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2017年5月2日火曜日

ヒジはどうしてあるの?

同僚のMさんが、息子(4歳)から「ヒジはどうしてあるの?」と訊かれて答えに窮したそうだ。

ヒジはなぜ存在するのか。

今まで考えたことがなかった。

なるほど、これはなかなかの難問だ。



「で、なんて答えたんですか」

Mさん「ヒジがないと曲げられなくて困るでしょ、って」

「それは結果であって理由じゃないですね。回答として不正確だと思いますよ」

 「それ、そばで聞いてた旦那にも同じこと云われた。うちの旦那も犬犬さんと同じぐらい理屈っぽいから」

「ほめ言葉として受け取っておきます」

 「犬犬さんだったらなんて答えるんですか」

遺伝子情報にヒジを作ることが組み込まれているから……」

 「4歳児にそんなこと云ってもわかるわけないじゃない」

「じゃあ物語を作って聞かせたらどうですか。よくあるじゃないですか、塩の出る臼が海底に沈んで海の水はしょっぱくなりましたとさ、みたいなこどもだましの昔話」

 「嫌な言い方だねえ。たとえばどんなの?」

「えーっとそうですね。
 むかしむかし、人間の手にはヒジがありませんでした。
 その頃の人は食べ物をつかんでも口に運ぶことができず、不便な生活を強いられていたのです」

 「あ、なんかそれっぽい」

「あるときその様子を見ていた神様が不憫に思い、人間にヒジを授けたのです」

 「うんうん」

「人間たちは大喜びしました。
 これで自分の口に手が届くぞ!
 それまで人間たちは、ペアを組んでお互いの口まで食べ物を運んであげていました。
 ヒジができてからというもの、人々の暮らしは格段に便利になりましたが、同時に助け合いの精神が希薄になり、人心はどんどん荒廃してゆき、やがては曲がるようになった腕で弓矢や銃を持って互いの命を……」

 「ちょっとちょっと!  ほのぼのした昔話だったのに途中から急に殺伐としてる!」

便利さと引き替えに精神的な豊かさが失われるという教訓のこもったいい話だと思うんですけどねー」

 「却下」


いったいどう答えるのが正解なんだろう?

うちの妻にも訊いてみたところ、

「ヒジが何かの目的を持って作られたわけじゃなくて、曲がる部分がヒジと名付けられただけ。だからその質問自体がナンセンス

というお答えが返ってきました。
うーん、科学の子。

ヒジの使い方

2017年5月1日月曜日

イノベーティブな俺

「誰かが新しい言葉をひねり出し、古いアイディアを新しい包装紙で飾ろうとするときには注意しよう。それは往々にして、真の革新などどこにもないときに、さもオリジナリティーがあるかに見せかけようとしている兆候だからだ」
(ジョージ・G・スピーロ著、青木薫訳『ケプラー予想』より)


うん、たしかに

「イノベーション(革新)」

「コンセンサス(合意)」

「プライオリティ(優先順位)」

とかを好んで使う人って、イノベーティヴな思考ができなくて、周囲のコンセンサスなんか無視しちゃうような、物事のプライオリティがわかってない人ばっかりだよね。


2017年4月28日金曜日

公園で缶チューハイを飲むおじさんだけが怖いのはなぜなのか

大阪市内に 引っ越してきて5年。
昼間から公園でお酒を飲んでいる人も見慣れてきた。

子どものころは郊外の住宅街で育ったこともあって、昼間からお酒を飲んでいる人はほとんど見なかった。

せいぜいお花見のシーズンぐらい。

田舎は車社会だからってのもあるけど。


今ぼくが住んでいるエリアでは、公園のベンチでお酒をちびちびやっているおじさんはめずらしくない。

朝から缶ビール片手にふらふら歩いている人もよく目にする。

公園でお酒を飲む人
大阪ではよくある光景(嘘)


見慣れてくると、べつになんとも思わない。

小さい子どもがいることもあって、はじめのうちはちょっと怖いと思っていたけど、そういうおじさんはいたって無害な存在だ。

静かにベンチに座って、何をするでもなくちびりちびりと飲んでいる。

することといえば、たまに鳩に食べ物をやるぐらい。

ほんとは鳩に餌をやるのはよくないことなんだけど、それぐらいの楽しみには目をつぶってあげたい。



ビール(発泡酒等含む)を飲んでいるおじさんは比較的身なりがきれいだ。

日本酒や焼酎を飲んでいるおじさんはよく日焼けをしている。

お酒を飲みながらお菓子やパンを食べているおじさんはわりといるが、おにぎりやお弁当を食べながら飲んでいるおじさんはなぜか少ない。



よくわからないんだけど チューハイを飲んでいるおじさんが怖い。

見ちゃいけない気がする。

目を合わせたら良くないことが起こりそうな気がする。

なぜだろう、ビールや日本酒のおじさんには怖さを感じないのに。

チューハイを飲むおじさんだけ、怖い。



なんでだろう。

通勤電車に揺られながらゆっくり考えてみた(こういうことを考えていると満員電車もつらくない)。


1. チューハイは、お酒を好きな人はまず飲まない。

「お酒好きで、毎晩のように吞んでます!」という人は、たいていビールや日本酒やハイボールや焼酎なんかを飲む。

「甘いお酒が好き」という人は、梅酒やワインやカクテルを飲む。

お酒好きでチューハイが好き、という人に出会ったことがない。


2. チューハイは、お酒が苦手だけど酔いたいときにちょうどいい。

ぼくの感覚では、チューハイを飲む人=お酒が苦手な人 だ。

お酒は好きじゃない。ビールは苦いしワインは後に残るしカクテルは高い。

でもお酒の席は好きだから酔いたい。あるいは、雰囲気的にソフトドリンクは頼みづらい。

そんなときにちょうどいいのがチューハイ。甘いし、安いし、あんまり残らないし。

ぼくも大学生のときは飲んでたけど、お酒に慣れてきたらいつのまにか飲まなくなったなあ。


3. チューハイを飲んでいるおじさんは、ほんとは飲みたくない

ということは、公園でチューハイを飲んでいるおじさんは、ほんとはお酒を飲みたくないんだと思う。

お酒が好きならビールや日本酒を飲めばいいし、甘いものが好きならジュースのほうがずっと安い。

それなのにチューハイを飲んでいる。


酒なんか好きじゃない。できることなら飲みたくない。

だけど、飲まずにはいられない。酔わずにはいられない。

何がおじさんを缶チューハイへと駆り立てたのか。彼の心中を察することはできないが、あれはまちがいなく「我慢の酒」だと思う。



我慢している人はこわい。

いつか爆発しそうな気がする。

お酒が好きな人ならお酒で発散できるかもしれない。

でも酒を好きでない人が酒を飲んでもストレスが溜まるだけだ。

公園で缶チューハイを飲んでいるおじさんに言ってあげたい。

「無理しなくていいんですよ」と。

「カルピスとかヤクルトとか飲んだほうが幸せになれますよ」と。


そしたらおじさんはどんな顔をするだろう。

案外「うるせえ、おれはこの世の飲み物のなかでチューハイがいちばん好きなんだよ」と言われるかもしれない。


2017年4月26日水曜日

高校生のとき、教室で鍋をした


高校生のとき、教室で鍋をした。


ぼくが通っていた高校にはエアコンはおろか、ストーブすらなかった。
同じ高校に通う姉から「高台にあるから消防法の都合でストーブをつけられないんだって」と聞いたことがある。
「ふーん、法律ならしゃあないな」と思って卒業まで寒いのを我慢して通ってたんだけど、今思うと、そんなわけない。
当時は本気で信じていたけど、たぶんだまされてたんだと思う。姉が嘘をついていたのか、姉もまた誰かにだまされていたのか。


