2019年1月25日金曜日

【読書感想文】アヘン戦争時の中国みたいな日本 / 岡田 尊司『インターネット・ゲーム依存症』

インターネット・ゲーム依存症

岡田 尊司

内容(e-honより)
最新の画像解析により、衝撃的な事実が明らかになった―インターネット依存者の脳内で、覚醒剤依存者と同様の神経ネットワークの乱れが見られたのだ。二〇一三年、アメリカ精神医学会も診断基準に採用。国内推定患者数五百万人の脳を蝕む「現代の阿片」。日本の対策は遅れている。

少し結論ありきで論調が進んでいて、データとしては疑わしいものも多い。
「スマホ依存の人ほど脳の活動が鈍い」みたいな話が再三出てくるが、因果関係が逆なのかもしれないし。

とはいえスマホやゲームにどっぷりはまるのは良くない、ということについては異論がないだろう。
スマホにかぎらずなんでもやりすぎはよくないのだが、スマホゲームに関しては「場所や時間を問わず使える」「依存しやすいように作られている」という側面もあるため、とくにはまりやすいし、深刻化しやすい。

ぼくから見ると、電車のホームでスマホゲームをしながら歩いている人なんかはもう完全に暇つぶしの域を越えていて依存症としか思えない。
歩きスマホをするぐらい熱中するのを依存症の定義としたら、日本人の二割ぐらいは依存症じゃないだろうか。
阿片戦争直前の中国は男性の四分の一がアヘン中毒だったといわれているので、もうそれに近いぐらいのスマホ中毒者がいることになる。

だがアヘンとちがい、スマホやゲームへの依存は今の日本では大きな問題になっていない。
 行為の依存症として最初に認められたのは、ギャンブル依存症である。ギャンブル依存症の場合も、疾患として認められるまでには時日を要したが、社会がその弊害を認識していたことで、まだ抵抗は小さかった。ただし、病名はできても、本当の意味で病気」だという認識は薄かった。それを変えたのが、脳機能画像診断技術の進歩である。それによって、脳の機能に異常が起きていることが明らかとなり、今では治療すべき疾患という認識が確立されている。保険適用を受けることもできる。
 それに対して、インターネット依存やゲーム依存の場合には、気軽に楽しめる娯楽や便利なツールとしてのメリットの部分が大きく、教育や社会、文化に恩恵をもたらす希望的な側面がむしろ強調されてきた。「社会悪」とされるギャンブルや麻薬といったものとでは、そもそもその位置づけが大きく違っていたのである。それだけに、ギャンブルや麻薬依存と変わらない危険性をもつなどということは、なかなか受け入れられなかったのである。
スマホやオンラインゲームは麻薬や覚醒剤のように法に触れるものではないし、タバコのように周囲に迷惑をかけるものではない。
それが逆に、依存症という問題を認識しづらくさせてしまう。


ぼくが前いた会社に、オンラインゲームによく課金をしている人がいた。
どれぐらい課金しているのか訊いたことがある。その人が「多い月だと十五万ぐらいいっちゃいますね~」と笑いながら話すのを聞いて、ぼくを含めその場にいた人たちはドン引きしていた。

後で「あれはヤバいよね」「ゲーム廃人じゃん」「しかもあの人結婚してて子どももいるのに」とみんなでささやきあった。
大金持ちなら月に十五万課金したって屁でもないんだろうが、同じ会社にいるぐらいだから給料もだいたいわかる。どう考えたって課金しすぎだ。
しかも額の多寡はあれど、毎月課金しているという。

だが、誰も本人に「やめたほうがいいですよ」とは言わなかった。
いい大人が自分の意思でやっていることなのだから他人がとやかく言うべきではない。それは大人としては正しいふるまいかもしれないが、すごく不誠実な対応だったではないだろうか。本人に嫌われてでも、止めてあげるべきだったのかもしれない。
どう考えたって月に十五万の課金はやりすぎだ。娯楽やストレス発散といった段階を超えている。

