2017年10月10日火曜日

四歳児だから流せる悔し涙


娘と 図書館に行ったら、保育園のおともだちのSちゃんと出会った。

いっしょにえほんを読むことになり、たどたどしく文字を読む子どもたち。

その様子を見ていたSちゃんのおかあさんが言った。

「わー、○○ちゃん(うちの娘)、もうカタカナ読めるんですかー。うちの子はまだひらがなも半分くらいしか読めないのに。すごいねー!」

読み書きぐらいはちゃんとできるようになってほしいと思ってぼくが毎日教えたので、うちの娘は文字を読むのは上手になった。
たぶん同い年の子の中では、かなりすらすら読めるほうだと思う。親ばかだけど。


その後もえほんを読んでいたのだが、Sちゃんの様子がおかしいことに気がついた。

さっきまではにこにこしながらえほんを見ていたのに、急にだまりこみ、ふくれっつらをしている。

明らかに不機嫌だ。

きっと、自分のおかあさんがよその子を褒めた(しかも自分ができないことを引き合いにだされて)ことに傷ついてしまったのだろう。

だがうちの娘はそんな様子を気にすることもなく、それどころかさっき褒められて調子づいたらしく、ますます元気よくカタカナを読みあげている。

さすが4歳児、まったく空気を読んでくれない。

ついにSちゃんは気持ちがいっぱいになってしまったらしく、目にじわりと涙を浮かべてしまった。




なにも 娘の自慢をしたくてこんなことを書いたわけではない(自慢したい気持ちもあるがそれはまたの機会に)。

自分が読めないカタカナを同い年の子が読めたこと。
それを自分のおかあさんが褒めたこと。
その悔しさをどう表現していいかわからないこと。
いろんな感情が混然一体となり涙となってあふれだしたSちゃんをなぐさめながら、なんて美しい涙なんだろうとぼくは感激したのだ。


4歳のときにカタカナが読めるかどうかなんて、大人からしたらどうでもいいことだ。

どうせあとちょっとしたらみんな読めるようになっているのだから。

周囲の目を惹く美貌を持って生まれたとか、4歳にして3ヶ国語を自在にあやつるとかならともかく、カタカナを読めるようになるのが半年かそこらちがったってこの先の人生には何の影響もない。 

それでもSちゃんはこらえきれずに涙を流すぐらい悔しさを感じた。

たぶん「おかあさんが褒めた」ことが小さな彼女のプライドをもっとも傷つけたのだと思う。

おかあさんは「そうはいっても自分の子がいちばん」と思ってるからこそよその子を褒めたのだが、幼い彼女にはそこが理解できなかったのかもしれない。


こんなにもひたむきな気持ちを持つことは、大人になったぼくにはもうできない。

劣等感や悔しさや嫉妬心を抱くことはあるが、自分の中でそれなりの理屈をつけてやりすごしてしまう。
「○○だからしょうがないよね」「でもぼくは□□があるし」「そもそもそこで勝負しようとは思わないし」
己を傷つけずに済む理屈は、三十数年も生きていればなんとでも見つけられる。

