2019年10月2日水曜日

燃える金属バット


「猿としたらエイズ」「黒人とかな」 吉本芸人のネタにHIV陽性者ら批判「差別を強化」
「猿とエッチしたらエイズになるわ」「黒人とかな」――。
吉本興業所属のお笑いコンビ「金属バット」のこんな発言を収めたネタ動画が、YouTube上で84万回以上、再生されている。
HIV陽性者の団体や支援団体は「ショックというよりも呆れた」「差別や誤解を強化するのはやめてほしい」などと批判している。
金属バットという漫才コンビのネタが炎上しているらしい。

少し前にAマッソというコンビのネタ中の発言が差別的だとして炎上し、それが飛び火してきたようだ。
きっと「どっか他にも差別的な発言してる芸人がいるんじゃねえか」と血眼になって探してきたやつがいたんだろう。ごくろうなこった。

(ちなみにAマッソの発言についてはここでは触れない。なぜならぼくがそのネタを観ていないから。ネタ全部を観ずに、ある発言がどういう意図で発せられたものかを判断できるわけがない)


この記事を読んだぼくの感想は、
あーあ、ばかに見つかっちゃったな。
だ。

まず、ぼくは金属バットが好きなのでどうしても彼らに肩入れしてしまうことをあらかじめ断っておく。
このネタも何年か前にYouTubeで観て、爆笑した。
(もっぱらYouTubeで観るだけなのでぜんぜんお金落としてないのよ。ごめんね。でもDVD出してくれたら買うよ)


でもまあ、たしかにいろいろとまずい発言の多いネタだ。
こうやって一部を切り取られたら勝ち目はないだろうなとおもう。

彼らの最大の落ち度は「(誰がYouTubeにアップロードしたのか知らないが)削除申請をしなかった」ことだとおもう。
(しかしYouTubeにアップしていなければぼくは観られなかったので感謝している)

しかしなあ。
わざわざ動画を観にいって、あるいは動画を観ることもせずに非難している人を見ると、そりゃあ世界から差別はなくならないな、とおもう。
差別大好きすぎるだろ。


いきなりで申し訳ないが、ぼくは男同士の性的な接触を気持ち悪いとおもう。
なにかの拍子にその手の画像や映像を観てしまったことがあるが、とっさに「気持ちわるっ!」とおもった。それはもう反射的に。ごめんね。

でも、そういうのを求めている人がいることも理解している。ゲイの人たちがプライベートな空間でそういう行為をすることまで否定しない。
もしも、ふつうの銭湯に行って男同士でいちゃついているのを見たら「おい公共の場でなにやっとんねん。やめろや」とおもう(男と女でもおもう)。
でもゲイバーとかでいちゃつくのはどうぞご勝手に、だ(そういう場なのか知らないが)。ぼくには関係のない場所だからね。

わざわざ非難するために漫才動画を観る(あるいはその書き起こし記事を読む)人は、ゲイバーに乗りこんでいって「おい! 不愉快だからやめろ!」というようなもんだ。おまえが不愉快なんだよ。


上にリンクを貼った記事の中にNPO法人「日本HIV陽性者ネットワーク・ジャンププラス」の代表が出てくるが、まあこの人が当事者として憤りを感じるのは仕方ないとおもう。つくづく同情する。
もしこの人がたまたまおもしろい漫才を探してこの漫才を目にしたのであれば、金属バットに怒りをおぼえるのは無理がない。

でも
こんなことを言ってる輩がいますぜ! ねえ、当事者としてどうおもいます? イヤな気持ちになったでしょ? それを記事にしたいんでコメントくださいよゲヘヘ
とわざわざ教えに来たやつがいたのだとしたら、怒りはそいつに向けたほうがいい。金属バットが俗悪でないとは言わないが、そのゲヘヘのほうが百倍俗悪だからだ(しかも己の邪悪さに気づいていない可能性が高い)。



