2019年6月19日水曜日

【読書感想文】げに恐ろしきは親子の縁 / 芦沢 央『悪いものが、来ませんように』

悪いものが、来ませんように

芦沢 央

内容(e-honより)
助産院に勤める紗英は、不妊と夫の浮気に悩んでいた。彼女の唯一の拠り所は、子供の頃から最も近しい存在の奈津子だった。そして育児中の奈津子も、母や夫、社会となじめず、紗英を心の支えにしていた。そんな2人の関係が恐ろしい事件を呼ぶ。紗英の夫が他殺死体として発見されたのだ。「犯人」は逮捕されるが、それをきっかけに2人の運命は大きく変わっていく。最後まで読んだらもう一度読み返したくなる傑作心理サスペンス!

嫌な小説だった。いい意味で。
読んでいる間ずっと嫌な気持ちになる。
なんでこいつはこれをしないんだよ、こいつほんと無神経で嫌なやつだな、こいつの言動いちいち癇に障るな。
登場人物がみんなじわっと嫌なやつ。わかりやすい悪人じゃなくて、無神経だったり小ずるかったり怠慢だったり。身の周りにいそうな嫌なやつ。というか自分の中にもひそむ嫌な部分。

己の嫌な部分をつきつけてくれるような小説がぼくは好きなんだよね。読んでいてむかむかするのが。

こういう些細なエピソードとか。
 きっかけは、互いに結婚してからもふた月に一回程度のペースで会い続けていた短大時代の友人、倫代からの年賀状だったと思う。
 たしかに紗英は、彼女からの年賀状を見るのが憂鬱だった。互いに子どもがおらず、会えば仕事の話と旦那への愚痴で盛り上がれていた倫代が、他のみんなと同じように母親になって関心の先を子どもに変えてしまうのは寂しくもあった。どうせ子どもの写真なのだろうと、紗英はどこか白けた思いで年賀状をめくった。だが、それは紗英のものと同じ干支を使った味気ないものだった。
 なんとなく、嫌な予感がした。口実を作って共通の友達に連絡をとり、どこか祈るような思いでかまをかけた。
 倫代からの年賀状、かわいいね。
 ほんと、ハルキくん、倫代によく似てるよね。
 返ってきた答えに、やっぱり、となぜか勝ち誇るような思いで考えた。やっぱり、そうだった。倫代は、子どもがいる友達には子どもの写真入りの年賀状を、使い分けていた。
 わたしだってそうじゃないか、と紗英は何度も自分に言い聞かせた。わたしだって、結婚していない友達には結婚の話はしにくいと思っている。気遣いというそぶりで、見下している。――こんな話をしたら自慢に聞こえてしまうかもしれない、傷つけたらかわいそう、と。
 だから、倫代のことをひどいと思うことなんかできないのだと、そう考えながら、倫代の年賀状を捨てていた。

子どものいない相手には子どもの写真を載せない年賀状を送る。
気遣いのつもりなんだろうけど、その奥には優越感がにじみでている。それが受け取り手にも伝わる。気づいたからといって「そういう気遣いはやめて」とは言えない。悪意があってやってるわけじゃないし。たぶん。悪意じゃないから余計にもどかしい。


ぼくも三十代半ばになって、いっしょに人生の道を歩いているとおもっていた友人たちがいつのまにか別の道を行っていることに気づくようになった。
高校時代の友人たちとしょっちゅう集まっていたけど、結婚している者と独身とにわかれる。結婚している者同士でも子どもがいる者といない者にわかれる。すると遊びに誘うのにも気を遣う。「あんまり誘ったら奥さんに悪いかな」「子連れで遊びに行くんだけど子どものいないやつはいづらくなるかも」と。
男同士でもそうなのだから、女同士だったらもっと顕著なのだろう。