悔しさに対して涙がでるほどまっすぐ向きあうことがぼくにはできない。

4歳児が流した悔し涙は、逃げ方だけがうまくなったおじさんの心には深く刺さった。



数日後、Sちゃんのおかあさんと出会った。

「うちの子、あの日帰ってすぐにひらがなの勉強はじめたんですよ。以前買ったドリルにずっと手をつけてなかったのに。今日も朝からドリルやってました」

との報告を受けた。

ああ、いいなあ、とぼくは思った。

悔しさを克服するためにすぐ行動に移す。

すごくシンプルなことなんだけど、それって今しかできないことかもしれない。


2017年10月8日日曜日

文庫の巻末のお楽しみ


 文庫の巻末のお楽しみ


世に文庫好きは多いと思うが、あまり語られないのが巻末の宣伝ページだ。

本編があって、あとがきや解説があって、その後にあるやつ。

同じ出版社から刊行されているさまざまな文庫本を、3行ぐらいの解説とともに紹介しているページ。

ぼくはあれが大好きだ。正確にはなんていうのか知らないけど、とりあえず「巻末のお楽しみ」と呼ぶことにする。

昭和58年の今月の新刊




 巻末のお楽しみの効用


電車の中で思っていたより早く本を読み終えてしまうことがある。
今日読みおわるとおもっていなかったから、次に読む本を持ってきていない。

読む本がない。どうしよう。うわあああ(常に本が手放せない人間にとってはこれぐらいの緊急事態だ)。

こんなとき、巻末のお楽しみがあると助かる。
あの3行解説をじっくり読んで、紹介されている1冊ずつに対して「この本はどういう内容なのだろうか?」と沈思黙考すれば、けっこう時間がもつ。


広告としてもよくできている。

同じ著者の作品、同ジャンルの別の作家の作品、中には出版された時期が近いだけのまったくカテゴリ違いの本も紹介されたりしていて、それぞれおもしろい。
何十年も前の "今月の新刊" を見ると妙に感慨深いものがある。
鳴かず飛ばずだった本なのに「文壇を揺るがす問題作!」みたいな鳴り物入りで発表されていたのか、とか。
Amazonが「この商品を買った人はこんな商品も買っています」とやるよりずっと前から、文庫業界では巻末のお楽しみという形でレコメンド広告(関連する商品をお薦めする広告)を出していたんだよね。


映画好きの中には、予告編を楽しみにしている人も多いだろう。
だが映画の予告編が残念なのは、本編の前にやっていることだ。あれによって観客は広告を観ることを強制されてしまう。もちろん広告主としては全員に観てもらったほうがいいんだろうが、それによって嫌われてしまっては元も子もない。
広告には「ご迷惑でなければ見てやってください」というたしなみがなくてはいけない。巻末のお楽しみには、ちゃんとつましさがある。




 文庫の終わりのシンフォニー


本編を読んで本の中身に引きこまれて、あとがきや解説を読んで「なるほど、そういう解釈もあるのか」と感じ入って、最後に巻末のお楽しみを読んでクールダウンする。

おもしろい本だと本の中に引きこまれすぎる。著者の意向か知らないけどたまにあとがきも解説もない文庫があって、そういう本だと読み終わった後に気持ちの整理がつかない。うまく現実世界に帰還できない。巻末のお楽しみがあればそういう事態を防げる。

海外から帰国したときって変な感じしない? 頭の中では日本に帰ってきたってわかってるんだけど、でも身体はまだ海外にいるようなふわふわした感じ。
でも、空港という日本でも海外でもないような場所をうろうろして土産物屋とか見ているうちにだんだん慣れてくる。少しずつ「ああ、日本に帰ってきたんだな」って日常を取り戻していく。身体の切り替えって時間がかかるんだよね。

巻末のお楽しみは、空港の土産物屋みたいなどこか異次元の時間を提供してくれる。



2017年10月7日土曜日

ノートとるなよ


学生時代、教師に言われて嫌だった言葉のひとつが「ノートとれよ」だった。

表立って反論したことはないけど、内心ではずっと反発していた。



ぼくは学生時代、ほとんどノートをとらなかった。

教師が「ノートとれ」と言う。そのとき黒板に書かれていることは、ほとんどが教科書や資料集に書いてあることだ。

だったら教科書を読めばいい。
教科書に載っていないことであれば教科書の余白にメモをとれば済むことだ。
わざわざノートにとる必要がない。


じっさい、授業中ずっと真剣にノートをとっているやつよりも、一切ノートをとっていなかったぼくのほうがずっと成績が良かったのだから、ノートの不要性が証明されたようなものではないか。

