2024年8月6日火曜日

【読書感想文】下村 宏『これからの日本 これからの世界』 / 昭和11年の小学生へ

これからの日本 これからの世界

 下村 宏

目次
「地球の未来」「大戦来るか? 平和来るか?」「日本民族の覚悟」「人間市場」「日本人口の今昔」「病毒の国、日本」「人種改良」「食糧の現在と将来」「木材と治山治水」「動力の現在と将来」「航空の現在と将来」「日本の言語と文字」「カナ字、ローマ字、エスペラント」「日本民族の目標」「日本民族の移民問題」「世界民族の将来」


(引用部分は一部、現在の常用漢字にしてあります)

 昭和十一年刊行。日本少國民文庫というシリーズの第四巻だそうだ。

 おそらく小学生向けに書かれた本で、現在の世界や日本の状況と、今後の課題や展望について様々な分野から検証している。また章の間にコラムがあったり、クイズコーナーや手品を紹介するページがあったりと、雑誌のようなつくりになっている。子どもを飽きさせない工夫だろうか。


 古本屋で見つけて、「戦前の本か。さぞかし歪んだ思想があふれているのだろうな。どれ、当時の日本人がどれほど愚かか笑ってやろう」というちょっと意地悪な気持ちで手に取ったのだが……。


 意外にもちゃんとしている。たとえば国際情勢を語っている章で、なぜ第一次世界大戦が起こったのかという解説はもちろん、第一次世界大戦で領土をとられたドイツが再び力をつけてきているので近いうちにもう一度世界大戦が起こる可能性が高い、なんてことが書いてある。

 ひと目地圖を見てもわかるやうに、オーストリア・ハンガリーは二つに割かれ、共にその土地はルーマニア、ユーゴースラヴィア、チェッコスロヴァキア、及びイタリーに割かれる。そのチェッコスロヴァキアとポーランドとは新に出来た國であり、更にロシアの進出を恐れて、バルティック沿岸にはリトワニア、ラトヴィア、エストニアといふ三ヶ國が新に作りあげられた。
 かういふ國々は、人口の少ない民族にもそれ〲自分の事は自分で決めさせるといふ、いはゆる少数民族の自決といふ名目で建國された。しかし、その出来あがった新しい國々では、今までドイツやオーストリアやロシアの下に抑へられてゐた少数民族のチェック、スロヴァキア人、ポーランド人などは自決したかも知れないが、そのほかに少數のドイツ人、スラヴ人、ハンガリア人、ユダヤ人などがまじつてゐて、この人々はかつて自決する権利を失ってしまった。つまり、少数民族の自決といつても、ドイツ、オーストリア、ロシアを弱めるための少数民族自決であつて、戦勝國の國々には、この原則は一向にあてはめられなかつたのである。殊にポーランドなどは、やはりバルティック海へ顔を出さしてやらねばならないといふので、東ドイツの地續きの中へ細長い廊下のやうなポーランド顔を作って、バルティック海へ突きぬけさせた。こんな不自然な無理な形がそのまゝ續く筈がない。皆さんは世界の地圖をいつも部屋にかけて、よく眺めて下さい。さうすれば、今いった事柄も深くのみこめる筈である。

 また、原子爆弾の誕生を予見していたりもする。まさか自分たちの国土に落とされるとまではおもってなかっただろうけど。

 ふうん。わりと冷静に世界情勢が見えてるんだなあ。

 日本が国際連盟を脱退したのが昭和八年。昭和十一年にはもう「名誉ある孤立」を貫いていたのかとおもいきや「今後、世界の国々とどうかかわっていくべきか」「他国を見習ってよい国にしていかなければいけない」なんてことが書いてある。昭和十一年はまだそれほど軍国主義がはびこってないんだなあ。

 他の本を読んでも、昭和十年ぐらいの日本人の意識は戦後とそんなに変わらなかったようだ。太平洋戦争開戦後の昭和十六年~二十年ぐらいがきわだって異常だっただけで、それ以前の日本人の意識はヨーロッパ諸国とそんなに変わらなかったのかな。

