2020年1月28日火曜日
考えないための傘
いつからだろう、天気について考えるのをやめたのは。
はじめは「雨が降るかもしれないから」だった。
降水確率が五十パーセントぐらいのときに、念のためにとおもって鞄に折り畳み傘を入れた。
そんな日が続き、ぼくは天気のことを考えるのをやめた。
いまやぼくの鞄には毎日折り畳み傘が入っている。入れているのではない。入っている。
雲ひとつない絶好の快晴であっても鞄には折り畳み傘があるし、朝から雨が降っていて傘を持って出かけるときにも折り畳み傘が入っている。
折り畳み傘は重い。重い鞄を持つと肩がこる。
でも傘について考えるほうがめんどくさい。天気予報を見て「今日は傘いるかな」と頭をはたらかせたくない。だから折り畳み傘がずっと入っている。
濡れないための傘というより、考えないための傘。
天候全般に対して関心がなくなった。梅雨も夕立も気にしない。今降っていれば折り畳み傘をさすし、降っていなければささない。それだけ。
十分先の天気も気にしない。空を見上げることがなくなった。
狩猟採集民族でなくてよかった。
ぼくが狩猟採集民族だったら、天気を読み誤ったせいでずぶぬれになっている。遭難して体温が冷えて死んでいた。
ワナをしかけてからしばらく悪天候で出かけられず、久しぶりに見にいったら獲物がかかった形跡はあるのにとっくに逃げていた。飢えて死んでいた。
収穫した果実がカビだらけになっていたこともある。もっと早く収穫しておけばよかった。しかたなくカビだらけの果実を食べたらおなかをこわして死んだ。
もう三回も死んだ。
折り畳み傘にどんどん命が削られてゆく。
2020年1月27日月曜日
ツイートまとめ 2019年4月
エイプリルフール
『のび太の月面探査記』のサイトが、エイプリルフールバージョンとして『ルカの地球探査記』になっている。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 1, 2019
映画を観てない人にはなんのこっちゃわからないだろうし、観た人はあんまり映画公式サイトを観にいかないので、いずれにせよ伝わりにくいエイプリルフールジョーク。https://t.co/6iltcg0XwE
企業のエイプリルフールネタを作った人たち、前々からがんばって準備してきたのに新元号のせいでぜんぜん話題にならなくてかわいそうだな。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 1, 2019
「これはウケるぞー」ってわくわくしながら企画してただろうになあ。
令和元年
年寄りになったら、— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 2, 2019
「令和元年の正月のときは、令和1年1月1日ということでそりゃあ大騒ぎしたもんだよ」
と若い人に嘘をつこうとおもう。
おち〇〇ん
娘(五歳)クイズ。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 3, 2019
「"お"ではじまって"ん"で終わる、(娘)のお気に入りのものなーんだ?」
おかあさん、おとうさん、おでん、すべて違うと言われる。
僕「"お"の次の文字は?」
娘「"ち"」
僕「えっ、おちんちん!?」
娘「ブー」
僕「おちんちんしかないでしょ!」
娘「正解は"おちゃわん"でしたー」
阿鼻叫喚
きのう保育園に行ったら1歳児クラス(新入園児が多い)が阿鼻叫喚だった。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 3, 2019
そうかあ、今年もこの季節がきたかあ。
今の嫁
わたし、6年前に結婚したんですけどね。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 4, 2019
なんとその相手が……今の嫁です。
日の丸
もし日の丸旗が道に落ちていてもぼくは踏んづけない。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 4, 2019
それは布きれに敬意を持っているからではなく、踏んでいるところを見られたらめんどくさい人にめんどくさいことを言われそうだから。
「めんどくさがられている」と「敬意を払われている」は一見よく似ている。
血統
ジャンプの人気格闘漫画の主人公って、孫悟空(サイヤ人)、浦飯幽助(魔族の子孫)、ルフィ(大革命家の息子)、ナルト(火影の息子)、ケンシロウ(暗殺拳の伝承者)とか、だいたい出生からして特別な存在だよね。ジョジョも第2部以降の主人公は血統に恵まれてるし。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 4, 2019
庶民は格闘漫画の主人公になれない。
ワル
通っていた高校にはバイト禁止の校則があったが、遊ぶ金を稼ぐためにこっそりバイトしてるやつもいた。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 5, 2019
