2018年10月22日月曜日

国民の皆様にお詫び申しあげます


まず、国民の皆様にお詫び申しあげます。
日本代表に選出していただいて、日の丸を背負ってオリンピックという舞台に立たせてしまったにもかかわらず、このような事態になってしまいなんとお詫びを申しあげてよいのやら……。

いえ、すべて私の責任です。自己管理もマラソン選手として重要な仕事です。それを怠ってしまったのですから弁解のしようもありません。


まず、シューズを忘れてしまったことについてですが……。
現地までは持っていっていたんですね。大事なものだからぜったいに忘れてはいけないと思い、前の晩、枕元に置いていたんです。そしたらそのまま忘れてしまいました。ふだんとちがうことをしないほうがいいですね。
気づいたのは出走十五分前でした。サンダルで現地に行って、さあ軽くウォーミングアップでもしようかと思ったところでシューズがないことに気がつきました。今から宿舎に取りにいってもまにあいません。
仕方なく、コーチのシューズを借りました。いえ、それは大丈夫です、ナイキのやつでしたから。
ただサイズがあわなかったんですね。コーチの足は私より1.0センチ大きいので。
九回もシューズが脱げたのはそのせいです。はい、すべて私の不注意によるものです。


それから公式のユニフォームを着ていなかったことについてですが……。
前の晩、ユニフォームを洗濯したんですね。大事な大会だからきれいなユニフォームで走らなきゃと思って。しかし洗濯機を回して、そのまま寝てしまったのです。
翌朝、洗濯機の中でびしょびしょになっているユニフォームを発見しました。今から干す時間はありません。
そこで練習用のウインドブレーカーを着て出走することにしました。幸い、ルール上はゼッケンさえつけていれば問題ないとのことだったので。
はい、とても暑かったです。通気性最悪なので。ウインドブレーカーですから。しかし早めに洗濯をしておかなかった自分の責任なので甘んじて受け入れるしかないと思ってそのまま走りました。


はあ。走りながら九回吐いてしまったことについてですか。
申し訳ございません、見苦しい姿を見せてしまって。
あれはですね、朝食を食べすぎたのが原因です。宿舎の朝食がビュッフェ形式だったのでついテンションが上がってしまって……。
洋食にするか和食で攻めるか迷ったんですが、どうせ同じ料金なら両方いってしまえと思ってクロワッサンとフレンチトーストとベーコンエッグとごはんと味噌汁と納豆と塩鮭とゆで卵を食べてしまったのです。今考えると、最後のゆで卵は余計でしたね。フレンチトーストとベーコンエッグで卵を摂取してますから。
いえ、トレーナーの責任ではありません。最終的に食べるという判断をしたのは私ですから、すべて私の責任です。


いえ、コーチに責任はありません。
九回道をまちがえてしまったことも、ハーフマラソンのペースで走って後半のペースがガタ落ちしたことも、事前の確認を怠ってしまった私に非があります。大会スタッフの方にもコーチにも落ち度はありません。


国民の皆様の期待に応えられるようなパフォーマンスを発揮できず、ほんとに申し訳ございません。
金メダルを獲得できたとはいえ、このような失態をお見せしてしまい、改めて深くお詫び申しあげます。

