2018年3月9日金曜日

服をおろす日


衣服に興味がないんだけど、半年に一回ぐらい服を買いに行くのね(「穴の空いてない靴下がなくなった」などの理由で)。

ふだん服を買わないから、たまに買い物にいくと一度にどかっと買う。気分は完全に「召し使いを連れてショッピングに来た大金持ちのお嬢様」。「あれもいるわ、これも買っとこうかしら」と財布を気にせずどんどんカートに放りこむ。ユニクロだけど。

靴下十足、パンツ八枚、シャツ七枚、みたいな感じでばかみたいに買う。

特に靴下は同じ柄をまとめて買う。
同じ柄の靴下がいっぱいあると洗濯のときにいちいち相方探しをしなくて済む。あと片方に穴が空いても、残った靴下同士を組み合わせてまだ使える。これぞできる大人のライフハック。

服を買うときはお嬢様モードになってるから「よっしゃいったれー!」と気分が高揚しているのだが、家に帰った途端に何もかもが面倒になる。


ああいやだ。なんだよこの服たち。
この服、サイズを合わせたり、タグを切ったり、タンスにしまったりしないといけないのか……。思っただけでげんなり。

サイズがちがったり欠陥があったりしたら早めに返品しないといけない。だからすぐにチェックしたほうがいい。
わかってるけど、めんどくささのほうが勝って放置してしまう。

ああ嫌だ嫌だ。服を買うのは嫌いじゃないが、買った服をおろすのは大嫌いだ。

買った服は袋に入れたままタンスの上に放置する。
「いつかめんどくさくなくなったらおろそう」
当然ながらそんな日は来ない。今日めんどくさかったんだから明日になったらもっとめんどくさい。来週になったら換気扇の掃除と同じくらいめんどくさい。

冬に買った服が夏になってもまだタグがついたまま。たまに目が留まるが「ま、そのうちね。ここぞというときにおろすからさ」と思いながら目を背ける。

ところが「ここぞというとき」なんて、既婚・子持ちのおっさんにはない。「子どもと公園で遊ぶから汚れてもいい服を着る日」はあっても「新しい服を着なきゃいけない日」はない。
結婚式とか家族写真を撮るとかのイベントのときはスーツだし。


つくづくもったいないことしてるなあと思うんだけど、こんな性分にもひとつだけいいところがある。
今の気候にふさわしい服がすべて洗濯中のときにしかたなく半年前に買った服をおろすんだけど、買ったときのお嬢様気分なんかすっかり忘れているから

「おっ、この服なかなかいいじゃん。これは自分では選ばない色だなー(自分で選んだんだけど)。たまにはこういうのもいいかも」

と、福袋気分で楽しめるところ。


2018年3月8日木曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈四〉 商売繁盛』


『上方落語 桂米朝コレクション〈四〉
商売繁盛』

桂 米朝

内容(e-honより)
人間国宝・桂米朝演じる上方落語の世界。第四巻は「商売繁盛」。商売の都にふさわしい商人の心意気や、珍商売の数々。落語を通じて上方の経営哲学を知り、ビジネスを学ぼう?という一冊。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第四巻。
「商売繁盛」にちなんだ噺を収録。

大阪は商売の町と言われるぐらいなので、商売の噺も多く、活気のある噺が多い。落語に出てくる商売はまともじゃない商売が多いけど……。


帯久


呉服屋を営む、与兵衛と久兵衛。与兵衛は誰からも評判がよく、店も繁盛している。久兵衛の店は閑古鳥が鳴いている状態。与兵衛はたびたび久兵衛に親切にしてやるが、不運が続き財産を失ってしまう。没落した与兵衛が久兵衛に金を借りにいくが、久兵衛は昔の恩も忘れて与兵衛を追いかえす。与兵衛は悔しさのあまり久兵衛の店に火をつけようとしたところを捕らえられ、奉行所へと引っ張られていく……。