昼休みに友人たちと「寒いなー。鍋とかやったらうまいだろうなー」みたいな話をしていて「じゃあやってみようか」となった。
男子高校生の唯一の長所である行動力のなせるわざだ。

担任に「教室で鍋やってもいいですか?」と訊いた。
担任は「そりゃああかんと言うしかないやろ」と答えたが、ぼくらはそれを「立場上イエスとは言えないが勝手にやるなら目をつぶる」という意味だと解釈した。

学校で鍋

完全な思いつきで「鍋をやろう」となったのに、じっさいに鍋をやるまでの段取りはじつに用意周到だった。
クラスの男子に声をかけて、参加者を七人集めた。
鍋やカセットコンロは重いので、前日に持ってきてロッカーの陰に隠しておいた。
学校帰りにスーパーに寄って食材を買いこんだ。

昼休みは五十分しかない。
のんびり鍋の準備をしていては、火が通って食べはじめる前に昼休みが終わってしまう。
あらかじめ自宅で食材を細かく切って、シイタケやニンジンなどの火の通りにくい食材は軽く下茹でしておいた。
お湯を沸かしている時間も惜しいので、ポットを持ってきて昼休みの前の4時間目に沸かした(授業中にお湯が沸いて教室の後ろから急に蒸気が噴きだしたのは誤算だったが、なんとかごまかせた)。


四時間目の授業が終わるとすぐに、机を移動させて大きなテーブルをつくる。
急いでカセットコンロに鍋をセットし、沸かしておいたお湯を入れ、がんがん食材を放り込む。
出汁をとっている時間はないので水炊きにした。
下茹でをしておいたおかげでどの食材もあっという間に火が通る。
ポン酢につけて、口に運ぶ。
うまい。
教室で食う鍋は、めちゃくちゃうまい。

廊下側の席だったので、窓ガラスが湯気で曇った。
ストーブがないから余計に目の前の火と湯気がやさしくぼくらを温める。
「四組の教室で鍋をやってるやつがいる」とうわさが流れたらしく、いろんな生徒がのぞきにきた。
鍋の前では人はみな饒舌になる。「めちゃくちゃいい匂いやなー」「ちょっとちょうだい」と声をかけられ、ぼくらは誇らしかった。


後片付けの時間も考え、昼休みの十分前には食事を終わらせた。
せわしない鍋だったが、そこは食べ盛りの男子高校生。すべての食材がなくなった。

まもなく5時間目の授業がはじまる。鍋を洗っている時間はないので、とりあえず教室の後ろの隅においてビニール袋をかぶせた。
カセットコンロや食器を片付け机を元に戻したところで、ちょうどチャイムがなった。


五時間目の英語の先生が、教室に入ってくるなり「なんでこの教室、こんないい匂いなん!?」と声を上げた。冬場で教室を締め切っていたので、匂いが立ちこめていたのだ。
だが若くて冗談にも理解のある先生だったこともあって、それ以上深くとがめられることはなかった。もちろん五時間目がそういう教師の授業であることを見越して、その日を選択したのだった。


ぼくの人生において、あれほど周到に計画を立て、計画通りにことが運んだことはない。仕事をするようになってからも。

まったく、我が母校の校訓である「創意工夫」に恥じない鍋パーティーだった。


2017年4月25日火曜日

記憶の捏造

新社会人の子が入社してきて、

朝は「おはようございます!」

帰るときは「おつかれさまでした!」

って、違う部署のぼくにまで深々と頭下げてあいさつをする。
たいへんさわやかだ。
ああ若いなあ、ぼくにもあんな時代があったなあ。

って思ってたんだけど、よく考えたらぼくにはそんな時代なかったわ。
一日たりともあんなさわやかな時代なかったわ。

あぶないあぶない。
あやうく記憶を捏造して、昭和はよかったとか言う人になっちゃうとこだった。

逃げるように退社していた


2017年4月21日金曜日

「ねえ、過ちをおかして」


3歳の娘は「まちがえた」という遊びが大好きだ。
しょっちゅう「おとうちゃん、まちがえてー」と言ってくる。
そして、ぼくはわざとまちがえる。

とはいえ、覚醒剤に手を出したり不倫をしたりするわけではない。
そういう人の道をまちがえるやつじゃなくて、もっと単純な「まちがい」だ。



たとえば、保育園に行くためには右の道を通らなくてはいけないのにわざと左に行く。
妻の靴を履いてみせる。
犬を指さして「猫だ」と言う。

そして「あっ、まちがえた!」という。

ぼくがまちがえる姿を見て、娘はきゃっきゃっと笑う。
「それおかあちゃんの靴やでー」と訂正してくることもあるし、真似して自分もわざとまちがえることもある。そしておかしそうに笑う。
たあいもない遊びだ。
これを何十回もくりかえさせられる。
大人からすると「もうかんべんしてくれよ……」という気分になる。


しかし、この「まちがえて」の遊びは、3歳児にとってはけっこう高度なことをしているのかもしれないと気がついた。
  • この生き物は犬である
  • 猫という生き物もいる
  • 犬と猫は別種であり、重なることのない概念である
という3段階の判断をしており、その結果としての「まちがえた!」に笑っているわけだ。
身の回りのものをあるがままに受け入れていた時期は終わり、自分なりの常識を持ってそれに適合する/しないを判断しながら生きているわけだ。

おおっ、たいへんな進歩じゃないか。
つい1年前までうんこ漏らしてたのと同じ人間とは思えない。今でもたまに漏らすけど。



2017年4月20日木曜日

自分の人生の主役じゃなくなるということ


いちばん影響を与えた本


人生に影響を与えた本はいっぱいあるけれど、あえて1冊選ぶなら、リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』 を挙げたい。


二十歳くらいのときに『利己的な遺伝子』を読んで、それまで学校教育やテレビで押しつけられてきた「努力」だとか「優しさ」だとか「愛情」だとか「正義」とかがみんないっぺんにふっとんだ。
なーんだ、努力とか優しさとか愛情とか正義とかって、こんなにどうでもいいものだったのか、と目から鱗が落ちた。

思春期のころはみんなそうだと思うけど、ぼくもいっちょまえに「人は何のために生きるんだろう。自分は何を成し遂げられるんだろう」と思い悩んでいた。答えなんて見つかるわけないから、好きでもない新しい環境に飛び込んだり、好きでもない人と会ったり、模索を続けていた。
でも答えは『利己的な遺伝子』に書いてあった。