 ただしこの本が刊行された昭和十一年といえば二・二六事件が起こった年で、歴史の教科書でもそれを機に急激に日本が軍国主義に傾いていくと書いてある。ちょうどこの本が出たあたりが転機だったのかもしれない。



 世界の国々の人口が書いてある章で、イギリスの人口が4億3830万人と書いてあった。

 誤植か? 今でも1億人もいない国なのに、4億もいたはずないだろう……とおもっていたが、その後を読んで謎が解けた。この頃はまだカナダやオーストラリアは独立国ではなくイギリスの自治領なのだ。自治領や植民地の人口も含んでいるから4億もいたわけだ。

 本土人口ではないとはいえ、人口4億のイギリスが人口6500万人ぐらいのドイツに負けかけたわけだから、ナチスドイツの勢いはすごかったんだなあ。また今ほどの大国ではなかったアメリカが感じた脅威もよく理解できる。



「戦前のゆがんだ思想を見てやろう」というぼくの底意地の悪い期待に反して書いてあることはだいたいマトモだったのだが、『人種改良』のほうは期待に応えてくれるものだった。

 ここに書いてあるのは要は優性思想で、劣った人間は子孫を残すな、ということである。

 もつと根本的にいふと、現在の悪質者、殊に遺伝性の変質者(普通の人とちがつた病的な体質の人)は子供を生まぬやうにする事が肝心である。こゝに遺伝といふものは平等の血筋をひくといふことで、一番著るしい例は精神病患者である。気違ひの血は筋を引くから、何よりも気違ひになる子を生まぬ事が、生まれる子のため、一家一族のため、また社会のためである。本人は気違ひだからわからないが、わからないなりに人を殺し傷つけるものもある。家族なり社会なりは気違ひのために、どれだけ心配苦労をするかも知れない。どれだけ時間と手数と金を使はねばならぬかわからない。だから初めからさうした子供を生まぬに越したことはない。これは又明らかに病毒――しかも最も質の悪い病毒を亡くする最良の方法で、さうでもしなければ順々にいつまでも遺伝性の毒は絶えないといふ事になる。既にこの世の中へ生まれて来た以上はどんな病毒があつても、これをいたはつてやるべきであるが、同時にさうした悪質者として生まれるときまれば、初めから生まれぬやうにすべきである。悪質者の増加は社会の大きな害毒となるのみならず、ひいては人口の減少を来たす事になるのである。

 現代の価値観だとめちゃくちゃヤバい思想(少なくとも公言していいことじゃない。まして子ども向けの本で書くなんて言語道断)ということになるのだけど、当時の価値観ではべつに異端ではなく、国家自体が率先して障害者や精神病患者の避妊手術をしていた。

 今ではこんなことを公言する人はめったにいないが、考え自体がまったく過去のものになったわけではなく、今でも個人単位で信じている人は少なくないし、最近でも「避妊手術を強制された障害者などが国を相手どって損害賠償請求をした裁判の判決が出た」なんてことがニュースになっている。

 この考えを推し進めていくと、不健康なやつは子孫を残すな、頭の悪いやつは子孫を残すな、性格の悪いやつは子孫を残すな……ということになり、やがては自分の番が訪れることになるんだけどね。

 そして成功者の子どもが優秀かというと必ずしもそうとは……ということも明らかになってきたし。

 また、この本ではメンデルの法則を引き合いに出して優秀な種を残せと語っているが、これは完全な誤解。メンデルの法則は単なる発現のしやすさについての法則であって、優劣とは関係ない。


 さっき「昭和十年ぐらいの日本人の意識は戦後とそんなに変わらなかった」と書いたけど、いちばん大きく変わっているのは「国と国民がどっちが大事か」という点だとおもう。

 優性思想はその最たるものだけど、「国民ひとりひとりよりも国家のほうが大事」という意識がこの本の通底にある。一部の極右政治家なんかは今もそう勘違いしているけど。

 この本では「良い未来をつくるためにはどうすればよいか」をあれこれと提唱してるんだけど、その「良い」ってのは国家にとっての「良い」であって、個人にとっての「良い」とは必ずしも一致しない。ときには国家のために捨て石になることをためらうな、という調子だ。