それを「ワルだなあ」なんて言ってたけど、今おもうと、親の金で遊んでいたぼくらよりも自分が遊ぶ分を自分で稼いでたやつらのほうがえらかったな。
百科事典
去年1年間に、紙の百科事典(子ども向けのじゃなく昔の応接間にあったような全○巻のやつ)を買った人、ひとりもいないと思う。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 5, 2019
ひみつ道具
「ドラえも〜ん、なんか道具出して〜」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 5, 2019
「しっ! 声が大きい。……誰もいないな。この道具のボタンを押せ。詳しい内容は言えない。道具のことは決して口外するな。もし漏れたら、知ったやつの存在を消すことになる」
「あ、ひみつ道具ってほんとにひみつなんだ」
ひらがな
名前をひらがなにしてる候補者、有権者をばかにしてるとしか思えない。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 5, 2019
ひらがなの候補者には入れたくないのに、ほとんどの候補者がひらがな。
なんとかならんもんかね。
葬式
茶色い靴しか持ってないという話をしたら— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 6, 2019
「お葬式のときとか困るんじゃない? 口うるさい人とかいるから」
って言われたんだけど、葬式に茶色い靴で行くやつより葬式で他人の靴の色に文句つけるやつのほうがどう考えたってやばいやつだろ。
文句言うのは自分の葬式のときだけにしてほしいぜ。
尿意
何かに熱中してたら寝食を忘れることはあっても、尿意は忘れないよね。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 9, 2019
「没頭しすぎて気づいたらおしっこ漏れてた」とかないもんね。
尿意は食欲や睡眠欲よりも上。
文庫サイズ
文庫好きだから、「文庫サイズの〜」と言われるだけで買いたくなってしまう。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 10, 2019
関西
働くなら大阪、住むなら兵庫、観光なら京都、のんびりしたいなら奈良、子育てなら滋賀、パンダ観たいときは和歌山……。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 11, 2019
架空
え? わたしのことを実在の人物だとおもってる人がいるんですか!?— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 12, 2019
Twitterの中にだけ棲む架空の生物に決まってるじゃないですか。
現実とインターネットの区別がついてないんですね、かわいそうに。
異常者
・家に出たゴキブリを殺す→ふつう— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 13, 2019
・ゴキブリを殺すためにわざわざ山に行く→異常者
・炎上してるものをわざわざ見にいって怒って非難する→ふつう
ふつうは難しいな……。
かわいい用
勉強机を買ってもらった6歳の娘に— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 14, 2019
「引き出しは使いみちによって分けるといいよ」
と言った。
で、今日上から3番目の引き出しを開けたらプリキュアやプリンセスのグッズがいっぱい入ってて、「ここは何の引き出し?」と訊くと「これはかわいい用」と言われた。
学力テスト
— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 15, 2019
左向き
新5千円札の肖像、津田梅子の写真を反転? 財務省は…:朝日新聞デジタル https://t.co/8jeCG76MgS— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 17, 2019
ばっかだなあ。
反転させずに左向きにする方法があるじゃないか。
上下逆さにするんだよ!
メリット
転職会議でとある会社の評判見たら、福利厚生の「良い所」に— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 17, 2019
「オフィスにソファがあるので午前三時まで仕事をしたときに泊まることができます」
と書いてあった。
雑な仕事
こういう仕事する人、ほんと嫌い。 pic.twitter.com/yDpj1EoTB6— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 18, 2019
1104
おしりたんていなぞときイベントで配ってた冊子。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 20, 2019
これ、大丈夫か……?