人は遺伝子の乗り物にすぎない。


乗り物の目的は?
乗り手を運ぶこと、ただそれだけ。
それ以上の意味なんて必要ない。
自転車が愛や美や善を担う必要がないように、乗り物としての人にとっても「遺伝子様を運ぶこと」以上の意味なんかどうでもいい。

そりゃあダサい車よりかっこいい車のほうがいい。でも車の最大の目的は「人を乗せて走ること」だから、どんなにかっこよくても人を乗せられない車は車じゃない。飛べない豚はただの豚だし、飛べる豚は脂の乗ったコクと鳥の持つあっさりした口あたりを兼ねそろえていておいしそう。何の話だったっけ。



ぼくらは死ぬけど遺伝子は生きる


ぼくらの細胞は毎日大量に死んでいくけど、それでも新しい細胞がどんどんできて、1年もすればもうまったく別の細胞に入れ替わっているらしい。
だけどぼくらは別人になるわけじゃない。細胞が死んだってぼくらが死ぬわけじゃない。

ぼくらと遺伝子の関係も同じこと。
ぼくらは100年ちょっとすれば完全に入れ替わるけど、遺伝子はずっと生きている。ぼくらが死んでも遺伝子は死ぬわけじゃない。


結局、人は遺伝子を残すためだけに生きている。

ってなことを書くと、「いろいろな事情で子孫を残せない人を人間扱いしないのか」って言われそうだけど、そんなことはない。
『利己的な遺伝子』を読めばわかるけど、子どもを産むことだけが遺伝子を残す方法じゃない。
甥や姪や従兄弟の子だって、自分と同じ遺伝子を持っている。
赤の他人だって、いくらかは共通の遺伝子を持っている。

だから人類みんなのためにおこなう行為がめぐりめぐって自分の遺伝子のためになるわけで、そうすると愛とか善とかも無意味なものではないということになるんだけど、どっちにしろ「人の行動はすべて遺伝子様に尽くすための行動」ということに変わりはない。



生きるのが楽になった


「自分は遺伝子にコントロールされる乗り物にすぎない」ということを受け入れた後は、生きるのがすごく楽になった。
だって乗り物なんだもの。何を悩むことがあろうか。

しょせんは乗り物

後世に遺伝子を残すことさえできればそれでいい。しかもそれは自分の子孫という形じゃなくてもいい。
生きることのゴールが、「善く生きる」という崇高である上によくわからない目標から、「人類が死滅しないこと」に変わったわけだ。
しかもアメリカ大統領ならいざしらず、「人類を死滅させない」ためにぼくができることはほとんどない。
借金に苦しんでいたのにいきなり徳政令を出されたような気分だった。




ぼくは主役の座を降りた


さらに子どもが生まれたことで、生きることの負担はさらに軽くなった。

子どもが生まれて1年くらいしてからだろうか。
友だちと話していて、ふっと「ぼくはもう人生の主役じゃないからなあ」という言葉が出てきた。
それまでそんなことを考えたこともなかったから自分でも驚いたのだけど、「人生の主役じゃない」という言葉は己の心境をよく言い表していた。


あたりまえだけど、それまで自分の人生の主人公は自分だった。
誰が何といおうとぼくの人生はぼくのためにあったし、他の登場人物はすべてぼくを引き立たせるための脇役にすぎなかった。通行人Aとか森の樹Wとかぐらいの扱いだった(森の樹多いな)。
誰しもがぼくのためにあった。

でも、子どもがすべり台をしている横で寒さに震えながらじっと付き添っているぼくは、明らかに脇役だ。
ぼくの人生において、父や母が主役を支える脇役だったのと同じように。

我が子だけではない。
娘と同じ年頃の子どもたちを見ていると、「ぼくはこいつらのためなら死ねるかもしれない」と思う。
無条件に命を投げ出すのはイヤだけど、「知らない子どもが溺れていて死にそうだ。飛び込んだら自分も50%の可能性で死ぬけど、50%の可能性で助けられる」という状況だったら、ちょっと迷うけれども飛び込めるんじゃないかと思う。
それってマリオを助けるためにヨッシーを切り離して穴底へ落とすようなもので、寂しいけど脇役なんだからしかたないとも思う。

もちろん何歳になったって、子どもや孫や雲孫(孫の孫の孫の孫)が何人いようと、「おれの人生の主役はずっとおれだぜ!」って人もいるんだろうしそれはそれでけっこうなことだけど、ぼくは「脇役は脇役なりの楽しみ方をすればいいや」って気持ちだ。
もともと主役は遺伝子様だったんだし。

ぼくはヒーローの座を降りた


2017年4月17日月曜日

未開人の前ででかい顔する話


自動車とか炊飯器とか電子レンジとか冷蔵庫とかデジカメとかタブレットとか、今の時代の文明の利器を大量に持って明治時代に行く(電力やガソリンは使えるものとする)。


その時代の人が困っていたら、自分が発明したわけでもないのに
「しょうがねえなあ。今回だけだぞ」
と偉そうな顔をして文明の利器を貸してやる。

もちろんその時代では誰もがぼくをあがめたてまつる。
みんなから感謝されるから、何を生みだしたわけでもないのに、自分が偉くなった気になって自尊心は満たされる。
ぼくが活躍する物語まで作られるし、さらには「みんな大好き犬犬さん」と、ぼくをたたえる歌まで作られて、みんながもてはやしてくれる。

そんな、ドラえもんみたいな生き方がしてえなあ。


書店が衰退しない可能性もあった

とある本に「人は、自分が通ってきた道に厳しい」という言葉があった。
妊婦や子育て世代に対していちばん厳しいのは、少し前にそれを経験した40代女性なのだとか。

ぼくは本屋で働いていたので、本屋には厳しい。出版業界に厳しい。
「このままじゃAmazonにやられて町の本屋がつぶれる!」なんて声を耳にすると「つぶれるのもしょうがないよね」と思う。
  • 目当ての本があるかどうかわからない
  • 注文してもいつ入荷するのかわからない
  • 傷んでいることが多い
こういう欠点があると、本好きな人ほどリアル書店を離れてAmazonに行きたくなる。

リアル店舗のメリットしては「立ち読みできる」ぐらいだけど、たいていの書店では漫画は立ち読みできないし、今ではオンラインである程度内容が確認できることが多い。


こうした問題が改善されることはないだろうし、Amazonはどんどん進化していくだろうから、リアル書店がつぶれていくのは避けられない。

それ自体は誰が悪いわけでもない。
どんな商売だっていつかは新しいものにとって代わられる。
Amazonが存在しなかったとしても、別の何かが書店を衰退させただけだろう。

ただ、ぼくは思う。
衰退するにしても、もう少しうまくやれなかったのか、と。

アマゾンと斜陽




とことんダメだった取次システム


今、本屋の抱える問題の多くは、取次というシステムに起因するものだ。

ご存じの方もいるだろうが、通常、出版社から書店に直接本が送られてくることはない。
取次と呼ばれる会社(日販とかトーハンとか聞いたことがあるかもしれない)が必ず間に入る。
出版社は取次に本を送り、取次が書店に本を送る。お金の流れはこの逆だ。

