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2017年7月26日水曜日

雨のち晴レルヤ


ゆずの楽曲『雨のち晴レルヤ』。
娘は赤ちゃんのとき、朝ドラの主題歌だったこの曲が大好きだった。
どれだけ泣いていてもこの曲が流れるとぴたっと泣き止んだ(曲が止まるとまた泣く)。
朝ドラのオープニングが流れると、動きを止めて食い入るように見ていた。熱心すぎて怖いぐらいだった。
ゆずのCDを買ってきて、娘がぐずるたびにこの曲だけを何度も何度もリピート再生していた。

そんな娘も4歳に。
テレビからたまたま『雨のち晴レルヤ』が流れてきたけど、見向きもしない。
「この曲知ってる?」と訊いてみたが、「知らない」とつれない返事。
毎日10回以上も聴いていたのに。

もう音楽で泣き止む歳じゃなくなったんだね。
寂しいけど成長したってことなんでしょう。
ありがとう、ゆず。
娘はゆずの歌声を忘れちゃったみたいだけど、お父ちゃんはこの曲を聴くと赤ちゃんだった娘をだっこしたときの軽さを思いだすよ。


2017年7月24日月曜日

知恵遅れと言葉の変遷


 知恵遅れ、という言葉を最近聞かない。
 ぼくが小学校のときは、子どもも大人もふつうに使っていた。
 あの子は知恵遅れだからしょうがないね、というように。

 今だったら発達障害とかADHDとか自閉症とかダウン症とかいろいろ難しい名前が付けられるんだろうけど、当時は「知恵遅れ」とひとくくりにされていた。

 今、「知恵遅れ」は差別的だとして放送禁止用語になっているという。
「知的障害者」というのが正しいらしい。


 言われた側がどう受け取るかわからないけど、ぼくにとっては「知恵遅れ」のほうが寛容な言い方だという印象を受ける。
「知的障害者」というと、何かが決定的に欠けている人で、彼我の差は何があっても埋められないイメージ。
「知恵遅れ」のほうは、ただ遅れているだけ、そのうちそれなりの域に達するさ、いろんな人がいるからね、という懐の広さを感じる。

 まだ自転車に乗れない子。まだ逆上がりができない子。まだ背が低い子。まだ上手にしゃべれない子。まだ九九を覚えていない子。
「知恵遅れ」もそれと同列のような感じだ。まだ十分な知恵がついていない子。



 でもこれは「知恵遅れ」という言葉が公的に使われなくなったことで、イメージが変わっただけなのかもしれない。

 昔は「便所」というのは丁寧な言い回しだった、と聞いたことがある。
「厠」を丁寧に言い換えたのが「便所」だったのだとか。
 でもその言い方が普及するうちに、「便所」に汚いイメージがついた。便所はきれいな場所ではないから当然だが。今では「便所」と言われると汚いトイレ、というイメージだ。
 そこで「トイレ」が使われるようになった。「便所」より上品な言い方として。だが「トイレ」のイメージもだんだん汚れてきて、さらに上品に言いたい人は「お手洗い」と呼ぶようになった。
 きっと近い将来「お手洗い」も汚い言葉になってしまい、また新しい言葉が代わりに用いられることだろう。

 一方、ほとんど使われなくなったことで「厠」には汚いイメージがなくなった。ときどきトイレの入り口に「厠」と書かれた居酒屋がある。耳になじみの薄い言葉になったことで、逆に粋な言葉に昇格したのだろう。

「知恵遅れ」も同様に、使われなくなったことでマイルドなイメージになっただけなのかもしれない。トイレで例えて申し訳ないけど。

これは「便所」ではない



「ボケ」が「認知症」になり、「デブ」が「メタボリック」になり、「オバサン」が「熟女」になった。
 いずれも差別的なイメージを和らげるために考案された言葉なんだろうけど、人口に膾炙したことで、いずれの言葉も差別的なイメージを持ちつつある。

 こないだ病院に行ったら「AGAの方はご相談ください」というポスターが貼ってあって、AGAって何だろうと思って見てみたら「男性型脱毛症」(AGA:Androgenetic Alopecia)だと書いてあった。「ハゲ」が「AGA」になったのだ。
 きっと10年後の小学生は、ひたいの広い友人を「やーい、AGA!」と言ってからかっていることだろう。


 マイナスイメージのある言葉を次々に言い換えることに意味があるのだろうか、と思う。
 そんなことをしても、くさいものにふた、いやこれは差別的表現なので訂正しよう。臭的障害物質にふたをしてるだけじゃないだろうか。


2017年7月23日日曜日

喫茶店のモーニングを食べるために早起きした


そういや喫茶店のモーニングセットって食べたことないな。

そもそも朝食を外で食べることがほとんどないもんな。早起きなほうだから家で食べる時間あるし。
ぼくにとって喫茶店って時間をつぶしたり誰かと座って話したりするために行く場所であって、決してコーヒーを飲みにいく場所ではない。朝早くから時間をつぶすことも人とこみいった話をすることもないから、朝に喫茶店に行く理由がない。

しかし喫茶店のモーニングセットというのはすごくお得らしい。特に名古屋の喫茶店のモーニングは信じられないぐらいのボリュームがあってびっくりするぐらい安い、と聞いたことがある。

お得。
人類史上、この言葉に抗えた人物はひとりとしていない。誰しもお得には弱い。お得最強説だ。

もちろんぼくもできることならお得を享受したいと考えている。
お得にまみれて生きて、お得の内に死んで、葬儀で遺族から「いろいろあったけどまあお得な人生でしたよね」と言われたい。


しかしモーニングを食べるために機会はなかなか訪れなかった。
ふだんは妻が朝食を作ってくれる。「明日飲み会だから晩ごはんいらない」とは言えても、「明日モーニングだから朝ごはんいらない」と言うのは気が引ける。

まあそのうちモーニングチャンスもくるだろうと思っていたのだが、気づけばぼくも三十代なかば。若いころのように気ままに生きるわけにもいかず、自分の人生を自分で選択しなければならない。
ぼくは人生の選択を迫られていた。このままモーニングとは無縁の人生を送るか、それともモーニングに手を出すのか。

歳をとると、新しいことにチャレンジするのは難しくなってくる。モーニングに失敗したときに向けられる世間の目も、中年になるほど厳しくなるにちがいない。

ちょうど、妻が子どもを連れて実家に泊まりに行くことになった。
家にはぼくひとり。ふだんなら惰眠をむさぼるところだが、今がラストモーニングチャンスかもしれない。
ぼくは決意した。
モーニングを食べよう。決戦は日曜日だ。



数日前から妻に「日曜日、モーニングに行くから」と宣言した。
決意を公言することで自らの退路を絶つ作戦だ。
さらに「パンも納豆も日曜日までに切れるようにしといて」と伝えた。もう後戻りはできない。背水の陣でモーニングにのぞんだ。

モーニングのデビュー戦の舞台は決めてあった。
自宅から歩いて5分のところにあるコメダ珈琲店。
今では全国に600店舗以上を抱える大手チェーンだが、もともとはモーニングの本場・名古屋市発祥だという。
すばらしい。デビュー戦の舞台にとって不足なし。というよりいきなり武道館でデビューコンサートをやるようなものかもしれない。多少気後れしたが、退路を絶っている以上、今さら逃げるわけにはいかない。

事前に店の前をうろうろして、営業時間を調べておいた。全曜日午前7時開店。
日曜日でも7時からやってることに驚いた。そんな早くから喫茶店に来る人がいるのか?

だがぼくにとっては好都合。コメダのモーニングは午前11時まで提供しているらしいが、10時を過ぎると朝食というより「ブランチ」だ。やはりモーニングを食べるのはモーニングにかぎる。



土曜日の夜、ぼくは24時に床についた。ふだんはもっと夜ふかしすることもあるが、万全の体調でモーニングを楽しめるよう、早めに寝た。

6時半にセットしていたアラームが鳴る。
開店と同時に店に入ることも考えたが、あまり気負っているように思われるのも気恥ずかしい。
あえて家でゆっくりして時間をつぶした。時間をつぶすために喫茶店に行くことはあるが、喫茶店に行くために時間をつぶしたのははじめてのことだ。

8時にコメダ珈琲店に到着。
日曜日の8時といえば、まだ寝ている人も多いだろう。こんな時間に喫茶店に来るなんて相当奇特な人だけだろうと思ったが、あにはからんや、店内は9割の入りだった。
あと少し遅かったら店の前で待たなくてはいけなかったかもしれない。少々モーニング人気をあなどっていたようだ。

席について、モーニングメニューを熟読。
コメダ珈琲店のモーニングはA~Cの3種類。トーストにつけるものをゆで卵、たまごペースト、小倉あんの中から選べるというものだ。
なるほど、小倉あんがあるのがいかにも名古屋らしい。せっかくなので小倉あんのCセットにしよう。

コメダ珈琲店ホームページより

「たっぷりカフェオーレ」とCセットを注文。さらに「北海道生乳100%ヨーグルト(はちみつ添え)」も追加した。

待っている間にモーニングの値段をチェックしようとして、首をかしげた。値段が書いていない。
隅々まで見てみると、端のほうに小さな文字でこう書いてあった。

お好きなドリンクをご注文で、さくふわトーストとA~Cのいずれか1つ無料

無料!

