2018年2月19日月曜日

英語能力のフロッピーディスク化


小学校で英語教育を受けさせられる娘が不憫でならない。

まったくの無駄だとは思わない。ぼくも中学校・高校・大学で英語を学習したことで文章の構造や論理的な思考を学んだ。

でも「外国語でコミュニケーションがとれる能力」の価値は今後どんどん低下していく。


機械翻訳の精度は、今後飛躍的に上がる。疑いようもなく。
テキスト翻訳はもちろん音声翻訳も、十年以内に実用に十分耐えうるレベルになるだろう、とぼくは思っている。
「十年以内」でもずいぶん控えめに見積もったつもりだ。将棋でコンピュータが人間と対戦するようになってからプロ棋士をこてんぱんに打ち負かすようになるまでにかかった時間を見ていると、自動翻訳が実用化するのに十年もかからないと思う。

とくに英語なんて利用者が多いからまっさきに翻訳精度が上がる言語だ。
大多数の日本人にとって英語能力は今以上に不要のものになる。

詩的表現や若者言葉や業界用語にまで対応するのは難しいかもしれないが、旅行・買い物・初対面でのコミュニケーション、その程度のことは自動音声翻訳で事足りるだろう。もっとこみいった話はテキストでやりとりすればいい。どうしても必要なら通訳や翻訳者を使えばいい。ニーズが減って供給過剰になるから、通訳・翻訳の費用も下がるだろう。

少なくともビジネスシーンにおいては外国語能力はたいした価値を持たなくなる。ないよりはあったほうがいい、ぐらいのスキル。いってみれば、電卓やコンピュータが普及した時代における暗算スキルぐらいの重み。




義務教育での英語学習時間は増えていってるけど、むしろ今後減らしていったほうがいい。

2020年から小学校でプログラミングが必修化するらしいけど、英語学習で見につく論理的思考などの能力のうち大部分はプログラミング学習でも身につけられる。だからプログラミングをやるのであればその分英語学習時間を削ったほうがいい。

小学校の算数の一単元でそろばんを教えるけど、将来的にはあれぐらいの扱いにしてもいいと思う。そこまでいかなくても、せいぜい古文や漢文ぐらい。
英語は高等教育で学べば十分だ。小学校で算数や国語の授業時間を削ってまで教える必要はない。



ぼくが中学校のとき、技術の授業で「コンピュータ」という単元があった。
そこで教わったのは「フロッピーディスクのフォーマット方法」だった。

知ってますか、フロッピーディスクのフォーマット。
昔のフロッピーディスクって買ってもすぐに使えなかったんです。一回初期化しなきゃいけなかったんです。なんでって訊かれても困りますけどね。フロッピーディスクって何ですかって訊かれたらもっと困りますけどね。

ぼくがフロッピーディスクのフォーマット方法を習ったのは1995年。それが役に立ったことは一度もない。大学時代はフロッピーディスクを使っていたけど、フォーマット済みのフロッピーディスクが売ってたしね。もちろん高校入試にも出なかった。会社の採用試験にも出なかった。

あの時間はなんだったんだ。まあフロッピーディスクのフォーマットについて習ったのは一時間か二時間だけのことだったので、まあいっかと思う。こうして話のネタになるしね。

でも小学生のときから何千時間も英語学習に費やして、いざ自分が大人になったときに英語能力が「フロッピーディスクのフォーマット方法」レベルの有用性になり下がっていたら、「勉強した時間返せよ」って思う。

さっさと自動翻訳が普及して、教育関係のえらい人たちが「英語、そんなに役に立たなくね?」と早く気づいてくれることを祈る。

ていうか機械翻訳がどうこういう以前に、早期学習が英語能力の習得に貢献するという確かな根拠ってあるのかね?