数万の出版社が数十万の書店にそれぞれ本を送っていたら、どう考えたって効率が悪い。
中継点を挟んだほうがうまくいく。だから取次システム自体には何の問題もない。

ただ、この取次が「おまえら仕事する気あんのか?」と言いたくなるような雑な仕事をしていた。そこに大きな問題がある。

※ ぼくは書店員として某取次1社としか取引をしていなかったので、たまたまその会社がひどかっただけかもしれない。またぼくが書店にいたのは5年くらい前までなので、今は状況が変わっているかもしれない。


まずわかりやすいところでいうと、本の輸送状態がひどかった。
取次から書店には段ボールやビニールに入って本が送られてくるのだが、本がぐんにゃり曲がっているなんてのはざらで、ひどいときはカバーが大きく破れたりしていた。
もちろんトラックで揺られながら運ぶのだから多少の破損が出るのはいたしかたない。だが、段ボールの中で本を縦に詰められてその上に別の本が乗せられていたりするのだ。誰が見たって本が破損するってわかるだろうに。
野菜なんかとちがって、本はみんな同じ形をしている。判型の違いこそあれ、ふつうに考えて箱詰めすればそうそう破損することはない。
なのによほど時間がないのか、縦横斜めに本が詰められて運ばれてくるのだ(本を斜めに箱詰めするなんて頭おかしいとしか思えなくない?)。

お客さんから「今度発売の〇〇っていう本を予約したいんだけど」と言われ「あ、ちょうど1冊入荷します!」と答えたのに、その1冊が入荷時に破損していた、なんてこともあった。
楽しみに本を買いに来たお客さんに対して「すみません、すぐに取り寄せますので……」と頭を下げたものの、「だったら他の店で探すのでいいです」と言われて、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。ぼくがあのお客さんの立場だったら「もうこの店は利用しない」と思うだろう。

本なんて、立ち読みをされたってそうそう傷まない。
破損は、取次から書店に入ってくる段階での発生が圧倒的に多かった。



それから、他の業界の人からはびっくりされるのだけれど、
「新刊本が発売日に何冊入ってくるかは書店側では決められず、取次が一方的に決める」
「しかもそれがわかるのが2~3日前」
というルールもあった。
これは取次が悪いわけじゃなくて出版社がギリギリまで部数を決めないせいらしいんだけど。

たとえば村上春樹の新作小説が発売される、ということになる。
発売前に、お客さんから「予約したいんです」と言われる。
わざわざ予約してくれるなんて、本屋からするとすごくありがたいお客さんだ。こういうお客さんを大事にしたい。
でも。
断らざるをえない。「すみません、予約は受けられないんです……」。
なぜなら何冊入荷するかわからないから。
「発売日に入荷しない可能性もありますけど、それでもよろしければ……」
「だったらいいです」
あたりまえだ。確実に手に入らなくて、何のための予約だ。


新刊本だけじゃない。
取次はまったく在庫の管理ができていなかった。
取次にどの本が何冊あるか、誰も把握していないのだ。倉庫に見にいって「あー1冊だけあるねー」、みたいな感じなのだ(ぼくは取次倉庫に行ってじっさいにそういう現場を見た)。
出版社から何冊入荷して、各書店に何冊納品して、何冊返品されて、何冊廃棄処理されて、というデータはすべて存在するはずなのだから、あとはそれをデータベース化して、各書店員が確認できるようにすればいいだけなのに、それをしていなかった。
昭和時代の話じゃないよ、2010年頃の話だよ。小学生でもパソコン使ってる時代の話だよ。
今はシステム化されてるのかもしれないけどね(ぼくの勘では今もないと思う)。


そのデータベースがないから、本の注文は「とりあえず注文してみる」だった。
お客さんから「〇〇という本を取り寄せてほしいんだけど」と言われる。
出版社に電話をする(わあ、アナログ!)。
「〇〇という本を取り寄せたいんですけど」「承知しました。では取次経由で送ります」
そして出版社から取次経由で書店へ入荷。この間、約10日。Amazonなら? 即日配送、翌日到着。

それでもまだ、ある場合はいい。でも出版社に在庫がない場合もある。
でもひょっとしたら取次にはあるかもしれない → データベースがないからとりあえず注文する → 数日後「ありませんでした」という返事が来る → お客さんに謝罪の電話 → お怒りの言葉「何日も待たせて、結局ありませんってどういうことだよ。はじめからAmazonで買えばよかった!」
ごもっとも。書店員のぼくもそう思ってました。


こんなことは一書店員の愚痴レベルで、書店が滅びゆく原因の一部でしかない。
だけど、何かが終わるときはその要因はひとつじゃない。こうしたことの積み重ねが、書店をつぶすのだと思う。




本は消えない。文化も衰退しない。


取次の悪口ばかり書いたけど、もちろん書店もダメだった。何も変えようとせず、旧来のシステムに必死にしがみついていた。
ぼくが働いていた書店はぼくが辞めた1年後につぶれた。責任はぼくにもある。

「このやり方、今の時代にあわないから変えたほうがいいよね」
と、たぶんみんなが思っていた。
同時に「でもどうせ変えられないだろうけど」とも。

でも、Amazonは変えた。
在庫を管理してユーザーにもリアルタイムで確認できるようにし、適正な仕入れをおこない、送品方法も改善した(10年前はAmazonから送られてくる本は傷んだり曲がったりしていることが多かった。今はまずない)。

取次と書店が経営努力不足により、Amazonに負けた。ただそれだけ。
「町の本屋がなくなると文化が衰退する」なんて声もあるが、そんなことはない。レコード屋はなくなってMDもなくなったけど音楽文化は衰退していない。
新聞は衰退しているが、人々がニュースサイトやアプリでニュースを目にする機会は昔より増えた。

書店が消えゆくのは、必然だ。
でも、Amazonに負けない方法はあったと思う。

たとえば、すべての出版社と取次が共同でAmazonみたいなWEBサイトを作っていたら。
書店員がPOPを書く時間を、そのサイトの改善に費やしていたら。
そこで注文したら自宅近くの書店に翌日届くシステムを作っていたら。
返品リスクがないわけだから再販制度を捨ててもっと安く売っていたら。
個別配送しなくていい分、Amazonよりも安く売っていたら――。

本屋は衰退するどころか成長していたんじゃないだろうか。
もちろんこんな案は完全に後出しジャンケンだし、歴史が100回くりかえしたとしても起こりえないだろう。
だけど、取次や本屋がAmazonに勝つチャンスはゼロではなかった。だけど、そのチャンスをものにできなくて負けた。
それだけは言っておきたい。



2017年4月14日金曜日

読書とスーパーマリオブラザーズ3の共通点

本を読む習慣がない人から「なんか読書って敷居が高いよね」と言われた。

まあねえ、慣れてない人にはそうかもねえ、ってそのときは思ったんだけど。

いや待て。
読書って敷居が高いのか?
むしろ、趣味としては相当間口が広いんじゃないのか?