落語には名奉行が出てくる噺がいくつかある。『鹿政談』『三方一両損』など。
『帯久』もそのひとつだが、はたしてこれを名奉行といってよいのだろうか……。たしかに久兵衛はひどいやつだし、悪いことをしているから報いを受けるのも当然だといえる。
とはいえ与兵衛が火つけをしたことは事実だし、久兵衛の評判が悪いというだけで証拠もないのにこらしめられるのも腑に落ちない。実際、盗みをはたらいたんだけど。

法治国家に住む現代人からすると「いくら悪人だからって奉行所がこんな横暴な裁きかたをしてもいいのかな」と思ってしまう。天罰が当たる、とかだったら納得いくんだけど。
どうももやもやが残る噺だ。


つぼ算


間抜けな男と買い物上手な男が、水がめを買いにいく。三円で壺を買った後、やはり大きいほうの壺(六円)に換えてもらいたいと申しでる。
瀬戸物屋に「さっき渡した三円と、この三円の壺、あわせて六円払った」という男。瀬戸物屋は何度もそろばんをはじくがどうしても計算が合わない……。

有名な噺だね。小学生のときに読んだ「日本のわらい話」みたいな本にも載っていた。
前半のテンポはいいが、瀬戸物屋が納得できずに混乱するくだりは少しくどい。とはいえこのトリックを知っているからくどいと思うけど、はじめて聴いたら何度もくりかえさないと理解できないかもしれない。
値切りかたはいかにも大阪っぽい。今でもこういう値切り方するおっちゃんおばちゃん、いるもんなあ……。



道具屋


今でいうニートの甥っ子を見かねた伯父さんが、道具屋をやってみろと持ちかける。
基本的なことを教わりやってみるが、失敗続きで客に逃げられてばかり……。

シンプルな設定、次々に放りこまれるギャグ、世間知らずな主人公と、実にわかりやすい噺。
とはいえ後半の失敗のための伏線をきちんと前半に貼っているあたり、なかなか練りこまれた落語だ。

この「道具屋」というのは店舗を構えたものではなく、夜店で古物を売っていた商売らしい。今のフリーマーケットみたいな感じだね。


 はてなの茶碗


油売りが茶店で休んでいると、京都でも有名な道具屋がしげしげと茶碗を眺めている。これはさぞかし値打ちのあるものだろうと思い、全財産をはたいて茶碗を購入した油屋。道具屋に見てもらうと、ひびもないのに水が漏れるだけで何の値打ちもない茶碗だとわかる。ところがその話が公家や帝の耳にも入り、ただの茶碗に千両の値がつく……。という噺。

関白、さらに時の帝まで出てくるスケールの大きさ、それでいて実際にあった話であるかのようなリアリティ。威勢がよくて真っ正直な油屋や風格のある茶金さん(道具屋)といった秀逸なキャラクター。そして上質なサゲ。
どこをとっても一級品で、上方落語を代表するほどの名作として知られている。
ほんとよくできた噺で、「こうしたらいいのに」と思うところがまったくない。

ふつう、落語は登場人物になりきって台詞を言うが、『はてなの茶碗』においては公家や帝の台詞は地の文(演者による説明文)と地続きであるかのような語られ方をする。落語家が真似をするのはおそれおおい、ということなんだろうね。


米揚げ笊(いかき)


笊(いかき)とは、関西弁でザルのこと………なんだそうだ。ぼくは三十年関西に住んでいるが一度も耳にしたことがない。完全に死語だね。

はじめて笊売りをすることになった男が、堂島(米相場が盛んだった場所)にやってくる。縁起を気にする相場師が「米を揚げる、米揚げ笊」の呼び声を聞き、「"あげる"とは縁起がいい」と笊売りをひいきにする……。

なにからなにまで現代ではわかりにくい噺だ。
まず米相場がわからない。米の先物取引のことらしい。米の先物取引とは……と書いていくとそれだけで長い記事になってしまうのでやめておく。ぼくは堂島で勤務していたこともあるのであのあたりは毎日歩いていたが、米相場があったことなどまったく知らなかった。そういや今でも証券会社が多いなあ。