おしりたんてい事務所の電話番号、1104(いいおしり)らしいんだけど、子どもがここに電話して110番につながるってことが続出するのでは……? pic.twitter.com/1IoGzsWtH3
ねっとり
「頭皮」と書いて「ねっとり」と読む。 pic.twitter.com/dOtA26tg6x— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 21, 2019
主張
十数年前はみんなこぞって携帯の着信音を変えていた。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 23, 2019
昔の女学生はリボンの結び方にせいいっぱい趣向を凝らしていた。
どちらも「変えられるギリギリのとこで自分の色を出すのがオシャレ」だった。
未来ではきっと「昔は、髪の色を変えるなんて些細なことがおしゃれだったんだねえ」といわれている。
追い打ち
友だちと喧嘩をして泣いていた娘(五歳)。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 23, 2019
そこに同じ組のSくんが近づいてきて
「さっきのけんかみてたで。なきたくなるきもち、よくわかる」
と声をかけた。
おお男前やなーとおもってたらその後Sくんが
「でも、わるいのはおまえのほう!(ビシッ)」
と指をつきつけて、娘はさらに号泣。
ひでえ。
あ・へれふ
みなさん、htmlタグの<a href=""> のことをなんて読んでますか。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 23, 2019
ぼくは「あ・へれふ」って読んでます。
あわれみ
徳川綱吉「生類のあわれみがヤバい」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 24, 2019
Yahoo!知恵袋
Yahoo!知恵袋は、ベストアンサーよりも「クソofクソアンサー」を選べるようにしてください(質問者選出じゃなくて一般投票で)。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 25, 2019
正直者
「あなたが落としたのは金の斧ですか、それとも銀の斧ですか」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 25, 2019
「落としたのはふつうの斧ですが、あわよくば全部ほしいとおもっています」
「あなたこそが本当の正直者ですが、それは美徳ではありません」
座席表
学校生活を楽しんでいる学生さんには、席替えのたびに座席表を記録しておくことをおすすめしたい。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 25, 2019
後から座席表を見たときにいろんな記憶がよみがえってきます。
卒業アルバムや文集よりずっと「あんなことあった」が思いだされます。
未来予想図
職場の39歳女性(未婚・10年以上彼氏なし)が「あたしが結婚するときは〇〇するんだ」とか「自分の子どもには〇〇しようとおもってる」と屈託なく未来予想図を語るのを聞くたびに、余計なお世話だけど「それより大地震にどう備えるかを考えたほうがよっぽど現実的じゃないかな」とおもってしまう。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 25, 2019
サメ映画
「サメ映画が好きなんです」だという知人。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 26, 2019
「へえ。サメ映画なんて『ジョーズ』シリーズしか知らんわ」
と言ったら、
「『ジョーズ』は観たことないんですよ」とのこと。
えっ!?
もしかしてサメ映画界では『ジョーズ』って意外に評価低いの!?
ていうかサメ映画界なんてのがあるの!?
