2019年12月5日木曜日
ニュートンのなりそこない
うちの次女。
こないだ一歳になった。
よちよちと歩くようになり、すれちがう人みんなに笑顔をふりまき、パーとかアイーとかの音を発するようになり、どこをとってもいとをかし。百パーセント癒しだけの存在だ。ウンコすらかわいい。
そんな彼女、近ごろは物理法則に興味を持ちだした。
机の上にあるものをひきずりおろしたり、箱を逆さにして中身をぶちまけたり、コップをひっくりかえしてお茶をこぼしたり、飽きもせずにそんなことをくりかえしている。
エントロピーが増大する一方なのでやめてほしいのだが、まあこれも彼女の正常な発達のために必要なんだろうとおもって基本的にはあたたかく見守っている(液体をこぼそうとするのは止めるが)。
こういう作業を何十回、何百回とくりかえすことによって
「これぐらい力を弱めると手からものが落ちる」
「ものを持っている手を離すととこれぐらいの速さで下に落ちる」
「液体は低い方に向かって流れる」
といった物理法則を経験的に学んでゆくのだろう。
ここでぼくはニュートンにおもいを馳せる。
ニュートンが「なぜものは下に落ちるのだろう」と疑問を持ったとき、周囲の人たちはどんな反応をしただろう。
「なるほど。言われてみればふしぎだ。何か大きな力がはたらいているのかもしれない。その力がなんなのか、どれぐらいの大きさなのか、気になるところだ」
……とはならなかっただろう。まちがいなく。
「は? 上から落としたら下に落ちるにきまってるだろ。わけのわからないこと言ってないで働け」
「なに赤ん坊みたいなこといってるんだ。落ちるから落ちる、それが答えだよ」
「だったらおれが教えてやるよ。おまえがクズだからそんなことを疑問におもうんだよ! わかったら働け!」
みたいなことを言われていたはずだ、ぜったい。
かわいそうなニュートン。
いや、ニュートンはまだいい。
そんな反応を受けながらも彼は研究に打ちこみニュートン力学を確立して後世に名を残したのだから。
ほんとうにかわいそうなのは、「なぜものは下に落ちるのだろう?」という疑問を持ちながらも「そんなこと考えるひまあったら働け」という声に負けて、研究の道をあきらめた数多くの、そして無名のニュートン予備軍たちだ。
もしも「たしかにふしぎだね。その理由をつきつめてみたらすごい発見につながるかもしれないよ」と言って背中を押してくれる理解者がいれば、彼らのうちの誰かがニュートンになっていたかもしれないのに。
そんな気の毒なニュートンのなりそこない。彼らと同じ道を我が子に歩ませないために、我が子がわざと食卓にお茶をこぼしてぬりひろげているのをぼくは今日もあたたかく見守る。
……でも液体はやめてくれって言ってるだろ!
