2017年10月24日火曜日

陽当たりの悪い部屋


学生時代、陽当たりの悪い部屋に住んだことがある。

窓のすぐ向こうには別のマンションが建っていて、昼でも薄暗かった。


不動産屋と内見に行ったときから「暗い部屋だな」と思ったが、家賃が安かったのでぼくはその部屋を選んだ。

暗ければ電灯をつければいい。

どうせ布団を干さないから陽当たりなんかどうでもいい。

その前に住んでいた部屋が最上階で陽当たり良好の部屋だったためにめちゃくちゃ暑かったので「むしろ陽が当たらないほうが涼しくていい」ぐらいに思っていた。



住んでみると、はたしてその部屋は陽当たりが悪かった。

一日中陽があたることがなかった。

しかし夏場は快適だった。

窓は2か所についていたので両方とも開けはなつと風が通りぬけ、涼しくて気持ちがよかった。


だがたいへんなのは冬場だった。

その部屋に住んではじめて知ったのだが、陽当たりの悪い部屋というのは外と中の温度差が大きいから結露がすごい。

朝起きると、窓にびっしりと露がついていた。窓につくだけでなく、床にまで落ちていた。

窓際に置いていた本が濡れてびちゃびちゃになっていた。

窓を雑巾で拭くと、バケツ半分ぐらいの水がとれた。たかだか10畳ぐらいの部屋で、どこにこれだけの水があったのかと驚いた。

それが毎日である。

風を通せば多少は改善するのかもしれないが、冬場に窓を開けはなして風を通すなんて寒いからしたくない。

ずっと部屋を閉めきって、朝になると窓を拭いて水を捨てて、湿っぽい部屋で過ごした。

洗濯物は部屋干しをしていたが、どれだけ干しても乾かなかった。

実家に帰ったときに母から「あんたの服、くさいで」と言われた。

湿っぽい部屋にいると気持ちも滅入ってくるし、体にもよくないのだろう、その年はよく風邪をひいた。関係あるのかわからないけど、肺に穴があく肺気胸という病気で入院もした。

失ってその大切さがはじめてわかるものはよくあるが、陽当たりもそのひとつだと痛感した。

ほんと陽当たりの悪い部屋に住んでると心の水蒸気まで凝固しちゃうよ。なんだよ心の水蒸気って。



2017年10月23日月曜日

陰惨なのに軽妙/曽根 圭介『熱帯夜』【読書感想】

『熱帯夜』

曽根 圭介

内容(e-honより)
猛署日が続く8月の夜、ボクたちは凶悪なヤクザ2人に監禁されている。友人の藤堂は、妻の美鈴とボクを人質にして金策に走った。2時間後のタイムリミットまでに藤堂は戻ってくるのか?ボクは愛する美鈴を守れるのか!?スリリングな展開、そして全読者の予想を覆す衝撃のラスト。新鋭の才気がほとばしる、ミステリとホラーが融合した奇跡の傑作。日本推理作家協会賞短編部門を受賞した表題作を含む3篇を収録。

『熱帯夜』『あげくの果て』『最後の言い訳』の3篇を収録。

それぞれテイストの異なる不気味さがあって、いろんな「嫌な感じ」を味わえた。



『熱帯夜』


ヤクザ、借金、ひき逃げ、シリアルキラーととにかくいろんな要素が盛りだくさん。

ばらばらな要素がラストで一直線につながるのは気持ちいいんだけど、短篇でこれをやるとご都合主義っぽさが鼻についてしまうな。

「うまい」が35%、「できすぎてる」が65%。

ちょっとうますぎるね。

とはいえ小説にリアリティはなくてもいいとぼくは思っているので、「偶然が重なりすぎだろ」と言いたくなる気持ちを捨てて読めば物語の展開の軽妙さが存分に味わえて楽しい短篇だった。

