2017年3月15日水曜日

【読書感想エッセイ】 山際 鈴子『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』

山際 鈴子『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』

内容(「BOOK」データベースより)
子どもが本来持っている感性をたよりに、書きたい「もの」をみつけて書き始める。書くためには、書きたい「もの」を見つめ続けなければならない。詩を書くことによって、ものの見方が変わり子ども自身まで変わっていく。作品とともに子どもが変わり、子どもとともに作品が変わっていく。この本はそんな願いをこめて展開した授業の記録である。開かれた子どもの心に出会い、近づきたいと思いながら、詩の指導方法をどのようにみつけ出していったか、その様子を書いたものである。

著者は大阪の小学校教諭で、長年児童詩の教育に携わってきた人。

みんな知っていると思うけど、子どもの詩はおもしろい。


 ぼくは ようちゅうを なめました。

 あんまり かわいいから なめました。

 えびの てんぷらの あじが しました。

 ようちゅうは にこにこ わらいました。

 そして、

 こしょばい こしょばいと いいました。


たとえば上の詩は、小学1年生の詩。
これを書いた子は虫が大好きで、本当になめてみたらしい。
みずみずしい体験と豊かな感性に基づいて、感じたことをそのまま言葉にした子どもらしい素直な詩だ……ってそんなわけあるかい!

すごくうまいよね。
おもいきった導入、視点の切り替わり、そして作者と幼虫の両方の感情がつたわってくるような大胆な比喩表現。
テクニカル!

数々の指導と手直しがないと、たぶんこの作品は完成しなかったんじゃないかなあ。
「指導って大事!」って思うね。子どもに感じたことをそのまま書かせても詩にならない。


この本では、子どもの書いた詩を載せ、その詩を書かせるためにはどんな指導をしたのか、どこに注目して書かせたのか、どうやって発想を得させたのかが書いてある。

 「ある動作の途中で動きを止めて、その状態を書いてみよう」

 「『まだ』と『もう』の対比を使って書いてみよう」

 「自分をPRする詩を書いてみよう」

 「『もしも……だったら』というテーマで考えたことを書こう」

といった調子。
指導する学年にあわせて、興味のあるテーマを与えてやり、出てきた発想の中から独自性のあるものをすくいとり、技法を教えてやりながら一篇の詩になるように導いてやる。

大人が目にするのは詩の完成品だけだけど、そこにいたるまでに試行錯誤があったんだろうねえ。



ぼくは、「子どもの豊かな感性を素直に表現した作品」といった言葉には賛同できない。

たしかにそういうものはある。
うちの3歳の娘も、ときどき大人がはっとするようなことを言う。
でもそんなのって1万回しゃべったうちの数回あるぐらい。
1キロの鉄の中に1グラムの金が埋まっていても全体としてみればただの鉄塊なのと同じで、表現も精錬してやらねば作品にはなりえない。

技巧をこらしすぎてもおもしろくないが、かといって書いたものをそのまま見せても作品として読めたものじゃない。
そのちょうどいいところに持っていくのは、教師の仕事。
適度に味付けをさせて、でも決して自分では手を出さず、「うますぎずへたすぎず」の詩を作りあげる。

だから「子どもの詩」って書いてあるけど、もうほとんど「教師の詩」といってもいい。題材を提供したのは子どもだけど、詩にしたのは教師の力だと思う。



でも。

この本を読んでたら、ちょっと気持ち悪さも感じるんだよなあ。
「子どもたちがこんなにすごい詩を書いたんですよ」って言いながら、でもじつは「これを書かせたわたしすごいでしょ」って言ってるように思える。
こういう詩を書かせることって教師の自己満足なんじゃないのかなとも思う。


小学生の詩として発表されるものって、しょせんは「子どもの詩」なんだよねえ。
1年生ぐらいならそれでもいいけど、6年生になったら大人っぽい詩も書けると思うのに、「子どもらしさ」ばかりが評価される。
いつまでも「子どもらしい詩」を書かせていたら、その先がなくなると思うんだよねえ。じっさい、ほとんどの人は中学生以降で発表するための詩を書くことってないし(人に見られたら恥ずかしいポエムは書くけど)。

いつまでも「子どもらしいみずみずしい感性」なんて褒めたたえてたら詩の文化を殺すことになるんじゃないかな。
絵の世界だったら、「子どもらしいのびのびした感性」が評価されるのってせいぜい幼稚園くらいまでで、そこから後は技法を凝らしたうまさが求められるようになる。
絵の好きな子どもは、絵のうまい大人にあこがれて一生懸命絵を練習する。
かけっこだって歌だって「子どもらしさ」は早急に捨てたほうがいい。
詩だってやっぱり「大人の上手な詩」を書かせるように導いてやるべきなのでは?

