2017年4月21日金曜日

「ねえ、過ちをおかして」


3歳の娘は「まちがえた」という遊びが大好きだ。
しょっちゅう「おとうちゃん、まちがえてー」と言ってくる。
そして、ぼくはわざとまちがえる。

とはいえ、覚醒剤に手を出したり不倫をしたりするわけではない。
そういう人の道をまちがえるやつじゃなくて、もっと単純な「まちがい」だ。



たとえば、保育園に行くためには右の道を通らなくてはいけないのにわざと左に行く。
妻の靴を履いてみせる。
犬を指さして「猫だ」と言う。

そして「あっ、まちがえた!」という。

ぼくがまちがえる姿を見て、娘はきゃっきゃっと笑う。
「それおかあちゃんの靴やでー」と訂正してくることもあるし、真似して自分もわざとまちがえることもある。そしておかしそうに笑う。
たあいもない遊びだ。
これを何十回もくりかえさせられる。
大人からすると「もうかんべんしてくれよ……」という気分になる。


しかし、この「まちがえて」の遊びは、3歳児にとってはけっこう高度なことをしているのかもしれないと気がついた。
  • この生き物は犬である
  • 猫という生き物もいる
  • 犬と猫は別種であり、重なることのない概念である
という3段階の判断をしており、その結果としての「まちがえた!」に笑っているわけだ。
身の回りのものをあるがままに受け入れていた時期は終わり、自分なりの常識を持ってそれに適合する/しないを判断しながら生きているわけだ。

おおっ、たいへんな進歩じゃないか。
つい1年前までうんこ漏らしてたのと同じ人間とは思えない。今でもたまに漏らすけど。



2017年4月20日木曜日

自分の人生の主役じゃなくなるということ


いちばん影響を与えた本


人生に影響を与えた本はいっぱいあるけれど、あえて1冊選ぶなら、リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』 を挙げたい。


二十歳くらいのときに『利己的な遺伝子』を読んで、それまで学校教育やテレビで押しつけられてきた「努力」だとか「優しさ」だとか「愛情」だとか「正義」とかがみんないっぺんにふっとんだ。
なーんだ、努力とか優しさとか愛情とか正義とかって、こんなにどうでもいいものだったのか、と目から鱗が落ちた。

思春期のころはみんなそうだと思うけど、ぼくもいっちょまえに「人は何のために生きるんだろう。自分は何を成し遂げられるんだろう」と思い悩んでいた。答えなんて見つかるわけないから、好きでもない新しい環境に飛び込んだり、好きでもない人と会ったり、模索を続けていた。
でも答えは『利己的な遺伝子』に書いてあった。

人は遺伝子の乗り物にすぎない。


乗り物の目的は?
乗り手を運ぶこと、ただそれだけ。
それ以上の意味なんて必要ない。
自転車が愛や美や善を担う必要がないように、乗り物としての人にとっても「遺伝子様を運ぶこと」以上の意味なんかどうでもいい。

そりゃあダサい車よりかっこいい車のほうがいい。でも車の最大の目的は「人を乗せて走ること」だから、どんなにかっこよくても人を乗せられない車は車じゃない。飛べない豚はただの豚だし、飛べる豚は脂の乗ったコクと鳥の持つあっさりした口あたりを兼ねそろえていておいしそう。何の話だったっけ。



ぼくらは死ぬけど遺伝子は生きる


ぼくらの細胞は毎日大量に死んでいくけど、それでも新しい細胞がどんどんできて、1年もすればもうまったく別の細胞に入れ替わっているらしい。
だけどぼくらは別人になるわけじゃない。細胞が死んだってぼくらが死ぬわけじゃない。