高津の富


後に東京に渡り、東京では『宿屋の富』の題でかけられる噺。

宿屋に、自称大金持ちの男がやってくる。宿屋の主人は男の話を真に受けるが、正体は宿屋の代金を踏み倒してやろうと企んでいる文無し。男は宿屋の主人に頼まれて富くじ(今の宝くじのようなもの)を一枚買う。そのくじが見事一番富の千両に当選して、男と宿屋の主人が大慌てする……。

ばかばかしい話で、筋自体はわかりやすいのだが、どうもしっくりこない。というのは、さあこれからというところで話が終わっているから。千両に当選した後、男は口約束どおりに宿屋の主人に半分をあげるのか、大金持ちのふりをしていたことについては嘘だったと認めるのか、など「その後」が気になって仕方がない。
ずいぶん投げやりな終わり方で、感心しない。


商売根問(ねどい)


特にストーリーはない。
二人の男が会話をするだけ。金儲けをしようとあれこれやってみたけど失敗した、という話を手を変え品を変え語るだけ。
落語でありながらかけあい漫才のようだ。

「根問」とは「根掘り葉掘り問う」という意味で、『歌根問』『色事根問』などいくつかのシリーズがあるらしい。……が、ぼくは寄席などで根問物を聴いたことがない。めぐりあわせが悪かっただけなのか、そもそもあまり高座にかからない噺なのか。

どうも後者ではないかとぼくは思っている。
前座噺(経験の浅い落語家が披露する噺)らしいのだが、場面転換もないし動きも少ないので、これをうまくない人がやったら退屈きわまりない出来になるだろう。かといって師匠クラスがやるほどの風格や人間味を要する噺でもないし……。
ということでこれを単独ではやらず、ここから『鷺とり』や『天狗さし』といった他の噺につなげることも多いんだとか。


しまつの極意


しまつ(始末)とは関西弁で「ケチ、倹約」のこと。年寄りが言っているのを聞いたことがあるから、まだぎりぎり生き残っている言葉かな?

『商売根問』と同様にこれといったストーリーらしきものはなく、二人の会話だけで成り立っている噺。
小話をつなぎあわせたような噺だが、それぞれのレベルは高い。海外のジョークにもケチを扱ったものが多いし、ケチというのは古今東西笑いのタネになる存在だね。

もうこれぐらいになると、普通の人と考えることが違いますな。眼が二つあるのはもったいないちゅうて、こんなもん一つでええんや言うて、片一方なおしてしまいよった。長年のあいだ片目で生活をして、晩年この眼を患いました。わしにはこういうときにちゃんとスペアの眼がとってある、ちゅうわけで、こっち側はずしてみたら、世間みな知らん人ばっかりやったちゅうんですが……。まあ不思議な話があるもんで。

「なおしてしまいよった」は「片付けてしまった」の意味ね。落語にはよくこういうナンセンスな発想が出てくるのがおもしろい。いやでも昔の人は脳で記憶していることを知らずに、もしかしたらこれを本気で信じていたかも……。



牛の丸薬


大和炬燵(土でつくったコタツ)が壊れてしまったので、その土で丸薬をつくり、農村に持っていくふたりの男。こっそり牛の鼻に胡椒をふきかけ、うまく騙して牛の病気を治す薬として丸薬を高値で売りつける……という噺。

はやくいえば詐欺師の話で、田舎に行って善人から金を騙しとる展開なので、やりかたによっては嫌な気になりそうなものだけど、手口が巧妙でなかなか楽しい噺にしあがっている。
小説や映画にも「コンゲーム」という騙しあいのジャンルがあっていつの時代も変わらぬ人気を果たしている。人間には「人を騙したい」という根源的な欲求があるのかもしれない。

これ、実際に聴くと立て板に水でべらべらっとまくしたてるところが圧巻で、これだったらほんとに騙されるかもしれないという気にすらなる。


住吉駕籠


住吉街道で商売をする駕籠屋が、たちの悪い町人、武士、酔っ払い、相場師などに翻弄されるという噺。
長めの噺だが、登場人物がめまぐるしく変わるので退屈しない。

特に終盤の、「相場師が駕籠にこっそり二人乗りして、駕籠の底が抜けたがそのまま走る」というところは視覚的なおもしろさがある。視覚的といっても落語だから実際には見えないんだけど、自然に展開するので情景が目に浮かぶね。


