2017年10月4日水曜日
10ユーロをだましとられて怒る人、笑う人
新婚旅行でイタリアに行った。
コロッセオに行くと、入口の前に中世の鎧騎士みたいな恰好をしたおっさんが2人立っていて、陽気な笑顔で「チャオ!」と手を振ってきた。
コロッセオ運営会社に雇われているおっさんだろうか。
それとも個人的な趣味でやっているのだろうか。
おもしろいおっさんだと思い身振り手振りで「写真を撮ってもいいか」と訊くと、「撮れ撮れ」と言ってくる。
もう一方のおっさんが「カメラ貸しな」というジェスチャーをしてくる。
「カメラを盗まれるんじゃ………」と一瞬不安になるが、おっさんが満面の笑みを浮かべているので断れない。
カメラを渡すと、おっさんは早速カメラを構えて「そこに並べ」と指示を出してくる。
ぼくと妻はそれに従い、鎧騎士のおっさんを挟むようにして記念写真を撮った。
コロッセオを背景にして、鎧騎士のイタリア人おっさんと撮影。とてもいい写真が撮れた。
なんて気持ちのいいおっさんたちだろう。
「グラッツェ」と言ってカメラを返してもらおうとすると、おっさんが手のひらを差し出してきた。
ああ、そういうことね。そういう仕組みね。すぐに事情が呑みこめた。
このおっさんたちは鎧騎士の恰好をして、観光客相手から小金を巻きあげている商売の人なのだ。
日本の観光地にはまずこの手の人がいないので「イタリア人はサービス精神旺盛だなあ」とのんきに考えていたが、うっかりしていた。
ここは外国なのだということを改めて感じた。
そういうことならしかたがない。
楽しい写真を撮らせてもらったわけだからチップを支払うことはやぶさかではない。
ぼくは財布から1ユーロ硬貨を取りだして、おっさんに手渡した。日本円にして100円ちょっと。
するとおっさんは、ぼくと妻を指さしてイタリア語で何かしゃべる。
どうやら「2人いるんだから2人とも払ってよ」というようなことを言っているらしい。
「2人分払えってさ」と妻に伝えると、妻も財布を取りだして1ユーロをおっさんに渡した。
ところがおっさんたちはまだ納得しない。妻の財布を除きこみ、紙幣を指さす。
10ユーロ紙幣を渡せと言っているらしい。
いくらなんでも写真を1枚撮っただけで1,000円以上よこせというのは高すぎる。
ぼくは苦笑して「ノ、ノ、ノ」と伝えた。ついでに日本語で「10ユーロってあほか」とつけくわえた。
しかし内心では喜んでいる。
隙あらば観光客からぼったくろうとしてくる商売人とのやりとりが、ぼくはけっこう好きだ。
ところが妻は10ユーロ紙幣を財布から取りだすと、おっさんに手渡してしまった。
その場から離れて、ぼくは笑いながら妻に言った。
「はっはっは。10ユーロぼられてやんの」
妻は何も言わない。目を伏せたまま黙って歩いている。
「10ユーロはちょっと気前良すぎじゃない?」
からかうような口調で言うと、妻はきっとぼくをにらみつけた。
「ちょっと。外国人のおっさんにからまれて怖かったからお金渡したのに、なんで笑うのよ!」
その剣幕にびっくりしてしまった。
彼女が何に起こっているのか、ちっともわからなかった。
まず「怖かった」というのが理解できない。
ぼくだって暗がりの細い路地で外国人2人にからまれたらおしっこちびるぐらい怖いが、ここは昼日中の観光名所。
観光客でごった返していて近くには警備員もいる。
もめ事を起こして商売ができなくなって困るのはおっさんたちだ。
おっさんの要求を無視したって、危ない目に遭うことは万にひとつもないだろう。
しかもぼくらが金を払わなかったのならともかく、2ユーロも払っている。
こういうものに決まった値段はないが、おっさんの写真を1枚撮る料金の相場として考えれば安すぎることはないだろう。
なによりぼくが妻との間にギャップを感じたのは、この一件に関するとらえかただった。
しつこいおっさんに1,000円ちょっとのお金をぼられた出来事は、ぼくにとっては「旅先で起こった、ちょっとしたおもしろハプニング」だった。
むしろ高くない金で土産話のネタを買えてラッキー、ぐらいのものだ(お金を出したのは妻だが)。
だが妻は、怖い目に遭わされたことや余計なお金を払わされたことやぼくに笑われたことがショックだったらしく、その後もしばらくふさぎこんでいた。
新婚早々、そんな妻に対してぼくは少し不安を感じた。
「1,000円ぼられたぐらいで落ちこんでいて、この人は生きていくのがしんどくないのだろうか」と。
たぶん妻も、ぼくに対して不安を感じていたのではないだろうか。
「少しまちがえれば大事故につながっていたかもしれないのに、この人はへらへらしている。大丈夫だろうか」と。