 ま、そういうやつに限って「俺以外の誰かが捨て石になれ」って考えなんだけど。



 鎖国政策について。

 もし鎖国をせずに海外と交通をつゞけ、欧米の文化をの引入れ、その頃に日本が国際の舞台にをどり出てゐたとしたらどうであつたらう? 中にはさうすると日本が侵略されたかも知れぬといふ人もある。しかし私はさうは考へられない。鎖国であらうと無からうと、攻取られるものならいつでも取られる。もし当時の日本がオーストラリアなどのやうに、人口の極めて薄いところならば、それはもう遠慮なく占領されてしまつてゐたに相違ない。また人口が多くともインドやジャヴァやインド支那のやうに、弱い民族であつたならば、征服されてゐたであらう。しかし勝気な日本人が小さい島に一ぱいになつてゐる。それが人斬り庖丁を二本さして反りかへつてゐるから、征服したくもできなかつたはずである。弱い民族なら、鎖国しようがしなからうが、やつゝけられてゐたのである。
 (中略)もし開国の方針をつゞけたなら、切支丹は活動したであらう。日本国内で切支丹の騒動もおこつたかも知れない。しかし今欧米人が手に入れてゐる東洋の多くの土地は、日本のものとなつたであらうといふ事も考へられる。いや、さうなつたにちがひない。なんとしても鎖国であつた事は惜しい事である。

「鎖国していなかったら日本が植民地にされていたのでは」という心配を完全に否定し、それどころか、「鎖国していなかったら日本が海外に出て植民地を増やしていたはず」とまで言い切っている。すごい自信だ。

 実際どうなんだろうね。江戸時代には日本で銀がたくさんとれたらしいから(石見銀山は最盛期には世界の銀の三割ほどの産出量があったとか)、西洋の列強に狙われていたかもしれないけど、本国からの距離を考えると日本はそこまで魅力的な地ではなかったんじゃないかな、という気もする。征服できないというより征服する価値がないというか。

 他方、海外進出して領地を増やしていたかというと……それもあやしい気がする。幕府が本気で海外征服しようとおもったら鎖国していてもできたわけだし。実践ではなく武芸に明け暮れていたサムライが海外で活躍できたとはとうていおもえないな……。



 この著者、全体的に日本という国、日本国民を買いかぶっているきらいがあるんだけど、米と日本語に関しては蛇蝎のごとく非難している。

 とにかく米が嫌い。

 栄養価が低い、持ち運びがしにくい、食べにくい、冷めたらまずい、調理に時間がかかる、保存がきかない、などことあるごとに米の欠点を指摘している。日本人が小さいのは米食のせいだとか。

 それから日本語、特に漢字を嫌っている。漢字の学習に時間を割いているせいで、他の学習がおろそかになっている、日本人は漢字を捨てて、できることならカナ文字も捨てて、ローマ字に切り替えるべきだと主張している。


 うーん、まあわかる面もあるんだけど。でもこういう人って、日本の調子が悪いときは「米食が悪いんだ! 漢字を使っているせいだ!」と言って、日本経済が好調だと「日本人が優秀なのは米食のおかげだ! 漢字が優れているからだ!」って言いだすんだよね。つまり根拠があってしゃべってるわけではなく、憶測だけでしゃべっている。そして結論は決まっていて、その結論を引き出すために理屈をひねりだしているんだよね。