ところで、批判コメントを読んでいると、どうも漫才の構造を理解できていない人が多いんじゃないかとおもった。

漫才の古典ギャグとしてこういうやりとりがある。
「今日のお客さんはべっぴんさんはべっぴんさんぞろいやねえ。端からべっぴんさん、べっぴんさん、ひとつ飛ばしてべっぴんさん」
「失礼やないか!」

もはや人口に膾炙されすぎてパロディ元にしかならないギャグだが、漫才をはじめて見る小学六年生の前でやったら今でもそこそこウケるだろう。

でも、これを小学一年生の前でやったらウケないとおもう。
「君かわいいね、隣の君もかわいいね、ひとり飛ばして、その隣の君もかわいいね」
と言ったら、一年生たちは当惑してしまうんじゃないだろうか。このおじさんたちはどうしていきなりひとりだけばかにするんだろう、と。

でも六年生にはわかる。
おかしいのは「飛ばされたひとり」ではなく「飛ばした漫才師」のほうであると。
その構造が理解できる。だから笑う。
「あの漫才師は客の容姿が悪いことをばかにして嘲笑した!」とはおもわない。


金属バットの漫才も同じだ。
金属バットの漫才で笑う観客は、三倉佳奈やHIV患者をバカにして笑っているのではない。
「偏見に満ちてむちゃくちゃなことを言う小林(坊主のほう)」を笑っているのだ。

もしも「三倉佳奈はエイズ患者だ」「HIV患者は獣姦や黒人とのセックスをしたせいだ」と信じている人がいたら、その人は金属バットの漫才では笑えないだろう。だってその人にとっては小林の言っていることは至極まっとうなことなのだから。

「私はお2人のネタの露悪的手法よりも、それを聴いて観客が笑っているということに、より絶望を覚えます。いまだに、エイズに対して、蔑んだりバカにされて当然のものだと内心思っている人がいるんだなと」
上記のNPO法人代表はこう発言しているが、ぼくは賛成できない。
当然のものと思っていないからこそ笑えるのではないか、と。
(ただし差別意識があるのは間違いない。「先天性の白血病」だったらちっとも笑えないだろうから)

ちなみにそのあとに続く「もし、どうしてもこんなひどいネタをやるという芸風ならば、ネットに流さないでほしいですね」という発言には全面的に同意する。ネットに流さなければバカに見つからずに済んだだろうから。


漫才師は、その芸の性質上、ひとりが極端なことを言う、ピントの外れたことを言うことが多い。

エッセイで「〇〇という考えはどうだろう。私はこれが正しいとはおもわない」と書くべきことを漫才にすると、「〇〇だよ」「そんなわけあるかい!」になる。
もちろん「そんなわけあるかい」までがセットで漫才師からのメッセージなのだが、それを理解できない人がいる。
前半の発言だけを切り取って、「あいつは『〇〇だよ』と言っていた! 問題発言だ」と騒ぎたてる。
そりゃ問題発言だろう。わざと問題になるような切り取り方をしているんだから。
漫才師は、漫才中はふたりでひとりなのに。

漫才師の会話を切り離してあれこれ言うのはフェアではない(上記NPO法人の代表はちゃんと全体の文脈を踏まえて話しているが)。
それって、俳句の上の句だけを詠んで全体を論じるようなもんでしょ。



なんだかずいぶん擁護したけど、金属バットのあのネタはやっぱりまずいとおもう。

使っている言葉がよくなさすぎるし、ネタ全体を通して観ても、演者と観客の間に差別意識の共有がないといえば嘘になる(どっちかというと差別意識をまきちらすというより差別意識に気づかせるネタだとはおもうが)。

不愉快におもう人がいるのは当然だ。

だが「私は不愉快におもう」と「だからそんなことをしてはいけない」はまったくべつの話だ
さっきの同性愛者の話でいうと「ぼくは男性同士の性的関係を不愉快におもう」が「そんなことするな」とはおもわない。

その間には大きな隔たりがあるはずで、それこそが社会性だとおもうのだが、いい歳をしても社会性が身についてなくて「快/不快」と「善/悪」が隣り合わせになっている人がいる。少なからず。

