2020年7月9日木曜日

【読書感想文】サイゼリヤのような小説 / 道尾 秀介『笑うハーレキン』

笑うハーレキン

道尾 秀介

内容(e-honより)
経営していた会社も家族も失った家具職人の東口。川辺の空き地で仲間と暮らす彼の悩みは、アイツにつきまとわれていることだった。そこへ転がり込んできた謎の女・奈々恵。川底に沈む遺体と、奇妙な家具の修理依頼。迫りくる危険とアイツから、逃れることができるのか?道尾秀介が贈る、たくらみとエールに満ちた傑作長篇。

子どもを亡くし、妻と離婚し、家具製作の会社を倒産させてしまった主人公。ホームレスとなり、川原で生活しながらトラックひとつで家具修理を請け負い細々と暮らしていた。
だが素性の怪しい女が弟子入り志願してきたり、ホームレス仲間が謎の死を遂げたり、かつての取引先社長と元妻が仲良くしているのを目にしたり、明らかに怪しい家具修理の依頼があったりと次から次へと妙なことに巻きこまれ……。


と、次から次にいろんな出来事が起こるので読んでいて退屈しない。
いろいろ伏線があるけどちゃんと回収されて、収まるべきところに収まる。
エンタテインメントとしてすばらしい出来。

疫病神が見えたり、怪しさ満点の人物が現れたりとリアリティには欠けるものの、それもまた気楽に楽しむ上ではプラスかもしれない。あんまり深刻にホームレス生活を描かれても楽しくないもんな。

本筋はもちろん、家具修理の描写やたびたび引用される名言など、飽きさせない工夫が随所に散りばめられていて、作者の旺盛なサービス精神が感じられる。



……といった感想を書いたら、もう書くことがなくなった。

だいたいもっといろいろ書きたくなるんだけど、『笑うハーレキン』に関してはこれ以上特に言いたいことはない。

なぜなら、ちゃんとおもしろかったから。

サイゼリヤの料理みたいな感じかな。
ぼくはサイゼリヤによく行くんだけど、いついっても同じ味。いつもおいしい。
でもクセになる味というわけでもない。誰が食べても八十点をつけるような味。
だから「おいしかった」「この安さなのにおいしい」という以外の感想は出てこない。
もちろん、客としてはサイゼリヤにそれ以上のものは求めてない。安くておいしかったら満点だ。

『笑うハーレキン』もそんな感じだった。
徹底したエンタテインメント。きっと誰が読んでもそこそこ楽しめる。
めちゃくちゃ感動することも、すごくイヤな気持ちになることもない。
そういう本って感想を書くのがむずかしいんだよね。
「おもしろかった」としか言いようがないから。

で、一ヶ月もしたらどんな内容だったか忘れちゃうんだろうな。
でもそれでいい。それがいい。


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2020年7月6日月曜日

むだ泣き


うちの次女(一歳八ヶ月)は“むだ泣き”をしない。

泣くことは泣くが、おなかがすいたとかだっこしてほしいとかまだ寝たくないとかそれなりの理由があって泣く。

「ただなんとなく機嫌が悪くて」のようないわゆる“むだ泣き”はぜんぜんしない。
もっとも「むだ」というのは大人から見ての「むだ」であって当人にとってはむだじゃないんだろうけど。
それにしたって特に要求もないのに泣くのはエネルギーの無駄づかいだ。

むだ泣きをしない次女。
かしこいなあ、とおもう。親なのでなんでもかしこく見えるのだ。

毎朝、ぼくが保育園に送っていくのだが、家を出るときに泣く。
「おかあさんと離れたくない」ということだろう。
でも、おかあさんの姿が見えなくなったらぴたっと泣きやむ。
これ以上泣いてもしかたないと知っているのだろう。

保育園に預けてぼくが別れを告げると大泣きする。
毎日後ろ髪を引かれながら仕事に向かっていたのだが、あるとき忘れものに気づいて引き返したら、もう泣きやんでいた。その間わずか三十秒。
ぜんぜん後ろ髪引かれる必要なかった。