女にとっての出産・育児は男よりもずっと大きなイベントだ。時間も体力もとられるし、出産・育児によって失うものも大きい。その代わり、得られる喜びもまた大きい(そうおもわないとやってられない)。
出産・育児を経験した女と、そうでない女はべつの生き物になってしまう。
また「望んで産んだ」「産んで後悔した」「産みたいけど産めない」「産みたいとおもわない」などいろんな事情あるので、それぞれがそれぞれに羨望や劣等感や憧れなど複雑な感情を抱くのだろう。男であるぼくが想像するよりずっと。



いわゆるイヤミス(イヤなミステリ)としてもおもしろかったが、純粋に小説としての完成度も高かった。

前半で丁寧に違和感をちりばめ、中盤で種明かしをして伏線を回収。これによって前半で語られた事実ががらりと様相を変えて見えてくる。そして後半でさらに話が二転三転。
母と娘の愛憎、いやまっすぐな愛情(ずいぶん歪んでるけど)を表現してみせる。

この愛情の表現がすごい。
愛情という名のケーキを天ぷらにして味噌とタルタルソースをつけて出してみました、みたいな感じ。幸せの象徴のようなケーキをゲテモノ料理にしてしまう。

この歪んだ愛情に支えられた関係は、母と娘じゃないと成立しない。
父と娘や母と息子なら、ここまでの憎しみと紙一重の愛情は生まれない。父と息子なら早い段階で衝突して壊れてしまう。
憎しみに近い感情を持ちながら離れることができない、ってのはやっぱり母と娘だからこそ保たれる関係なんだろうな。


瀧波ユカリさんの『ありがとうって言えたなら』というコミックエッセイを思いだした。
『ありがとうって言えたなら』には、死を前にしても娘に対して攻撃的にふるまう母親が描かれていた。
献身的に支えようとしているのに攻撃的な言葉を投げつけてくる母に対して、娘である瀧波さんは憤り、悲しみ、呆れ、哀れみ、戸惑う。
あれもやはり母と娘だからこその関係性だったのだろう。

そりのあわない友人なら付き合いを絶てる。夫婦でも別れられる。きょうだいでも大人になってしまえば距離をとれる。でも親子の場合はなかなかそうはいかない。
親子関係は一生ついてまわる。場合によってはどちらかが死んでも。
親子だから離れられない。離れられないから憎しみあう。

げに恐ろしきは親子の縁よのぅ。


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2019年6月18日火曜日

レジ袋と傘袋


レジ袋有料のスーパーマーケットが増えた。
どこもだいたい二円ぐらい。

ぼくはレジ袋をもらうことが多い。
買い物用のエコバッグを持っているにもかかわらず。
なぜなら、レジ袋がほしいからだ。

うちのマンションにはダストシュートがあって生ごみを投入することができるが、一辺三十センチメートルまでという制約がある。
ここに入れるのにスーパーのレジ袋がちょうどいいのだ。

他にも、レジ袋はいろんな場面で重宝する。
プールに行ったときに濡れた衣服を入れたり、銭湯に行くときに脱いだ服を入れたり、子どもの着替えやおむつを入れたり、出先でごみ箱がないときにごみを持ち帰ったり、公園のベンチが濡れているときに下に敷いたり、子どもがダンゴムシを見つけて家で飼いたいと言いだしたときにダンゴムシを入れたり……。

