2018年5月25日金曜日

【読書感想】関 眞興『「お金」で読み解く世界史』


『「お金」で読み解く世界史』

関 眞興

内容(e-honより)
古代エジプトから近代が始まる前までをお金と経済で読み解くユニークな世界史。教科書が描かない、政治や戦争とは違った視点でつかむ世界史の本質。

「お金」で読み解く、という試みはおもしろいのだが、「世界史」というテーマは大きすぎたように思う。
誰もが世界史に対して十分な知識を持っているわけではないので、経済の話に至るまでには政治や宗教や地理や文化の話も避けて通れず、お金以外への説明に多くのページが使われている。で、結局「世界史の膨大な知識を猛スピードで説明する教科書」になってしまっている。

かなりのボリュームのあるマクニール『世界史』ですら「すごくあわただしいな」と感じだたので、切り口を絞ったとはいえ新書で文明の隆興~19世紀までの世界各国を説明するというのは無理がある。スペイン→オスマン帝国→ロシア→中国→オランダ→イギリス みたいにあっちこっちに話題が移るので、ぜんぜんついていけない。作者は元予備校講師らしいが、「とにかく重要ポイントだけ駆け足で説明」というのはいかにも予備校っぽい。

「お金で読み解くローマ帝国」ぐらいにテーマを絞っていれば読みごたえのある本になっていただろうに。



いろんな時代、いろんな国に共通して言えるのは、国家の力が衰えると貨幣も不安定になるし、貨幣が不安定になれば社会も不安定になるということ。
資本主義社会になったのは世界史の流れで見ればごく最近の話ではあるけれど、それ以前から政治や経済を支えているのはお金なんだね。



 ユダヤ教もキリスト教も、その両者の影響を受けたイスラム教でも同胞からの利子の取り立ては禁止している。中世の地中海世界においてユダヤ教は国家を持たない民族であったため、それぞれ世界をつくっていたキリスト教徒とイスラム教徒のどちらにも利子つきで金を貸すことができた。現実の問題として、キリスト教国家ではユダヤ教徒はキリスト教徒に金を貸して利子を取る以外に生活の術を持っておらず、金貸しは生きていくための生活手段であったといえる。逆にもしユダヤ教徒が大きな国家を持ち、キリスト教徒が国なき民族であったとしたら、キリスト教徒が高利貸しになっていたかもしれない。

ユダヤ人は金貸しが多かったから嫌われていたというのは聞いたことがあったが、なるほどこういう理由だったのね。
そういえば世界一有名な金貸しであるシャイロック(シェイクスピア『ヴェニスの商人』)もユダヤ人だ。マイノリティとして生きていくために金貸しをしていたのに、それで嫌われるのはかわいそうな気がする。元はといえばわかってて借りたほうに原因があるわけだし。



十字軍の内情について。

 宗教的情熱が高まったとしても人間には日常的な生活がある。人が動くことは商人たちにとっては利益を得る機会になるが、諸侯・騎士たちにとっては国に残した自分の財産が気になるところである。教会は、そのような財産が保証されることを約束し、それを犯すものは破門に処することとし、参加者には罪が許されるという「贖宥」を与えた。
 さらに、十字軍への参加を呼び掛ける宣伝文句として紹介されるのが、戦いによる戦利品の多いこと、東方ビザンツ帝国の女性は魅力的であることだけでなく、不自由民には自由を与え、債務者には債務を取り消させることなどを約束していたことである。すべてこれらは世俗的な問題であるが、詳細な情報のない世界に向かう不安などを払拭するためには、このような現実的な目的が不可欠であったのであろう。

十字軍というとぼくにとってはかっこいいイメージだったけど(『ジョジョの奇妙な冒険』第三部の「スターダスト・クルセイダース」のためだが)、実態はというと略奪を尽くしたり、女性をさらったり、とても気高い人たちとはいえなかったようだ。
なかには宗教的理想に燃えていた人だっていたんだろうが、大半は世俗的な動機でついていっていたらしい。