それから5年。
ぼくと妻は、今のところそれなりにうまくやっている(当方が認識しているかぎりでは)。
ぼくは相変わらず人生をまじめに生きていないし、妻はぼくからしたら些細なことを真剣に悩んでいる。
いいかげんな父と生真面目な母を持った娘は苦労することもあるだろうが、それぞれの気質に腹を立てながらもおもしろさを感じてくれたらいいなと思う。
ツイートまとめ 2017年9月
効果音
大岡さんという人と会ったのだけど、名刺のアルファベット表記が「oooka」だった。oが3つも連続していてスピード感がある。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月4日
アメコミの効果音表現で「boooon!!」みたいなのがあるけど、そんな感じ。
緊急避難
急に娘が背中に乗ってきて「何ふざけてんだろ」と思ってたら、背中に本気のゲロ吐かれた。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月6日
何すんねんと思ったけど、布団や畳に吐かれるよりTシャツ1枚汚染されるほうが被害が少ないので、意外とファインプレーだ。
背中のゲロを落とさないように四つんばいで風呂に向かった。
表現意欲
もし相田みつをとか種田山頭火とか武者小路実篤が現代に生きていたら、ツイッターでちょこちょこつぶやくだけで表現意欲を満たされていただろうね。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月7日
ということは今ツイッターでそこそこ人気を集めている人も、時代が違えば名の知れた文芸人になってたのかもしれない。
高音中心主義
合唱を考えだしたやつって絶対自分がソプラノパートだったんだろうな。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月7日
「あたしが気持ちよく歌うから、あんたたちはあたしの歌を引き立てることに徹しなさい」なんてなかなか言えませんよ、ふつう。たいしたものです。尊敬します。
不祥事
「不倫は犯罪でもないのにマスコミが騒ぎすぎ」という人がいるが、犯罪じゃないからこそ好き勝手に楽しめるのでは。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月9日
題材は何でもいいのだ。
「女優Kがダイエットに失敗!?」「大物議員のずさんな歯みがきの全貌」みたいにどうでもいいことを大仰に騒いでみたらおもしろくなるかもしれない。
度胸
面接受けにきた人の履歴書に「TOEIC360点」って書いてあって、360点で履歴書に書くなんてすごい肝の座った人だ!と感心した。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月9日
英語を使わない仕事なので「ほれすごいでしょ」って高い点を見せられるより、ずっと好印象だった。
憎悪
娘に目覚まし時計を買ってあげた。自分の時計を手に入れたことや「起こされなくても起きることができる」ことが新鮮で喜んでいたが、数日したらアラーム音にいまいましそうな顔をするようになってきた。人はこうして目覚まし時計を憎むようになるのか。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月13日
4歳の娘、めざまし時計を買ってもらって喜んでいたのだが、起こされることがつらくなってきたらしい。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月25日
「めざましセットしよ?」と言ったら「うーん、でもこれ押したら寝てるときに音がでちゃうやんかいな……」と悩んでいた。
苗字
生まれ変わるならどんな苗字がいいか。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月14日
身近に同姓がいるぐらい平凡なのはイヤ。
読めないぐらい珍しいのはイヤ。
読み方が複数あるのはイヤ。山崎とか。
逆に同じ音の別の漢字があるのもイヤ。斎藤・斉藤とか。
著名人と一緒の苗字もイヤ。
ふつうでいいんだけどな(いきおくれの女か)。
罵倒
娘が蚊に向かって「しめ!」って言ってて、どうやら「死ね!」って言いたかったらしいんだけど、訂正して「死ね」を多用されてもイヤなので誤りを放置しといた。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月17日