この本のタイトルは『かぎりなく子どもの心に近づきたくて』だけど、そうじゃなくて、子どもを大人の世界に近づけることが教育なんじゃねえのかって思うよ。



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2017年3月14日火曜日

【読書感想エッセイ】 ユウキロック 『芸人迷子』

ユウキロック 『芸人迷子』

内容(「BOOK」データベースより)
島田紳助、松本人志、千原ジュニア、中川家、ケンドーコバヤシ、ブラックマヨネーズ…笑いの傑物たちとの邂逅、そして、己の漫才を追求し続けたゆえの煩悶の日々。「ハリガネロック」解散までを赤裸々に綴った迷走録。
第1回M-1グランプリで2位、ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞、上方漫才大賞新人賞など華々しい道を歩みながら、2014年に解散した漫才コンビ「ハリガネロック」のユウキロックさんによる回想録。

決してうまい文章ではない。でも、だからこそものすごい熱が伝わってくる。

もがき苦しみ、周囲をまきこみながらのたうちまわり、そして今でも答えは出ていない苦悩がびんびんと伝わって。



ぼくは中学生のとき、『すんげー!Best10』という深夜番組が大好きで、毎週欠かさず観ていた。
今はなくなった大阪の2丁目劇場に所属していた芸人たちが出てきて、漫才やコントを披露し、お客さんの投票でランキングするという番組。コンビの垣根を越えたユニットでのネタも披露されるのが特徴だった。
『オンエアバトル』の放送がまだ始まっていない時代の、ほとんど唯一といっていいネタ番組だった(関西ローカルだったけど)。


そこに、あるときから急に出てきたのがハリガネロックというコンビ。
ハリガネロックの印象は鮮烈だった。
急に出てきたと思ったら、並みいる人気芸人をおさえて1位を連発。
鋭い舌鋒とテンポのよいネタ運びであっというまに客をつかみ、しばらくは「ハリガネロックが出たら1位」という状態が続いていた。
その番組だけでなく、関西の有名な漫才の大会でも次々に優勝。賞レースでハリガネロックが負けるのを見たことがなかった。
2001年にはじまったMー1グランプリでも当然のように決勝進出して、同期の中川家に敗れて2位。
敗れはしたものの十分なインパクトを残し、当然ながら「来年こそはハリガネロックが……」と期待されていた。


ところがそのあたりから風向きが変わる。
M-1グランプリがそれまでの漫才の大会と一線を引いていたのは「積極的に新しいものを評価しにいった」ことだった。

それまでの大会や番組は「いちばんウケているものがいちばん」だった。審査員は、一線を退いた大御所漫才師だったり、新聞社やテレビ局のおじいちゃんだったり(今も変わってないけど)。審査員も結局、客席の女子高生やおばちゃんがいちばん笑ったコンビに投票する、という感じだった。

ところがM-1グランプリは、現役最前線で活躍中の芸人や、一時代を築いた漫才師が審査員。第1回にはあった客席審査員制度が第2回からなくなったことからもわかるように、「客のウケ」よりも「プロから観ておもしろいか」に審査の重きが置かれていた。
初期の大会は、当時まだ無名だった麒麟、笑い飯、千鳥、POISON GIRL BAND、南海キャンディーズを決勝に上げるなど、「ベタな笑いをテクニックで見せる」漫才よりも「技術はつたなくても未知の発想をとりいれた」漫才が高く評価されていた。

そして、そのあおりをもろに喰らったのがハリガネロックだったように思う(あとルート33も)。


ハリガネロックは、笑いはとれるけれどこれといって新しいものは持っていなかった。
テンポのよいしゃべりも、周囲に毒づいてゆくスタイルも、一見アウトローなビジュアルも、コンビで息を合わせたツッコミも、とっくに確立されていた手法だった。
今にして思えば「新しいものがなくても笑いがとれる」というのはすごいことなんだけど、当時はそれが認められる風潮じゃなかった。
(その流れを引き戻したのが、新しい武器を持たずにM-1グランプリを制したブラックマヨネーズだった。それ以降は「ウケの量」=「点数」の傾向が強くなる。ブラックマヨネーズの漫才を見てからハリガネロックが迷走した、というのは皮肉な話だ)