アメリカ新大陸への植民や日本人の満州移転を見てもそうだけど、うまくいっている人は「新天地で一旗あげてやろう!」なんて挑戦はしないわけで、なにかしら問題を抱えているから新しい土地に活路を求めるんだよね。
パイオニアっていうとかっこいいけど、開拓者なんて「たまたまうまくいったろくでもない人」ってケースが多いんやろねえ。



16世紀頃のオランダのニシン漁の話。

 ニシンの回遊経路が変わりドイツのニシン漁は低迷するが、この頃、ニシン漁を継承したのがオランダである。オランダ人は改良された船で沖合に乗り出し、漁獲したニシンを船上で処理し塩漬けにした。一方、ドイツにニシンを提供していたデンマーク人の漁法は海岸にきたニシンを捕まえるという素朴なもので、処理の方法は同じであったが、オランダの場合は規模が違っていた。これがオランダの重要な経済的基盤であった。

オランダはニシン漁によって富を蓄え、さらにこれが航海技術の向上や船舶数の増加につながり、世界の海へ乗りだすことができ、後の東インド会社設立につながったのだという。
このエピソードは以前読んだ『世界史を変えた50の動物』という本にも書いてあった。世界情勢が魚に左右されるなんておもしろいなあ、と思った記憶がある。
ちなみにその後オランダには各国からお金が集まり、あふれたお金がチューリップへの投機となって過熱し、チューリップバブル崩壊、経済の不安定化へとつながっている。
ニシンで集めたお金をチューリップで失った国、それがオランダ。



奴隷制がなくなったことについて。

 人間の歴史では「奴隷」の存在は何ら不思議なものではなかった。古代世界で戦争の敗者は基本的に殺される(特に男子)か、奴隷として売り払われるかが普通であった。ギリシア・ローマの時代も例外ではなかった。古代最大の哲学者アリストテレスも「奴隷的人間」の存在を肯定した。近代になり、人間の尊厳・権利・自由が自覚されるようになると、奴隷制は否定されるようになるが、これとて見方を変えれば資本主義の合理性が導き出した結論といえる。つまり、奴隷、すなわち自由のない労働者を使うより、普通の人間を必要なときだけ使った方が「安上がり」であることに資本家が気づいた結果である。そして、この原則が今日の社会にも維持されてきているのは言うまでもない。

会社員が自虐的に「サラリーマンなんて会社の奴隷だよ」なんていうことがあるが、じっさいはサラリーマンのほうが奴隷よりもっと安上がりで使える存在なのだ。
奴隷は主人の持ち物だから、逃げたり壊れたりしないように扱うだろうしね。資本家にとっては、必要なときだけ働いて、気に入らなくなったらクビにできて、他のやつと交換できる労働者のほうが都合がいいのかもしれないね。


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2018年5月24日木曜日

【読書感想】小佐田 定雄『上方落語のネタ帳』


『上方落語のネタ帳』

小佐田 定雄

内容(e-honより)
教養として知っておきたい落語の名作をあらすじと裏話で楽しむ傑作選。読めばあなたも“ハナシがわかる人”に。

上方落語の百八つの噺のあらすじとともに、噺家による演じ方の違い、時代による変遷、演者が留意している点などを解説。

内容紹介文に「教養として知っておきたい」なんて書かれているが、これを書いた人は落語をわかっていない。落語は娯楽だからいいのに。教養になったら落語は死ぬよ。

 原型は、明治維新によって失職した武士が自宅で汁粉屋を始める『御膳じるこ』という噺。武士の商法を笑いにした一席で、なんと三遊亭円朝の作だという。
 明治二十年から三十年代になると「改良」という言葉が流行する。そこで三代目桂文三という人が演じたのが『改良ぜんざい』。官員さんが威張り散らす噺だ。
 そして、時代が大正になると「文化」という言葉が流行る。「文化住宅」が登場したのもこのころだという。そこで、この落語も『文化しるこ』と装いを新たにした。
 さらに昭和になり、戦後、「専売公社」や「電電公社」などの半官半民の組織ができると『ぜんざい公社』となったわけである。「公社」にしたのは桂米朝であり、「甘い汁」という辛辣なサゲを付けたのは桂文紅だ。
 いわば時代とともに変遷した噺なのだ。民営化の声があがっている今日、いささか時代とズレているのではと思っていたが、お役人の融通のきかなさは永遠のテーマのようで、現在でも演じられている。