残酷な事件が描かれてるのに楽しいってのも妙だけど、乾いた文章のおかげでぜんぜん陰惨な感じがしないんだよね。

曽根圭介の文章って小説としてみると決してうまくないんだけど、それはわかりづらいということではなく、むしろ逆で余計な装飾を省いているからすごくわかりやすい。

文章のうまさって、内容とあってるかどうかだよね。ミステリには過度な美辞麗句は必要ないから、これぐらいがちょうどいい。ストーリーの進行を妨げないからね。




『あげくの果て』


これは長編にしてもよかったんじゃないかな。

若者と高齢者の対立が激化した世の中を描いたディストピア小説。

「四十年か、一九六五年ってことだな。じゃあ若いころにバブルがあったろ、さぞ楽しかっただろうな。てめぇの親父は高度成長期の世代か、あ?」
 老人はアスファルトに顔を擦られて、悲鳴を上げた。
「虎之助、聞いたか。こいつらだ。こいつらが国をだめにしたんだ。昔はこの国も経済大国だったんだぞ。世界中からうらやましがられた時代があったんだ。信じられるか? それを、このジジイどもが、この世代が全部食い潰しやがったんだ」
 多田は足元に転がっていた金属バットを手に取り、振り上げた。


なにが絶望的かって、もうすぐ日本で実現してしまいそうなところだよね。

若い人も子育て世帯も老人もみんな幸せになってない。どうしたらいいんだろうね。どうにもならないんだろうね。

戦争に行くのが戦闘スーツを着た高齢者ってのはいいアイデアだね。

子孫を残せなくなった人が若い世代のために戦いにいくほうが生物学的には理にかなってるし、歳をとると戦争に行かないといけなくなるとみんな必死に戦争を避けようとするしね。




『最後の言い訳』


死者がよみがえって生者を食べたり食べなかったりする世界を舞台にした、ゾンビもののホラーコメディ。

グロテスクな描写が多いんだけど、ペーソスとユーモアにあふれた意外にも叙情的な作品だった。

 父を食べた男、父を食べるための列に並んだ女を、商店街で、公園で、僕は何度か目にした。皆、まさに「なに食わぬ顔」で、家族を連れ、恋人を伴い歩いていた。


こういうブラックユーモアが散りばめられていて、いかにも曽根圭介らしい。

オチもブラックで、藤子・F・不二雄の『ミノタウロスの皿』ってSF短篇を思いだした。

この人の小説ってとことんドライだよね。残酷なのに洒脱。陰惨なのに軽妙。ふしぎな味わいだ。


冷笑的な視点が光るから、ショートショートを書いてもおもしろいだろうなあ。


【関連記事】


 曽根 圭介『藁にもすがる獣たち』

 曽根 圭介『鼻』



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2017年10月21日土曜日

大学に通うことと単3電池を買うことの違い


小田嶋 隆 『超・反知性主義入門』にこんな記述があった。

 いまは、誰もが知り、誰もが使い、すべての産業の基礎を作り替えつつあるデジタルコンピュータは、20世紀の半ばより少し前の時代に、ごく限られた人間の頭の中で、純粋に理論的な存在として構想された、あくまでも理論的なマシンだった。「もっと社会のニーズを見据えた、もっと実践的な、職業教育」というところから最も遠く、実用と換金性において最弱の学問と見なされていた数理論理学(の研究者であったチューリングやノイマンの業績)の研究が、20世紀から21世紀の世界の前提をひっくり返す発明を産んだのである。
 なんと、素敵な話ではないか。
 目先の実用性や、四半期単位の収益性や見返りを追いかける仕事は、株価に右往左往する経営者がやれば良いことだ。大学ならびに研究者の皆さんには、もっと志の高い、もっと社会のニーズから離れた、もっと夢のような学術研究に注力していただきたい。
 大学は、そこに通った人間が、通ったことを懐かしむためにある場所だ。

最後の結論はべつにして、ぼくも「大学は実用的なものを学ぶ場じゃない」と思っている。


本屋で働いていたときに、外国語大学に通う学生バイトがいた。

「なんで外大選んだの?」と訊くと、

「オープンキャンパスに行ったんですよ。
 ××大学(総合大学)の文学部は、英語の理論とか文法とかが中心的だったんです。でも外大の授業は外国人の先生との会話が中心で、これなら実践的な英会話が身につくな、と思って外大を選びました」
と彼女は語っていた。

