2019年1月16日水曜日

人を動かした教頭


仕事でもアルバイトでも部活でも町内会でも同じだけど、人を動かすことはむずかしい。

「人を動かす」を「なめられないようにする」と同義だと信じている人がけっこういる。

ぼくが前いた会社の上司は、まさにそういう人だった。
ぼくはチームリーダーを任されていたが、チームはまるでまとまりを欠いていた。ミーティングなんてしないし、飲み会もしないし、メンバー同士が仕事以外で口をきくことはほとんどなかった。ぼくも含め、ほとんどの社員が適度にサボっていた。
しかし業績は良かった。
ぼくがやっているWebマーケティングの仕事は、成果が数字ではっきり出る。広告費と時間をどれだけ投じてどれだけの成果が上がったかが数値で確認できる。前の期よりも成果のいい状態が続いていた。

業績がいいんだからなにも文句はあるまいと思っていたのだが、上司にとってはぼくのやり方は気に入らなかったらしい。
「もっとミーティングをしろ」
「チーム内でコミュニケーションをとれ」
「飲みにいくのも仕事のうちだ」
そういって上意下達の組織に作り替えようとした。かくしてメンバーのモチベーションはがた落ちし、退職者が相次ぎ、ぼくも退職した。その後のことは知らない。

上司は、「メンバーがだらだら仕事をしているけど業績のいい組織」よりも「業績が悪くてもメンバーが明るく活発に動いている組織」にしたかったらしい。



ぼくが中学生のときの話。

掃除の時間にぼくらが遊んでいると、教頭先生がやってきた。
「まずい、怒られる」
とおもった。しかし教頭先生は怒らなかった。

「さっ、掃除しようぜ!」
そう言って、ぼくにほうきを手渡すと、自分は床の雑巾がけをはじめた


今考えてもすごい人だとおもう。
サボっている中学生にほうきを渡して自分が雑巾がけをできる教頭先生が日本に何人いるだろうか。

効果はてきめん。
ぼくらはまじめに掃除をした。その日以降もずっと。
「あの人にもう雑巾がけをさせるわけにはいかない」という思いがぼくらを動かしつづけた。

「まじめに掃除やれ!」と怒鳴られたら、そのときはまじめにやる(ふりをする)が、その先生がいないときにはまたサボるだろう。
だが自ら先陣を切って雑巾がけをした教頭先生は、ぼくらの考え方を変えた。



子育てでも同じだ。
いろんな親を見ていると、「親の威厳を示す」が最高目標になっている人がけっこういるように思える。
子どもになめられない。自分の言うことに従わせる。それがいちばんの目標。

でもそんなの無理に決まってる。
自分が子どものころを思いかえしたって、親の言うことに唯々諾々と従っていたのなんて二歳までじゃないかな(二歳までの記憶ないけど)。

だから、親のことをなめきっていようが、見くびっていようがかまわない。
「ちゃんとお片づけをしてほしい」と望むのなら、「お片づけをしたほうが得だ」とおもわせるように導く。
「勉強を自発的にやってほしい」と願うのなら「勉強って楽しい」とおもってもらえるような話し方を心がける。
それがいちばん合理的なやり方だ。

ぼく自身、子育ての真っ最中なので自分がうまくできているかはわからない。
でも、少なくとも娘に対しては「言うことを聞かせる」ではなく「自分で動いてもらう」ような言い方を心がけている。

「片付けなさい」じゃなくて「さあおもちゃがなくならないように片付けしようぜ!」と言うし、「本を読みなさい」ではなく「本読んでもいいよ」と言うようにしている。
あの教頭先生のやり方を見倣って。

……とはいえ、時間がなくて自分自身に余裕のないときは「早くお着換えしなさい!」って言っちゃうんだけど。


2019年1月15日火曜日

大人の女が口笛を吹く理由


あたしが口笛を吹いていると「よく吹けるね」と言われる。

褒められているわけではないことぐらいはわかる。半分ばかにされていて、もう半分は小ばかにされているのだ。つまり七十五パーセントばかにされていることになる。

ばかにされる理由はふたつ。


ひとつは、大人の女なのに口笛を吹くこと。

ふつう、大人の女は口笛を吹かないらしい。口笛は子どものもの。あるいは男のもの。誰が決めたわけでもないけどそういうことになっているらしい。
口笛を吹くシチュエーションといえば、「いい女とすれちがったときにピュウ~と吹く」とか「アメフトの試合でいいプレーをした選手をたたえる」とか「アルプススタンドで沖縄代表を応援する」とかで、たしかにどれも男くさい。アルプススタンドのやつは口笛じゃなくて指笛だったような気もするけど、まあおなじようなもんだ。