これは『ぜんざい公社』がたどった変遷。三遊亭円朝の新作落語だったが、百年以上も受け継がれているわけで、もう立派な古典落語だ。
 内容も変わっているとはいえ「お役所の融通の利かなさ」というテーマが明治初期から今までずっとウケているのがすごい。役人が四角四面なのは人類普遍の性質なんだろうな。たぶん海外に持っていっても通じるだろう(ぜんざいは通じないだろうが)。

「改良」とか「文化」とか、その時代を象徴する流行り言葉がくっついてるのもおもしろい。そういや酒の電気ブランも「電気」が流行っていたからなんとなくつけられた、と聞いたことがある。
今だったら「スマートぜんざい」とか「クールぜんざい」みたいなもんだろうね。



落語の強みはなんといっても著作権が希薄なところだ。多くの噺家の手によってどんどん噺の細部が変わっていくので、数百年も前の噺が今でもおもしろさを保っている。
また、つぎたしつぎたしで笑いを足せるのも落語の良さだ。

日本で漫画文化が発達したのは、オリジナリティを主張しなかったからだという話を聞いたことがある。手塚治虫は、積極的に他の漫画の技法をとりいれて、また他の漫画家が自身の技法を真似るのを許したと言われている。もちろんストーリーのアイデアをパクるのはいけないが、「コマ割りの方法」や「表現技法」についてはパクってもいいというのが暗黙の了解になった。それが業界の発展を促進させたというのだ。

落語に至っては、すべてがフリー素材だ。技法だけでなく、他の人が考えた噺を演じさせてもらってもいい(もちろん他人の新作落語を自分名義で発表してはいけないが)。さらに改変も許されている。自分がいいと思ったアイデアはどんどん加えていける。この懐の広さこそが落語の強みだ。
テレビドラマ『古畑任三郎』で「人気落語家が新作落語を盗むために兄弟子を殺す」という回があったが(『若旦那の犯罪』)、あの展開には違和感がある。弟弟子が「ぼくにちょうだいよ」というからだ。あれは「ぼくにも教えをつけてよ」と言うべきだろう。


漫才やコントの寿命は、落語に比べて圧倒的に短い。人気芸人であればあちこちでネタを披露するので一年もたたぬうちに「またこのネタか」となってしまう。
ほんとにおもしろいネタが飽きられて日の目を見なくなるのはもったいない。漫才やコントでも著作権は五年とかにして、それを過ぎたら他の漫才師が演じたり、アレンジしたりするのを許したらいいのに、と思う。


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2018年5月23日水曜日

「許せん」について考えた


アメフトのタックル問題を見ていて、「許せん」ということについて考えた。

大学フットボールの試合で、日本大学の選手が関西学院大学の選手に悪質なタックルを食らわせ、全治三週間のけがを負わせた。
日大の選手は他にも悪質なファウルをくりかえしており、チームぐるみのプレイなのではないかと疑念が上がった。
けがをした関学の選手は警察に被害届を出し、タックルをした日大の選手は記者会見を開き、被害者への謝罪をするとともに監督やコーチから「つぶしてこい」などの指示があったことを告発した。

というのが今の状況だ。

さて、ニュースやSNSの反応を見ていると、野次馬の大半は日大の選手については「許す」ことに決めたらしい。
自らの過ちを認めた上で何度も謝罪の言葉を口にし、監督やコーチからの指示があったと述べたことで、彼の評価はマイナスからむしろプラスに傾いているようにも見える。
「むしろ彼も被害者だ」「権力に立ち向かう立派な人物」「不正に立ち向かうために声を上げた勇敢な青年」みたいな扱いまで受けている。

