2019年2月15日金曜日

洞口さんじゃがいもをむく


じゃあじゃがいもの皮をむく仕事でもすっかってことで応募即採用。世にじゃがいものむき手は足りていないらしい。

あたしのほかに七人のおばちゃんがいて、八人で理科実験室にあったような大机ひとつを囲んでじゃがいもをむく。
特にノルマとかはなくて、おしゃべりをしながら皮をむいてゆく。むいた皮をどんどん床に捨ててゆくのが愉しい。床にごみを落としちゃだめって言われて育ってきたから、ぽいぽいごみを投げていいってのが新鮮。
足もとが冷えることを除けばいい職場。こたつに入ってやったら最高なんだけどな。でもそうすると布団が汚れるから皮を放りなげるわけにいかないもんな。あと眠っちゃうし。

おばちゃん七人衆は圧倒的に速い。年の甲っていうと怒られそうだから経験年数の差っていっておくけど、巧みに包丁を使ってすらすらむいていく。バナナの皮をむくぐらいのスピード。あんなに鮮やかにむかれたら、むかれてる側のじゃがいもだって気持ちよかろうってなもんよ。

それに比べたらあたしはぜんぜん。おばちゃんが五個むいてるうちにやっと一個むくぐらい。
気のいいおばちゃんたちだから誰も責めるようなことは言わないけど、自分の皮むき偏差値三十五ぐらいなのは自分がいちばんよくわかるから、足引っぱって申し訳ない気持ちになる。
なんとかならんもんかねってワカさんに相談したらピーラー使えばいいじゃんってあっさり名回答。はっはーんこれができるホモサピエンスってやつか。ツールで解決。
あたしなんかピーラーって言葉すら知らなくて、皮むき器って言われてようやっと形状思いえがけたぐらいだからその差たるや。

ということで百均に行ってピーラー購入。
ピーラーだけ買うのもなんか恥ずかしかったからミルク味の飴ちゃんもいっしょに購入。七人のおばちゃんに貢ぐ用。

しかしまさかピーラーが職場の断絶を生むなんてね。
あたしが持ってきたピーラーを見ておっそれいいじゃんあたしも使おう派ともう慣れちゃったし包丁のほうが早いよ派にすっぱり分かれてたちまち勢力は四対四。
さらにピーラー使おう派も、百均のじゃものたりないからいいやつ買おう派と自腹切ってまで高いピーラー買うほどじゃないよ百均で十分よね派で二対二に分裂した(あたしは百均派)。
まだ分かれるのかなとおもったけど二対二になるとそれ以上は分裂しなかった。二人以上いないと派閥にはならないんだな。

べつに派閥ができたからっていがみあったり敵陣営に火矢を投げこんだりとかするわけじゃないんだけど、ツールが変わったことでなんとなく溝ができたような気がする。
あれ、なんかひび入ってない? 気のせいかとおもったけど、前は日によってばらばらだった座る場所も包丁派は包丁派、高級ピーラーは高級ピーラーで固まって座ることが多くなった。知らず知らずのうちに断絶が生じているのだ。

責任を感じた。
あたしが直接七人の中を切り裂いたわけじゃないけどあたしのピーラーが切り裂いたのだ。いや、ピーラーだから七人の仲をむいたというべきか。
なんておそろしいものを生みだしてしまったんだろう。原爆開発のマンハッタン計画に参加した科学者たちの気持ちが痛いほどわかる。

この状況を打破するアイテムはないかとリュックの中をほじくりかえしてみた。ツールにはツール。
ミルク飴が出てきた。おお。百均で買ったのを忘れていた。
ミルク飴をおばちゃん七人衆の口に押しこむとあらふしぎ。なんとなく顔が柔和になって以前のようにおばちゃん間の会話がはずみはじめたじゃないか。

