2018年1月31日水曜日

【読書感想】こだま『ここは、おしまいの地』

『ここは、おしまいの地』

こだま

内容(e-honより)
『夫のちんぽが入らない』から1年―衝撃のデビューを果たしたこだまが送る“ちょっと変わった”自伝的エッセイ。

一度人生を終えた人みたいな文章だな、と思う。老成、達観、諦観。

死後の世界からふりかえって「生きてるときはこんなつらいこともあったけど今となってはもういっか」みたいな。ほんとは弥勒菩薩が書いているのかもしれない。


ぼくの中でのこだまさんのイメージは、瀬戸内晴美さんだ。瀬戸内寂聴のちょっと手前。修羅のような人生を経て、すべてを赦す境地に達しかけている人。

逆境に負けるのではなく、立ち向かうでもなく、試練としてじっと甘受する人。

成長することはいろんなことを手に入れていくことだとかつては思っていたけど、少しずつ失っていくという成長の形もあるのだな、と『ここは、おしまいの地』を読んでしみじみ思う。雪がとけてゆくような成長。

そんなことを十代の自分に言ってもまったく理解してもらえないだろうけど。




強烈な臭気を漂わせる家に引っ越すことになった顛末を書いた『春の便り』より。

 数年前から精神病を患う夫は、たびたび無力感に襲われ、仕事を休んだり遅刻や早退を繰り返したりすることが多かった。ところが「くせえ家」に越してからというもの、規定の二時間前には出勤し、誰よりも遅く退勤するようになった。「とにかくこの家から一秒でも長く離れていたい」というのが、その理由だ。残業するうちに気の合う仲間が増え、飲みに誘われるようになり、人間関係がすこぶる円滑らしい。最近では仕事が急に楽しく感じられ、いままでの人生で一番充実しているという。
 夫を変えたのは処方箋や私の言葉ではなく「くせえ家」だった。友人のいないネットゲーム狂いのインドア人間さえも自発的に外出したくなる「くせえ家」。特許を出願したほうがいいかもしれない。

どれだけ臭いんだろう。

「この家でつくった料理を食べたくない」というぐらいのにおいだから相当なものだろうが、他の家を探すとか清掃業者を呼ぶとかせずに折り合いをつけながら「くせえ家」での生活を送る姿が、なんとも「らしい」。逃げだすでも立ち向かうでも他人に頼るでもなく、諦めて受け入れる。こだまさん夫妻らしさを感じるエピソードだ。


以前、湿気のすごい部屋に住んでいたことがある。

家中びしゃびしゃになる部屋。毎朝窓ガラスにバケツいっぱいの水滴がついている部屋。服がすべて生乾きのにおいになり、窓の近くに置いていた本はすべてだめになる部屋。

やはり部屋にいるのが苦痛だった。出不精な人間だったのに、そこに住んでいるときはしょっちゅう出歩いた。

おかげで彼女はできたしバイトで稼ぐこともできたので、今思えば悪いことばかりでもなかった。肺の病気になって入院してバイト代がふっとんだので、トータルでいえばマイナスのほうが大きかったけど。




昔、どブラック企業で「ぼくが辞めたら困るしな」と思いながら五年間、薄給で一日十五時間働いていた。

辞めてみたら「なんであんな劣悪な環境で無駄にがんばってたんだろ」と思うんだけど、当時は逃げるという選択肢は考えられなかった。
(ちなみにその会社はぼくが辞めた半年後ぐらいにつぶれた。ぼくがいてもいなくてもつぶれる会社だった)

現状に納得がいかなければ改革する人は立派だけど、ぼくは常にベストな道を選びつづけられそうもないな。

しゃあない、いろいろと諦めながら滅んでいこう。



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2018年1月30日火曜日

【読書感想】爪切男『死にたい夜にかぎって』

『死にたい夜にかぎって』

爪切男

 内容(Amazonより)
「君の笑った顔、虫の裏側に似てるよね。カナブンとかの裏側みたい」――憧れのクラスメイトにそう指摘された少年は、この日を境にうまく笑えなくなった。

Webサイト『日刊SPA!』で驚異的なPVを誇る連載エッセイ『タクシー×ハンター』。その中でも特に人気の高かった「恋愛エピソード」を中心に、大幅加筆修正のうえ再構築したのが、この『死にたい夜にかぎって』だ。

出会い系サイトに生きる車椅子の女、カルト宗教を信仰する女、新宿で唾を売って生計を立てる女etc. 幼くして母に捨てられた男は、さまざまな女たちとの出会いを通じ、ときにぶつかり合い、たまに逃げたりしながら、少しずつ笑顔を取り戻していく……。女性に振り回され、それでも楽しく生きてきた男の半生は、“死にたい夜”を抱えた人々の心を、ちょっとだけ元気にするだろう。

作者である爪切男は、同人誌即売会・文学フリマでは『夫のちんぽが入らない』主婦こだまらと「A4しんちゃん」というユニットを組んで活動。頒布した同人誌『なし水』やブログ本は、それを求める人々が行列をなすほどの人気ぶりだった。

もの悲しくもユーモア溢れる文体で実体験を綴る“野良の偉才”、己の辱を晒してついにデビュー!