訴えたいことがあるときは泣くが、訴える相手がいなくなったら泣かない。
要領がいい。



その点、長女は要領が悪い。

ちょっとしたことで機嫌を損ねて、ずっとぐずぐずする。
怒りの相手がいなくなってもすねている。

友だちと遊ぶときに、長女はかくれんぼをしたいという。友だちはおにごっこがいいという。
なんとはなしにおにごっこがはじまってしまう。長女はふてくされる。
そこまではわかる。
ところが、その後「じゃあ次はかくれんぼしよっか」となってもまだすねている。
我が子ながら、アホなんじゃないの、とおもう。
今すねてもいいことなんかいっこもないじゃん。

また、言ってもどうにもならないことをずっと引きずっている。
長女が「〇〇食べたかった!」と怒ったときに、
こちらは「ごめん、もうないわ。また買ってあげる」とか「〇〇はないけど××ならあるよ。いる?」とか言ってなだめるのだが、一度おへそを曲げたらなかなか直らない。

ないものはどうしようもないのだから、代案を引きだせただけでよしとしたほうがいい。
そこで「いやだ! 〇〇がいい!」と強情をつらぬくせいで、「じゃあもう食べなくていい!」と言われ、「また今度買ってあげる」も「代わりの××」も手に入らなくなる。


つくづく損なタイプだ。
よく「きょうだいの上の子は要領が悪く、下の子は要領がいい」と言われるが、その典型だとおもう。
まあ下の子はまだ一歳なのでこれから性格も変わっていくのだろうが。



周囲を見ても、やっぱり
「上の子は要領が悪く、下の子は要領がいい」
ケースが多い。

娘の友だちのSちゃんには、二歳下の妹がいる。
この妹、すごく要領がいい。
電車に乗ると、すぐに寝る。
移動時間は退屈だと知っているのだ。
到着したらぱちっと起きて元気いっぱい遊べる。

おねえちゃんと喧嘩をすると怒るが、直接抗議しない。
言ってもむだだと知っているのだ。
代わりに、大人に抗議する。
「ねえねが〇〇したー!」と。
そうすると大人が姉を叱ったり、「代わりに〇〇しよっか」と優しくしてくれたりすることを知っているのだ。

大人に怒られてもむくれない。
逆に、にこっと笑う。
子どもの笑顔を見せられると、大人はそれ以上強く叱れない。

すごい。
齢四歳にしてもう世の中の立ち回り方を心得ている。
計算ではなく、自分より大きい人たちに囲まれて過ごすうちに自然に身についたのだろう。

「怒ってもしかたのないことには怒らない」
「言ってもむだな人には言わない」
「怒られているときこそ笑顔」
これだけで、ずいぶん楽しい人生を送れるとおもう。

ぼくも一歳児と四歳児を見習わなくては。

2020年7月3日金曜日

【読書感想文】本気でぶつかってくる教師は気持ち悪い / 三浦 綾子『積木の箱』

積木の箱

三浦 綾子

内容(e-honより)
旭川の中学に着任する朝、杉浦悠二は中学3年生の一郎と出会う。彼は、姉と慕っていた奈美恵と実業家の父の秘密を目撃し、自棄になっていた。担任となった杉浦は、一郎を気遣うが…。

中学三年生の一郎は、姉と思っていた奈美恵が父に抱かれているところを目撃してしまい、父の愛人であったことを知る。
世間的には資産家でありながら篤志家として評判のいい父親のことを尊敬していた父親とが愛人を家に住まわせていたこと、さらに母や実姉もその事実を知りながら何食わぬ顔で生活していることに大きなショックを受けた一郎。

その一郎が意欲に燃える若い教師と出会って心を開いて……ゆかない。
これがいい。
教師はすごく親身になって一郎のことを心配し、あの手この手で一郎を立ち直らせようとする。だが一郎はかえって教師に対して反発をおぼえる。


そうなんだよね。中学生ってこんなもんだよな。
優しくて正しくてまっとうなことを言う教師にはかえって反発するもんなんだよな。むしろちょっとやさぐれた大人のほうが誠実であるように見えたり。

テレビドラマみたいに単純なもんじゃないよね。
本気で生徒のことを考え、本気で生徒のことを叱り、本気で生徒を守ろうとする教師って、中学生からしたらいちばん気持ち悪い存在だもんな。

