2016年7月23日土曜日

【読書感想文】角田光代・穂村弘 『異性』

角田光代・穂村弘 『異性』

内容(「BOOK」データベースより)
好きだから許せる?それとも、好きだけど許せない?男と女は互いにひかれあいながら、どうしてわかりあえないのか。「恋愛カースト制度の呪縛」「主電源オフ系男女」「錯覚と致命傷」など、カクちゃん&ほむほむが、男と女についてとことん考えてみた、話題の恋愛考察エッセイ。

歌人・穂村弘と小説家・角田光代が、それぞれ男と女の立場から恋愛についてつづったエッセイ。
交互に連載していたらしいので、お互いの書いたものにコメントしつつ「いや私はこう思うよ」「ぼくはこう思うんだけどあなたはどう?」といったやりとりも見られる。

往復書簡のような形が新鮮。
この形式を考案したのは編集者かな。内容にもあってるし、すばらしい発明。
書いている人たちも楽しかったんじゃないかな。

学生時代に好きな女の子と交換日記のやりとりをしていたんだけど、そのときの愉しさを思い出した。


えー内容だけど、ぼくは穂村弘さんのエッセイが大好きなので穂村パートは楽しく読めた。でもふだんのエッセイより腰が引けているというか、マトモなことを書いているのが残念。
妄想が暴走して、読んでいる側がなんだそりゃもうついていけねえ、ってなるのが穂村弘さんのエッセイのおもしろさだ。
でもこの連載では、半分は角田さんに語りかけるように書いているので、あまりにとっぴなことは書かれていない。
女同士の会話って「意見」とか「思いつき」よりも「共感」のほうが重視されることが多いけど、まさにそんな会話を聞いてるみたい。
「あーあるある」って話に終始しているのがもったいなかったなあ。もっと勝手な”決めつけ”を読みたかった。

角田パートのほうは、うーん......。
ぼくが男性だからなのかもしれないけど、共感もできないし、かといって「この感情をそんなふうにとらえるのか!」っていうような切れ味もなく、穂村パートへの前振りになってしまっているような感じ。

角田「男ってこうだよね」
穂村「いや、それはそうじゃなくて、こうなんだよ」
角田「なるほど、そうだったのか!」
ってな流れが多かったなあ。

ぼくが穂村弘びいきになっているだけかもしれないけど。



いちばん大きくうなずいたのはこんな話(穂村パート)。

 思うに、恰好いいとかもてるとかには、主電源というかおおもとのスイッチみたいなものがあって、それが入ってない人間は、細かい努力をどんなに重ねても、どうにもならないんじゃないか。
 その証拠に、お洒落やマナーの本を書いたり教えたりいている人自信が特に恰好よいわけではない、ってことはよくある。その人たちは、確かに知識もセンスもあるんだろう。お金も時間もかけているんだろう。でも、そんなもの何にもなくたって、恰好いい人は遥かに恰好いい。もともと輝いている彼らは、何故自分が恰好いいのか、その理由を深く考えたこともなさそうだ。逆に云うと、だから、その種の本を書くことはできないだろう。
 高校生の私は、「恰好よくなるための本」を何冊も熟読した。でも、くすんだ存在感は変わらない。無駄無駄無駄。だって、主電源が落ちてるんだから。

そうそう!

これ、ずっと思ってた。
マナーにうるさい人ってなんか卑しいし、ファッションについてあれこれ語る人って微妙にかっこよくない(「すごく」じゃなくて「なんか」「微妙に」だめなんだよね)。

たぶん、王室に生まれ育った人ってマナーに無頓着だと思うんだよね。
その人にとってはそれが自然に身に付いているもので、意識するようなことではないから。

同じように、自然にかっこいい人(顔立ちがいいとかじゃなくて身のこなしが優雅だとか内面の魅力があふれているような人)は、お洒落についてあれこれ語らない。
うるさいのはむしろ、自分を実物以上に良く見せようと必死な″おしゃれ成金″の人たち。

ちょっと高級めのスーツ屋なんかに行くと、店員がみんな「なんか惜しい」。
いいスーツを着こなしているし髪型もキマっているのに、どうもかっこよくない。
素敵だな、と思えるような店員を見たことがない。
「ほら、ばっちりキマっているおれってかっこいいでしょ」ってな心持ちが透けて見えてしまう。