(ちなみに前述の記事のNPO法人代表の人はそこをちゃんと区別している。
「もし、どうしてもこんなひどいネタをやるという芸風ならば、ネットに流さないでほしいですね」という言葉にはそれが表れている。とても立派な考えの人だとおもう)


だからぼくが金属バットに言いたいことは、
こら! そんなこと言ったらだめだぞ! でももっとやれ!
ってこと。


2019年10月1日火曜日

夢のような道具、夢が叶った時代


子どもの頃、カメラがほしかった。

ぼくだけではないとおもう。
子どもはみんな写真が好きだ。なにかというと撮りたがる。
今でも、大人がカメラを構えると子どもたちは「撮らせて!」と寄ってくる。

今だったらスマホを貸して「ここを押すんだよ」と言えば済む話だが、ぼくがこどものときはそうかんたんにカメラを貸してもらえなかった。

カメラがいまより高価だったこともあるが、それよりもフィルム代がもったいなかったことのほうが大きい。

若い人でも知っているとおもうが、昔のカメラは撮影にフィルムが必要だった。
フィルムは27枚撮りとか36枚撮りとかあって、正確にはおぼえていないが500円以上はしたとおもう。
で、写真を撮った後に現像して写真としてプリントするのにもお金がかかった。お店や枚数によって料金はちがったが、1,000円近くはした。
つまり1枚の写真を撮影してプリントするのに、50円ぐらいかかっていたわけだ。

今だったらスマホで10枚ぐらいあっという間に連写してしまうが、当時なら10枚撮れば500円がふっとぶことになる。
当然、子どもに気軽に「撮っていいよ」なんて言ってくれる大人はいなかった。



中学生ぐらいのとき、カメラを買おうとおもって調べたことがある。
カメラ本体なら、お年玉とかで十分買えるものがあった。
けれど断念した。
上記のように、ランニングコストがかかるからだ。

写ルンです(使い捨てカメラ)をかばんに入れて持ち歩いていたが、めったに撮らなかった。ここぞというときにしか撮らないので、36枚を撮りおわるのに半年とか一年とかかかった。

現像して写真を目にする頃にははじめのほうに撮った写真のことなんか忘れているので、はじめて見るのに「あーこんなこともあったなー」と古いアルバムをめくるような(この表現も伝わらないかも)感覚を味わえた。

高校生になって自由に使えるお金が多少増えたことで写真を撮るペースは増えたが、それでもフィルムを使い切るのに一ヶ月はかかった。

大学生になってはじめてちゃんとしたカメラを買った。
中国に行ったときに買った「長城」という謎のブランドのカメラだ。中国で買ったのは、もちろん安かったからだ。日本円にして1,500円くらいだった。

けれど長城はあまり使わなかった。
もうそのころにはデジカメが世に出ていたし、携帯でも(粗いとはいえ)写真を撮れるようになっていたからだ。
ほどなくしてぼくも30,000円ぐらい出してコンパクトデジカメを買い、フィルムカメラとはおさらばした。



こないだ親戚が集まったとき、娘、姪、甥にデジカメをプレゼントした。
トイカメラというやつで、まるっこくてかわいいデザインのおもちゃのカメラだ。
おもちゃといってもMicroSDカードを差しこめば写真を何千枚も撮れるし、USBで充電もできる。モニターもあるから、PCがなくても撮った写真を見ることができる。
フラッシュとかズームとかはついていないが、子どもが撮って遊ぶだけなら十分すぎる機能だ。

これが1台3,000円で買えた。
ぼくが15年前にはじめて買ったデジカメの10分の1の値段。でも画素数は同じぐらい。メモリは進化しているので保存できる枚数はずっと多い。

子どもたちは大喜びして写真をばしゃばしゃと撮っていた。
ぼくのおしりを撮ってきゃっきゃと笑っている。

ぼくが子どもの頃だったら、くだらないことに使うなと叱られたことだろう。
けれど誰も叱らない。どれだけ撮ってもフィルム代も現像代も電池代もかからないのだから。
くだらないことに使ってもいい時代になったのだ。
いい時代になったものだ。



ちなみにぼくが子どもの頃にずっとほしかったものは、カメラのほかにもうひとつある。

トランシーバーだ。
あの当時、トランシーバーにあこがれなかった子どもはたぶん一人もいなかっただろう。でも今は誰もほしがらないんだろうなあ。
え? トランシーバーとは何かって?