「だったら大学じゃなくて英会話スクール行けよ!」とぼくは心の中で思った(いい大人なので口には出さなかった)。



英会話を身につけたいなら英会話スクールのほうが早いし安い。

大学は実用的な道具を買うところじゃない。電器屋さんに単3電池2本を買いにいくのとはちがう。

単3電池を買うことで得られる効用は事前に予見できる。単3電池は誰に対しても同じはたらきをする。


しかし、映画館でまだ観たことのない映画を観るとか、大学で何かを学ぶということは、効用が事前に予見できない類のものだ。

ハラハラドキドキする2時間かもしれないし、退屈なだけの4年間かもしれない。

ある人にとってつまらない映画が、べつの人にとっては人生最良の1本になるかもしれない。



「いくらの資本を投下すればどれぐらいのリターンが得られるか」というマインドで行動していても、投下したものの100倍のリターンを得ることはできないだろう。

「これをやることで何にどう役に立つかわかりません。というか役に立つ可能性は低いです」
というプロジェクトは、ビジネスマンには受け入れられない。マネーの虎たちはお金を出してくれない(古いね)。

でもそういったプロジェクトが100倍の利益を生んでくれることがある。

教育とか芸術とか医療とか福祉とかインフラとかの分野は、ビジネスマインドとの相性が良くない。

ビジネス向きではないからこそ国が率先してお金を投じないといけないのに、今や国の中枢にまでビジネスマインドは入りこんでしまっている。

いくら投資したらどれぐらいのリターンがあるか、とそろばんをはじいている人ばかりだ。

たとえばオリンピックでも「限られた予算内でより多くのメダルを獲得する」という目標を立ててしまったがゆえに、柔道とか水泳とか体操とかの「比較的ローコストで多くのメダルを稼げる」競技ばかり日本は強くなった。

大学もまちがいなくそうなっていくはずだ。

「TOEICで高得点を取れる大学」とか「司法試験の合格率が高い大学」ばかりになっていって、できるかぎり低予算でTOEICの点数を買う「買い物上手な大学」ばかりになるのだろう。



こういう話は教育の世界にいる人はうんざりするぐらいしつこく言っているはずなのだが、それでも「コスパ」ばかり求めている人たちの耳には届かない。

今後日本の大学教育はどんどん没落していくばかりだ。

ぼくとしては、自分がビジネスとは無縁だった時代の最後に大学に通えたことを、ただ感謝するばかりだ(ぼくが大学4年生のとき、通っていた大学が国立大学法人になった)。

ぼくは「大学の4年間で何を学んだか?」と問われたら「いや、なんでしょうね……。なんかあるかな……」としか答えられないし、だからこそ大学に通って良かったと思う。

 【関連記事】

 【エッセイ】国民メダル倍増計画



2017年10月20日金曜日

死者がよみがえる系ミステリの金字塔/山口 雅也『生ける屍の死』【読書感想文】

『生ける屍の死』

山口 雅也

内容(e-honより)
ニューイングランドの片田舎で死者が相次いで甦った。この怪現象の中、霊園経営者一族の上に殺人者の魔手が伸びる。死んだ筈の人間が生き還ってくる状況下で展開される殺人劇の必然性とは何なのか。自らも死者となったことを隠しつつ事件を追うパンク探偵グリンは、肉体が崩壊するまでに真相を手に入れることができるか。

本格ミステリ、なのかな……?

殺人事件があり、きちんと伏線があって、ヒントが提示されていて、矛盾のない謎解きがある。

このへんは本格派なんだけど、「死者が続々と生き返る」「主人公も殺されるがよみがえって犯人を追う」という非常識な設定が設けられている。

めちゃくちゃ異色なのに本格派、というなんとも扱いに困るミステリ作品。
自らも死者となったことを隠しつつ事件を追うパンク探偵グリンは、肉体が崩壊するまでに真相を手に入れることができるか。
内容紹介文にあるこの文章、パンクでかっこいいなあ……。



しかしこの本、テンポもいいしユーモアもあるのに、とにかく読むのがしんどかった。
小説を読んで疲れたのはひさしぶりだ。

疲れた理由としては、
  • 文庫本で650ページという分量。
  • 文章が翻訳調
  • 舞台がアメリカの葬儀会社と、なじみのない場所
  • 登場人物が多い。20人くらい出てくる。
  • 登場人物の名前がおぼえづらい。兄弟の名前がジョン、ジェイムズ、ジェイソン、ジェシカって、いやがらせとしか思えない……。
そしてもちろん、死者が次々によみがえること。