2019年12月4日水曜日
【読書感想文】人間も捨てたもんじゃない / デーヴ=グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』
戦争における「人殺し」の心理学
デーヴ=グロスマン (著) 安原 和見 (訳)
戦争について考えるたびにおもう。
自分が戦争に行くことになったらどうしよう、と。
もちろん「殺される」恐怖もあるが、「殺す」恐怖もある。どちらかといったら「殺す」恐怖のほうが強いかもしれない。
ぼくが最後に人を殴ったのは中学一年生のとき。たあいのない喧嘩で。本気じゃない。怪我させるつもりすらなかった。それ以来、人を殴ったことはない。
そんな自分が戦場に出向いたとき、はたして見ず知らずの相手に向かって引き金を引けるのだろうか。
また、周囲の人間についても想像する。
自分の友人のアイツや同僚のアイツも、戦争に行ったら敵兵をばんばん撃ち殺すんだろうか。気のいいアイツらが戦場に行けば冷徹な殺人マシーンに変わるのだろうか。
ぼくのおじいちゃんも戦地に行ったそうだが、あの優しいおじいちゃんも敵兵を殺したんだろうか(ぼくがその疑問をぶつけることのないままおじいちゃんは亡くなってしまった)。
だとしたら、戦場のいったい何が人間をそこまで変えるのだろうか。
『戦争における「人殺し」の心理学』は、ぼくの長年の疑問に答えを示してくれた。
まずぼくが根本的に勘違いしていたことだが、戦場に行ったからといって人は殺人マシーンに変わらないということだ。
最前線に立って、敵兵を目の前にして、殺さなければ自分や仲間が殺されるかもしれない状況において、手元には弾の入った銃があって、それでも大多数の兵士は敵を撃たないのだという。
熾烈を極めた第二次世界大戦の戦闘ですら、発砲した兵士は銃を持っていた兵士の15~20%ぐらい。その中の大半は空に向かって撃つなどの威嚇射撃だったので、敵兵めがけて撃った兵士は全体の2~3%ぐらいだったというのが著者の見立てだ。
これを知ってぼくは安心した。
なんだ、人間もそこまで捨てたもんじゃないな。
ああよかった。人間は基本的に殺人が嫌いなのだ。
積極的に敵兵を殺す2~3%の人間にしても、イコール快楽殺人者というわけではないようだ。
彼らは攻撃的な資質は持っているが、あくまで「殺してもいい状況になれば殺せる」なので、兵士や警察官といった職業につけばむしろ英雄として社会から受け入れられやすい。
もちろん反社会的勢力に属した場合はたいへん危険な存在になるわけだが、それは彼ら自身の罪というより社会の責任の話だろう。
水木しげる氏の戦争体験談で、「ぼくは臆病だったので戦闘になってもすくみあがってしまって何もできなかった」というようなことを書いていたが、水木しげる氏だけが特に臆病だったわけではなく、あれこそが標準的な行動だったのだ。
「さあ戦闘だ。敵を撃つぞ!」と思えるのはごくごく少数の人間だけなのだ。
多くの兵士は戦争を通して精神病になる(戦いが長期化するとほぼ全員が精神に支障をきたす)が、空襲を受けて家や家族を失った人が精神病になる割合は平時と変わらなかったそうだ。
つまり、「自分が殺されそうな目に遭う」よりも「敵を殺す」ほうが精神的な負担は大きい。
多くの兵士は人間としての尊厳を守り、他人を殺すぐらいなら死を選ぶ。なんて美しいんだ!いいないいな人間っていいな!
……ところが、面と向かっている相手を殺しにくい」だけで、条件を超えると殺人の抵抗はぐっと下がる。
チームで戦っているとか、仲間が殺されるとか、強い上官から命令されるとか、既に一人以上殺しているとかの条件がそろうと、殺人の敷居は下がるのだそうだ。
特に重要なのは「相手の顔を見なくて済むこと」で、対象との距離が離れれば離れるほど殺人は容易になるそうだ。
なるほど。
日本でも織田信長が火縄銃を使って戦いのありかたを変えたと言われているけど、単純な強さでいえばそんなに強くなかったんじゃないかな。
