふれ、それにつれて材木が流れこみ、たちまち人々の退路をふさいだ。火の手はここだけで数十個所で上がり、水の一部に油がのって流れ、それに火がついた。いたる所に使われたプラスチック、そしてこの地帯に密集している零細な化学樹脂加工工場が火事のため加熱されて吐き出す各種の毒ガス──塩素、青酸ガス、フォスゲン、一酸化炭素等が、火の中を逃げようとする人々をばたばたとたおした。のちの調査によれば、これらの地区だけで、約四十万人の人々が、ほとんど瞬時に死んだのだった。

こういう描写がひたすら続くと、小説だとわかっていても気が重くなった。東日本大震災の直後に感じた「なにかしないと。でも何もできない」という無力感をひさしぶりに思いだした。



『シン・ゴジラ』をもっともっとスケールアップした感じ、といったらいいだろうか。

荒唐無稽なほら話なんだけど、そう思わせない圧倒的な知識が詰め込まれている。プレートテクトニクスや潜水艦構造や政治や軍事やあれやこれやがものすごく細かく、そして深く書かれている。さすが「知の巨人」と呼ばれていた小松左京氏と感心するばかり。司馬遼太郎のように「特に書かなくてもいいけどせっかく調べたから書いたれ!」という感じではなく、ストーリー展開に説得力を持たせるために必要なことだけが書かれている。

巻末の解説で小松実盛氏(小松左京氏の息子)が「小松左京は『日本沈没』を書くために当時高価だった電卓を買い、それを駆使して書いた」と説明している。
小説の中には計算式はおろか数値すらほとんど出てこないが、作者の頭の中には根拠となる数字があったのだろう。表に出てこない圧倒的な量の資料がこの重厚な物語を支えている。「日本が沈没することになったら」という発想自体はさほど斬新ではないかもしれないが、その設定でこれだけ厚みを持った小説を書ける人は他にいないだろうね。

ぼくは中学生のころ、小松左京氏の『雑学おもしろ百科』というシリーズの本を集めていた。
今でこそこの手の本はたくさんあるが、そしてその九割が他の雑学の種本からの寄せ集めだが、小松左京版『雑学おもしろ百科』はいろんな学術書から拾ってきた内容が多く、独自性が高くておもしろかった(ただし内容には誤りも多かった)。

中学生のときに小松左京氏の小説を何冊か読んでいずれもあまりおもしろいと思えなかったけど、ぼくがそれらを読むのに適した知識を持っていなかったからかもしれないな。ジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』のおもしろさを理解するにはある程度の教養が必要であるように。


『日本沈没』はただ「日本が沈没する」だけの話ではない。政府はどういう決断を下すか、経営者団体はどう動くか、アメリカやソ連をはじめとする各国の勢力図はどう変わるか、そして生まれ育った国土を離れた"日本人"のアイデンティティはどうなるのか……。細部にわたり執拗すぎるほどの思考実験がおこなわれている。
リアリティはあるが、しかしこの小説で描かれている日本人はやはり「1970年代の日本人」だな、と感じる。2018年の日本に住むぼくから見たら「みんな利他的で社会を大事にしすぎじゃない?」と思えてしまう。たぶん今ならもっとみんな我先にと逃げだすと思う。



『日本沈没』は日本列島が沈むところで終わっており、「第一部・完」と記されている。国土を離れた日本人たちの苦しみを描く第二部の構想もあったらしいが、結局書かれぬまま小松左京氏は2011年に逝去してしまった。
ぜひ読みたかったな。

「それにしたって、一億一千万人を、どうやって移住させるんだ?──世界の、どことどこが、こんな大人数をうけいれてくれるんだ?」首相は憮然としたように宙を見つめた。「君があの国の指導者、責任者になったとしてみたまえ。いったいどうやるんだ? ──船舶だけでどれだけいると思う?」
「半分以上……助からんかもしれませんね。むごい決意をしなきゃならんでしょう──」高官は酒をすすりながら、自分の胸にいいきかせるようにいった。「移住できた連中も、これから先、世界の厄介ものにされて──いろんな目にあうでしょう……迫害されたり……遺棄されたり……仲間同士殺しあったり……自分たちの国土というものが、この地上からなくなるんですからね。──私たちユダヤ人が、何千年来、全世界で味わいつくしてきた辛酸を、彼らはこれからなめつくすでしょう。あの東洋の、小さな、閉鎖的な島で、ぬくぬくとした歴史をたのしんできた民族が……」