ふしぎだ、と思う。
彼は謝罪はしたが、報道を見るかぎりではけがをさせられた選手が「許す」と言った様子もないし、もちろんけががなくなったわけでもない。

つまり「悪質なタックルをして相手チームの選手をけがさせた直後」と「謝罪会見を開いた後」で、彼がやったこと、与えた損害については何も変わっていない。刑事罰も受けていなければ、被害者に対する賠償もしていない。
また、事件に至った経緯を彼は説明したが、あくまで一方の見解でしかなく、監督やコーチが口をつぐんでいるため真相はほとんど何も明らかになっていないに等しい。

けれど野次馬の大半はもう「許した」らしい。


勘違いしてほしくないのだが、日大の選手を許すなと言いたいわけじゃない。
ただ「なぜ許すんだろう」、「以前は何が許せなかったんだろう」、「そもそも許さんとか許すとかいう資格が我々にあるのか」と疑問に思っただけだ。



何に対して「許せん」のか


いろんなことが世間を賑わせているが、その多くは「許せん」「許せる」の話に還元できる。

謝ってしまえば、意外と世間はたいがいのことは許す。
そもそも自分が被害を受けたわけではなく、ただ野次馬として悪いやつを叩いて溜飲を下げたいだけだから。
だから悪いことをしたやつでも「私が悪かったです」と頭を下げていくばくかのペナルティを受け入れれば許す。胸がすっとするから。

幼い子どもを見ていると、よく「思いどおりにならないこと」に対して怒っている。
うまく靴下が履けない、とか、こっちに行きたいのにみんながあっちに行った、とか。

大人になるとそのへんのことを「やりかたを変えれば何とかなること」「どうにもならないこと」に分けて考えることができるようになる。
「うまくピアノが弾けない」という「どうにもならないこと」に対して、「練習しよう」とか「お金を出してうまい人に弾いてもらおう」とか「あきらめよう」とかいくつかの対策を立てられるようになるので、大人は子どもほど怒らない(子どものように怒る大人もいるけど)。

テレビを観ている我々が「許せん」と思うのは「思いどおりになりそうなこと」だけだ。
多くの命を奪った地震に対して「地震許せん」とは思わない。地震はどうにもできないことだから。発生を防ぐこともできないしナマズが謝ってくれるわけでもない。
その代わり、十分な対策をしていなかった行政機関とか原発建設を進めていた政治家とかは「思いどおりになるかもしれない」から「許せん」と思う。

我が国の政治家の不祥事に対しては、辞職するとか頭を下げるとかしてくれるかもしれないから(素直に認める可能性はきわめて低いけど)「許せん」と思う。でも外国の政治家がどんな暴挙に出ても、日本で怒っている人の言葉に耳を貸してくれなさそうだから「許せん」とは思わない。
北朝鮮がミサイルをぶっぱなしているときに「やめてほしいなー」と言う人はいても、「金正恩許せん」とか「金正恩辞めろ!」とか言ってる人はほとんどいなかった。地震と同じように「どうにもならない困った現象」扱いだった。

我々の「許せん」という感情は、うまく靴下が履けなくて怒っている二歳児の気持ちに近い。



「許せん」は相対的なもの


アメフトタックル問題を見ていると、「許せん」は相対的なものなのだと気づく。

日大の選手が悪役から一転「命じられて不本意な悪事に手を染めてしまったかわいそうな被害者」、あるいは「不正を告発した勇気あるヒーロー」にまで扱いが変わったのは、日大の監督、コーチ、大学側の態度が不誠実だからだろう。