当時の銃は準備にも時間がかかっただろうし、命中率も高くなかっただろう。暴発の危険性だってあっただろうしね。
だが「相手をびびらせる」「殺人への抵抗を小さくする」という点で、銃は他の武器に比べて圧倒的に優れていたからこそ火縄銃戦法は成功を収めたのだろう。
太平洋戦争のとき、米軍のパイロットは空襲で日本本土に焼夷弾を落としていった。結果、多くの民間人が命を落とした。
攻撃を加えた米軍のパイロットが特別に冷酷非情だったわけではない。彼らだって、ナイフを渡され「これで民間人を百人殺せ」と言われたら、そんなことはできないと尻ごみしていたことだろう。たとえ相手が無抵抗だったとしても(いや無抵抗だったらなおさら良心がとがめたかもしれない)。
だが飛行機から焼夷弾を落とすのはナイフで人間の腹を切り裂くよりもずっとかんたんだ。
飛行機からは姿の見えない敵、自分がやることは相手の肉を切り裂くことではなくボタンを押すだけ、そういう「抵抗の少なさ」が大量殺人を可能にしたのだ。
だから近代の軍隊がおこなう訓練は、銃の命中率を高めるとかのテクニック的訓練よりもむしろ「人を殺したくない気持ちを抑えこむ訓練」に力を注いでいる。
人間としてごくあたりまえに持っている「人を殺したくない」という気持ちを抑えるために、ほとんど考えずに引き金を引ける訓練を近代軍はおこなってきた。いや訓練というより洗脳といったほうがいいかもしれない。
結果、第二次世界大戦 → 朝鮮戦争 → ベトナム戦争 と、回を重ねるごとにアメリカ軍の発砲率は飛躍的に向上した。
……ところが。
訓練によって発砲するまでの抵抗感は減らすことができたが、発砲した後、人を殺した後の嫌悪感までは減らすことができなかった。
かくして、ベトナム戦争に従軍した兵士たちは(アメリカ国内の反戦ムードもあいまって)帰国後に罪の意識に押しつぶされ、多くの兵士がPTSDなどの精神的不調に陥った。
なんちゅうか、軍隊ってそういうものなんだといわれればそれまでなんだけど、つくづく狂ってるなあ。
人間性を壊す訓練を施すわけだもんな。
そして戦いが終わったら「さあ前と同じように生活せえよ」と言われるわけで、殺されるも地獄、殺すも地獄、いやほんと戦争なんて行くもんじゃないよ。あたりまえだけどさ。
この本を読みながらおもったんだけど、自衛隊はいざ殺し合いとなったらめちゃくちゃ弱いだろうね。
だっておそらく自衛隊員たちは「殺すための訓練」を受けていないだろうから。それどころか「殺さないための訓練」しか受けていないだろう。
どれだけ装備や技術が優れていても、隊員たちが敵を撃たないんじゃ戦いに勝てるわけがない。
敵を殺せない自衛隊と「殺すための訓練」を受けてきた軍隊が向きあったら、もう1対100ぐらいの負け方をするはず(『戦争における「人殺し」の心理学』ではそういう例が紹介されている)。
だからいくら軍事費を上げたって、自衛隊は戦闘集団としてはまるで役に立たない。
その解決策としては
・だから自衛隊は軍であることを捨てよう
・だから自衛隊を正式な軍にして敵を殺す訓練をしよう
のふたつがある。
ぼくの意見はもちろん前者だけど……。後者を唱える人が増えているようにおもうなあ。戦争を知らないからなんだろうなあ……。
そういう人にはぜひ『戦争における「人殺し」の心理学』を読んで自分が帰還兵になった気持ちを想像してほしい。
この本にはあまり書かれていないけれど、人を殺すための条件として「年齢」はかなり重要だとおもう。
ぼくも小中学生のときは「あいつ殺したい」とか「死ねばいいのに」とかよくおもっていた。
もしも当時のぼくがデスノートみたいな「こちらの身は安全で絶対にバレない殺害方法」を持っていたら、ばんばん教師や級友を殺していたとおもう。
でも今はそこまでおもわない。殺したいほど憎んでいる人はいないし「死ね」と呪うこともない。