そうかあ、あの人たちはみんな″主電源″が落ちていたのかあ。

2016年7月21日木曜日

【エッセイ】レッサーパンダの悲哀


レッサーパンダは、かわいい。

これは異論の余地がない。

つぶらな瞳、平安貴族みたいなちょっと変な眉、寄り目なところ、ちょろりと出た舌、豊かな表情、ずんぐりむっくりした胴体、ぼてっとしたしっぽ、どこをとってもかわいい。

どんなへそまがりな人が見たって、かわいい。

しかも、体長は約50センチ、体重は3~4kg。
これはちょうど人間の赤ちゃんと同じくらいだ。
おまけによちよち歩きで歩く。

もう、人間にかわいがられるために神が創ったとしか思えない。



なのに。

なのに。


レッサーパンダは不遇の扱いを受けている。

かつて、日本では「パンダ」といえばレッサーパンダのことを指したらしい。
ところが、ジャイアントパンダがやってきて、そいつがすっかり人気者になったために、「パンダ=ジャイアントパンダ」になってしまった。
ぬいぐるみやキャラクターも、ジャイアントパンダのほうが圧倒的に多い。


それだけではない。

それまで「パンダ」だった動物は、大熊猫の登場により、「LESSER(小さいほう、劣ったほう)」という不名誉な冠称をつけられて呼ばれることになった。

彼の心中の悔しさたるやいかに。

せめて、「レッドパンダ」とかにしてやれよ……。



中学生のとき、同級生にスガくんがふたりいた。
一方のスガくんは体格が良くてけんかも強かった。
もうひとりのスガくんは、学年でいちばん背が低く、そのせいもあってみんなから低く見られていた。

みんな、背の低い大きいほうのスガくんのことを「小スガ」と呼んでいた。小さいほうのスガだからコスガなのだ。

じゃあ大きいほうは「大スガ」かというと、そんなことはない。
彼は単に「スガさん」と呼ばれていた。

今思うと、「小スガ」は残酷な呼び方だったと思う。
ごめんよ小スガ。



世界史で出てきた「小ピピン」。
新約聖書に出てくる「小ヤコブ」。

彼らも、かわいそうだ。
歴史に名を残すはたらきをしたのに、「小」がついているせいで、どうしても小物感が拭えない。

しかも彼らはべつに小さかったわけではないのだ。
近い時代に同名の人物が歴史に名を残していたため、区別するために後から生まれたほうが「小ピピン」「小ヤコブ」と呼ばれているのだ。

もっと他にあっただろう。
「新ピピン」とか「続ヤコブ」とかさあ。

彼らならきっと、レッサーパンダの悲哀を深く理解できるんだろうなあ。




2016年7月20日水曜日

【読書感想文】荻原 浩『オロロ畑でつかまえて』

荻原 浩『オロロ畑でつかまえて』

内容(「BOOK」データベースより)
人口わずか三百人。主な産物はカンピョウ、ヘラチョンペ、オロロ豆。超過疎化にあえぐ日本の秘境・大牛郡牛穴村が、村の起死回生を賭けて立ち上がった!ところが手を組んだ相手は倒産寸前のプロダクション、ユニバーサル広告社。この最弱タッグによる、やぶれかぶれの村おこし大作戦『牛穴村 新発売キャンペーン』が、今始まる―。第十回小説すばる新人賞受賞、ユーモア小説の傑作。

ぼくは、創作物を見て笑うことはあまりありません。
テレビやマンガでも「ふふっ」ぐらいの笑いが出たらいいほう。
文章ではせいぜいにやにやするぐらい。

それも、今までに笑わされた文章といえば、東海林さだおのエッセイとか、原田宗典のエッセイとか、土屋賢二のエッセイとか、穂村弘のエッセイとか、岸本佐知子のエッセイとか、要するにエッセイでしか笑ったことがありません。
今まで、いろんな小説を読んできましたが、小説で笑ったことってほぼありません。
子どもの頃に読んだ、北杜夫の『船乗りクプクプの冒険』くらいでしょうか。
特に「爆笑必至」みたいな煽り文句の書かれた小説がおもしろかったためしがありません。

笑いってアドリブ性に大きく依存していると思うんですが、小説だとそれがまったく期待できないからでしょうかね。
ユーモア小説とか言われるほど、作者の狙いが透けて見える分、笑えなくなってしまうんんでしょうね。


なので、内容紹介に「ユーモア小説の傑作」と書かれている『オロロ畑でつかまえて』も、(笑いに関しては)まったく期待せずに読みました。

案の定、笑いませんでした。
特に前半の、ド田舎ぐあいを大げさに描いて笑いをとりにいくところは、40年前の笑いのとりかたじゃないかと思ってうすら寒くなりました。

でも中盤からは、笑いに関してはどうでもよくなりました。
ストーリーがおもしろかったからです。

伏線を丁寧に回収して、登場人物それぞれのエピソードをしかるべきところに着地させる手法は見事です。
これがデビュー作だということで、荒っぽさも目立ちましたが(青年団の人々は最後まで誰が誰だかわからなかったぜ)、荻原浩の、ストーリーテラーとしての才能は十分に感じることができました。