昔の少年がみんな憧れた、夢のような道具だよ。
残念ながら、その夢はもう叶っちゃったんだけどね……。


2019年9月30日月曜日

【読書感想文】我々は万物の霊長にしがみつく / 吉川 浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』

人間の解剖はサルの解剖のための鍵である

吉川 浩満

内容(e-honより)
人工知能、ゲノム編集、ナッジ、認知バイアス、人新世、利己的遺伝子…従来の人間観がくつがえされるポストヒューマン状況の調査報告。

タイトルだけで「これはおもしろそう!」とおもって買ってしまったので解剖学の本だとおもっていたのだが、ぜんぜんちがった。
人工知能、倫理学、行動経済学といった今流行りのキーワードを軸に「人間とは何か」「今後人間はどうなっていくのか」「あるいは人間は万物の霊長ではなくなるのか」などについて書いている本だった。

後半にいたってはいろんな雑誌に書いた文章や本の解説などが並んでいて、「雑多なテーマの文章を寄せ集めてなんとか一冊な本にしました」という感じがすごい。
ファンなら楽しく読めるのかもしれないけど……。
この内容なら、こんなおもしろそうなタイトルをつけずに「吉川浩満エッセイ集」みたいなタイトルにしてほしかったな。だまされた気分。



「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」という言葉は著者がつくったものではなく、カール・マルクスの言葉から来ているそうだ。
「カール・マルクスが『資本論』の草稿に書きつけた言葉に、「人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である」というものがあります。これはちょっと逆説的に響きます。普通に考えたら人間のほうが「高級」なんだから、逆ならまだしも、なんでわざわざ低級なものを理解する必要があるのかと思うかもしれません。この言葉はマルクスの歴史観を見事に表していて、深い含番があります。たとえば、猿のグルーミング(毛づくろい)には、順位制の維持や紛争の調停といった社会的コミュニケーションの機能があるといわれています。それを私たちが理解できるのは、私たちがすでにコミュニケーションにかんする高度な理論と実践を身につけているからです。マルクスはこう続けます。「より低級な動物種類にあるより高級なものへの予兆は、このより高級なもの自体がすでに知られているばあいにだけ、理解することができる」と。それと同じで、二〇世紀後半以降の学問上の認知革命を経たいまだからこそ、私たちは七万年前に起きた歴史上の認知革命の重大性をよりよく理解できるようになった。
なるほどね。われわれは動物の行動を見て「あれは求愛行動だ」とか「敵を威嚇している」とか理解することができるけど、それは人間の行動様式の中に求愛や威嚇があるからだ。
たとえばカマキリのメスは交尾の後にオスの頭を食べちゃうことがあるけど、人間はふつうそんなことしないので、カマキリの行動を観察して「ひょっとしたらこんな気持ちかも」と想像することはできても真に理解することはできない。

ぼくらは下等な生物を研究することで人間のような高等な生物を理解できるとおもっているけど、実は逆なのだ(そもそもその下等とか高等って考え自体が進化論的にまったく正しくないのだけれど)。