ぼくらと遺伝子の関係も同じこと。
ぼくらは100年ちょっとすれば完全に入れ替わるけど、遺伝子はずっと生きている。ぼくらが死んでも遺伝子は死ぬわけじゃない。


結局、人は遺伝子を残すためだけに生きている。

ってなことを書くと、「いろいろな事情で子孫を残せない人を人間扱いしないのか」って言われそうだけど、そんなことはない。
『利己的な遺伝子』を読めばわかるけど、子どもを産むことだけが遺伝子を残す方法じゃない。
甥や姪や従兄弟の子だって、自分と同じ遺伝子を持っている。
赤の他人だって、いくらかは共通の遺伝子を持っている。

だから人類みんなのためにおこなう行為がめぐりめぐって自分の遺伝子のためになるわけで、そうすると愛とか善とかも無意味なものではないということになるんだけど、どっちにしろ「人の行動はすべて遺伝子様に尽くすための行動」ということに変わりはない。



生きるのが楽になった


「自分は遺伝子にコントロールされる乗り物にすぎない」ということを受け入れた後は、生きるのがすごく楽になった。
だって乗り物なんだもの。何を悩むことがあろうか。

しょせんは乗り物

後世に遺伝子を残すことさえできればそれでいい。しかもそれは自分の子孫という形じゃなくてもいい。
生きることのゴールが、「善く生きる」という崇高である上によくわからない目標から、「人類が死滅しないこと」に変わったわけだ。
しかもアメリカ大統領ならいざしらず、「人類を死滅させない」ためにぼくができることはほとんどない。
借金に苦しんでいたのにいきなり徳政令を出されたような気分だった。




ぼくは主役の座を降りた


さらに子どもが生まれたことで、生きることの負担はさらに軽くなった。

子どもが生まれて1年くらいしてからだろうか。
友だちと話していて、ふっと「ぼくはもう人生の主役じゃないからなあ」という言葉が出てきた。
それまでそんなことを考えたこともなかったから自分でも驚いたのだけど、「人生の主役じゃない」という言葉は己の心境をよく言い表していた。


あたりまえだけど、それまで自分の人生の主人公は自分だった。
誰が何といおうとぼくの人生はぼくのためにあったし、他の登場人物はすべてぼくを引き立たせるための脇役にすぎなかった。通行人Aとか森の樹Wとかぐらいの扱いだった(森の樹多いな)。
誰しもがぼくのためにあった。

でも、子どもがすべり台をしている横で寒さに震えながらじっと付き添っているぼくは、明らかに脇役だ。
ぼくの人生において、父や母が主役を支える脇役だったのと同じように。

我が子だけではない。
娘と同じ年頃の子どもたちを見ていると、「ぼくはこいつらのためなら死ねるかもしれない」と思う。
無条件に命を投げ出すのはイヤだけど、「知らない子どもが溺れていて死にそうだ。飛び込んだら自分も50%の可能性で死ぬけど、50%の可能性で助けられる」という状況だったら、ちょっと迷うけれども飛び込めるんじゃないかと思う。
それってマリオを助けるためにヨッシーを切り離して穴底へ落とすようなもので、寂しいけど脇役なんだからしかたないとも思う。

もちろん何歳になったって、子どもや孫や雲孫(孫の孫の孫の孫)が何人いようと、「おれの人生の主役はずっとおれだぜ!」って人もいるんだろうしそれはそれでけっこうなことだけど、ぼくは「脇役は脇役なりの楽しみ方をすればいいや」って気持ちだ。
もともと主役は遺伝子様だったんだし。

