2018年5月28日月曜日

アメリカの病、日本の病


今年の2月、アメリカ・フロリダ州のハイスクールで銃乱射事件があった。多くの生徒が犠牲になった痛ましい事件だが、申し訳ないがニュースを目にしたぼくの感想は「またか」だった。それよりさっき床に落としてしまった食パンのほうが悲しい。
正直いって、アメリカじゃあよくあることだよね、ぐらいにしか思えない。アメリカ名物銃乱射事件。

アメリカでは年間一万五千人以上が銃によって殺されているそうだ。事故死、死に至らない怪我など含めればずっと多くの死傷者が出ていることになる。
アメリカでは精神疾患患者でも銃を購入できる。十八歳でもライフルを買える(拳銃は買えない)。
銃は「アメリカの病」と言われている。

「銃の所持を規制すればいいのに」と思う。大半の日本人はそうだろう。日本にはいろん考えの人がいるが、「日本もアメリカ並みの銃社会になればいいのに」と主張する人は男子中学生を除けばほとんどいない。男も女も年寄りも若者も右翼も左翼も、銃社会なんてろくなもんじゃないと知っているのだ。
そんな誰でも知っている「ろくなもんじゃない銃社会」を、アメリカは維持しつづけている。

なぜこんな愚策をとりつづけているのか、ふしぎで仕方がない。
小さな島の民族が銃を携帯していても「ふーん、まあ世の中にはいろんな村があるからね」としか思わないが、愚策をとっているのは軍事力、経済力、科学力どれをとっても世界ナンバーワンの大国USAだ。そこが解せない。
四流大学が「総合未来グローバル環境システム福祉学部」を新設したら「ふーんまあ好きにしたら?」と思うけど、東大に「東京大学総合未来グローバル環境システム福祉学部」ができたら、東大と一切関係ない人ですら「おいおいそんなばかなことしたらだめだろ」と言いたくなる。そんな気持ちだ。



じっさいのところ、アメリカ人って銃についてどう思ってるんだろう。
「なくせたらいいけど現実的にはなくせないからしょうがないよね。あったほうがいいこともあるし」として受け入れているのだろうか。日本における暴力団と同じように「必要悪」扱いなんだろうか。

いつ撃たれるかわからない社会でびくびくしながら暮らすのってすごいストレスなんじゃないかと思う。
でも日本だって殺そうと思えば車ではねとばしたり電車のホームからつきとばしたりすれば殺せるわけで、銃を規制しても他の手段での殺人に代わるだけで案外殺人そのものは減らないのかもしれない。

とはいえ暴発による事故は確実に減るだろうから、それだけでもやる価値はあると思うけど。



アメリカ人が銃を手放さない理由としてよく言われるのは、「アメリカが銃と民主主義で独立を成し遂げたから」という説明だ。
ぼくはこの説には納得できない。仮にはじめはそうだったとしても、数百年も同じやりかたを続ける理由にはならないだろう。日本だってとっくの昔に刀を捨てた。いくらなんでも「祖先のDNA説」は無理がある。

堤 未果氏の『(株)貧困大国アメリカ』 では、全米ライフル協会がロビー活動をがんばってるから規制が進まない、と書いてあった。

『週間ニューズウィーク日本版2018年3月13日号』の特集『アメリカが銃を捨てる日』にもこんな記述があった。

 適切な銃規制が行われれば、銃犯罪 が大幅に減る可能性は高い。コネティカット州では、95年に拳銃の購入に免 許取得を義務付けたところ、05年までの10年間で拳銃絡みの殺人事件が40%減ったとされる。銃が手に入りにくくなれば、銃を使った自殺も減るだろう(アメリカでは銃絡みの死亡事件の3分の2が自殺だ)。
 アメリカの一般市民の大多数は、銃規制に賛成している。銃を所有する家庭でさえ、93%が銃購入者の経歴調査の厳格化を、89%が精神疾患者の銃所有禁止を支持している。
 それなのになぜ、アメリカの銃規制は恐ろしく緩いのか。それは政治家(圧倒的に共和党議員が多い)が、NRAから献金をたっぷりもらっているからだ。ドナルド・トランプ大統領も、3000万ドルの献金を得ている。だから学校で乱射事件が起きても、政治家は犠牲者のために祈りをささげるだけで、何の行動も起こさないというお決まりのパターンが繰り返されてきた。