しかし仮にぼくが「ぜったいやめたほうがいいですよ」と言ったって、おそらく彼は「そうですね」と受け流して課金を続けるか、「余計なお世話ですよ」と言ってぼくと距離をとるかのいずれかだっただろう。
 一時的な熱中とは異なるまず理解しておく必要があるのは、単なる過剰使用と依存症は、質的に異なるものだということだ。離脱症状や耐性といった現象は、心理的なレベルというよりも、生理的な現象であり、身体的なレベルの依存を示す証拠とされるものである。そのレベルに達すると、報酬系の機能が破綻することで、理性的なコントロールは不能に陥り、快楽や利得より苦痛や損失が大きくなっていても、その行為をやめられなくなる。
「一過性の熱中なら、悪い影響が出てくると、その行為にブレーキをかけるというフィードバックが働く。ところが、依存症が進んでくると、このフィードバックの仕組みが失われ、「もうダメだ」「現実は嫌なことばかりだ」「もうどうでもなれ」と、逆にアクセルを踏んで、現実逃避を加速させることも多い。これが、結果のフィードバックの消失である。使用するためなら家族を欺くことも辞さず、現実の課題は後回しにし、学業や職業、果ては自分の将来を棒に振ってさえ、痛痒を感じなくなる。ここまでくると、それはただ「はまっている」というレベルの状態ではなく、完全な病気の状態なのである。脳の報酬系の機能に異常が起きていて、もはや放っておいても元に戻らない状態に陥っているのだ。
もうこれは完全に病気だ。
もうやっても楽しくない、でもやらないと苦痛を感じる。そしてやれば確実に悪い方向に行くとわかっていながら突き進んでいくのだから、破滅願望に近い。

こういう状態に陥っている人は、相当いると思う。そしてこれからもどんどん増えていく。
個人の問題ではなく社会問題として、法律で「月額課金上限額を〇円までとする」とか定めないかぎりは、依存症患者は増えていく一方だろう。
だがはたして政治家にそれができるのかというと、まあ無理だろうな……。ゲームをさせることは(短期的な)カネになるもんな。
長期的に見たら国家の大きな損失になるのはまちがいないんだけどな。


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2019年1月24日木曜日

愛国者アピール


愛国者を名乗るやつは国を愛していないと思うんだよね。

「ぼく家族大好きなんですよ」とわざわざアピールするやつって浮気するじゃん。偏見だけど。でもだいたいあってると思う。

大学生がイキって「うわーまじバイト忙しいわーキツイわー」って言うときってたいしてキツイと思ってないじゃん。多少は思ってるかもしれないけど、それを「忙しいのにがんばってるオレすげー」が凌駕してるわけじゃん。

首元までどっぷりボートレースにハマってるおじさんは「おれギャンブル好きなんだよね」とは言わないじゃん。ほんとに好きな人にとっては好きとか意識しなくなるわけでしょ。
「ギャンブル好き」っていうのって、中学生でしょ。中学生が背伸びして「ヤバイ、おれ競馬好きすぎるわー」とか言っちゃうわけでしょ。

家族でも組織でも地域でもいいんだけど、自分がどっぷり浸かっているものに対して「好き」という感情を持つことがもうウソだと思うんだよね。

だから自称愛国者は国を好きではない。せいぜい「好きになりかかっているところ」ぐらい。それか「国を愛している自分が好き」か。

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2019年1月23日水曜日

他人に期待すること


娘のともだちのおかあさんと話してたんだけど、保育士の悪口をいっぱい聞かされた。

あの先生のああいう言い方はよくないとか、あの先生は笑っていても目が笑っていないから何を考えているかわからないとか、あの先生は頼りないとか。

ふうん、いろいろ思ってるんだなあ。
ぼくも毎朝保育園に娘を送っているのでいろんな先生を見ているけど、特に不満を感じたことはなかった。
「保育士って給料安いのにがんばってるなあ」ぐらい。

保育士の悪口を言うおかあさんの愚痴の内容にもうなずけるところはあるんだけど、しかしこの人は生きづらいだろうな。
だってさ。愚痴ってもしょうがないじゃない。何も変わらないじゃない。
保育士に不満があるなら直接言えよ。いや、ちがうな。言ったところでたぶん何も変わらない。関係が悪化するだけ。相手のモチベーションを下げるだけ。

だってぼくなら、仕事のことでド素人から「あなたのやりかた変えたほうがいいんじゃないですか」と言われても「うるせえよ」と思うだけだ。「おまえには見えてないだけでこっちにはこっちの事情があるんだよ。現状ではこれが最善なんだよ。だったらおまえやってみろよ」と思うだけだ。
素人の意見ひとつで反省して改めたりしない。そんな保育士いたら、そっちのほうがよっぽど信用ならない。