未知の発想が評価される時代においてハリガネロックの漫才は認められず(といってもM-1グランプリ以外では認められていたんだけど)、彼らは迷走してゆく。
 何かを変えなければならない。いや、そんな生易しいことではない。すべてを捨てて、また新たに作り上げる。そこまでやらなければならないと思ったが、俺には簡単にできることではなかった。新しい漫才のスタイルを作るためには、必ず客前で試さなければならない。スベれない。スベることはすべてを失うこと。どんな人気者がいようと舞台では一番ウケる。これこそ「ハリガネロック」唯一の存在価値だと信じて生きてきた。これまでの10年間で培ってきたこと。あの「狂気の10年」で刷り込まれたことだった。

「誰よりも客にウケること」を誇りにして走ってきたコンビにとって、「ぜったいにウケる」という看板をはずすことは許されなかった。

べつに看板をはずす必要はなかったのに、と部外者としては思う。
漫才師が「プロの審査員に評価されること」よりも「客を笑わせること」に重きをおくことは、むしろマトモなことなんだから。
でも当時はそのマトモなことが許されない雰囲気があったんだよねえ。


ハリガネロックは、M-1グランプリで評価されるスタイルを求めて迷走する。
以前、なにかの記事で「ハリガネロックがボケとツッコミの役割を入れ替えた」と読んで驚いた。芸歴10年を超えるようなコンビが、それも今までのスタイルで数多くの実績を残してきたコンビが役割を変えるなんてことは他に聞いたことがない(コントではめずらしくないんだけど、本来のキャラと地続きでやる必要のある漫才ではまずありえない)。
びっくりしたのと同時に「絵にかいたような迷走をしてるな」と思ったこともおぼえている。

結局その試みはうまくいかずにまたボケとツッコミを元に戻し、数年後、ハリガネロックは解散した。



それにしても、相方だった大上さんはかわいそうだ。
ユウキロックさんはずっと「相方はぜんぜん自分から動こうとしなかった」と愚痴っぽく書いている。それが事実だったとして、自分から動かない人が相手だったからこそハリガネロックは20年やってこれたんだと思うよ。
「おれはこれがおもしろいと思う! おまえの考え方には納得できない!」って人だったら、ずっと早くに解散してたよ。

よく社員に「経営者意識を持て!」と怒っている社長がいるけど(ぼくの前職の社長もそうだった)、そういう社長は部下から「それは経営的にまちがってますよ」と言われたら、ぜったいに怒る人だ。
ユウキロックさんの「自分から方向性を示せよ!」って怒りには、それと同じものを感じる。



なんかね、相方に対する思いもそうだし、読んでいて「なんて不器用な人なんだ!」ともどかしく感じたね。

「万人受け」と「通好み」が両立しないことは誰だって知っている。
だからみんなその間のどこかに着地点を見いだすのに、ユウキロックさんはその両方を手に入れようとした。
そしてとうとう「通好み」を手に入れることはできず、もともと持っていた「万人受け」を自ら捨て去って、舞台を降りてしまった。

「目の前のお客さんを笑わせられる」というすごい武器を持っていたのに。

たぶん、現状維持を目標にすれば、ベテラン漫才師としてずっと食っていくことができたはず。
しかし、過去の成功体験にとらわれずにチャレンジしつづけてきたからこそ結果を出してきた人が、「貪欲に攻める姿勢を捨てて今のポジションをキープできるようにしよう」なんて考え方をできるようにはならないんだろうね。


客観的に見ていると「もっとうまくやる方法がいろいろあっただろうに……」と思うんだけど、でも人の関係が壊れるときってだいたいこんなもんだよなあ。

暑苦しくて切なくてもどかしくて、もう40歳すぎたおっさんがこんなに青春してるってすごいなあって感じる本でした。



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2017年3月8日水曜日

手段のためなら目的を選ばない


「手段のためなら目的を選ばない」人って多いよね。

「目的のためなら手段は選ばない」じゃなくて、「手段のためなら目的を選ばない」人。



 手段はひとつじゃない



たとえば電話をかけて営業をするとする。
週に100件電話をかけて、1件成約につながる。
上司が言う。「成約数を倍にしろ! 200件電話をかけるのがノルマだ!」

それはそれでひとつのやりかただと思う。
数をこなすことでしか得られないものも、たしかにある。けれど失うものも多い。たとえば時間とか。精神の安寧とか。

目的は契約をとることであって、電話をかけることじゃない。
1件あたりの電話時間の半分を事前準備に費やすことで1%の成約率を2%に上げることができたなら、そっちのほうがはるかに早い(おまけに電話代もかからない)。


「電話をかける数を倍にしろ!」という発想しか出ない上司は、まさに「手段のためなら目的を選ばない人」だ。


FAXなら同じ時間で300件送れて、成約率は変わらないかもしれない。

メールだったら成約率が0.1%に下がるけど、同じ時間で10,000件送れるかもしれない。

Web広告を出稿すればお金はかかるけど、人件費を考えれば結果的に安く顧客を集めることができるかもしれない。

「かぎられたコストの中で獲得契約数を最大にする」という目的を持っていれば、いくつもの発想も出てくるはずだ。



 会議はいい手段じゃない(ことが多い)