NRAとは全米ライフル協会のことだ。
アメリカの選挙は金がかかる、全米ライフル協会は巨額の支援をしている。特に共和党に対してはそうだし、賭けにはずれて大負けしないように民主党にもBETしている。だから民主党政権になったとしても銃規制は進まない。
金がほしいから規制しない。いたってシンプルだ。そして「祖先のDNA説」よりずっと説得力がある。



ぼくらの多くは「人命はすべてのことに優先する」「金より人の命のほうが大事」と思っているし、じっさいその原則に従って行動する。
でもぼくらが大事にするのは「自分の命」や「よく知る人の命」であって「どこかの誰かの命」ではない。
「どこかの誰かの命」の価値はすごく低い。日本でも過労死増加確実と言われている高度プロフェッショナル制度が通されるが、あれに賛成している議員だって「過労死を増やしてやろう」と考えているわけではないだろう。「どこかの誰かの命」に対する想像力をはたらかせていないだけなのだ。想像力の欠如か、あえて考えないようにしているのかはわからないけど。
「あなたの子どもに高度プロフェッショナル制度を適用してもいいですか?」だったほとんどの議員が反対にまわるだろう。


リチャード・マシスンという作家の短篇に『死を招くボタン・ゲーム』という作品がある。
ある夫婦の元にボタンのついた箱が届けられる。見知らぬ男が現れて「そのボタンを押せば大金を差し上げます。そのかわり世界のどこかであなたたちの知らない誰かが死にます」と言ってきた……。
という話だ。

有名な話なので、作者名は知らなくてもオチを知っている人は多いだろう。
この夫婦はボタンを押すわけだが、彼らが極端に利己的というわけではない。「ボタンを押すと隣の家の人が死にます」だったら押さなかっただろう。ただ「どこかの誰かの命」は「目の前の金」よりもずっと価値が低くなってしまうのだ。

えらそうなことを書いているけど、銃乱射事件のニュースを見て「またか」と思ったぼくも同じだ。「どこかの誰かの命」に対しては食パン一枚ほどの価値も感じていない。

銃が「アメリカの病」なら、過重労働は「日本の病」だ。でもそれは症状であって病因ではない。
病の原因は全人類に共通する「どこかの誰かの命を軽視してしまう」という性質だ。


2018年5月27日日曜日

いつもにこにこの人が苦手


いつも笑顔の女性が苦手だ。
クラスにひとりはいるタイプ。いつもにこにこしていて、誰に対しても優しい。けっこうかわいくて、勉強もそこそこできる優等生。

誰からも嫌われない。ぼくも嫌いじゃない。でも、苦手。

なんでだろう。なぜか遠ざかってしまう。
もちろんぼくにも優しくしてくれる。うれしいけど、でも頭の中でアラートが鳴っている。「そいつは誰にでも優しいぞ、気をつけろ!」

べつに気をつけなきゃいけないことなんてない。優しさをありがたく受け取っておけばいい。
でもなんかこわい。陽の光にさらされたダンゴムシが逃げるように、日陰者のぼくは彼女から遠ざかる。

いつもにこにこしているけどほんとは腹黒い……なんてことはない。
そういう女性は、しゃべってみるとほんとにいい人なのだ。たとえ腹の中では悪だくみをしていたってかまわない。悪意を表に出さなければいい人だ。自分以外の人間なんて、外から見える部分がすべてなのだから。


なんでいつもにこにこしている人がこわいんだろうと考えて、笑顔が失われる瞬間を見たくないからじゃないだろうかと気づく。

いつもは不愛想な人が、ぼくと話しているうちに笑顔になったらうれしい。すごくうれしい。
でもいつもにこにこしている人が笑顔で話していてもそんなにプラスにならない。逆に、ちょっとでもつまらなさそうな顔をされたらすごく心配になる。

たぶん失うことがこわいんだろうな。「いつもにこにこ」の人は百点満点からスタートしているから、そこからは失うしかないもんな。
どんな人でも親しくなったら笑顔以外の表情も目にするだろうから、それがこわくて近寄れないんじゃないだろうかと思う。

でも「いつもにこにこ」の人がほんとに二十四時間ずっと笑顔を絶やさない人だったら……。それはもっとこわい。


2018年5月25日金曜日

【読書感想】関 眞興『「お金」で読み解く世界史』


『「お金」で読み解く世界史』

関 眞興

内容(e-honより)
古代エジプトから近代が始まる前までをお金と経済で読み解くユニークな世界史。教科書が描かない、政治や戦争とは違った視点でつかむ世界史の本質。