というわけで読書、その中でも小説を読むことの "敷居" について考えてみた。

ハードルを乗り越えた先がいい場所とはかぎらない


もちろん 文字を読めない人にとっては、読書は敷居が高い。とんでもなく高い。
今、たどたどしく一文字ずつ「の、ち、ん、ぽ、が、ら、な、い」と読んでいるうちの3歳児を見ていると、こいつがあと10年もすればたいがいの文章をすらすら読めるようになるとはとても信じられない(3歳児に『夫のちんぽが入らない』を読ますな)。

でも、かなと常用漢字を読める人であれば、読書って十分に楽しめるものだと思う。
古典や翻訳ものはべつにして、軽い小説やエッセイであれば特に前提知識を必要としない。


かたや 他の趣味を考えてみよう。

たとえばプロ野球観戦。
読書でいうところの「文字が読めること」に相当するのが、「野球のルールを知っている」だ。
じゃあ野球の基本的なルールを理解していればプロ野球の試合を観て100%その魅力を味わえるかというと、そんなことはないと思う。たぶん50%ぐらいじゃないだろうか。
両チームが現在何位で、昨年の成績は何位で、ピッチャーは何年目でここまで何勝を挙げていて、バッターはドラフト何位の選手で打率や本塁打数はどれぐらいで、ランナーはどこの高校を出ていてケガをしたのはいつで、センターを守っている選手の肩の強さはどれぐらいで年俸はいくらで昨年までどの球団にいたのか……。

そういうことを把握していたほうが、ぜったいにプロ野球観戦は楽しい。
毎日のようにプロ野球の結果を確認して、選手名鑑を読みこんで、ドラフトや契約更改の情報をチェックして、キャンプ情報なんかも見て、そういうことを何年も何十年も続けたうえで試合を見たほうが楽しめる。

野球を楽しむためには、これぐらいのデータを頭にたたきこんでおく必要はある


こないだ稀勢の里が優勝決定戦で勝利して大きな話題になったけど、あれもあの一番を見ただけではそのすごさがわからない。
貴乃花を最後にずっと日本人横綱が不在で、朝青龍の時代に横綱の品格が問題になって、その後白鵬を筆頭にしたモンゴル勢の時代が続いて、稀勢の里は将来を嘱望されながらなかなか大関に昇進できなくて、師匠が亡くなって、先場所やっと横綱昇進を果たして、場所の途中で怪我を負って出場が危ぶまれていて、対戦相手の照ノ富士はモンゴル出身力士で……という背景を知っているのと知らないのでは、あの一番の重みはぜんぜん違う。

つまりスポーツ観戦を十分に楽しもうと思ったら、少なくとも10年は見続けないといけないと思う。
もちろん初心者でもそれなりに楽しめるけど、10年見続けている人とは理解の度合いに大きな差が生じてしまう。
これを「敷居が高い」と言わずしてなんといおう。

他の趣味でも同じこと。
昨日カメラや自転車や将棋や古銭集めや陶芸をはじめた人が、20年間それを趣味にしている人よりも深淵を味わうことはできないだろう。


だけど 読書については、「これまで教科書以外で小説を1冊も読んだことのない人」と「過去に1万冊読んできた人」が同じ本を手に取ったとき、初心者のほうが深い部分に達することが十分にありうるのではないだろうか。

もちろん、読書にも「前提知識があったほうが楽しめる」部分は存在する(続編とかはおいといて)。
たとえば村上春樹の新作を読んだとき、『ノルウェイの森』を読んだことのある人は「これは『ノルウェイの森』のあの部分と共通するな」といった楽しみ方ができる。
でもそれで増える楽しみって、せいぜい2%ぐらいじゃない?

本というメディアは基本的にその1冊の中ですべての情報が提示されているので、毎回まっさらな状態で接することができる。そこに初心者と熟練者を隔てる大きな壁は存在しない。
だから敷居が低い、とぼくは思う。
(映画も近いかもしれないけど、映画は俳優の過去の出演作品やプライベートな情報が多少乗っかるので、完全にまっさらではないと思う)


逆に 言うと、たくさん読んだからって読書スキルが積みあげられるわけではない。
多少読むのが速くなるぐらいだし、速ければいいというものでもない。

読書は、毎回一からのスタートだ。

スポーツ観戦やギターや蒐集の趣味がオートセーブ型のロールプレイングゲームだとしたら、読書は初代ファミコン版の「スーパーマリオブラザーズ3」。どれだけがんばっても、セーブができないから次回はまた一から。

べつにどっちがいいとかじゃなくて、積みあげていくのも楽しいし、毎回新しい気持ちで取り組める趣味も楽しい。

ただ「読書は敷居が高い」という点だけは否定しておきたいと思う。

1冊読むコストはすごく安いしね。



2017年4月12日水曜日

いちばんセンスのないあだ名


4月
といえば、あだ名をつけられる季節。
きっと今頃、いろんな学校やサークルや会社で新しいあだ名がつけられていることでしょう。

あだ名には、つけた人間のセンスが如実に表れる。
世の中にはセンスのいいあだ名をつける人がいる。

ぼくが知っている中で、いちばんセンスを感じたあだ名は「貯金」だ。
大学のサークルに入ってきた新入生を見て、先輩が「おまえ貯金してそうやな」という理由でつけたものだ。
たしかに、その名をつけられた貯金氏はがんばって小金を貯めてそうな顔をしていた(金持ちっぽかったわけではない。本当に「貯金」をしてそうな見た目だった。預金じゃなくて、豚の貯金箱にお金を入れてそうだった)。
しかも「ちょきん」という音の響きは呼びやすいし親しみもある。
「資産家」とか「リッチ」だったら若干の悪い響きも含まれているが「貯金」にはそれもなく、付けられた当人も「貯金ってあだ名としておかしいやろ~」と言いながらもまんざらでもなさそうだった。

  • つけられた経緯がエピソードとして印象に残る
  • 当人のキャラクターにしっくりくる
  • 呼びやすい
  • 言葉に悪いイメージがない
  • オリジナリティがある

と、五拍子そろった秀逸なあだ名だった(しかし五拍子ってリズム悪いな)。



では逆に センスのないあだ名とはどんなものだろうか。

ぱっと思いつくところでは、「名前をもじっただけのあだ名」というものがある。
すなわち「よっしー」「さかもっちゃん」「ナベさん」「はるちん」「ミカピー」みたいなやつ。あだ名を聞いただけで、名前がある程度推測されるやつ。
これはお世辞にも「センスのある」あだ名とは言えない。
ただ、これがワーストかというと、それも違う気がする。だってつけた人は何も考えていないのだから。

こうしたあだ名をつける人は、「狙って」いない。
あだ名をつけることで己のユーモアを示してやろうとか、気の利いた比喩表現を見せてやろうとか、そういった意図がない。
「他人のあだ名という土俵を借りて自分の才覚で相撲をとってやろう」という勝負心がないので、そもそも「センスがあるかないか」という勝負の舞台にすら立っていない。