ぼくはヒーローの座を降りた


2017年4月19日水曜日

【読書感想文】 小林 直樹 『だから数字にダマされる』

小林 直樹 『だから数字にダマされる』

内容紹介(Amazonより)
「最近の若い人は内向き志向で海外旅行に興味がない」――。これ、ウソです。統計調査やアンケートの結果は、そのまま受け止めると実態とズレが生じてしまいます。
日本からの海外渡航者に占める20代の比率が大きく下がっている。これは事実。しかし20代の人口そのものが少子化で大きく減っているのだから、20代の渡航者も減るのは当然です。20代の中で渡航者の割合をみると、80年代後半のバブル期の20代よりも上回っています。「若者の海外旅行離れ」はかなり無理がある。ウソと言っていいでしょう。
 いわゆる「統計にダマされない」系の本では、「数字で一般人をダマして買わせようとする悪い大人がいるから、惑わされないようにしよう」という趣旨のものが多いですが、学者やアナリストら統計のプロらも意図せず検証を欠いたデータを公表し、それをメディアが無批判にニュースとして報じることで、おかしな数字が悪意なくニュース視聴者・閲覧者に届いてしまっているのが実情です。本書ではそうした具体的な事例をケースに分けて紹介し、違った角度からの見方を提示します。
<紹介事例>
・消費不況の元凶は、モノを欲しがらない若者のせい?
・内向き志向の若者急増で「海外旅行」に興味ナシ?
・「キレる若者」が急増しているのは教育が悪いから?
・最近の若者は「政治」に興味がないのか?
・保育園建設に反対しているのは中高年のオヤジ?
・訪日観光客向け商戦は「爆買い」終了で崩壊したか?
・「使える人材輩出大学」 ワースト1位は○○大学?
・禁酒すると早死にするって本当?
・開票速報番組 なぜ開票率数%で「当確」が打てるのか? ほか多数

「若者の ××離れはウソ」「若者の犯罪は激減している」など、どこかで一度は聞いたことがある内容じゃないかな。
こういうテーマは、べつに目新しいものではない。
それでもこういう本がなくならないのは、ろくに調べもせずに「最近の若者はすぐに凶悪犯罪に手を染める」なんてことを言ってしまう輩がいるから。
そして、どれだけこういう本が出たとしても「ちょっと調べればわかることを調べない人」は読まないだろうから、永遠にすれちがいつづけるんだろうな。

まあべつに年寄りが「最近の若者は……」と言いながら病院の待合室でくだを巻いているだけならいいんだけど、企業や報道機関や政府のそれなりの立場にいる人の中にも「自分のふたしかな記憶だけを基準にものを言う人」って少なからずいるからなあ。「おれのときはこうだった」「おれはこうしてたからほとんどのやつもこうしてたはず」ってやつね。



似たような 趣旨の本はけっこうある(この系統の本の白眉はパオロ・マッツァリーノ『反社会学入門』)けど、この本のおもしろいところは、マーケティングの専門家という立場から書いていること。
「通念に反すること」はマーケティングにどういう影響を与えるのか、どう活かせるのか、という視点が入っているのがおもしろい。


たとえば若者のビール離れ(じっさいには20代だけでなく、ほとんどの年代で減っているらしい)。
その数字を解説するだけでなく、そんな状況の中でも売上を伸ばしている企業のマーケティング戦略を紹介している。

だいたいね。マーケティング職の末端にいるものとして言うけど、結果が出なかったことを「時代の流れ」とか「時期的要因」とかのせいにするやつってマーケターとしてド三流ですよ。それが事実だったとしても。
いや、じっさい時代の流れで衰えるものってあるよ。今、紙の時刻表を20年前と同じ部数売ってこいって言われたら「今の時代では無理ですよ」と言うしかない。
でもそれは事前に予見しとくべきものであって、後から言い訳として並べ立てられたって「いやその潮目を読めなかったのはおまえじゃん」と言うしかない。


そして「最近の若者は酒を飲まない」って、まるで悪いことみたいに語られてるのにも疑問。

 年齢確認が厳格化されることで、新歓コンパで18歳の学生が救急車で運ばれたり、不幸にも命を落とすような事件事故は以前より減った感がある。一方で学生の飲み会はめっきり減った。その世代がすでに社会人になっているのだから、飲み方が変わるのも当然だ。
 2006年に福岡市・海の中道大橋で飲酒運転によって3人の用事が死亡した事故以降、飲酒運転撲滅に向けた動きも強化され、ドライバーにはアルコールを提供しない取り組みも定着している。こうした規則の徹底は、アルコール消費量からみればマイナス要因である。規制が緩かった時代と比べて嘆いても仕方ないだろう。