やっぱりミルクよね。ミルク最強。マンハッタン計画、ミルクの前に敗れたり。

まあこのミルク飴のせいでその数週間後におばちゃんのトイレ立てこもり事件が起きるわけだけど、それはまたべつのお話。

2019年2月13日水曜日

【読書感想文】構想は壮大なんだけど / 北森 鴻『共犯マジック』

共犯マジック

北森 鴻

内容(e-honより)
人の不幸のみを予言する謎の占い書「フォーチュンブック」。偶然入手した七人の男女は、運命の黒い糸に絡めとられたかのように、それぞれの犯罪に手を染める。錯綜する物語は、やがて驚愕の最終話へ。連作ミステリーの到達点を示す傑作長篇。
(ネタバレあり)

学生闘争、ホテルニュージャパン火災、帝銀事件、三億円事件、グリコ・森永事件といった昭和を騒がせた事件を縦軸に、「フォーチュンブック」という人の不幸を予言する本を横軸に組み合わせた連作短篇ミステリ。

うーん……。
やりたかったことはわかるんだけど、壮大なスケールに作者自身がついていけなかったという感じがする。

たしかにスケールが大きい割に構成は緻密なんだけど、作者の自己満足感が強すぎる。


よくがんばったな、とは思うんだけどね。がんばって風呂敷広げたな。くちゃくちゃだけど一応畳んでるしな。よくやった。
だけどおもしろさとはまた別。
いろんな事件を放りこみすぎて無理だらけになっている。世間狭すぎるし。
三億円事件の犯人とグリコ・森永事件の犯人が同一人物とかね。嘘が過ぎる!

最後のほうに「なんとこれが三億円事件なんです! どやっ!」みたいな種明かしがあるんだけど、昭和の事件を扱っていってたら三億円事件が出てくるのは容易に想像がつくので「やっぱりね」としか思えない。意外性ゼロ。むしろ出てこないほうが驚く。

陳 浩基『13・67』は香港で実際にあった出来事をたくさん盛りこんでいるけど、それはあくまで舞台背景であって本題ではないしな。
実在の事件を複数盛りこむってのはとっちらかるだけでいいことないよ。ほら、三谷幸喜脚本ドラマ『わが家の歴史』もクソつまらなかったじゃない。



そして登場人物たちをつなぐ「フォーチュンブック」という本なんだけど……。これ、いる?
べつになくてもよかったんじゃないかね。
「あいつの死はフォーチュンブックに予言されてた」みたいな描写は多々あるけど、「フォーチュンブックがあったせいで〇〇が起きた」みたいなのはほとんどないし(一話目ぐらいかな)。
なくても十分成立したと思うんだけど。
この小道具がなかったら嘘っぽさもいくらか軽減されてたんじゃないかな。
そしてこのタイトル。『共犯マジック』って……。
は? どういうこと?
全部読んでもまったくぴんとこない。タイトルはわりとどうでもいいと思っている派だけど、それにしてもこれはあってなさすぎじゃない?



いろいろ辛辣なことを書いたけど、点数をつけるとしたら百点満点で六十点ぐらい。決して悪い作品ではなかった。
だからこそいろいろ言いたくなるんだよなあ。せっかくの大がかりな構想なんだから、もっとうまく料理できたんじゃないかって。

【関連記事】

【読書感想】陳 浩基『13・67』



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2019年2月12日火曜日

洞口さんとねずみの島


あれはあたしが船乗りのバイトをしてたとき。
時給の高さに釣られて応募してその場で採用されたものの海賊が着てるような派手なシマシマの服は自分で用意してくださいって時点でちょっとあやしいなーと思ってたら案の定メンテのゆきとどいてない船に乗せられて、たちまち沈没。

