2017年12月22日金曜日

おじさんじゃないもの


ぼくのおじさんはちょっと変わりもので、田舎で陶芸家をやっている。

四十歳くらいのときに縁もゆかりもない村に移住して、隣の家が五十メートルぐらい離れているという広い敷地に住んでいる。
そんな田舎だから人付き合いは濃厚らしいのだが、おじさんはやれ祭りだ町内会だ青年団だといった風習にいちいち反発していたらしい。

はじめは喧嘩になっていたそうだが、そのうち「あの人は変わりものだから」ということで周囲も近寄ってこなくなったらしく、「うるさいやつらがこなくなって快適だ」と言って喜んでいた。

偏屈な陶芸家、というと無口な人を想像するかもしれないが、ぜんぜんそんなことはない。
親しい人の前ではむしろ饒舌で、甥っ子であるぼくなどはずいぶんかわいがってもらった。
下品な冗談や役にも立たない知識をずいぶん教えてくれた。

たとえば、
「"一盗二卑三妾四妓五妻" っていう言葉があってね。相手をするのにいちばんいいのは盗んだ女、つまり人妻だね。次が卑、女中さんに手を付けるのが楽しいってことだね。今でいうメイドさんかな。その次の妾はわかるね、おメカケさん、愛人だ。妓っていうのはちょっと難しいね。これは商売女、つまり売春婦。そして最後が自分の妻だ。これは最悪とされている」
なんてことを、まるで塾講師のような口調で中学生のぼくに教えてくれたのはこのおじさんだ。
中学生に何教えてくれとんねん。すぐ覚えたけども。



大学生のとき、友人たちといっしょにおじさんの家に遊びにいった。
すごく広い家だから、家の庭にテントを張らせてもらい、毎晩酒を飲んで走りまわった。

おじさんは「女子大生ならよかったのに」と言いながらもぼくたちバカうるさい男子大学生を歓迎してくれて、陶芸を教えてくれたり、車であちこち連れていってくれたりした。

そんなおじさんの口癖が「おじさんじゃないもの」だ。

おじさんが渓谷に連れていってくれた。
高さ二メートルぐらいの岩があり、下にはそこそこ深い川が流れている。
おじさんは云う。「地元の子どもたちはあそこから飛びこむんだよ。君たちもやってごらんよ」
ぼくは怖気づいて尋ねる。「えっ、でもけっこうな高さがありますよね。失敗してケガする人とかいないんですか」
おじさんは笑って云う。「大丈夫だよ、失敗したってケガするのはおじさんじゃないもの

万事その調子で、あれやこれやとけしかけては
大丈夫、バレたって逮捕されるのはおじさんじゃないもの
平気平気。だめだったとしても困るのはおじさんじゃないもの
と笑うのだ。

なんでいいかげんな人なんだろう、と思っていた。



でもよくよく考えてみると、悩み相談やアドバイスなんて、結局みんな他人事だ。

だったら「若いんだから失敗を恐れずにやってみな。大丈夫、なんとかなる!」なんて無責任なことを云う人よりも「だめでも困るのはおじさんじゃないもの」とはっきり口にするおじさんのほうが、ずっと誠実なのかもしれない。


2017年12月21日木曜日

目をつぶったろう


小学五年生のとき。
休み時間に体育館周りのテラスでボールを転がして遊んでいたら、担任のヤスダ先生に見つかった。

ふつうの先生なら「ボール遊びは運動場でしなさい!」と叱るところだが、このヤスダ先生はすばらしい先生で、頭ごなしに叱りつけるということをしない人だった。

ぼくらがどんな遊びをしているか聞くと、
「なるほど。ほんまはテラスでボール遊びをしたらあかんけど、ここはあんまり人も通らんし、ボールを転がしてるだけやったら窓を割ることもないやろうな。危なくなさそうやから、目をつぶったろう」
と云った。
なんと理解のある先生だろう。

ところが、小学五年生の男子というのはヤスダ先生が思っているよりもバカだった。

数日後、別の教師に見つかって叱られたときに、ぼくらは
「でもヤスダ先生はやってもいいって言ったで!」
と言いかえした。

なんとバカなんだろう。ヤスダ先生は「ほんまはあかんけどおれは目をつぶる」と言ってくれたのに、ぼくらにはその心配りがまったく理解できず「やってもいいと言われた」と解釈してしまったのだ。