「お金」で読み解く、という試みはおもしろいのだが、「世界史」というテーマは大きすぎたように思う。
誰もが世界史に対して十分な知識を持っているわけではないので、経済の話に至るまでには政治や宗教や地理や文化の話も避けて通れず、お金以外への説明に多くのページが使われている。で、結局「世界史の膨大な知識を猛スピードで説明する教科書」になってしまっている。

かなりのボリュームのあるマクニール『世界史』ですら「すごくあわただしいな」と感じだたので、切り口を絞ったとはいえ新書で文明の隆興~19世紀までの世界各国を説明するというのは無理がある。スペイン→オスマン帝国→ロシア→中国→オランダ→イギリス みたいにあっちこっちに話題が移るので、ぜんぜんついていけない。作者は元予備校講師らしいが、「とにかく重要ポイントだけ駆け足で説明」というのはいかにも予備校っぽい。

「お金で読み解くローマ帝国」ぐらいにテーマを絞っていれば読みごたえのある本になっていただろうに。



いろんな時代、いろんな国に共通して言えるのは、国家の力が衰えると貨幣も不安定になるし、貨幣が不安定になれば社会も不安定になるということ。
資本主義社会になったのは世界史の流れで見ればごく最近の話ではあるけれど、それ以前から政治や経済を支えているのはお金なんだね。



 ユダヤ教もキリスト教も、その両者の影響を受けたイスラム教でも同胞からの利子の取り立ては禁止している。中世の地中海世界においてユダヤ教は国家を持たない民族であったため、それぞれ世界をつくっていたキリスト教徒とイスラム教徒のどちらにも利子つきで金を貸すことができた。現実の問題として、キリスト教国家ではユダヤ教徒はキリスト教徒に金を貸して利子を取る以外に生活の術を持っておらず、金貸しは生きていくための生活手段であったといえる。逆にもしユダヤ教徒が大きな国家を持ち、キリスト教徒が国なき民族であったとしたら、キリスト教徒が高利貸しになっていたかもしれない。

ユダヤ人は金貸しが多かったから嫌われていたというのは聞いたことがあったが、なるほどこういう理由だったのね。
そういえば世界一有名な金貸しであるシャイロック(シェイクスピア『ヴェニスの商人』)もユダヤ人だ。マイノリティとして生きていくために金貸しをしていたのに、それで嫌われるのはかわいそうな気がする。元はといえばわかってて借りたほうに原因があるわけだし。



十字軍の内情について。

 宗教的情熱が高まったとしても人間には日常的な生活がある。人が動くことは商人たちにとっては利益を得る機会になるが、諸侯・騎士たちにとっては国に残した自分の財産が気になるところである。教会は、そのような財産が保証されることを約束し、それを犯すものは破門に処することとし、参加者には罪が許されるという「贖宥」を与えた。
 さらに、十字軍への参加を呼び掛ける宣伝文句として紹介されるのが、戦いによる戦利品の多いこと、東方ビザンツ帝国の女性は魅力的であることだけでなく、不自由民には自由を与え、債務者には債務を取り消させることなどを約束していたことである。すべてこれらは世俗的な問題であるが、詳細な情報のない世界に向かう不安などを払拭するためには、このような現実的な目的が不可欠であったのであろう。

十字軍というとぼくにとってはかっこいいイメージだったけど(『ジョジョの奇妙な冒険』第三部の「スターダスト・クルセイダース」のためだが)、実態はというと略奪を尽くしたり、女性をさらったり、とても気高い人たちとはいえなかったようだ。
なかには宗教的理想に燃えていた人だっていたんだろうが、大半は世俗的な動機でついていっていたらしい。

アメリカ新大陸への植民や日本人の満州移転を見てもそうだけど、うまくいっている人は「新天地で一旗あげてやろう!」なんて挑戦はしないわけで、なにかしら問題を抱えているから新しい土地に活路を求めるんだよね。
パイオニアっていうとかっこいいけど、開拓者なんて「たまたまうまくいったろくでもない人」ってケースが多いんやろねえ。