 ザ・戯言って感じだ。


 ただ、本気で国家の未来を考えているだけあって、十分に傾聴する価値のある提言もある。

 借金にもいろいろある。百田の収入で、それ以上のくらしをして、毎月金をするといふのでは困るが、商賣のため店をひろげ、品物を買入れる、又は田畑を求めるため借金する、さうしてその収益から借金を返して行くといふのならば結構なことである。政府で治水とか治山のために金がいるといふやうな場合には、借金をしてもよいのである。また、鐵道を敷くためや電信、電話をのばすために借金して、鐵道の乗車賃や電信の料金の収入でその借金かへして行けば、交通の発送により民衆は利便をうけ、隣の財産も増して行くのである。
 治山治水のための仕事をしても、これには鐡道や電信、電話のやうな収入はない。しかし、植ゑた樹木などにやがて値段がついてくる。それで、常の年を経ると、順々に、一方で苗木を植えるかはりに一方では成長した樹木を賣拂つて、収入も得られるのである。また、ダムを造れば、発電のため絶えず電力料金の収入も出来るわけである。さらに損を防ぐ方からいへば、最近十年に水害のために受けてゐる損害は、一年平均一億といはれてゐるが、ダムなど造れば、その損害は少なくなることになるのである。今二十五億の公債をおこし、つまり國民から借金をして、その金でダムを造ったとすると、その借金の利子を排はなければならない。その利子をかりに四歩とする、つまり一年間に、百圓につき四圓の利子を拂はなければならないとすると、二十五億圓の四步の利子は一億圓といふことになる。だがこの一億圓は、水害による損失に比べれば大したものではない。つまり水害によつて一億圓失ふよりも、進んで仕事をして利子に一億圓支拂ふ方がどれだけ有利かわからないのである。かうしたことは何も治水事業にかぎらない。世の中のあらゆる事柄について起こりうることで、私たちはいつも大きく遠く、しかも精密に正確に公平に、また冷静に研究し判断し、よいときまれば斷行しなければならない。

 こういう長期的な展望を語る人って、今はすごく少ないよね。

 政治家もみんな、やれこの四半期の経済がどうだとか、数年後にオリンピックや万博をやったらどうなるとか、そんな短いスパンの話しかしない。

 今からこの事業をはじめれば二十年後にはこんないい国になっている、なんてことは誰も語ろうとしない。田中角栄ぐらいが最後だろうか(角栄さんに関しては功罪いろいろあるけど)。

 目先の集票、集金のことしか考えられないおじいちゃん議員には無理なんだろうなあ。だって二十年後は自分が生きてるかどうかわからないんだもん。


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2024年8月2日金曜日

魔女の宅急便と国語教師

 何年か前、Twitter(現X)で国語教師を名乗る人物が、国語の授業風に『魔女の宅急便』の解説をしていた。

 いわく、キキの心境はこうだったがこの出来事をきっかけにこうなった、キキが魔法を使えなくなったのはこれがきっかけである、キキが再び飛べるようになったのはこれが要因であると考えられる、と。

 解説はどれも的確だった。それを読むと、それ以外に正解はないようにおもえてくる。

 ぼくはおもった。すごい、さすがは国語教師だ! あんなに自由で楽しかった『魔女の宅急便』を、国語の授業風の解説をすることで、こんなに窮屈でつまらない物語に感じさせるなんて!


 どこまでも広がっているように見えた『魔女の宅急便』の世界は、「たったひとつの正解らしきもの」を提示された途端、ただの2時間弱のお話に変わってしまった。

 小さな子どもが、時間も、枠線も、技法も、他人からの評価も気にすることもなく自由に描いた絵を、きれいな額縁に入れて壁に飾られてしまったかのようながっかり感。


 ぼくが高校生のとき。

 現国の授業で宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を取り扱った。

 ぼくは宮沢賢治が好きだったので、その謎に満ちた世界を深く考えることなく味わっていた。

 放課後クラスメイトの数人でしゃべっていると、ひとりの女の子が言った。

「銀河鉄道って死後の世界へと霊魂を運ぶ列車だよね。だから死んだカンパネルラは最後まで乗ってて、ジョバンニは乗る資格がないと言われた」

 ぼくはそんな意図をまったく読み取れなかったので、「ああそういうことだったのか!」と目からウロコが落ちるおもいがして、まさしくそれしか考えられないとおもい、同時に、そんなことを計算して書いている宮沢賢治に失望した。

「己の感性にしたがってなんだかよくわかんないお話を作る人」だとおもっていたのに、なーんだ、ちゃんと意図やメッセージを込めて論理的にストーリーを組み立てる人なのか、と。いや、宮沢賢治がどこまで計算して書いたか事実はわからないけど、少なくともそのときのぼくはそうおもった。