小松氏の死後、谷甲州との共著という形で『日本沈没 第二部』が出版されたらしいが……。これにはあまり興味が持てないので今のところ読む気はない。


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2018年5月8日火曜日

ごめんねいいよ


保育園の子ども同士が喧嘩をしている。ひとりの子がおもちゃを独占して、順番を代わってもらえなかった子が泣きだしたのだ。

先生が「〇〇ちゃんにごめんなさいは?」と言うと、
泣かせたほうの子は「ごめんね」と言う。
言われたほうは泣きながら「いいよ」と即答する。

この「ごめんね」「いいよ」、もはや挨拶のように形式化している。「ごめんね」から「いいよ」まで一秒かからない。「じゃんけん、ぽん!」ぐらいのリズムで「ごめんね、いいよ」というやりとりがおこなわれている。

たぶん保育園で先生が教えているんだろう。
「ごめんなさいって言いなさい」
「ごめんって言われたら『いいよ』って言ってあげようね」と。


でも「いいよ」は言わなくていいんじゃないだろうか。

謝られたら「いいよ」と返さなければならないというルールができると、謝られても許せない子が悪いような空気になる。
でも許せないことだってあるだろう。許すのに時間のかかることだってあるだろう。

「謝ったからといって必ず許されるわけではない。それでも迷惑をかけたら謝らなければならない」
と教えてあげてほしいとぼくは思う。


2018年5月7日月曜日

梅干しを食べるなんてこのくされ外道


ウナギが絶滅しそうという話を耳にするから、いまだにスーパーで安くウナギを売っているのを見ると「もう売るなよ」と思う。
買っている人には「買うなよ」と思う。

でもそれはぼくが高い倫理観を持っているからではなく、単に「ウナギがそこまで好きじゃないから」かもしれない。

たとえば稲が絶滅寸前だから米を食べるのを数十年間は控えましょう!という話になったときに、はたしてご飯を我慢できるかというと自信がない。
「ぼくひとりぐらい食べたって影響はないだろう」と考えてしまうような気がする。



結局、ほとんどの人は好き嫌いでしかものを語れないんじゃないかと思う。
タバコを嫌いな人が「タバコなんて他人に迷惑をかけるだけ。禁止にしろ」と言いながら、酒を飲んで道端で大声を出したりしている。
ぼくはクジラを食べるのが好きだから食べたいし、梅干しは嫌いだからちょっとでも梅保護の機運が高まれば「絶滅の危険性がある梅干しを食べるなんてこのくされ外道!」と声を大にして言いたい。


だから、いくら「ウナギが絶滅の危機に瀕しているから食べるのはやめよう」なんて理性に訴えても効果は薄いと思う。

「ウナギなんて不潔なおっさんの食べ物。ウナギを食べるなんてダサい」みたいな風説を流布させて、人々をウナギ嫌いにさせるしかないんじゃなかろうか。


2018年5月5日土曜日

国の終活、村の終活


日本の産業は今後縮小する一方だろうが、日本が世界に勝てる分野がひとつだけある。
それは「衰退」だ。

いまだに「高齢化社会」なんて言葉を使ってる人がいるが、そんな時代は20年以上前に終わった。日本は1995年に高齢者の割合が14%を超え、高齢化社会から高齢社会になった。さらに2005年には21%を突破して超高齢社会になった。現在は30%も超えて、世界ダントツの高齢大国だ。

有史以来どの社会も経験したことのない局面を迎えている。しかしこれは危機であると同時にチャンスでもある。
遅かれ早かれ他国も同じ状況に陥るわけで、そのときには衰退先進国である日本の経験が大いに参考になる。

戦争や疫病で全滅した国はあっても、老衰によって滅びた国はこれまでにない。国家がどうやって自然死するか、ここに全世界が注目する。たぶん。



近年「終活」という言葉が使われている。自分の死に方を設計し、残された者たちに迷惑をかけないよう望ましい死を選択する行為だ。
日本という国もそろそろ終活を考えねばならない時代にきている。

人間でもそうだが、無理な延命をしてもろくなことがない。
たとえば後先考えずに大量の移民を受け入れれば一時的に高齢者の割合は減るだろうが、移民もいずれは歳をとるわけで、根本的な解決にはならないどころかさらに大きな問題を引き起こす。副作用の強い薬を飲むようなものだ。

あわててじたばたするのは見苦しい。ひっそり静かに死んでいけば残された国々も「惜しい国を亡くした」と悼んでくれる。諸外国の記憶の中で永遠に「美しい国」でいられるのだ。死人は美化されるからね。