寝言
妻によると、ぼくが子どもたちと遊んだ日の夜は、よく「あぶないよ!」とか「そっち行ったらあかん!」とか「気をつけてや!」とか寝言を言ってるそうだ。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 26, 2019
どうりで翌朝ぐったり疲れてるとおもった。
無駄死に
「魚や豚はもう死んでしまった以上、食べてあげるのがいちばんの供養だ。食べ残すほうが無駄死にになってかわいそう」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 26, 2019
なんていう人がいるけど、ぼくだったら死後三枚おろしにされたり肉を腸詰めにされたりするぐらいだったら無駄死にのほうがずっといいな。
リトマス試験紙
リトマス試験紙「やめて……」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 26, 2019
酢酸「口では嫌がってても身体は正直だな。ほら、こんなに濡らして赤くなってるじゃねえか」
古本屋
— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) April 29, 2019
2020年1月25日土曜日
運命のティッシュ配り
運命の出会いというのはその瞬間には気づかなぬものだ。
仕事帰り。オフィス街を歩いているとき、ティッシュを受け取った。
いや受け取ったという言い方は適切ではない。
気づいたら手の中にあった、それぐらい自然だった。
ティッシュを渡され、数歩歩いて、そしてようやくティッシュを手渡されたことに気が付いた。
あわてて後ろを振り返る。だがぼくにティッシュを握らせた彼は、もうぼくのことなど気にも留めず一心に次の通行人の手にティッシュを握らせようとしていた。
思えば、街頭ティッシュ配りにはイライラさせられっぱなしの人生だった。
まずはじめにことわっておくが、ぼくはティッシュを欲しい。タダでもらえるのならばいくらでもほしい。
花粉症なので春先には途方もない量のティッシュを消費するし、幼い子どもふたりも鼻水をたらしたり口のまわりをアイスクリームでべたべたにしたりするので、ポケットティッシュはどれだけあってもいい。
とにかく欲しい。箱でくれたってかまわない。
だが、それと同時にぼくには「人からあさましいとおもわれたくない」という厚かましい願望もある。
本心では
「あっ、ティッシュ配ってんの!? ちょーだいちょーだい! えー、一個だけー? あっちのおじさんふたつももらってんじゃん。いいじゃんそんなにいっぱいあるんだからさ。もっとちょうだいよー!」
と言いたいところだが、それは三十代のいい大人としてさすがにみっともない。あと十歳若ければできたのだが。
だからできることなら
「ティッシュなんていくらでも買えるからいらないんだけどな。でもまあティッシュ配りのバイトも大変だろうから人助けだとおもってもらってやるか」
というスタンスでもらいたい。
この「タダでもらえるならどれだけでももらいたい」と「しかしタダに群がるあさましい人間だとおもわれたくない」というジレンマを抱えて人は生きている。
このことを理解していないティッシュ配りが多い。
まず押しつけがましいやつ。
道の真ん中にまで出てきて、こっちが避けようとしてもついてきて、強引にさしだしてくるやつ。
そこまでされたら受け取りたくない。あくまで歩道は通行人のためのもの。おまえらはそこで商売させてもらってんだから通行の邪魔すんじゃねえよという気持ちが先に来てしまう。
しかもそういうやつにかぎって差しだしてくるのがティッシュじゃなくてコンタクトレンズのチラシだったりする。いらねえ。
しかしなんでコンタクトレンズ屋にかぎってあんなにチラシ撒くんだろう。謎だ。世の中にはいろんな商売があるのに、道でチラシを撒いているのは決まってコンタクトレンズ屋だ(そして看板を持って立っているのはネットカフェだ)。