世の中には会議が大好きな人がいる。
なにかあると「会議しよう」と言いだす。
そして「これを定例にして、毎週やることにしよう」と言いだす。

定例にすることで、もう「会議をすること」が目的になっている。

会議は手段だ(そしてたいていの場合効率の悪い手段だ)。
目的は「情報の共有」であり「アイデアを出すこと」。
誰か(会議をしたいと言いだしたやつ)が議題について書面でまとめて、それを関係者各位にメールで送って、確認や意見出しをしてもらうほうがずっと効率がいい。
10人で60分の会議をすれば600分の時間が消化されるけど、書面ベースのやりとりで総計600分もかかることはない。

会議を開きたいやつは、自分が文書で論理立てて説明することのできないから「直接会って話したい」という。
でも論理立てた文書を書けないやつが、短時間で無駄なく伝わる話をできるはずがない。

会議が「文書の共有」よりまさっているのは緊急性だけだ。
「今から30分後までに共有しないといけない」という場合には、書面を作ってメールで送るよりも関係者を緊急招集して会議をしたほうが有効だろう。でも「毎週月曜日に集まろう」という場合には、たいていもっといい手段がある。


ってなことを言うと、こんなことを唱えるやつがいる。

「いや、会議ってのはコミュニケーションの場でもあるわけだよ。
 顔をつきあわせて話すことでメンバーの団結力が高まるんだよ」


仮に会議をすることで「コミュニケーションが良好になる」としよう(会議を通して険悪になることはあっても仲良くなった人を見たことがないから、個人的にはまったく賛成できないけど)。
だとしてもコミュニケーションもまた手段であって、目的ではない。オフィスは大学サークルではない。

仲が良くても情報伝達がうまくできない組織より、ビジネス上の付き合いしかなくても効率よく情報を連携できる組織のほうがずっと強い。



 交通手段は多いほうがいい



人が移動するとき、考えなくてはいけないのは
「目的地」「移動手段」だ。

趣味のドライブやジョギングの場合は、「移動手段」=「目的」となる。
趣味の場合はこれでもいい。

しかしそれ以外においては、移動手段は代替可能なことが多い。

たとえば東京から大阪に行くとする。
飛行機か新幹線で行くことが多いだろう。車で行く人もいるかもしれないし、在来線を乗り継いで行く方法もある。船、ヒッチハイク、バイク、自転車、徒歩など、他にも手段はたくさんある。2つ以上を組み合わせたっていい。
どの方法がいちばん良いということはない。それぞれの手段にはメリットがあるしデメリットがある。
「速いけど高い」とか「つらいけど体が鍛えられる」とか「大人数の移動には向いてないけど楽しい」とか。
自分の嗜好やそのときの状況を考えて、どの方法をとるか考えればいい。


頭がいい人というのは、「目的地にたどりつくための交通手段をたくさん持っている」人だ。

「目的地にたどりつくための交通手段をたくさん持っている」を展開すると、

・ 自分が今いる場所と目的を正しく理解している

・ 幅広い知識を持っていて、それを整理している

・ さまざまな視点から物事をとらえることができる

ということになるね。
うん、これは頭のいい人の特徴だ。




 結論


会議はなくそう!



2017年3月7日火曜日

【エッセイ】結婚はポイント還元もないし

そうだ、ノートPCを買おう。



で、電器屋に行ったりいろんなサイトを見たりしたけど、結局よくわからない。

店頭だとサイズ感やキーボードの押し心地はわかるけど、実際の動作速度はわかんないし、性能比較もしにくい。

ネットだとその逆。

口コミはある程度参考になるけど、ゲームもしないし動画編集もノートPCではやらないから、グラフィックの美しさとかを熱弁されても......ってなっちゃう。
そこはどうでもいいや、って。


結局、詳しい知人に相談することにした。
「こういう用途に使おうと思っていて、画面は大きめがよくて、このへんの機能はなくてもいい」
って条件を並べて、「だったらこの中から選べばいいよ」って言ってもらって、最後にキーボードの押し心地だとか本体のデザインとかで選んだ。



パソコンを買うっのてたいへんだなあ。
でも、結婚相談所に登録して結婚相手を選ぶことにくらべたらぜんぜんたいしたことないよね。

パソコンはスペックが一覧表になっているし。
そもそもメーカーが公表しているスペックが真実かどうかを疑う必要はないわけだし。
「料理が得意って言ってたのにお菓子しか作ったことないじゃないか」みたいな嘘はないですから。