 ことわっておくが、『魔女の宅急便』の解説をした人も、『銀河鉄道の夜』の解釈を語った友人も、物語の価値を貶めるためにやったのではないだろう。むしろ「よく構成された物語だ!」と感心したからこそ、その構成をみんなに知ってもらいたかったのだろう。

 でもそれは「この手品ってほんとよくできてるんですよ! ここに隠してるタネに気づかれないようにこうやって他のところに注意を引き付けてるんですよ!」とタネ明かしをするようなものだとぼくは感じてしまったのだ。

 ぼくが『魔女の宅急便』を観てドキドキワクワクしていたのは、全部制作者の意図通りだったんだな、全部手のひらの上で転がされてたんだな、と。


 文章を読むうえで「作者の意図を読み解く」は大事なスキルだけど(契約書とかビジネス文書とかはね)、同時に「よくわからないものをよくわからないままに楽しむ」も大事なスキルだとおもうぜ。


2024年7月30日火曜日

【読書感想文】宮崎 伸治『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記 ~こうして私は職業的な「死」を迎えた~』 / 契約は大事

出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記

こうして私は職業的な「死」を迎えた

宮崎 伸治

内容(e-honより)
30代のころの私は、次から次へと執筆・翻訳の依頼が舞い込み、1年365日フル稼働が当たり前だった。その結果、30代の10年間で50冊ほどの単行本を出すに至った。が、そんな私もふと気がついてみれば、最後に本を出してから8年以上も経っていた。―なぜか? 私が出版業界から足を洗うまでの全軌跡をご紹介しよう。出版界の暗部に斬りこむ天国と地獄のドキュメント。

 出版翻訳家として数多くの洋書を翻訳してきた著者が、その翻訳家人生においてまきこまれた数多くのトラブル、訴訟、そしてなぜ翻訳家をやめて警備員の仕事に就くことになったのか、が書かれた半生記。



 読めば読むほど、ひどい編集者が多いな、とおもう。もちろんまともな編集者のことを書いてもおもしろくないのでひどい人のことしか書いてないわけだけど。

「で、この本、分厚い本だけど全部訳してもらえる? 訳文を見てから、いいところだけをこちらで抜粋させてもらうから」
 分厚い本を全部訳すというのは翻訳家にとっては重労働である。逆に訳す箇所が少なければ少ないほど翻訳家の負担は軽くなる。そこで私はアメリカ滞在歴4年だという彼女に恐る恐るこう提案してみた。
「英語の段階で抜粋してもらうってこと、できないでしょうか」
「それは無理。だって私、英語読めないもん。アメリカから帰ってから英語の勉強しなきゃって、やっと最近英語の勉強始めたってくらいだもん」
 彼女の半分しか英語圏に住んでいないのに英語が読めるだけでなく翻訳もできる私に多少なりともリスペクトは払ってくれているのかなぁ、なんて思いながらも私はこう提案した。
「じゃあ、どんな内容かがわかるようにラフな翻訳をしますので、ラフな翻訳の段階で抜粋してもらうってことできませんかね」
 私が翻訳するとき、まずは辞書も引かずにさささっとラフに翻訳する。これに費やすエネルギーは商品としての訳文に仕上げるまでの全エネルギーの3分の1である。その後ラフな訳文を4回から5回推敲して商品として仕上げる。内容だけがわかればよいのであれば、さささっと訳したラフな翻訳の段階で判断してもらえれば、私が費やす時間とエネルギーが3分の1で済むのだ。
 しかし彼女は無情にもこう返してきた。
「やっぱ、ラフな翻訳だったら、その作品の良さってわからないじゃない。ちゃんと全部訳してよ。いいでしょ」
 そう言われてしまっては反抗できない。駆け出しの翻訳家の私は反抗する術など持ち合わせてはいない。
「わかりました。全部きちんと訳します」

 こういうエピソードをもとに「翻訳家に対する扱いがひどい」と著者は書いているが、それはちがうぞと読んでいていいたくなる。翻訳家に対する扱いがひどいんじゃない、こういう編集者は他人に対する扱いがひどいのだ。