せいぜい「あいつ会社クビになればいいのに」「あいつ逮捕されねえかなあ」「たちの悪い病気になればいいのに」ぐらいで、子どものときに比べればずっと穏健な思想になった(卑屈ではあるが)。
嫌いなやつに対しても「まああんなやつでも死ねば悲しむ人もいるだろうから死ぬことはあるまい」ぐらいの優しさは抱けるようになったのだ。
たぶんぼくだけでなく、子どもはそういう生き物なんだとおもう。ブレーキのかけどころを知らない。だから子どもに銃を持たせたらカッとなっただけですぐにぶっ放しちゃうとおもう。
ゲリラやテロ集団が少年兵を育成するのも、少年のほうが「人を殺したくない」という気持ちが弱いからなんだろう。
未来の戦争は「子どもがゲームをする感覚で敵を殺せる兵器」が活躍するんだろうなあ。いや、もうあるのかも……。
この本、中盤まではおもしろかったんだけど(ちょっと冗長ではあるが)、最終章はいらなかった。
「アメリカ国内には暴力的なゲームや映画が増えている。そのせいで暴力行為への抵抗感がどんどん下がっている!」
みたいな話が延々と。
いや「もしかしたらそうなんじゃないかとわたしは危惧している」ぐらいだったらいいんだけどね。たしかなデータもなしに断言されても。
最終章は完全に蛇足。
これで評価を落としたなあ。
その他の読書感想文はこちら
2019年12月3日火曜日
【食レポ】監獄ラーメン
(この文章は実在のお店とは何の関係もありません)
歩く。どこで飯を食おう。
一蘭という看板が目に入る。一蘭。聞いたことある。有名ラーメン店じゃないか。
食にこだわりのないぼくでも聞いたことのあるお店なのだからよほどうまいのだろう。
細く暗い階段を降りると目の前には食券の自販機が。
ラーメンが九百円。む。高い。
ちょっとためらうが、すでにぼくの後ろからは新たな客が降りてきている。引き返しづらい。
ラーメンの券を買って席に着く。
自販機の横には細い廊下がある。ラーメン屋に廊下?
ホテルじゃあるまいし。
廊下を進んで、驚いた。
テーブルと椅子がずらり。席と席の間には仕切り板。
これは。
うわさには聞いたことがあるが、実物を見たのははじめてだ。
「ラーメンに集中できるように席と席の間が仕切られているこだわりのラーメン屋」じゃないか!
まさか実在するなんて。
緊張しながら席に着く。
どこかで見た光景。そうだ、高三のときに夏季講習で行った予備校だ。予備校の自習室だ。
目の前には紙が一枚。オーダー用紙らしい。
麺の硬さ……(やわらかめ・ふつう・かため)みたいな選択肢がいくつも並んでいる。
設問に次々に答えてゆく。センター試験を受けたときのことをちらりと思いだす。
目の前にボタンがある。ボタンを押すと目の前の扉が開いた。どうやらそこは通路になっているらしい。
店員が出てきた。が、店員の顔は見えない。扉の高さは低く、店員の手元しか見えない。これもラーメンに集中できるようにする配慮なのだろう。
これはもう個室だ。
まさかラーメン屋に入って個室に案内されるとはおもわなかった。
席にひとつずつ蛇口までついている。「ラーメンに最適な厳選した水が出ます」と書かれている。うむ。しゃらくせえ。
傍らにはメモ用紙が置かれている。
なんでも「店員に伝えたいことはこちらに書いて提出することもできます。ラーメンに集中できるように」とのことだ。なるほどなるほど。しちめんどくせえ。
おそるおそる周りを眺める。緊張する。人がラーメンに集中しているのをじゃまするなと怒られるのではないだろうか。
意外とカップルや友人同士の組み合わせもいる。小さい声で会話をしている。
こんなカプセルホテルみたいなラーメン屋に来るカップルがいることが信じられない。そういうプレイを楽しんでいるのか?
なんだかまるで監獄に入ったような気分だ。
そのとき目の前の扉が開いた。
「23番、メシだ!」
番号で呼ばれ、目の前にどすんとラーメンが置かれる。そうだった、ぼくはこの監獄に収監されたのだった。
さあ食おうとプラスチックのスプーンを手に取り……スプーン?