しかも、一見して相手がコンタクトレンズを必要としているかどうかわからないのに。チラシを渡す相手の視力が2.0かもしれないのに。
話がそれた。ティッシュ配りの話だ。
図々しいのはイヤだが、かといって遠慮がちなのもだめだ。
道のはじっこでおずおずと様子をうかがっているやつ。通行の邪魔にはならないけど、邪魔にならなさすぎる。あれだとこっちからわざわざ進路を変えてティッシュをもらいにいかなくてはならない。そんな意地汚いことできない。こっちは意地汚いことを隠して生きたいんだから。
突然差しだしてくるのもだめだ。
唐突に人からものを差しだされても、とっさには受け取れない。数秒前から「よしっ、受け取ろう」という心づもりをしておかないと手を伸ばせない。こっちは合気道の達人じゃないんだから油断してるときに斬りかかられても対処できない。
だからといって十メートルも前から「ティッシュどうぞー!」と声を張り上げられるのも困る。
「あっ、ティッシュ配ってる。ほしいな」と気づくけど、直後に自尊心が首をもたげる。どんな顔をして近づいていいのかわからない。
あれと同じだ。職場で、旅行に行った誰かがお土産を買ってくる。で、ひとりずつに配る。「お土産です」「どこ行ってたの?」「奈良です」「へーいいなー」なんて会話がふたつ隣の席から聞こえる。次の次だな、とおもう。もうすぐぼくの番だ。でもどんな顔をして待てばいいのかわからない。犬みたいにへっへっと舌を出して待つのは恥ずかしい。
だから気づかぬふりをする。目の前のパソコンをまっすぐに見つめて「仕事に集中しすぎて周りの声が耳に入っていません」という猿芝居をする。
心の中では「あとふたり、あとひとり」とカウントダウンしているのに、名前を呼ばれてからはじめて気づいた様子で「えっ、なに? お土産? ぼくに?」という顔をする。まちがいなくこの三文芝居も見すかされている。でも他にどんなリアクションをとっていいのかわからない。だから毎回気づかないふりをする。
これと同じで、早めに「ティッシュどうぞー!」と言われると気恥ずかしいが勝ってしまい、結局受け取らずに立ち去ってしまう。自尊心に負けたー! と敗北感に打ちひしがれてその日はもう仕事が手につかない。
まとめると、ぼくの要求としてはただひとつ、近すぎず、遠すぎず、遅すぎず、早すぎず、ちょうどいい間合いで渡してほしい。欲を言えば渡す人が美女であってぼくの手を包みこむようにしてティッシュを握らせてくれればそれでいい。
ただそれだけのささやかな願いだ。
さっきのティッシュ配りは完璧だった。
絶妙なタイミング、ちょうどいい距離、押しつけがましくない表情。どこをとっても一級品。さぞかし名のあるティッシュ配り士なのであろう。
ティッシュだと意識する間もなく手渡されていた。
すごい剣豪になると斬った相手に斬られたことを気づかせないというが、まさにそんな感じだった。気づかぬうちに斬られた気分。それでいて不快ではなくむしろすがすがしい。
彼と出会うことは二度とないだろう。
でももしふたりが生まれ変わったら、マラソンランナーと給水所の係員として出会いたい。そして少しもペースを落とすことなく受け取れる絶妙な間合いで給水してほしい。
仕事帰り。オフィス街を歩いているとき、ティッシュを受け取った。
いや受け取ったという言い方は適切ではない。
気づいたら手の中にあった、それぐらい自然だった。
ティッシュを渡され、数歩歩いて、そしてようやくティッシュを手渡されたことに気が付いた。
あわてて後ろを振り返る。だがぼくにティッシュを握らせた彼は、もうぼくのことなど気にも留めず一心に次の通行人の手にティッシュを握らせようとしていた。
思えば、街頭ティッシュ配りにはイライラさせられっぱなしの人生だった。
まずはじめにことわっておくが、ぼくはティッシュを欲しい。タダでもらえるのならばいくらでもほしい。
花粉症なので春先には途方もない量のティッシュを消費するし、幼い子どもふたりも鼻水をたらしたり口のまわりをアイスクリームでべたべたにしたりするので、ポケットティッシュはどれだけあってもいい。