「坂本くんと呼ぶよりはもうちょっと踏み込んだ関係をあなたと築きたい」という意志表示としての「さかもっちゃん」なので、ある意味これはこれですごく正しい。あだ名って元来そういうものだし。
みんながみんなこういう「狙って」いないあだ名をつける世の中になれば、きっと世界は平和になると思う。それはすごくつまんない世の中だろうけど



じゃあ センスがないあだ名、すなわち己の持てる感性を誇示してやろうと「狙って」つけたにもかかわらず愚かにもその企図が失敗しているあだ名とは何なのか。


ずいぶん前置きが長くなってしまったが、ぼくが思う「いちばんセンスのないあだ名」は

同じ苗字の有名人の名前をつける あだ名だ。

たとえば夏目さんに対して「漱石」とつけるようなやつ。
野口に対して「英世」とか「五郎」とか「みずき」とかつけるようなやつ。

元祖・英世

このタイプのあだ名、誰しも一度は聞いたことがあるだろう。つけられたことのある人もいるだろう。そしてうっすらと嫌な思いをしただろう(わざわざ抗議するほど嫌でもないのが余計にタチが悪い)。

  • 笑えない
  • 当人のキャラクターと何の関連もない
  • オリジナリティがない
  • 呼ばれる側を不快にさせる
  • つけられた経緯が安易に想像できて周囲の人間も不愉快になる

と、悪いところが五つそろった逆ロイヤルストレートフラッシュなあだ名だ。



この手の センスのなさが前面に出たあだ名がつけられる時季は、圧倒的に4月が多い。
こういうあだ名をつけるやつは、ふだんは周囲から相手にされていない分、入学直後とかの新しい環境でまだ嫌われていないときは1年でいちばんイキイキとしていて、
「おまえ速水っていうの? じゃあ "もこみち" って呼ぶわー。もこみちー!」
なんてうすら寒いことを言いだす。

言われたほうも、他の季節なら「冷ややかな顔で小さくため息をついてから無言で目をそらす」ぐらいのリアクションをとるのだけれど、なにぶん4月は周囲から浮かないように気を付けている時期。「ハハッ」とミッキーマウスのような乾いた愛想笑いをして甘んじて受け入れてしまう。


このような悲劇はもうくりかえされてはいけない。
だから新学期になったら真っ先に担任教師から
「同じ苗字の有名人のあだ名をつけないように。
 あと雑巾2枚持ってくるように」
と伝えることを忘れないようにしていただきたい。


2017年4月5日水曜日

「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」が教えてくれること

学校の国語の授業で「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」ってあったけど、そんなの作者本人じゃないんだからわかるわけないじゃない!

どうせ「締切早く終わらせなきゃ」とかでしょ!


……ってな批判をよく目にするよね。

言ってる本人は鋭い批判してるつもりなのかね。

たぶん何十年間も、何万人もの人が言ってると思うけど。

締切に追われる作者


それはそうと ぼくは「作者の気持ちを答えなさい」はいい設問だと思う。
「正解のない設問」に対して頭を使うのは、とても大事なことだ。

「作者の気持ちなんてわかるわけないじゃない!」と言って思考停止してしまう人間にならないためにも、こういう問いに対して頭を使う訓練を学校でやったらいい。



もちろん 作者の気持ちなんてわかるわけがない。
でもぼくらは想像することができる。
正解を出すことはできなくても、論理的に思考を組み立てて、他者を納得させるだけの解を導きだすことはできる。

「私は、作者は〇〇と言いたかったのではないかと思います。なぜならば、□行目に~という記述があるからであり、△行目の……という描写もそれを裏付けているように思います。またこの結論は直前で書いている××という記述とも矛盾しません」
という推論を述べ、それを明確に否定するだけの根拠を他者が文章中から見つけだすことができなければ、その解答は「とりあえず誤りとはいえない」ということになる。

ふつう、ぼくたちが生きる社会において信用されるのは、
この「とりあえず誤りとはいえない」解を導きだす作業ができる人であって、
他者の推論に対して「そんなの100%正しいとはかぎらないだろ! ぜったいに正しいっていう証拠を見せろよ!」とまくしたてる人ではない。



だから 「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」は、論理的な思考力を養ううえでとても優れた設問だとぼくは思う。

さらにみんなにアンケートをとり、「クラスの60%はAだと思い、20%はBだと思った。Cだと思ったのは1人だけだった」と結果を出せば、もっと多くのことを学べる。

「自分の考えは多数派に属しているものなのか、独創的なものなのか」を知ることはとても大事なことだ。どっちがいいとか悪いとかではないけど、知るだけは知っておいたほうがいい。

「このとき作者の言いたかったことを答えなさい」のトレーニングは、相手をやりこめることを目的にしたディベートよりも、ずっとずっと学問やビジネスの役に立つと思うよ。

ディベート


それにさ。 妻から「なんであたしが怒ってるかわかる?」って聞かれたときに、「そんなの本人じゃないんだからわかるわけないじゃない!」って言って逃げるわけにはいかないんだよ、夫という弱い立場にあるものとして……。

正解はわからなくても、とりあえず今持っている手がかりを材料にして推論を組み立てて、いくつもの「これだけは言っちゃいけない」言葉を慎重に避けて、「とりあえず誤りとはいえない」答えを導きださなきゃいけないんだよ……。




2017年3月24日金曜日

恫喝にしか使えない道具

教習所で、「クラクションは『どけ』とか『もたもたすんな』というために使うものではありません。危険回避のために使うものです」と教わった。

そのとおりだと思う。
車は急に止まれないから、「あぶない! このままだとぶつかる!」というときにだけ使うようにしてもらいたい。


でも。
自転車のベル。
なによあれ?

あれ、危険回避のために使えないよね?
自転車で誰かにぶつかる寸前に、ベル鳴らす人いる?
ブレーキを握るか、ハンドルを切るよね?



自転車のベルって、「どけ」以外の目的で鳴らすことはない。
恫喝にしか使えない道具。
不良がけんかをする前に指をポキポキ鳴らす、あのしぐさと一緒。

なんで自転車にあんな物騒なものの装着が義務付けられているのか、ふしぎだ。




2017年3月20日月曜日

ぼくらがコーヒーを飲む理由


仕事中にコーヒーをよく飲む。

どれぐらい飲んでるんだろうと思って数えてみたら1日に6杯飲んでいた。
明らかに飲みすぎだ。

よほど眠たいのだろうと思われるかもしれないが、そんなことはない。
毎日7時間半くらいは眠っている。土日はお昼寝もする。
決して睡眠不足ではない。

よほどコーヒー通なのだろうと思われるかもしれないが、そんなこともない。
香りの違いなんてぜんぜんわかんない。
というかミルクをじゃばじゃばと入れるのでコーヒーの香りなんて雲散霧消している。
あんな苦いものをそのまま飲む人の気が知れない。
ぼくはミルクと砂糖を大量に入れるのでコーヒー通とはほど遠い。