もし問題が発生した直後に監督が「すべて私が指示したことです。不適切な指示でした。被害者にお詫びし、経緯を明らかにした上で刑事罰、民事訴訟、世間からの非難をすべてを受け入れます」と頭を下げていたらどうだっただろう。
きっと、選手の評価はここまで上がっていなかったにちがいない。謝罪会見をしたとしても「監督から指示されたとはいえ悪質なプレイに手を染めた卑怯者」ぐらいの扱いは受けていただろう。
天秤のように、監督が評価を下げたことで選手の評価が上がったのだ。
大相撲の暴行問題でも、「暴行をした日馬富士が悪い」と言ってる人はほとんどいなくなった。「許せん」やつが相撲協会に移ったからだ。

つまり我々は一度にいろんなやつを「許せん」とは思えない。
「もっと許せん」やつが現れたとき、比較的誠実な対応をしているやつは「許せん」から外れる(許したわけではない)。

「許せん」は脳のメモリーを食うから、新しい「許せん」が出てくると以前の「許せん」は思考の外に追いやるのである。



「許せん」を回避するために


アメフトタックル問題を見ていると、「世間に許してもらう」方法が見えてくる。
  1. 過ちは受け入れ、頭を下げる
  2. いくらかのペナルティは受け入れる
  3. もっと「許せん」やつをつくる
特に大事なのは「3. もっと「許せん」やつをつくる」だ。
これさえあれば、1. と2. はなくてもいいぐらいだ。現に、日大アメフト部の監督やコーチの対応がまずかったために、選手が謝罪会見をする前から彼に同情的な意見は多く見られた。

政治家が身を守るために「許せんやつ」を用意しておく、というのはどうだろう。
閣僚が不正や失言で非難を浴びたら「許せんやつ」がもっとひどいことをやらかすのだ。一年生議員が誰が見ても明らかな差別的発言をする、とか。
スケープゴートが現れれば、一度に何人も「許せん」ことのできない我々はより軽いほうを許してしまう。
政権は保身のために検討したほうがいいかもしれない。もうやっているかもしれないが。


2018年5月22日火曜日

バンザイ酒離れ


「若者の酒離れ」だそうだ。
ほんとかどうか知らない。
まあ減ってるんだろう。若者の数自体が減ってるし。
ぼく自身、ほとんど飲まない。月に1回か2回ぐらいしか飲まない。と思ったけどぼくはもう若者じゃなかった。中年だった。まあそれはいいや。

「酒離れが進んでいるのは今の若者に金がないからだ」
という説がある。ほんとだろうか。
昔の若者のほうが経済的余裕があったとは到底思えない。バブルの頃とかはわからないけど、一時期の例外を除けば若者は金がないのがふつうだ。それでも呑んでいた。
金は関係ない。

「いい酒を呑ませないから若者が酒のおいしさを知らずに、酒から離れていっちゃうんだよ」
という説もある。ほんとだろうか。
昔の若者はいい酒を飲んでいたのだろうか。いやいや、ぜったいちがう。今のほうが味も良くなって選択肢も増えたから、うまい酒に出会える可能性は上がっているはずだ。昔なんて日本酒と焼酎と電気ブランしかなかったのだ(いつの時代だ)。
味のせいでもない。


結局、「飲まないという選択肢」ができたのがいちばん大きな原因だろう。

ぼくがお酒を呑めるようになった十数年前ですら「呑めない人も乾杯だけはビールで。一口だけでいいから」という風潮があった。
それより昔は「呑まなきゃいけない圧力」はもっと強かっただろう。呑めない人も、酒に弱い人も、呑めるけど好きじゃない人も、みんな呑まされていた。
でも今は無理やり呑ませる人はいない。いるんだろうけどぼくの周りにはいない。そういう輩と付き合わないようにしてるから、ってのもあるけど。
今では一杯目からウーロン茶を飲んでも「なんでビールじゃないの?」と言われない。呑まない、という選択が許されるようになった。