今の50歳以上の話を聞くと「昔は飲酒運転なんてみんなやっていた」という言葉がよく出てくる(これも「ふたしかな記憶」だけどね)。「泥酔していなければオッケー、警察に捕まったら運が悪かった、ぐらいに思っていた」という認識の人も少なくなかったようだ。

また未成年の飲酒に関しても、10年くらい前までは「大学に入ったらお酒解禁」というムードだったけど、今はすごく厳しくて18歳、19歳に飲ませたら退学もある、という状況らしい。

結局、「未成年の飲酒禁止」「一気飲み禁止」「飲めない人への強要禁止」「飲酒運転禁止」という風潮になっているわけで、"違法な飲酒" と "むりやり飲まされる機会" が減ってるんだよね。
まったく問題がない。すばらしいことだとしか言いようがない。

お酒がもたらすものって、いいことより悪いことのほうが圧倒的に多いわけだし。酒の消費量が減れば、事故も盗難事件も暴力も性犯罪も浪費も病気も減るだろうし。
この点に関しては、いい世の中になっているように思う。
お酒好きな人にとっては、昔よりいろんなお酒がかんたんに手に入る世の中になってるしね。



「車離れ」に関しても、単なる趣味嗜好の変化だけの話ではないようだ。
  • 全体的に車の性能が向上しているので長持ちするようになり、買い替えの頻度が減っている
  • 子どもができると車を持つ人が増えるが、晩婚化、少子化で子どもを持たない層が増えている
  • 若者は都心部に多く集まっているが、都心部では車は不要(それどころか邪魔になるだけ)
といった事情があるらしい。

最近の若者は渋滞を嫌う傾向がある

ぼくは今、街中の交通便利なところに住んでいることもあって、自動車はおろか、自転車すら持っていない(子ども用のペダル無し自転車だけはある)。でもまったく困ったことはない。
いっとき、街中で車を所有していたことがあるけど、駐車場だけで月3万円かかって閉口した。おまけにやっと借りられた駐車場は自宅から50メートル離れていたし、車で出かけても停めるところはないし、「車なんてじゃまなだけだ!」と早々に売っ払ってしまった。外出のたびに毎回タクシーを捕まえるほうが安くつくのだから。

自動車離れにしても酒離れと一緒で、「若者が離れたからって自動車産業の人以外に誰が困るの?」という感想しか出てこない。自動車が減れば環境にもいいし、騒音も減るし、事故も減るし、本当に必要な車(救急車とか)は早く到着するし、トータルで見ればプラスのほうが多い。

人口が減っていく中で国内需要が増えるわけないんだし、輸出だって日本車がいつまでも関税や輸送コストを補ってあまりあるほどの優位性を保ちつづけられるわけないんだし、自動車産業が衰退しないと思っていたとしたら、相当能天気だというしかない。
「衰退業界だとわかっててそこに入ったのはあなたたちでしょ?」と思うだけだ。

だから考えるべくは「若者の車離れを食い止めろ!」じゃなくて、「業界が衰退していく中で利益を最大化するためにはどうしたらいいか」だと思うんだけど、これはべつに自動車業界にかぎった話ではなく、誰しも退却戦は苦手なんだよね。

これからの時代は、味方の被害を最小限にしながらうまく撤退・縮小することのできるリーダーが求められるだろうね。



いちばん 印象に残ったのはこの一節。

 同様にイメージと実態がずれる内容として、駅や電車で迷惑だと思う行為のランキングがある。日本民営鉄道協会が実施した2014年度の調査では、「混雑した車内へのベビーカーを伴った乗車」が男性は8位(16.5%)だったのに対し、女性は3位(30.2%)だった。「女の敵は女」などと言いたいのではない。自分の経験、流儀、一家言あることに対して、人は見る目が厳しくなりがちということだろう。