後になったら「いい先生だったなあ」とおもうかもしれないけど、ぼくが中学生のときのことを思いだしてみたらそのときは気持ち悪いとおもうだろう。
本気でぶつかってこないでくれ、と。

三浦綾子氏は教師をしていたというだけあって、思春期の男の気持ちをよくわかっている。
自分の性欲を持てあましながら他人には潔癖さを求めてしまうこととか、勝手に大人に期待して勝手に傷つくところとか、すごく男子中学生っぽい。

昔も今も、中学生の生態って変わってないんだなあ。



父親が愛人を囲っていることを知る……。
大人になった今なら、ショックは受けても「まあ親父だって男なんだからそんなこともあるかもな」とある程度は受け入れられるかもしれない。
しょせん親だって自分とはちがうひとりの人間だし、と。

しかし思春期の子どもにはそうかんたんに抱えきれない問題だろう。

高校生のとき、同じクラスの女の子としゃべっていたら、ふいに
「うちの親、もうすぐ離婚すんねん」
と言われた。
どんな流れだったかはおぼえていないが、突然放りこまれた言葉だった。
驚いたぼくは何も言えなかったが、彼女は
「父親がよそに女つくって、出ていくみたいやわ」
と勝手に続けた。
表情にも声の調子にも、感情は表れていなかった。完全な「無」だった。

その「無」に、ぼくは彼女の激しい怒りを見た。
内心では憎しみとか悲しみとか失望とかいろいろあったんだろうけど、たぶんそういう感情では乗り越えられなかったんじゃないかとおもう。
だから感情に固く蓋をして、「父親が浮気をして妻子を捨てて出ていく」という事実を遮断した。
そんな感じの声だった。ぼくが勝手に感じただけだけど。


うちの六歳児を見ていると、まだ親は自分の一部なんだろうなあと感じる。
親が自分のおもうとおりに動いてくれないと怒る。まるで自分の手足がおもうように動かないみたいにいらいらする。
ぼくも子どもを失望させないように気を付けなければ。浮気をするなら子どもが親と完全に分離してから(そうじゃない)。



小説の主題とはあんまり関係ないけど、数十年前の教師の姿の描写がおもしろかった。

生徒の保護者が教師に贈り物を渡したり(それもけっこう高価なもの)、教師のほうも堂々ともらっていたりといった姿が描かれている。
一部の悪徳教師だけでなく、「善良な教師ですら多少はもらう、完全にはねつけている教師は生真面目すぎる変わり者」みたいな描かれ方をしているので、当時はふつうにおこなわれていたことなんだろう。


母の話によると、母の父(つまりぼくのおじいちゃん)は官僚だったので、出入りの業者からお中元やお歳暮をはじめとする贈り物をいっぱいもらっていたらしい。
「庭の草が伸びてきた」といえば週末には取引先企業の社員がやってきて草刈りをしてくれ、「娘が犬をほしがっている」といえば数日で仔犬が贈られてきたという。

今の世の中だったら完全にアウトだけど、当時はふつうだったらしい。
ぼくのおじいちゃんはどっちかといったら規律正しい人だったけど、それでも平然と袖の下を受け取るぐらい、それがあたりまえという感覚だったのだろう。
賄賂という認識すらなかったのかもしれない。

そういやこないだ収賄容疑で取り調べを受けていた議員が「金は受け取ったが買収という認識はなかった」と語っていた。
そんなあほな、とおもうかもしれないけど、案外ほんとのことを言っているんじゃないかな。
政界に縁のない人間からすると「政治家が現金をもらったり渡したりしたら百パーセント贈収賄だろう」とおもうけど、ひっきりなしに金が動く世界にいたら感覚が狂うんじゃないかな。
お世話になっている人から「ま、ま、もらっといてください。もらうだけでいいんで」と言われたらなかなか断れるもんじゃないだろう。
真実はわかんないけどさ。

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2020年7月2日木曜日

ビールと母


母はビールが好きだ。
毎日飲む。量は飲まないが、毎日飲む。
飲まないのはよほど体調が悪いときだけ。1年のうち364.5日ぐらいは飲んでいる。
夏の暑い日は昼間から飲む。