2018年10月21日日曜日

どうやったら子どもが本を読まないか


知人から
「犬犬さんとこの娘ちゃんは本が好きでいいですねえ。うちの子はぜんぜん本を読んでくれないんですよねー」
と言われた。

「まあ子どもが何を好きになるかなんてわかりませんよねー」
なんて答えたんだけど、先日その人のお宅におじゃまして、
「ああ、これは本を読まんわ」
と思った。

まず本がぜんぜんなかった。
すくなくともリビングルームにはまったく本がなかった。絵本も、大人の本も。

おもちゃがいっぱいあった。それもぬいぐるみとかおままごとセットとかの非言語的なおもちゃ。

テレビをずっとつけていた。
子どもが喜ぶ番組を常に流しているような状態だという。



ぼくは教育の研究者じゃないので「どうやったら子どもが本を好きになるか」はわからない。
でも、本好きとして「どうやったら子どもが本を読まないか」はわかる。

本よりもずっと手軽に楽しめるものを与えること、そして近くに本を置かないことだ。



娘(五歳)は本好きだ。
毎晩寝る前にぼくが一、二冊の本を読む。ひとりで本を読むこともある。小学生向けの本も読む(といっても全ページに挿絵のある本だけだが)。

本を読んだら賢くなるかどうかは知らないが、読まないよりは読むほうがいいとぼくは思っている。そっちのほうが人生を楽しめるから。

本を好きになるのはおもしろい本と出会えるかどうかで決まる。
おもしろい本と出会えるかどうかはどれだけたくさんの本を読んだかで決まる。
「数撃ちゃ当たる」だ。

一冊読むより五冊読むほうがおもしろい本と出会える可能性は高い。五冊読むより五百冊読むほうがずっと可能性は高い。それだけ。

だから手の届くところに本が山ほどあるという環境はすごく大事だ。



娘は同世代の子と比べるとだいぶ本好きだが、それでも誰かと遊ぶほうがずっと好きだ。
ぼくと遊んでいるときは「本読もう」とは言わない。誰かとレゴやトランプをするほうが好きだ。
ぼくが相手をできないときに、ひとりで本を読んでいる。

ぼくも本好きだが、他の何よりも好きというほどではない。気の合う友人と遊ぶほうがずっと楽しい。本は孤独や退屈を埋めてくれる手段ではあるが、最上の楽しみではない。

本より楽しいものを与えつづけていたら、そりゃあ本は読まないだろう。



本を読まない人は誤解しているようだ。
「読書好きの人は、本を読むことが何よりも楽しい」のだと。

いやいやそうでもないですよ。
読書ってそこまで楽しいものじゃないですよ、と読書好きとして言っておく

あれですよ、コーヒー。
コーヒーを好きな人は多いけど、彼らだって四六時中コーヒーばっかり飲みたいわけじゃない。
ご飯のときはお茶がいいし、和菓子には熱いお茶だし、運動をした後はスポーツドリンクか冷たい麦茶、仕事の後はビール、夜中に目が覚めたときは水。そして日曜日の朝にクロワッサンといっしょに味わうのは、コーヒー。
そんなもんですよ。オールウェイズ一位じゃないですよ。



ぼくがいちばんよく本を読むのは電車での移動時間だ。

「ある程度まとまった時間があるときに」「ひとりで」「特に道具も使わずに」「周囲に迷惑をかけずに」楽しめるものとしては、読書はすばらしい趣味だ。

でも「三十秒しかないとき」や「友人と一緒にいるときや」や「いろんなゲームがあるとき」には、読書はベストな選択肢ではない。

楽しいゲームや、気の置けない友人や、ぼくをちやほやしてくれる美女や、どれだけ使ってもなくならないお金をくれるんなら本なんて読みませんよ。あたりまえじゃないですか。
そういうのを誰もくれないからしょうがなく本読んでるんですよ。読書好きの人はみんなそうですよ!


2018年10月20日土曜日

お天道様は見ている


「お天道様は見ている」という表現はおもしろいな。

偉大なる存在はあなたを見ているからまっとうに生きなさいよ。という表現は世界中にあるだろう。

しかし、お天道様は四六時中出ているわけではない。
お天道様が出ているのは日中、それも好天気の日の夜明けから日没までだ。
つまりそれ以外の時間帯はお天道様は見ていない。

お天道様が見ているから悪さをしてはいけないということは、裏を返せばお天道様の出ていない時間帯なら悪さをしても大丈夫、ということになる。

そういや時代劇でも、人が悪事をはたらくのはたいてい夜だ。
夜に座敷で膝をつきあわせて「越後屋、おぬしもワルよのう」と賄賂のやりとりなんかをしている。
江戸時代、夜に灯りをつけている家はそう多くなかっただろうし、夜は今よりずっと静かだったはず。そんな中で灯りをつけて悪事の相談をしていたら誰かに聞かれる可能性が高かっただろうに。にぎやかな日中にやったほうがかえって気づかれにくかったんじゃなかろうか。
それでも悪代官たちが夜中に密談をしていたのは、やはりお天道様に見られたくなかったからかもしれない。