厄払い


ある男が金を稼ぐために厄払いをやることになるが、金をもらうときのことばかり考えていて、肝心の厄払いがうまくできない。商家を訪問するがうまく言えず、とうとう最後まで番頭さんに教えてもらいながら厄払いの向上を並べることになる……。

今でも厄年に厄払いをする人はいるけど(ぼくはしたことないが)、この「厄払い」はそれとは違う。
米朝さんの説明にはこうある。

 正月と、この年越しというものとが昔の暦なら大体一致をいたします。今は節分というと二月で、で、年を越すのは十二月の三十一日でっさかい、それは一致しまへんけど、前方はだいたいこの立春というものと、新年とが、ほぼ一致をいたしましたんで、ほんであの年越しという。その晩には厄払いというものがこう、やっぱり町を流してまいりまして。昭和のごく初年ぐらいまではまだあったんやそうですが、わたしらは存じません。豆とお金とを包んだものをもらいましてね、ずーっと町を流して歩いてた。まあその時分のお話で。

うん、よくわかんない。
米朝さんですら「わたしらは存じません」と言ってるぐらいだから、今この厄払いをやっている人はほとんどいないだろう。
とにかく「一年の終わりに厄払いと称して向上を並びたてることでお金がもらえてた」ということらしい。
それも神主さんとかお坊さんとかでなく素人がやっていたのだとか。いいかげんだねえ。

まあ無宗教の人間からすると、神主がごちゃごちゃ言ったからって何がどうなるんだって気もするんで「どうせ迷信なら誰がやったって一緒でしょ」というこのやり方のほうがしっくりくるかも。


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桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈二〉 奇想天外』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈三〉 愛憎模様』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈四〉 商売繁盛』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈五〉 怪異霊験』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈六〉 事件発生』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉 芸道百般』


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2018年3月7日水曜日

有人レストラン


こないだはじめて有人レストラン行ったんですよ。

最近流行ってますよね、有人レストラン。
人が作った料理を食べるなんて何がいいんだと思ってたんですけどね。

でも流行ってるっていうんで、それじゃあ話のタネに一回ぐらいはいっとくか、ってなことで行ってみたんです。

あれ、何がいいんでしょうね。
自動でできることをあえて人間にやらせるのがレトロで贅沢だってことになってるけど、どう考えたって無人のほうがいい。


まず、うるさい。いきなり店にいるやつが「いらっしゃいませ」とか言ってくんの。おまえんちかっつーの。
機械の音声に言われたら気にならないことでも、生身の人間に言われたらなんか引っかかるよね。

で、店員が「ご案内します」って言うわけ。こっちも有人レストランははじめてだから利用方法とか教えてくれんのかと思ったら「こちらどうぞ」って言って席に連れていくだけ。
どの席が空いてるのかなんて見たらわかるし。
だいたいなんでおまえに席を決められなきゃいけないんだよ。

そんでメニューを渡してくるんだけど、これが紙のメニュー。しかも料理名と値段が書いてあるだけ。画像も動画も一切なし。当然、クリックしても詳細な説明とか表示されない。紙だからね。

ふざけんなよ、料理名と値段だけでどうやって決めんだよ。
これで注文できると思ってるのがどうかしてる。
不動産屋に行ったら住所と価格だけ見せられて「この中から選んでください。どの家買います?」って言われるようなものでしょ。

しかも今どき味覚データベース使ってないの。だからこっちの好みに合わせたメニューじゃないんだよね。何十種類もの料理の中から、料理名と金額だけで選ばなくちゃいけない。
もうこんなの運でしかないじゃない。なんで料理食べに行って毎回ギャンブルしなくちゃならないんだよ。