16世紀頃のオランダのニシン漁の話。

 ニシンの回遊経路が変わりドイツのニシン漁は低迷するが、この頃、ニシン漁を継承したのがオランダである。オランダ人は改良された船で沖合に乗り出し、漁獲したニシンを船上で処理し塩漬けにした。一方、ドイツにニシンを提供していたデンマーク人の漁法は海岸にきたニシンを捕まえるという素朴なもので、処理の方法は同じであったが、オランダの場合は規模が違っていた。これがオランダの重要な経済的基盤であった。

オランダはニシン漁によって富を蓄え、さらにこれが航海技術の向上や船舶数の増加につながり、世界の海へ乗りだすことができ、後の東インド会社設立につながったのだという。
このエピソードは以前読んだ『世界史を変えた50の動物』という本にも書いてあった。世界情勢が魚に左右されるなんておもしろいなあ、と思った記憶がある。
ちなみにその後オランダには各国からお金が集まり、あふれたお金がチューリップへの投機となって過熱し、チューリップバブル崩壊、経済の不安定化へとつながっている。
ニシンで集めたお金をチューリップで失った国、それがオランダ。



奴隷制がなくなったことについて。

 人間の歴史では「奴隷」の存在は何ら不思議なものではなかった。古代世界で戦争の敗者は基本的に殺される(特に男子)か、奴隷として売り払われるかが普通であった。ギリシア・ローマの時代も例外ではなかった。古代最大の哲学者アリストテレスも「奴隷的人間」の存在を肯定した。近代になり、人間の尊厳・権利・自由が自覚されるようになると、奴隷制は否定されるようになるが、これとて見方を変えれば資本主義の合理性が導き出した結論といえる。つまり、奴隷、すなわち自由のない労働者を使うより、普通の人間を必要なときだけ使った方が「安上がり」であることに資本家が気づいた結果である。そして、この原則が今日の社会にも維持されてきているのは言うまでもない。

会社員が自虐的に「サラリーマンなんて会社の奴隷だよ」なんていうことがあるが、じっさいはサラリーマンのほうが奴隷よりもっと安上がりで使える存在なのだ。
奴隷は主人の持ち物だから、逃げたり壊れたりしないように扱うだろうしね。資本家にとっては、必要なときだけ働いて、気に入らなくなったらクビにできて、他のやつと交換できる労働者のほうが都合がいいのかもしれないね。


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【読書感想文】茂木 誠『世界史で学べ! 地政学』



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2018年5月24日木曜日

【読書感想】小佐田 定雄『上方落語のネタ帳』


『上方落語のネタ帳』

小佐田 定雄

内容(e-honより)
教養として知っておきたい落語の名作をあらすじと裏話で楽しむ傑作選。読めばあなたも“ハナシがわかる人”に。

上方落語の百八つの噺のあらすじとともに、噺家による演じ方の違い、時代による変遷、演者が留意している点などを解説。

内容紹介文に「教養として知っておきたい」なんて書かれているが、これを書いた人は落語をわかっていない。落語は娯楽だからいいのに。教養になったら落語は死ぬよ。

 原型は、明治維新によって失職した武士が自宅で汁粉屋を始める『御膳じるこ』という噺。武士の商法を笑いにした一席で、なんと三遊亭円朝の作だという。
 明治二十年から三十年代になると「改良」という言葉が流行する。そこで三代目桂文三という人が演じたのが『改良ぜんざい』。官員さんが威張り散らす噺だ。
 そして、時代が大正になると「文化」という言葉が流行る。「文化住宅」が登場したのもこのころだという。そこで、この落語も『文化しるこ』と装いを新たにした。
 さらに昭和になり、戦後、「専売公社」や「電電公社」などの半官半民の組織ができると『ぜんざい公社』となったわけである。「公社」にしたのは桂米朝であり、「甘い汁」という辛辣なサゲを付けたのは桂文紅だ。
 いわば時代とともに変遷した噺なのだ。民営化の声があがっている今日、いささか時代とズレているのではと思っていたが、お役人の融通のきかなさは永遠のテーマのようで、現在でも演じられている。

これは『ぜんざい公社』がたどった変遷。三遊亭円朝の新作落語だったが、百年以上も受け継がれているわけで、もう立派な古典落語だ。
 内容も変わっているとはいえ「お役所の融通の利かなさ」というテーマが明治初期から今までずっとウケているのがすごい。役人が四角四面なのは人類普遍の性質なんだろうな。たぶん海外に持っていっても通じるだろう(ぜんざいは通じないだろうが)。