ちなみに、近所に保育園ができることに対して最も反対する率が高い層は40代女性らしい。
「日中家にいることが多い」のに加えて、「あたしらのときは保育園に預けられなくて苦労したのに」と思うと、そりゃおもしろくないよね。気持ちはわからなくもない。
ぼくも子どもは好きだけど、四六時中よその子の絶叫を聞きたいかといわれると、それはまたべつの話。

もう保育園は森の中に作るしかない

自分が通ってきた道には厳しい」って、そのとおりだよなあ。

自分とはまったく関係のない世界、たとえば宝塚音楽学校の生徒が「すごくたいへんなんですよ」と言っていたら、「よく知らないけどたいへんだろうなあ。がんばれ」と素直に思うのに、母校の後輩が「すごくたいへんなんですよ」と言っていても「甘ったれんな。みんな通ってきた道だろ」と思っちゃうもんなあ。
きっとどの学生もそれぞれたいへんで、比べられるようなものじゃないのに。


高校野球が毎年八月の真昼間に、酷暑の甲子園球場でおこなわれることについても、毎年「無駄にたいへんだし危険だから日程をずらしたほうがいい」と言われているのに、いっこうに改善されない。
「進学する生徒のことを考えたらこの日程じゃないと……」とかうだうだする人がいるけど、サッカーやラグビーの全国大会は冬にやってるわけだから秋にずらしたってかまわないと思う。いつ全国大会があろうが勉強するやつはするし、しないやつはしない。

あれも結局、高校野球を取り仕切ってるのが野球部のOBばっかりだから、
「おれたちが暑い中苦労してきたのに、今のやつらだけが楽をするなんて許せん」
って気持ちが強くて改善されないんじゃないかな。

高校野球ファンだけど野球部じゃなかったぼくなんかからすると「寒い時季じゃなければいつだっていいよ。暑くないほうが観る側としても助かるし」としか思わないんだけどね。
まあ「高校生が必死に汗水流して走り回ってるのを見ながら飲むビール最高!」って気持ちもあるわけで、高校野球選手権大会が八月じゃなくなったらますますビール離れが加速しちゃうかもね。



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2017年4月17日月曜日

未開人の前ででかい顔する話


自動車とか炊飯器とか電子レンジとか冷蔵庫とかデジカメとかタブレットとか、今の時代の文明の利器を大量に持って明治時代に行く(電力やガソリンは使えるものとする)。


その時代の人が困っていたら、自分が発明したわけでもないのに
「しょうがねえなあ。今回だけだぞ」
と偉そうな顔をして文明の利器を貸してやる。

もちろんその時代では誰もがぼくをあがめたてまつる。
みんなから感謝されるから、何を生みだしたわけでもないのに、自分が偉くなった気になって自尊心は満たされる。
ぼくが活躍する物語まで作られるし、さらには「みんな大好き犬犬さん」と、ぼくをたたえる歌まで作られて、みんながもてはやしてくれる。

そんな、ドラえもんみたいな生き方がしてえなあ。


書店が衰退しない可能性もあった

とある本に「人は、自分が通ってきた道に厳しい」という言葉があった。
妊婦や子育て世代に対していちばん厳しいのは、少し前にそれを経験した40代女性なのだとか。

ぼくは本屋で働いていたので、本屋には厳しい。出版業界に厳しい。
「このままじゃAmazonにやられて町の本屋がつぶれる!」なんて声を耳にすると「つぶれるのもしょうがないよね」と思う。
  • 目当ての本があるかどうかわからない
  • 注文してもいつ入荷するのかわからない
  • 傷んでいることが多い
こういう欠点があると、本好きな人ほどリアル書店を離れてAmazonに行きたくなる。

