2017年5月24日水曜日

アドベンチャーワールドはちょうどいいテーマパーク

家族でアドベンチャーワールド(和歌山県西牟婁郡白浜町)に行った。



いやあ、楽しかった。
帰ったその日に「いつかまた行こう」と思ったぐらい。



まず白浜という土地がいい。

関西以外の人にはなじみの薄い地名かもしれないけど、白浜には海水浴場と温泉がある。
海水浴場と温泉。レジャー界のエースと4番バッターだ。

そしてアドベンチャーワールドは、動物園と水族館とサファリパークと遊園地が一体になったテーマパークだ。

 海水浴場 + 温泉 + 動物園 + 水族館 + サファリパーク + 遊園地

リゾートにあってほしいものがぜんぶある。
ぼくはやらないけど白浜にはゴルフ場もある。海が近いので市場もある。
子どもからお年寄りまで楽しめる。


レジャー施設にかぎらず人気のものを詰め込みすぎたらたいがい失敗するんだけど、白浜はどれもそれぞれよかった(ぼくが行ったのは5月なので海水浴はしてないけど)。


Google MAPより
アドベンチャーワールドの位置はココ。
紀伊半島の先っちょのほう。


アドベンチャーワールドはすべてがちょうどよかった





混雑具合がちょうどいい

連休じゃない土日に行ったんだけど、ほどほどに人がいた。

どのくらいかといったら、アシカショーやイルカショーの客席の7割が埋まるくらい。
全員が見やすい場所で見られる。

遊園地の乗り物は、長くても5分待てば乗れるぐらい。

昼にレストランに行ったら9割ほど座席が埋まるぐらい。

つまり、何をするにもストレスを感じないぐらい。
かといって閑散としてるわけでもない。

トイレも混んでいなかったのでせっぱつまってから駆け込んでも大丈夫

ゴールデンウィークやお盆だともっと人が多いのかもしれないけど、そのへんを避けていけばストレスフリーで楽しめると思う。

経営的にはもっと混んでくれたほうがいいんだろうけどね。
ユーザーからするとちょうどよかった。





広さがちょうどいい

ぼくは近くのホテルに1泊して、2日連続でアドベンチャーワールドを訪問した。
あわせて9時間滞在したんだけど、9時間でほぼすべての施設を見てまわることができた。

ちょうどいいサイズ感。
サファリパークは広大なのでバスで周ったけど、それ以外は歩き。
3歳児を連れていたけど「おんぶ」も言わずに最後まで歩いていたから、サファリパークを除けば3歳児でも周れるぐらい。

サファリパークのクマ。
スタッフからエサをもらっていた。

車椅子の人も多く見かけたし、ベビーカーの貸し出しもしていたし(パンダやレースカーの形をしたやつ)、子連れでもお年寄りでも周りやすい施設だと思う。

ぼくが行った日は、各地で真夏日になるぐらい暑かったけど(5月にしては)、アドベンチャーワールド内は建物も日陰も多いので苦にならなかった。
さすがに真夏は暑いだろうし、冬に半分屋外の会場でイルカショーを観るのはきつそうだけどね。

レッサーパンダは暑さでへばっていた

一通り見たけど、子どもが成長してから行ったらまたべつの楽しみ方ができるだろうから何年かしたらまた来たいなと思った。





内容がちょうどいい

高いところが嫌い、
怖い乗り物が嫌い、
目が回る乗り物も嫌い、酔う乗り物もイヤ。
人が多いところも苦手だし、知らない人たちが浮かれている場も好きじゃない。

だからぼくは遊園地に行かない。
最後に行ったのはもう20年近く前。
学生時代、今はもうない宝塚ファミリーランドというあまり大きくない遊園地に行ったのが最後だ。

ディズニーランドやUSJのようなテーマパークにも行かない。
行くのは世界の爬虫類展とか餃子博覧会とか世界の大温泉・スパワールドとかの、にぎやかすぎないテーマパーク(?)だけだ。


そんな遊園地好きじゃないぼくでも、アドベンチャーワールドは楽しかった。

ひとつには、娘と行ったおかげだと思う。
前にも書いたけど、いまやぼくの人生の主役はぼくじゃない。子どもにその座を譲った。
だからぼく自身がさほど楽しめなくても、娘が楽しんでいたらぼくも楽しい。

娘はアドベンチャーワールドを心から満喫していた。
帰りの道中でも「また行こうね」を連発していた。「次いつ行く?」なんて気の早い質問もしていた。


3歳の足でも歩き回れる施設。
各年齢に合わせたアトラクションの数々(カートやコースターがそれぞれ何種類かずつあってそれぞれスリルが異なる)。
パンダ、イルカ、ライオン、キリン、ゾウ、トラといった子どもに人気の動物がそろっている上に、動物とふれあえる距離の近さ(今回ぼくらはイルカに触れたりサイにエサをやったりすることができた)。
ジェットコースターなど一部の乗り物をのぞけば、3歳児でもほぼすべての施設を大人と同じように楽しめた。

手の届く距離でのサイのエサやり。
エサを見せるとサイが口を開けるので、そこに放りこむ。


しかし娘が楽しんでいたことを差し引いても、ぼく自身楽しかった。

まず、動物がほんとに近い。
動物園にもよく行くけど、アドベンチャーワールドのほうが動物との距離が近い。
サイにエサをやるのもそうだし、やろうと思えばライオンの檻に手を入れられる。それぐらい近くで見せてくれる(しかし1メートルの距離で対峙するライオンはほんとに怖かった。もう近寄りたくない)。