道徳心
世の中には「ばれなきゃ何してもいい」「法律違反じゃないから人を困らせてもいい」って考えてるクズが少なからずいるけど、そういうマインドってスポーツ教育によって培われるのではないだろうか。球技などではそれがあたりまえだから。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月17日
スポーツは人を育てるけど、道徳的に育てるとはかぎらない。
雪舟
雪舟は怒られて柱にくくりつけられたときに涙で鼠の絵を描いたそうだ。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月20日
ぼくは小学生のとき先生に説教されながら指に輪ゴムをぐるぐる巻きにしていたら取れなくなって指先が紫になって、先生に泣きついたら説教を中断して取ってもらえたけど後でもっと怒られた。
陳腐
これを見ただけでうんざりするエッセイの文章。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月22日
「その犬がほんとに悪人なのだ。いや犬だから悪犬か」
みたいな言い直し。
定礎
人類が滅びたら紙や木や金属はすぐに劣化して、石に彫られた情報だけがずっと残りつづけるらしい。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月23日
人類滅亡後の日本を調査する生物は、大量に出てくる「定礎」の石板を見て、これはなんのメッセージだろうかと首をひねるにちがいない。
風物詩
最近涼しくなってきましたね。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月23日
またハルキストたちが集まって「村上春樹氏ノーベル賞逃す」と村上春樹さんにいらぬ恥をかかせる季節がやってきますね。
土産
職場の人が、聞いてもいないのに「来週海外に行ってきます!」— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月26日
「すみません、明日から海外なんでおやすみいただきます!」
ってうるさいぐらいに言ってて、帰ってきたらおみやげなし。
いやぼくも職場におみやげ必要ない派やけど、でもおみやげ買わんのやったら黙って行けよ。
歌詞
今まででいちばんすげえと思った歌詞は— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月26日
「じゃまなやつらはぶっとばせ 特にババアやジジイは高得点」(電気グルーヴ『電気ビリビリ』)だな。
すごすぎてCDに収録されてるバージョンでは歌詞変わっちゃったけど。
清潔感
男性の"清潔感"って、実際のきれい/汚いよりも「ひげの剃り跡が濃いかどうか」で決まっている部分が多いような気がする。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月26日
双生児
テレビに、双子の男の子と女の子の映像が映っていた。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月27日
妻に
「さっきテレビに映ってたシーン、『タッチ』みたいだったよ」
と言ったら、妻は
「どういうシーン? きれいな顔してたってこと?」
と言っていた。
遺体のシーンじゃねえか。
飛散
地下鉄の改札でおばちゃんがお金を落として、ちょうど電車が来たから突風が吹いて、紙幣が10枚ぐらい宙を舞った。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月28日
フィクションではときどきあるやつだけど、はじめて現実に宙を舞うお札を見た。
梯子
「はしごを外される」という比喩表現が好きだ。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月28日
ひどい目にあってるはずなのに、なんだかユーモラスだ。
こっそり加藤茶にはしごを外されておろおろするいかりや長介、みたいなドリフ絵が浮かぶ。
意思伝達
話し合っても無駄だと言う人もいるけど、そんなことはない。話し合えばいつか必ずわかる日が来るよ。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月30日
「考えの違う人間はどれだけ言葉を尽くしてもわかりあえない」ってことがわかる日が来るよ!