まさか無料とは。モーニングがお得と聞いてはいたが、プラス100円でトーストがつきます、ぐらいのものだと思っていた。
しかも「無料」を小さな文字で書いている。ぼくがメニューを作る人なら、「無料!」といちばんでかいフォント&赤文字で書いてしまうだろう。それをせずに小さく書く、このつつましさがいい。

なるほど無料でトーストが食べられるのか。そりゃあみんな日曜の朝早くから足を運ぶわけだ。いやもちろんドリンクを注文しないといけないから無料ではないんだけど。

周囲のテーブルを見まわしてみると、客層はばらばらだった。
一人で本を読んでいるお姉さん、勉強している学生、老夫婦、子ども連れの家族、デート中のカップル。
老若男女がそれぞれモーニングを楽しんでいる。

昼間の喫茶店の客に比べて、みんな表情が弛緩しているように見える。まだ少し眠くて、でも疲れてはいなくて、リラックスしている。白熱した話をしたり、大笑いをしたりしている人もいない。ゆっくりとコーヒーを味わいながら、小さな声でぼそぼそと言葉を交わしている。隣の老夫婦はお墓参りの予定について話し、向かいの家族連れは昨日テレビで観た人工知能の話をしている。
とても穏やかな空間だ。

ぼくは携帯を取り出して、このブログ記事を書いている。家で書くときよりも筆が進む。刺激の少ない空気と、見知らぬ人がそばにいることから生まれるほどよい緊張感。

ふうむ。
この穏やかさを1時間以上満喫できて、カフェオレとトーストと小倉あんとヨーグルトで660円。これはお得だな。

モーニングは三文の徳。


2017年7月13日木曜日

お行儀が悪い

保育園ですれちがった男の子に「おはよう」と声をかけると、彼は何も言わずにぷいっとそっぽを向いた。
まあよくあることだ。うちの娘もあいさつされても無視することが多いし。
ぼくは気にしなかったが、男の子の母親は気をつかってくれて、「こらっ。なんであいさつしないの。お行儀悪いよ!」と叱った。

はて。
あいさつを返さないのは、"お行儀が悪い" なんだろうか。
ぼくは首をひねった。

お行儀が悪いってのは、座る姿勢が悪いとか、ごはんの食べ方が汚いとか、もっと私的なことなんじゃなかろうか。
あいさつを返す返さないは、お行儀というよりマナーとかモラルとか世渡りとかそういう方面に属する話なのでは……?

"お行儀が悪い" は言葉のチョイスがふさわしくないような……。


……と思っていたのだが、いや、そうではないかもしれないと思いなおした。

幼児教育においては "お行儀が悪い" はきわめて効果的なフレーズではないだろうか。





ぼくは理屈っぽい人間なので、子どもに何かを指示するときにも「原因と結果」の話をよくする。

「道路に出るときは右と左をよく見てから行かないと車にひかれちゃうかもしれないよ」

「あとでトイレに行きたくなったら困るから今行っとこうか」

「早く寝ないと明日の朝しんどいからもう寝よっか」

と。

マナーを教えるときもそうだ。

「電車の中で大きな声を出したら他の人がうるさく感じるから静かにしようね」

「ごはんを食べてるときにトイレの話をしたら他の人が嫌な思いをするからやめよう」

とか。

しかし。
ぼくの説明、ビジネスの場ならこれでよくても、幼児にしたらすごくわかりにくいんじゃないだろうか?



「電車の中で大きな声を出したらうるさく感じる」とか「食事中に排泄物の話をしてほしくない」というのは、"他者の視点に立った話" だ。

これは社会経験を重ね、数多くの人の趣味嗜好性格思想行動パターンを把握した者にしかイメージできない。

野球をよく知らない人が「一死三塁で浅めのセンターフライが飛んだらランナーはタッチアップをするからバックホームがされるよね。だからピッチャーはキャッチャーのカバーに行かなくちゃいけないよね」って言われてもちんぷんかんぷんだろう。実践や観戦の経験を積まないと、フライが上がった後に三塁ランナーやセンターがどういう行動をとるかが想像できないからだ。

同様に、幼児には「電車の中で大きな声で話している人をうるさく感じた」経験もないし、「電車の中で大きな声で話されることを嫌う人もいる」ことも知らない。
だからぼくの説明が理解できない。


その点、「お行儀が悪いからだめ!」は明快だ。

だって "お行儀" に理由はいらないのだから。
(他人に迷惑をかけないことが "お行儀" の最大の目的だと思うが、それだけでは説明できない "お行儀" もある。「ご飯にお箸をぶっさす」とか「猫背で座る」とかは他人に迷惑をかけないけどお行儀が悪い)


社会には、法律や条例だけでなく、判例、慣例、マナー、阿吽の呼吸など守らなくてはならないルールがたくさんある。
そのひとつひとつに「なぜ守らなくてはならないのか」を理解してくれるのが理想ではあるけれど、幼児にそこまで期待するのは無茶というものだ。
「あいさつをされたら返さなくてはならないよ。無視したら敵意を持っていると思われて向こうも敵視してくる場合があるからね。そうでなくても感じの悪い人だと思われたらこちらに好意的なおこないをしてくれる機会をつぶすことになりかねないだろ?」というより、「おはようと言われたらおはようと言いなさい。それがお行儀だから」といったほうがずっとわかりやすいにちがいない。

そういう意味で、九九を丸暗記するように「これはお行儀だから」という言葉で叩きこむやりかたは、幼児教育においては要領のいいやりかただな、と思った。
いや、大人でもそっちのほうがいいのかもしれない。
ルールはルールだ、理由もへちまもないから守れいっ、と強引に押しつけてしまう。

戦場においては「爆発が起きたら衝撃や飛散物が爆心地を中心に同心円状に広がるからできるだけ地面に伏せて身を隠したほうが衝撃が少なくて済む」と教えるより、「爆発したらすぐ伏せろ!」とシンプルに伝えたほうがいい。理由なんか考えなくていい。
それと同じだ。
法律で規定しにくいことはすべてお行儀にしてしまう。

「70歳以上が車を運転するのはお行儀が悪い」

「社員に長時間労働をさせる会社はお行儀が悪い」

「飲み会に参加するように圧力をかけるのはお行儀が悪い」

反論は一切受け付けない。だってお行儀ってそういうものだもの。

2017年7月12日水曜日

寝食を忘れて遊べるおもちゃ


娘の4歳の誕生日に、自転車を買った。

それまでもストライダーというペダルのない自転車に乗っていたのだが、さんざん乗り回してタイヤがつるつるになってしまったので、今度はペダルのあるコマつき自転車を買うことにした。

2週間前に自転車屋に行き、娘に自転車を選ばせ、予約だけして「誕生日になったら買いにこようね」と伝えた。
それからずっと「いつ誕生日?」と訊いてきた。まだ正しい時間の概念を持っていないのだ。


そして誕生日。
新しい自転車を手に入れた娘は、狂喜乱舞していた。
ベルをちりんちりんと慣らし、カゴがあることがうれしくて意味なく葉っぱを入れ、乗ったらいつまでも走り回り、降りたら降りたでずっとペダルを回して遊んでいた。

日曜日。いつもは起こしても起きないくせに6時半に起きだして「おとうちゃん、自転車乗りにいこう!」と誘ってくる。
「朝ごはん食べたら行こっか」と言うと、「朝ごはんの前に自転車に乗る!」と言って聞かない。
じゃあちょっとだけね、ということで妻に「朝ごはんできたら電話して」と言うと、「おかあちゃん、朝ごはんつくるの遅くていいからね!」と言い残して娘は自転車にまたがった。


前日も一日中自転車に乗っていたのに、まだ飽きもせずに早朝から自転車で同じところをぐるぐる回っている(あぶないのでまだ公園の中しか走らせていない)。

その姿を見ながら、子どもってすごいなあとぼくは感心していた。

文字通り「寝食を忘れる」という状態だ。
寝る間も惜しんで、空腹も気にせず、ずっと自転車を乗り回している。
こんなふうに何かに熱中することは、ぼくの人生においてまちがいなくこの先ない。
5億円拾って自分の好きなものを買いあさったとしても、半日もすれば飽きてくるだろう。

睡眠時間を削って一日中遊べるものがあるなんて幸せなことだなあ。うらやましいかぎりだ。ぼくみたいなおっさんにはそんなおもちゃはもう手に入らないよ、と大きなあくびをしたのだけれど、ふと思いいたった。

これか。

日曜の朝にたたき起こされて、眠いし腹もへったといいながら子どもが遊ぶのにつきあっている時間。

これこそが、寝る間も惜しんで、空腹も気にせず、何かに打ちこんでいる時間か……。
意外と眠くてつらいものだ。



2017年7月11日火曜日

31歳が大学のサークルに入ってもよいものか



大学のとき、ジョギングサークルに入っていた。

フルマラソンの大会に出て3時間を切るぐらいで走る人もいれば、1年に数回走るだけの人もいたり、中には1年生のときは何度か走っていたけどもう5年以上も走ってません(つまり留年している)という人もいた。
大学の構内に部室があり、こたつがあったり漫画が置いてあったりするので、授業の空き時間に昼寝をしたり、夜遅くまで部室内で酒を酌みかわしたり(今はどうだか知らないけど当時は大学内は24時間出入り自由だった)、走る人も走らない人も仲良く楽しくやっていた。
ずっと入り浸っている人もいるし、いつの間にか来なくなる人もいる。来るものは拒まず、去るものは追わず、という雰囲気のサークルだった。


あるとき、31歳の男性が部室にやってきた。
「すみません、入口に新入会員募集って書いてあるんで来たんですけど……」
「はぁ……」
「ここって年齢制限とかあるんですか」
「いえ、そういうのはないと思います……」
「じゃあ入会させてください」
というようなやりとりがあって、彼はそのまま部室に居ついてしまった。
彼は、社会に出てから大学に入りなおしたのか、聴講生だったのかは忘れたが、とにかく31歳の学生だった。

はじめの数日は彼も走っていたようだったけど、やがて走らなくなり、部室で昼寝をしたり、酒盛りに参加したりするだけの存在になった。

ほどなくして、サークルのメンバーは彼を避けるようになった。

もともと10歳くらい離れているから共通の話題は少ないし、おまけに彼は自分の話を延々と語り、他人の話を否定してばかりいるタイプの人だった。
邪険にするのも悪いから話しかけられたら相手をするけど、すぐに嫌になる。

みんなが集まって楽しく話している → 彼がその場に入ってきて話に参加する → 1人去り2人去り、最後に残された優しい人(あるいは要領の悪い人)だけが話に付き合わされる

ということが日常的な風景だった。
彼が女子学生とばかり話していることも嫌われた原因だったと思う。
そこで自分が嫌われていることに気づける人だったら、はじめから31歳になって大学生のサークルに入ろうとは思わなかっただろう。