「ルールを守らないやつは食い殺されてもしかたない」ぐらいの感じ(あくまでぼくが受けた印象ね。アドベンチャーワールドの見解じゃないよ)。

動物と接する以上、客であってもそれぐらいの責任を持たせてもいいと思う。

動物は近くで見たほうがぜったいにおもしろい

アドベンチャーワールドはパンダの一大生産地らしい。
日本では、2016年9月18日現在、上野動物園、王子動物園、アドベンチャーワールドを合わせて11頭のジャイアントパンダが飼育されているが、その内、実に8頭がアドベンチャーワールド内で飼育されていて、屋根の無い空間で自由に過ごすジャイアントパンダを見ることもできる。希少動物センターPANDA LOVEとブリーディングセンターに分かれて暮らしている。
中国本土以外の動物園で8頭も飼育されているのはここだけであり、これは世界一の規模である。(Wikipedia 『アドベンチャーワールド』より)

すごい。
シェア率73%。
独占禁止法に引っかかるんじゃないだろかと心配してしまうぐらいのパンダ占有率だ。

おかげでけっこう無造作にパンダがいる。
上野動物園のパンダには人だかりができているらしいけど、アドベンチャーワールドはもともと混雑していないうえに8頭もいるから、赤ちゃんパンダの前以外はぜんぜん混んでいない。
タイミングがいいとパンダの前にひとりもいない、なんて瞬間も。

貴重なおパンダ様、という感じがぜんぜんしないのがいい。

ぜいたくにパンダを味わえる


ショーも見ごたえがあった。

イルカのショーがすごいというのは前々から聞いていたが、評判通りだった。
迫力があったし、思わず「おおぉっ!」と声が出てしまうこともあった。

イルカの大ジャンプ
後ろに山や海が見えるこの開放的な会場もいい。


でもぼくはもうひとつのショーのほうが気に入った。
アシカやオットセイやカワウソやイヌやタカやミニブタのショー。

客いじりからはじまり、笑いあり驚きありの楽しいショーだった。
めちゃくちゃすごい技術はないけど、誰が見ても楽しめる、4コマ漫画のようなわかりやすいショー。


しかし海獣のショーって最初にやった人はすごいね。
だってオットセイの姿を見て、あいつらとコミュニケーションとれるなんて思えなくない?
ましてこっちが教えた動きをオットセイにやらせようだなんて。
その発想、どうかしてるね。

ペンギンはそのへんをうろうろしていた

ところでイルカショーって一部で非難を浴びている。
「追い込み漁」というイルカの捕獲方法が残酷だという非難を受けて、日本動物園水族館協会(JAZA)が追い込み漁で捕まえたイルカの入手を禁止したのが2015年。

個人的には一部の生物の殺傷だけを「残酷」ということには納得いかないんだけど(あらゆる生き物を殺すべきでないと主張するならわかる。そういう人は病原菌も殺さずに生きていくといい)、だからといって「まちがってないから非難を浴びてでも続けるぜ!」という姿勢がエンタテインメントにとっていいことだとも思わない。


その点、アドベンチャーワールドではうまくクリアしようとしていて、バンドウイルカの繁殖を成功させているんだとか。
これなら絶滅の危惧がある生物を守るという名目も立つし、ショーにすることで研究・飼育費を稼ぐことにもなるわけだから万事がうまく収まる。

ジャイアントパンダの繁殖も成功させているし学術的にもすごい場所なんだね、アドベンチャーワールド。

ぼくがライオンならサファリパークで暮らしたい。
食べ物はもらえるし広いし仲間はいるし。

アドベンチャーワールドの居心地が良かったのは「難易度が低い」からだと思う。

めちゃくちゃ迫力のあるジェットコースターもないし、3D技術を駆使したアトラクションもない。

遊園地検定10級のぼくでも楽しめる、スーパーマリオのような敷居の低さ。

もしかしたら、遊園地上級者にとってはものたりないかもしれない。

だけどファミリー向けテーマパークを訪れるのは、遊園地ファンばかりじゃない。
子どもの付き添いで来ただけの親も祖父母も多い。
そういう人たちにとっては、「めちゃくちゃおもしろい」よりも「居心地が悪くない」や「疲れない」のほうが大事だと思う。
その条件をアドベンチャーワールドは満たしていた。



ぼくも若いときは「新奇なもの」「今までに誰もやったことがないもの」ばかり観にいっていたけれど、子連れだとオーソドックスなものの良さを改めて発見するようになる。
こういうことが歳をとるってことなのかもしれないね。

作りものの鳥と本物が混ざっているので、急に動きだしてびっくりする






価格がちょうどいい

2日間入園できる券で7,200円だった(2017年6月から少し値上がりするらしい)。
これを高いと思うか安いと思うかは人それぞれだけど、ぼくは十分楽しめたので決して高くないと思った。

特に、うちの子はもうすぐ4歳になるのだけど、3歳以下は入場料無料だったのがありがたかった。
さっきも書いたように3歳でもめいっぱい楽しむことができた。それが無料というのはうれしい。いちばんいいときに行ったかもしれない。

メリーゴーラウンドなどいくつかの乗り物にも乗ったんだけど、それも「大人1人+3歳児」が乗って1人分の料金でいいと言われた。
2~3歳ぐらいからお金をとるレジャー施設が多いだけにアドベンチャーワールドの「3歳以下原則無料」はうれしいね(なぜかサファリパークを周るバスだけは3歳以上有料だったけど)。