「改良」とか「文化」とか、その時代を象徴する流行り言葉がくっついてるのもおもしろい。そういや酒の電気ブランも「電気」が流行っていたからなんとなくつけられた、と聞いたことがある。
今だったら「スマートぜんざい」とか「クールぜんざい」みたいなもんだろうね。



落語の強みはなんといっても著作権が希薄なところだ。多くの噺家の手によってどんどん噺の細部が変わっていくので、数百年も前の噺が今でもおもしろさを保っている。
また、つぎたしつぎたしで笑いを足せるのも落語の良さだ。

日本で漫画文化が発達したのは、オリジナリティを主張しなかったからだという話を聞いたことがある。手塚治虫は、積極的に他の漫画の技法をとりいれて、また他の漫画家が自身の技法を真似るのを許したと言われている。もちろんストーリーのアイデアをパクるのはいけないが、「コマ割りの方法」や「表現技法」についてはパクってもいいというのが暗黙の了解になった。それが業界の発展を促進させたというのだ。

落語に至っては、すべてがフリー素材だ。技法だけでなく、他の人が考えた噺を演じさせてもらってもいい(もちろん他人の新作落語を自分名義で発表してはいけないが)。さらに改変も許されている。自分がいいと思ったアイデアはどんどん加えていける。この懐の広さこそが落語の強みだ。
テレビドラマ『古畑任三郎』で「人気落語家が新作落語を盗むために兄弟子を殺す」という回があったが(『若旦那の犯罪』)、あの展開には違和感がある。弟弟子が「ぼくにちょうだいよ」というからだ。あれは「ぼくにも教えをつけてよ」と言うべきだろう。


漫才やコントの寿命は、落語に比べて圧倒的に短い。人気芸人であればあちこちでネタを披露するので一年もたたぬうちに「またこのネタか」となってしまう。
ほんとにおもしろいネタが飽きられて日の目を見なくなるのはもったいない。漫才やコントでも著作権は五年とかにして、それを過ぎたら他の漫才師が演じたり、アレンジしたりするのを許したらいいのに、と思う。


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【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈一〉 四季折々』



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2018年5月23日水曜日

「許せん」について考えた


アメフトのタックル問題を見ていて、「許せん」ということについて考えた。

大学フットボールの試合で、日本大学の選手が関西学院大学の選手に悪質なタックルを食らわせ、全治三週間のけがを負わせた。
日大の選手は他にも悪質なファウルをくりかえしており、チームぐるみのプレイなのではないかと疑念が上がった。
けがをした関学の選手は警察に被害届を出し、タックルをした日大の選手は記者会見を開き、被害者への謝罪をするとともに監督やコーチから「つぶしてこい」などの指示があったことを告発した。

というのが今の状況だ。

さて、ニュースやSNSの反応を見ていると、野次馬の大半は日大の選手については「許す」ことに決めたらしい。
自らの過ちを認めた上で何度も謝罪の言葉を口にし、監督やコーチからの指示があったと述べたことで、彼の評価はマイナスからむしろプラスに傾いているようにも見える。
「むしろ彼も被害者だ」「権力に立ち向かう立派な人物」「不正に立ち向かうために声を上げた勇敢な青年」みたいな扱いまで受けている。

ふしぎだ、と思う。
彼は謝罪はしたが、報道を見るかぎりではけがをさせられた選手が「許す」と言った様子もないし、もちろんけががなくなったわけでもない。

つまり「悪質なタックルをして相手チームの選手をけがさせた直後」と「謝罪会見を開いた後」で、彼がやったこと、与えた損害については何も変わっていない。刑事罰も受けていなければ、被害者に対する賠償もしていない。
また、事件に至った経緯を彼は説明したが、あくまで一方の見解でしかなく、監督やコーチが口をつぐんでいるため真相はほとんど何も明らかになっていないに等しい。

けれど野次馬の大半はもう「許した」らしい。


勘違いしてほしくないのだが、日大の選手を許すなと言いたいわけじゃない。
ただ「なぜ許すんだろう」、「以前は何が許せなかったんだろう」、「そもそも許さんとか許すとかいう資格が我々にあるのか」と疑問に思っただけだ。



何に対して「許せん」のか


いろんなことが世間を賑わせているが、その多くは「許せん」「許せる」の話に還元できる。

謝ってしまえば、意外と世間はたいがいのことは許す。
そもそも自分が被害を受けたわけではなく、ただ野次馬として悪いやつを叩いて溜飲を下げたいだけだから。
だから悪いことをしたやつでも「私が悪かったです」と頭を下げていくばくかのペナルティを受け入れれば許す。胸がすっとするから。