もうひとつは、あたしの口笛がへたなこと。

まだうまかったらいいんだろうけどね。
でもあたしの口笛って音程もとれないし、ふひゅう、ひゅうすうと空気の漏れるような音がする。へたなことは自分でもわかっている。でも嫌いじゃない。


どっちの理由についても、あたしの反論はおなじだ。
「うるせえよ」

仕事として給料をもらって口笛を吹いているんなら、あたしだって上司や顧客の言うことに従う。
「きみぃ、もうちょっといい口笛を吹けんもんかね」
って言われたら、なんとか要望に沿えるような吹き方を工夫する。

でもあたしの口笛はあたしのためのものだ。
自分のための、自分による、自分の口笛。
だから大人っぽくなかろうが、女っぽくなかろうが、へただろうが、吹きたいときに吹く。
それでもごちゃごちゃ言ってくるやつにはこう言ってやる。
ふひゅう。

2019年1月11日金曜日

金がなかった時代の本の買い方


中高生のとき、本をよく読んでいた。
といっても月にニ十冊ぐらいなのでヘビーリーダーからすると「その程度でよく読むだなんてちゃんちゃらおかしいわ。『月刊ひかりのくに』からやりなおしてこい!」と言われそうだが、まあ平均よりはよく読んでいたほうだろう。
しかし月にニ十冊読もうと思うとけっこう金がかかる。すべて文庫で買っても一万円ぐらい。
中高生のぼくにとって月に一万円も出す余裕は到底なかった。余裕どころじゃない。こづかいは月に数千円、学校はバイト禁止だったからどう逆立ちしたって出しようがない。

だから古本屋によく行っていた。
隣町に大型古書店があって、毎月のように自転車で通っていた。
文庫や書籍は一冊百円~二百円、マンガは定価の半額。
一度に十冊、ニ十冊ぐらい買いこんでいた。
エロ本もそこで買っていた。エロ本は高かったので一冊ぐらい。売っているほうも高校生が買いにきていることはわかっていただろうが、店員から何も言われたことはなかった。みんな優しい。

古本屋以上に重宝していたのはバザーだった。
三ヶ月に一回のペースで公民館でおこなわれていた。その公民館は丘の上にあり、自転車で三十分ほどひたすら坂をのぼりつづけないと行けない。体力のある中高生にとってもなかなか大変なことだったが、それでも欠かさず足を運んでいたのは、一冊十円という驚きの安さで本が売られていたからだ。

バザーなので営利目的ではなく、不用品を再利用しましょうという意味合いが強かったのだろう。どんな本でも十円だった。
筒井康隆、小松左京、東海林さだお、井上ひさし、畑正憲、赤川次郎、新井素子……。
ぼくの中高生時代の読書の大半はこのバザーに支えられていた。
なにしろ一冊十円なので、お金のことなぞ気にしなくていい。ちょっとでも気になった本は手当たり次第買う。五十冊買っても五百円。毎回バッグをぱんぱんにして帰っていた。


金のない時代に「いくらでも本が読める」という環境があったのは本当によかった。

ぼくの通っていた古本屋はとっくにつぶれた。電子書籍が増えた今では古本屋という商売自体が厳しいだろう。バザーはどこにでもあるものではない。
今の中高生は浴びるほど本を読めているんだろうか。

まあ、そういう人のために図書館があるんだけど。
でも「本を所有する」ってのも読むのと同じくらい大事な体験だとおもうんだよなあ。

2019年1月10日木曜日

本は都合のいい友人

本は都合のいい友人。

こんなに都合のいいやつはいないぜ。
若くてキレイってだけでちやほやされてる女みたいに「なんかおもしろい話してー」と言えば、すぐに話を読ませてくれる。
おもしろくないときもあるけど、ほっぽりだしたってなにもいわない。栞をはさんだまま一ヶ月放置してても文句を言わない。

