視覚障害者の手を引いて道案内した。
音の鳴らない信号にさしかかったところで
「ふだんはどうやって渡ってるんですか」と訊いたら、
「勘です。音でだいたいわかりますけど最近は静かな車が多くて困ります」
と言っていた。
また、あまりに交通量が多い交差点だと、ひっきりなしに走行音があるのでやはり怖くて渡れないのだという。
うるさすぎてもだめだし、静かすぎてもだめなのだ。
そんなこと考えたこともなかった。
ひとりでも歩けるが、そんなふうに渡れない道を避けて歩くことになるので、ひとりだと時間がかかるそうだ。
「だからこうしていっしょに歩いてくれる人がいると助かります」
とってもらえた。
よかった。
「余計なお世話かな」とおもいながらもおもいきって「案内しましょうか」と声をかけてみてよかった。
ということで、同じように躊躇している人がいたらぜひ声をかけるといいよ。
2019年6月20日木曜日
2019年6月19日水曜日
【読書感想文】げに恐ろしきは親子の縁 / 芦沢 央『悪いものが、来ませんように』
悪いものが、来ませんように
芦沢 央
嫌な小説だった。いい意味で。
読んでいる間ずっと嫌な気持ちになる。
なんでこいつはこれをしないんだよ、こいつほんと無神経で嫌なやつだな、こいつの言動いちいち癇に障るな。
登場人物がみんなじわっと嫌なやつ。わかりやすい悪人じゃなくて、無神経だったり小ずるかったり怠慢だったり。身の周りにいそうな嫌なやつ。というか自分の中にもひそむ嫌な部分。
己の嫌な部分をつきつけてくれるような小説がぼくは好きなんだよね。読んでいてむかむかするのが。
こういう些細なエピソードとか。
子どものいない相手には子どもの写真を載せない年賀状を送る。
気遣いのつもりなんだろうけど、その奥には優越感がにじみでている。それが受け取り手にも伝わる。気づいたからといって「そういう気遣いはやめて」とは言えない。悪意があってやってるわけじゃないし。たぶん。悪意じゃないから余計にもどかしい。
ぼくも三十代半ばになって、いっしょに人生の道を歩いているとおもっていた友人たちがいつのまにか別の道を行っていることに気づくようになった。
高校時代の友人たちとしょっちゅう集まっていたけど、結婚している者と独身とにわかれる。結婚している者同士でも子どもがいる者といない者にわかれる。すると遊びに誘うのにも気を遣う。「あんまり誘ったら奥さんに悪いかな」「子連れで遊びに行くんだけど子どものいないやつはいづらくなるかも」と。
男同士でもそうなのだから、女同士だったらもっと顕著なのだろう。
女にとっての出産・育児は男よりもずっと大きなイベントだ。時間も体力もとられるし、出産・育児によって失うものも大きい。その代わり、得られる喜びもまた大きい(そうおもわないとやってられない)。
出産・育児を経験した女と、そうでない女はべつの生き物になってしまう。
また「望んで産んだ」「産んで後悔した」「産みたいけど産めない」「産みたいとおもわない」などいろんな事情あるので、それぞれがそれぞれに羨望や劣等感や憧れなど複雑な感情を抱くのだろう。男であるぼくが想像するよりずっと。
いわゆるイヤミス(イヤなミステリ)としてもおもしろかったが、純粋に小説としての完成度も高かった。
前半で丁寧に違和感をちりばめ、中盤で種明かしをして伏線を回収。これによって前半で語られた事実ががらりと様相を変えて見えてくる。そして後半でさらに話が二転三転。
母と娘の愛憎、いやまっすぐな愛情(ずいぶん歪んでるけど)を表現してみせる。
この愛情の表現がすごい。
愛情という名のケーキを天ぷらにして味噌とタルタルソースをつけて出してみました、みたいな感じ。幸せの象徴のようなケーキをゲテモノ料理にしてしまう。
父と娘や母と息子なら、ここまでの憎しみと紙一重の愛情は生まれない。父と息子なら早い段階で衝突して壊れてしまう。
憎しみに近い感情を持ちながら離れることができない、ってのはやっぱり母と娘だからこそ保たれる関係なんだろうな。
瀧波ユカリさんの『ありがとうって言えたなら』というコミックエッセイを思いだした。
『ありがとうって言えたなら』には、死を前にしても娘に対して攻撃的にふるまう母親が描かれていた。
献身的に支えようとしているのに攻撃的な言葉を投げつけてくる母に対して、娘である瀧波さんは憤り、悲しみ、呆れ、哀れみ、戸惑う。
あれもやはり母と娘だからこその関係性だったのだろう。
そりのあわない友人なら付き合いを絶てる。夫婦でも別れられる。きょうだいでも大人になってしまえば距離をとれる。でも親子の場合はなかなかそうはいかない。
親子関係は一生ついてまわる。場合によってはどちらかが死んでも。
親子だから離れられない。離れられないから憎しみあう。
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2019年6月18日火曜日
レジ袋と傘袋
レジ袋有料のスーパーマーケットが増えた。
どこもだいたい二円ぐらい。
ぼくはレジ袋をもらうことが多い。