爪切男さんの濃厚な半生記。

爪切男さんのブログ(小野真弓と今年中にラウンドワンに行きたい)も読んでいるし連載『タクシー×ハンター』も読んでいるのでほとんどのエピソードは過去に読んだことがあったんだけど、それでも本で読むと改めてしみじみとおもしろい。WEB上で読むと乾いたユーモアが、本にするとしっとりとしたペーソスを帯びている。



こないだ『クレイジージャーニー』というテレビ番組で、シリア内戦を取材している桜木さんという戦場カメラマンの映像を観た。

銃弾が飛び交い、次々に人が殺されていく内戦の最前線で、兵士たちは冗談を言ってげらげら笑いながら食事をしていた。

「おい見とけよ」とへらへらしながら手榴弾を投げる兵士たち。ときどき投げそこなって味方の陣地を攻撃してしまって笑う兵士たち。

"地獄砲"という反体制派の兵器が紹介されていた。これは何が地獄かというと威力はすごいのに精度がめちゃくちゃ悪くて、ときどき味方を攻撃してしまうのだそうだ。
だから敵に当たったら"地獄砲"だけど味方に当たってうっかり殺しちゃったら"天国砲"なんだよ、と兵士たちは冗談を言っている。

建物の外に出たらスナイパーに撃たれる街。
戦争を知らないものからすると陰惨な場所でしかないんだけど、現場の兵士は、ぼくらと同じようにふざけたり笑ったりしていた。

戦争文学を読んでも、じっさいに戦地に赴いた人の体験談はからっとしている。「なんでおれたちがこんな目に……」なんて我が身の不幸を嘆いていない。学校や職場にいるときと同じように、困ったり笑ったり退屈したりしている。

人間というやつは、どんな状況に置かれても愉しみを見つけだすものらしい。

『死にたい夜にかぎって』を読んでいると、そんなふざけた軍人たちのことを思いだした。



『死にたい夜にかぎって』の筋書きだけ見ていると、爪切男さんの人生は一般的に「不幸」の部類に入るのだろう。

でも文章を読んでいると、本人はなんとも楽しそうだ。シリアで内戦をしながら冗談を口にして笑っていた兵士たちのように。

どんな状況でも楽しみを見つけられる才能。うらやましいようなうらやましくないような。


ぼくがいちばん好きなのは、同棲している彼女が断薬の副作用で首を絞めてくるようになったときのエピソード。

 週三ぐらいのペースで、愛する女に絞殺されそうになるハードコアな生活が幕を開けた。断薬が引き起こす禁断症状により他人への攻撃性が高まることが原因だと医者は分析した。起きたい時間に合わせて首を絞めてくれたら目覚まし時計替わりになって助かるのに、彼女の首絞めにはアラーム機能は付いていないらしい。
 唾を売って生活していた女が、自らの病気と正面から闘おうとしている。応援してあげるのが男の務めだろうと格好つけてはみたが、こんな生活も一ヶ月続くと自分の精神が弱っていることに気づいた。
 発想の逆転が必要だ。首を絞められることは辛いことではなく楽しいことだと考えよう。知恵を絞った結果、首を絞められた回数に応じてご褒美をもらえるポイントカード方式を発案した。十回絞められたら好きな漫画を一冊買う。三十回絞められたら好きなCDを一枚買う。五十回絞められたら特別リングサイド席でプロレスを観る。特典は決まった。さすがに怒られそうなので、この件はアスカには伝えないことにした。
 メモ帳に正の字を書いて数えるのは味気ないだろうと、百円ショップでカード台紙とスタンプを準備した。首を絞められるたびにイチゴのスタンプを台紙に押していく。お店でよく開催しているスタンプ三倍デーも設定した。ラジオ体操カードにハンコが溜まっていくように、自分の頑張りを目に見える形にしただけで自然とやる気が出た。徐々に埋まっていくイチゴのスタンプを見ながらニヤリと笑う。特典の一歩手前で数日足踏みをした時は「どうして俺の首を絞めてこないんだ!」と怒りに震えた。