酒に強いので、昔は量も多かったらしい。
けど、ぼくが三歳ぐらいのときに飲みすぎて発疹が出たことがあって、それ以来ふだんは一日に一本だけとしたそうだ(会食のときなんかはもっと飲むけど)。
「あのとき発疹が出ていなかったらわたしはアル中になっていたかもしれない」と母は語っていた。

父は母ほど酒好きではないが、付き合いで毎日飲む。
父のほうはあまり強くないので一本飲んだだけで酔っぱらう。だから量も増えない。経済的だ。

そんな家庭で育ったので、「大人は毎日酒を飲むもの」とおもっていた。
大学生になったときは(当時は世間一般的に十八歳でアルコール解禁とされていた)積極的に酒を飲んだ。
飲み会はもちろん、夜に人と食事をするときは必ずといっていいほど酒を飲んだ。ときどきひとりでも飲んだ。ひとりで居酒屋にも行ってみた。それが大人のたしなみだとおもっていたからだ。
飲みたいから飲むのではなく、「飲まなきゃいけないもの」とおもっていた。
「飲んでいればいつか必ず毎日飲みたくなる。それが大人というものだ」と。

しかし、何年かたってふと気づいた。
あ。お酒好きじゃないや。
飲めないわけじゃないし、嫌いでもないけど、べつに好きじゃないや。
なんなら飲むヨーグルトのほうがおいしい。
酒がなくたって平気だわ。大人数での酒宴は嫌いだし。
「大人だからって飲まないといけないわけじゃないや」と気づいた。

で、飲み会のとき以外は飲むのをやめた。
妻も飲まないので、家で飲むのは、焼肉か餃子を食べるときと、友人とスカイプで話すときだけ。それも飲んだり飲まなかったり。

月に一回飲むかどうか。
そうするとめっきり弱くなった。缶ビールいっぱいで眠たくなる。
弱くなるからなおさら飲まなくなる。

元々好きで飲んでいたわけじゃないから、やめたらいいことしかない。
お金もかからないし、寝つきも良くなるし、翌日も疲れない。

そんなわけですっかり飲まない生活に慣れたのだが、実家に帰ると文化の違いにとまどう。
母には飲まない人の存在が信じられないのだ。
食事のときは当然のように「アサヒでいいよね?」と訊かれる。
断ると「じゃあモルツにする?」と訊かれる。
ビールがいらないのだというと、「えっ、車じゃないでしょ? 体調でも悪いの!?」と驚かれる。
母からすると「この後車を運転する」「体調が悪い」以外の理由でビールを飲まないことが信じられないのだ。
彼女にとって「ビールを飲まない」は「ごはんを食べない」ぐらいの異常事態なのだ。

もしもぼくが母より先に死んだら、きっと棺桶に缶ビールを入れられ、墓に缶ビールをかけられたりするんだろうな。
「いやそんなに好きじゃないんだけどな……」とあの世で苦笑いだ。

2020年7月1日水曜日

ピアノ中年

三十代のおっさんだが、ピアノの練習をはじめた。

いきさつとしては、

娘がピアノ教室に通いだす
 ↓
はじめはがんばって練習していたが、サボるようになる
 ↓
娘に火をつけるため、ぼくがピアノを弾いて
「おとうさんのほうが(娘)よりも上手に弾けた!」
と言う
 ↓
娘、まんまと乗せられて
「(娘)のほうが上手に弾ける!」
と言って練習するようになる

ってのがはじまり。
それ以来、娘のライバルとして毎日のようにピアノの練習をしている。

やはりひとりで弾くより、競争相手がいたほうが練習にも熱が入るらしい。

妻はずっとピアノをやっていたのですらすら弾ける。
おまけに絶対音感の持ち主なので教え方も容赦ない。
「その音とその音はぜんぜん違うでしょ。聞いたらわかるでしょ?」なんて言う。
弾けない人、聞いてもわからない人の気持ちを理解できないのだ。
「わからないのはまじめにやってないから」とおもってしまうらしい。