電車に乗るときのお供、風呂での退屈しのぎ、眠くなるまでのおつきあい。
呼びだせばどこにでもついてきてくれる。


歳をとるほどに、人付き合いが面倒になってくる。
仕事をして、家族の用事をして、子どもと遊んで。
残りの時間をやりくりして人と会うのが面倒になってきた。

古くからの友人と会うのも年に数回になってしまった。
会いたいという気持ちはあるんだけど、そのために日程調整するのがおっくうだ。約束したら予定に束縛されることになるし。
お互い仕事や家族を持つと「今日ヒマ? 飲まない?」というわけにもいかない。まして、たいした用事があるわけでもないのだ。
もっと気軽に会いにいけたらいいんだけどな。

その点、本はほんとに都合のいいやつだ。
読みたいときに読ませてくれるし、数日前から予約をしておく必要もない。今は電子書籍で読みたいときにすぐ買えるし。
「読もうと思ってたけどべつの用事ができた!」とドタキャンしても不満な顔ひとつしない。こっちも一切負い目を感じない。

ぼくは人付き合いが好きなほうではないのでほとんど人と話さなくても平気だが、それは本という「誰かと手軽につながれるツール」があるからなんだと思う。

本は多くの孤独な人を救ってきたし、これからも救いつづける。
ただ、今は本よりもインターネットのほうが多くの孤独な人を救うのだろう。それはそれですばらしいことだとおもう。

2019年1月9日水曜日

【読書感想】高齢者はそこまで近視眼的なのか? / 八代 尚宏『シルバー民主主義』

シルバー民主主義

高齢者優遇をどう克服するか

八代 尚宏

内容(e-honより)
急激な少子高齢化により、有権者に占める高齢者の比率が増加の一途にある日本。高齢者の投票率は高く、投票者の半数が60歳以上になりつつある。この「シルバー民主主義」の結果、年金支給額は抑制できず財政赤字は膨らむばかりだ。一方、保育など次世代向けの支出は伸びず、年功賃金など働き方の改革も進まない。高齢者にもリスクが大きい「高齢者優遇」の仕組みを打開するにはどうすべきか。経済学の力で解決策を示す。

「シルバー民主主義」という言葉を耳にするようになって久しい。
人口における高齢者の比率が高まることで、一人一票の選挙において高齢者受けする政策ばかりが選ばれ、若者の意見が通らないという現象のことだ。
結果的に若者が投票に行くメリットが減り、投票率の高い高齢者の意見がより通りやすくなるというスパイラルも招く。

そんな「シルバー民主主義」が招く弊害を鋭く指摘した本。
ちなみに著者は執筆当時七十歳だったそうだ。シルバー世代の人がこれを書いたというのは非常に意義のあることだとおもう。

すでに今の日本はシルバー民主主義がまかりとおっており、これからどんどん加速してゆく。
ぼくは三十代半ばの自他ともに認める中年なので、「老い先短い連中が将来のことを決めようとするんじゃねえよ」という思いと「そうはいっても自分が高齢者になったときに自分たちに不利になる政策を選べるだろうか」という思いの両方を持っている。
一年生のときは球拾いをさせられて「なんて身勝手な先輩連中だ」とおもっていても、自分が三年生になったら「伝統だから」といって一年に雑務を押しつけてしまうように。



高齢者の意見が無駄だと言うつもりはないけれど、分野によっては若者の意見を重視したほうがいいこともある。

たとえば、夫婦別姓選択制の導入について意見を求めると、今は賛成派と反対派が拮抗している。
だが年代別でみると傾向ははっきり分かれていて、二十代や三十代は賛成派が多く、六十以上は反対派が多い。
同性婚に対する考え方も同じ傾向を示している。
反対派も多いので法改正が進まないのが現状だが、よく考えたらずいぶんおかしな話だ。
六十代以上よりも二十代三十代のほうが、今後結婚する可能性はずっと高い。当事者が「いいじゃないか」と言ってるのに、もはや結婚とは無縁に近い高齢者が「いいや許さん!」と反対しているわけだ。