とにかく欲しい。箱でくれたってかまわない。
だが、それと同時にぼくには「人からあさましいとおもわれたくない」という厚かましい願望もある。
本心では
「あっ、ティッシュ配ってんの!? ちょーだいちょーだい! えー、一個だけー? あっちのおじさんふたつももらってんじゃん。いいじゃんそんなにいっぱいあるんだからさ。もっとちょうだいよー!」
と言いたいところだが、それは三十代のいい大人としてさすがにみっともない。あと十歳若ければできたのだが。
だからできることなら
「ティッシュなんていくらでも買えるからいらないんだけどな。でもまあティッシュ配りのバイトも大変だろうから人助けだとおもってもらってやるか」
というスタンスでもらいたい。
この「タダでもらえるならどれだけでももらいたい」と「しかしタダに群がるあさましい人間だとおもわれたくない」というジレンマを抱えて人は生きている。
このことを理解していないティッシュ配りが多い。
まず押しつけがましいやつ。
道の真ん中にまで出てきて、こっちが避けようとしてもついてきて、強引にさしだしてくるやつ。
そこまでされたら受け取りたくない。あくまで歩道は通行人のためのもの。おまえらはそこで商売させてもらってんだから通行の邪魔すんじゃねえよという気持ちが先に来てしまう。
しかもそういうやつにかぎって差しだしてくるのがティッシュじゃなくてコンタクトレンズのチラシだったりする。いらねえ。
しかしなんでコンタクトレンズ屋にかぎってあんなにチラシ撒くんだろう。謎だ。世の中にはいろんな商売があるのに、道でチラシを撒いているのは決まってコンタクトレンズ屋だ(そして看板を持って立っているのはネットカフェだ)。
しかも、一見して相手がコンタクトレンズを必要としているかどうかわからないのに。チラシを渡す相手の視力が2.0かもしれないのに。
話がそれた。ティッシュ配りの話だ。
図々しいのはイヤだが、かといって遠慮がちなのもだめだ。
道のはじっこでおずおずと様子をうかがっているやつ。通行の邪魔にはならないけど、邪魔にならなさすぎる。あれだとこっちからわざわざ進路を変えてティッシュをもらいにいかなくてはならない。そんな意地汚いことできない。こっちは意地汚いことを隠して生きたいんだから。
突然差しだしてくるのもだめだ。
唐突に人からものを差しだされても、とっさには受け取れない。数秒前から「よしっ、受け取ろう」という心づもりをしておかないと手を伸ばせない。こっちは合気道の達人じゃないんだから油断してるときに斬りかかられても対処できない。
だからといって十メートルも前から「ティッシュどうぞー!」と声を張り上げられるのも困る。
「あっ、ティッシュ配ってる。ほしいな」と気づくけど、直後に自尊心が首をもたげる。どんな顔をして近づいていいのかわからない。
あれと同じだ。職場で、旅行に行った誰かがお土産を買ってくる。で、ひとりずつに配る。「お土産です」「どこ行ってたの?」「奈良です」「へーいいなー」なんて会話がふたつ隣の席から聞こえる。次の次だな、とおもう。もうすぐぼくの番だ。でもどんな顔をして待てばいいのかわからない。犬みたいにへっへっと舌を出して待つのは恥ずかしい。
だから気づかぬふりをする。目の前のパソコンをまっすぐに見つめて「仕事に集中しすぎて周りの声が耳に入っていません」という猿芝居をする。
心の中では「あとふたり、あとひとり」とカウントダウンしているのに、名前を呼ばれてからはじめて気づいた様子で「えっ、なに? お土産? ぼくに?」という顔をする。まちがいなくこの三文芝居も見すかされている。でも他にどんなリアクションをとっていいのかわからない。だから毎回気づかないふりをする。
これと同じで、早めに「ティッシュどうぞー!」と言われると気恥ずかしいが勝ってしまい、結局受け取らずに立ち去ってしまう。自尊心に負けたー! と敗北感に打ちひしがれてその日はもう仕事が手につかない。
まとめると、ぼくの要求としてはただひとつ、近すぎず、遠すぎず、遅すぎず、早すぎず、ちょうどいい間合いで渡してほしい。欲を言えば渡す人が美女であってぼくの手を包みこむようにしてティッシュを握らせてくれればそれでいい。