リアル店舗のメリットしては「立ち読みできる」ぐらいだけど、たいていの書店では漫画は立ち読みできないし、今ではオンラインである程度内容が確認できることが多い。


こうした問題が改善されることはないだろうし、Amazonはどんどん進化していくだろうから、リアル書店がつぶれていくのは避けられない。

それ自体は誰が悪いわけでもない。
どんな商売だっていつかは新しいものにとって代わられる。
Amazonが存在しなかったとしても、別の何かが書店を衰退させただけだろう。

ただ、ぼくは思う。
衰退するにしても、もう少しうまくやれなかったのか、と。

アマゾンと斜陽




とことんダメだった取次システム


今、本屋の抱える問題の多くは、取次というシステムに起因するものだ。

ご存じの方もいるだろうが、通常、出版社から書店に直接本が送られてくることはない。
取次と呼ばれる会社(日販とかトーハンとか聞いたことがあるかもしれない)が必ず間に入る。
出版社は取次に本を送り、取次が書店に本を送る。お金の流れはこの逆だ。

数万の出版社が数十万の書店にそれぞれ本を送っていたら、どう考えたって効率が悪い。
中継点を挟んだほうがうまくいく。だから取次システム自体には何の問題もない。

ただ、この取次が「おまえら仕事する気あんのか?」と言いたくなるような雑な仕事をしていた。そこに大きな問題がある。

※ ぼくは書店員として某取次1社としか取引をしていなかったので、たまたまその会社がひどかっただけかもしれない。またぼくが書店にいたのは5年くらい前までなので、今は状況が変わっているかもしれない。


まずわかりやすいところでいうと、本の輸送状態がひどかった。
取次から書店には段ボールやビニールに入って本が送られてくるのだが、本がぐんにゃり曲がっているなんてのはざらで、ひどいときはカバーが大きく破れたりしていた。
もちろんトラックで揺られながら運ぶのだから多少の破損が出るのはいたしかたない。だが、段ボールの中で本を縦に詰められてその上に別の本が乗せられていたりするのだ。誰が見たって本が破損するってわかるだろうに。
野菜なんかとちがって、本はみんな同じ形をしている。判型の違いこそあれ、ふつうに考えて箱詰めすればそうそう破損することはない。
なのによほど時間がないのか、縦横斜めに本が詰められて運ばれてくるのだ(本を斜めに箱詰めするなんて頭おかしいとしか思えなくない?)。

お客さんから「今度発売の〇〇っていう本を予約したいんだけど」と言われ「あ、ちょうど1冊入荷します!」と答えたのに、その1冊が入荷時に破損していた、なんてこともあった。
楽しみに本を買いに来たお客さんに対して「すみません、すぐに取り寄せますので……」と頭を下げたものの、「だったら他の店で探すのでいいです」と言われて、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。ぼくがあのお客さんの立場だったら「もうこの店は利用しない」と思うだろう。

本なんて、立ち読みをされたってそうそう傷まない。
破損は、取次から書店に入ってくる段階での発生が圧倒的に多かった。



それから、他の業界の人からはびっくりされるのだけれど、
「新刊本が発売日に何冊入ってくるかは書店側では決められず、取次が一方的に決める」
「しかもそれがわかるのが2~3日前」
というルールもあった。
これは取次が悪いわけじゃなくて出版社がギリギリまで部数を決めないせいらしいんだけど。

たとえば村上春樹の新作小説が発売される、ということになる。
発売前に、お客さんから「予約したいんです」と言われる。
わざわざ予約してくれるなんて、本屋からするとすごくありがたいお客さんだ。こういうお客さんを大事にしたい。
でも。
断らざるをえない。「すみません、予約は受けられないんです……」。
なぜなら何冊入荷するかわからないから。
「発売日に入荷しない可能性もありますけど、それでもよろしければ……」
「だったらいいです」
あたりまえだ。確実に手に入らなくて、何のための予約だ。