大学生のサークルに入ってきた31歳は明らかに異質だったが、彼自信はそういうところにまったく無頓着だった。自分はサークルに溶けこんでいると思っていたようで、それは飲み会の会費を徴収するときに「2年生以上はひとり3,000円ね」と言われたらぴたり3,000円を出すことからもうかがいしれた(さすがに1年生扱いしてもらえるとは思っていなかったらしい)。


サークルの雰囲気は悪くなり、彼がいるときはあからさまに部室の人口が減った。
「こんなことならはじめに『年齢制限あるんです』って言っとけばよかったな」とぼくらはため息をついた。

ある日、先輩会員(2浪していた上に大学院生だったので26歳ぐらいだった)が事情を聞き、彼との間に話し合いの場をもったらしい。
どんなやり取りがあったかは知らないけど、「他の会員が困っているから配慮してもらえないか」というようなことをわりと率直に伝えたのだと思う(遠回しに伝えて汲みとってくれる人ではなかったのでたぶんストレートに言ったのだろう)。
その日から彼は姿を見せなくなり、サークル内は元の平和を取り戻し、ぼくらは勇敢な先輩に感謝をした。



さて、彼の行為の何がまずかったのだろうか。

・ジョギングサークルなのに走らずに部室でくだを巻くだけだったこと。
これは彼にかぎった話ではない。ぼくもそういう会員だった。

・自分の話を延々と語り、他人の話を否定してばかりいるタイプだったこと。
これは決して良いことではないが、そういうタイプの人は彼の他にもいた。世の中にはそんな人は掃いて捨てるほどいる。嫌われる原因にはなるが、コミュニティを出ていってくれと言われるほどのことではない。

・31歳だったこと
これ自体がまずいわけではない。現にさっき登場した先輩は26歳だった。30歳をすぎてもときどき顔を出すOBもいた。その中にはあまり好かれていない先輩もいたが、後輩が「もう来ないでほしい」なんて言うことは当然ながらありえなかった。

つきつめて考えると、身もふたもない答えになるけど、「31歳になって大学のサークルに新規入会したこと」つまりは「空気を読めなかったこと」ということになる。
(「自分の話ばかりする」というのも空気が読めないことに起因していたのだろう)




彼は、何一つ規則をやぶってはいなかった。
「年齢制限はありません」と言われたから入会したわけだし、自分の話ばかりしてはいけないという規則もないし、「ひとり3,000円」と言われたから19歳と同じ3,000円を支払った。
どれも明文化されたルールに違反しているわけではない。

「暗黙の了解」を守らなかっただけ、いや理解していなかっただけだ。



空気が読めないメンバーをコミュニティから追放することは正しいことだったのだろうか。

倫理的に考えるなら、正しくないと思う。小学校だったら「〇〇くんと仲良くしてあげましょう」と先生から怒られるやつだ。
でも、小学1年生の輪の中に6年生が「ぼくも入れてー」と入ってきたらどうだろう。先生は「仲良くしましょう」と言うだろうか。


31歳になって大学生のサークルにずかずかと入り込んできた彼がいなくなったとき、ぼくは心底ほっとした。他の会員も同じ気持ちだっただろう。
彼が自分の話ばかりするタイプではなく、人並みにコミュニケーションをとれる人だったとしても、20歳そこらだったぼくらはやはり「31歳が入ってきた」ということでいくらかの居心地の悪さを感じただろう。

「空気を読め」と他人に強要することは、閉鎖的で傲慢な態度なのかもしれない。
しかし、やはり空気を読めない人とは一緒にやっていきたくないとも思う。


前いた会社で、「女性が多く活躍している職場です」というパートの求人を出したときに、応募の電話をかけてきた40代の男性がいた。
「今のところ女性のみが働いておりますのでやりづらいのではないかと思いますが……」と伝えると「私はそういうのを気にしませんので」と自信満々に言われた。
おまえが気にしなくても周りが気にするんだよ、と伝えるわけにもいかず「では次の選考に進んでいただく場合にのみこちらからまた連絡いたします」と言って電話を切った。
きっと彼はなぜ不採用になったのか気づくことなく、同じような求人に応募しているのだろう。

言外の意味を読み取れない人はたいへんだろうな、と思う。
しなくてもいい苦労をしつづけるんだろう。



しかし言外の意味を読み取ってばかりいても人との距離は近づかない。

ぼくが最後に「友達をつくった」のはもう何年前だろう。
仕事で会う人で、妙に馬があって「この人と遊んだらおもしろいかもしれないな」と思う人もいるけど、わざわざ誘うことはしない。
「うっとうしがられるかも」「余計な気を遣わせてしまうかも」と思うと足踏みしてしまい、まあそこまでして誘うほどでもないか、とあきらめてしまう。

この歳になって親しい友人をつくろうと思ったら、ときには空気を読まない大胆さも必要なのかもしれない。


そんな折、娘の保育園に行ったときに他の子の父親から「休みの日ってどこに連れていってます?」と訊かれたので、これはチャンスと思い「こないだプール行ったんですけど子どもは喜んでましたよ。今度子ども連れて一緒に行きませんか?」と誘ってみた。

言われたお父さんは「あーいいですねえ」とニコニコしながら言って、あれ? この後どうしたらいいんだ? 具体的な日程を決めたらいいのか? それとも今日は連絡先の交換だけにしておいて後日LINEとかでやりとりしたほうがいいのか? いやでも「いいですねえ」と言っただけで「行きます」って言ったわけじゃないしこれは断りかたがわからなくて困ってるパターンか? とかいろいろ考えているうちになんとなく次の会話がなくなってしまって、うやむやになってしまった。

大学生のサークルに入ってきたあの31歳男性だったら自然に「じゃあいつにします?」って言えたんだろうなあと思って少しうらやましくもあり、いややっぱりそうでもないな。


2017年7月7日金曜日

おっさん修行

保育園でときどき顔をあわす男の子(5歳くらい)に、
「おはようございます、おっさん!」
と云われた。

思わず「おっさんちゃうわ!」と言い返そうとしてしまったが、まてよぼくももう30代半ばだ。白髪も増えたし、水虫で通院中だし、どこからどう見てもおっさんだ。
ましてや5歳児から見たら、自分の7倍近くも生きている男など純度100%のおっさんでしかないだろう。
そんなおっさんが「おっさんちゃうわ!」と云うことは嘘偽りでしかなく、子どもの教育によろしくない。


なんと返したらいいんだろう。
ぱっと浮かんだのが「そやで、おっさんやで」という言葉だった。
悪くはないのだが、男の子はなんらかの反発があるものと期待して「おっさん!」という軽めの悪意を含んだ言葉を投げつけているのだから、それをあっさりいなしてしまうのは期待を無視するようで心苦しい。
それに、「おっさんですけど何か?」と居直っている感じがして、喧嘩腰であるかのように受け取られるのも本意ではない。

かといって「おっさんって言わんといてや!」というのも、本気で抵抗しているようで大人げない。

そうだ、軽口には軽口で返して「おはよう、おじいちゃん!」と言い返すのはどうだろう。
これなら、こちらが重く受け止めていないことも伝わるし、相手のユーモアをしっかりと受け止めて大人の余裕も見せた上で、冗談で返すことのできるおもしろいおっさんだと思ってもらえるんじゃないだろうか……。


ということを思案していたのが時間にして数秒。

「おっさん!」という言葉を投げつけられて数秒間硬直しているぼくを見て、深くショックを受けたと思われてしまったのだろう、男の子の隣にいたお母さんから「すみません、すみません」と平身低頭で謝られてしまった。
「あっ、いや……」と口ごもるぼくを後にして、男の子はお母さんに「そんなこと言わんの!」と怒られながら連れていかれてしまった。

後に残ったのは、「おっさんであることを受け入れられずに何も言い返せなかったおっさん」ただひとり。

まだまだおっさんとしての修行が足りん。

うまく返せなかったことを悔やむおっさん


2017年7月2日日曜日

男の子の成長を見ること


3歳の娘が通う保育園の参観日。

参観日は楽しい。
自分の子どもを見るよりも、他の子の成長が見ていて楽しい。

朝は娘を保育園まで送り届けているので、同じ時間帯に登園してくる子たちとは頻繁に顔を合わせている。
また、休みの日によく公園で会う子もいる。
でも一部の子はまったく会わない。
運動会とか発表会でしか見ないので、久々に見ると「おお。あの子がこんなに大きくなったのか」と感慨深いものがある。
我が子は毎日見ているので、特に成長を実感することもないのだけれど、よその子を見て「子供の成長って早いなあ」としみじみ思いを馳せることになる。


だから参観日では自分の子より他の子ばかりに目がいってしまう。
で、3~4歳クラスの子を見ていて思ったんだけど、ほんと男の子って手がかかるなあ。

いろんな子がいて、先生の話を聞かない子、急にふらっと教室を出ていこうとする子、参観に来ているお母さんにしがみついて離れない子、呼ばれてもわざと無視する子、さっきまで元気に遊んでいたのに突然スイッチが切れたように周囲の呼びかけに答えなくなる子。それがことごとく男の子なのだ。
女の子にも多少の差はあるけれど、極端に枠からはみだした子というのはいなかった。
たぶんそのクラスの話だけではないと思う。

でも先生の話を聞いていると、そんな男の子たちも、ふだんはそれなりに先生の言うことを聞いて生活しているらしい。
参観日の日はいつもより手のかかる子になっていたようだ。

ここからはぼくの推察なんだけど。
どの子も参観日だから緊張していた。
でもそこからの対応に性差があって、女の子は保護者が見にきているからふだんよりいい子にふるまう、男の子は親の前でいい子にするのがなんとなく恥ずかしくていつもより問題を起こす、ってな感じなんじゃないだろうか。
晴れの舞台ではええかっこするのが女の子、いらんことするのが男の子。


