2019年1月18日金曜日

【読書感想文】今よりマシな絶望的未来 / 村上 龍『希望の国のエクソダス』

希望の国のエクソダス

村上 龍

内容(e-honより)
2002年秋、80万人の中学生が学校を捨てた。経済の大停滞が続くなか彼らはネットビジネスを開始、情報戦略を駆使して日本の政界、経済界に衝撃を与える一大勢力に成長していく。その後、全世界の注目する中で、彼らのエクソダス(脱出)が始まった――。壮大な規模で現代日本の絶望と希望を描く傑作長編。

村上龍という作家のキャラクターはあまり好きじゃないんだけど、この人の書く小説は超一流だと認めざるをえない。
うまい。序盤に出てくる「バランスの悪いシーソー」の比喩なんか絶妙の表現だ。
うまいだけじゃなく熱量もすごい。

中学生の反乱小説といえば、宗田理『ぼくらの七日間戦争』だ。
ぼくは中学生のときに『ぼくらの七日間戦争』を読んで、「なんかちがうな」とおもった。登場人物がみんなつくりものっぽいのだ。おっさんの頭の中にある理想の中学生、という感じがした。作者の「おれは大人だけど中学生の気持ちがわかるぜ」という感じが伝わってきて気持ち悪かった(恩田陸の『夜のピクニック』にも同じものを感じた)。

『ぼくらの七日間戦争』には、中学生のこわさ、残忍さ、不安がまるで書かれていなかった。意図的に書かなかったのかもしれないが、完全ファンタジーにしたいならキャラクターは中学生じゃなくて小学生のほうがいいと思う。


ぼくにとっていちばんこわい存在は、中学生だ。
以前、夜中に治安の悪い地域をひとりで歩いていたとき、道の向こう側から中学生の集団がやってきた。
二十人ぐらいの中学生が自転車に乗ってやってきて、ぼくとすれちがったのだ。
ただすれちがっただけなのに、めちゃくちゃこわかった。殺されるかもしれないとおもった。なぜなら相手が中学生だったから。
たとえば二十歳ぐらいの悪そうなやつとか本職のヤクザとかなら、存在としてはこわいけど「相手を刺激しなければ大丈夫だろう」とおもう。「よしんばつっかかってきたとしても、最悪、金を渡せばなんとかなるだろう」という気持ちもある。「話せばわかる」というか。こちらがめいっぱい譲歩すれば一応合意はできそうだ。

しかし中学生集団は何をするかわからない。何の理由もなく殴ってきそうだし、一度火が付いたらこちらが金を出したとしても許してくれなさそうな気もする。
力はあるのに損得だけで動かない(つまり何をするかまったく読めない)、それがぼくにとっての中学生のイメージだ。
じっさい、自分の中学生時代をふりかえってもそういうところがあった。
何か訴えたいことがあるわけでもなく、何かを手に入れたいわけではなく、なのに社会規範に反旗を翻したくなる。中学生とはそういう時期なのだ。

『希望の国のエクソダス』で描かれる中学生は、最初から最後まで大人にとって理解不能な存在だ。
彼らが何のために何をやろうとしているのか、とうとう最後までわからない。これはとても誠実な書き方だ。大人が中学生を理解するのは不可能だ。彼ら自身だってわかっていないのだから。
それは「体制への反抗」なんて言葉で片付けられない。反抗ならどちらに向かっているのかがわかりやすいが、中学生の行動は原子があっちこっちにランダムな運動をしているようなものだ。それは外から見ていると枠を広げようとしているようにも見えるが、原子自身にそういう意思は存在しない。



「この国には何でもある。ただ、『希望』だけがない」
『希望の国のエクソダス』で、国会に姿を現した中学生のポンちゃんがこう語るのは、作中時間で2002年のことだ。
彼らは学校に行くことをやめ、ネットワークをつくり、経済や技術的な力をつけてゆき、日本という国から距離をとろうとする。

さて今、現実の世の中は2019年。
状況は何も変わっていない。いや、悪くなっているのかもしれない。
不況は一応脱出したことになっているが、ほとんどの人の暮らしぶりは良くなっていない。少子化、高齢化、国家財政の悪化、年金制度の破綻、貧富の拡大。先を見ると悪い材料しかない。
「自分は今後いい生活を手に入れてみせる」と思える人はいても、「国民全体の暮らしがこれから良くなっていく」と信じている人はもう今の日本にはひとりもいないんじゃないだろうか。未来の生活が悪いというのは今が悪いよりも絶望的かもしれない。