じゃあなぜそんなにコーヒーを飲むのか。
それは「堂々と甘いものとミルクを口にできるから」ということに尽きる。


ぼくは甘いものとミルクが好きだ。
でも甘いものとミルクが好きなおじさんに対する世間の目は、キャラメルフラペチーノのように冷たい(しかしキャラメルフラペチーノほど甘くない)。
会社のデスクでミルフィーユ食べながらハチミツ入りミルクを飲んでいると、「きもーい」という目を向けられる(仕事中にお菓子食べているからかもしれない)。
でもコーヒーを飲むおじさんはなんとも思われない。
いや、じっさいはおじさんが何を食べようが誰も気にしていない。しかし自意識過剰なおじさんは不安なのだ。

ごくふつうの飲み物を飲む、ごくふつうのおじさんでありたい。
和を以て貴しと為す日本人でありたいとおじさんは思っている。
だからぼくはコーヒーを飲む。
堂々と甘いものとミルクを口にするために。



でもほんとは。

ほんとは、のむヨーグルトを飲みたい。
カルピスを飲みたい。
ヤクルトでもマミーでもいい。なんならミルキーをお湯で溶いたやつでもいい。
甘さとミルクの味の両方を楽しめる乳飲料が飲みたい。

スタバでもドトールでもUCCでもいいから、
「パッケージはブラックコーヒーとまったく変わらないけどミルクと砂糖たっぷりでコーヒー成分ゼロ」の【無珈カフェラテ】を発売してくれることを切望している。

感動をありがとう

街中で募金を集めている女の人が、
「善意の寄付をお願いします」
と声をはりあげていた。

あれっ。

いつから善意は他人にたかるものになったのだろう。
たかられて施すのは善意なんだろうか。
善意を人質にとって募金を集めるのはもう脅迫なんじゃないだろうか。

ただ単に「寄付をお願いします」でいいじゃないか。
その寄付が善意によるものなのか、使命感なのか見栄なのか税金負担軽減なのか宗教の教義なのかは寄付をする側の内なる問題なんだから。



同じような気持ち悪さを感じる言葉が「感動を与える」だ。

オリンピックの選手が
「日本中に感動を与えたいですね(キリッ)」
なんてことを恥ずかしげもなく語る。
映像がスタジオに戻ると、アナウンサーが負けじと
「日本中に感動を届けてくれることを期待しています!」
と紋切り型の文句をならべる。

感動を押しつけたい人がいて、感動をめぐんでもらいたい感動乞食がいるから、需給のバランスはとれている。好きにすればいい。

だが迷惑なことに、やつらはすぐに「日本中」を巻き込もうとする。
ぼくは夕方のスーパーで半額になってるおかずみたいなできあいの感動なんて欲しくないんだから、勝手に「日本中」でやらないでほしい。せめて「都内」でやってほしい(ぼくは都民じゃないから関係ない)。


感動は与えてもらわなくたって、人は何にだって感動できる。

前のロンドンオリンピックでぼくがいちばん感動したのは、
柔道の試合でアフリカの国の代表選手が時間稼ぎのためにわざと柔道着の帯をゆるく結んでは帯がほどけたといって何度もタイムをとり、審判に注意されてもくりかえしくりかえし帯をゆるめつづけたがために、とうとう怒った審判から反則負けを宣告されたという試合に対してだった。
「帯をちゃんと締めなかったために反則負けなんて超ダサい! 感動した!」


かの柔道選手は、アジアの片隅のひとりの男性に「感動を与えたい!」と思って帯をゆるめつづけたわけではない。
にもかかわらず、ぼくは涙が出るほど感動した(じっさい笑いすぎてちょっと涙が出た)。



感動なんてその程度のものだ。

今朝ぼくが電車に乗っているときに隣の女の人の胸元がちらりと見えたことで心がうち震えるほど感動して明日への活力がみなぎってきたわけだけど、彼女はぼくに対して「感動を届けたい」と思ったわけでも「元気をあげたい」と思ったわけでもない。たぶん。
ぼくが勝手に感動した、ただそれだけのことだ。

だからぼくはその女の人に向かって「感動をありがとう」とは言わなかったのだ。あえて。


2017年3月17日金曜日

やさしさが服を着て歩いている教頭

「鷹揚に構えている校長と、権力の座を狙って立ち回る小ずるい教頭」
という学園モノで定番の図式があるけど、あれにまったく共感できない。

なぜなら、ぼくが通っていた中学校の教頭がとんでもない人格者だったから。
いや、人格者というより"お人好し"といったほうがいいかもしれない。
足立教頭という50歳くらいの丸顔のおじさん。
彼はやさしさが服を着て歩いているような人だった。



やさしいことは、ときに罪になる。

授業中、足立教頭がAくんを指名して質問をする。Aくんは答えられない。
しかし足立教頭はあきらめない。ヒントを与えてヒントを与えて、なんとかAくんに答えさせようとする。ふつうの先生なら、ある程度の時間がたったらあきらめて答えを自分で言ったり、次の人を指名したりする。しかし足立教頭はAくんが答えるまで待つ。

当然ながら、授業は遅れた。


授業中に寝ている生徒がいると、足立教頭はにこにこしながら「〇〇くんは野球部やから朝練で疲れてんのかなあ」と言っていた。
そのやさしさに努力で応える気概のある中学生なんてほとんどいない。
足立教頭の授業では、起きている生徒のほうが少なかった。
委員長や風紀委員のような優等生ですら、彼の授業では寝ていた(授業がつまらなかったこともある)。


ぼくもまた、足立教頭をなめきっていた。
「この人なら、何をやっても怒られない」と思っていた。

だが、そんなぼくが冷や水をぶっかけられる事件が起こった。

その日、ぼくらは校長室の掃除当番だった。
校長は不在。
誰もいない校長室に、男子中学生。
遊ばないわけがない。
中に入るやいなや、「第1回全国中学校ふとももしばき選手権大会」が始まった。
ぼくらがキャッキャ言いながら遊んでいると、足立教頭が校長室に入ってきた。
ぼくは思った「あ、やべえ」。でも同時に「足立教頭でよかった」とも思った。

ふつうの教師なら怒鳴りつけるところだろう。
だが足立教頭は言った。
「おいおい、掃除しようぜ!」
そして。
ぼくにほうきを手渡し、自分は雑巾を手に取ると、しゃがんで床の雑巾がけを始めた。

「中学生に掃き掃除をさせ、自分が拭き掃除をする」
こんな教師がどれだけいるだろう。
生徒の足下ではいつくばって雑巾がけをできる教頭が何人いるだろう。

この人は何をやっているんだ。ぼくはこわくなった。
生意気な中学生だったぼくでも、さすがに教頭が雑巾がけをしている横で悠然としているわけにはいかない。
「いやいや教頭先生、ぼくが雑巾かけますよ」
と、雑巾をとりあげてまじめに掃除をはじめた。