この時点であーやっぱりやめときゃよかったなーって後悔してた。もうなんでもいいやと思って適当に注文。
知ってる? 有人レストランの注文って口頭で注文すんの。
それを店員が紙にメモすんの。で、「ご注文くりかえします」って言ってそれを口頭で読みあげる。そんで、そのメモを持って厨房のほうに行く。たぶん料理作るやつに渡すんだろうね。
はぁ?
無駄だらけじゃない。ミスも起こるだろうし。なんでデータ送信しないの? せめて音声メモでしょ。
紙に手書きでメモするだけで情報伝達になると思ってんだから驚きだよ。たとえるなら、学校で先生が言ったことをノートに書きとめて、後で読み返して勉強するようなものでしょ。考えられない。

こないだ聞いたんだけど、平成時代とかには無農薬野菜や天然ものの魚をありがたがって食べてたんだって(まあ当時は農薬の性能が低かったからってのもあるらしいけど)。
人工・養殖の食材より天然もののほうが高かったっていうから驚きだ。
有人レストランもそれと同じだよね。わざわざ不便、非効率なものをありがたがる風潮。


出された料理の味は、まあまあ。ふつうの店と変わらないぐらい。人間が作った料理にしてはなかなかやるじゃん、みたいな。

ただ出てくるのが遅い。人間が作ってるからしょうがないんだろうけどさ。
人間が運ぶからさらに時間がかかる。シューターで運べば5秒のところを、ゆっくりゆっくり持ってくる。しかもスープがこぼれそうであぶなっかしい。つくづく人間って精密な作業に向いてないよね。

料理の味は良かったんだけど、食べているうちに「これ何が入ってるかわからんな」と思ったら気持ち悪くなってきた。
だってそうでしょ。人間が作って、人間が運んできてるんだからね。やろうと思えばいくらでも不純物を混入できるでしょ。手作り料理って怖いよね。よく保健所が許してるよね。


というわけで話のタネになるかと思って行ってみた有人レストランだけど、ほんと、なんでこんなものが流行ってるのかさっぱりわからなかった。

唯一良かったのは、値段が安かったとこ。
ま、そりゃそうだよね。人間使ってんだもん。レストランにはいろんな費用がかかるだろうけど、今や人間がいちばん安いもんね。料理も天然ものの人間ばっかり使ってたし。


2018年3月6日火曜日

ゴリラのピッチングフォーム


箱根駅伝を見ていると、ときどきすごく汚いフォームの選手がいる。
腕をわったわったと振りまわして、頭を右に左に動かしながら走っている。他の選手の足音が「タッタッタッ」なのに、その選手だけ「バタタンッバタタンッバタタンッ」という感じ。

ああ、ここにもぼくがいる。汚いフォームのせいで損をしている選手が。
「速いね」じゃなく「意外と速いね」としか言ってもらえない選手が。



ぼくは、運動が苦手なわけではない。

学生時代の通知表でいうと、だいたい10段階で「6」ぐらいだった。
「運動神経がいい」と言われることもないが、周囲の足を引っ張るほどでもない。体育の授業でサッカーをすると、点をとったりドリブル突破したりはできないけど、パスをつないだりセンタリングを上げるぐらいはできる。そんな感じ。

「運動神経がいい」とは言われないが「意外に運動できるんやね」はときどき言われる。
つまり運動できなさそうに見えるらしい。

金髪ピアスの若者がお年寄りに席を譲っただけでことさらに褒めてもらえるのと同じく、一見できなさそうだから中程度の出来でも「意外とできるんやね」と言ってもらえる。褒められてもうれしくない。



小学生のとき、50メートル走を走っていると級友から笑われた。ぼくは、足が速くはないが遅くもない。20人中10番ぐらい。決して笑われるようなタイムではない。
級友は笑いながら言った。「おまえ、今にもこけそうな走り方をするな」
どうやらフォームがすごく汚いらしい。

高校生のときには「ひとりだけ氷上を走ってるみたい」と言われた。



子どものときから友人たちとよく公園で野球をしていたおかげで「野球部じゃないわりには野球うまいな」と言われるぐらいにはなった。
ちゃんとした指導者がいなかったのですべて我流で身につけた。野球にはけっこう自信を持っている。まあまあ速い球も投げられる。あくまで「野球部じゃなかったわりには」という条件つきだが。