ごみ袋は一枚五円ぐらいするので、スーパーで買い物をするときにレジ袋をもらうほうが安い。

というわけで、ぼくはレジ袋削減にはぜんぜん貢献していない。



レジ袋有料化ってほんとに環境問題に対して効果あるんだろうか。

いや、ないことはないとおもうんだけど。
どんなものだって廃棄量を増やすよりは減らすほうが地球にやさしいにきまってる。
でもどこまで効果あるんだろうか。


最近、大手飲食チェーンでいっせいにストローがなくなったけど、それも効果があるのか疑問だ(ちゃんと調べたわけじゃないから大きな声では言えないけれど)。

効果はゼロではないんだろうけど、どっちかっていったら気休め程度なんじゃないかとにらんでいる(くりかえしになるけど、ちゃんと調べたわけじゃないからね)。

ベルマーク集めや甲子園の応援と同じで、「結果ではなく取り組んだという姿勢こそが大事なのだ」というパフォーマンスなんじゃないのか。



ぼくが「レジ袋削減・ストロー削減」の効果に対して懐疑的なのは、もっと無駄だとおもうことがあるからだ。

たとえばコンビニだとペットボトル一本でもビニール袋に入れられるし(いりますかと訊いてくる店員もいるが)、パックの飲み物を買うと頼んでもないのにストローをつけてくる。
1000mlの牛乳パックを買っても長いストローがついてくる。あれに長いストロー刺して直接飲む人がそんなに多いとはおもえないのだが。

ほんとにレジ袋やストローが環境に良くないのであれば、もっとコンビニ大手に対して圧力をかけなきゃいけないんじゃなかろうか。
それがおこなわれていないのは、じつはたいした影響がないからなんじゃないだろうか。


あと、スーパーの傘袋も甚だ疑問だ。

近所のスーパーでは、レジ袋の代金として一枚二円をとるくせに、雨の日には入口に傘袋を吊るしている。
客はそれに傘を入れ、店を出るときにはぽいっと捨てる。
すごく無駄だ。
レジ袋はさまざまな用途に再利用されるが、傘袋は再利用されているようにはみえない(ぼくが知らないだけかもしれないけど)。

や、必要性はわかるんだけど。
店内が汚れたら清掃コストがかかるし、フロアが濡れて客が滑って怪我でもしたら店の責任も問われるかもしれないし。

でもなあ。
一分で出ていくような客でも傘袋を使うし。
かとおもうと傘袋を使おうとせずにびしょ濡れの傘で店内を濡らしまくる迷惑な客もいるし。
九割の客が傘袋を使っても、一割が使わなければあんまり意味がない。

レジ袋より先に傘袋減らせよ、とおもうんだよね。
とはいえ傘袋を有料にしたら誰も使わなくて店内がびちょびちょになっちゃうから、ああやって無料で置いとくしかないんだろうけど。
にしても無駄の多い仕組みだ。


店側がナイロンの傘袋でもつくって、再利用可にするとかどうでしょう。
店名をでっかく書いておけば持ってかえる人も少ないだろうし。
それでも持ちだして、そのへんに捨てるやつはけっこういるかな。

なにしろ日本人の約半数は民度が平均以下だからな(この「約半数は平均以下」はほぼなんにでもあてはまるので便利な言い回しだ)。


2019年6月17日月曜日

【読書感想文】登山のどろどろした楽しみ / 湊 かなえ『山女日記』

山女日記

湊 かなえ 

内容(Amazonより)
こんなはずでなかった結婚。捨て去れない華やいだ過去。拭いきれない姉への劣等感。夫から切り出された別離。いつの間にか心が離れた恋人。…真面目に、正直に、懸命に生きてきた。なのに、なぜ?誰にも言えない思いを抱え、山を登る彼女たちは、やがて自分なりの小さな光を見いだしていく。新しい景色が背中を押してくれる、感動の連作長篇。

登山をテーマにした連作短篇集(説明文には「連絡長篇」とあるがこれを長篇とはいわんだろ)。

上司と不倫をしている同僚といっしょに山に登ることになった、結婚を目前に迷いが生じているOL。
婚活パーティーで知り合った男性と山に登ることになった、バブルの香りを引きずった女。
一緒に登山をするもやはり価値観の違いから喧嘩になる姉妹。