幸いにしておっぱい(推定Bカップ)みたいな島が見えたからみんなしてそこまで泳ぐことになった。
バイト初日にして知らない人といっしょに泳ぐのやだな、気まずいなーとおもいながら背泳ぎ。
なんで背泳ぎなんだよって声が聞こえたけど、しょうがないじゃんあたし息つぎできないんだから。本人に聞こえるか聞こえないかぐらいの声で言われるのがいちばん嫌なんだよなーと思いながらぐいぐい泳いでたら、あれこれけっこう気持ちいいかもって。
あたし意外と泳ぐのうまくない? 体育の授業のときは沈まないようにするので必死だったのになんで今はこんなにふかふか浮くんだろうっておもって、あそうか海水だからかって気づいた。塩水だから真水よりちょっと重くて、その分身体が浮きやすいんだ。なんかのマンガに描いてたわ。マンガ勉強になるなーって調子に乗ってたら、気づくと誰もいない。

わすれてた。
あたしの背泳ぎは左に左に傾くんだった。いっつもプールのときはレーンを仕切るロープにぶつかってたんだった。隣のレーンを泳ぐミキモトのどてっぱらにつっこんでいって猛禽類みたいな目で睨まれたこともあった。それをわすれてた。や、ミキモトの一件についてはわすれてしまったほうがいいんだけど。

まずいよバイト初日なのにはぐれ狼じゃんってあわてたけど、しかし「待ってください」とも言いづらいよな新人なのに、っておもってたらこっちのほうにもちっちゃな島があることに気づいた。
よし、とりあえずこっちに上陸しよう。そのあと先輩方のいるほうをめざそうってことでちっちゃい島に上陸。おもってたよりだいぶ左の海岸にたどりついた。

泳いでいる間は、あとでBカップ島をめざそうとおもってたのに、陸地に上がってみたら急速にめんどくささがMAX値に。
ずっと前に砂漠をさまよったときにオアシスにたどりついたとたんにもう二度とラクダに乗りたくないって気持ちになったことがあるんだけど、そのときと同じ気持ちっていえばわかってもらえるかな?
いっぺん陸に上がっちゃうとまた海に飛びこみたくなくなるんだよね。陸って偉大。やっぱりあたしって陸棲生物なんだなーってあらためて実感。大地を褒めよ讃えよ土を。

海岸であたしが大地讃頌(アルトパート)を熱唱してたらなんかちょろちょろ動いてる。ねずみだ。それも一匹二匹じゃない。百匹はいた。
ひっと声が出た。べつにこれまでねずみに悪い感情は持ってなかったしどっちかっていったら入浴剤と同じくらいの好き度でいたんだけどね。
かわいくないんだ、ねずみが。ねずみってかわいいかとおもってたらウォルト・ディズニーにだまされてただけか。

あたしが泳ぎついたのはねずみの島だった。ねずみが文明を営んでる原始共産主義国家。

はじめはあたしという巨大生物を遠巻きに見ていたねずみたちだったけど、すぐに食べ物を持ってきてくれるようになった。
ねずみの言葉はわからないから想像でしかないけど、神仏に対するお供えものみたいな行為だとおもう。
なんか知らないけどばかでかいやつが海の向こうからやってきた、なにをするでもないけど下手に刺激したらまずそうだ、ままここはひとつ穏便に。てなかんじで、いちごやブルーベリーやラズベリーを持ってきてくれる。ありがたいけどベリーばっかりじゃん。しかも天然種。口すっぱくなるわ。

ねずみの言葉はわからないといったけど、あたしのおもってることはねずみ側にはなんとなく伝わる。
腹へったとか眠いとかひとりにさせてくれとかそういった程度のことなら身ぶり手ぶりでなんとなく伝えられる。
ねずみ側もジェスチャーでなにやら伝えようとしてきてたけど、あたしのほうはねずみのいいたいことがちっともわからないのであきらめたようだ。
だってあたし目悪いし。背泳ぎしてるあいだにコンタクトが波に呑まれていったし。ねずみの表情なんかちっとも読みとれない。