ぼくらを叱った教師からヤスダ先生に苦情が入り、ヤスダ先生が怒られたらしい。
後でぼくらを呼びだして「おまえらなあ……。目をつぶるってのは、やってもいいってこととはちゃうんやで……」とつぶやいたヤスダ先生の寂しそうな顔が忘れられない。

当時はそれでもなぜ怒られたのかよくわかっていなかったけど、今ならわかる。
ヤスダ先生、バカでごめんなさい。

2017年12月20日水曜日

銭湯と貧乏性



銭湯が好きでときどき行くのだけれど、毎回ちょっと損をした気分になる。

ぼくは長湯が苦手だ。時間を持て余してしまう。
「あー、やっぱり広い風呂は気持ちいいなー」と思って手足を伸ばすのだが、五分もすると「飽きてきたな」と思えてくる。

家の風呂だと本を読みながら一時間くらい浸かっていることもあるのだが、銭湯で本を読むのはなんとなく気が引ける。たぶんダメではないと思うんだけど、湯船に浸かりながら本を読んでいる人を見たことがないので、その勇気が持てない。
近所の銭湯には一応テレビがあるけど、画面がちっちゃいし、音は聞こえないし、観たい番組をやっているとはかぎらないしで、あまりテレビを見ようという気になれない。

風呂好きの友人にその話をすると「飽きてきたらサウナとか電気風呂とか水風呂なんかをローテーションしたらいいんだよ」と云われた。

でもぼくはサウナが嫌いだ。だって暑いもの。
ぶったおれそうになるし、全裸の男たちが狭いところでハァハァ言ってるのも快適じゃないし、なにより「外から鍵をかけたらたらどうしよう」と思うと一刻も早く外に出たくなる。

電気風呂も嫌いだ。痛いもの。
身体にいい、ということになっているがほんとうなのか。銭湯に対してこんなこと言いたくないけど、身体にいいというエビデンスはあるのか。それどころか心臓に悪そうだぞ。毎年多くの人の命を奪ってるんじゃないのか。

水風呂はけっこう好きだ。気持ちがいいから。
でも一分も入っていたら身体の芯から冷えるので、それ以上入っていられない。

ぼくの銭湯スケジュールは、
洗体・洗髪(五分) → ジェット風呂(五分) → 水風呂(一分) → ふつうの風呂(二分)
だいたいこんなもので、着替えの時間を入れても二十分くらいだ。

大きい風呂に入って気持ちよかったと思うんだけど、同時になんかもったいない気がする。
銭湯の入浴料というのは三十分入ろうが二時間入ろうが同じ値段なわけで、だったらもっと長湯をしたほうが得、と思ってしまう。サウナも電気風呂も料金の中には含まれているのに、それを利用しなかったから「元をとっていない」ような気になるのだ。我ながら貧乏くさい。

せめてもの元をとろうと、風呂から出た後には休憩スペースでゆっくりくつろぐ。
牛乳を飲み、本を読み、壁に貼ってある銭湯からのお便りやら周辺地図やらまでじっくり目を通し、べつに観たいわけでもないテレビを観て、気づいたら一時間くらい経っている。
二十分風呂に入り、六十分だらだらする。
おかげで身体はすっかり冷えており、銭湯からの帰り道には毎回己の貧乏性が嫌になる。


2017年12月19日火曜日

『約束のネバーランド』に感じた個人芸術としての漫画の終焉


『約束のネバーランド』

白井カイウ(原作) 出水ぽすか(漫画)

内容(e-honより)
母と慕う彼女は親ではない。共に暮らす彼らは兄弟ではない。エマ・ノーマン・レイの三人はこの小さな孤児院で幸せな毎日を送っていた。しかし、彼らの日常はある日突然終わりを告げた。真実を知った彼らを待つ運命とは…!?

宝島社『このマンガがすごい! 2018』でオトコ編1位だったので購入。
本屋大賞は嫌いだけど(理由は これ とか あれ とか)、『このマンガがすごい』は信頼してる。

一見幸せいっぱいに見える孤児院にはじつは裏の顔があった。里親に引き取られていったはずの子が殺されていることがわかり……。
というサスペンスっぽい導入の話。
最新刊(6巻)まで読んだけど、どうやって孤児院を脱走するか、孤児院の外はどうなっているか、世界観から細部までよく練られており、評判にたがわぬおもしろさだった。


おもしろかった。うん、おもしろかった。おもしろかったんだけど……。

なんだろう、あんまりわくわくしなかった。
「この先どうなるんだろう!?」って緊迫感が味わえなかった。
ひとつには、ぼくがおとなになっちまったからってのもあると思う。多くのストーリーに接したせいで感受性が鈍った。
でも、周到につくりこまれた綿密な原作も、"わくわく感" を損なう原因になっているように思う。