学生のとったノートのほうが、専門家がたくさん集まって作って検定を経ている教科書より理解しやすいなんてことがあるわけない。

ノートをとることは、「ちゃんと聞いてますよ」というアピールをして内申点を上げる以外には役に立たない。

だからぼくは「ノートはできないやつがとるものだ」と学生時代思っていた。そしてノートをとるできないやつはできないままだ、と。
大人になった今では、もっとそう思っている。



学校で「ノートをとれ」とでたらめな教育を受けたせいだろう、大人になっても手帳にメモをしている人がいる。

「10月31日の19時に〇〇で会食」ってな内容ならわかる。
それはメモにとっておいたほうがいい。

でも、たとえばぼくがExcel関数の使い方を教えたときに、その内容をメモにとるやつがいる。

あほちゃうか、と心の中で思う。相手によっては口に出して言う。

検索したら出てくるものをなんでメモるんだよ、と。

そんなものメモしてるひまあったら覚えろよ。覚えられないんだったら検索のしかたを覚えろよ。

メモをとれば記憶しなくてすむわけじゃない。
書いたことを役立たせるためには、「どのメモに書いてどこに保存したか」を覚えとかないといけない。
テストをするんだったらテスト前に全部のメモを見かえせばいいが、仕事ではそんなわけにはいかない。
「どのメモに書いたか」の記憶に少ない脳のメモリを使うぐらいだったら、メモの内容をおぼえたほうがずっと効率がいい。



すでに書いてあること、ちょっと調べればわかることをメモするのはまったくの無駄だ。

見返さないノートをとってる人は、すぐそのノートを破棄しなさい。

これすごく大事。

すごく大事なこと書いたから、ちゃんとノートとっとけよ。


2017年10月6日金曜日

新党ひかり


政治における「右」と「左」の表現って絶妙じゃないっすか?

右派と左派。右翼と左翼。

もともとはフランス議会で保守派が議長から見て右側にいたから言うようになったらしいんだけど、左右の表現には優劣がないのがいい。

もしも「上」と「下」だったら定着しなかっただろう。「下」にされたほうが「なんでおれたちが下なんだよ」って怒って。

「前」と「後」だったら前のほうがイメージいいし(「前進」「前向き」)、「表」と「裏」だったら裏のほうがイメージが悪い(「裏の顔」「裏切り」)。
昔は裏日本なんて言い方もあったけど廃れたしね。つくづくひどい表現だ。

「北」と「南」は、それ自体に優劣はないけど、「北上」「南下」みたいに上下と結びついてしまうのでふさわしくない。話はそれるけど南半球の国には「南上」「北下」みたいな言語があるのかな。