娘はカバが好き

金額だけの問題じゃなくて、「そこでお金とるのかよ……」という納得のいかないとられかたをしなかった、というのが大きい。

サファリパーク内を走る車もいくつか選べて、ミニ鉄道を選べば無料で周回できる。

ショーも別途お金をとられることもないし、ジェットコースターなどの乗り物に乗らなければ入場料と食事代だけですべての施設が楽しめるのだ。


中で売ってる食べ物も、やや割高ではあるけれど、ちゃんと手のかかった料理があるのがよかった。

"パンダバーガー" は、焼きたてのパンに焼きたてのハンバーグとシャキシャキのレタスが挟んであった(パンダの肉ではなく牛肉だった)。
セットで1,000円と高めではあるが、おいしかったのでまあいい。
観光地だと「高い上にカスカスの食べ物」が出されることがあるけど、そんなことはなかった。

パンダバーガー。
これにドリンクがついて1,000円。
高いけど観光地の食べ物としては許せる範囲。


子どもは大喜びだった

テーマパークって、少々高くたっていいと思う。
贅沢をしにいってるわけだから。

でも、入った後はなるべく財布を出したくない。
いちいち「これで300円か……」とか考えずに楽しみたい。

その点でよくできているのは、ぼくの大好きな風呂のテーマパーク・スパワールド。
風呂だから財布は持てない。
だから中で飲み食いした分や受けたサービスの代金は、ぜんぶ入館時に支給される腕輪で記録される。
そして退館時に精算するというシステム。
これだと、中で過ごしている間は一切お金を使わなくて済む。

あたりまえのようにやってるけど、お金を使うってけっこうめんどくさい行為なんだよね。
金額を確認して、それが自分の中の相場と照らし合わせて安いか高いかを判断して、それと引き換えに得られる便益と比較して、お金を使うかどうかを決定する。
そしてお金を取り出して、財布の残りを見てあとどれぐらい使おうかを思案する。

このプロセスがけっこうわずらわしい。脳内メモリの容量を食っている。


食事、おみやげ、乗り物など、中で使うお金を全部退場時の一括精算にしてくれたらなおありがたいと思った。
たぶんそっちのほうがお金を使うから、施設側にもメリットは大きいだろうしね。




日本各地にあった遊園地やテーマパークは、どんどんつぶれている。
特に地方は厳しいらしい。

レジャーの多様化だとか少子化の影響とかいろいろあって、これから先も遊園地にとって状況は悪くなる一方だと思う。


アドベンチャーワールドは1978年開園だというからもう40年近くもやっていることになる。
しかし、ぜんぜん古びたかんじがしなかった。

レトロな乗り物はあったけど、錆びた建物とか汚れた床とか剥がれかけた壁とかはまったく目につかなかった。
ゴミも落ちていなかった。
メンテナンスと掃除がゆきとどいているのだろう。

レトロな乗り物。
『稲中』ファンにはあこがれのパンダ1号。

何度も書いているように遊園地に行かない人間なので、アドベンチャーワールドだけが特別に良かったのかわからない。
ぼくが知らないだけで、同じぐらい、あるいはもっと居心地のいい遊園地もあると思う。

でもとにかく、アドベンチャーワールドはよかった。

いつかまた行く日にもほどほどににぎわっていることを、心から願う。



2017年5月18日木曜日

【読書感想】安易に登場させられるオカマ / 吉田篤弘 『電球交換士の憂鬱』

吉田篤弘 『電球交換士の憂鬱』

内容(「e-hon」より)
世界でただひとり、彼にだけ与えられた肩書き「電球交換士」。こと切れたランプを再生するのが彼の仕事だ。人々の未来を明るく灯すはずなのに、なぜか、やっかいごとに巻き込まれる―。謎と愉快が絶妙にブレンドされた魅惑の連作集。

電球の交換を専門とする "電球交換士" が "不死身" となって "謎の美女" や "オカマ" や "刑事らしき男" に囲まれている小説なんだけど、
「物語を構成する要素多すぎ!」という感想しか出てこない。

この「全部盛りラーメン」みたいなトッピングだけでもううんざりしてしまった。

「売れようとして書いた小説」って感じがぷんぷんした。
『売れる小説の書き方』の類いの本のセオリー通りに書きました、みたいな。

  • 読者が「あれ?」と思うようなふしぎなポイントを2つ掛け合わせましょう(「電球交換士」×「不死身」)
  • 主人公の周囲には個性の強い人物を配置しましょう
  • 主人公には暗い過去を用意し、後から小出しにしましょう
  • 人との出会いを通して主人公の心境の変化を描きましょう

そんなテクニックに基づいて書かれたように思っちゃう(その手の本にこんなのが書いてあるか知らんけど)。



にしてもさ。
どうしてステレオタイプなオカマって「明るくておもしろくて男より男気があって女より細かいところに気がついて常に周囲を楽しませてくれつつもときどきズバッと核心をつく人」なんだろう。この本に出てくるオカマもまさにそれなんだけど。

テレビに出てくるオカマにそのタイプが多いからかな。
ぼくはオカマと関わりのない人生を歩んできたから知らないけど(この本の作者もたぶんそうだろう)、暗いオカマもつまらないオカマも薄っぺらいことしか言わないオカマもいっぱいいるはずなのにさ。


こういう描かれ方をすることを、当の「暗いオカマ」はどう思ってるんだろう。
息苦しくならないのかな。
周囲から「オカマならではの斬新な斬り口」を期待されるのってきついだろうな。