シルバー民主主義では、当事者の意見よりも外野の意見のほうが重視される。
結婚にかぎらず子育てや教育や働き方など、高齢者にとって関係の薄い論点についても、高齢者の意見のほうが重要視されることになる。
野球部のキャプテンを決める投票を、野球部以外も含む全校生徒でやるようなものだ。どう考えたっておかしいのに、それがずっと続いているのがシルバー民主主義の現状だ。
 子どもの貧困は、その親である働き手世代の低所得化の結果であり、世代を超えた貧困の再生産をもたらすなど、社会的な影響はむしろ高齢者の貧困よりも深刻である。
 このため、「子どもの貧困対策法」が二○一三年に制定されたものの、そのための予算措置は限られたものとなっている。日本の社会保障費用のうち、高齢者向けがGDPの一三%を占めるのに対して、子どもなど家族のための給付は一%強に過ぎない(国立社会保障・人口問題研究所2015)。米国と並んで低い比率であり、二割から五割を占めている欧州主要国との格」差は大きい(図表2-5)。
 高齢者への社会保障移転が著しく高い要因は、年金や医療・介護などの社会保険が、大きな比重を占めていることがある。これらは独自の保険料財源をもつことで、一般財源にのみ依存している子どもや家族への給付を圧倒している。これに対抗するためには、「子育てのための社会保険」を創設すればよいというのが、ひとつの論理的な帰結となる(八代・金米・白石2005)。
子どものための予算を削って高齢者にお金を注ぐ国に明るい未来があると誰がおもえるだろうか?



今の税制では、専業主婦世帯が優遇されている。いわゆる「150万の壁」だ。
そのせいで能力も時間もあるのに働きに出られない女性も多い。まったく時代にあっていない。
 配偶者控除は、それを基準とした企業の配偶者手当(この制度をもつ企業平均で月一万六三○○円)と連動していることから、専業主婦が就業すると一時的に家計所得が減少する問題もある。もっとも、企業経営の国際化が進むなかで、労働者の企業への貢献と無関係な配偶者手当を廃止する動きもあるが、大部分の企業では過去の慣行がそのまま維持されている。このように、主として「女性が働くと損をする」制度が維持されることは、労働力の減少が経済成長の抑制要因となる高齢化社会では、大きな社会的コストを生むものとなる。
 最近の税制調査会では、配偶者控除を廃止することによる専業主婦世帯の負担増を避けるためとして、子ども控除の拡大や配偶者の就業にかかわらず適用される「夫婦控除」への置き換えなどの提案がなされている。本来、女性の就業抑制の防止のためであれば、税収の増減税なしの範囲内で、配偶者控除を(働く可能性の少ない)子どもへの控除へ振り替えれば、子育て支援に合わせて一石二鳥の政策となる。
きょうび、専業主婦世帯と共働き世帯だったら、どう考えたって生活がたいへんなのは後者だろう(あくまで平均的にはね)。
特に今後労働力不足は深刻化していくし、少子化も加速していくわけだから「共働きで子育てをする世帯」を国家のためにも望ましい形だ。
これを支援するほうがいいに決まっている(ぼくの家が共働き子育て世帯だからってのもあるけど)。

なのに、何十年も前にできた「女性が働くと損をする」制度がまかりとおっているのは、専業主婦の多い高齢者世帯への配慮だと著者は指摘している。これぞシルバー民主主義の弊害。



シルバー民主主義を止める方法は、それほどややこしいことじゃない。

この本の中でも、
地域ではなく世代ごとに代表を選ぶ「世代別選挙区」、
未成年者の票を親が代わりに投じる「ドメイン投票方式」、
若者ほど一票の価値を高める「余命比例投票」などが紹介されている。
こういった仕組みを導入すれば若者の意思は政治に反映されやすくなる。

現行の制度のままでも、今ある政党が「これからの未来をつくる人たちが活躍しやすい政策を実行していきます」と方針を示すだけでいい。

だが問題は「誰がそれをするのか」だ。
誰かがそれをしなくちゃいけない。
でも自分はしたくない。だって高齢者からの票を捨てることになるから。だから政治家は「やらなきゃいけない」と思いつつも後の世代に棚上げしてしまう。
そのうち誰かがなんとかしてくれるさ」と言いながら。