ひと昔前は閉塞感という言葉が使われていたが、もう「閉塞」の段階すら通りすぎてしまった。悪い方向に転がっていくことが確定しているのだから。閉塞のほうがまだマシだったかもしれない。
 ポンちゃんは法律のことを話した。つい、二、三日前に由美子が話してくれたことに似ていた。人材の国外流出こそがこれからの最大の問題だと、その朝、由美子はヨーグルトにマーマレードを入れて食べながら言ったのだった。倒産や失業は深刻な問題だが、人材が残っていれば日本経済はいつか立て直すことができる。この数年で、日本の銀行や証券会社、精密機械や電気、化学産業などから、有能な人間が続々と逃げ出している。困ったことに、これからも日本に残っていて欲しい人材はど、海外でも仕事ができる。これからの日本に必要なのは、海外でも仕事ができるような何らかのスキルを持った人間たちだ。公共心がどうのこうのとたわごとを並べるだけのバカは本当は要らない。でも、彼らはどこにも行けないから、ずっとこの国にいるわけだ。どこの国でも何とか生きていけるような人間こそが必要なのだが、有能な人材の国外流出を止めるためには、気が遠くなるほどの時間をかけて法律をいじらなくてはならない。人材の国外流出が本格的に始まってしまったら、たぶんこの国の繁栄の歴史が本当に終わるだろう。
この文章を読んで、ぼくはどこか懐かしいような気がしていた。
そういえば二十年ぐらい前はこんな言説をよく耳にした。日本にいちゃだめだよ、これからは海外に出ていかないと。

でも今、そんなことを言う人はすっかり減った。たぶん理由は三つ。

ひとつは、誰にとってもあたりまえすぎてあえて言う必要がなくなったこと。日本が今後力を持つことなんてありえないと誰もが知っているから。

ふたつは、そういうことを言う人たちはもうとっくに日本から出ていってしまったこと。今の日本には世界に出ていけない人しかいない。

そしてみっつめは、海外に出たって似たりよったりな状況だと気づいていること。日本の未来はたしかに暗澹たるものだが、他の国だって遅かれ早かれ同じ状況に陥ることが目に見えている。



村上龍氏が『希望の国のエクソダス』で指摘した日本の病理は、哀しいかな、一部では的中し、一部ではもっとひどい状況になった。
『希望の国のエクソダス』の中学生たちはインターネットを駆使して日本経済のありかたに一石を投じる。当時はまだインターネットは危険なものであると同時に希望だったのだ。
しかし情報の高速化・簡便化・グローバル化は、力のある者により大きな力を与えるということがわかってきた。この流れは当分変えられないだろう。

ああもう考えるほど絶望的な気持ちになってくる。目を背けたくなってくる。

……と、そうやってみんなが未来から目を背けつづけてきた結果が今の日本の状況なんだろうな。

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2019年1月17日木曜日

『ホーム・アローン』と己の成長


五歳の娘といっしょに『ホーム・アローン』を観る。

「なんだかつまらない。ディズニーがよかった」と娘がいうのを、
「もうちょっと待ったらすごくおもしろくなるから」と説得しながら。

「ほら。この子が家にひとりで置いていかれちゃったんだよ」
「おかあさんはケヴィンを置いてきちゃったことにまだ気づいてないよ」
「この人たちは悪い人で、ケヴィンの家に泥棒に入ろうとしてるんだよ」
と解説をしながら。

そういえばぼくがはじめて『ホーム・アローン』を観たときも(小学生だった)、父がストーリーを説明してくれたっけ。

途中まで退屈そうにしていた娘も、後半になってケヴィンが泥棒をやっつけるところでは大爆笑。
げらげら笑いながら楽しんでいた。

「ほらね、おもしろかったでしょ」とぼくも満足した。



中学生のとき、友人三人と「カルキン・クラブ」というクラブを結社していた。

カルキンとは『ホーム・アローン』の主役だったマコーレー・カルキンのこと。
『ホーム・アローン』で一躍スターになったカルキン坊やの家庭が、大金を手にしたことで家族内に不和が生じて一家離散し、カルキンも後に薬物の不法所持で逮捕されたという絵に描いたような転落人生を送ったことを知ったぼくらは、それをおもしろがって「カルキン・クラブ」をつくったのだ。中学生とはなんて残酷なんだろう。