うちの子は女の子で、もちろん駄々をこねたりわがままを言ったりたいへんなときもあるけど、同じクラスの男の子を見ていると「あそこはもっとたいへんだろうなあ」と思う。

一姫二太郎とはよくいったもので、特に一人目の子どもに関しては男の子のほうが女の子よりもはるかに育てるのがたいへんだと思う。



ところで他の子どもを久々に見ると成長を感じられるように、他の子のお父さんお母さんを見るのも、成長を感じられて楽しい。
たとえばある男の子のお母さん。
男の子は活発な子で、制止も聞かずに走り回ったり、他の子に意味もなく「あほー」と言ったりする、まあいわゆる悪ガキだ。
その子のお母さんはまた繊細そうな人で、子どもがいたずらをするたびに逐一「そんなこと言わないの!」とたしなめ、周囲には「すみませんすみません」と謝ってばかりいた。
ぼくは「しょせん幼児のいたずらなんだからそんなに卑屈にならなくていいのに」と思っていた。
話を聞くと、そのお母さんは男兄弟がいないので「男の子の生態」を間近で見たことがなかったらしい。
「うちの子、いつもこうなんですよ。ずっと注意してるんですけどね。ほんとなんでうちの子だけこんなに私や先生の言うこと聞かないんでしょうねえ……」
と深刻そうな顔をしているお母さんに、ぼくは気休めではなく本心から
「まあ男の子ってそんなもんでしょ。ぼくも人の話なんかまったく聞いてませんでしたし。今もそうですけど」
と答えた。


そんなお母さんが、久々に会ったらずいぶんタフになっていた。
男の子が悪さをしても、低い声で「あかん!」と一喝したり、無視して目をそらしたりしていて、ちょっとぐらいのいたずらでは動じないお母さんになっていた。
たいへん喜ばしいことだ。

元男の子のぼくは、自分がそれほど道を踏み外さずに大人になれたのは単に運が良かったからに尽きると思っている。一歩まちがえば死ぬかもしれないこと、ばれたら警察にお世話になるであろうことをいくつもやっていた。たぶんほとんどの男の子がそうであるように。
男の子が死ぬかどうか、警察のお世話になるかどうかは運の問題でしかない。
だから、男の子の母親なんて図太くないとやっていけない。

こういう所にはのぼらずにはいられないのが男の子の習性


近所に、7歳の長男を筆頭に、男の子3人を育てているお母さんがいる。
もう「ザ・肝っ玉かあさん」という感じの人だ。
息子がこけても泣いても血を流しても「はっはっは。ケガしてもうたなあ。よう洗っときやー」と大らかに笑っている。
一方、息子が他の女の子を泣かせたときには鬼の形相で叱りとばしている。
理想的な「男の子の母親」だと思う。
このお母さんの元でなら、きっと3人の息子たちもすくすく育つことだろう。運が良ければ



2017年6月23日金曜日

言わなくていいことを


書店の社員として働いていたときのこと。

あるとき、大学生のアルバイトを事務所へ呼びだした。
ふだんはバイトに対して強く叱ることのなかったぼくだが、このときだけはつとめて厳しい顔で接した。

「なあ、おまえなんで呼ばれたかわかるか?」
ぼくはわざとぞんざいな口調で言った。

バイトくんは一瞬目を泳がせながら考えていたが、自信なさそうに首を振った。
「いえ、わかりません……」

「そうか……」
ぼくは深くため息をついた。

「この前、給与の計算をしていて気がついたんだけどな」
そこまで言ってから、立ったままのバイトくんに目をやった。おどおどとした顔をしている。

たっぷり間をとってから、ぼくは言った。

「最近よくがんばってるから、今月から時給を50円アップしようと思う。その報告です」


バイトくんは一瞬ぽかんとした顔をしていたが、やがて膝からくずれおちるようにしてしゃがみこんだ。

「ちょっとーやめてくださいよー、そういうドッキリ」

 「はっはっは。怒られると思った?」

「ぜったい怒られると思いましたよ。犬犬さん、ふだん怒らないのに今日はめちゃくちゃ怖い顔してるからすげー怖かったっすよー」

 「ごめんごめん。ちょっとしたイタズラをしたくなって」

「もー。あやうく言わなくていいことを白状しちゃうとこでしたよ」

 「え?」

「いや、何もないです」


もう少し泳がせとけばよかった。

2017年6月16日金曜日

レトロニム


レトロニム、という言葉があることを知った。

Wikipediaには

ある言葉の意味が時代とともに拡張された、あるいは変化した場合に、古い意味の範囲を特定的に表すために後から考案された言葉のことを指す

とある。
これだけ読んでも意味がわからないけど、

  • 携帯電話が主流になったので、それまで電話と呼んでいたものを「固定電話」と呼ぶようになった
  • 新幹線ができたので、それまでは鉄道と呼んでいたものを「在来線」と呼ぶようになった

といった類の言葉、といえばわかると思う。
「白黒テレビ」「アナログ時計」「地上波放送」など、新しい技術が普及すると古いものは名前を変えることを余儀なくされる。


中にはレッサーパンダのようにひどい例もある。
レッサーパンダはもともと単に「パンダ」と呼ばれていたが、ジャイアントパンダが人気になって「パンダ」といえばジャイアントパンダを指すようになってしまったため、わざわざ「レッサー(小さいほうの)」という言葉を付けられて呼ばれるようになってしまったという。

ぼくの通っていた中学校でも同じことが起こっていた。
シマという苗字の男子生徒が2人いて、身体が大きくて喧嘩が強いほうのシマくんは「シマくん」と呼ばれ、学年でいちばん背の低かったシマくんは「コジマ」と呼ばれていた。
レッサーパンダの件といい、つくづく弱者には厳しい世の中だ。


しかし、おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
どんなものであっても繁栄は長くは続かない。

自動車が普及したことで、それまでただ単に「車」と呼ばれていたものは「人力車」になってしまった。
しかし今ぼくらが「車」と呼んでいるものだって、きっと近いうちに「ガソリン車」とか「手動操縦車」とか「タイヤ車」とか呼ばれるようになるのだろう。

世の中が便利になることはありがたいことだけど、ちょっと寂しい気もする。
年寄りが「昔はよかった」というように、ぼくも歳をとったら「有人店」で「経口摂取食品」や「液体酒」を飲み食いしていた日のことを懐かしむことだろう。

だがノスタルジーで世の中の変化は止められない。
古いものは追憶の彼方へと消えてゆく。

もっと先の人たちにとっては、「太陽系地球」で「肉体生活」をしていた「ホモサピエンス人」のつまらない感傷など、想像することすらないだろう。



2017年6月7日水曜日

歴史を変えた読書感想文

読書感想文の宿題が好きだった。
だけど、生来のへそまがりの性格と本に対する偏執的な愛情がじゃまをしてうまく書けなかった。

高校2年生のとき、夏休みの宿題で読書感想文が課された。
周囲は「高校生にもなって読書感想文かよ」と愚痴をこぼしていたが、ぼくは燃えていた。
すごい感想文を書いてやるぞ、と。

当時、ぼくは月に30冊くらい本を読んでいた。
読書家としては「まあまあ多い」ぐらいのレベルだけど、井の中の蛙だった高校生は「こんなに本を読んでる高校生なんて他にいないんじゃないの?」と思っていた。

そんな読書家であるぼくが人と同じような読書感想文を書くわけにはいかない!





高校1年生のときは対談形式で書いた。
2人の登場人物をつくりあげ、彼らが1冊の本について語るという趣向だ。
今にして思うととりたててめずらしいスタイルとも思わないが、当時のぼくは「なんて斬新な手法なんだろう!」と思っていた。
2人の登場人物には詳細な背景を設定し、設定の新奇さを際立たせるため題材にはあえてオーソドックスな夏目漱石を選んだ。
「これはすごい。読書感想文の歴史を変えるかもしれない」と、自信満々で感想文を提出した。

まったく反響はなかった。
国語の教師は何も言わなかったし(たぶん読んでなかったと思う)、『文藝春秋』から「貴君の読書感想文を掲載したいのだがよいか」という連絡も来なかった。



だがぼくはくじけなかった。
翌年は、前年の反省を活かして『架空の本の読書感想文』を書くことにした。
対談形式で書くなんて表層的なことでしかない。根幹から読書感想文を揺るがすようなものを書かなくては!

もちろん、架空であることは誰にも伝わらない。
国語教師だって題材となっている本をいちいち読むわけじゃないから、ぼくの書いたものが架空の小説の感想だということには永遠に気づかない。
完全に自己満足だったが、ぼくは情熱に満ちあふれていた。
「誰にも伝わらない孤独な闘いを通して読書感想文の虚無性を描く、架空の読書感想文を書くという行為こそが痛切な風刺文学だ!」

架空の小説家による架空の小説。"風明社出版" という架空の出版社までつくりあげた。
誰も知らない、ぼくの頭の中にすら存在しない小説。


何を書いてもいいのだからかんたんだな、と思っていたが、架空の本の感想文を書くのは思っていたよりもずっとたいへんだった。
なにしろとっかかりが何もないのだから。
仕方ないので、ある程度架空の本のストーリーを作り、自分で作ったストーリーに対する批判をこめたスタンスで書いた。
何度も書いては直し、消してはまた書いた。
そして1週間後、どうにかこうにか架空の読書感想文を書き終えたぼくは思った。「ふつうに書いとけばよかった……」と。


文芸誌からの「歴史を変えた読書感想文を掲載させてください」という依頼は、まだない。


2017年6月2日金曜日

多くの人に読んでもらいたいけど読まれるのが怖い


ブログを書く動機っていろいろあると思うけど、基本的には以下の2点に尽きると思う。

  • 書きたい
  • 読んでもらいたい

すごくシンプルだけど、まあこういうことでしょう。
「お金を稼ぎたい」で書く人も、分類すれば「読んでもらいたい」だよね。読んでもらわなきゃお金にならないんだから。


ぼくは他の場所でブログを書いていたのでもう10年以上書いているけど、最近になって「書きたい」と「読んでもらいたい」のバランスをとるのって難しいなあと思う。

せっかく書くからには読んでもらいたい。
誰にも読んでほしくないんだったら日記に書くわけだし(ちなみにぼくは20年ずっと日記をつけつづけている)。


ぼくのブログの読者は多くないけど、書いた内容によっては急に人が集まることがある。
多くの人に読んでもらうのはうれしい。でもちょっと困る。
批判的な意見も多く集まるからだ。