大学生のとき野球をした。旧友がビデオカメラを持ってきて、その様子を撮影した。
撮った映像を観て愕然とした。自分のピッチングフォーム、めちゃくちゃ汚い。
己の中ではダルビッシュのような流麗なフォームのイメージだったのだが、ビデオカメラに映っている自分は、ウンコを投げるゴリラだった。びちゃっ、という音が聞こえてきそうなピッチングフォームだった。
まさか、と思った。何かの間違いだろう。しかし何度見てもそこにはウンコを投げるゴリラが映っている。びちゃっ。

「こんなに変なフォームだったのか……」とショックを受けていると、友人から
「おまえのフォーム、昔からこんなんだよ。おれはもう見慣れたけど、たしかに変だよな」
と言われた。「いやでもこんなめちゃくちゃなフォームでけっこう速い球投げられるんだからすごいよ」とフォローされたが、自信を持っていただけに深く傷ついた心はまだ癒えない。

ゴリラががんばって人間のレベルに追いついたのだ。そこには並々ならぬ苦労があった。それはたしかにすごいことだけど、ぼくははじめから人間に生まれたかった。



箱根駅伝に出てくる、すごく汚いフォームの選手に親近感をおぼえる。

「このフォームでこれだけ速く走れるんだからフォーム修正したらもっと速く走れるだろうにねえ」
とみんな言うが、そうかんたんな話じゃない。

だってセルフイメージでは無駄のない美しい動きをしているのだから。自分がゴリラであることに気づかずに誇らしげに野球をやっていたぼくにはわかる。


2018年3月5日月曜日

実に田舎の公務員のおっさん


以前、車を買って二ヶ月で事故を起こした。スピーディーだ。
田舎の住宅街を走っているとき、一時停止の標識に気づかずに交差点に侵入し、横から来た車のどてっ腹につっこんだ。後で、九対一でぼくが悪いという判定になった(しかしそれでも一割の過失があるとされるんだから相手はかわいそう。避けようがないだろうに)。


車は大きく破損したが、幸いお互いにけがはなかった。
相手のおじさんが「ちょっと急いでるから実況見分とかやってる時間ないねん。連絡先だけ教えて!」と言うので連絡先を教えあい、おじさんはその場から立ち去った。

加害者が逃げたんなら問題だけど逃げたのは被害者だしなあ、でも警察に連絡しないのはまずいんじゃないだろうかと思い、ぼくひとりでそのまま警察署に向かった。
事故に遭ったと報告すると「で、相手の人は?」と訊かれた。「なんか急いでるとかでどっか言っちゃいました」と伝えた。

たちまち相手のおじさんには警察から招集がかかり、おじさんはすぐにやってきた。「事故現場から勝手に離れたらだめでしょ!」と警察官からめちゃくちゃ怒られてた。被害者なのに加害者より怒られてた。かわいそうに。


ぼくも詳しい事情を訊かれた。五十歳ぐらいの警察官だった。

「どこからどこへ向かってたの?」

 「市民病院に行ってて、その帰りでした」

「病院? どっか悪いの?」

 「はあ。一週間ぐらい前から微熱が続いて吐き気がするので」

「で、医者はなんて?」

 「一応検査はしたんですけど、異常は見つからなかったので精神的なものかもしれないそうです(デリケートなことをずけずけと訊いてくるなー)」

「なんで熱が出るの」

 「さあ(医者がわからないのにわかるわけないだろ)」

「こりゃああれだな、どうせコンビニ弁当ばっか食べてんだろ。ちゃんとしたものとらないからだぞ」

 「はあ(精神的な原因かもしれないって言ってんだろボケ。自炊しとるし)」

「彼女はいるのか? はやく結婚して奥さんにうまいごはんつくってもらえよ」

と、事故とまるで関係のないセクハラ説教をされた。


「この属性の人はこうだ」という差別的なことはあまり言いたくないが、いやあ実に田舎の公務員のおっさんらしい古くさい考え方だなあ、とすっかり感心したのだった。