新刊本だけじゃない。
取次はまったく在庫の管理ができていなかった。
取次にどの本が何冊あるか、誰も把握していないのだ。倉庫に見にいって「あー1冊だけあるねー」、みたいな感じなのだ(ぼくは取次倉庫に行ってじっさいにそういう現場を見た)。
出版社から何冊入荷して、各書店に何冊納品して、何冊返品されて、何冊廃棄処理されて、というデータはすべて存在するはずなのだから、あとはそれをデータベース化して、各書店員が確認できるようにすればいいだけなのに、それをしていなかった。
昭和時代の話じゃないよ、2010年頃の話だよ。小学生でもパソコン使ってる時代の話だよ。
今はシステム化されてるのかもしれないけどね(ぼくの勘では今もないと思う)。


そのデータベースがないから、本の注文は「とりあえず注文してみる」だった。
お客さんから「〇〇という本を取り寄せてほしいんだけど」と言われる。
出版社に電話をする(わあ、アナログ!)。
「〇〇という本を取り寄せたいんですけど」「承知しました。では取次経由で送ります」
そして出版社から取次経由で書店へ入荷。この間、約10日。Amazonなら? 即日配送、翌日到着。

それでもまだ、ある場合はいい。でも出版社に在庫がない場合もある。
でもひょっとしたら取次にはあるかもしれない → データベースがないからとりあえず注文する → 数日後「ありませんでした」という返事が来る → お客さんに謝罪の電話 → お怒りの言葉「何日も待たせて、結局ありませんってどういうことだよ。はじめからAmazonで買えばよかった!」
ごもっとも。書店員のぼくもそう思ってました。


こんなことは一書店員の愚痴レベルで、書店が滅びゆく原因の一部でしかない。
だけど、何かが終わるときはその要因はひとつじゃない。こうしたことの積み重ねが、書店をつぶすのだと思う。




本は消えない。文化も衰退しない。


取次の悪口ばかり書いたけど、もちろん書店もダメだった。何も変えようとせず、旧来のシステムに必死にしがみついていた。
ぼくが働いていた書店はぼくが辞めた1年後につぶれた。責任はぼくにもある。

「このやり方、今の時代にあわないから変えたほうがいいよね」
と、たぶんみんなが思っていた。
同時に「でもどうせ変えられないだろうけど」とも。

でも、Amazonは変えた。
在庫を管理してユーザーにもリアルタイムで確認できるようにし、適正な仕入れをおこない、送品方法も改善した(10年前はAmazonから送られてくる本は傷んだり曲がったりしていることが多かった。今はまずない)。

取次と書店が経営努力不足により、Amazonに負けた。ただそれだけ。
「町の本屋がなくなると文化が衰退する」なんて声もあるが、そんなことはない。レコード屋はなくなってMDもなくなったけど音楽文化は衰退していない。
新聞は衰退しているが、人々がニュースサイトやアプリでニュースを目にする機会は昔より増えた。

書店が消えゆくのは、必然だ。
でも、Amazonに負けない方法はあったと思う。

たとえば、すべての出版社と取次が共同でAmazonみたいなWEBサイトを作っていたら。
書店員がPOPを書く時間を、そのサイトの改善に費やしていたら。
そこで注文したら自宅近くの書店に翌日届くシステムを作っていたら。
返品リスクがないわけだから再販制度を捨ててもっと安く売っていたら。
個別配送しなくていい分、Amazonよりも安く売っていたら――。

本屋は衰退するどころか成長していたんじゃないだろうか。
もちろんこんな案は完全に後出しジャンケンだし、歴史が100回くりかえしたとしても起こりえないだろう。
だけど、取次や本屋がAmazonに勝つチャンスはゼロではなかった。だけど、そのチャンスをものにできなくて負けた。
それだけは言っておきたい。