他人に変わってくれることを望むのは無駄だ。
可能性はかぎりなく低い。そんなものに賭けるぐらいなら、自分が変わるとか相手から離れるとか第三者にはたらきかけるとかしたほうがずっと早い。

ぼくは、保育士さんにかぎらずほとんど他人に期待しない。
娘に対しては「こうなってほしい」という思いはあるが、大人が変わることなんてまずないから「この人とはやっていけそうにない」と思ったら距離を置く。
さすがに妻とは距離を置くわけにはいかないから「〇〇してほしい」と伝えるが(そして却下されるが)、「だまって期待」はしないようにしている。無駄だから。

ぼくは他人に期待しない。
だからぼくに期待もしないでほしい。期待されても変わらんから。

だれもぼくに期待しないことを、期待する。

2019年1月22日火曜日

【漫才】歯ブラシの第二の人生


「歯ブラシが汚れてきたら、洗面所のせまいところとかガスコンロの周りとかを掃除する用に置いとくんだけどさ」

「うん。うちもそうしてる」

「だいたい一ヶ月に二本ぐらい歯ブラシを消費するのね。二人家族だから」

「うん」

「でも洗面所のすきまとかはそんなに掃除しないの。一ヶ月に一回ぐらい」

「うん」

「ということは、古い歯ブラシがどんどん溜まっていくわけよ」

「そうなるね」

「というわけで、今、うちには六十本ぐらい古い歯ブラシがある」

「そんなに!?」

「だって一ヶ月に二本買い替えるのに、掃除で使うのは月に一本だもん。一年で十二本増えるから、五年で六十本」

「捨てなよ」

「それが捨てられないんだよ」

「なんでよ」

「だってまだ掃除に使える能力があるんだよ。それを捨てるなんてなんかもったいないじゃん」

「でも歯を磨くためにはもう十分使ったんでしょ」

「せっかくだから第二の人生をまっとうさせてやりたいじゃない」

「そうはいっても二本ぐらい置いとけば十分でしょ。あとは捨てなよ」

「おまえそれ自分の親に対しても同じこといえるの?」

「は?」

「自分のお父さんが会社を定年退職して、これから老後の人生を楽しもうってときに、もう仕事人としては十分生きたんだから死ねっていえるの?」

「どういう怒られかたされてるのかわからない」

「今の日本は高齢化社会も高齢社会も通りこして、超高齢社会だよ。そんな時代にまだまだ働ける人材を活用しない手はないでしょ」

「歯ブラシの話してるんだよね?」

「だからおまえは自分の親が使いおわった歯ブラシになったとして、それでも捨てられるのかって聞いてんの」

「自分の親が使いおわった歯ブラシになるって状況がイメージできない」

「べつに親じゃなくてもいいよ。近所のおじさんでもいいし、なんなら自分が歯ブラシになることを想像してくれてもいい」

「いや誰だったらとかいう問題じゃない」

「とにかく、歯みがき用として使いおわった歯ブラシに活躍の場を与えてやりたいわけ」

「じゃあもっと掃除したら? 今は一ヶ月に一回のすきま掃除を、月に二回やるようにしたらいいじゃない。そしたら収支のバランスがあうじゃない」

「収支のバランスがあうだけじゃだめなんだよ。今使いおわった歯ブラシが六十本あるのに、これがいっこうに減らないじゃない」

「じゃあ毎週掃除しなよ。そしたら月に四本ずつ減っていくから、二年半で使用済み歯ブラシのストックがなくなるじゃない」

「洗面所のせまいすきまなんかそんなに汚れないのに、毎週やる必要ある?」

「しょうがないじゃない。ストックをなんとかしたいんでしょ」

「なんかさ、雇用を生みだすために無駄な公共事業を増やしてるみたい。そういうハコモノ行政の考え方が今の環境破壊を生んだんじゃないの?」

「どういう怒られかたされてるのかわからない」

「だから歯ブラシを消費するために掃除をするのは本末転倒だって話をしてんの」

「そうでもしないと歯ブラシなくならないんだからしょうがないじゃない」

「でもさ、洗面所を掃除するときは、まず掃除用のスポンジを使うんだよ。激落ちくんってやつ」

「あーあれよく汚れが落ちるね」

「激落ちくんでも届かないすきまを掃除するときにだけ、使用済み歯ブラシを使うわけ」

「うん」

「洗面所掃除を毎週するってことは、激落ちくんも毎週使うってことじゃない」

「うん」

「激落ちくんはわざわざお金出して買ってきてるんだよ。使用済み歯ブラシを消化するために、必要以上に激落ちくんを買わなきゃいけないんだよ。消費税を引き上げても消費者の負担が増えないように軽減税率を導入して、結果的に社会の負担コストが増えるみたいな話でしょ。そういう考え方が経済格差を招いてるんじゃないの」