なんて楽しそうなんだ。人生の勝者、という言葉さえ浮かんでくる。

「もっと金を稼ぐ方法はないものか」と苦悩して周囲の人間を怒鳴りつける大金持ちよりも、同棲相手に首を絞められるたびにポイントカードにスタンプを押す人間のほうがずっと人生を楽しんでいる。ライフ・イズ・ビューティフル。


ふところが広すぎる爪切男さんには今後優しい彼女を見つけて仲良く平穏に暮らしてほしいと思うけれども、でもそうなったら過酷な環境で咲くしぶとい花のようなこの文章は失われてしまうんじゃないだろうか、とも心配になる。

今後もややこしい女たちにふりまわされる人生を送ってくれることを、愛読者としては無責任だけど少し期待している。


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2018年1月29日月曜日

走ればか正直者



郊外の駅前でバスを待っていたら、バスが少し遅れてやってきた。遅れたといっても二分くらいだけど。

若い運転手は、なぜかただの乗客のひとりであるぼくに向かって
「すんません踏切に引っかかっちゃったので遅れまして」と言い訳にならない言い訳を述べ、「ちょっとトイレ行かせてもうてええですか」と言った。
「だめです。そこで漏らしてください」と言うわけにもいかないので「はあ」とうなずくと、運転手はバスにエンジンをかけたまま駅前のトイレへと駆け出していった。

少しして運転手が戻ってきて、バスは発車。
運転手は、車内アナウンスで「トイレに行かせてもらったために出発が遅れましたことをお詫び申し上げます」と云っていた。


なんてばか正直なんだ。

遅れたことを糾弾されてるわけじゃないんだから
「到着が遅れたことをお詫びします」
「出発が遅れてご迷惑をおかけします」
だけでいいのに。そしたらこっちもなんとも思わない。

だのに
「踏切に引っかかったので遅れました」とか
「トイレに行ってました」とか余計なこと言うから、こちらとしても
(よほどのトラブルならまだしも踏切の時間ぐらい見込んで運行しろうよ)とか(なんでこっちがおまえのトイレを待たなきゃいけないんだよ)とか思ってしまう。
急いでるときに「すんません踏切に捕まったせいで……」って言い訳されてたら、説教のひとつもしなくなってたな。

こんなにばか正直で、ちゃんとやっていけるんだろうか。心配だ。


2018年1月27日土曜日

人生のやりなおし

人生のやりなおしができたら……って考えるじゃないですか。ときどき。
いや私は一日に四回ぐらい考えますって人、お気の毒です。さぞかしつらい人生を送ってるんでしょう。

ぼくは今のところそんなにつらい人生を送ってない。たぶん。未来人から見たら「仕事をしないと生きていけなかった時代にうまれてかわいそうに」って思うかもしれないけど。

そこそこ満ち足りた暮らしをしているつもりだが、それでもたまに「あのときああしていたらどうなってたかな」と考える夜もある。

だけど今の科学技術では人生のやりなおしはできないっぽいので、ぼんやりと考えてはすぐに「ま、考えてもしょうがないしな」とべつのことを考える。



子育てをしていると、「これは人生のやりなおしに近いな」と思う。

子どもと一緒に遊んでいると、子ども時代をやりなおしているような感覚にとらわれる。
ああ、これはぼくが四歳のときにやったやつと一緒だ、と。

子どもは自分だと別人だとわかっているんだけど、ついつい己の姿を重ねてしまう。いってみたらアバター。
スーパーマリオのゲームをやるとき、マリオと自分って重なってるじゃない。コントローラーを握っている間は、マリオは自分でもあるわけでしょ。あんな感覚。
娘とおにごっこをしていると、逃げている自分はもちろん自分なんだけど、追いかけている娘もまた自分なんだよね。自分が自分を追いかけている。「娘にはこう見えているだろうな」と思いながら逃げている。

遊んでいる間、「娘だったらこれはおもしろいだろうな」と思うことをやる。たとえば「お父さんが転んだらおもしろいだろうな」と思う。で、わざと転んでみせる。娘は楽しそうにけたけた笑う。ぼくも楽しい。
この「楽しい」は、「娘が笑っているから父親として楽しい」もあるんだけど、それだけじゃなくて「お父さんが転んだから娘として楽しい」も味わっている。娘に自分の意識が憑依している。

赤ちゃんは自分と母親の自我が分かれていない(母親と自分がべつの存在であることがわからない)と聞いたことがあるけど、親もまたある部分では子どもと同一なんじゃないだろうか。