ただそれだけのささやかな願いだ。
さっきのティッシュ配りは完璧だった。
絶妙なタイミング、ちょうどいい距離、押しつけがましくない表情。どこをとっても一級品。さぞかし名のあるティッシュ配り士なのであろう。
ティッシュだと意識する間もなく手渡されていた。
すごい剣豪になると斬った相手に斬られたことを気づかせないというが、まさにそんな感じだった。気づかぬうちに斬られた気分。それでいて不快ではなくむしろすがすがしい。
彼と出会うことは二度とないだろう。
でももしふたりが生まれ変わったら、マラソンランナーと給水所の係員として出会いたい。そして少しもペースを落とすことなく受け取れる絶妙な間合いで給水してほしい。
2020年1月24日金曜日
【読書感想文】こわすぎるとこわくない / 穂村 弘『鳥肌が』
鳥肌が
穂村 弘
歌人・穂村弘氏が「こわい」と感じるシチュエーションについて書いたエッセイ集。
鋭い感覚の持ち主だけあって 、その「怖い」に対する感覚も鋭い。
幽霊や強盗といったありきたりなものではなく(その手の話もあるけど)、母の愛とか家族の秘密とか、ふつうは「良きもの」あるいは「なんてことないもの」のおそろしさが書かれている。
子役が怖い、ってのはなんとなくわかる気がする。
時間が濃縮されすぎてるんじゃないかとか、人生のピークが前半に来すぎてるとか、たしかに傍から見ていて心配になる。
「子役として成功しすぎたせいで一家離散、当人もその後不幸な人生を歩む」みたいな例を聞くので(マコーレー=カルキンとかケンちゃんシリーズの子役とか)、ついつい「親の言いなりになって望まない道を歩まされてるんじゃないだろうか」とか「ふつうに学校に通って友だちと遊ぶ経験ができなくて正常な発達ができるんだろうか」とか「子どもを使って金を稼ぐ親ってやっぱり××なんじゃないだろうか」とか考えてしまう。
本人からすると余計なお世話だろうけど。
誰しも「あまり人には理解されないけどこわいもの」を持っているとおもう。
ぼくがこわいのはフィギュアスケート選手だ。
いろんな選手がいるんだけど、なんかみんな同じように見えるんだよね。さわやかな笑顔で、がんばり屋さんで、他人の成功を素直に祝福できる人たち。
すべてがつくりものっぽい、とおもってしまうのはぼくがひねくれすぎてるからかなあ。
全員いい人すぎて、逆に「そんなにいい人じゃない人」がフィギュアスケート界に入ったときにどういう扱いを受けるんだろうと考えるとこわくなる。
他の選手と同じところで笑って同じところで涙できる人じゃないとやっていけないんじゃないだろうか。
羽生先輩や浅田大先輩と同じところで笑わなかったら、それからはいないものとして扱われたりして。全員にこにこしながら無視してくんの。それがあまりにも自然で、無視してる当人たちも嫌がらせの意識とか一ミリもないの。ほんとに存在に気づけなくなってんの。
ひええ。
「近しい人の知らなかった一面」は怖い。
穂村さんの知人が離婚した理由について。
こういうのって「暴力的な人間が放火してた」よりも「善良で優しい人が放火してた」のほうがずっとこわいよね。
理解できないほうがおそろしい。
吉田修一『パレード』がそんな小説だった。
ある青年が通り魔をしている。だが彼は友人の前では明るく優しい人間で、仕事もちゃんとしている。
なのに、通り魔。
金銭目的の強盗とかレイプ犯ならまだ動機が理解できる。しかし通り魔や放火魔には目的がない。というか犯行それ自体が目的だ。ある意味もっともおそろしい犯罪かもしれない。
「優しいにいちゃんが実は通り魔」もおそろしいが、『パレード』でぼくがいちばんこわいと感じたのはそこではない。
「通り魔の同居人たちが彼が通り魔だと気づいているのに気づかないふりをしている」というところだ。
合理的に考えれば気づかないふりをする理由なんてないんだけど、だからこそそこに奇妙なリアリティがあっておそろしかった。