「どういう怒られかたされてるのかわからない」

「使用済み歯ブラシに用途を与えるためだけにお金まで使いたくないってこと」

「だったら激落ちくんを使うのは従来通り一ヶ月に一回にして、すきまだけは毎週掃除するようにすればいいだろ。それだったら余計なお金使わなくていいじゃん」

「すきまはこまめに掃除するのに、広いところは汚れたままにしとくわけ? それってたばこ税を上げたりしてとりやすいところからは税金をとるくせに、法人税とか相続税とかもっと大きいところには手をつけないみたいなことだよね。そういう考え方が今の財政の不健全化を招いたんじゃないの」

「どういう怒られかたされてるのかわからない」

「大きな汚れは放置して小さな汚れだけ掃除するのは優先度がおかしいって言ってんの」

「じゃあ激落ちくんを使うのやめて、広いところも狭いところも歯ブラシで掃除したら? 歯ブラシ五本くらい束ねてごしごしやれよ!」

「それって労働力不足だから移民労働者を増やして、結果的に日本人の雇用が奪われるみたいな話だよね。そういう考えが若者の政治離れを……」

「どういう怒られかたされてるのかわからない!」

2019年1月21日月曜日

車は後戻りができない


車の運転がきらいな理由をいろいろ考えてたんだけど、やっぱり「まちがえたら引き返せない」ことがいちばんなんじゃないかと思う。

車って後戻りできないじゃない。
機能としてバックすることはできるけど、「あっここ右折だった。バックバック」ってやったらクラクションに怒られるか追突されるかのどっちかだ。

おまけに車道はトラップだらけだ。
ここは右折禁止ですとか、ここを曲がりたいんだったらもっと手前から右折専用レーンに入っとかないといけなかったんだぜ残念だったな坊や、みたいなトラップがそこかしこに仕掛けられている。
時速数十キロの速さで走りながら次々に迫りくる試練に対して正しい選択肢を選ばなくてはならないのだ。むちゃだ。

周囲の車も敵だ。
「いっけない、まちがえちゃった、右折右折!」とこっちがドジっ子丸出しで右折しようとしてるのに、ぜんぜん曲がらせてくれない。いじわる!

で、気づいたら高速に乗っていたりする。どこまで連れていかれるんだ?

ドライバーを苦しめるトラップの例



道をまちがえること自体はこわくない。
こっちはもう三十数年方向音痴をやってるんだ。歩いてたって自転車に乗ってたって、道をまちがえることなんて日常茶飯事だ。
今さらそんなことにびくつくようなタマじゃねえぜ。

だが徒歩や自転車の場合は、まちがえたと気づいたらすぐにやりなおしができる。
すぐさまリセットボタンを押して、セーブしたところからリスタートできる。

車を運転していて耐えられないのは、「まちがってると知りながら進まなきゃいけない」ことだ。
ちがう、ぼくの進みたいのはこの道じゃない、さっきのあそこを右折したかったんだ、わかってる、わかってるのにどんどん遠ざかる。

組織的な不正に手を染めている人はこんな気持ちだろうか。
この会社がやっていることは違法だ。わかっている。告発しなければ。だがここまで来たらもう引き返せない。いけないと知りつつ加担してしまっている。もっと早くに別の道を選んでいれば。

あるいはギャンブルにはまる人もこういう気持ちなのかもしれない。
さっきやめておけばよかった。使ってはいけない金に手をつけてしまった。ここで戻るわけにはいかない。だめだ、わかっている。これ以上やっても傷口は深くなるばかりだ。でももう戻れない。

車で道をまちがえるということは、不正に手を染めたりギャンブルで泥沼にはまるのと同じ、転落人生を歩むということだとこれでわかってもらえただろう。



なによりこわいのは、車の運転での判断ミスは、命にかかわる事態につながることだ。

運転時の判断を誤って、人を殺す。あるいは自分が死ぬ。
人の命にかかわるような自己を起こしたら、もう引き返しがきかない。
セーブポイントからやりなおしたいとどれだけ願っても、決してかなわない。

これこそが、車の運転における「まちがえたら引き返せない」の最たるものだ。