この人は脚本家としての才能のほうがあるんじゃないかとふと思いました。
『オロロ畑でつかまえて』も、 映像化したほうが映えるんじゃないかなあ。


2016年7月19日火曜日

【読書感想文】桐野夏生 『東京島』

桐野夏生 『東京島』

内容(「BOOK」データベースより)
清子は、暴風雨により、孤島に流れついた。夫との酔狂な世界一周クルーズの最中のこと。その後、日本の若者、謎めいた中国人が漂着する。三十一人、その全てが男だ。救出の見込みは依然なく、夫・隆も喪った。だが、たったひとりの女には違いない。求められ争われ、清子は女王の悦びに震える―。東京島と名づけられた小宇宙に産み落とされた、新たな創世紀。谷崎潤一郎賞受賞作。

アナタハンの女王事件をモデルにした小説。
実際にあった事件を下地にしているとはいえかなりショッキングな設定。
とはいえ設定を存分に活かしたサバイバルゲーム的な物語ではない。
Amazonでも低評価のレビューが多かったんだけど、低評価をつけた人の多くはサバイバルストーリー(『インシテミル』『バトル・ロワイヤル』みたいなやつね)のつもりで読んだんじゃないかな。


桐野夏生の作品を読んだことのある人なら予想できるだろうけど、みんなが力を合わせて生還をめざす冒険小説でもなければ、知恵と勇気で悪を倒すバトルもない。
なんとか人を出しぬこう、自分だけが助かろうとする人たちしか出てこない小説だ。
シチュエーション的にも、展開的にも、ゴールディングの『蠅の王』を思い出させる内容だった。


『東京島』は、「この後どうなるんだろう。はたして助かるんだろうか?」とはらはらしながら読むものではない。
「こいつらほんとクズだな」と楽しみながら読む小説。そして、それを楽しんでいるクズ(=自分)と向き合いながら読む小説。
クズにおすすめしたい小説。もちろんぼくは楽しめました!

善人は桐野夏生を読んでないで『十五少年漂流記』でも読んでやがれ!


展開も一筋縄ではいかない。
アナタハンの女王事件を知っていたので、たった一人の女をめぐって男たちが争う話だと思っていたのですが、それは前半まで。
中盤から、主人公である清子は男たちから求められなくなるばかりか、疎まれ、憎まれ、無視されるようになる。

ああ、この感じ、わかるなあ。

ぼくが学生時代入っていたサークルもそんな感じだった。
男の比率が極端に高かったから、たまに新入生の女性がやってくると、一部のメンバーはあからさまに近寄っていき(そして水面下で激しい争いをくりひろげ)、かと思うと一部のメンバーはそんな状況に嫌気がさして、「もういっそ女がいないほうがいいのに」とぼやいたりしていた。

当時はまだ「サークルクラッシャー」という言葉はなかったけど、いつの時代も、そしてどんな環境でも、人間がやることって変わらないのかもしれないねえ。


【関連記事】

【読書感想文】 桐野 夏生 『グロテスク』



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2016年7月17日日曜日

【考察】寿司の大学デビュー

堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』  によれば、寿司を「一貫、二貫」と数えるようになったのは1990年代のことで、それまでは「一個、二個」と数えていたらしい。

誰が「一貫」言い出したのかもしれないが、きっと寿司を格調高い食べ物として扱おうという魂胆があったのだろう。
おにぎりやサンドウィッチみたいな軽食と一緒にすんなよ、なんたってSushiはジャパニーズソウルフードなんだからな。という浅ましい優越感があったのかもしれない。
1990年代とはそういう時代だった(そのころぼくは小学生だったので適当に言ってます)。


しかしそのもくろみは成功し、今ではすっかり寿司は「一貫、二貫」の食べ物になってしまった。
「貫」は寿司だけに使われる特別な数えかただ。
いや、「百貫デブ」という言葉もあったな。
訂正。「貫」は寿司とデブだけに使われる特別な数えかただ。

寿司業界のほうでも恥じるわけでもなく、うちじゃあもう三百年前から「一貫、二貫」よ、べらぼうめいという顔をして寿司を握っている。


こういうやつ、いたなあ。
大学に入ったとたんに付け焼き刃のおしゃれをして、おれって昔から遊び人だったんだぜみたいな態度をとるやつ。

高校までは異性としゃべることすらほとんどなかったくせに、「いやあ地元に彼女を残してきたから寂しいぜ」みたいな嘘をついちゃうやつ。

そういうやつってすぐにボロが出るんだけどね。


だから寿司!
おまえももう背伸びをするのはやめて、「一個、二個」の頃のおまえに戻れって!
見ているこっちのほうがつらくなるから!