【関連記事】

バトラー後藤裕子『英語学習は早いほどいいのか』


2018年2月18日日曜日

中敷きくせえ


靴を買いに行ったとき、ぼくの靴を試し履きさせてくれた店員のお兄さんに

「この中敷き、いいですよ。靴のにおいってほとんどが中敷きのにおいなんですよ! ぼくも足くさいって言われてたんですけど、この中敷きするようになってからくさいって言われなくなりました!」

って力説されて「ぼくの足、そんなにくさいのか……」と若干落ち込みながら言われるがままに店員おすすめ中敷きを購入した。



それから数か月。

ふむ。たしかにいい。

帰宅して靴を脱いだら、中敷きを取りだす。

くせえ。超くせえ。

そのまま中敷きを干しておくと、翌朝になるとにおいがだいぶ軽減している。

なるほど、中敷きが吸っていたにおいが一晩でなくなっている。

そのにおいは部屋中に飛散されているんだろうけど、その件については深く考えないことにする。

くさくなくなった中敷きを入れて出かける。帰ると、またくせえ。超くせえ。



はじめて知った。

靴のくささって積もりに積もった分泌物のにおいだと思っていたのだが、たった一日で歩いただけでこんなにくさくなるのか(しかも冬なのに)。

今までは中敷きを取りだしていなかったから、このくささを何年も溜めこんでいたわけだ。さぞかし凝縮した濃厚な香りだったことだろう。

店員さん、婉曲かつ直截的に「足くさいっすよ」と教えてくれてありがとう。

2018年2月17日土曜日

ブログ、よろしおすねや


個人ブログって好き。書くのも好きだし、読むのも好き。

でも悲しいことにブログを書いてる人は少なくなってる。

ブログがいちばん流行ったのって2005年頃ですかね。日常的にインターネットやってる人の半分くらいの人はブログ持ってたんじゃないかって印象。高すぎるかな。でもそれぐらいの印象。じっさい、二割以上はやってたんじゃないでしょうかね。

その後mixiとかTwitterとかFacebookとかが流行って、もっと手軽にものを発信できるSNSにみんな移行していった。

ぼくが昔読んでいたブログはほとんど残っていない。でももっと読みたい。「これは!」と思うブログをRSSリーダーに入れて(こういうのやってる人も今はあんまりいないんだろうなあ)読んでいるのに、いつしか更新されなくなってしまう。悲しい。


もっとみんな書いてよ。

好きなブログがいくつかあるけど、その大半はほとんど更新していない。

一時は毎日のように書いていた人も、今ではほとんど書いてない。

だから書いてくれ。書くのが嫌いな人にまで書けとは言わないけど、書くのが好きな人は書いてくれ。

なんで書くのをやめちゃったの?




おもしろい文章が書けない


って言わはりますけど。そんなんよろしおすねや。

おもしろくなくていいんですよ。こっちは個人ブログにそんなにおもしろいものを求めてないから。

おもしろいものは金出して本買って読むから。

そんなにおもしろくない体験をしていない人のそんなにおもしろくない文章。それが読みたいんだよ。

片思い中の相手がブログ書いてたらぜったい読むでしょ。どんなにクソくだらないこと書いてても、熱心に読むでしょ。三回読み返すでしょ。

ぼくがブログを読みにいくのは、それを書いてる人が好きだから。おもしろくなくても美しい文章じゃなくても、好きな人が書いた文章は読みたい。

今日カレー食ったうまかったみたいな話でいいから、書いてくれ。




読んでくれる人が少ない


年賀状っておもしろくないじゃない。でもみんな読むでしょ。

年賀状嫌いな人は多いけど、それって書くのがめんどくさいだけで、読むのはみんな好きでしょ。

知人から自分宛てに届いた年賀状、読まずに捨てる人います?
いたら怖えから二度と近づかないでくれ。自分宛てに届いた年賀状読まないくせにこんなブログ読みに来てる人がいたら狂ってるとしか思えない。

そんなに親しくない人から来た年賀状、どうせ大したこと書いてないってわかってても一応読むよね。

自分宛てに書かれているから。


だから読者数は多くなくていい。むしろぼくは読者が少なそうなブログを読みたい。

「ぼくが読まなきゃ」って気持ちになるから。自分宛てに書かれているような気がするから。

一年書いて読者数ゼロだったらさすがにやめたほうがいいけど、ひとりでもいるんだったら書いてくれ。

読者数の少ないブログを読みたい人間もいるんだよ。



書いてて手ごたえがない


それはごめん。

ぼくも欠かさず読んでいるブログがいくつかあるけど、いちいちコメントしたりトラックバックしたりしない。ほんとごめんって。

反響ないとモチベーション下がるよね。でも読んでるから。アクセス数1が大反響だと思ってくれ。「あーおもしろかった」って思ってるから。コメントつけたり拡散したりしてないけど。でもまた新しい記事書いたら読みに行くから。


反響なんてあっても疲れない?