どの話も主人公は女性だが、いわゆる「山ガール」の浮かれた感じとはほど遠い。年齢は三十~四十歳ぐらい。どの女もそれぞれに鬱屈たる思いを抱えている。
 姉と二人で歩いた時は、私は姉に独身でいることや経済的に不安定な生活を送っていることを責められるのではないかとモヤモヤした気分を抱えていたし、姉は自身の離婚問題について深く悩んでいた。それぞれの答えを探すような思いで急坂ばかりが続く山道を歩いていたのだ。大雨の中を。
 山は考え事をするのにちょうどいい。同行者がいても、一列で黙って歩いていると、自分の世界に入り込む。そこで自然と頭の中に浮き上がってくるのは、その時に心の大半を占めている問題だ。自分の足で一歩一歩進んでいると、人生だって、自分の足で進んでいかなければならないものだと、日常生活の中では目を逸らしていた問題についても、まっすぐ向き合わなければならないような気がしてくる。頂上までこの足で辿り着けたら、胸の内にも光は差してくるのではないかという期待が背中を押してくれる。そうやって、己と向き合いながら歩くのが登山だと思っていた。
ぼくもときどき山登りをする。といっても1000メートルぐらいの山に日帰りで登るぐらい。ロープウェイを使うこともあるし、ハイキングの延長といった程度だ。
それでも登山中下山中はすごくしんどいし、頂上に達したときには喜びも味わえる。山登りの楽しさは一応知っているつもりだ。

友人と登ることが多いが、歩いている間はあまり話さない。しんどいのでそんな余裕がないからだ。
黙って足を動かしていると、いろんなことを考える。何年も前の情景がふっと浮かんできたり、過去の嫌な思い出がよみがえることもある。
苦しい思いをしながら思索にふけっていても、とても清々しい気持になんてならない。
「あのときああいえばよかったな」とか「もう気にしていないつもりだったけどやっぱりアイツ嫌いだわ」とか、わりとネガティブなことを考えているような気がする。
気がする、というのは後々まで覚えていないからだ。
山登りというさわやかなイメージとは裏腹に、登っている間はいろんなことに腹を立てている。でも登ったら忘れてしまう。
内なる「むかつく」をおもいっきり出せるのが山なのだ。

とことんまで自身の内面と向き合い、嫌なものを表に出す。
登山というのはアウトドアの代表のように扱われるけど、じつは内向的な行為なんじゃないかな。
サウナで脂汗をたっぷりと流すのに似ているかもしれない。身体的には健康によいのかもしれないが、精神的にはなんとなく不健康的な感じがするのもいっしょだ。



そんな登山のどろどろした楽しみを存分に描いている『山女日記』。
全篇最後は前向きなラストになっているのは好みではないが、「山登り中のいろんなことにむかつく心情」を思いださせてくれる、いい小説だった。

中でも印象に残ったのが『槍ヶ岳』という短篇。
ほんとにイヤなおばさんが出てくるのだが、「言動がいちいち癇に障るけど面と向かって指摘するほどではない」という絶妙なイヤさ。
いやあ、不愉快だ。はっはっは。

ぼくは不愉快な小説が好きなので、湊かなえ氏にはこういうのをもっと期待しちゃうな。山を登りきったときの晴れ晴れとした気持ちじゃなくて登る途中の悶々とした心情にスポットを当てた小説を。


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2019年6月14日金曜日

コンニチハ! スシ! テンプラ!


海外に行くとわりと経験することだとおもうが、日本人と知るとカタコトの日本語で話しかけてくる人がいる(おっさんが多い)。

ぼくも何度か経験したことがある。
中国の道端でおっさんに「どっから来た?」と訊かれ(もちろん中国語で)、日本人だと答えると
コンニチハ! スシ! テンプラ!
と笑顔で言われる。

めんどくせえなあ、伝えたいことがないなら無理してしゃべらなくていいんだよ、ほとんど日本語知らないくせに……。

とおもいながらもむやみに国際摩擦を引き起こしたくもないので
「あ、ああ。こんにちは。はは……」
みたいな愛想笑いでお茶を濁す。



話は変わって、こないだ道端で外国人のおばちゃんに英語で話しかけられた。

旅行パンフレットを見せられ、
「このホテルにはどうやって行くんですか?」
と訊かれた(英語に自信はないが、たぶんそんなことを言ってた)。

地図アプリで検索をしたら、歩いて五分ぐらいの場所にあるとわかった。
時間もあったので歩いて案内してあげることにした。
(わざわざ連れていってあげたのは親切だったからではなく英語で道を説明する自信がなかったからだ)