ボタンを押す。扉が開いて店員が姿を現す。といっても手元しか見えないのだが。
「あの……」と言いかけると店員がメモ用紙を指さす。そうだった。私語は禁止なのだ。
あわててメモ用紙に鉛筆を走らせる。芯が丸まっているので書きづらい。
「お箸をください」
と書いて渡すと、店員が低い声で言った。
「だめだ、当店では先の尖ったものの使用は禁止されている。自殺に使われるおそれがあるからな」
おまえはしゃべるんかい。
「せめてフォークを」
と書きかけたところで目の前の扉が閉まった。規則は厳しい。
もう一度看守を呼ぼうかとおもったが、これ以上抗議して懲罰房に入れられたらかなわない。あそこに入れられたら一週間麺ののびきったラーメンしか食べさせてもらえないのだ。
しかたない。スプーンで食うしかない。
まずは丼をもってスープをすする。
うまい……。冷えていない。味がついている。こんなうまいものをこの監獄で食えるなんて。
スプーンで麺をたぐりよせ、慣れぬ手つきで口元にたぐりよせる。
うまい……。いつもの粉っぽいパンと具のないスープとは大違いだ。この監獄であたたかくて味のついている食事をとらせていただけるなんて、ぼくはなんて幸せなんだろう。
身体の芯からあたたまる。すきま風の吹きこむ独房にラーメンのやさしい香りがあふれる。
なんてすばらしいお店なんだ、一蘭。
歩く。どこで飯を食おう。
一蘭という看板が目に入る。一蘭。聞いたことある。有名ラーメン店じゃないか。
食にこだわりのないぼくでも聞いたことのあるお店なのだからよほどうまいのだろう。
細く暗い階段を降りると目の前には食券の自販機が。
ラーメンが九百円。む。高い。
ちょっとためらうが、すでにぼくの後ろからは新たな客が降りてきている。引き返しづらい。
ラーメンの券を買って席に着く。
自販機の横には細い廊下がある。ラーメン屋に廊下?
ホテルじゃあるまいし。
廊下を進んで、驚いた。
テーブルと椅子がずらり。席と席の間には仕切り板。
これは。
うわさには聞いたことがあるが、実物を見たのははじめてだ。
「ラーメンに集中できるように席と席の間が仕切られているこだわりのラーメン屋」じゃないか!
まさか実在するなんて。
緊張しながら席に着く。
どこかで見た光景。そうだ、高三のときに夏季講習で行った予備校だ。予備校の自習室だ。
目の前には紙が一枚。オーダー用紙らしい。
麺の硬さ……(やわらかめ・ふつう・かため)みたいな選択肢がいくつも並んでいる。
設問に次々に答えてゆく。センター試験を受けたときのことをちらりと思いだす。
目の前にボタンがある。ボタンを押すと目の前の扉が開いた。どうやらそこは通路になっているらしい。
店員が出てきた。が、店員の顔は見えない。扉の高さは低く、店員の手元しか見えない。これもラーメンに集中できるようにする配慮なのだろう。
これはもう個室だ。
まさかラーメン屋に入って個室に案内されるとはおもわなかった。
席にひとつずつ蛇口までついている。「ラーメンに最適な厳選した水が出ます」と書かれている。うむ。しゃらくせえ。
傍らにはメモ用紙が置かれている。
なんでも「店員に伝えたいことはこちらに書いて提出することもできます。ラーメンに集中できるように」とのことだ。なるほどなるほど。しちめんどくせえ。
おそるおそる周りを眺める。緊張する。人がラーメンに集中しているのをじゃまするなと怒られるのではないだろうか。
意外とカップルや友人同士の組み合わせもいる。小さい声で会話をしている。
こんなカプセルホテルみたいなラーメン屋に来るカップルがいることが信じられない。そういうプレイを楽しんでいるのか?
なんだかまるで監獄に入ったような気分だ。
そのとき目の前の扉が開いた。
「23番、メシだ!」
番号で呼ばれ、目の前にどすんとラーメンが置かれる。そうだった、ぼくはこの監獄に収監されたのだった。
さあ食おうとプラスチックのスプーンを手に取り……スプーン?