国が死ぬ前に、国内の多くの自治体が老衰で死んでいく。死にゆく自治体を観察することで、国家としての理想の死に方がおのずと見えてくることだろう。

今後、死んでゆく村がどんどん出てくる。若者を呼ぼうなんて考えてはいけない。どうせ来ないから。それより「死ぬ村」をアピールしたほうがいい。
延命なんてせずに、逆に明確に期限を切るのだ。「この村はあと一年で死にます」と。そうすることで死を迎えた村は最期の輝きを放つことができる。

人間だって「あの人、余命三か月だって」と言われれば「じゃあ今のうちに会いにいっておこう」となる。愛する人々と別れの挨拶も交わし、心残りの少ない終末を迎えられる。
いつ死ぬかわからないままチューブにつながれて何年も経てば、会いに来てくれる人はいなくなるわ、金はかかるわ、家族の負担は増えて「こんなこと願ってはいけないけど早く死んでくれれば……」と思われるわ、ろくなことがない。助かる見込みがないならさっさと死んでしまうにかぎる。

高齢者ばかりの村は「村おこし」ならぬ「村看取り」を考えないといけない。



どうやって死ぬか。

ぼくは、「ダムの底に沈む」がいちばんの理想だと思う。終末の時がわかりやすいし、思い出は美しいまま建造物と一緒に水底に閉じこめられるし、他の町の役には立つし。

ただもう時代的に新たなダムは必要とされないので、残念ながら「ダムの底に沈む」プランは実現不可能だ。

彗星が落ちてきて村ごと消滅という『君の名は』方式も、心が入れ替わった三年後の世界のイケメンによって村人が救われるのであれば美しいプランだが、これも現実的ではない。

海外の大型建造物なんかはダイナマイトで爆破解体される。あれはすごくわかりやすくていい。
悲しいけれど、「ああ我々が愛した〇〇はもうなくなったんだ」とはっきりと目に見えるから、いつまでも引きずらずに気持ちを切り替えられる。村も爆死がいい。

人でも建物でも村でも、死ぬときはとにかく「はっきりと死んだとわかる形」にしたほうがいい。
人間の場合だと脈がなくなるとか呼吸が止まるとかいくつかのサインがあって、「死の要件」を満たすことで死が確定する。医師の「〇時〇分、ご臨終です」という宣告があるおかげで死を受け入れる準備ができる。

死の要件がないと、「きれいな顔してるだろ。ウソみたいだろ。死んでるんだぜ。それで……」なんて言いながらいつまでも死を認められなくて、ずっとベッドに寝かせてるうちにどんどん腐ってきて、もうドロドロになってるのに「もう死んでるとは思うけど一応もうちょっと置いとくか。何かに使えるかもしれないし……」なんて鼻をつまみながら片付けができない人みたいなことを言って、そんで白骨化して引っ越しとかのタイミングでようやく「さすがにもう片付けてもいいよね」と処分することになる。そんなカッちゃん見たくない。

今のままだと、同じことが全国の村々で起こる。死を受け入れられない村がカッちゃんのように腐敗してゆくことになる。
早めに「町の死」を定義づけなければ。
「三十歳以下の住民が十人を下回ったら死」とか「子どもがいなくなったら死」とか「税収が○○円を下回ったら死」とかの客観的な指標が必要だ(たぶんもう死んでる村もあるだろう)。
基準を満たしたら死亡。住んでいる人が何を言おうが問答無用でおしまい。一年たったら臨終宣告をして、ダイナマイトで役場を吹っ飛ばして行政サービスは一切打ち切り。その村は「」になる。墓村、墓町、墓市。これぞゴーストタウン。


現憲法には「居住移転の自由」と「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」が定められているから、村に住民がたったひとりになったとしても、最後の人が出ていかないかぎりは行政サービスを提供しつづけなければならない。
これは現実的でない。
そろそろ町が死ねるように憲法改正をしたほうがいいかもしれない。



村を死なすのは寂しい気もするけど、死を受け入れないことには次に進めない。
死にかけの村よりも死んだ村のほうが愛される。


世の中には廃墟マニアもいるから、「墓」になった町に住みたい人だっているだろう。
一切の行政サービスを拒否して孤高に生きたい、いや孤高に死にたいという人だっているだろう。

そういう変わり者が集まれば、一度死んだ村に再び人が集まって息を吹き返すかもしれない。一度ゴーストタウンになった村が甦る。これぞ超魔界村。