それが1%だったとしても、1万人に読まれたら100人から批判されることになる。
これがつらい。なかなか慣れない。
1人に批判されるだけだったら「世の中には変なやつもいるね」とスルーできるけど、100人に非難されたら世界中から石をぶつけられているような気分になる。

コメントとかいちいち見なきゃいいじゃんと思うかもしれないけど、やはり読んだ人のリアクションは気になるから見てしまう。


結局、虫がいい話だけど「自分の書いたことを好意的に受け止めてくれる人だけに読んでほしい」ってのが本音なんだよね。
そんなことはありえないってわかってるんだけど、それを望んでしまう。

Facebookとかだとそれに近いことができるよね。良ければ「いいね!」だし、悪くてもふつうはいちいち批判しないし。
だからFacebookは居心地がいいんだろうね。
ぼくも「ぜったいに否定されたくないこと」はFacebookに書くし。家族のこととか。

でも一方で「そんな生ぬるい環境にいたらだめだ!」という思いもあって、Facebookだけに安住の地を求めることはできないんだよねえ。



2017年5月30日火曜日

プロ野球選手ははらわた煮えくり返ってるんじゃないのかな



ダン・アリエリー『予想どおりに不合理』にこんな一節があった。

「わが社に来て何年だね」と、幹部は若い社員に尋ねたそうだ。
「三年になります。大学を出てすぐ入社しました」
「では入社したとき、三年後の年俸はどのくらいだと考えていたのかね?」
「一〇万ドルは欲しいと思っていました」
 幹部は社員の顔をまじまじとながめた。
「だが、きみのいまの年俸は三〇万ドル近いじゃないか。それで何が不服なのかね」
「ええ、ただ……」若い社員は口ごもった。「デスクが近い同僚ふたりが、働きぶりはぼくとたいして変わらないのに、三一万ドルもらっているんです」

ああ、わかる……。


給料の高い/安いって、身近な人との比較なんだよね。

もちろん食うに困るほどだったら「絶対的に安い」なんだけど、そうじゃなかったらあとは相対的な問題。


ぼくは今「年収1000万円もらえたらいいなー」と思ってるけど、"年収1000万円もらえるけど同じ仕事をしている同僚全員が1500万円もらっている" 会社にいたら、きっとすぐ不満を感じてやめたくなると思う。
「なんであいつのほうが高い給料もらってるんだ」って。


その不満って、会社でいちばん高い給料をもらわないかぎりはなくなることはない。
身近な人の給料なんて知らないほうがいい。


そういう点でプロ野球選手ってきついだろうなと思う。
だって他の選手の年俸が丸わかりだもん。
「なんであんな守備のへたなやつが俺よりもらってるんだ」
「先発投手なんか週1しか投げないのに中継ぎの俺より多いのは納得いかない」
とかぜったいに思ってる。

特に「ケガでまったく出場していないけど自分より高額な年俸の選手」が身近にいたら、もうはらわた煮えくり返ってしかたないだろうね。


その点、個人種目はわかりやすい。
ゴルフとか競輪とかだと「賞金獲得額」は公表されるけど、賞金は「多く勝ったから多くもらえる」だけなので単純明快だ。
「なんでおれのほうが低いんだよ……」という不満の入り込む余地がない。

野球やサッカーのような団体競技選手は、給料非公開にしたらだいぶストレスが軽減されると思う。

公開しなきゃいけない理由ってなんだろ。


2017年5月24日水曜日

アドベンチャーワールドはちょうどいいテーマパーク

家族でアドベンチャーワールド(和歌山県西牟婁郡白浜町)に行った。



いやあ、楽しかった。
帰ったその日に「いつかまた行こう」と思ったぐらい。



まず白浜という土地がいい。

関西以外の人にはなじみの薄い地名かもしれないけど、白浜には海水浴場と温泉がある。
海水浴場と温泉。レジャー界のエースと4番バッターだ。

そしてアドベンチャーワールドは、動物園と水族館とサファリパークと遊園地が一体になったテーマパークだ。

 海水浴場 + 温泉 + 動物園 + 水族館 + サファリパーク + 遊園地

リゾートにあってほしいものがぜんぶある。
ぼくはやらないけど白浜にはゴルフ場もある。海が近いので市場もある。
子どもからお年寄りまで楽しめる。


レジャー施設にかぎらず人気のものを詰め込みすぎたらたいがい失敗するんだけど、白浜はどれもそれぞれよかった(ぼくが行ったのは5月なので海水浴はしてないけど)。


Google MAPより
アドベンチャーワールドの位置はココ。
紀伊半島の先っちょのほう。


アドベンチャーワールドはすべてがちょうどよかった





混雑具合がちょうどいい

連休じゃない土日に行ったんだけど、ほどほどに人がいた。

どのくらいかといったら、アシカショーやイルカショーの客席の7割が埋まるくらい。
全員が見やすい場所で見られる。

遊園地の乗り物は、長くても5分待てば乗れるぐらい。

昼にレストランに行ったら9割ほど座席が埋まるぐらい。

つまり、何をするにもストレスを感じないぐらい。
かといって閑散としてるわけでもない。

トイレも混んでいなかったのでせっぱつまってから駆け込んでも大丈夫

ゴールデンウィークやお盆だともっと人が多いのかもしれないけど、そのへんを避けていけばストレスフリーで楽しめると思う。

経営的にはもっと混んでくれたほうがいいんだろうけどね。
ユーザーからするとちょうどよかった。





広さがちょうどいい

ぼくは近くのホテルに1泊して、2日連続でアドベンチャーワールドを訪問した。
あわせて9時間滞在したんだけど、9時間でほぼすべての施設を見てまわることができた。

ちょうどいいサイズ感。
サファリパークは広大なのでバスで周ったけど、それ以外は歩き。
3歳児を連れていたけど「おんぶ」も言わずに最後まで歩いていたから、サファリパークを除けば3歳児でも周れるぐらい。

サファリパークのクマ。
スタッフからエサをもらっていた。

車椅子の人も多く見かけたし、ベビーカーの貸し出しもしていたし(パンダやレースカーの形をしたやつ)、子連れでもお年寄りでも周りやすい施設だと思う。

ぼくが行った日は、各地で真夏日になるぐらい暑かったけど(5月にしては)、アドベンチャーワールド内は建物も日陰も多いので苦にならなかった。
さすがに真夏は暑いだろうし、冬に半分屋外の会場でイルカショーを観るのはきつそうだけどね。

レッサーパンダは暑さでへばっていた

一通り見たけど、子どもが成長してから行ったらまたべつの楽しみ方ができるだろうから何年かしたらまた来たいなと思った。





内容がちょうどいい

高いところが嫌い、
怖い乗り物が嫌い、
目が回る乗り物も嫌い、酔う乗り物もイヤ。
人が多いところも苦手だし、知らない人たちが浮かれている場も好きじゃない。

だからぼくは遊園地に行かない。
最後に行ったのはもう20年近く前。
学生時代、今はもうない宝塚ファミリーランドというあまり大きくない遊園地に行ったのが最後だ。

ディズニーランドやUSJのようなテーマパークにも行かない。
行くのは世界の爬虫類展とか餃子博覧会とか世界の大温泉・スパワールドとかの、にぎやかすぎないテーマパーク(?)だけだ。


そんな遊園地好きじゃないぼくでも、アドベンチャーワールドは楽しかった。

ひとつには、娘と行ったおかげだと思う。
前にも書いたけど、いまやぼくの人生の主役はぼくじゃない。子どもにその座を譲った。
だからぼく自身がさほど楽しめなくても、娘が楽しんでいたらぼくも楽しい。

娘はアドベンチャーワールドを心から満喫していた。
帰りの道中でも「また行こうね」を連発していた。「次いつ行く?」なんて気の早い質問もしていた。


3歳の足でも歩き回れる施設。
各年齢に合わせたアトラクションの数々(カートやコースターがそれぞれ何種類かずつあってそれぞれスリルが異なる)。
パンダ、イルカ、ライオン、キリン、ゾウ、トラといった子どもに人気の動物がそろっている上に、動物とふれあえる距離の近さ(今回ぼくらはイルカに触れたりサイにエサをやったりすることができた)。
ジェットコースターなど一部の乗り物をのぞけば、3歳児でもほぼすべての施設を大人と同じように楽しめた。

手の届く距離でのサイのエサやり。
エサを見せるとサイが口を開けるので、そこに放りこむ。


しかし娘が楽しんでいたことを差し引いても、ぼく自身楽しかった。

まず、動物がほんとに近い。
動物園にもよく行くけど、アドベンチャーワールドのほうが動物との距離が近い。
サイにエサをやるのもそうだし、やろうと思えばライオンの檻に手を入れられる。それぐらい近くで見せてくれる(しかし1メートルの距離で対峙するライオンはほんとに怖かった。もう近寄りたくない)。

「ルールを守らないやつは食い殺されてもしかたない」ぐらいの感じ(あくまでぼくが受けた印象ね。アドベンチャーワールドの見解じゃないよ)。

動物と接する以上、客であってもそれぐらいの責任を持たせてもいいと思う。

動物は近くで見たほうがぜったいにおもしろい

アドベンチャーワールドはパンダの一大生産地らしい。
日本では、2016年9月18日現在、上野動物園、王子動物園、アドベンチャーワールドを合わせて11頭のジャイアントパンダが飼育されているが、その内、実に8頭がアドベンチャーワールド内で飼育されていて、屋根の無い空間で自由に過ごすジャイアントパンダを見ることもできる。希少動物センターPANDA LOVEとブリーディングセンターに分かれて暮らしている。
中国本土以外の動物園で8頭も飼育されているのはここだけであり、これは世界一の規模である。(Wikipedia 『アドベンチャーワールド』より)

