2016年3月8日火曜日

【読書感想文】谷岡 一郎 『「社会調査」のウソ』

谷岡 一郎 『「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ』

内容(「BOOK」データベースより)
世の中に蔓延している「社会調査」の過半数はゴミである。始末の悪いことに、このゴミは参考にされたり引用されることで、新たなゴミを生み出している。では、なぜこのようなゴミが作られるのか。それは、この国では社会調査についてのきちんとした方法論が認識されていないからだ。いい加減なデータが大手を振ってまかり通る日本―デタラメ社会を脱却するために、我々は今こそゴミを見分ける目を養い、ゴミを作らないための方法論を学ぶ必要がある。

著者はめんどくさい人だなあ、というのが第一の感想。あたりかまわず正論をふりかざす正義感に燃えた中学生みたいな人だから、身近にいる人は迷惑してるだろうなあ。ま、それはそれとして本の内容はおもしろい(困った人だからこそ、かもしれない)。

これは2000年発刊の本だが、今でもメディアが報じる社会調査の質は変わっていない。
統計や分析の仕方をまったく知らない。あるいは、知っていてわざと誤った解釈をする。

この本で紹介されている、新聞や研究機関にはびこるさまざまな「社会調査のウソ」の例をいくつか……。

◆データをもとに、誤った解釈を導きだす。
(例:「ジャンクフードを食べる頻度が多い子は非行に走りやすい」というデータから、ファストフードやスナック菓子は「キレやすくなる食事」だと決めつける。実際はおそらく、育児に無関心な親がジャンクフードを子どもに食べさせているだけで、そういう子が非行に走りやすいのは当然のことだ)


◆データがそもそも誤っている。
(例:選挙の1年後に「誰に投票しましたか」と訊ねると、当選した人に入れたと答える人が7割。ところが1年前の実際の得票率は、有権者数の3割程度。人はすぐ忘れるし、かんたんに嘘をつく)


◆結論ありきで調査をする
(「中学生の4割がナイフやエアガンを所持していた」という新聞記事。調べてみると、平日に繁華街で調査をしている。部活にも塾にも行かずに平日に繁華街にいる中学生を対象に調査しているわけだから、「今の中学生は怖い」という結論を出すために調査をしている)


◆ある方向に誘導するための質問の工夫をしている
(「自衛隊は必要だと思いますか」という質問の前段階として「自衛隊の平和活動は海外でも評価されていますが……」といった説明を混ぜる)


単なる無知、調査不足、意図的な嘘、嘘とはいえないまでも作為的なデータのとりかた……。
原因はさまざまだが、メディアの中には嘘が満ち満ちている。



これをもってして、
「報道機関は腐っている」
「これだからマスゴミは」
と断じるのはたやすい。

でも、「純真なおれたちを騙すなんて!」と憤るのは、大人と子どもの境のお年頃の中学生ならいざ知らず、いい大人としてはあまりにもお人好しすぎる。

人間が意図をもって企画、集計、発表をしている以上、何のバイアスもかからない中立公正な調査などというものは存在しない。

NHKだって研究機関だって省庁だって、自分のところが非難されるような調査結果が出たら、そっとふたをするか、せいぜい無難な形にデータを切り貼りしてから発表するかぐらいだろう。
それがまともな人間のやることだ。


イエス・キリストは言いました。
「今までに過ちを犯したことのないものだけが、この盗人の女に石を投げなさい」と。

データそのものの改竄は論外としても、ある情報から都合のいい解釈を導きだすことは、やってあたりまえだと思っておいたほうがいい。
今の日本のマスコミが堕落しているとは思わない。どの時代の、どの国のメディアだってやっているに決まっている。

恥ずべきは、歪んだ調査結果を出す研究機関ではなく、稚拙なデータ集計に騙される己なんじゃないだろうか。
歪められたデータから、本来あった姿を想像することのできない自らなんじゃないだろうか。

「情報操作を糾弾するのではなく、自分だけが騙されないようにする」
それがいちばんの得策。
賢い人はとっくに知っているかもしれませんが。

2016年3月7日月曜日

【エッセイ】男子における「かっこいい」の信憑性に関する考察

 気をつけて
振り込め詐欺と
「かわいい子」

もはや、こんな標語を県警がつくってもおかしくないぐらい、女が別の女を形容するのに使う「かわいい子だよ」は信用ならないということは定説になっている。

同じく、男子のいう「かっこいい」もまったく信用ならない。
でかいバイクとか、格闘技とか、B'zとか、男子のいう「かっこいい」は、よく見ると「ん? かっこいいの? 短パンじゃん」としか思えないことが多い(単なるB'zの悪口じゃないか)。