ボタンを押す。扉が開いて店員が姿を現す。といっても手元しか見えないのだが。
「あの……」と言いかけると店員がメモ用紙を指さす。そうだった。私語は禁止なのだ。
あわててメモ用紙に鉛筆を走らせる。芯が丸まっているので書きづらい。
「お箸をください」
と書いて渡すと、店員が低い声で言った。
「だめだ、当店では先の尖ったものの使用は禁止されている。自殺に使われるおそれがあるからな」
おまえはしゃべるんかい。
「せめてフォークを」
と書きかけたところで目の前の扉が閉まった。規則は厳しい。
もう一度看守を呼ぼうかとおもったが、これ以上抗議して懲罰房に入れられたらかなわない。あそこに入れられたら一週間麺ののびきったラーメンしか食べさせてもらえないのだ。
しかたない。スプーンで食うしかない。
まずは丼をもってスープをすする。
うまい……。冷えていない。味がついている。こんなうまいものをこの監獄で食えるなんて。
スプーンで麺をたぐりよせ、慣れぬ手つきで口元にたぐりよせる。
うまい……。いつもの粉っぽいパンと具のないスープとは大違いだ。この監獄であたたかくて味のついている食事をとらせていただけるなんて、ぼくはなんて幸せなんだろう。
身体の芯からあたたまる。すきま風の吹きこむ独房にラーメンのやさしい香りがあふれる。
なんてすばらしいお店なんだ、一蘭。
2019年12月2日月曜日
かわいそうおばさん
妻が言う。
「二人目の育児になってから、“かわいそうおばさん”が寄ってこなくなった」
「かわいそうおばさん? なにそれ?」
「赤ちゃんを連れて歩いていると、やたらとかわいそうかわいそうっていうおばさん。ひとりじゃなくて複数いる。『寒いのに外に連れだされてかわいそうねー』とか『あらー。泣いてるの。かわいそうねー』とか言ってくるの」
「えっ、なにそれ。子どもは寒くたってお出かけが好きだし、赤ちゃんが泣くなんてごくごくふつうのことなのに」
「そう。今ならそうおもえるんだけどね。でもこっちははじめての子育てでいろいろ神経質になってるから、いちいち気にしちゃうのよねえ。自分の子育ては良くないのかもしれない、って」
「その人たちは何が目的なんだろう」
「さあ。おまえの子育てはなってないって言って優越感にひたりたいんじゃない? だっこして歩いてたら『あらー。おんぶじゃなくてかわいそうねー』って言われたこともあるからね」
「えええ。だっこがかわいそうなんだ。そういう人は、おんぶしてたらしてたで『だっこじゃなくてかわいそうねー』って言うんだろうね」
「だろうね。でも、そういうオバハンは気にする必要ないっておもうようになったら、向こうから寄ってこなくなった。はじめての育児で不安になってる母親ばっかり狙うんだろうね、かわいそうおばさんは。きっと弱ってるにおいをかぎわけるのよ。サメがケガした獲物の血のにおいに集まってくるように」
「こえー。でもぼくもよく赤ちゃん連れて歩いてたけど、そんなおばさんには会ったことないなー」
「あいつらは弱い獲物しか狙わないからね。男の人のところには行かないのよ」
「こえー。でもそうやって弱っているお母さんを狙って攻撃せずにはいられないなんて、きっとそういうおばさんたちは子育てでいろんなイヤな思いをしたんだろうね。だから後輩をいたぶらずにはいられない」
「先輩からしごかれつづけたから、自分が三年生になったときに後輩を殴るみたいな」
「“かわいそうおばさん”が本当に『かわいそう』と言いたいのは過去の自分なのかも」
「そう考えると“かわいそうおばさん”こそがかわいそうな存在……とはならないからね! 自分がイヤな目に遭ったからって若い母親をいじめていいことにはならんわ! ×××××(書くのもはばかられる悪口)!」
ということで、幼い子どもを持つおかあさん。
“かわいそうおばさん”はほうっておくのがいちばんです。
もしくは「泣いてるの。かわいそうねー」と言われたら
「そうなのよ、今日はあいにくいつも面倒を見てくれてる召し使いがお休みをとっちゃって。ばあやがいなくてほんとにかわいそうだわオホホホホ!」