このマンガ、ほんとによくできてる。一切の無駄がない。伏線がほどよくわかりやすい形でちりばめられている。どのエピソードもなくてはならない。どうでもいいセリフがない。ひとコマひとコマ丁寧に描かれている。
でもそれがかえって、窮屈な印象を与えている。

主人公たちがどんなにピンチになっても「はいはい原作にのっとってピンチになったのね」って感じしかしない。「おいおいこれ助かるのか!?」って思えない。「予定通りピンチになったのね」と思えてしまう。
よくできすぎてるからなんだろうな。

比べるようなものではないと思うけど、名作『ドラゴンボール』は行き当たりばったり感が強かった。伏線もほとんどなかったし、たぶん作者自身が「次どうしよう」って考えながら描いていたのだろう。当然、読者からしたらまったく先が読めない漫画だった。
だから、悟空が死んだときは「おいおい主人公が死んじゃったよ。どうすんだよ」と思ったし、フリーザ様が「私の戦闘力は530000です」といったときには絶望感しかなかった。
「この先、うまく解決するの?」と不安になった。

たとえるなら、『ドラゴンボール』は道なき道を走る暴走トラックだったのに対し、『約束のネバーランド』はレールの上を一直線に走る快速列車。快速から見える風景もきれいなんだけど、どこに連れていかれるのかわからないドキドキ感はない。

『ドラえもん』に、『あやうし! ライオン仮面』というエピソードがある。
フニャコフニャ夫という人気漫画家が、〆切に追われるあまり先の展開をまったく考えずに連載漫画主人公・ライオン仮面をピンチに陥れてしまう。そしてその先の展開が思いつかず、未来の『ライオン仮面』を読んだドラえもんから続きのストーリーを教えてもらう……というタイムパラドックスを扱った名作SFエピソードだ。
この『ライオン仮面』、たぶん雑誌連載で読んでいるのび太たちにとってはめちゃくちゃおもしろかったにちがいない。だって作者にすら先が読めていないんだもの(もっとも『ドラえもん』の読者からするとぜんぜんおもしろくない)。



『約束のネバーランド』が、漫画界の最高峰といってもいい『このマンガがすごい!』大賞に選ばれたのは、個人の創作活動としての漫画が終焉に近づいているということの示唆なのかな、と思う。

たいていの漫画はプロダクションで複数人によって制作されていると思うが、基本的に作者として名前が表に出るのはひとりだけ。企画も話作りも構成もキャラクターデザインも作画も、作者がやっている(ということになっている)。他のスタッフはその他大勢のアシスタントで、せいぜい誰も読まない単行本最後のページに「special thanks!」みたいな形でちょろっと名前が出るだけだ。

アメリカのコミック、いわゆるアメコミは徹底した分業制をとっているそうだ。話作りと作画と着色とすべて別の人が担当し、さらにそれぞれ複数人が担当している。タイトルは同じ『バットマン』でも、いろんな絵柄の『バットマン』が存在する。バットマンは個人の創作物ではなく、映画のような共同作品だ。

『約束のネバーランド』にも同じようなものを感じた。
原作者と漫画家が別だから、だけじゃない。
丁寧かつわかりやすく伏線が張りめぐらされていること、無駄なエピソードやセリフがないこと、お手本のような起承転結ストーリーになっていること、あまりにもよくできていて「セオリーにのっとってシステマチックに作ったなあ」という印象を受ける。


悪口を言ってるみたいになってきたけど、最初にも書いたようにおもしろい漫画だと思う。
ただ、個人芸術ではなくこれはもう工業製品だなー、とも思う。
漫画雑誌は人気競争だから、他の漫画はこの大手メーカーによる大量生産車のような漫画と闘っていかなくてはならない。あと何年かしたら個人の漫画は駆逐され、SNSやブログで細々と発表する趣味のものだけになり、商業漫画は漫画制作会社が会議を繰り返して作った製品だけになるんじゃないだろうか。