かくいうぼくも、若い頃はかっこよさをはきちがえてずいぶん無茶をしたもんだぜ。



8歳のときだった。
当時のぼくは、ごくごくふつうの男子小学生で、つまり学校では体育と休み時間と給食のことしか考えていなかった。

給食では、毎日必ず瓶に入った牛乳が出た。
主食がパンの日はもちろん、ごはんのときでも牛乳が出た(それでよく学校は『食育の重要性』とか語れるな)。

牛乳瓶には紙のふたがついており、その上に、きっとほこりがつくのを防ぐためだろう、薄紫色のビニールがかけられている。

 

どういういきさつかは覚えていないが、あるとき、同じ班の友人とぼくは、その薄紫ビニールを食べることができるかどうかという話になった。
友人は、これは食べ物じゃないから食べられないと言った。
ぼくは、いいや食べることができる、だからこれは食べ物と見なしていい、と言った。

ぼくは聡明な少年だったので、
「任意の対象が食べられないという主張に対する反証を示すためには、実際に食べてみせるのがいちばんである」という科学的実証主義に基づいた行動を起こした。

つまり、ビニールを食べた。
口に入れ、そのままごくんと飲みこんだ。

その後、口を開けて友人に口内を見せ、たしかに飲みこんだことを明らかにした。
決定的な例証を挙げることで、見事、論争に勝利したのである。
やったぜ科学の子。

ぼくの班は騒然となった。
すげえ!
ほんとにビニール食べたぞ!

騒ぎを聞きつけて、他の班の子らもぞくぞくと集まってきた。
ほんとかよ。
おれ見てなかったよ。
もう一回食べてみてくれよ。

もちろんぼくは引き受けた。

再現性・検証可能性があってこそ、はじめて科学と呼べるのだ。

友人からビニールをもらい、口に入れた。
慣れてきてコツをつかんだので、さっきよりもかんたんだ。
ごくり。

おおぉー!
男子の間から歓声が上がる。

今にして思えば、「おおぉー! ゴリラがうんこ投げたぞー!」ぐらいの珍奇な行動に対する歓声だったのだろうが、当時のぼくにはそれが称賛の声に聞こえた。

羨望の眼差しを感じる!
羨望の眼差ししか感じない!

「もう一個!」
「二個いっぺんはどうだ!?」

次から次へと差しだされる紫のビニール。

颯爽と大階段を降りてくるタカラジェンヌのエレガントさで、ファンから手渡される紫のビニールを受けとり、ひとつまたひとつとのどの奥に押しこんでゆく、ぼく。

ぼくは今、最高にかっこいい……!

みんな見てくれ!
男子も女子も!
ぼくは! 今! 誰も食べないビニールを!
食 べ て い る !!



誰も成しえないことを成しとげて、その場の全員の注目を一身に集める。
そんな経験、ぼくの人生において二度と訪れることはないだろう。

翌日腹痛で学校を休んだことさえのぞけば、まちがいなくあれはぼくの人生の中で最も光輝いていた瞬間だったと今になって思う。
(しかし今考えると、のどに詰まったらと思うと相当危険なチャレンジだった。はらいたくらいで済んでよかった)

そして、男子の考えられる「かっこいい」はまったく信用おけないということも、今になって思う。

2016年3月6日日曜日

【エッセイ】きれいな神戸には毒がある

大阪=怖い街
神戸=上品でおしゃれな街

生まれも育ちも神奈川の友人が、こう語っていた。

とんでもない!

ぼくは大阪と神戸のちょうど真ん中ぐらいで生まれ育ったので、大阪も神戸もよく知っているが、神戸のほうがはるかに怖い。

たしかに、大阪にはちょっとばかり注意を要するところが少なくない。
ガラの悪い兄ちゃんばかりの街もあるし、薬剤師でも取り扱ってはいけないタイプの薬を服用している人が珍しくない地域もある。

でも、そういう人は見ればわかる。
その手の人は、わかりやすく刺青を見せていたり、街中で大声で演説をしていたりする。
だから百メートル先から見ても「ああこりゃやばいな」とわかる。

大阪の人は自己主張が強いので、わざわざ「わたしは危険ですよ。近寄らないほうがいいですよ」とアピールしてくれているのだ。
毒キノコが見るからに毒々しい色をしているのと同じで、これはとても親切な設計だ。

ちなみに、昼間から公園でビールやワンカップを飲んでいるおじさんも多いが、これはただの酒好きであって、無害な人がほとんどだ。
ぼくの経験上、ほんとに気をつけなければならないのは屋外でチューハイを飲んでいるおじさんだ。
これは、ほんとはお酒が好きなわけではないのに、何かから逃げようとして無理して飲んでいるおじさんだから、距離をとったほうがいい。


少し話はそれた。神戸の話をする。

神戸では、怖い人がわからない。

大阪の場合は危ない場所とそうでない場所がなんとなく分かれているのだが、神戸は混ざりあっている。
三宮駅周辺というのが神戸最大の繁華街だが、ここは中学生がショッピングに来るエリアでもあるし、暴力団員がうろうろしているエリアでもある。雰囲気の良いカフェや結婚式場も多いし、風俗店も多い。
すべてが同じ場所にある。