ぐらいのことを言って撃退するのがいいんじゃないっすかね。
2019年11月29日金曜日
【読書感想文】人はヤギにはなれない / トーマス・トウェイツ『人間をお休みしてヤギになってみた結果』
人間をお休みしてヤギになってみた結果
トーマス・トウェイツ(著) 村井 理子(訳)
トーマス・トウェイツ氏の『ゼロからトースターを作ってみた結果』がめったらやたらとおもしろかったので(感想はこちら)、同じ著者の別プロジェクトであるこちらも購入。
『ゼロからトースターを作ってみた結果』もそうだったけど、このまとめサイトみたいなタイトルはどうにかならんかったのか(原題は『GoatMan: How I Took a Holiday from Being Human』)。
いや興味を惹かせるという点では悪くないんだけど、「結果」はないだろう「結果」は。トースター・プロジェクトもそうだけど、結果じゃなくて過程を楽しむプロジェクトなんだからさ。
誰しも「人間以外の動物に生まれ変わったら楽だろうな」なんて考えたことがあるだろう。
ぼくも一時間に一回考えている(すぐ精神科行ったほうがいい)。
セミとかはいやだけど、来世も人間がいいですか、それともちゃんと世話をしてもらえる家の飼い猫にジョブチェンジしてみます? と訊かれたら本気で悩んでしまう。
『人間をお休みしてヤギになってみた結果』は、トーマス氏がヤギとして生きる(四つ足で丘を越えて草を食べる)ためのチャレンジを書いた本だ。
これもおもしろそう! とおもったのだが……。
うーん……。
『ゼロからトースターを』はその行動力に感心したものだが、『ヤギになってみた』はなかなか動きださないんだよね。
シャーマンを訪れて話を聞いたり、ヤギと人間を分けるのは何かと思索をくりかえしたり、ヤギを育てている人に話を聞きに行ったり……。
ぜんぜんヤギにならないんだよね。
ヤギになるのは終盤も終盤。
ヤギに囲まれて義足みたいなのをつけた人間が四つ足で歩いている写真はおもしろいけど、肝心の心境の変化はほとんどつづられていない。
痛いとか疲れたとかばかりで、そりゃそうだろうな、そんなのやってみなくてもだいたい想像つくよ。
結局「ヤギになってみた結果」ではなく「人間が四本足で歩いて草を食べてみた結果」だった。がっかり。
とまあプロジェクト自体はあまり実りのあるものではなかったけど、ヤギとヒトを分けるものについてあれこれ考えていく中にはおもしろいところもあった。
現代人の脳は、ネアンデルタール人よりも小さいのだそうだ。
そういや島 泰三『はだかの起原』にも同じことを書いていた。
ふうむ。多くの人は現代人が地球史上いちばん賢いとおもっているけど、じつはそうではないのかもしれない(賢さの定義をどう決めるかによるだろうけど)。
自分でエサをとらなくてもいい環境がそうさせるのか、賢すぎる個体は社会で生きづらいのか、ただ単に経年劣化しているだけなのか……。
ということは今後どんどん脳は縮小していくんだろうか。有史以来ずっとくりかえされてきた「最近の若いやつは……」は意外と正しかったのかもしれない。
ヤギの生活をするためにはただよつんばいになればいいとおもってたんだけど、そもそも人間はよつんばいで生きていくことはできないのだそうだ。
ヒトも大昔は四足歩行する動物だったんだろうけど、それは遠い昔。今さら四足歩行には戻れないのだ。
そういや昔から「オオカミに育てられた子」という言い伝えがある。ローマ神話のロームルスとレムスだったり、有名な例だとアマラとカマラだったり、フィクション作品にも数多く出てくる(ぼくがすぐ思いうかべたのは手塚治虫『ブッダ』のダイバダッタ)。
でもどれも信憑性に乏しいらしい。少しだけ行動を共にするぐらいはあっても、人間はオオカミの行動ペースについていけないのだそうだ。
ということで、人間はヤギにもオオカミにもなれない。残念ながら人間として生きていくしかなさそうだ。
とりあえず現世は。
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