スーツケースを引きずったおばちゃんと並んで歩く。
流れる沈黙。
気まずい。

なにか話さないと。
なにしろ、この瞬間、このおばちゃんにとってはぼくが全日本人代表なのだ。
「日本人って不愛想で感じ悪いわね」とおもわれないよう、せいいっぱいおもてなししないと。

「Where are you from?」

持てる英語知識を総動員して、やっと絞りだした。

おばちゃんは答える。
「Thailand」

タイランド。
あー、タイね。はいはい、もちろん知ってるよ。

この後が続かない。タイって何があったっけ

仏教国だよね。でも初対面で宗教の話って危険すぎるよね。

何年か前にクーデターがあったってニュースで観たな。
でも戦争の話もまずい。悲しませたり怒らせたりするかもしれない。

アジアで植民地にならなかったのは日本とタイだけ、って聞いたことあるけどそれを伝える英語力がない。
伝えたとて、だからなんだって話だしな。

タイの有名人って誰かいたっけ。ガンジーはインドだよね。

だめだ、ストリートファイターⅡのサガットしか出てこねえ。

タイを代表する人物

ぼくの頭の中にある「タイ」というラベルのついた引き出しを全力で探すのだが、いかんせん使える知識が出てこない。

引き出しの奥を探したら、あった! トムヤムクン

そうだそうだ、トムヤムクンだ。
タイを代表する料理。世界三大スープのひとつ。

「トムヤムクン!」
と口にしようとして、すんでのところで思いとどまった。

これはあれだ。
日本人と知ったら「スシ! テンプラ!」と言ってくる外国のおっさんといっしょだ。

これをタイ人に言っても、得られるのは苦笑いだけだ。


そうかー。
日本人に「スシ! テンプラ!」と話しかけてくるおっさんってこういう気持ちなのかー。

乏しい知識の中でなんとか共通の話題をさがそうというホスピタリティから出ていた発言だったんだなー。

うっとうしいおっさんの気持ちが理解できた。

2019年6月13日木曜日

【読書感想文】なによりも不自由な職業 / 立川 談四楼『シャレのち曇り』

シャレのち曇り

立川 談四楼

内容(e-honより)
落語家になるため弟子入り志願した若者(のちの談四楼)に、憧れの立川談志が告げたのは「やめとけ」の一言だった。―なんとか入門を許されるも、「俺と仕事とどっちが大事だ!」と無理難題に振り回される談四楼。恋に悩み、売れないことに焦燥し、好敵手と切磋琢磨する中で、ついに真打昇進試験が…。しかしそれは、落語界を震撼させる一大事件の始まりに過ぎなかった。師弟の情を笑いと涙で描く傑作小説。

立川談志氏の弟子であった立川談四楼氏による自伝的小説。

おもしろく読めたが、時系列がばらばらで読みにくいこと甚だしい。
いきなり時代が飛んだりさかのぼったりするので、読んでいて「えっ、あの話はどうなったの?」と混乱する。
発表時期がばらばらだったかららしいけど、一冊の本にするときになんとかできなかったものか。これはちょっとひどいぜ。編集者仕事しろ。

話にまとまりがないのは落語的といえるかもしれないけどね。ストーリーに一貫性のない噺ってけっこう多いし。
上方落語の噺だけど、『こぶ弁慶』なんかその典型だよね。前半と後半でまったく別の噺になるからね。登場人物も入れ替わっちゃう。



個々のエピソードは読みごたえがあった。
特に立川談志一門の落語協会脱退のくだりはおもしろい。

上方落語派のぼくにとって立川談志という噺家は
「偉そうにふんぞりかえっていてなんか嫌い(『M-1グランプリ2002』の審査員の印象がひどすぎて)」「落語はすごいらしい」
というぐらいのイメージしかなかった。
一度CDを聴いたことがあるが、江戸っ子訛りがどうも聞きづらく途中でやめてしまった。