人間、ほんとにおそろしい目に遭ったら「おそろしい」と感じられなくなってしまうんじゃないだろうか。恐怖感が一定値を超えてしまったら恐怖センサーが機能しなくなり現実のこととして受け取れなくなる気がする。
こわすぎるとこわさを感じられなくなる。
それこそが、いちばんこわい。
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2020年1月23日木曜日
【読書感想文】持つべきは引き返す勇気 / 小尾 和男『ガチで考える山岳遭難の防止』
ガチで考える山岳遭難の防止
小尾 和男
ときどき登山をする。
といっても初心者に毛が生えかけてまだ生えてないレベルだ。
1,000メートル弱の山に日帰りで登るだけ。どちらかといえば下山して銭湯に浸かってビールを飲むのが目的だったりする。
登山ガイドで見た「登山初心者の山ガールにおすすめ!」みたいなところしか行かない。
これまでに何度か登ったが、一度も危険な目に遭ったことはない。
ときおり「山中で遭難」とか「滑落して大けが」なんてニュースを見ても、こわいなあ、本格的な登山はあぶないなあ、とどこか対岸の火事だった。
ぼくは入門者向けの山しか登らないから大丈夫だ、と。散歩の延長ぐらいに考えていた。
だが『ガチで考える山岳遭難の防止』を読んで考えを改めた。
ぼくがやってたような入門登山でも、ちょっと誤ったら十分生命にかかわる事故につながっていたんだな、と。
実際、本格的なトラブルに遭ったことこそないが、山頂で足をすべらせて足首を痛めたことがある。
道をまちがえて本来のルートに復帰するまで一時間ぐらい道なき道をさまよったこともある。
「ここで一歩足を踏み外したら大けがするな、下手したら死ぬかも」と冷や汗をかく道を通ったこともある。
それでも大きな事故や遭難に至らなかったのは、たまたま運が良かっただけなのだろう。
『ガチで考える山岳遭難の防止』には、初心者よりも中級者や上級者のほうが遭難しやすいと書いてある。
あのまま甘い考えの登山を続けていたら、いつかぼくも痛い目に遭っていたかもしれない。
特に方向音痴のぼくが怖いのは、道迷い遭難だ。
これ、わかるなあ。
以前迷ったときも「これちがうんじゃないか」とおもいながら、引き返すことなく前進を続けて、たいへんな目に遭った。
山登りって疲れるから、なるべく余計なことをしたくないんだよね。だから「引き返す勇気」が持てない。
で、「そのうち本来の道につながるだろう」なんて考えで歩いて、ますます引き返すタイミングを失ってしまう。
一分後に引き返していれば往復二分のロスで済むのに、十分後なら二十分のロスだからね。遅くなればなるほど引き返す判断が困難になる。
街中の整備された道なら、たとえ迷ってでたらめに歩いても必ずどこかにつながるから、ついついその感覚で歩いちゃうんだよね。
肉体的に疲れるから頭もはたらかなくなるし。とにかく冷静な判断ができなくなる。
あとぼくの体験的に危険だとおもうのは、メンバーとの登山レベルが違う場合。
たとえば中級者と初心者が一緒に登っていて迷ったとき。
「あれ、この道ちがうんじゃない?」とおもっても、初心者は「でも中級者がこっちに進んでるから大丈夫だろう」と考えてしまう。
中級者のほうは初心者の前でいいかっこをしたいから「ごめん、道まちがえました」とは言いづらい。
で、お互いに薄々「この道おかしい」とおもいながらお互いに言いだせない、ということがあった。
きっと、こんなつまらない遠慮や見栄が原因で命を落とす遭難に至った人もいたのだろうな。
遭難しない方法だけでなく、遭難した場合の対策も載っている。
なるほどねえ。
知らなければ、あわてて助けに行ってしまいそうだ。ここにも書かれているように子どもが落ちたときならなおさら。
でも余計に危ない目に遭わせてしまうかもしれないんだな。
山登りをする人は読んでおいて損はない一冊。
この知識が、万が一のときには生死を分けることになるかもしれない。
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