パソコンも徐々に動作性能が落ちていくけど、結婚みたいに成約前と成約後で豹変する、なんてことはないですしね。。

それにパソコンだったら実際に使ってる人の話を聞けるけど、
「あなたの奥さんどんな人ですか。へえ、よさそうですね。じゃあぼくもそれにします」
ってわけにはいかないし。

パソコンを買うのに失敗したってせいぜい数万円の損失だけど、結婚はそうはいかんし。


なによりパソコンは、「じゃあこれにしよう」って決めたら、在庫切れでないかぎりは「あなたにはお売りできません」って断られることはない。


相談所で無事に結婚相手を見つけた人って、その決断力があれば、パソコンを買うときなんて、電器屋に行って1秒で「これください」って言える人でしょ。


2017年3月4日土曜日

【読書感想文】 吉田 修一『元職員』

吉田 修一『元職員』

内容(「BOOK」データベースより)
栃木県の公社職員・片桐は、タイのバンコクを訪れる。そこで武志という若い男に出会い、ミントと名乗る美しい娼婦を紹介される。ある秘密を抱えた男がバンコクの夜に見たものとは。

実在の事件である 青森県住宅供給公社巨額横領事件 を元にした小説。
事件のことを覚えている人は少なくても、当時ワイドショーをにぎわせた「アニータ」さんの名を覚えている人はけっこういるかもしれないね。



小説に"意味" や "楽しさ" だけを求める人にとってはキツい小説だろうね。
出てくるやつは主人公筆頭にクズばっかりだし、救いはないし、教訓もないし、楽しいストーリーも含蓄に富んだセリフも意外な展開もないし。
うわあ。なんでそんな小説読むのって言われそうだなあ。でも楽しいだけが小説じゃないからね。
嫌な話を追体験することこそ小説じゃないとなかなかできない。新聞やテレビには「救いのない嫌なだけの話」はないからね。
嫌な話は視野を広げるのに役立つって話もあるしね。今ぼくが作ったんだけど。


この本を読んだ後にAmazonのレビューを見たんだけど、小説の読み方を知らない人って多いよね。
いや小説に決まった読み方なんてないんだけど。
でもさ。「こういう行動をとるべきなのになぜ無駄なことばっかりしてるんだ」「あそこのエピソードがどう回収されるんだろうと思ってたら伏線ほったらかしかい」みたいなレビューが並んでるのを見て、がっかりしたというか。
本屋大賞とか芥川賞受賞作とか村上春樹のレビューだったらわかるんだけどね。ふだん本読まない人もいっぱい集まる場だから。

でも吉田修一のハードカバーを買うぐらいだからけっこうな本好きだろうに、そんな人でも「すべての本の登場人物は合理的で無駄のない行動をとらなくてはならないし、すべてのエピソードには意味がないといけない」と思ってるってことに、ため息しか出ない。
本格ミステリに関してはほぼその通りなんだけど、小説なんて無駄の積み重ねでしょ。そもそも小説自体が人生においてなくても生きていけるものなんだから。



ところで『元職員』だけど、まあ嫌な小説だねえ。悪口じゃなくて。

ぼくはときどき嫌な夢を見るんだけどね。だいたい、自分が悪いことをして追われているという夢。
万引きして、全国指名手配されるみたいな夢。「万引きでどうして指名手配なんだ。そのエピソードはどう伏線として回収されるんだ」とか言わないでよ、夢なんだから。

そういう夢を見て起きたときは、背中にじわっと汗をかいている。暑いのに、まとわりつくような悪寒がする。
『元職員』を読んでいるときの気分も、まさにそんな感じ。
じわりじわりと追いつめられてゆく気分。
どんどん逃げ場がなくなっていって、常におびえながら暮らさないといけない。ときどきふっともうどうにでもなれという気になるし、でもやっぱり逃げなくちゃとも思う。
ガス漏れしている部屋にいるように、気がつけば恐怖と不安と焦燥が充満している。

曽根圭介『藁にもすがる獣たち』(感想文はこちら)も嫌な小説だったけど、あれはまだ少しだけ救いがあったし、謎解きの快感があった。
でも『元職員』は、ただただ嫌な小説。
嫌な気分になるだけ。
タイのむわっとするような暑さの雰囲気も、嫌な気持ちになるための、ちょうどいい舞台装置の役割を果たしている。
なんでこんなもの読むんだ、という気になるけど、たまにこういう気分を味わいたくなるんだよね。
なんでかね。それだけ今幸せだってことを確認できるからかね。



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