法律は、あえて厳密に定めずに解釈の余地を残すようにできていると聞く。
「人を殺したら死刑」だったら、快楽のために人を殺した者も、誰かを助けるためにやむなく手を上げたら死んでしまった人も同じく死刑にしなくてはならない。
だから「〇年以下の懲役」ぐらいのざっくりした法文にしておいて裁判官が個々の事情にあわせた刑罰を課せるようにしているのだとか。

人間、三百六十五日二十四時間正しく生きることは難しい。
ときには羽目をはずしたくなることもあるだろう。正義のために悪をはたらかなくてはならないこともあるだろう。

地獄について書かれた本を読むと、嘘をついたら地獄に落ちる、動物や虫を殺したら地獄行き、年寄りを敬わなかったら地獄、みだらなことをしたら地獄、スマホでゲームやりすぎたら地獄……とありとあらゆる地獄行き要件が定められ、これをきちんと適用させていたら誰も天国に行けなくなってしまう。

だからこそ「お天道様が見ている」なのかもしれない。
ちょっとぐらいの悪さをしてしまっても「今のはお天道様も見てなかったかもしれない」と言える。
一度道を誤ってしまっても立て直す余地を残している制度、それが「お天道様が見ている」なのではないだろうか。

だからぼくは風呂から上がって身体をよく拭かずに洗面所をびちょびちょにしてしまってもそれはお天道様に見られてなかったからセーフってことで。妻には見られてるけど。怒られてるけど。


2018年10月19日金曜日

おまえのかあちゃんでべそと言われた大臣の国会における答弁


まず第一に指摘しておきたいのは、わたしのことをおまえ呼ばわりするだけならいざしらず、わたしの母を「かあちゃん」などとなれなれしく呼ばないでいただきたいということです。

わたしはふだん母のことを「おかあさん」と呼んでおり、他人に向かって言うときは「母」、もしくは親しい友人にかぎってのことですが「うちのオカン」などと呼んだりもしますが、「かあちゃん」などと呼ぶことはありません。

幼少期においてはそのような呼称を用いた可能性は否定できませんが、少なく見積もってここ数十年はそのような呼び方を用いたことはなく、実子であるわたしですら用いない呼び名を母とほとんど面識もないあなたに軽々しく用いられたくないということはここではっきりと申しあげておきたいと思います。


またわたしの母がでべそだという点についても反論を申しあげます。

母のプライバシーにも関わる話ですのでこのような場で母のへそがどういったものであるかを言及するのはわたしとしても心苦しいのですが、包み隠さずお話することが母の名誉回復にもなると考えましたので特別に母の許可を取って説明させていただきます。

わたしの母、もう八十を過ぎておりますが、いたって元気で小学生の通学路に立って毎朝見守り活動をしております。
あなたの「おまえのかあちゃんでべそ」という発言を受け、今月九日、母にお願いしておへそを見せてもらいました。母のおへそなど見るのはもう何十年ぶりのことだと思います、いささか照れくささもありましたが事実確認をせずに国会で述べることはわたしの本意ではありませんので確認させてもらいました。
わたしが見たところ、母のおへそはいたって正常、というと語弊がありますが少なくとも世間一般にいうところのでべそではないように見受けました。

とはいえわたしはおへその専門家ではありませんので、母を大学病院へ連れていき、信頼できる先生に診断をしてもらいました。先生の見立てでもやはり、母はでべそ、医学的にはへそヘルニアというそうですが、このでべそにはあたらないとのことでした。念のため診断書も書いてもらいましたので、後ほど提出させていただきます。

これだけでも母がでべそでないということの証明には十分かと思いますが、念には念を入れ、過去にでべそだったことはないかということを母に問いただしました。
確認をしたところ、妊娠中、つまりわたしが母のお腹にいた際はたしかにへそが押されていわゆるでべそのような状態になっていたとのことでした。
ですから過去のある時点においてはわたしの母がでべそだったということはいえます。

ですがこれはわたしが生まれる前の話であり、当然ながらあなたも生まれる前の話ですので、あなたがわたしの母のでべそを確認したということは状況的にいってまったくありえない話であります。
したがって「あなたが過去にわたしの母のでべそを確認して、そのまま現在もでべそであると思いこんでしまった」という可能性も明確に否定できます。