ポスト・ヒューマン、つまり我々の次に出現する知的生命体についてのくだりはおもしろかった。
 では、私はなにを望みたいのか。夢のような話ではありますが、まずはわれわれサピエンス自身が他者や他種にたいして節度と寛容さをもって接することができる存在になれないものかと思います。本書でも再三注意がうながされているように、実際に食物連鎖の頂点に君臨しているのですから、ノブレス・オブリージュ的な責任と義務は避けられないのではないでしょうか。つまり、幸福になるだけでなく、幸福になるに値する存在になることをも追求する。少なくとも後者について生物種としてのサピエンスの成績はこれまでのところ不合格ですよね。あるいは、そうでなければいっそのこと人間のちっぽけなプライドや偏見とは隔絶した存在に登場してほしいですね。そういうプライドや偏見は人間がもつ面白味ではありますが、それを他種や新種にまで無理強いする必要はないでしょう。すでに存在する掃除機やドローンなども人間のプライドや偏見から自由な存在でしょうが、しかし彼らには汎用的な能力が決定的に足りません。もし、ニーチェの超人のように高貴で自律的で、あわよくばノブレス・オブリージュを期待できるような存在が出現するならば、私たち旧世代の人間が結果として置いてけぼりを食らわされたり、場合によっては追い払われるようなことになったとしても、これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないかと思います。ただ、そうした存在がどのような望みをもつことになるのか、あるいはそもそもなにかを望むなんてことがあるのかどうか、そのとき欲望の問題はどうなるのか等々、新たな疑問もわいてくるのですが。

もしも人間よりももっと高度な知性を持ったモノが生まれたら(モノと書いたのはそれが生物ではない可能性も十分高いからだ)。

著者は
「私たち旧世代の人間が結果として置いてけぼりを食らわされたり、場合によっては追い払われるようなことになったとしても、これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないかと思います」
とクールに書いているけど、こうおもえる人は少数派だろうね。

多くの旧世代の人間(つまり我々)は、意地汚く万物の霊長の座にしがみつこうとするだろう。今も「AIに仕事をとってかわられる!」と見苦しくあがいているし。

こうした世代交代はずっとくりひろげられてきた。
古くはホモ・サピエンスが旧人類にとってかわった。
最近でいうと石炭エネルギーが石油に代わったり電卓がコンピュータにとってかわられたりして、そのたびに仕事を奪われる人がいた。権利を守るための反対運動もあったが、結局は無駄だった。
世代交代が終わってみれば「便利なもの、よりよいものに代わるのは避けられないのに、旧いものにしがみついてかわいそうな人」としかおもえないが、いざ自分が「とってかわられる側」になるとなかなか「じゃあ私は退場して新しい人にさっさと道を譲りますわ」とは言えないものだ。

ネタバレになるが、貴志祐介『新世界より』は現人類が滅びた後の世界を描いた小説だ。
その世界では旧人類(つまり今の我々)は新人類に虐げられながら、それでも虎視眈々と反撃のチャンスを窺っている。

じっさいの人間はこっちのほうが近いだろう、とおもう。
「これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないか」なんて言えずに、「やだやだやだ! 人間が万物の霊長じゃない世界なんてぜったいやだ!!」とじたばたするんだろうな、と。


考えてみればどうせ自分はあと数十年以内に死ぬのだからその先の人類が虐げられようと滅びようと関係ないんだけど、でもやっぱり子孫繁栄してほしい、という心情は捨てられないんだよなあ。
しょせん人間なんて遺伝子の乗り物(by リチャード・ドーキンス)なんで。

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貴志 祐介 『新世界より』



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2019年9月26日木曜日

睾丸が痛すぎて救急車に乗った話


あいてててて。
起きて着替えていたら、突然下半身に痛みが走った。
すごく痛い。
どこが痛いのかというと、精巣。
まあわかりやすくいうと睾丸ですね。もっとわかりやすくいうとキンタマ。

虫に刺されたような鋭い痛みじゃなくて、鈍くて重たい痛み。
野球のボールが睾丸にあたって悶絶したことある人ならわかるとおもうんですけど、あの痛みをちょっと弱くしたやつがずっと続いてる感じです。

なんだなんだとおもって股間を触ってみたらとんでもなく痛い。右の睾丸だけがめちゃくちゃ痛い。
ぬわあああぁと悶絶して、目まいまでしたのでリビングで横になった。

妻が「どうしたの?」と訊くので、恥ずかしながら「なんかすごく痛くなった……。あの、えっと、いわゆる精巣というか睾丸というか……」と説明。

横になったままあわててスマホを開いて「睾丸 痛い」で検索したら、"精巣捻転" という病気の説明が見つかった。
なにかのきっかけで精巣がねじれてしまう病気だそうで(おそろしいことに寝ているだけでなったりするそうだ)、「6時間以内に治療しないと血流が止まって壊死します」ととんでもないことが書いてある。

え、え、壊死!?