そのうち誰かがなんとかしてくれるさ」を積みかさねてきた結果が、現在の膨れあがった国家の借金と崩壊寸前の国民年金制度だ。
この本のかなりの紙数が医療福祉の財政や国民年金のことに割かれている。

誰が見たって日本の状況はヤバい。
借金も年金制度もこのままでいいなんて誰もおもっていない。誰もが「なんとかしなくちゃ」とおもいながら、誰も何もしようとしない。倒産する会社もこんな感じなんだろう。

財政悪化と年金制度の崩壊は、シルバー民主主義に原因を帰す部分が大きい。
票を持っている高齢者の既得権益を壊す部分に手を付けたくない。その一心で、ツケを後世に回しつづけてきた。
なんとかなるさと楽観的な未来を信じながら。
公的年金財政には、五年に一度の財政検証という監査の仕組みがある。二〇〇九年の財政検証時には、デフレの長期化にもかかわらず、賃金上昇率二・五%(二〇〇四年では二・一%)で、積立金の運用利回りが四・一%(同)という、現実からかけ離れた経済指標の水準が、二一○○年まで持続するという前提となっていた。民間の保険会社が、こうした高収益見込みの金融商品を売り出せば、金融庁から指導される。しかし、国営保険会社の乱脈経営に、金融庁のチェック機能は働かない。日本と類似した仕組みの米国の公的年金が、その財務状況について、独立の政府機関から厳格な会計検査を受けていることと対照的である。
本来なら公的な年金だからこそ厳しくチェックすべきだ。
民間の金融商品なら、めちゃくちゃなことをやってその会社がつぶれても「自己責任」で済むが、強制的に加入される公的年金では「イヤなら加入しなければいい」というわけにはいかないのだから、シビアに運用しなくてはならないのに。



シルバー民主主義は今後も加速していくばかりだろう。

声の大きな高齢者に迎合することは、若い人はもちろん、高齢者のためにもならない。
だから嫌われるのを覚悟で半ば強引に変えようとしなければ、永遠に変わらない。

今の政権は働き方改革だとか水道民営化とか国民の大半が望んでいないことを強行採決で推し進めてるけど、そういうんじゃなくて年金制度改革みたいに「いつか誰かがやらなきゃいけないけど誰もやりたがらないこと」を強引にやってほしい。

でも無理なんだろうなあ。
民主主義の限界を感じる。しかしこの話を広げると長くなるしシルバー民主主義とも離れていくからまた別の機会に書くことにする。



シルバー民主主義はよくないよねと言いながら、一方でぼくはおもう。
高齢者ってそんなにバカなんだろうか?

高齢者への負担増には全面的に反対するのだろうか?
みんながみんな「自分が生きている間さえよければ後は野となれ山となれ」と考えているんだろうか?

もちろんそういう高齢者も多いだろう。
でも現状を理解してもらった上で「この部分は高齢者か子育て世代かが負担しないといけないんです。子育て世代にすべてを押しつける道を歩みつづけますか?」と尋ねれば、それでも「自分の生活さえよければあとは知ったことか!」と言いはなつ高齢者はそう多くないんじゃないかとおもう。

「このままだと年金制度自体が破綻しますよ。それよりかは給付額を減らしてでもなんぼかもらいつづけられるほうがマシでしょう」
といえば、理解を示してくれる人は多いはず。

それでも「年金支給額を減らされたら死んでしまう」という高齢者は生活保護など他の制度でサポートすればいい。
生活保護を受給することを恥ずかしいことだとおもうのなら、若者に負担を押しつけて高い年金をもらうことだって恥ずかしいことなのだから。

結局、シルバー民主主義と言いながら真の原因は官僚や政治家が「過去の失敗を認めたくない」ことに尽きるんじゃないかな。
「今までやってきたことは誤りでした。ここからまっとうにやっていきます」と言えば済む話だとおもうんだけど。

謝罪したり誰かに責任を負わせたりしなくていいから、せめて失敗は認めてほしいと痛切に願う。それをしないことには何も変わらない。