したがって、あなたの「おまえのかあちゃんでべそ」という発言は事実無根であり、またそれが真実であると誤解しても仕方のない根拠もなく、わたし及び母の名誉棄損を目的としたまったくの捏造であると言わざるを得ません。速やかな訂正を求めます。


なお、誤解のないように付けくわえておくと、この弁論はわたしの母がでべそだという事実と異なる発言に対する反論であり、世の中のでべその方を不当におとしめる意図があってのものではないことをつけくわえておきます。

2018年10月18日木曜日

【読書感想文】発狂一歩手前/ハーラン・エリスン『世界の中心で愛を叫んだけもの』


『世界の中心で愛を叫んだけもの』

ハーラン・エリスン(著)
浅倉 久志 , 伊藤 典夫(訳)

内容(ハヤカワ・オンラインより)
人間の思考を超えた心的跳躍のかなた、究極の中心クロスホエン。この世界の中心より暴力の網は広がり、全世界をおおっていく……暴力の神話、現代のパンドラの箱を描いた表題作など、短篇十五篇を収録。米SF界きっての鬼才による、めくるめくウルトラ・ヴァイオレンスの世界
タイトルだけは有名な(というよりこれをもじったタイトルが有名なんだけど)表題作を含む、SF短篇十五篇。

まず表題作。
うむ、ぜんぜんわからない。とにかく難解。わからせようともしていない。理解を拒む文章。
めちゃくちゃじっくり読めば解釈できるかもしれないが、大学のテクストではないのでそこまでする義理はないのだ、こっちには。
作者が説明をしないのでよくわからないのだが、かといって説明をしてしまってはつまらないのでこれはこれでいいのだろう。ぼくには合わなかったけど。


これは読むのきついなあと思いながら読んだが、他の短篇はそこそこ楽しめた。

車で激走しながら殺しあうカーアクション『101号線の決闘』は、映像化したら楽しそう。
フリーウェイで追い抜かれたから、というだけの理由で命を賭けるというのがアホらしくていい。でも現実にもけっこういるよね、追い抜かされただけで命を賭けちゃう人。
ぼくもちょっと気持ちはわかる。なので車は極力運転しないようにしている。
後味の悪いラストも好き。

サンタクロースがスパイとして秘密組織と戦う『サンタ・クロース対スパイダー』も、アメコミ的な疾走感があって楽しかった。十時間分のドラマをぎゅっと一時間に凝縮したようなスピード感。どんどん敵が現れてあっという間に片づけてしまう。
なんか勢いだけで書きました、って感じのくだらなさがあっていい。

敵対する異星人を殺すために体内に爆弾をしかけられてしまった男の逃走と闘争を描いた『星ぼしへの脱出』は、心中描写はそう多くないのに絶望感、孤独感、怒りといった感情が猛烈に伝わってくる。
星新一の『処刑』を思いだした。筋は似てないんだけど。

宇宙人がやってきてショーをくりひろげるのに便乗して金儲けをする男の顛末を描いた『満員御礼』。これも星新一の世界感っぽいね。というか星新一がこっちに影響を受けたんだろうけど。

後半はどんどんおもしろくなってきた。
『殺戮すべき多くの世界』の宇宙各地で依頼人に頼まれて殺戮をくりかえす男、『少年と犬』の荒廃した世界で暴力に包まれながら懸命に生きる少年、どちらもすさまじい暴力性を抱えているのに、その陰にやりきれなさ、哀しさを感じる。


作品の毛色はいろいろ異なれど、どの短篇にも怒りや焦燥が満ちている。
初期の筒井康隆作品を思いだした。なんか常にいらだっているみたいなんだよね。
ただ筒井康隆作品にはバイオレンスの中にもブラックユーモアがあるんだけど、ハーラン・エリスン作品はただ純粋な怒りがうずまいている。発狂一歩手前、という感じ。そしてどの話も救いがない。

何をそんなに怒っているんだという気もするけど、中学生ぐらいのときってこんな心境だったなあ。いろんなことに怒りを感じてしかたがなかった。
大人になるにつれてさまざまなことをやりすごせるようになったんだけど、ハーラン・エリスン氏はその気持ちをずっと持ちつづけているようだ。

なーんか、この狂気寸前の怒りや暴力性を真正面から受け止めるには、ぼくが歳をとりすぎたのかもしれない。おっさんにはしんどかったぜ。


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