あと、少し前まで車を運転する人も平気で呑んでいた。若い人は信じられないかもしれないけど、これほんと。2006年に起こった飲酒運転の車が三人の子どもを死なせた事故が転機となって流れが変わったけど、それまでは「飲酒運転で捕まるのは運が悪い」という風潮があったんだよ。
ぼくが子どものとき、親戚の集まりがあると、みんな車で来ているのに呑んでいた。顔を真っ赤にした人が「酔ったからちょっとだけ寝てから帰るわ」なんて云って、一時間ぐらい寝てから車を運転していた。うちの親戚が特殊だったわけではない(たぶん)。反社会的職業についていたわけでもなく、みんなふつうのサラリーマンだった。そういう人たちがみんな平気で飲酒運転をしていた。「けっこう呑んだから気をつけて運転してねー」ぐらいのもんだった。
21世紀のはじめぐらいまでは日本はそれぐらい野蛮な国だったのだ。十代の人は知らないだろうけど、2000年頃の日本なんてまだ腰蓑だけ巻いて半裸で暮らしてたからね。その頃の日本人は手づかみで生魚を食べていたからね。スシっていうんだけど。

つまり、かつてのアルコール消費量を支えていたのって、呑めない人呑みたくない人呑んじゃいけない人だったわけよ。
そういう人たちが呑まなくなった。呑まなくてもよくなった。そりゃ消費量は減る。すばらしいことに。

アルコール消費量は減っていても、飲み物に使うお金の総量は増えてるんじゃないかな。ぼくが子どものころは、水どころかお茶ですら「お金を出して買うものじゃない」という感覚がまだ一般的だった。


あ、統計とか一切見ずに適当に書いてるからね。真に受けないでね。

「若者の酒離れ」なんて、「二層式洗濯機離れ」「脱脂粉乳離れ」と同じだ。なくてもいいものが、もっといいものに取って代わられているだけ。

ぼく自身はお酒を呑むけど、基本的にお酒は悪いものだ。身体にもよくないし、うるさいし、暴れるし、くせえし、ゲロは吐くし、大学生は居酒屋を出た後「次どうするー」と歩道いっぱいに広がるし。
だから「毎日お酒呑んでます」なんて「毎日風呂に入らないです」と同じくらい恥ずべきことだという意識を持ってなきゃいけない。酒呑みはお天道様に隠れてこそこそ呑まなきゃいけない。体育館の裏とかで。
それを忘れて「若者の酒離れが進んでいる。ゆゆしき時代だ」だなんて、盗人猛々しいにもほどがあるよね。


2018年5月21日月曜日

クーラー使ったら気温下がるやん


高校生のとき、現代社会の授業で「地球温暖化を止めるために私たちができることを考えてみましょう」という問いの書かれたプリントが配られた。

ぼくは「なるべく車に乗らずに自転車や徒歩で移動するようにする」と書いて、ふと隣の友人Kの回答をのぞきこんだ。
Kはこう書いていた。
「クーラーを使う回数を増やす」

Kは悪ふざけの好きな男だったのでふざけているのだと思い、ぼくは笑いながら「おまえそれ逆効果やないか」と云った。
するとKはきょとんとした顔で「え? なんで? クーラー使ったら気温下がるやん」と云った。
ボケたのではなく、いたってまじめにクーラーを使うことが地球温暖化防止になると考えていたのだ。

Kは少し抜けたところはあったが、決してバカではない。後に関西では名門とされる大学にも合格した。ただ、クーラーの原理を知らなかっただけ。
ぼくも原理はよく知らないからえらそうなことは言えないけど、エアコンが外に熱を逃がしていることぐらいは知っていた。
「室外機ってあるやん。エアコン使ったらあれめっちゃ熱くなるやろ。だから地球温暖化にとってはむしろ悪影響やで。あと電気作るのに石油燃やしたりしないとあかんやん」というと、
「ん? ああ、そうか。そういやそうやな」とKは納得してくれた。

彼はただ知らなかっただけだった。

最前線で研究をしている賢い人たちには想像もつかないだろうけど、様々な問題解決の糸口は、一般に思われているよりもずっと手前にあるのかもしれない。

クーラーをがんがん使った世界