「西」と「東」も優劣はないけど、世界が東西陣営に分かれていた時代は特定のイメージが強すぎたから、国内政治に用いるとややこしかったにちがいない。



そう考えると、やはり「右」「左」は対立を表しつつも上下関係がなくてベストな表現って感じがする。

右と左ってどっちが上なのかよくわかんないもんね。

左大臣のほうが右大臣より官位は上らしいけど、「右に出るものはいない」という言葉を使うときは右のほうがいいとされている。どっちやねんと。それがいいんだろうね。



あとは「内」と「外」もアリかもしれない。

保守派が「内派」で革新派が「外派」。うん、けっこうしっくりくるね。



政治の世界が「光党」と「闇党」に分かれたらおもしろいだろうなあ。

それを機に、中二病的な政党が続々誕生。「火党」「水党」「土党」「風党」「電党」なんかが出現して。

光党内の火派寄り勢力が分裂して「炎党」をつくったり。

残った光党が電党と合併して「灯党」をつくったり。

政治部記者も見出しをつけるのが楽しくてしょうがないだろうね。「水党と土党の泥沼抗争」とか「風向き変わって火党鎮火」とかさ。



2017年10月5日木曜日

【作家について語るんだぜ】土屋賢二


土屋 賢二

Wikipediaによると、土屋賢二は
日本の哲学者、エッセイスト。お茶の水女子大学名誉教授。専攻はギリシア哲学、分析哲学。
とある。

なかなか日本人で「哲学者」って呼ばれる人はいないよね。ぼくがぱっと思いつくのは三木清と西田幾多郎ぐらい。

話はそれるけど西田幾多郎の『善の研究』は昭和初期にベストセラーになったんだとか。哲学書がいちばん売れてたってすごい時代だなあ。とはいえべつに今の人がバカになったわけじゃなくて、昔は一部の教養人しか本を読まなかったし、お堅い本しか出版されてなかったってことなんでしょう。


ぼくが「おもしろい」と思うエッセイを書く人って、
  • 東海林さだお(漫画家)
  • 穂村弘(歌人)
  • 鹿島茂(フランス文学者)
  • 内田樹(フランス文学者)
あたりで、小説家でおもしろいエッセイを書く人ってほとんどいない。
小説を書く能力とエッセイの才能ってちがうんだろうなあ。
学生時代は、遠藤周作とか北杜夫とか原田宗典とかのエッセイをよく読んでたけど。


土屋賢二も「本業は物書きじゃないのに、物書きよりおもしろい文章を書く人」のひとり。
はじめて土屋賢二のエッセイを読んだときは衝撃的だった。
なんて知的なユーモアに満ちた文章を書く人だろう、と。
わたしの職業はダンス教師で、タレントの女の子たちにダンスを教えている、と言うと、たいていの男性に羨ましがられる。しかし実態は、そんなに羨ましがられるようなものではない。第一に、銀行員と同じで、価値のあるものを扱っているからといってそれを手に入れたり、自由にすることができるわけではない。第二に、価値あるものを扱っているのかどうかかなり疑問がある。第三に、わたしの職業はダンス教師ではない。

基本的におもしろいエッセイって「めずらしい体験」「ひどい失敗談」「独自性のある考察」なんかがあって、それをユーモアで肉付けすることによって生みだされる。
ところが土屋賢二の文章は、上に引用したものを読めばわかるように、そういったものが何もない。というか中身がまったくない。上の文章は、長々と書いているわりに情報量はほぼゼロだ(「わたしの職業はダンス教師ではない」という情報しかない)。

天ぷらを食べてみたら衣しかなかった、でもその衣がめちゃくちゃおいしかった、みたいな文章。
拍子抜けするんだけど、でもなんだかやめられない魅力がある。



さっき「やめられない魅力がある」と書いたそばから矛盾するけど、ぼくは最近読んでない。

だって飽きちゃうんだもん。
どの文章もはずれがなくて楽しめるんだけど、基本的に内容の少ない話なので、どうしても似てきてしまう。単行本を一冊読むと、途中から胸やけがしてくる。どんなにおいしくても、やっぱり衣は衣。形のあるものが食べたくなる。


中島義道という人(これまた哲学者)が、とある本で「土屋賢二の文章は誰も傷つけないように配慮しているので大嫌いだ」ってなことを書いていた。
「誰も傷つけないから嫌い」って言われたらもうみんな嫌われるしかないじゃんって思うんだけど(中島義道はそういう世界を望んでいるみたいだけど)、まあ毒にも薬にもならぬという指摘はそのとおりだと思う。

土屋賢二は週刊文春に連載している。週刊文春を買ったことはないけど、銀行や病院の待合室なんかに週刊文春が置いてあったりするので、たまに手に取って土屋賢二のエッセイを読む。
期待にたがわずおもしろい。
ああおもしろかった、と思う。
自分の名前が呼ばれて、医者に診察してもらい、処方箋をもらい、薬局に行って薬を受け取る。そのころには、さっき読んだ土屋賢二のことは頭の片隅にもない。ふとしたときに思い出すようなこともない。

このありようこそ、週刊誌のエッセイとして100点だと思う。