しかしこの本に出てくる立川談志は、人間性の良し悪しはべつにして、ずいぶん弟子思いのいい師匠である。
「何だとゥ、独演会ィ?」
 寸志がその見幕に思わず謝ろうとするよりも早く、談志は一気に続けた。
「やれやれィ、やらなきゃしゃあねェ。独演会が打てる、つまり客が呼べる芸人だけが一人前というこった。それが俺の認識だ。前座だろうが二ツ目だろうが構うこたねェ、遠慮は要らねえから派手にやれ。だいたいなあ、俺の他に独演会を打てる落語家が何人いるってんだ、いやしねえだろ。何にも行動を起こさねえで、ただ居心地がいいというだけで寄席に安住してやがる。こんなに客が減ったのもみんなそいつらのせいなんだ。やれやれ、どんどんやれ。ただ、ひとつだけ言っておく。ネタだけはキッチリしたものをやれよ、前座噺で逃げようなんて思うな。で、いつやるんだ、木戸銭はいくらだ、客は何人呼ぶつもりだ、ゲストは誰なんだ、俺が要るのか要らねえのか……」と、それはもう矢継早に言った。
「お願いします、是非出て下さい。十月の三十一日です」
 寸志がやっとの思いで伝えると、「よし、事務所へ電話してみろ。空いてたら行ってやる」
「ハイ、その日は何もありません。空いてます」
「そうか、そこまで調べがついてるんじゃ仕方がねえな。じゃ、行ってやる。おめえの会に俺が出るなんてもったいねえぐらいのもんだ」
弟子の書いたものだから美化されている部分はあるだろうが、それにしても気風がいい。
落語協会を飛びだしたのも「弟子が真打昇進試験に落とされたことに納得できず」だというのがかっこいい。
事あるごとに「おまえらはおれの弟子なんだから腕はある」と口にするところ、ここぞという局面では現状に甘んじている弟子を厳しく叱りつける姿など、いやいい師匠だなと感心するばかり。
金に汚いところは江戸っ子っぽくないが、独自流派を立ち上げて弟子たちを食わせていかなければならないというプレッシャーがあっただろうことを考えると、それもやむなしとおもえる。
ビートたけし、高田文夫、横山ノック、上岡龍太郎など著名人を弟子として高座に上げて客寄せに利用したところなど、ずいぶん商才もあったんだなと感心する。

この本を読んで、「傲慢な天才」という談志のイメージは大きく変わった。
繊細で、周囲の人間をよく見ていた人だったのだろう。
考えてみれば当然の話で、人間観察に長けているからこそ噺家として大成したんだろうね。



印象に残るのは、真田家六の輔のエピソード。
真田家六の輔という名前の落語家は存在しないので著者が創作した人物なのだが、そのエピソードがあまりに生々しいのできっとモデルとなる人物がいたのだろうと想像する。

苦労人である師匠をもった六の輔。師匠は芸はうまいが気が弱く、そのせいで落語協会の中でも不遇の扱いを受けていた。
だが真打昇進試験で落とされた談四楼の師匠(談志)が落語協会を飛びだしたのとは対照的に、六の輔の師匠は「こらえろ」という。協会に対しての不満は多いはずなのにそれをひた隠し、弟子にまで不遇を強いる師匠に絶望する六の輔は、自由に見える談志一門の談四楼がうらやましくてたまらない。
だが不満や嫉妬を表には出さない六の輔はやがて酒におぼれてゆき、身体を壊すまでに……。

長くないエピソードだが、落語家という商売の業がぎゅっと凝縮されたような話だ。
ひょうきん、お気楽、自由闊達であることを求められながら、一方で伝統、師弟制度、閉鎖された組織という環境に身を置かなければならない落語家。
不満を感じながらも、表には出せない。ずいぶん因果な商売だ。

噺家という人種は自由に見えて、何よりも不自由な職業なのかもしれないな。


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