ということで、六歳のライバルにはピアノ素人のおっさんのほうがふさわしい。

どんどん上達する娘のライバルでいられるよう、ぼくも一生懸命ピアノを練習している。



じつはぼくもかつてピアノを習っていた。

一歳上の姉が習っていたので、いっしょにピアノ教室に放りこまれたのだ。
五歳ぐらいのとき。

ピアノ教室に関して今もおぼえていることはふたつだけ。
ひとつは、発表会で弾きおわった後に舞台袖に引っこまず、舞台から跳びおりたこと。
もうひとつは、ピアノ教室の床で寝ころがって「ピアノやりたくない!」と泣きわめいたこと。

このふたつのエピソードからもわかるように、ぼくはまったくピアノに向いていなかった。
その結果なのか原因なのかわからないが、音感もリズム感もない。ドのつく音痴だ。


あれから三十年。
娘と競うようにピアノの練習をしてみると、意外と楽しい。

ピアノはかんたんに音が出せるのがいい。
どんなに下手な人間が弾いても、ドの鍵盤をたたけばちゃんとドの音が鳴る。
音を出すだけなら、リコーダーやギターや法螺貝よりもずっとかんたんだ。

やればやるほど上達していくのが楽しい。
ちゃんと弾けたらだんだん速く弾いて、次は音楽記号に気を付けながら情感を込めて弾く……。
一曲の中でも自分がステップアップしていくのを感じる。

右手と左手でばらばらの動きをするのはむずかしいが、脳のふだん使わない部分を使うのが心地いい疲労をもたらす。

弾き語りなんて正気の沙汰じゃないとおもっていたが、かんたんな曲なら弾きながら歌えるようになってきた。
自分で弾きながらだと、ド音痴のぼくでも少しだけうまく歌えるような気がする。



「大人になってからピアノなんてやっても上達しない」とおもっていたが、ぜんぜんそんなことない。

もちろん、吸収力は逆立ちしたって子どもにはかないっこない。
だが大人のほうが勝っている部分もある。

まず指が長い。
これだけでだいぶ有利だ。
あと意外と手の指の動きをコントロールできるのはタイピングに慣れているからかもしれない。

壁に当たったときに、大人は「なぜできないか」を因数分解して解決することができる。
上手に弾けなかったとき。
まずは右手だけで弾く。
次は左手だけで弾く。
次は両手でゆっくり弾いてみる。
次は速く弾く。
そして、自分がどこで失敗しやすいのかを把握する。弱点を把握したらそこを集中的に練習する。

これはあれだ。
プログラミングに似ている。
書いたコードがうまく動作しなかったとき、「ここまではうまくいく」「この数行を削除してみたらうまくいく」といった作業をくりかえし、ミスの原因を探しあてる作業だ。

大人になると、いろんな経験を通して、
「うまくいかないときはやみくもに体当たりするよりパーツごとに分解してつまづきを克服していくほうが結果的に近道になる」
ことを知っている。
この経験が強みになる(逆に言うと、ピアノの練習を通して子どもはこういった経験を身につけてゆくのだろう)。

そしてなにより。

大人は感情のコントロールができる。
自分のコンディションを(子どもよりも)的確に把握できる。
「眠いから早めに切りあげよう」とか「今日は調子がいいからちょっと長めに練習しよう」とか「気分を変えるためにコーヒーでも飲もう」とか、自分のコンディションと相談しながら練習効率を高める方法を選択できる。

子どもにはこれができない。
うちの娘なんか、おかあさんと喧嘩して泣きわめきながらピアノを弾いたりしている。
「そんな状態で練習してもぜったいうまくならないから気持ちを落ち着かせてからやりなよ」
と言うのだが、聞き入れない。
わんわん泣きながらピアノを弾いて、うまく弾けないといってますます怒る。

傍から見ていてアホじゃねえかとおもうのだが、そんなこと口にするとますます怒りくるうのでやれやれと肩をすくめるだけだ。



ピアノ、楽しいなあ。
この歳になってやっと気づく。
誰にも強制されずに好きなときに弾いているからかもしれないけど、楽しい。

あのとき床に寝ころがって数十分泣きつづけていたぼくをあきれたように見ていたピアノの先生!
あなたの教えは、今、やっと、届きましたよ!