ぼくは足立教頭から「人を動かす方法」を教わった。
それは恫喝や報酬ではない。恐怖だ。



2017年2月15日水曜日

けなげな美人

2月の寒空の下、中華料理屋の前で店員がビラを配っていた。

ティッシュとか有用性のあるものじゃなくてただのビラだから、歩を緩めて受け取る人も少ない。
都会の人はせちがらいね。
かといって田舎で夜にビラ配りしたって、下手したら1時間やっても誰も通りかからないわけだけど。

ぼくもビラ配りを無視して通りすぎようと思ったんだけど、ふとビラ配りをしているかっぽう着姿の店員の顔を見て目を見張った。


美人。


モデルみたいなギラギラした感じの美人じゃなくて、高校の吹奏楽部一の美人みたいな感じ。
大砲みたいにばかでかい金管楽器持ってたくましいのに漂う素朴な美しさと知性、みたいな感じ。
電車の中で凛として文庫本を読んでいるのが似合うような美人。


おおっ、と思って思わずビラを受け取ってしまいましたよ。
さっき飯食ったばかりだけど。

美人に弱いからね。
それも「働き者の美人」にはとびきり弱いからね。

美人はそこそこいるけど、「働き者の美人」ってすごいよね。
だって中華料理屋の彼女は、目を見張るぐらいの美人なんだよ。
もっと楽にお金を稼ぐ方法はいくらでもあるはず。

大学生かな?
同級生はキャバクラとかでバイトしてるんじゃないの?
なのに時給数百円の中華料理屋でバイト。しかも、冬の戸外でビラまき。

けなげ。

やっぱりあれね。美人とそうでない人の差って、つらい境遇におかれたときに出るね。
結婚式とかで着飾ってたら、だれだってそこそこきれいだもんね。
幸せに満ちて笑っているときは誰だって素敵に見える。

でも逆境でこそ美人は輝く。

シンデレラもマッチ売りの少女も人魚姫もきっと美人でしょう。
不幸なブスは見てられないもの。


中華料理屋の美人は、ばんそうこうが似合う。
冬の皿洗いでひび割れた指に貼ったばんそうこう。本人は恥ずかしいから隠そうとするんだけど、そのばんそうこうはどんな指輪やネイルよりも美しいよ!なんて気持ち悪い言葉をかけたくなるね。


しかしさあ、2月の夜ですよ。おまけに寒波ですよ。
こんなときに美人に外でビラ配りさせる店主ってすごくない?
ぼくが店主だったらぜったいに言えないわ。
他にバイトがいなかったとしても「いい、いい。おれが行ってくるから。カナコちゃん(仮名)はここでテレビ観といて。お客さん来たら呼んでね」って言って外に行っちゃう。

お父さんが店主で、お父さんの店でバイトってパターンかな。
それもいいね。
家の仕事を手伝ってる子って「けなげさポイント」が上がるよね。

娘が美人で良からぬ男が寄ってこないか心配だから、店の手伝いをさせている。
だけど甘やかしたらいかんと思うから、つらいビラ配りの仕事を命じる。
娘を送りだした後、ぐっとこぶしを握る親父。すまんカナコ(仮名)、おれだってつらいんだ。

こういうシチュエーションもいいね。
やっぱり美人はすべてが絵になるね。

2016年12月24日土曜日

烙印をきれいに押す


ビジネスの場で

「がんばります」
「努力します」
「全力を尽くします」
「注力します」
「全身全霊で取り組みます」
「最善を尽くします」

という言葉を耳にすると、ああこいつはずっと同じ失敗をくりかえすダメなやつだ、という烙印を押すことにしています。


頭脳労働に従事している以上、
「全力を尽くさなくても物事が円滑に運ぶようにする」
のが仕事というものです。

うまくいかなかった要因を「努力が足りなかったせいだ」と考える人間は、同じ失敗をくりかえしますし、また他人にも同じ失敗をさせます。

オフィスワークにおいて、常に全身全霊をかけて取り組まないといけないのは
「印鑑をきれいに押す」
という作業のときだけ!

2016年12月17日土曜日

世界のおかあさん


子どもの頃、おもちゃを取りあってきょうだい喧嘩になると、おかあさんが
「喧嘩するんだったらふたりとも遊んじゃダメ! これはおかあさんが使う!」
と宣言して、おもちゃを取り上げてしまった。

世界中で起きている領土問題も、そんなふうにしたらいい。
「北方領土をめぐって争うんだったら、2国とも使わせません! 南極みたいに誰のものでもない土地にします!」
とすればいい。

「日本としてはそこまで北方領土がほしいわけじゃないけど、目と鼻の先までロシアが来るのは嫌だ」

「ロシアとしても、北方領土がほしいというより、そこが日本領になって米軍基地とか造られたら困る」

みたいな事情があったりするわけだから、どっちのものでもなくなったら、それはそれで仕方ない。

それに「あと1年たっても仲直りできてなかったら領土没収します!」って締切を設定されたら、
「じゃあ四島を二島ずつで分けましょうか」
という現実的な話し合いもできるんじゃないかな。

世界のおかあさん的な存在の出現、待ってます。


2016年12月13日火曜日

【エッセイ】イークァイ、イークァイ

十数年前に北京に留学していたとき、寮で同室だったKさん。
Kさんはふしぎな人で、語学留学に来ているくせにまったく中国語を勉強しようとせず、スーパーマーケット(中国語では超市という)で謎の食材を買ってきて、毎晩そいつを肴に酒を飲んでいるだけだった。



そんなKさんと北京の街に買い物に出かけたときのこと。
一軒の店でKさんがバッグを見ていると、店員が声をかけてきた。
「おっ、それはいいバッグだ。今なら特別に100元でいいぞ」

もちろんこれはぼったくり価格だ。
中国では交渉するのが基本だから、「高すぎる。もっとまけろ」「90元」「15元なら買ってやる」なんてやりとりをして、値切って買うことになる。
外国人相手には、まず相場の5倍近い値をふっかけるのがふつうだ。

Kさんは勉強をしないので中国語がわからない。
ぼくが通訳をしてやった。
「100元でどうだって言ってるよ。でも明らかに高すぎるから値切ったほうがいいよ」

するとKさん、
「犬犬くん、1元ってなんていうの」
と訊ねてきた。
当時、1元は日本円で15円。
いくら中国の物価が安いとはいえ、バッグが1元は安すぎる。

が、ぼくは訳してあげた。
「1元はイークァイだよ」

Kさん、そのまま
「イークァイ、イークァイ」と店員に言う。

店員は苦笑しながらも交渉をする。
「じゃあ90元でどうだ」
「イークァイ(1元)、イークァイ(1元)」
「よしっ、80元」
「イークァイ、イークァイ」
「しょうがない。75元。これ以上は下げられないぞ」
「イークァイ、イークァイ」

すると店員、とうとう怒りだした。
「こっちは値下げしてるんだから、そっちも上げないと交渉にならないじゃないか!」
と。
店員の言うことももっともだ。
それを訳して伝えると、Kさんはぼくに訊ねた。

「犬犬くん、1.1元ってなんていうの」



結局バッグは買えなかったけど、いやあ、あれは百戦錬磨の中国人の店員に勝利した瞬間だったなあ……。