まじかよやべえよ宦官じゃん。
ぼくはもう子どもが二人いて今のところこれ以上つくる予定はないのでもう睾丸がなくてもむしろ悩みの種が減っていいのかもしれないけど、そうはいってもちんちんが壊死してしまうのはイヤだ。
だってこわいもん。

間の悪いことに3連休の中日。ふつうの病院はやってない。
しかたない、救急車を呼ぶことに。
痛み自体は耐えられないほどではないが「6時間で壊死」の恐怖で頭の中がいっぱいになって、一秒でも早くとしか考えられない。
脳内で、ドラマ『24』みたいに6時間後のタイムリミットに向けて時が刻まれていく。

119に電話をして「すみません、急に精巣に激痛が……」と説明したのに、「え? どこが痛いとおっしゃいました?」と聞き返されてしまった。羞恥プレイかよ。「あの、いわゆる睾丸というかキンタマというか……」ともごもごと説明してようやく伝わる。

まもなく救急隊員がやってきた。
隊員から「ヘルニアかな」と言われておもいだす。
そういえば2日前から腰がすごく痛かった。
ヘルニアだったらいいな。や、ヘルニアもたいへんなんだろうけど、そうはいってもちんちんが壊死する病気よりはマシだろう。
「そういえば関係あるかどうかわかりませんけど、2日前から腰が痛かったです」と説明する。
腰が痛いことなど、完全に忘れていた。睾丸の痛みの前には腰痛など蚊に刺されたぐらいの痛みでしかない。気づいたら腰の痛みはふっとんでいた。

寝てくださいと言われるが、寝ると痛いので付き添い者用の椅子に座って泌尿器科のある救急病院へ向かう。右睾丸が圧迫されると痛いので、左尻だけを椅子につけた変な格好で。
救急車があってよかった、と心からおもう。
救急隊員に感謝。救急車のために道をあけてくれるドライバーたちにも感謝。森羅万象に感謝をしているうちに病院に到着。
救急隊員に何度もお礼を告げる。

看護師さんに病状を説明したのだが、そこからとんでもなく待たされる。
どうやらぼくの痛みは大したことなさそう、と判断されたらしい。ほかの患者が次々に診察室に呼ばれてゆく。
いやたしかに痛みは大したことないんだけど、ちんちんが壊死するかもしれないですよ、制限時間は6時間しかないんですよ、看護師さんには睾丸がないんでこの恐怖がわからないでしょうけどね、と叫んで暴れたくなる。
しかしぼくのような患者を想定しているのか、待合室の壁には「大声を上げたり暴行を振るったりセクハラ行為をする方に対しては医療行為をお断りする場合があります」と注意書きが貼りだされている。
「ちんちんが!」と叫びながら暴れたら、[大声] [暴行] [セクハラ]のスリーアウトで即チェンジだ。
仕方なく、左尻だけを椅子につけた変な格好で待ちつづける。


1時間半待たされてようやく診察室へ呼ばれた。
待っていたのはずいぶん若い男性医師。まだ二十代半ばぐらい。名札を見ると研修医と書いてある。
救急外来なのでしかたないんだけど、大丈夫か、研修医におれの睾丸が救えるのかと不安になる。

まず問診。
精巣が痛いんです、と説明。
「なにかぶつかったりとかしました?」と訊かれて「いいえ」と返答。
すると医師は「あのたいへん申し訳ないんですが……」と口をにごす。
ん? なんだなんだ、もう手遅れだとか言いだすんじゃないだろうな、まだ診てもいないのに!
とおもっていたら、研修医くん、「あのぅ……、最近、性交渉とかは……」と恥ずかしそうに言う。