白飯
三十数年生きてきて最近気づいたけど、ぼくはごはんを食べるために肉や魚を食べている。肉も魚も好きだがごはんがないときは食べたくない。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月30日
肉も魚も、ごはんをおいしく食べるための調味料にすぎない。
清原和博
歴史の本に「清原和博氏」が出てきたのでびっくりしていたら— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月30日
「清和源氏」を空目しただけだった。
銭湯
4歳の娘と銭湯へ行く約束をしたら「なにもっていこう」「このカバンでいい?」「ぎゅうにゅうかうおかねあるかな?」と早朝からそわそわしてる。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) 2017年9月30日
まるで好きな男の子との初デートのよう。裸のおっさんしかおらんけどな。
とりあえずもうちょっと寝かせて。
2017年10月3日火曜日
政治はこうして腐敗する/ジョージ・オーウェル『動物農場』【読書感想】
『動物農場』
ジョージ・オーウェル(著) 開高 健(訳)
ジョージ・オーウェル(SF『一九八四年』の作者)による寓話小説。オリジナルの刊行は1945年。
ハヤカワ、角川、岩波からも出ているが、開高健の訳というのが気になってちくま文庫版を購入。値段はいちばん高かったけどね(ずっと安いKindle版もあったのか……。筑摩書房って電子書籍を出してるイメージがなかったから書店で見かけて買っちゃったよ)。
農場の動物たちが、自分たちが人間に搾取されていることに気づき、革命を起こして動物だけの共和国を打ちたてる。平等で争いがなく誰もが豊かになる社会になったかのように見えたが、徐々に権力の偏りが生じ、支配階級と労働階級に分かれ、共和国は暴力と恐怖に支配されてゆく――。
というストーリー。
要約してしまうとおもしろみがないけど、細部に至るまでのリアリティがすごい。戒律を定めた「七誠」がじわじわ改変されてゆくところとか。
こうして共和国は腐敗していくのか、とドキュメンタリーを読んでいるような気になる。
豚や馬が共和国を打ちたてるという非現実的な設定なのに、人民(獣だけど)が搾取されて苦しむ描写が真に迫っていて哀しくなる。
終始ユーモラスに書かれているのにぬぐいきれない悲哀。
動物の話でよかったよ、これが人間社会の小説だったら重たすぎるぐらいだ。
この小説、社会主義を痛烈に風刺しているように見える。
この旗は、明らかにソビエト連邦の国旗(労働者のシンボルである槌と農民のシンボルである鎌をあしらったデザイン)を意識してるよね。
しかし動物農場のモデルはソビエトではない。Wikipedia にはソビエトをモデルにしていると書いているが、それは違う。
というより、ソビエトはモデルのひとつでしかない。
読者がソビエトのこととして読み取ってもいいんだけど、ソビエトの話に限定して思って読んだら寓話の意味がない。
この作品には、もっと恒久的・普遍的な力がある。
発表から70年たった今、遠く離れた日本人であるぼくが読んでも「リアリティがある」と思える。
それほど『動物農場』で描かれている権力者のありかたはずっと変わらない。まちがいなくこの先も。
『動物農場』の労働者たち(馬や羊たち)は日々の生活に苦しみ、ときどき体制に疑問を抱きながらも、「以前より豊かになっているはず」「他の農場よりもマシなはず」「暮らしは良くなくても今は自由があるから人間に支配されていたころよりはマシ」と信じこみ、搾取される生活から脱しようとはしない。
かつてのソビエト連邦によくあてはまる話ではあるが、毛沢東時代の中国やポル・ポト政権でのカンボジアにもあてはまるだろう。今の北朝鮮の話として読み解くこともできるだろうし、もしかしたら今の日本だって似たようなものかもしれない。
さまざまな読み方をできる小説なのに、ソ連を諷刺した話と限定して読んでしまうのはすごくもったいない。