吉田修一の『怒り』ではごくごくふつうの会社員として仕事に取り組んでいるゲイを描いていた。そりゃそうなんだよ。性的嗜好が日々の生活すべてに影響を与えてるわけじゃないから、生活の9割はゲイとは無関係に過ぎていくはずなんだよ。
ぼくはいついかなるときも男として生きているわけじゃない。なのに "物語に安易に登場させられるオカマ" は24時間オカマでいようとしている。かわいそうだ。


もういい、もういいんだ。
オカマは人生に示唆を与えてくれなくてもいいんだ。



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2017年5月16日火曜日

【読書感想】カレー沢 薫 『ブスの本懐』

カレー沢 薫 『ブスの本懐』

内容(「e-hon」より)
みんな違ってみんなブス。“ブスに厳しいブス”カレー沢薫がすべての迷える女性に捧げる、逆さに歩んだ「美女への道」。「cakes」の大人気連載「ブス図鑑」が待望の書籍化!

自称ブスの漫画家が、ブスについて考察した本。
最初から最後までブスの話しかない。

タブーとまではいかなくても、ブスのことって話題にしにくい。
テレビでもブスっていじられにくい。
身体障害者と同じぐらい「いじっちゃいけない」感がある。
自虐ですらほとんど聞かれない。たぶん笑えないからだろうね。

どう見てもかわいくない女芸人に客席の女が「かわい~!」と声をかけるという手の込んだ嫌がらせをすることはあっても、直接的なブスいじりはコンプライアンスの厳しくなった昨今ではまず見られない。

「デブ」や「ハゲ」のように医学的な考察すらできない(美容外科はべつにして)。

そんな中、この本はとにかく真っ正面からブスに向き合ってる。

 つまり「ブス」とは、ただ単に顔のデザインが地球向けでない人、またはパリコレ級にハイセンスすぎて一般に理解されない人のことではなく、生き様がブスなことも含まれるのだ。
 それに、「あの人は美人だが性格ブスだ」という言葉がある。
 おそらく、どんなに非の打ちどころのない美人を前にしても、絶対敗北を認めないという不屈の精神を持ったブスが発した言葉だろう。
 また、「美人は3日で飽きるが、ブスは3日で慣れる」という、どう考えてもブスが考え出した言葉もある。それを先祖代々ブスが語り継ぎ、後世に残る格言になっているのである。
 このように、ブスすぎて語彙能力が発達してしまい、とても美人には思いつかないような名言を次々ドロップするブスもいるのである。こんなブスなら3日で飽きる美人よりも一緒にいて楽しいであろう。

これだけの文章の間に、「ブス」という単語が10回も出てくる。

はっはっは、おもしろいなあ。
と思って読んでたんだけど、すぐに飽きてしまった。

「ブス」ばかり見ていても飽きてくるんだね。

『ブスの本懐』は週刊誌連載だったらしいけど、週刊ペースで読むのがちょうどいい。
本にしてまとめて読むもんじゃない。

結局さあ、ブスに興味ないんだよね。
身も蓋もないこと言っちゃったけど。



ぼくはテレビに出てくる美人女優の顔がまったく覚えられない。

なぜなら美人には個性がないから。
世の中のすべての顔の平均をとったら美男美女になるとか言われているけど、美人の顔には目立つ特徴がない。

建売住宅がずらりと並んでいる住宅街に行くと、目印がなくてなかなか道が覚えられない。
美人の顔にもそういうところがある。

だからもっと個性的な顔の女優を増やしてほしい!


……と思っていたんだけどね、この本を読むまでは。

わかった。
テレビに美人ばかりが出てくるのは飽きないからだ。

無個性であるがゆえに飽きない。
最大多数に最適化された建売住宅が結局いちばん住みやすいのと一緒。
ごはんは味がないから毎日食べても飽きないのと一緒。

ブスはクセが強すぎて飽きる。
「美人は3日で飽きる」は嘘で、美人のほうが飽きない。



学校での女子のグループ分けについて。

 大体グループ分けというのは、入学やクラス替え初日で雌雄が決しているもので、早々にそのグループに入り損ねた者が教室に点在する形になる。
 ここで一人でいることを選べば「孤高」、もしくは「ホンモノ」になるのだが、やはり学園生活を(特に女子は)どこにも属さず生き抜くというのは、フリーで風俗嬢をやるぐらい不安と危険が伴う。
 よって、このあぶれた者同士が、誰が声をかけるわけでもなく半笑いで近寄っていき、「仕方なく」以外の理由がない「オタクじゃないブスグループ」が結成されるのだ。
 まさに「第一次書類審査で落ちた女だけを集めて作ったアイドルユニットの鮮烈デビュー」である。

たしかに、かわいい子はかわいい子で集まっていて、そうでない子はそうでない子と……ってパターン多かったなあ。

まあ美人グループの中にもひとりぐらい「おしゃれで雰囲気だけ美人っぽいけど、こいつだけはちがうな」ってのも混じってたけど。

男のほうが趣味嗜好で固まってたように思う。


なんのかんの言っても、女性は顔の良し悪しで人生が決まると思う。
美醜によって付き合う男が変わるだけじゃなく、友達付き合いも変わる。

もちろん男も顔がいいほうがトクをするけど、女ほど極端じゃない。
「顔」以外にも「スタイル」「経済力」「気前の良さ」「社交性」「ファッションセンス」「知性」「会話のセンス」「職業」などいろんなパラメータが男の市場価値を決めている(さっきテレビでブスをいじっちゃいけない空気があると書いたが、一方で男芸人に対するブサイクいじりは許されている。それが単独では致命的な欠点にならないからだ)。