おーい!
おまえが照れんなや!
性器が痛いって言ってるんだから性病を疑うのも当然のこと。こっちだって三十年以上生きてるおっさんなんだからそんなことわかっとる!
だから堂々と訊いてくれ! 照れるな! 「申し訳ないんですが」とか言うな!
事務的に「最近性交渉はしましたか」と訊いてくれ。ぼくのことは人の心を持たない機械として扱ってくれ。

その後も研修医くんは「あの、えー、風俗とかは……行かれてないです、よね……?」などと照れながら質問してくる。
こっちも恥ずかしくなって「あっ、はい、ないです、ほんとに……」と照れながら答えてしまう(ほんとにないからね!)。

「じゃあ、えー、横になってズボンを下ろしてもらっていいですか……」とやはり緊張しながら研修医くんが言う。初体験かよ。
やべえ、恥ずかしい。
しかもよく見たらこの研修医くん、なかなかのイケメンじゃないか。なんだかいけないことをするようでドキドキする。

で、研修医くんにいろいろ診られて触られた。しかも「おずおず」という感じですごく優しく触るものだから、おもわず「もっと乱暴に扱ってください! ぼくのことは人体模型だとおもってください!」と言いたくなった。

いろいろ調べた研修医くん、「たしかにちょっと腫れてますね……」と言っただけで、あとはなんにも説明してくれない。

ははーん、さてはおまえ、ちっともわかってないな?

「ではまた待合室でお待ちください」と言われる。
おいおい、こっちは壊死がかかってるんだぞ、しかももう痛みだしてから2時間半はたってるからあと3時間ちょっとしか猶予はないんだぞ。
とおもうが、気がつくとほんのちょっとだけ痛みがマシになっているような気がする。少なくとも痛みは増してない。
血流が止まって壊死するならきっと痛みはこんなもんじゃないだろう。ってことは精巣捻転じゃないのかな。

30分ほど待っていると、また診察室に呼ばれた。
現れたのは60歳を過ぎているであろうおじいちゃん先生。おお、頼もしい。ギターと医者は古いほうがいい。

ベテラン医師、問診をしながら「女遊びとかしてない?」と訊いてくる。
そうそう、これだよ。このデリカシーのなさ! これを求めてたんだよ! 変に気を遣わないのがすごくありがたい! このデリカシーのなさを見習え研修医!

さすがはベテラン医師、触診も乱暴だった。
「右の睾丸が触るとすごく痛いんです」と言うと、「これは痛いね?」と言いながらぎゅっと触ってくる。さすがだ。研修医くんの童貞のような手つきとはまったくちがう。
しかし痛すぎる! そんなに睾丸握られたら平常時でも痛いぞ!

で、超音波検査や血液検査などをされた結果、「どうも精巣上体炎じゃないか」ということになった。
ぼくがおそれていた精巣捻転ではないとのことなのでとりあえず一安心。
精巣上体炎というのはばい菌が入ることでなるものらしいが、ほんとに心当たりがない。
かっこつけてるわけじゃなく、ほんとに。女遊びもしてないし昨年子どもが生まれてから妻ともセックスレスだし。

でも、医師によると「すごく力んだりすると尿が逆流して雑菌が入りこむことがある」のだそうだ。
あっ、そういえば2日前から腰が痛い! 立ったり座ったりするたびに腰に激痛が走るのでめちゃくちゃ力んでいた!

原因もわかって一安心。
薬を飲んでいたら少しずつ痛みも引いてきた。

それから二日以上たった今でも壊死する気配はないので、精巣捻転ではなさそうだ。でも「じつは内側が壊死してて突然ぽとりと落ちたらどうしよう」という恐怖は少しある。


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2019年9月24日火曜日

【読書感想文】役に立たないからおもしろい / 郡司 芽久『キリン解剖記』

キリン解剖記

郡司 芽久

内容(ナツメ社ホームページより)
長い首を器用に操るキリンの不思議に、解剖学で迫る!「キリンの首の骨や筋肉ってどうなっているの?」「他の動物との違いや共通点は?」「そもそも、解剖ってどうやるの?」「何のために研究を続けるの?」etc. 10年で約30頭のキリンを解剖してきた研究者による、出会い、学び、発見の物語。