 たぶんこの編集者は、作家(大物を除く)に対しても、イラストレーターに対しても、印刷会社に対しても、部下に対してもこういう態度をとっている。他人の時間や労力を大事にしないやつというのは編集者にかぎらずどこの世界にもいる。「これやっといて」と言いながらできあがったものをチェックすらしないような人間が。

 それなりの期間社会人をやっていると必ずこういう人間に出会う。そして、ちょっとしゃべったらだいたいわかるようになる。あーこいつに対して誠実な仕事をしても無駄だな、と。だから自分の仕事や精神の安寧を守るために、この手の「他人の時間を屁とも思ってない人間」から依頼された仕事は、やっつけ仕事でまにあわせる、もっともらしい理由をつけて断る(こういうやつは権力に弱いからもっと偉い人の名前を出すとすんなり断れる)、とりあえず放置してみる(どうせ依頼したことすらおぼえてないことが多いんだから)、などの対応をするのが社会人の処世術だ。

 だから編集者も悪いんだけど、「わかりました。全部きちんと訳します」と言っちゃった著者のミスでもあるよな。


 ぼくも仕事でいろんな人と付き合ってきたけど、自分が言ったことを忘れてるやつ(または忘れたふりをしてるやつ)は、確実にその後も自分の言ったことを翻す。だからそういうやつに対して、重要なことを口約束で決めてはいけない。



「本を出版するので翻訳をしてくれ」と依頼してきたのに、いっこうに本を出さず、ついに出版をとりやめることにしたと通知してきた出版社に対して裁判を起こしたときの話。

 その後、慰謝料の額についての攻防が延々と続いたが、1年のやりとりを経てそれなりの金額を支払わせることができた。表紙も作り直させた上で慰謝料もそれなりに支払わせたのであるから、完全勝利といっていいだろう。原著者にお灸をすえた形で決着がついた。これでいいのだ。いや、こうでなくてはならないのだ。
 ただ経済的な側面を見てみれば、受け取った慰謝料よりも弁護士費用のほうが高くなり、トータルとしては持ち出しになってしまった。その額約70万円。でも後悔はなかった。世直しという「仕事」を完遂するには時に身銭を切ることも必要なのだ。これでこの原著者の被害にあう出版翻訳家がいなくなるのだったら高くはない。

 裁判では著者の言い分がほぼ認められ、勝利。それでも慰謝料から裁判費用を引くと70万円の赤字。これは金銭的な赤字だけなので、時間や労力やすり減らした精神を加えると損失はさらに大きくなる。

 これなら、ほとんどの翻訳者は少々の無茶を押しつけられても泣き寝入りするしかないよな……。だからこそ出版社も、翻訳後に「やっぱり印税率を下げてくれない?」なんて無理を押しつけようとしてくるんだろうけど。



 ただ。いろんなひどい出版社、ひどい著者の話を読んでいると
「これ著者のほうも悪いんじゃない?」と言いたくなる。

 著者自身も「あとがき」で書いているんだけど……。

 出版社と翻訳家でトラブルが生じる最大の原因は、仕事を開始する前に出版契約書を交わさないことと言えよう。鈴木主税氏もトラブルに関して「どうしてこんなことが起こるのか。それはどうやって防いだらいいのか。答は簡単だし、それは出版関係者の誰もが知っていることです。出版社という法人企業から依頼されて仕事をするとき、かならず契約書を交わすことが答です」(『職業としての翻訳』)と述べている。出版契約時にお互いがざっくばらんに思っていることを口に出し、それで合意できそうならその時点ですべてのことを盛り込んだ出版契約書を交わす。これを実践すればトラブルは激減するだろう。

 これに尽きるよね。

 書面で契約書を結ばずに仕事を引き受けて、後から不合理な条件を押しつけられて「ひどい目に遭った!」と騒いでいる。新人の頃ならまだしも、ある程度痛い目に遭った後なら契約書を締結しようとおもうのがふつうだろう。

 もちろん、慣例的に契約書をとりかわさないことが多い業界であれば言いづらいんだろうけどさ。でも契約書も交わさずなかったら、「契約書を結ばなかったんだから約束を破られてもしかたないよ」と言われてもしかたないのがビジネスをする上での常識だ。言いづらくても言わなくちゃいけない。