幼い子どもを見ていると、よく「思いどおりにならないこと」に対して怒っている。
うまく靴下が履けない、とか、こっちに行きたいのにみんながあっちに行った、とか。

大人になるとそのへんのことを「やりかたを変えれば何とかなること」「どうにもならないこと」に分けて考えることができるようになる。
「うまくピアノが弾けない」という「どうにもならないこと」に対して、「練習しよう」とか「お金を出してうまい人に弾いてもらおう」とか「あきらめよう」とかいくつかの対策を立てられるようになるので、大人は子どもほど怒らない(子どものように怒る大人もいるけど)。

テレビを観ている我々が「許せん」と思うのは「思いどおりになりそうなこと」だけだ。
多くの命を奪った地震に対して「地震許せん」とは思わない。地震はどうにもできないことだから。発生を防ぐこともできないしナマズが謝ってくれるわけでもない。
その代わり、十分な対策をしていなかった行政機関とか原発建設を進めていた政治家とかは「思いどおりになるかもしれない」から「許せん」と思う。

我が国の政治家の不祥事に対しては、辞職するとか頭を下げるとかしてくれるかもしれないから(素直に認める可能性はきわめて低いけど)「許せん」と思う。でも外国の政治家がどんな暴挙に出ても、日本で怒っている人の言葉に耳を貸してくれなさそうだから「許せん」とは思わない。
北朝鮮がミサイルをぶっぱなしているときに「やめてほしいなー」と言う人はいても、「金正恩許せん」とか「金正恩辞めろ!」とか言ってる人はほとんどいなかった。地震と同じように「どうにもならない困った現象」扱いだった。

我々の「許せん」という感情は、うまく靴下が履けなくて怒っている二歳児の気持ちに近い。



「許せん」は相対的なもの


アメフトタックル問題を見ていると、「許せん」は相対的なものなのだと気づく。

日大の選手が悪役から一転「命じられて不本意な悪事に手を染めてしまったかわいそうな被害者」、あるいは「不正を告発した勇気あるヒーロー」にまで扱いが変わったのは、日大の監督、コーチ、大学側の態度が不誠実だからだろう。

もし問題が発生した直後に監督が「すべて私が指示したことです。不適切な指示でした。被害者にお詫びし、経緯を明らかにした上で刑事罰、民事訴訟、世間からの非難をすべてを受け入れます」と頭を下げていたらどうだっただろう。
きっと、選手の評価はここまで上がっていなかったにちがいない。謝罪会見をしたとしても「監督から指示されたとはいえ悪質なプレイに手を染めた卑怯者」ぐらいの扱いは受けていただろう。
天秤のように、監督が評価を下げたことで選手の評価が上がったのだ。
大相撲の暴行問題でも、「暴行をした日馬富士が悪い」と言ってる人はほとんどいなくなった。「許せん」やつが相撲協会に移ったからだ。

つまり我々は一度にいろんなやつを「許せん」とは思えない。
「もっと許せん」やつが現れたとき、比較的誠実な対応をしているやつは「許せん」から外れる(許したわけではない)。

「許せん」は脳のメモリーを食うから、新しい「許せん」が出てくると以前の「許せん」は思考の外に追いやるのである。



「許せん」を回避するために


アメフトタックル問題を見ていると、「世間に許してもらう」方法が見えてくる。
  1. 過ちは受け入れ、頭を下げる
  2. いくらかのペナルティは受け入れる
  3. もっと「許せん」やつをつくる
特に大事なのは「3. もっと「許せん」やつをつくる」だ。
これさえあれば、1. と2. はなくてもいいぐらいだ。現に、日大アメフト部の監督やコーチの対応がまずかったために、選手が謝罪会見をする前から彼に同情的な意見は多く見られた。

政治家が身を守るために「許せんやつ」を用意しておく、というのはどうだろう。
閣僚が不正や失言で非難を浴びたら「許せんやつ」がもっとひどいことをやらかすのだ。一年生議員が誰が見ても明らかな差別的発言をする、とか。
スケープゴートが現れれば、一度に何人も「許せん」ことのできない我々はより軽いほうを許してしまう。
政権は保身のために検討したほうがいいかもしれない。もうやっているかもしれないが。