ぼくがブログを好きなのは、反響があんまりないからってのもある。

SNSって気軽に「いいね!」がつけられるじゃない。あれ、たしかにうれしいけどそれに振り回されるんだよね。「いいね!」の数に一喜一憂しちゃう。

よく考えたらぼくは書きたいことを書いてるだけで、それに点数をつけてほしいわけじゃない。

「いいね!」はいらないからまた次の記事を読みに来てほしい。

読者数がひとり以上いることがなによりの反響だと思えば、やめる理由にはならない。




このブログなんて、目を見張るようなことも書いてないし読者数も少ないし反響もほとんどないけど、それでも三年間毎日のように書いている。

なにをモチベーションにやってるかって言ったら、自分という熱狂的ファンがいるから。ときどき自分の過去記事を読み返して「やっぱりぼくの書く文章っておもしろいなあ」と思えるから。

書くことのおもしろさは知っているよね。自分の書いたものを読んでもらううれしさは知っているよね。

だったらすぐ書かんかい。放置しているブログを今日から再開せんかい。はよ。


2018年2月16日金曜日

捏造記憶


ぼくのいちばん古い記憶は、「二歳の誕生日を家族に祝ってもらっている」というものだ。

「バースデーケーキを前にして、両親や姉がぼくの誕生日を祝っている」という映像が自分史上最古のものだが、この映像の中にぼくの姿もある。

おかしい。自分の記憶なのに、自分の姿がある。幽体離脱をして外から自分の姿を見ていたのだろうか。

これは、もっと大きくなって見せられた写真をもとに、捏造した記憶だろう。



「二歳のときに入院していた」という記憶もある。

これは事実だ。姉と自転車の二人乗りをしていて、転んで左ひじの骨を折ったのだ。

入院中のあるとき、赤い飴玉を渡された。飴玉をなめていると、それが睡眠薬だったらしく、眠りに落ちてしまった。目が覚めたら手術が終わっていた。


……とずっと思っていたのだが、あるとき母にその話をしたら「そんなわけないじゃない」と言われた。

たしかに二歳の子どもに睡眠薬を飲ませるなんてあぶない。ふつうは全身麻酔をするだろう。また飴玉を睡眠薬にしたら、寝たときにのどに詰まる危険性がある。

よく考えたらいろいろとおかしい。

しかしこれは写真もないし、どこから「赤い飴玉の睡眠薬」という発想が出てきたのか、謎だ。

しかし最近、『ひとまねこざるびょういんへいく』という絵本を見ていると、おさるのジョージが病院で赤い薬をなめて寝てしまうというシーンがあった。

この本、うちにもあった。母に訊くと「あんたが入院していたときに買ったのよ」とのことだった。

なるほど、これだったのか。どうやらおさるの記憶と自分の記憶がごっちゃになっていたらしい。



自分の記憶って、けっこうあてにならないもんだな。

二歳のときだから、ってのもあるけど、もしかしたら二十歳ぐらいの記憶も半分くらい後から捏造しているかもしれない。


2018年2月15日木曜日

ママは猟奇的


ときどき母と本の交換をする。「これ、おもしろかったよ」と自分が読んだ本を交換するのだ。

母はミステリやサスペンスが好きなので、こないだ清水潔『殺人犯はそこにいる』を贈った。
「ノンフィクションだけど、そこらのミステリ小説よりずっと手に汗握る展開だった」と。



一ヶ月後、母に尋ねた。
「『殺人犯はそこにいる』、読んだ? すごい本やったやろ?」

すると母は「途中で読むのやめちゃった」と言う。

「えー!? なんで? あの本を途中でやめられる? ぼくは中盤から一気に読んだけどな」

「いや、ノンフィクションとしてはすごくいい本だと思う。
 でも、孫ができてから、ちっちゃい子がひどい目に遭う話は読めなくなったのよね。
 うちの孫がこんな目に遭ったらと思うとつらすぎて……」

と。

母の変わりように驚いてしまった。

あんなにサスペンスやホラーが好きだった母が。学生時代から『雨月物語』を愛読し、猟奇的な殺人事件もののミステリばかり読んでいた母が。

人間、歳をとると変わるんだねえ。


しかしなによりショックだったのは、「孫ができてからちっちゃい子がひどい目に遭う話はつらすぎて読めない」と言う母が、ぼくが子どものときはそんなことを一言も言っておらず、残虐な物語もよく読んでいたこと。

我が子はええんかい。