すごい。
シェア率73%。
独占禁止法に引っかかるんじゃないだろかと心配してしまうぐらいのパンダ占有率だ。

おかげでけっこう無造作にパンダがいる。
上野動物園のパンダには人だかりができているらしいけど、アドベンチャーワールドはもともと混雑していないうえに8頭もいるから、赤ちゃんパンダの前以外はぜんぜん混んでいない。
タイミングがいいとパンダの前にひとりもいない、なんて瞬間も。

貴重なおパンダ様、という感じがぜんぜんしないのがいい。

ぜいたくにパンダを味わえる


ショーも見ごたえがあった。

イルカのショーがすごいというのは前々から聞いていたが、評判通りだった。
迫力があったし、思わず「おおぉっ!」と声が出てしまうこともあった。

イルカの大ジャンプ
後ろに山や海が見えるこの開放的な会場もいい。


でもぼくはもうひとつのショーのほうが気に入った。
アシカやオットセイやカワウソやイヌやタカやミニブタのショー。

客いじりからはじまり、笑いあり驚きありの楽しいショーだった。
めちゃくちゃすごい技術はないけど、誰が見ても楽しめる、4コマ漫画のようなわかりやすいショー。


しかし海獣のショーって最初にやった人はすごいね。
だってオットセイの姿を見て、あいつらとコミュニケーションとれるなんて思えなくない?
ましてこっちが教えた動きをオットセイにやらせようだなんて。
その発想、どうかしてるね。

ペンギンはそのへんをうろうろしていた

ところでイルカショーって一部で非難を浴びている。
「追い込み漁」というイルカの捕獲方法が残酷だという非難を受けて、日本動物園水族館協会(JAZA)が追い込み漁で捕まえたイルカの入手を禁止したのが2015年。

個人的には一部の生物の殺傷だけを「残酷」ということには納得いかないんだけど(あらゆる生き物を殺すべきでないと主張するならわかる。そういう人は病原菌も殺さずに生きていくといい)、だからといって「まちがってないから非難を浴びてでも続けるぜ!」という姿勢がエンタテインメントにとっていいことだとも思わない。


その点、アドベンチャーワールドではうまくクリアしようとしていて、バンドウイルカの繁殖を成功させているんだとか。
これなら絶滅の危惧がある生物を守るという名目も立つし、ショーにすることで研究・飼育費を稼ぐことにもなるわけだから万事がうまく収まる。

ジャイアントパンダの繁殖も成功させているし学術的にもすごい場所なんだね、アドベンチャーワールド。

ぼくがライオンならサファリパークで暮らしたい。
食べ物はもらえるし広いし仲間はいるし。

アドベンチャーワールドの居心地が良かったのは「難易度が低い」からだと思う。

めちゃくちゃ迫力のあるジェットコースターもないし、3D技術を駆使したアトラクションもない。

遊園地検定10級のぼくでも楽しめる、スーパーマリオのような敷居の低さ。

もしかしたら、遊園地上級者にとってはものたりないかもしれない。

だけどファミリー向けテーマパークを訪れるのは、遊園地ファンばかりじゃない。
子どもの付き添いで来ただけの親も祖父母も多い。
そういう人たちにとっては、「めちゃくちゃおもしろい」よりも「居心地が悪くない」や「疲れない」のほうが大事だと思う。
その条件をアドベンチャーワールドは満たしていた。



ぼくも若いときは「新奇なもの」「今までに誰もやったことがないもの」ばかり観にいっていたけれど、子連れだとオーソドックスなものの良さを改めて発見するようになる。
こういうことが歳をとるってことなのかもしれないね。

作りものの鳥と本物が混ざっているので、急に動きだしてびっくりする






価格がちょうどいい

2日間入園できる券で7,200円だった(2017年6月から少し値上がりするらしい)。
これを高いと思うか安いと思うかは人それぞれだけど、ぼくは十分楽しめたので決して高くないと思った。

特に、うちの子はもうすぐ4歳になるのだけど、3歳以下は入場料無料だったのがありがたかった。
さっきも書いたように3歳でもめいっぱい楽しむことができた。それが無料というのはうれしい。いちばんいいときに行ったかもしれない。

メリーゴーラウンドなどいくつかの乗り物にも乗ったんだけど、それも「大人1人+3歳児」が乗って1人分の料金でいいと言われた。
2~3歳ぐらいからお金をとるレジャー施設が多いだけにアドベンチャーワールドの「3歳以下原則無料」はうれしいね(なぜかサファリパークを周るバスだけは3歳以上有料だったけど)。

娘はカバが好き

金額だけの問題じゃなくて、「そこでお金とるのかよ……」という納得のいかないとられかたをしなかった、というのが大きい。

サファリパーク内を走る車もいくつか選べて、ミニ鉄道を選べば無料で周回できる。

ショーも別途お金をとられることもないし、ジェットコースターなどの乗り物に乗らなければ入場料と食事代だけですべての施設が楽しめるのだ。


中で売ってる食べ物も、やや割高ではあるけれど、ちゃんと手のかかった料理があるのがよかった。

"パンダバーガー" は、焼きたてのパンに焼きたてのハンバーグとシャキシャキのレタスが挟んであった(パンダの肉ではなく牛肉だった)。
セットで1,000円と高めではあるが、おいしかったのでまあいい。
観光地だと「高い上にカスカスの食べ物」が出されることがあるけど、そんなことはなかった。

パンダバーガー。
これにドリンクがついて1,000円。
高いけど観光地の食べ物としては許せる範囲。


子どもは大喜びだった

テーマパークって、少々高くたっていいと思う。
贅沢をしにいってるわけだから。

でも、入った後はなるべく財布を出したくない。
いちいち「これで300円か……」とか考えずに楽しみたい。

その点でよくできているのは、ぼくの大好きな風呂のテーマパーク・スパワールド。
風呂だから財布は持てない。
だから中で飲み食いした分や受けたサービスの代金は、ぜんぶ入館時に支給される腕輪で記録される。
そして退館時に精算するというシステム。
これだと、中で過ごしている間は一切お金を使わなくて済む。

あたりまえのようにやってるけど、お金を使うってけっこうめんどくさい行為なんだよね。
金額を確認して、それが自分の中の相場と照らし合わせて安いか高いかを判断して、それと引き換えに得られる便益と比較して、お金を使うかどうかを決定する。
そしてお金を取り出して、財布の残りを見てあとどれぐらい使おうかを思案する。

このプロセスがけっこうわずらわしい。脳内メモリの容量を食っている。


食事、おみやげ、乗り物など、中で使うお金を全部退場時の一括精算にしてくれたらなおありがたいと思った。
たぶんそっちのほうがお金を使うから、施設側にもメリットは大きいだろうしね。




日本各地にあった遊園地やテーマパークは、どんどんつぶれている。
特に地方は厳しいらしい。

レジャーの多様化だとか少子化の影響とかいろいろあって、これから先も遊園地にとって状況は悪くなる一方だと思う。


アドベンチャーワールドは1978年開園だというからもう40年近くもやっていることになる。
しかし、ぜんぜん古びたかんじがしなかった。

レトロな乗り物はあったけど、錆びた建物とか汚れた床とか剥がれかけた壁とかはまったく目につかなかった。
ゴミも落ちていなかった。
メンテナンスと掃除がゆきとどいているのだろう。

レトロな乗り物。
『稲中』ファンにはあこがれのパンダ1号。

何度も書いているように遊園地に行かない人間なので、アドベンチャーワールドだけが特別に良かったのかわからない。
ぼくが知らないだけで、同じぐらい、あるいはもっと居心地のいい遊園地もあると思う。

でもとにかく、アドベンチャーワールドはよかった。

いつかまた行く日にもほどほどににぎわっていることを、心から願う。



2017年5月11日木曜日

子を持って はじめてわかる ありがたみ  借りて返せる 公共図書館


子を持って はじめてわかる ありがたみ
借りて返せる 公共図書館


しょうもない短歌を詠んだけど、図書館ってほんとにありがたいなあってつくづく思う。
子どもができてから。



正直、子どものえほんを読むようになるまでは図書館のことはちょっと否定的に見てたんだよね。

ぼく自身、中学生になってからは古本屋に入りびたってたこともあり、
「本は借りずに買って読まなきゃ血肉にならない。読者にとっても著者にとっても」
って思ってた。

「図書館が出版業界の経営を圧迫してるんじゃないか」とも。
(これはたぶん逆で、図書館はだいぶ出版業界を支えている。図書館で本を借りる人の多くは図書館がなくなっても買うようにはならないし、価値はあるけど図書館にしか買ってもらえない本も多い)



ぼくは趣味にも服にも食べ物にもお金をつかわない人間だから、本ぐらいにはお金をつかおうと思っていて、本屋やAmazonで目についた本は値段も見ずに買うようにしている。
(ただし学術系の本だけは注意している。めちゃくちゃ高額な本もあるから)

しかし子どもにえほんを読むようになってからは、そうも言ってられなくなった。

娘にも本好きになってほしいから毎週のように本屋に連れていって
「どれがおもしろそう?」
なんて選ばせていたんだけど、えほんって高いよね。
1,000円ぐらいはふつうで、大判のえほんやしかけえほんだと2,000円、3,000円は平気でする。
「どれでも好きなの選んでいいよ」といった手前、娘がうれしそうに持ってきたえほんを「いやこれはお財布に厳しいから……」といって棚に戻すのはしのびない。

えほんは短い。
2,000円で買ったえほんも5分で読みおわる。
「この5分で2,000円か……。時間単価24,000円って風俗店かよ……」
ってみんな思うよね。思わないか。

娘とえほんを読む時間はプライスレスだが、24,000円/h は高すぎる。

あとえほんは場所をとる。

ただでさえ狭い我が家なのに、えほん棚はどんどん増殖してゆく。

えほんのために広い家に引っ越さなくてはならなくなる。

えほん代と引っ越し代と家賃で破産する!