「カルキン・クラブ」の活動は、たまに誰かの家に集まってビデオを観ること。
はじめは『ホーム・アローン』『ホーム・アローン2』『リッチー・リッチ 』など、マコーレー・カルキン主演の作品を観ていたが、そのうちカルキンとは無関係の映画を観る会になった。

そんなわけで、ぼくは今までに『ホーム・アローン』を何度も観ている。



純粋におもしろがっていた小学生時代、
「主演子役の転落人生」という裏側を意地悪く冷笑していた中学生時代、
そして子どもの反応を楽しむようになった今。

いろんな楽しみ方ができる『ホーム・アローン』は名作だ。


2019年1月16日水曜日

人を動かした教頭


仕事でもアルバイトでも部活でも町内会でも同じだけど、人を動かすことはむずかしい。

「人を動かす」を「なめられないようにする」と同義だと信じている人がけっこういる。

ぼくが前いた会社の上司は、まさにそういう人だった。
ぼくはチームリーダーを任されていたが、チームはまるでまとまりを欠いていた。ミーティングなんてしないし、飲み会もしないし、メンバー同士が仕事以外で口をきくことはほとんどなかった。ぼくも含め、ほとんどの社員が適度にサボっていた。
しかし業績は良かった。
ぼくがやっているWebマーケティングの仕事は、成果が数字ではっきり出る。広告費と時間をどれだけ投じてどれだけの成果が上がったかが数値で確認できる。前の期よりも成果のいい状態が続いていた。

業績がいいんだからなにも文句はあるまいと思っていたのだが、上司にとってはぼくのやり方は気に入らなかったらしい。
「もっとミーティングをしろ」
「チーム内でコミュニケーションをとれ」
「飲みにいくのも仕事のうちだ」
そういって上意下達の組織に作り替えようとした。かくしてメンバーのモチベーションはがた落ちし、退職者が相次ぎ、ぼくも退職した。その後のことは知らない。

上司は、「メンバーがだらだら仕事をしているけど業績のいい組織」よりも「業績が悪くてもメンバーが明るく活発に動いている組織」にしたかったらしい。



ぼくが中学生のときの話。

掃除の時間にぼくらが遊んでいると、教頭先生がやってきた。
「まずい、怒られる」
とおもった。しかし教頭先生は怒らなかった。

「さっ、掃除しようぜ!」
そう言って、ぼくにほうきを手渡すと、自分は床の雑巾がけをはじめた


今考えてもすごい人だとおもう。
サボっている中学生にほうきを渡して自分が雑巾がけをできる教頭先生が日本に何人いるだろうか。

効果はてきめん。
ぼくらはまじめに掃除をした。その日以降もずっと。
「あの人にもう雑巾がけをさせるわけにはいかない」という思いがぼくらを動かしつづけた。

「まじめに掃除やれ!」と怒鳴られたら、そのときはまじめにやる(ふりをする)が、その先生がいないときにはまたサボるだろう。
だが自ら先陣を切って雑巾がけをした教頭先生は、ぼくらの考え方を変えた。



子育てでも同じだ。
いろんな親を見ていると、「親の威厳を示す」が最高目標になっている人がけっこういるように思える。
子どもになめられない。自分の言うことに従わせる。それがいちばんの目標。

でもそんなの無理に決まってる。
自分が子どものころを思いかえしたって、親の言うことに唯々諾々と従っていたのなんて二歳までじゃないかな(二歳までの記憶ないけど)。

だから、親のことをなめきっていようが、見くびっていようがかまわない。
「ちゃんとお片づけをしてほしい」と望むのなら、「お片づけをしたほうが得だ」とおもわせるように導く。
「勉強を自発的にやってほしい」と願うのなら「勉強って楽しい」とおもってもらえるような話し方を心がける。
それがいちばん合理的なやり方だ。

ぼく自身、子育ての真っ最中なので自分がうまくできているかはわからない。
でも、少なくとも娘に対しては「言うことを聞かせる」ではなく「自分で動いてもらう」ような言い方を心がけている。

「片付けなさい」じゃなくて「さあおもちゃがなくならないように片付けしようぜ!」と言うし、「本を読みなさい」ではなく「本読んでもいいよ」と言うようにしている。
あの教頭先生のやり方を見倣って。