買い物用のエコバッグを持っているにもかかわらず。
なぜなら、レジ袋がほしいからだ。
うちのマンションにはダストシュートがあって生ごみを投入することができるが、一辺三十センチメートルまでという制約がある。
ここに入れるのにスーパーのレジ袋がちょうどいいのだ。
他にも、レジ袋はいろんな場面で重宝する。
プールに行ったときに濡れた衣服を入れたり、銭湯に行くときに脱いだ服を入れたり、子どもの着替えやおむつを入れたり、出先でごみ箱がないときにごみを持ち帰ったり、公園のベンチが濡れているときに下に敷いたり、子どもがダンゴムシを見つけて家で飼いたいと言いだしたときにダンゴムシを入れたり……。
ごみ袋は一枚五円ぐらいするので、スーパーで買い物をするときにレジ袋をもらうほうが安い。
というわけで、ぼくはレジ袋削減にはぜんぜん貢献していない。
レジ袋有料化ってほんとに環境問題に対して効果あるんだろうか。
いや、ないことはないとおもうんだけど。
どんなものだって廃棄量を増やすよりは減らすほうが地球にやさしいにきまってる。
でもどこまで効果あるんだろうか。
最近、大手飲食チェーンでいっせいにストローがなくなったけど、それも効果があるのか疑問だ(ちゃんと調べたわけじゃないから大きな声では言えないけれど)。
効果はゼロではないんだろうけど、どっちかっていったら気休め程度なんじゃないかとにらんでいる(くりかえしになるけど、ちゃんと調べたわけじゃないからね)。
ベルマーク集めや甲子園の応援と同じで、「結果ではなく取り組んだという姿勢こそが大事なのだ」というパフォーマンスなんじゃないのか。
ぼくが「レジ袋削減・ストロー削減」の効果に対して懐疑的なのは、もっと無駄だとおもうことがあるからだ。
たとえばコンビニだとペットボトル一本でもビニール袋に入れられるし(いりますかと訊いてくる店員もいるが)、パックの飲み物を買うと頼んでもないのにストローをつけてくる。
1000mlの牛乳パックを買っても長いストローがついてくる。あれに長いストロー刺して直接飲む人がそんなに多いとはおもえないのだが。
ほんとにレジ袋やストローが環境に良くないのであれば、もっとコンビニ大手に対して圧力をかけなきゃいけないんじゃなかろうか。
それがおこなわれていないのは、じつはたいした影響がないからなんじゃないだろうか。
あと、スーパーの傘袋も甚だ疑問だ。
近所のスーパーでは、レジ袋の代金として一枚二円をとるくせに、雨の日には入口に傘袋を吊るしている。
客はそれに傘を入れ、店を出るときにはぽいっと捨てる。
すごく無駄だ。
レジ袋はさまざまな用途に再利用されるが、傘袋は再利用されているようにはみえない(ぼくが知らないだけかもしれないけど)。
や、必要性はわかるんだけど。
店内が汚れたら清掃コストがかかるし、フロアが濡れて客が滑って怪我でもしたら店の責任も問われるかもしれないし。
でもなあ。
一分で出ていくような客でも傘袋を使うし。
かとおもうと傘袋を使おうとせずにびしょ濡れの傘で店内を濡らしまくる迷惑な客もいるし。
九割の客が傘袋を使っても、一割が使わなければあんまり意味がない。
レジ袋より先に傘袋減らせよ、とおもうんだよね。
とはいえ傘袋を有料にしたら誰も使わなくて店内がびちょびちょになっちゃうから、ああやって無料で置いとくしかないんだろうけど。
にしても無駄の多い仕組みだ。
店側がナイロンの傘袋でもつくって、再利用可にするとかどうでしょう。
店名をでっかく書いておけば持ってかえる人も少ないだろうし。
それでも持ちだして、そのへんに捨てるやつはけっこういるかな。
なにしろ日本人の約半数は民度が平均以下だからな(この「約半数は平均以下」はほぼなんにでもあてはまるので便利な言い回しだ)。
2019年6月17日月曜日
【読書感想文】登山のどろどろした楽しみ / 湊 かなえ『山女日記』
山女日記
湊 かなえ
登山をテーマにした連作短篇集(説明文には「連絡長篇」とあるがこれを長篇とはいわんだろ)。
上司と不倫をしている同僚といっしょに山に登ることになった、結婚を目前に迷いが生じているOL。
婚活パーティーで知り合った男性と山に登ることになった、バブルの香りを引きずった女。
一緒に登山をするもやはり価値観の違いから喧嘩になる姉妹。
どの話も主人公は女性だが、いわゆる「山ガール」の浮かれた感じとはほど遠い。年齢は三十~四十歳ぐらい。どの女もそれぞれに鬱屈たる思いを抱えている。
ぼくもときどき山登りをする。といっても1000メートルぐらいの山に日帰りで登るぐらい。ロープウェイを使うこともあるし、ハイキングの延長といった程度だ。
それでも登山中下山中はすごくしんどいし、頂上に達したときには喜びも味わえる。山登りの楽しさは一応知っているつもりだ。
友人と登ることが多いが、歩いている間はあまり話さない。しんどいのでそんな余裕がないからだ。
黙って足を動かしていると、いろんなことを考える。何年も前の情景がふっと浮かんできたり、過去の嫌な思い出がよみがえることもある。