これは人生のやりなおしだ。



そうは言っても、娘はマリオとちがって思ったとおりに動かない(ぼくはゲームがへたなのでマリオも思いどおりに動かせないけど)。
今は四歳だから「こうやったら楽しいだろうな」とか「こう云われたら怒るだろうな」とかなんとなくわかるけど、もっと大きくなってきたら意識の差はどんどん大きくなっていくのだろう。

思春期以降、「親が口うるさい」と感じることが多くなるけど、たぶんそれは子どもにとっては親は完全にべつの存在であるのに対して、親にとってはまた子どもが自分と分化されていないからだと思う。
反抗期の問題って子ども側の問題(子どもが成長の過程で不安定になる)として語られているけど、ほんとうの原因は「子どもが自分とはべつの存在だということを受け入れられない親」のほうにあるんじゃないかな。



親が子どもに口うるさく云うのは、自分の人生をやりなおしているからだと思う。

もし人生のやりなおしができたら。
「もっと勉強しとけばよかった」と思っている人は勉強するだろう(たぶん長続きしないけど)。学生時代の自分に会えたら「ぜったいに勉強しろ!」と言うだろう。
そういう人は親になったら子どもに勉強させようとするにちがいない。

「スポーツやっといてよかった」と思う人は人生をやりなおしてもスポーツをやるだろうし、親になったら子どもにスポーツをさせようとするだろう。


ま、どうせ無駄なんだけどね。
勉強しなかった人は何度人生をやりなおしたって勉強しないし、勉強しない親の子どもは勉強しない。

タイムトリップもののSFで「運命は決まっているから何度タイムマシンで昔に戻ってやりなおしても同じ結末になってしまう」ってのがあるけど、あんな感じ。

わかってるんだけどね。
自分の子どもだから程度が知れてるって。
でもやっぱり、自分にできなかったことを子どもに期待しちゃうし、自分がやってきてよかったと思う道を子どもに薦めてしまう。

時代が変わってるから同じことをやってもうまくいくとはかぎらないんだけどね。
英語がしゃべれることが大きなアドバンテージだった時代もあれば、自動翻訳の性能向上により外国語スキルが「電卓が普及している時代の暗算スキル」程度に下落してしまう時代もある(あと数年で到来するだろう)。
でも親の意識は「自分の人生のやりなおし」だから、ついつい「この先どうなっているか知っている未来人」の立場でアドバイスしちゃうんだよね。
縄文時代ならいざ知らず、社会は常に変化してるってことを忘れて。

いや、縄文時代の親だって「悪いこと言わないからお父さんと同じように縄の跡つけた土器をつくりなさい。そんな薄くて軽い弥生式を作ろうとしてもうまくいくわけないだろ」みたいな時代錯誤なアドバイスをしていたんだろうな。

2018年1月26日金曜日

魔女のBtoB


『魔女の宅急便』でキキが空を飛べるからって宅配業をはじめてたけど、個人でやるのはあんまりいい商売とは思えないなあ。
配達自体はほうきに乗ってひとっ飛びかもしれないけど、荷物の保管とかスケジュール管理とか物損のリスクとか考えたら、割に合わない気がする。
じっさい映画の中でも、届ける荷物を落として紛失したり、同時に二件受注しただけでてんやわんやになってた。
個人向けの宅配業というのはある程度規模が拡大することではじめて成り立つ商売だと思う。郵便局みたいに広範囲に拠点があって各地に配送員がいるところじゃないと、新規開業は厳しそうだ。

BtoC(個人向けサービス)じゃなくてBtoB(法人向けサービス)のほうがキキには向いてると思う。
たとえば、ある企業が別の企業に毎月一回商品を納品している。これだったら、決まった日に決まったルートを通ればいいからスケジュールも組みやすい。何社かと契約しても、それぞれ配送日をずらせば個人でも対応できそうだ。「月初は忙しいので5日頃でもよろしいでしょうか」なんてお願いを聞いてくれる会社もあるだろう。


もし個人向け宅配にこだわるんだったら、都市部じゃなくて地方のほうがいいと思う。交通網があまり整備されていないところ。
橋のかかっていない島とか、道路状況の良くない山間部とか。直線距離にしたら大した距離じゃなくても輸送にコストがかかるようなところ。
こういうところだと「空を飛べる」というキキの強みが存分に活かせる。

映画を観る限りキキが暮らしていたのはそこそこ大きな港町だったけど(ストックホルムとヴィスビーという町が舞台らしい)、島嶼部とか山間部の農村とかのほうが商売に向いていたんじゃないかなあ。五島列島とか。