 ちゃんとした契約を結ばずに痛い目に遭ってはそのたびに傷ついている著者もピュアすぎるというか甘すぎるというか……。



 この本に出てくる出版社や編集者は仮名にしているが、読む人が読めばどこの誰かわかるだろう。出版翻訳家をやめることを決意した人にしか書けない内容だ。

 これを読むとずいぶんひどい業界だとおもうが、本は年々売れなくなっていて、自動翻訳のレベルが向上していることもあって、翻訳家の需要は今後さらに減っていくことだろう。

 ということはもっともっとひどい条件で働かされることになるのも十二分に予想されることで……。

 出版翻訳家なんてなるんじゃないかもね、やっぱり。なるんならフリーじゃなくて企業に属すほうがいいね。


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2024年7月29日月曜日

教科の大罪

  

図工:彫刻刀を人に向ける

家庭科:裁ちばさみで紙を切る

理科:沸騰石を入れない

音楽:リコーダーをおもいきり吹く

体育:柔軟体操をせずに全力疾走

国語:「みんなで声を出して読む」ときに周囲を待たずにすらすら読む

算数:0で割る


2024年7月25日木曜日

小ネタ21 (アンパンマンの出自 / 折りたたみ傘じゃない傘)

出自

 アンパンマンを毎週観ている人には常識だろうが、アンパンマンとカレーパンマンは同族ではない。というかあのアニメに出てくるキャラクターの中で、アンパンマンだけが他と違う。

 カレーパンマンも、しょくぱんまんも、天丼マンも、アンニンちゃんも、鉄火のマキちゃんも、自分の顔を人に食べさせたりしない。それぞれ自分の名前のついた料理をつくってふるまうだけだ。

 そしてもうひとつ異なる点は、しょくぱんまんはことあるごとに「しょくぱんのように美しい」と言い、てんどんまんとカツドンマンは天丼とかつ丼のどっちがおいしいかで喧嘩をしたりするのだが、アンパンマンが「アンパンがいちばんおいしいよ!」などと言っているのを聞いたことがない。アンパンマンはべつにアンパンに誇りを持っているわけではない。

 これは出自に由来する。アンパンマンはジャムおじさんがつくったアンパンに「いのちの星」が入ったことで誕生した。つまり、アンパンマンはアンパンそのものである。

 だが他のやつらはそうではない。あの世界において、しょくぱんまんは、食パンみたいな顔をした“人”である。天丼マンもアンニンちゃんも鉄火のマキちゃんも“人”だ。アンパンマンだけが食品なのだ。


 保育園で、娘のいる5~6歳児クラスが自画像を描いていた。20人ぐらいの絵を見たのだが、誰も鼻を描いていなかった。それぐらいの年齢の子は鼻を描かないのだろうか。だとしたら何歳から鼻を描くようになるのだろう。

 娘に「誰も鼻描いてないな」と言ったら「かいてるけどはだいろやからわかりにくいだけ!」と言われた。なるほど。


レトロニム

 新しい種類が誕生したことでもともとあった概念に新たにつけられた名前を「レトロニム」と呼ぶ。携帯電話ができたことでそれまで単に「電話」と呼ばれていたものが「固定電話」になったり、デジカメが誕生したことで「カメラ」が「フィルムカメラ」と呼ばれたりするようなものだ。

 ふと、「折りたたみ傘じゃない傘」を指すレトロニムがないな、と気づいた。

 日傘との区別をつけるためにそれまで「傘」だったものが「雨傘」と呼ばれるようになった。だが「折りたたみ傘じゃない傘」のことはなんと呼べばいいのだろう。「折りたたみ傘じゃない傘」と呼ぶしかない。

 さらにまぎらわしいのは「折りたたみ傘じゃない傘」もたためるということだ。折りこそしないが、たためてしまう。


 ……とここまで書いたところで調べてみると、「折りたたみ傘じゃない傘」を指す言葉はちゃんとあった。「長傘」というそうだ。聞いたことねえ!