おまけに、神戸の人は上品でおしゃれなので、おしゃれな服で内面の危なさを隠してしまうのだ。
だから見ただけでは危険な人かどうかがわからない。見た目はかわいいのに強い毒を持っているモウドクフキヤガエルみたいなやつらなのだ。


だから、駅前を歩いているスーツのおじさんが、部下の結婚式に向かう会社のお偉いさんなのか、その付近に本部がある日本最大の暴力団のお偉いさんなのかがわからない。
ほんとに怖い。


こないだ三宮駅前を歩いていると、もめごとがあったらしく、警官が集まっていた。
見てみると、身長190センチくらいの外国人の大男と、きちんとスーツを来た小柄なおじさんが揉めているようだった。
喧嘩でもしたのだろうか、顔から流血していた。

それだけでもなかなかの事件なのだが、ぼくが驚いたのは顔から流血しているのが、小柄なおじさんのほうではなく、身長190センチの外国人のほうだったということだ。

何があったんだ。
あのおじさんは何者なんだ。

ほんと、神戸は油断ならない街ですよ。

2016年3月4日金曜日

【ふまじめな考察】ネジのささったモンスター

フランケンシュタインは、ほんとはモンスターの名前ではなくそれを生みだした人の名前で、モンスターのほうには固有の名前がない。
にもかかわらず、ぼくらが「フランケンシュタイン」と聞いてイメージするのは、あの顔色の悪いネジのささったモンスターのほうだ。

ああ、かわいそうなフランケンシュタイン。
モンスターを作りだしたがゆえに、後世の人からモンスター扱いされてしまうなんて。


発明者の名前が、そのまま発明品の名前になるケースはよくある。

レントゲンとかベルとかサンドウィッチとか。
自分の死後何百年も自分の名前を呼んでもらえるなんて、さぞかし発明家冥利に尽きるだろう。

でも、うらやましいことばかりじゃない。

たとえばギロチン。
ギロチンは、罪人が苦しまずに死ねる処刑方法を考えだした医師の名前に由来しているらしい。
でも、せっかく苦しまない方法を考えたのに、残酷なものの代名詞として後世に名を残してしまっている。

ああ、かわいそうなギロチン。

いやいや、ギロチンなんてまだいいほうかもしれない。
レオタードやブルマーやコンドームも、人名に由来しているらしい。

自分の発明品のせいで、親族一同が避妊具の名称で呼ばれることになったりしたら、子孫たちに顔向けができない。

ああ、かわいそうなコンドーム。


というわけで、ぼくが先日発明した「女性の服だけ透けて見えるメガネ」は、子孫がその名前で呼ばれていらぬ恥をかくことがないよう、世間に発表しないことにしました!
そして、自分ひとりでこっそりと楽しむことにしました!

2016年3月3日木曜日

【読者感想】大阪大学出版会 『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』


『ドーナツを穴だけ残して食べる方法』(大阪大学出版会)を読む。
大阪大学ショセキカプロジェクトという試みで、阪大の学生が企画を考え、教授たちが執筆するという形で作った本らしい。


誰もが常々頭を悩ませている(?)「ドーナツを穴だけ残して食べるにはどうしたらいいか」という問題に対し、工学・美学・数学・精神医学・歴史学・人類学・化学・法学・経済学らの教授、准教授らが、それぞれの専門分野から解き明かそうとした一冊だ。

こういう学際的な試みは好きなのでわくわくしながら読んだのだが、残念ながら肝心の中身はイマイチおもしろくなかった


工学教授の「口とナイフと旋盤とレーザーを使ってドーナツをどこまで削ることができるか」という章。

数学教授による「4次元以上の空間を想定して、ドーナツの穴を認識させたままドーナツを食べる方法」の章。

法学教授の「ドーナツという語の定義をめぐって争われた裁判例によれば単にくぼみのある形状であればドーナツと呼べるので、穴のあいてないドーナツを作ってその中央部分を食べる」の章。
それぞれたいへんおもしろかった。

だが。
ほとんどの執筆陣は早々に逃げを打っており、ドーナツの穴を食べる方法を論じていない。

「ドーナツ化現象から生じる事態」とか、
「ドーナツ型オリゴ糖『シクロデキストリン』のはたらき」とか、
むりやりドーナツとからめて自分の専門分野に逃げ込んでいるだけだ。

基本的に論文というものは自分の書きたいものを書くので、論文ばかり書いている大学教授はすぐに逃げに走ってしまうのかもしれない。


「テーマからはずれているので軌道修正してください」と、こうしたごまかしを許さない編集者がいればずっとおもしろくなったはずなのに(偉大なるブレイクスルーというものは制約の中から生まれる)、学生が教授に執筆依頼するという形態のせいで、厳しいチェック体制は期待できない。

教授と学生による書籍化プロジェクトという試みはおもしろかっただけに、半端な小論文としてまとまってしまったのが残念。

編集機能に穴を残したまま出版してしまったんだな。
ドーナツだけに……。