ふつう、推理小説って後半になるにつれて登場人物が減っていき(死ぬから)、容疑者が絞られていくんだけど、『生ける屍の死』では登場人物が減らないし(死んでもよみがえるから)、容疑者も絞られない。

これ、相当上級者向けだわ……。




しかし読むのがつらかった分、ラストの謎解きで得られるカタルシスは大きかった。

動機も「人がよみがえる世の中だから」という理由だし、犯行も「人がよみがえる世の中」ならではのやりかただし、謎解きも「よみがえった死者だからわかった」という手順を踏んでいる。

「――ちょっと待ってくれ。その前に、ジョンの心理をもう少し探ってみたいんだ。今度の事件が普通の殺人事件と違うのは、もとより死人が甦るということにつきる。これがあったから捜査は大混乱した。普通の事件では犯人の心理を読めば事件解決の道筋がつくんだろうが、この事件では、被害者を始めとする甦った死者たちの心の動きを掴まなければ真相は見えてこないんだ。俺は、ハース博士の示唆に従って、死者の心理を推察してみた。――同じ死者の立場でね。そうして考えてみると、ひとつおかしい点があることに気がついた。――それは遺言状の件だった」

設定は奇抜だが、その設定を十二分に活用している。

アメリカの葬儀会社を舞台にしている必然性もあるしね。これが日本を舞台にしていたらやっぱり違和感があっただろう。

「死者がよみがえる系のミステリ小説」としては、これを超えるものはそう出てこないだろうね。まずないだろうけど。




最後まで謎のまま残されるのが、物語の冒頭で語られる殺人事件の真相。

刑事の謎解きがすごい。

「いいか、お前の小賢しい奸計を俺が説明してやろうか? あの窓際の水槽のなかにつけられた砂時計、あれとケチャップを塗りたくられたピエロの人形のふたつがあったおかげで、お前のアリバイが成立した。しかしな、俺は暖炉の隅に捨てられていた萎れたサボテンの存在を見逃さなかった。あれこそ、お前のアリバイを破り、お前が殺人を犯したことを物語る重要な証拠……」

どんな事件だよ。

気になってしかたないぜ……(もちろんこれは推理小説に対するパロディなんだけど)。



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2017年10月19日木曜日

距離のとりかた

 我ながら気持ちが悪いと思うのだが、高校生のときにやっていたことがある。

 春。新しいクラスが発表されると、真新しいノートを一冊用意する。
 ノートに新しいクラスメイト全員の名前を書く。出席番号順に書いてゆく。

 名前と名前の間は10行ほどの間隔をとってある。このスペースを、数ヶ月かけて各人のパーソナルデータで埋めてゆく。

 何中学出身か。

 部活は何をやっているのか。

 誰と仲が良いのか。

 わかったことからどんどん書いてゆく。
 クラスメイトが立ち話をしていたら、会話の内容を盗み聴きしてはノートに書く。


 そして。

 ときどきノートを読み返しては、書いてある情報を頭にたたき込む。
 クラスメイトの田中くんが南中出身で、陸上部で高跳びをやっていて、渡辺くんと幼なじみで、将棋が強いなんて情報は、すべて頭に入っているのだ。
 田中くんとはまだ一度も話したことがないのに。

 おお。
 おのれのことながらなんて気持ちが悪いんだ。書きながらゾクゾクしてきた。
 どう考えても、他人との距離の取り方がわからない人間だ。
 精神科に行ったらちゃんとした病名をつけてもらえるやつだ。保険証用意しなくちゃ。

 あと、席替えのたびにクラス全員の座席表を記録して、自宅の机に置いていた。
 自宅の机の前で、教室でのふるまい方をシミュレーションしていたのだ。
 おお。なんて不安定な人格なんだ。鳥肌が立ってきた。
 親が知ったら「うちの子大丈夫かしら」と神主さんに相談するタイプのやつだ。

 そこそこ友人たちと仲良くやれていたと自分では思っていたけど、はたしてちゃんと人付き合いできていたのだろうか。今になって不安になってきた。


 まあ思春期って誰しもそんなことしちゃうよね。
 よくあることさっ。

と己を慰めた後で、もらった名刺の余白をその人のパーソナルデータで埋め尽くしている自分に気づく。

 誰か、いい神主さんがいたら紹介していただきたいものだ。