でも恋愛市場における女の価値は「顔」「若さ」で90%くらい決まっているように思う。あと「スタイル」が5%ぐらい。
「若さ」は誰にとっても平等なものだけど、「顔」はかなり不公平だ。化粧でごまかせるのには限度があるし、美容整形にはお金がかかる(顔のよくない女性が若くして大金を手にするのは難しい)。

ぼくは中学校のときに同級生の女子から「つまんない顔だね」と言われたことがあるぐらいつまんない顔をしているので、「女に生まれなくてよかった」と思っている。
つまんない顔で女の人生を歩むのはたいへんそうだ。


 その点、ブスの顔は生まれた時からトラブルの連続なため、今更シワが一本増えたからといって、どうということはない。「木を隠すなら森」と同じように、「ババアを隠すならブス」。つまり「ブスは最大の防御」なのだ。
 また、精神的にもブスは老化に強い。美貌にしろ何にしろ、人間、持っていたものが徐々になくなっていくというのは、恐怖でしかない。その点、ブスは美貌が最初からないので、ないものはなくならないのである。
 やはり、最終的には失うものがない人間の方が強い。よく、「守るものができて強くなれた」などと言うが、何かを守りながら戦っている奴が、腹にダイナマイトだけ巻いて突っ込んでくるブスに勝てると思ったら大間違いだ。

これはまったく同意。
総じてブスは美人より損してばっかりだけど、唯一優っている点は「老いたときに自己評価と周囲の評価のずれが小さい」という点だと思う。


以前、『値打ちこく』と題したブログ記事でこんなことを書いた。
「美人だったから、もっといい相手がいると思ってえり好みをしているうちに、婚期を逃しちゃったんだろうねー」
と言うと、後輩が言った。

「そうなんですよ。そういう女って値打ちこいてるからだいたい結婚できないんですよ」

30代半ばで「結婚したくてもできない」人には美人が多いように思う。

さっきも書いたように、恋愛市場において「若さ」は重要なファクターだ。
好みはいろいろだけど、売り手の女性の価値は「顔」×「若さ」で近似値が求められると思う。
差別的な話だけど、現にその指標で選んでいる男が多いのだから仕方ない。

掛け算だから、歳をとるごとに減じる価値は美人ほど大きい。
そのことにもっと自覚的であってほしい、と思う。

昔は20代後半の女性に対して「行き遅れ」という言葉が使われていたらしいけど、今では完全セクハラなので自虐的に使われる以外に聞いたことがない。
でももっと使っていったほうがいいんじゃないかと思う。
結婚を選ばない人に対して言うのは失礼だけど、そうじゃない人に対しては「まだまだ30過ぎてからが女ざかり」なんて無意味な励ましよりも(それもセクハラっぽいけど)、「行き遅れてまっせ」というのも本人のためなんじゃないだろうか。
じっさい、刻一刻と「理想の結婚」からは遠ざかっているわけなんだから「このへんで手を打っとくか」と損切りするほうがいいと思うんだよね。

晩婚化・非婚化・少子化にストップをかけるためにも、「行き遅れ」意識の復権が必要なのかもしれない。


じゃあ誰が当事者に「行き遅れてまっせ」を言うのかというと、それは誰が猫の首に鈴をつけるかという話で、じゃあおまえ言えよといわれてもぼくはよう言わんわ。
言っても損しかしないもの。



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2017年5月12日金曜日

【読書感想】井堀利宏『あなたが払った税金の使われ方 政府はなぜ無駄遣いをするのか』

井堀利宏
『あなたが払った税金の使われ方
政府はなぜ無駄遣いをするのか』

内容(e-honより)
本書は、税金の取られ方と使われ方に関する一般の納税者の素朴な不信感や不公平感を、わかりやすく解明するとともに、あるべき改革の方法を議論する。

2001年発行とちょっと古い本だけど、税金について基本的なことを知りたかったので読んでみた。

いきなり話それるけど、「ちょっと古い本」って書いたけど2001年って16年も前か!
おっさんからすると「ちょっと前」ぐらいの感覚なんだけど。


そんなおっさんだけど、確定申告をしたことがないので自分がどれぐらい税金を払っているのか知らない。

会社をやめて無職になったときに住民税の請求がきて
「無職の人間からこんなにとるのかよ!」
と思った記憶があるけど、ふだんは気にしない。

税金が高いと感じたことはない。他の国の税率を知らないし。

だから税額に不満はないけど、もっとうまくとってほしいとは思う。

もっと金持ちからじゃんじゃんとってくれよ、と。
身ぐるみはがすぐらいいっちゃって、と(やりすぎだ)。

庶民とは無縁の贅沢品にもっと税金かけたらいいんじゃないの?
金の延べ棒とか虎の毛皮とか剥製の鹿とかに(金持ちのイメージが貧困)。


でも「贅沢品に多く課税する」というのは、効率性の観点からはけっしていいことではないらしい。

 一般的に、生活必需品は需要の価格弾力性が低いだろう。日用品や食料品は生活のために必要だから、価格が高くなってもそれほど需要は減らないし、また、価格が安くなってもそれほど需要が増えるものでもない。したがって、ラムゼイ・ルールからは、生活必需品に相対的に高い税率を課すことになる。
 他方で、ぜいたく品は価格弾力性が高いから、ラムゼイ・ルールからは、望ましい税率が低くなる。このような税率の設定は、効率面からは合理化されるが、公平性の観点からは、あまり正当化できないだろう。
 公平性の観点からは、所得水準の低い人が相対的に多く消費する財に低い税率を適用し、所得水準の高い人が相対的に多く消費する財には、高い税率を適用すべきであろう。効率性と公平性はトレード・オフの関係(お互いに矛盾する関係)にある。