それが業界の成熟ってことだろうし全体のレベルが上がって読者としては楽しめるようになるんだろうけど、漫画がシステム化されてゆくことに一抹の寂しさも感じる。



 その他の読書感想文はこちら


2017年12月18日月曜日

見て見ぬふりをする人の心理 / 吉田 修一『パレード』【読書感想】


『パレード』

吉田 修一

内容(e-honより)
都内の2LDKマンションに暮らは男女四人の若者達。「上辺だけの付き合い?私にはそれくらいが丁度いい」。それぞれが不安や焦燥感を抱えながらも、“本当の自分”を装うことで優しく怠惰に続く共同生活。そこに男娼をするサトルが加わり、徐々に小さな波紋が広がり始め…。発売直後から各紙誌の絶賛を浴びた、第15回山本周五郎賞受賞作。

吉田修一氏の小説を読むのは『元職員』『怒り』に次いで三作目。
公金を使いこんだ男の逃げ場のない焦燥感がにじむ『元職員』、隣人が殺人犯かもしれないと思い疑心暗鬼になって不幸になっていく人々が描かれる『怒り』、どっちも嫌な小説だった(褒め言葉ね)。
だから吉田修一といえば嫌な小説を書く人というイメージだったんだけど、こんな「四人の若者が共同生活を通して少しずつ変わっていく」みたいな青春ストーリーも書けるのかー。

……と思いながら読んでいたら。
おおっと。後半で思わぬ展開に。
やっぱり "嫌な小説" だった。前半が青春ぬくぬく小説、みたいな感じだったから余計に後半の醜悪さが際立っている。
こういう裏切り、ぼくは好きなんだけど、嫌な人はとことん嫌だろうね。

以下ネタバレ。



『パレード』では、共同生活を送る住人のひとりが通り魔をやっている。それを隠して、同居人に対しては明るく楽しく接している。会社ではまじめに仕事をしている。信頼も厚い。
彼にとっては、友人や同僚の前で見せる面倒見のいいすてきなおにいさんも真実の姿だし、夜道で女性を殴りたくなるのも彼の本当の姿。
怖い。怖いんだけど、でもわかる。
ぼくは通り魔はやらないけど、人に言えない秘密は持っている。家族に見せる顔と友人に見せる顔と仕事の顔と知らない人向けの顔はそれぞれ少しずつ違う。
だから「親しい人の前では気のいいにいちゃんが、じつは通り魔」というシチュエーションは共感はできないけど理解できる。
もしぼくが通り魔だったとしても、24時間通り魔らしいふるまいをしたりはしない。人に親切にすることもあるだろうし、近所の人にはあいそよくふるまうだろう。

『パレード』でぼくが怖いと感じたのは「同居人たちも実は彼が通り魔だと気づいているのに気づかないふりをしている」というとこ。
あえて口をつぐんでいる理由も、同居人が通り魔だと知った後の心境も書かれていない。だから何もわからない。わからないから怖い。



自分の家族や親しい友人が「どうも犯罪者らしい」と気づいてしまったら、ぼくならどうするだろう。
「問いただす」「自首を促す」「本人が自首しないなら警察に通報する」
法治国家の市民としてそれが適切な対応だとわかっているけど、でもいざそういう状況になったときに正しく行動できるか自信はない。
よほど決定的な証拠を見つけてしまわないかぎりは、見て見ぬふりをしてしまうのではないだろうか。ごまかせるものならうやむやにしてしまいたい、と願うのではないだろうか。

以前、自宅の一室に少女を十年近くも監禁していた男が逮捕される、という事件があった(新潟少女監禁事件)。
犯人の男は母親と同居しており、当時「人を部屋に監禁していたら同居人が気づかないわけがない。母親も共犯だったのでは」と問題になった。でも結局、母親の関与はなかったとされて立件はされていない。
ふつうに考えれば「家族が自宅に人を十年監禁していたら気づかないわけがない」だろう。ぼくもそう思う。でも、「気づかないことにしてしまうかもしれない」とも思う。

家族が殺人罪で逮捕したら、ぼくは家族の無実を信じると思う。
でもそれは愛情からくる美しい信頼ではなく、「めんどくさいことになってほしくない」という身勝手な願望から信じるだけだ。嫌な事実を受けとめる強さがないから、ありえなさそうだけどあってほしい都合のいい嘘を信じる。新潟少女監禁事件の犯人の母親がたぶんそうだったように。

「人を部屋に監禁していたら同居人が気づかないわけがない」というのはまっとうな言い分だが、みんながみんな強く正しく行動できるわけではないと思う。ぼくも自信がない。

『パレード』は、そんな己の身勝手さ、弱さを眼前につきつけてくるような小説だった。


【関連記事】

吉田 修一 『怒り』 / 知人が殺人犯だったら……

吉田 修一『元職員』




 その他の読書感想文はこちら