ねずみたちの粋な計らいによって衣食住には困ることなく、あとは名声だけよねーとあぐらをかいていたら、反乱は突然やってきた。
起きたら大量のねずみにとり囲まれてた。眼の悪いあたしでもねずみたちの眼が怒りに満ちていることだけはわかる。なんでなんでとおもったけど、でもまあそうか。ねずみからしたら食糧をあたしにぶんどられてるような気分だったんだろうね。税の怒りはおそろしい。あたしも以前は納税者だったからその気持ちはわからんでもない。

クーデターってほどでもないけど、怒れる納税者たちに囲まれて居座るほどあたしの神経は図太くない。
っちゅーわけで(ネズミだけに)ねずみの島からあたしは逃げだした。もちろん背泳ぎで。

きっとこれから突然島に姿をあらわした怪物を撃退した話として『シン・ゴジラ』みたいにねずみの国に語りつがれるんだろうなーと思いながら。

この後あたしは芋を掘りすぎてえらい人の怒りを買うことになるんだけど、それはまた別のお話。

2019年2月10日日曜日

ものを独占する子にいちばん効果的な方法


五歳の娘のともだちにNちゃんという子がいる。
Nちゃん、ふだんは引っ込み思案な子なのだけれど、他の子と意見がぶつかったときにぜったいに引きさがらない。

たとえば公園のブランコを取り合いになったとき。
Nちゃんはぜったいに引かない。
周りの子どもや大人が
「先に〇〇ちゃんが使ってたから後でね」とか
「じゃあじゃんけんで決めよう」とか言っても、Nちゃんは耳を貸さない。
「Nちゃんが使う!」の一点張り。ブランコを握ったまま意地でも離さない(Nちゃんは身体も大きいので力も強い)。
たまにじゃんけんに応じることもあるが、じゃんけんに負けても泣いてブランコを離さない。

まあそういう子はめずらしくない。ぼくが子どものときにもいた。
きっと大事に育てられているのだろう。
困った子だとはおもうが、よその子のことなので放っておく。

問題は、うちの娘が真正面からぶつかることだ。


Nちゃんがブランコを力づくで独占すると、娘はNちゃんを説得しようとする。
「交代で使ったらいいでしょ」とか「じゃんけんで決めたらいいじゃない」とか。

はっきりいって、ルールを守れない子に対して「説得」はいいやり方じゃない。

二歳ぐらいならいざしらず、五歳なら「公園の遊具をひとりじめしてはいけない」ことぐらいわかっている。
わかっていて逸脱しているのだから、いくら正論でルールを説いたって無駄だ。泣いて抗議をするなんて、わがままな子を喜ばすだけだ。
痴漢に「痴漢、アカン!」というのと同じぐらい無意味だ。


ものを独占する子にいちばん効果的なのは放っておくことだ。
「あっそう。じゃあひとりでブランコ使ったらいいよ。その間にみんなであっちでおにごっこしよう!」
とするのが最適な方法だ。
ルールを守ろうとしない子の相手に時間を費やすなど、人生の浪費でしかない。

「ゆずりあわないと仲間はずれにされる」ということを経験しないとNちゃんのような子はゆずらない。
「我を通してばかりだと長期的にはかえって損をする」ことを学ぶのはNちゃんのためにもなるはず。

だからぼくは「もういいじゃない。あっちでブランコよりおもしろい遊びしよう」と言うのだが、娘も強情なので「いや、先にブランコ使う!」と泣きだしてそこから一歩も動こうとしない。

「困った人は放置がいちばん」ということを教えてあげたいのだが、どうもうまくいかない。
困ったものだ。



子どもの正義感に対して大人はどう対処するのか、いつも困ってしまう。

さっきのブランコの件に関しても、できることなら「Nちゃん、順番に使おうね」と言って、Nちゃんが他の子にゆずるのがいちばんいい。
えほんの中ならそれが「もっとも正しい」回答だろう。