つまり、塩は生活必需品だけど、塩の価格が下がったからといって購入量が増えるわけじゃない。辛いの嫌だし。
逆に高くなっても消費量はほとんど変わらない。

一方、ゴルフのプレーに高い税金を課せばゴルフをやめる人が出てくる。
だから高いゴルフ税をかけても全体的な税収アップにはつながらない。

それより塩に高い税金をかけるほうが(効率よく税収を増やすという観点では)いいということになる……。

うーん、理屈としては納得いくけど心情的には納得いかない話だなー。


また「金持ちにめちゃくちゃ高い税率を課す」ってのも庶民からすると溜飲の下がる話ではあるけど、
  • 経済活動を萎縮させてしまう
  • 脱税へのインセンティブが強くなる
などの理由から、必ずしもいいことではないみたい(脱税をしないように監視するのにもコストがかかるしね)。



直感的に受け入れやすい話が、効率的とはかぎらないんだね……。

ポピュリズム系の政治家がよく「公務員の人件費が税金の無駄だから削ろう」と主張する。

この主張も、直感的に受け入れやすいので(公務員以外には)いつも一定の支持を集める。

「どっかで不当にいい思いをしてるやつがいる気がする」
という "おれの暮らしぶりが悪いのは誰かのせい論" の支持者は多い。


「公務員の無駄をなくそう」って、はたしていいことなんだろうか。

それをやって社会全体にメリットがあるかというと、ぼくにはかなり疑問がある。
(一応言っとくけどぼくは公務員じゃない)

"おれの暮らしぶりが悪いのは誰かのせい論" は考えとしては単純で楽なんだけど、それを進めた先にハッピーな未来があるとは思えないんだよね。

足の引っ張り合いになるような気がする。


ぼくが「あんまり公務員叩きをするべきでない」と思うのは以下のように考えるから。

  • 公務員の仕事効率を数字で評価しようとしたら監視コストがかさむ。監視コストこそ何も生みださない無駄な費用だから、少なければ少ないほどいい。
  • そもそも評価になじまない業務だからこそ民間でなく公共でやっている。
  • 叩かれてモチベーションが上がる組織なんてない。
  • よく「民間に比べて公務員はもらいすぎ」と言われるけど、公務員は一定以上の学歴を要求され、さらに公務員試験を突破してその職に就いている。求められるレベルが平均より高いんだから民間の平均より多くもらうのはあたりまえだ。
  • 公務員にお金を回せば民間にもお金が落ちる。公務員の給与を下げたら民間の給与が上がるなんてことはない。

小さい無駄を根絶しようとするのってかえって大きなコストがかかるんだよね。
必要なものまでカットされるし。

ま、ぼくも役所にいくと「これはもっと効率化できんじゃないの?」って思うことはあるし、評価しようのない無駄があるのは事実だと思う。

 自動車やミカンのような通常の財・サービスであれば、価格がその役割を果たしている。つまり、価格の高い財・サービスは社会的な評価も高い。GDPは、さまざまな企業が生産する無数の財・サービスの付加価値を、市場価格で加重してその合計を表している。したがって、走れない自動車をいくら生産しても、その市場価格がゼロになるから、GDPは増加しない。
 しかし、政府支出の場合は事情が異なる。そもそも市場で料金を徴収して供給しないから、政府の公共サービスに価格はない。その結果、GDPの推計では、投入する費用で政府の公共サービスの付加価値をはかっている。
 無駄な公共投資であっても、利用価値の高い公共投資であっても、どちらも同じ一兆円の費用がかかれば、一兆円だけGDPは増加する。たとえば、今年一兆円かけて穴を掘り、来年もう一兆円かけてその穴を埋める公共事業を実施したとしよう。二年後には何も社会資本は残らない。しかし、GDPの統計上は、一兆円の公共事業が二年間継続して、二兆円のGDPが生み出されて、二兆円分の社会資本が蓄積されたことになる。

これはすごい。穴を掘って埋めるだけで二兆円のGDP増加。夢のような話だ!

どっかの政治家が大好きな「民間では考えられない」ってやつだね。

ここまで極端なことはやらないにしても「穴を掘って埋める」に近いことをやっている公務員はいると思う。


でもそれって、公務員のせいなの?
「合法的に楽して大儲けできる方法」があればみんなやるでしょ?
(そんな方法を知っている方はぼくまでご一報を)

「穴を掘って埋める」だけで向上しちゃうような指標を使って方向性を決めているやつらがまちがってるじゃないの?

「入試のカンニングを容認したらカンニングが増えて大学全体の学力が下がった。学生のせいだ!」
って大学が言うようなもんでしょ。
いやおまえがカンニング容認するからだろ、としか思えない。

何も生みださずにGDPを増やすことができるんだったら、GDPは政治の目標に使っちゃいけないと思うんだけどね。



税金って、どんな制度にしてもどこかから不満が出るもんだと思う。

いや、どこかから出るなんてもんじゃない。全方位から出る。

税金上げても文句言われるし、下げても不満が出るし、偏らせてもクレームがつくし、まんべんなくとっても不平が出る。
納税者も企業も公務員も納得いっていない。たぶん税務署の人だって納得してない。
「今の税制最高! これで文句なし!」って思ってる人、日本にひとりもいないんじゃない?

必要だということは誰もが理解しているのに、誰もが納得していない制度

他にこんな制度ないんじゃない?