世界で一番多くキリンを解剖したんじゃないか、と自負する若きキリン研究者(1989年生まれだそうだ)が、「キリンの8番目の首の骨」を発見するまでの話。

 これまでの研究では、肋骨が接しておらず動きの自由度が高い頸椎だけが、首の運動に関係していると考えられてきた。しかしキリンでは、筋肉や骨格の構造が変化することで、本来ほとんど動かないはずの第一胸椎が高い可動性を獲得したのだ。
 キリンの第一胸椎は、決して頸椎ではない。肋骨があるので、定義上はあくまで胸椎だ。けれども高い可動性をもち、首の運動の支点として機能している。キリンの第一胸椎は、胸椎ではあるが、機能的には「8番目の“首の骨”」なのだ。

哺乳類の首の骨は基本的に7本だ。
キリンのように首の長い動物でもそれは例外でない。子どもの頃、本で「キリンもブタも骨の数は一緒」と読んで「へえ」とおもいつつも「ほんまかいな」とちょっと疑わしくおもったのをおぼえている。
だってあんなに首が長いのに7本で足りるの?

この本の著者である郡司芽久さんはキリンの解剖を重ねるうちに、胸骨のひとつが首の骨のはたらきをしていることに気づいたのだそうだ。
なので「首の骨は7本」というのは間違いではないのだけれど、首の骨じゃないところが首の骨の代わりをしているから「分類的には7本だけど機能的には8本」ということらしい。

しかしキリンの解剖をした人は古今東西たくさんいる。
どうして誰もそのことに気が付かなかったのか。
 第一胸椎が動くかを確認するには、実際に遺体の首を人力で動かして骨の動きを確認してみるのが一番だ。けれども、大人のキリンの首は強力な項靭帯で引っ張られているため、私1人の力で動かすのは不可能だ。おそらく2、3人がかりでも難しいだろう。とはいえ、筋肉や靭帯を全て取り外してしまったら、本来の可動性からはかけ離れてしまう。
 そこで目をつけたのが、キリンの赤ちゃんだ。赤ちゃんならば、項靱帯はあまり発達していないだろうし、私でも首を動かしてみることができるに違いない。
 しかも、キリンの赤ちゃんの遺体には当てがあった。

キリンは首が長いので、解剖室へ運ぶ前に身体をばらばらにする。
長すぎてトラックに積みこめないから。
で、ふつうは首と胴体をばらして運ぶ。だから「胸の骨が首を動かすはたらきをしている」ことに誰も気づかなかったのだ。

きっと、小型動物であればもっと早く誰かが気づいたのだろう。
身体を切り離さずに解剖できるし、生きたままレントゲンやCTスキャンを撮ることもできたかもしれない(よう知らんけど)。

でもキリンは首が長いからこそ、誰も気が付かなかった。
なるほどー。このへんの謎解きはミステリ小説を読んでいるようでおもしろかった。

郡司さんがそこに気づいて「次にキリンが死んだら首と胴体を切り離さずに運んできてください」と動物園にお願いしたり「キリンの赤ちゃんを解剖する」という発想にいたったのは、やっぱり誰よりも多くキリンを解剖してきたからなんだろうね。さすがだなー。


「で、それがわかったところで何の役に立つの?」と訊かれたら困ってしまうけど(たぶん何の役にも立たないんだろう)、でも何の役にも立たたないからこそのおもしろさ、ってのはあるんだよな。わかんない人には永遠にわかんないだろうけど。


ということで、読んだところでたぶん人生において役立つことはないであろう本だけど、内容はおもしろかった。
ただ、文章はちょっと遊びがないというか、無駄がない気がして、なんだか窮屈な感じがしたな。若いからこそなんだろう。
きっとこの人は歳を重ねてきたら、川上和人さんの『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』みたいに学術的にも文章的にもめっぽうおもしろいものを書く人になるような気がする。

そうなるよう、今後もキリンの本をたくさん書いてほしいな。


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困ったときはステゴサウルスにしとけ



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