破産を回避するべく、近所の図書館に子どもを連れていった。

図書館に行くなんて学生のとき以来だ。



子どもは大喜びだった。

えほんの数が本屋よりずっと多いし、なによりすべてのえほんが子どもでも手に取れる高さに置いてある

これすごく重要。

えほん売場の充実している本屋でも高い書架が並んでいることが多い。
子どもにとっては "手の届かない場所にある本" は存在しないのと同じだ。


あと表紙を見せて陳列されているえほんが多いのも子どもには魅力的だったようだ。

以前も書いたけど(【読書感想エッセイ】 井上ひさし 『本の運命』)、
字が読めない子どもにとって背表紙しか見えないえほんはほとんど視界に入っていない
ジャケットだけで一度も聴いたことのないCDを選べと言われるようなものだと思う。

書店だと売場面積あたりの売上を考えなくてならないから、どうしても高い棚で陳列してしまうし、背表紙を向けて1冊でも多くのえほんを並べてしまう。


ぼくも書店で働いていたときは高い棚にえほんを並べ、書架に背表紙を向けて並べていた。
高い位置に置いたら子どもに届かないのはわかっているけど、子どもはお金を使ってくれないのだからしかたない。

もっといったら子どもが読むと商品がめちゃくちゃ傷むので、「えほんは全部高いところに展示して子どもには一切さわらせない本屋」が理想だとすら思っていた。
だって子どもがどれだけえほんを散乱させて、ときにはびりびりに破いたとしても、そのまま立ち去る親が多いんだもの。

えほんをめぐっては書店員と子どもの利害は対立する。



図書館は売上を考えなくていいから、ぜいたくにえほんを陳列している。

ぜんぶ低い棚に入っているし(大人にとっては選びづらいぐらい)、表紙を見せてあるえほんも多い。

子どもにとっては「ぜんぶ自分で手に取って選べるえほん」だからうれしくないはずはない。


なによりうれしいのはお金を気にせず本を読めることだ。

ぼくは「本にはお金を出すべき」と思っているので、学術書を借りるとき以外は図書館は利用してこなかった。
(その考えは今でも変わっていない。えほんを借りるついでにぼくが読む本も借りることはあるけれど、「エンタメ作品」「出版されて間もない本」は借りないことにしている。それらは著者のためにお金を出して買うべきだと思っている)


えほんは、大人向けの本よりずっとお金を食う。
いくら本にお金を使いたくても限度がある。

子どもと書店に行くと「2冊までね」なんて制限を設けて選ばせるんだけど、図書館だとそれをしなくていいのがうれしい。
うちの近所の図書館は1人15冊まで借りられる。しかも0歳児から市民権が与えられているので娘と行けば30冊まで借りられる。

本は浴びるほど読んでほしいので、週末に10冊ぐらい借りて毎晩1~2冊ずつ読んでいる。


冒頭で
「子を持ってはじめてわかるありがたみ 借りて返せる公共図書館」
という名歌を紹介したけれど、
この「返せる」という部分が重要だ。

えほんは場所をとるので「返せる」ということがありがたい。
「無料であげます」だったら、毎週10冊なんてとてももらえない。



えほんは図書館で借りるようになったけど、書店で子ども向けの本を買わなくなったわけじゃない。

今でも月に1回ぐらいは児童書コーナーに行っている。

なぜなら図書館には一部の本がないから。



図書館には、しかけえほんがない。
飛び出すえほんとか、さわって遊ぶタイプのえほん。
その手の本は破れやすい、汚れやすいので置かないのだと思う。

当然のことながら、めいろとかぬりえとかの書きこむ系の本もない。

くもん出版とか学研とかが出しているひらがなドリルとかも置いていない。

そういった本を書店は買い、読み物のえほんは図書館で借りる。
うまく使い分けができていると思う。




図書館って、圧倒的に近い人が有利だよね。

今ぼくは歩いて5分のところに図書館があるから毎週通ってるけど、遠くだったらたぶん行ってない。
車や電車に乗ってまで行くのはおっくうだし。

今までほとんど利用したことがなかったのは、図書館の近くに住んだことがなかったから、というのも大きい。

図書館の場合、「近くまで寄ったから」という理由だけでは借りに行くことができない。
なぜなら返却のことも考えないといけないから。

ぼくの住む町の図書館は返却期限が14日後なので「14日以内に返しにこられるだろうか」ということを考えて借りないといけない。
これが遠くに住んでいる人からすると大きなハードルになる。

図書館の近くに住んでも遠くても住民税はいっしょなので、考えてみればずいぶん不公平だ。
ぼくなんか月間40冊くらい本を借りてるわけで、これをもし買ってたら5万円くらいになっている。
近くに住んでいるおかげて月5万も得してる。いいんだろか。図書館の遠くに住んでいる人にゼリーとか贈らなくていいんだろか。


遠近による不公平さを埋めるために移動図書館なんてのもある。
本をいっぱい積んだ車が各地をまわるやつだ。

でもあそこにある本は図書館の蔵書のごくごく一部にすぎないし、借りる日も返す日も細かく定められていてすごく不自由だ。

それにぼくだけかもしれないけど『ショーシャンクの空に』で図書係の囚人がカートに本をいっぱい乗せて独房を巡回するシーンがあったから、「移動図書館で本を借りるのは囚人」というイメージがぼくの中にはある。

そんな理由もあって(?)、移動図書館では遠近格差の1/10も埋められない。

せめて「返却は近くのコンビニでしてもいい」ぐらいになったら多少マシなんだろうけどね。



ぼく自身本を読むのが好きだ(というより何か読んでないと落ち着かない)から、娘にも本を好きになってほしい。
寝る前に娘が「お父ちゃん、これ読んでー」とえほんを持ってくるのはすごくうれしい。

でも正直「めんどくさいな」と思うこともある。

早く寝たいときもあるし、なにより「またこの本かよー!」ってのがいちばんつらい。

子どもは同じ本をくりかえし読んでもらいたがるけど、同じ本を毎日のように読まされるのはほんとうに苦痛だ。
もう一字一句おぼえているのに、それでも子どもは読んでもらいたがる。

「父親が読んでくれる、という行為を欲しているのであって本の内容自体はどうでもいいのでは?」
と思い、えほんを読むふりをしながらそのとき読んでいた『予想どおりに不合理』って本を読み聞かせてみた。
そしたらすぐに「わかんないよー。わかるのにしてー」とクレームを入れられた。
ちゃんと聞いているのだ。



図書館でたくさん本を借りたら、毎日ちがうえほんを読むことができる。
これなら大人も楽しめる。

えほんを読むのが苦痛なときもあるけど、20年後に
「1時間24,000円払えば、あなたの娘が3歳の時代に戻っていっしょにえほんを読むことができます」
と言われたら迷わずに払うだろう(そのときよほどお金に困っていなければ)。
それぐらい価値のある経験をする機会を、今は与えられているのだ。

娘が父といっしょに本を読んでくれるのはあと何年だろう。

この貴重な時間を少しでも無駄にしないよう、まだしばらくは図書館様のお力を貸していただこうと思う。




2017年5月5日金曜日

なぜバイクはかっこいい(とされるん)だろう?


バイクのかっこよさがわからない。

男の50%はバイクを見て「マジかっこいいぜ」と言い、残りの50%はぼくのようにバイクのかっこよさがわからない。たぶん。

洗濯機を見ても
「うおーこれマジいかす洗濯機だぜ!」
「あのマシンまじシブいっすねぇ」
なんて思わないように、
バイクを見ても「大きいな」「高そうだな」以上の感想は出てこない。
「大きくて高そう」なバイク



ま、それはべつにいい。

バイク愛好家を否定したいわけじゃない。


話は変わるけど、ぼくは鍵が好きだ。

「うわ、この鍵かわいいなあ」とか
「引っ越す前の鍵のほうがエロチックでよかったな」とか思う。

自分でもヘンだと思うし、この嗜好を他人に理解してもらおうとは思わない。

理解されたいとは思わないけど否定されたくはない。

だからバイクの良さも自分が理解できないからといって否定するつもりはない。


多くの人がバイクをかっこいいと言っているからには、バイクにはかっこよさがあるんだと思う。

バイクのかっこよさをぼくも理解したい。

いいものをたくさん知っているほうが人生は愉しい。



まず、思いつくのは「速い」ということがある。

速いものはかっこいい。

多くの男の子は新幹線に夢中になるし、ウサイン・ボルトもチーターもかっこいい。

洗濯機の回転はそんなに速くない。時速にしたら20kmぐらいじゃないかな。知らんけど。

だからバイクはかっこよくて洗濯機はかっこよくない。


しかもバイクは重い。100kgを超えるものもめずらしくない。

力 = 重さ × 速さ

速くて重いバイクは大きなパワーを持っている。

パワー。これはかっこいい。

[パワー] は、[マッハ] [ターボ] [バリアー] に次いで、小学3年男子の好きな言葉第4位だ(2017年 ぼく調べ)。
ちなみにマッハもターボも速さに関する言葉だから、実質パワーが1位といってもいい。

"強いはかっこいい"
これに異論を唱える人はいない。
  • バイクにはパワーがある。
  • パワーはかっこいい。
  • だからバイクはかっこいい。
この三段論法、一見スジが通っているように思える。