税金に対する不満って、大きくふたつに分かれる。


・徴収のされ方が不公平
・使われ方が不公平

前者はたぶん永遠に解決しない。
だってみんな「自分以外から多くとってほしい」と思ってるんだから、全員が納得いく方法なんてありえない。

でも使い道の不満が少しでも解消されるよう、著者はこんな制度の導入を提案している。

 納税者の視点は、無駄な歳出を止めるうえで最も重要である。財政問題で国民が受益者負担の原則を最も実感できるのは、納税である。自らの納税額に応じて、政府の歳出の使われ方をある程度拘束できる納税者投票で、民意がより財政運営に反映されやすくなる。
 もちろん、納税額すべてについてこうしたアプローチはとれない。しかし、所得税について確定申告する際に、使われ方をある程度選択できるようにすることは、実務上も可能であるし、納税意識の向上にも役立つだろう。
 たとえば、納税額の三分の一について、各省庁別の予算(あるいは目的別の大まかな区分)への配分を指定できるようにする。その際に、財政赤字の削減という項目も選択肢に入れるべきであろう。

ふるさと納税制度は市町村を選んで寄付をする制度だけど、それの省庁版という感じだね。

これ、いいねえ。
ぜひやってほしい。


ぼくだったら、軍事費とか今の経済政策とかじゃなく国の借金解消に使ってほしいなー。
あと年金と。

少子化にしても経済問題にしても「将来が不安すぎる」ことに起因してると思うから、「将来への不安を解消する」ことに税金を使ってほしい。

でも年金問題だったら厚生労働省になるわけだけど、厚生労働省にお金を渡しても、目先の票をかせぐために今の高齢者の医療費負担減とかに使われちゃうんだろうな……。


2017年5月11日木曜日

子を持って はじめてわかる ありがたみ  借りて返せる 公共図書館


子を持って はじめてわかる ありがたみ
借りて返せる 公共図書館


しょうもない短歌を詠んだけど、図書館ってほんとにありがたいなあってつくづく思う。
子どもができてから。



正直、子どものえほんを読むようになるまでは図書館のことはちょっと否定的に見てたんだよね。

ぼく自身、中学生になってからは古本屋に入りびたってたこともあり、
「本は借りずに買って読まなきゃ血肉にならない。読者にとっても著者にとっても」
って思ってた。

「図書館が出版業界の経営を圧迫してるんじゃないか」とも。
(これはたぶん逆で、図書館はだいぶ出版業界を支えている。図書館で本を借りる人の多くは図書館がなくなっても買うようにはならないし、価値はあるけど図書館にしか買ってもらえない本も多い)



ぼくは趣味にも服にも食べ物にもお金をつかわない人間だから、本ぐらいにはお金をつかおうと思っていて、本屋やAmazonで目についた本は値段も見ずに買うようにしている。
(ただし学術系の本だけは注意している。めちゃくちゃ高額な本もあるから)

しかし子どもにえほんを読むようになってからは、そうも言ってられなくなった。

娘にも本好きになってほしいから毎週のように本屋に連れていって
「どれがおもしろそう?」
なんて選ばせていたんだけど、えほんって高いよね。
1,000円ぐらいはふつうで、大判のえほんやしかけえほんだと2,000円、3,000円は平気でする。
「どれでも好きなの選んでいいよ」といった手前、娘がうれしそうに持ってきたえほんを「いやこれはお財布に厳しいから……」といって棚に戻すのはしのびない。

えほんは短い。
2,000円で買ったえほんも5分で読みおわる。
「この5分で2,000円か……。時間単価24,000円って風俗店かよ……」
ってみんな思うよね。思わないか。

娘とえほんを読む時間はプライスレスだが、24,000円/h は高すぎる。

あとえほんは場所をとる。

ただでさえ狭い我が家なのに、えほん棚はどんどん増殖してゆく。

えほんのために広い家に引っ越さなくてはならなくなる。

えほん代と引っ越し代と家賃で破産する!



破産を回避するべく、近所の図書館に子どもを連れていった。

図書館に行くなんて学生のとき以来だ。



子どもは大喜びだった。

えほんの数が本屋よりずっと多いし、なによりすべてのえほんが子どもでも手に取れる高さに置いてある

これすごく重要。

えほん売場の充実している本屋でも高い書架が並んでいることが多い。
子どもにとっては "手の届かない場所にある本" は存在しないのと同じだ。


あと表紙を見せて陳列されているえほんが多いのも子どもには魅力的だったようだ。

以前も書いたけど(【読書感想エッセイ】 井上ひさし 『本の運命』)、
字が読めない子どもにとって背表紙しか見えないえほんはほとんど視界に入っていない
ジャケットだけで一度も聴いたことのないCDを選べと言われるようなものだと思う。

書店だと売場面積あたりの売上を考えなくてならないから、どうしても高い棚で陳列してしまうし、背表紙を向けて1冊でも多くのえほんを並べてしまう。


ぼくも書店で働いていたときは高い棚にえほんを並べ、書架に背表紙を向けて並べていた。
高い位置に置いたら子どもに届かないのはわかっているけど、子どもはお金を使ってくれないのだからしかたない。

もっといったら子どもが読むと商品がめちゃくちゃ傷むので、「えほんは全部高いところに展示して子どもには一切さわらせない本屋」が理想だとすら思っていた。
だって子どもがどれだけえほんを散乱させて、ときにはびりびりに破いたとしても、そのまま立ち去る親が多いんだもの。