苦しい思いをしながら思索にふけっていても、とても清々しい気持になんてならない。
「あのときああいえばよかったな」とか「もう気にしていないつもりだったけどやっぱりアイツ嫌いだわ」とか、わりとネガティブなことを考えているような気がする。
気がする、というのは後々まで覚えていないからだ。
山登りというさわやかなイメージとは裏腹に、登っている間はいろんなことに腹を立てている。でも登ったら忘れてしまう。
内なる「むかつく」をおもいっきり出せるのが山なのだ。
とことんまで自身の内面と向き合い、嫌なものを表に出す。
登山というのはアウトドアの代表のように扱われるけど、じつは内向的な行為なんじゃないかな。
サウナで脂汗をたっぷりと流すのに似ているかもしれない。身体的には健康によいのかもしれないが、精神的にはなんとなく不健康的な感じがするのもいっしょだ。
そんな登山のどろどろした楽しみを存分に描いている『山女日記』。
全篇最後は前向きなラストになっているのは好みではないが、「山登り中のいろんなことにむかつく心情」を思いださせてくれる、いい小説だった。
中でも印象に残ったのが『槍ヶ岳』という短篇。
ほんとにイヤなおばさんが出てくるのだが、「言動がいちいち癇に障るけど面と向かって指摘するほどではない」という絶妙なイヤさ。
いやあ、不愉快だ。はっはっは。
ぼくは不愉快な小説が好きなので、湊かなえ氏にはこういうのをもっと期待しちゃうな。山を登りきったときの晴れ晴れとした気持ちじゃなくて登る途中の悶々とした心情にスポットを当てた小説を。
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2019年6月14日金曜日
コンニチハ! スシ! テンプラ!
海外に行くとわりと経験することだとおもうが、日本人と知るとカタコトの日本語で話しかけてくる人がいる(おっさんが多い)。
ぼくも何度か経験したことがある。
中国の道端でおっさんに「どっから来た?」と訊かれ(もちろん中国語で)、日本人だと答えると
「コンニチハ! スシ! テンプラ!」
と笑顔で言われる。
めんどくせえなあ、伝えたいことがないなら無理してしゃべらなくていいんだよ、ほとんど日本語知らないくせに……。
とおもいながらもむやみに国際摩擦を引き起こしたくもないので
「あ、ああ。こんにちは。はは……」
みたいな愛想笑いでお茶を濁す。
話は変わって、こないだ道端で外国人のおばちゃんに英語で話しかけられた。
旅行パンフレットを見せられ、
「このホテルにはどうやって行くんですか?」
と訊かれた(英語に自信はないが、たぶんそんなことを言ってた)。
地図アプリで検索をしたら、歩いて五分ぐらいの場所にあるとわかった。
時間もあったので歩いて案内してあげることにした。
(わざわざ連れていってあげたのは親切だったからではなく英語で道を説明する自信がなかったからだ)
スーツケースを引きずったおばちゃんと並んで歩く。
流れる沈黙。
気まずい。
なにか話さないと。
なにしろ、この瞬間、このおばちゃんにとってはぼくが全日本人代表なのだ。
「日本人って不愛想で感じ悪いわね」とおもわれないよう、せいいっぱいおもてなししないと。
「Where are you from?」
持てる英語知識を総動員して、やっと絞りだした。
おばちゃんは答える。
「Thailand」
タイランド。
あー、タイね。はいはい、もちろん知ってるよ。
この後が続かない。タイって何があったっけ。
仏教国だよね。でも初対面で宗教の話って危険すぎるよね。
何年か前にクーデターがあったってニュースで観たな。
でも戦争の話もまずい。悲しませたり怒らせたりするかもしれない。
アジアで植民地にならなかったのは日本とタイだけ、って聞いたことあるけどそれを伝える英語力がない。
伝えたとて、だからなんだって話だしな。
タイの有名人って誰かいたっけ。ガンジーはインドだよね。
だめだ、ストリートファイターⅡのサガットしか出てこねえ。
![]() |
| タイを代表する人物 |
ぼくの頭の中にある「タイ」というラベルのついた引き出しを全力で探すのだが、いかんせん使える知識が出てこない。
引き出しの奥を探したら、あった! トムヤムクン!
そうだそうだ、トムヤムクンだ。
タイを代表する料理。世界三大スープのひとつ。
「トムヤムクン!」
と口にしようとして、すんでのところで思いとどまった。
これはあれだ。
日本人と知ったら「スシ! テンプラ!」と言ってくる外国のおっさんといっしょだ。
これをタイ人に言っても、得られるのは苦笑いだけだ。
そうかー。
日本人に「スシ! テンプラ!」と話しかけてくるおっさんってこういう気持ちなのかー。
乏しい知識の中でなんとか共通の話題をさがそうというホスピタリティから出ていた発言だったんだなー。
うっとうしいおっさんの気持ちが理解できた。
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