でも、速いのはバイクだけじゃない。

バイクが速いといったって、じっさいに走るスピードはせいぜい時速100kmぐらいだ(理論上はもっと出るのかもしれないけど)。

軽自動車だって在来線の電車だってそれぐらいのスピードは出る。しかもバイクよりずっと重い。

でも、軽自動車や電車はバイクほど「かっこいい」と言われない。

パワーでいったらバイクよりずっと大きいのに。



バイクにあって軽自動車や電車にないものはなんだろう、と考えてみてひらめいた。

"不安定さ" じゃないだろうか。


バイクは不安定だ。

すぐに倒れそうに見える。このあやうさこそがバイクの魅力じゃないだろうか。


あやういものはかっこいい。

マフィア一味にも、死線をくぐりぬけた戦士にも、結核を患っている少年にも、あやしい魅力がある。


死と隣り合わせのものがかっこよく見えるのにはちゃんと理由がある。

死のすぐ近くに身を置くというのは、裏返せば「それでも死なない」という強い生命力の証明になるからだ。


パワーが大きくて不安定。

これぞバイクのかっこよさの理由だ。


ということは。

めちゃくちゃ回転が速くてときどき爆発する洗濯機を作ったら、

「うお、このマシンまじかっけー!」

と言われるかもしれないね。

2017年5月4日木曜日

ぼくの考えた地獄



鋭いかぎ爪のついた大きな金棒を持った鬼が背後から追いかけてくる。

人がすれちがえるかどうかという細い道を走って逃げる。

道の脇には煮えたぎった血の池。



逃げた先には扉があるが、扉の前には多くの亡者たちが立ち並んでいるので通れない。

ぐんぐん背後にせまってくる鬼。

もうだめだと思った瞬間、目の前に突如として階段が現れる。



あわてて階段をかけあがる。

息が苦しい。ぜえぜえ言いながら階段を走ってのぼる。

もう限界に近いが、この階段の先には安全な場所がある。そこへは鬼はやってこない。

やっとのことで階段をのぼりきった。

安全な場所へと駆けこもうとするが、そこにも亡者たちが立ちふさがっていて通れない

あなたはついに鬼に追いつかれてしまい、身を引き裂かれる苦しみを味わうことになる……。




これが、駅の階段のすぐ先やドアの前など、人通りの多いところで立ち止まる人が落ちると言われている
大叫喚混雑地獄」です。



説教をするのが苦手だ

説教をするのはすごく苦手だ。

自分ができの悪い人間であることを知っているから、とても他人に偉そうなことなんて云えない。

先週、本格的に説教を施した。

ふだん叱らないぶん説教するときのぼくはとてもしつこい。

叱った相手は同僚のAさん(30代女性)。




「考えられないっ!」
「すみません」
「そういうことしますか。社会人、いや人間としてぜったいにやっちゃいけないことでしょう」
「すみません。つい……」
「ついで済まされることじゃないですよ、会社の冷凍庫のアイスクリームを勝手に食べるなんて!」
「犬犬さんのって知らなかったから……」
「だとしても食べちゃだめでしょ。自分以外の人が買ったアイスは」
「はい、反省してます」
「ぼくだって、ただのアイスクリームならここまで云いませんよ。でもハーゲンダッツですよ、ハーゲンダッツ。ハーゲンダッツっていったら税法上は固定資産ですよ」
「いやそれは……」
「言い訳しない!」
「でも、冷凍庫の奥の方にあったから、誰かがずっと前に買って忘れてるのかと思ったんですよ」
「ピノとかスイカバーならそういうこともあるかもしれません。でもハーゲンダッツ忘れますか? 結婚記念日忘れても、ハーゲンダッツの存在は片時も忘れないでしょ」
「結婚記念日も覚えといたほうがいいですよ」
「今はそんな話してるんじゃないんです。まだね、百歩譲ってですよ、バニラ味とかストロベリー味なら忘れることもあるかもしれません。『ミニカップ・マルチパック 6個入』を買って1個忘れるってことはありえます。でもあなたが食べたのはマカデミアンナッツ味ですよ! マルチパックにマカデミアンナッツ味が入ってないことぐらい常識じゃないですか。つまりこれはマカデミアンナッツ味を食べたくてわざわざ買ってきたものだってことぐらい、ちょっと考えればすぐわかるでしょうよ!」
「たかがアイスの1個なのにすごく理屈っぽいな……」
「たかがとはなんですか。これ、夫婦間でやったらまちがいなく離婚事由になりますよ!」
「すみません、買って返しますんで」
「そういうことじゃないんですよ! 見てください、この紅茶。たった今淹れた紅茶です。さあ今からティータイムだと思って紅茶を用意して、うきうきしながら冷凍庫を開けたらからっぽ。この絶望感、わかりますか!? ぼくがなんのために仕事をしてると思って……」



と長々と説教をしていると、上司から

「犬犬くん、長くなるようならその話は仕事終わってからにして。それとあんまり仕事中にアイスクリーム食べないように」

と叱られた。


叱っていたはずがいつのまにかぼくが叱られている……。

やっぱり、説教は苦手だ。


昭和18年の地図帳ってこんなんでした


妻の祖父の遺品を整理していたら、戦時中に発行された地図帳が出てきた。

今の地図と見比べてみるとおもしろかったので、画像を載せてみる。

(ぼくのコメントには誤った知識もあるかもしれません。お気づきの方はコメント欄でご訂正いただけるとありがたいです)

表紙。『新選大地圖 外國篇』

奥付

昭和18年7月発行。

太平洋戦争まっただなかの、戦局が悪くなってきた頃だね。

この頃は国境がめまぐるしく変わってたはずだから、地図帳を作る会社はたいへんだったろうね。



刊行は中等學校教科書株式會社。

旧制中等学校ということは、今の高等学校に相当。

ただし中等学校への進学率は10%前後だったそうなので(Wikipedia)、今でいうと大学院を出ている人ぐらいの高学歴といっていいでしょう。



定価は1円30銭。

岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』 によると、昭和10年前後の物価は2,000倍して考えるとよいとのことなので、1円30銭は今の2,600円ぐらい。

けっこう高いね。

でも今でも大学のテキストは数千円するのがふつうだから、そんなもんかな。


国旗と帝国支配図



国旗。

表紙はぼろぼろになってるけど、中はカラーできれい。

まだ物資不足がそこまでひどくなかったのかな。



おお、ナチスの鉤十字!

映画や漫画でしか見たことなかったから、こうやって地図帳で見ると「ほんとにあったんだなあ」と思ってしまう。

あったんだなあ。あたりまえなんだけど。


イタリアも今とはちがうね。

今は共和国だけどこのころは王国だったんだね。ムッソリーニ!




80年代生まれのぼくにとっては、ソ連の旗はぎりぎり見覚えがある。

日本は日本帝國なんだね。


中華民国の旗はすごいね。「和平 反共建國」って書いてある。

国旗にこんなに思想の強いメッセージを書いていいんだ。

残念ながら「反共」の夢はかなわず、この後中国共産党に敗れるんですが。



アメリカの国旗も今とは微妙に違うね。星の配置が。

このころはアラスカやハワイがなくて、48州だったそう。

国々が「どの帝国の植民地か」を色分けした地図。

特に東南アジアやアフリカの植民地化されっぷりがすごいね。

これだけ帝国主義の世の中だったら、日本が「うちも植民地持たないと!」って気持ちになっちゃうのも無理ないような気もするなあ。

「みんなが株で儲けてる」って聞いたら「よくわかんないけど株買ったほうがいいかも!」ってなるような感じかな。


東アジア

アジアの地図。

(拡大)極東
今とはまったくちがうね。

朝鮮半島や台湾は日本領だし、中国は中華人民共和国じゃなくて中華民国。

満州国もけっこうな大きさを占めてる。


中国とモンゴルの間に「蒙古聯合」ってのがあるね。

中華民国の傀儡政権があったらしいんだけど、学校で習った記憶がないなあ……。

今の東アジア(Google Mapより)


東南アジア

(拡大)東南アジア

ベトナム・ラオス・カンボジアは、フランス領インド支那。

インドネシアは、オランダ領東インド。

マレーシアは、イギリス領(この頃は日本占領下かな?)

バングラデシュ・パキスタンも存在しないね。インドの一部みたい。

これだけ帝国主義の嵐が吹き荒れているのに、小国のブータンやネパールは独立国なんですね。

内陸部だったから狙われにくかったのかな?

今の東南アジア(Google Mapより)



中東

中東


レバノン、ヨルダン、そしてイスラエルの独立前だね。

シリアはあるけどフランス領みたいです。

アラブ首長国連邦もないんだね。トルシァル オーマンって書いてある。


エルサレム付近は、この地図だとどこの領地になってるのかよくわからないね。

イギリスの三枚舌外交」とやらのせいでややこしくなってたところだったからかな。

今の中東(Google Mapより)


ヨーロッパ

ヨーロッパの地図

(拡大)中央ヨーロッパ

チェコとオーストリアはドイツの一部、ポーランドも「独ソ分割線」によって分断されてる。

あとは東欧がソ連の一部なのと、ユーゴスラヴィアが分裂前なのを除けば、意外と国境線は今と変わらないね。

もっとドイツが大きくなってるのかと思った。

昭和18年だと、もうアメリカも参戦していてドイツの勢いが弱まっていた時期なんだね。

今のヨーロッパ(Google Mapより)


アフリカ

アフリカ

最後にアフリカだけど、このころのアフリカ大陸はほぼ全土がヨーロッパの帝国の植民地化にある状況だね。

独立国だったのは(赤字で書いているところ)はエジプトとリベリアだけかな?

今のアフリカ(Google Mapより)



北米、南米、オセアニア、南極


今とあんまり変わってないので割愛。

気が向いたら第2回やるかもしれない(『日本篇』の地図帳もあるし)。



地図って大事


学生時代、歴史が苦手だった。

理由のひとつに、位置関係がよくわからなかったということがある。

「ナポレオンはスペインからポーランドまで支配下においた」 
「チグリス川とユーフラテス川の流域に栄えたメソポタミア文明」

なんて記述を読んでも、地理も苦手だったのでどのぐらいの広さなのかぴんとこなかった。

ポーランドがどこかわからないし(いまだにときどきポルトガルとごっちゃになる)。

たまに教科書に地図も載ってたけど、ごく一部の、それも昔の地図を見ても、結局位置関係はうまくつかむことができなかった。



歴史の教科書には年表がついているけど、年表よりも地図があったほうが理解の助けになるんじゃないかな。

各年代ごとの地図を用意しようと思ったら地図帳が何百冊も必要になるけど、今ならパソコンでかんたんに見ることができる( GeaCron とか)。

右モニターに教科書、左モニターに地図、みたいな歴史の授業をやったらすごく理解が進みそうだなあ。