えほんをめぐっては書店員と子どもの利害は対立する。



図書館は売上を考えなくていいから、ぜいたくにえほんを陳列している。

ぜんぶ低い棚に入っているし(大人にとっては選びづらいぐらい)、表紙を見せてあるえほんも多い。

子どもにとっては「ぜんぶ自分で手に取って選べるえほん」だからうれしくないはずはない。


なによりうれしいのはお金を気にせず本を読めることだ。

ぼくは「本にはお金を出すべき」と思っているので、学術書を借りるとき以外は図書館は利用してこなかった。
(その考えは今でも変わっていない。えほんを借りるついでにぼくが読む本も借りることはあるけれど、「エンタメ作品」「出版されて間もない本」は借りないことにしている。それらは著者のためにお金を出して買うべきだと思っている)


えほんは、大人向けの本よりずっとお金を食う。
いくら本にお金を使いたくても限度がある。

子どもと書店に行くと「2冊までね」なんて制限を設けて選ばせるんだけど、図書館だとそれをしなくていいのがうれしい。
うちの近所の図書館は1人15冊まで借りられる。しかも0歳児から市民権が与えられているので娘と行けば30冊まで借りられる。

本は浴びるほど読んでほしいので、週末に10冊ぐらい借りて毎晩1~2冊ずつ読んでいる。


冒頭で
「子を持ってはじめてわかるありがたみ 借りて返せる公共図書館」
という名歌を紹介したけれど、
この「返せる」という部分が重要だ。

えほんは場所をとるので「返せる」ということがありがたい。
「無料であげます」だったら、毎週10冊なんてとてももらえない。



えほんは図書館で借りるようになったけど、書店で子ども向けの本を買わなくなったわけじゃない。

今でも月に1回ぐらいは児童書コーナーに行っている。

なぜなら図書館には一部の本がないから。



図書館には、しかけえほんがない。
飛び出すえほんとか、さわって遊ぶタイプのえほん。
その手の本は破れやすい、汚れやすいので置かないのだと思う。

当然のことながら、めいろとかぬりえとかの書きこむ系の本もない。

くもん出版とか学研とかが出しているひらがなドリルとかも置いていない。

そういった本を書店は買い、読み物のえほんは図書館で借りる。
うまく使い分けができていると思う。




図書館って、圧倒的に近い人が有利だよね。

今ぼくは歩いて5分のところに図書館があるから毎週通ってるけど、遠くだったらたぶん行ってない。
車や電車に乗ってまで行くのはおっくうだし。

今までほとんど利用したことがなかったのは、図書館の近くに住んだことがなかったから、というのも大きい。

図書館の場合、「近くまで寄ったから」という理由だけでは借りに行くことができない。
なぜなら返却のことも考えないといけないから。

ぼくの住む町の図書館は返却期限が14日後なので「14日以内に返しにこられるだろうか」ということを考えて借りないといけない。
これが遠くに住んでいる人からすると大きなハードルになる。

図書館の近くに住んでも遠くても住民税はいっしょなので、考えてみればずいぶん不公平だ。
ぼくなんか月間40冊くらい本を借りてるわけで、これをもし買ってたら5万円くらいになっている。
近くに住んでいるおかげて月5万も得してる。いいんだろか。図書館の遠くに住んでいる人にゼリーとか贈らなくていいんだろか。


遠近による不公平さを埋めるために移動図書館なんてのもある。
本をいっぱい積んだ車が各地をまわるやつだ。

でもあそこにある本は図書館の蔵書のごくごく一部にすぎないし、借りる日も返す日も細かく定められていてすごく不自由だ。

それにぼくだけかもしれないけど『ショーシャンクの空に』で図書係の囚人がカートに本をいっぱい乗せて独房を巡回するシーンがあったから、「移動図書館で本を借りるのは囚人」というイメージがぼくの中にはある。

そんな理由もあって(?)、移動図書館では遠近格差の1/10も埋められない。

せめて「返却は近くのコンビニでしてもいい」ぐらいになったら多少マシなんだろうけどね。



ぼく自身本を読むのが好きだ(というより何か読んでないと落ち着かない)から、娘にも本を好きになってほしい。
寝る前に娘が「お父ちゃん、これ読んでー」とえほんを持ってくるのはすごくうれしい。

でも正直「めんどくさいな」と思うこともある。

早く寝たいときもあるし、なにより「またこの本かよー!」ってのがいちばんつらい。

子どもは同じ本をくりかえし読んでもらいたがるけど、同じ本を毎日のように読まされるのはほんとうに苦痛だ。
もう一字一句おぼえているのに、それでも子どもは読んでもらいたがる。

「父親が読んでくれる、という行為を欲しているのであって本の内容自体はどうでもいいのでは?」
と思い、えほんを読むふりをしながらそのとき読んでいた『予想どおりに不合理』って本を読み聞かせてみた。
そしたらすぐに「わかんないよー。わかるのにしてー」とクレームを入れられた。
ちゃんと聞いているのだ。



図書館でたくさん本を借りたら、毎日ちがうえほんを読むことができる。
これなら大人も楽しめる。

えほんを読むのが苦痛なときもあるけど、20年後に
「1時間24,000円払えば、あなたの娘が3歳の時代に戻っていっしょにえほんを読むことができます」
と言われたら迷わずに払うだろう(そのときよほどお金に困っていなければ)。
それぐらい価値のある経験をする機会を、今は与えられているのだ。

娘が父といっしょに本を読んでくれるのはあと何年だろう。

この貴重な時間を少しでも無駄にしないよう、まだしばらくは図書館様のお力を貸していただこうと思う。