……とはいえ、時間がなくて自分自身に余裕のないときは「早くお着換えしなさい!」って言っちゃうんだけど。


2019年1月15日火曜日

大人の女が口笛を吹く理由


あたしが口笛を吹いていると「よく吹けるね」と言われる。

褒められているわけではないことぐらいはわかる。半分ばかにされていて、もう半分は小ばかにされているのだ。つまり七十五パーセントばかにされていることになる。

ばかにされる理由はふたつ。


ひとつは、大人の女なのに口笛を吹くこと。

ふつう、大人の女は口笛を吹かないらしい。口笛は子どものもの。あるいは男のもの。誰が決めたわけでもないけどそういうことになっているらしい。
口笛を吹くシチュエーションといえば、「いい女とすれちがったときにピュウ~と吹く」とか「アメフトの試合でいいプレーをした選手をたたえる」とか「アルプススタンドで沖縄代表を応援する」とかで、たしかにどれも男くさい。アルプススタンドのやつは口笛じゃなくて指笛だったような気もするけど、まあおなじようなもんだ。


もうひとつは、あたしの口笛がへたなこと。

まだうまかったらいいんだろうけどね。
でもあたしの口笛って音程もとれないし、ふひゅう、ひゅうすうと空気の漏れるような音がする。へたなことは自分でもわかっている。でも嫌いじゃない。


どっちの理由についても、あたしの反論はおなじだ。
「うるせえよ」

仕事として給料をもらって口笛を吹いているんなら、あたしだって上司や顧客の言うことに従う。
「きみぃ、もうちょっといい口笛を吹けんもんかね」
って言われたら、なんとか要望に沿えるような吹き方を工夫する。

でもあたしの口笛はあたしのためのものだ。
自分のための、自分による、自分の口笛。
だから大人っぽくなかろうが、女っぽくなかろうが、へただろうが、吹きたいときに吹く。
それでもごちゃごちゃ言ってくるやつにはこう言ってやる。
ふひゅう。

2019年1月11日金曜日

金がなかった時代の本の買い方


中高生のとき、本をよく読んでいた。
といっても月にニ十冊ぐらいなのでヘビーリーダーからすると「その程度でよく読むだなんてちゃんちゃらおかしいわ。『月刊ひかりのくに』からやりなおしてこい!」と言われそうだが、まあ平均よりはよく読んでいたほうだろう。
しかし月にニ十冊読もうと思うとけっこう金がかかる。すべて文庫で買っても一万円ぐらい。
中高生のぼくにとって月に一万円も出す余裕は到底なかった。余裕どころじゃない。こづかいは月に数千円、学校はバイト禁止だったからどう逆立ちしたって出しようがない。

だから古本屋によく行っていた。
隣町に大型古書店があって、毎月のように自転車で通っていた。
文庫や書籍は一冊百円~二百円、マンガは定価の半額。
一度に十冊、ニ十冊ぐらい買いこんでいた。
エロ本もそこで買っていた。エロ本は高かったので一冊ぐらい。売っているほうも高校生が買いにきていることはわかっていただろうが、店員から何も言われたことはなかった。みんな優しい。

古本屋以上に重宝していたのはバザーだった。
三ヶ月に一回のペースで公民館でおこなわれていた。その公民館は丘の上にあり、自転車で三十分ほどひたすら坂をのぼりつづけないと行けない。体力のある中高生にとってもなかなか大変なことだったが、それでも欠かさず足を運んでいたのは、一冊十円という驚きの安さで本が売られていたからだ。

バザーなので営利目的ではなく、不用品を再利用しましょうという意味合いが強かったのだろう。どんな本でも十円だった。
筒井康隆、小松左京、東海林さだお、井上ひさし、畑正憲、赤川次郎、新井素子……。
ぼくの中高生時代の読書の大半はこのバザーに支えられていた。
なにしろ一冊十円なので、お金のことなぞ気にしなくていい。ちょっとでも気になった本は手当たり次第買う。五十冊買っても五百円。毎回バッグをぱんぱんにして帰っていた。


金のない時代に「いくらでも本が読める」という環境があったのは本当によかった。

ぼくの通っていた古本屋はとっくにつぶれた。電子書籍が増えた今では古本屋という商売自体が厳しいだろう。バザーはどこにでもあるものではない。
今の中高生は浴びるほど本を読めているんだろうか。

まあ、そういう人のために図書館があるんだけど。
でも「本を所有する」ってのも読むのと同じくらい大事な体験だとおもうんだよなあ。