だが残念ながら現実の世の中は「いちばん正しいやり方」と「いちばんうまくいくやり方」はイコールではない。

女の子に特に多いようにおもうが、うちの娘もいい子であろうとするあまり他人の不正が許せないことがよくある。

赤信号なのに横断歩道を渡る人やたばこのポイ捨てをする人を見て「だめなんでしょ?」とぼくに問いかける。
ぼくは答えに窮してしまう。
そう、だめなんだよ。だめなんだけどね……。世の中は、言って分かってくれる人ばかりじゃないんだよね……。

2019年2月9日土曜日

誰にでもできる仕事


テレビでやっていたのだが、「昔はボウリング場で人がピンを並べていた」のだそうだ。
テレビでは当時の映像が流れていたが、レーンの向こう側に人がいて、一投ごとに倒れたピンをセットしなおしていたそうだ。


高速道路に乗った。
料金所の様子は昔とすっかり様変わりしている。大半の車がETCカードを搭載しているので、ほとんどがETC専用レーンだ。
昔はいた「料金所のおじさん」は絶滅寸前になっている。



便利な世の中になることは、労働者の立場からすると苦しいことかもしれない。

こういっちゃ悪いが、ボウリング場でピンを並べるのも、料金所で通行料を受け取るのも、かんたんな仕事だ。たぶん。
いや、楽だという意味ではない。どんな仕事でもそれなりの苦労はあるだろう。レーンの奥の狭いところに身をひそめてボールが転がってくるのを待つのはたいへんそうだ。事故も多かったんじゃないかな。

でもボウリング場のピン並べに特別な技能は要しない。
たぶん新人が入ってきても
「向こうからボールが飛んでくるから。その間はじゃまにならないように気をつけて。で、ピンが全部倒れたらこうやって十本並べなおす。そしたらまた待機。それだけ。詰まったとかトラブルがあったらでかい声で呼んで」
ぐらいの説明で、あっという間に一人前の労働者になっていただろう。研修五分。

昔の小説や映画を見ていると、コピーをとるとか、電卓を叩いて合計を出すとか、造花にピンをつける内職とか、「かんたんそうな仕事」が出てくる。
今はそんな仕事はほとんど絶滅した。
単調で賃金の安い仕事を人間がしなくて済むようになったのだ。

でもそれって幸せなことなんだろうか。



世の中はすごく便利になったけど、人間はすごく優秀になったわけではない(劣化しているという人もいるがぼくはそうはおもわない)。

むずかしい作業が苦手な人はいつの時代も一定数存在する。
ものおぼえが悪い人、計算ができない人、ものを知らない人、一度にたくさんのことをできない人、人付き合いが苦手な人、不器用な人、身体の弱い人。

誰にでもできる仕事といったら言いすぎだけど、「世の中の八割ぐらいの人ができる仕事」がどんどんなくなっていっている。

よくわかってない人が「仕事なんて選ばなければコンビニでも介護の仕事でもやって食っていける」なんてしたり顔で言うが、コンビニ店員も介護職も技能職だ(どっちもやったことないけど)。
おぼえることが多かったり体力を必要としたり。少なくとも「誰にでもできる仕事」ではない。
「明日一日だけボウリングのピン並べる仕事やってください」と言われたらそれなりにこなせるだろうけど、未経験者が「一日コンビニバイト」になってもまったく戦力にならないどころか足手まといになるだけだろう。

かんたんな仕事は減り、技能や知識や体力を要する仕事の割合が増えた。
その分人々が仕事をしなくて済むようになっていたらよかったんだけど、残念ながら21世紀になってもほとんどの人は働かなければ食っていけない。

「バカでも不器用でも人付き合いが苦手でもまじめにこつこつ働いていればそれなりの暮らしができる」という時代は過去のものになり、むずかしい仕事をできない人の居場所がなくなってしまった。

誰が悪いというわけじゃないんだけど、どうも理不尽さを感じてしまう。