人間は権力を手にすると腐敗する。
幸運によって得ることができた力をすべて自分の努力だけで勝ち取ったものであるかのように錯覚する。
だから政治家が腐敗するのは仕方ない。
例外的にクリーンな政治家もいるけど、そういった清廉すぎる人物はきっと利害各所を調整する政治家という仕事に向いていない。「白河の清きに魚の住みかねて もとの濁りの田沼恋しき」というやつだ。
清濁併せ呑むぐらいの器を持っている人物のほうが政治には向いている。
だからこそ政治家が私利私欲に走らない(または走りすぎない)ためのシステムが必要になる。
つい最近も某国の総理大臣がおともだちに便宜を図ったとかで騒がれていたが、あの一件でいちばん悪いのは政治家でもそのおともだちでも官僚でもなく、司法だとぼくは思う。
白であろうと黒であろうと、司法が仕事をしていれば早々に解決していた話だ。
裁判所はずっと「高度に政治的な判断」を避けてきたが、高度に政治的な判断こそ裁判所がやるべきじゃないだろうか。
話がずいぶんそれてしまった。『動物農場』の話に戻る。
つくづくよくできている物語だ(開高健も解説で「『動物農場』は完璧」と書いている)。
突拍子もないのに生々しい。おかしいのに腹立たしい。楽しいのに残酷。
そう長くない物語なのに、社会の矛盾のすべてが含まれているみたいな小説だった。
その他の読書感想文はこちら
2017年10月2日月曜日
キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理
『キングオブコント 2017』を観おわって「コントはリアリティはどう処理すべきなのか?」と考えたのでつらつら書いてみる。
ジャングルポケットの1本目のコント。
サラリーマンが痴話喧嘩に巻きこまれてしまい、やっと乗れたエレベーターがなかなか動きださない……。というストーリー。
エレベーターがなかなか出発しないという誰もが経験のある現実感のある設定。
徐々に明らかになる意外な真相。
妙な状況を次第に受け入れてしまう心境の変化。
共感性のあるオチ。
よくできた脚本だった。
だが3人の「やりすぎの演技」がすべてを台無しにしていた。
大会に賭ける意気込みが裏目に出たのだろうか、3人ともが終始大声を張りあげている。抑揚がまったくない。常にテンションの高い芝居は、裏を返せば盛り上がり所のない芝居だ。
考えてみてほしい。
知らない人が「開」ボタンを何度も押すのでなかなかエレベーターが動きださない。
場所は自分の会社が入っているオフィス。相手は同じ会社の人かもしれない。取引先の人かもしれない。そんな相手に向かっていきなり怒鳴り声をぶつけるか?
ふつうのサラリーマンなら、しばらくは静観し、徐々にいらいらした様子を見せ、その後で「すみません、急いでるので先に行かせていただいていいですか?」と声をかける。それでも聞き入れられなければ、そこではじめて声を荒らげることになる。
痴話喧嘩をしている二人も同様だ。
ふつうはわざわざ職場で別れ話をしないし、するのであれば押し殺した声でおこなう。己の恥になる話を、わざわざ知り合いに聞かれるような大声で話すわけがない。
このコントでは徐々にヒートアップしていく過程が完全に省略されて、冒頭から3人ともが声を張りあげる。リアリティは破綻して、せっかくの緻密な脚本がわかりやすいドタバタ喜劇になりさがってしまったのは残念だ。
あの脚本そのままで、たとえば東京03が演じていたならめちゃくちゃおもしろいコントになっていただろうなあ。
コントでは、じっさいにはありえない設定を描くことができる。
「火星を探検する宇宙船の中」でも「ブサイクのほうがもてる世界」でもいい。ただ、どんな無茶な設定を持ってきてもいいが、芝居である以上、その中の登場人物の行動には整合性がなくてはならない。
西暦3000年だろうが、ブサイクがもてる世界だろうが、人は理由もなく他人をぶん殴ったりはしない。何の得もないのに己の財産を投げ捨てたりもしない。
どんなに頭のおかしい人でも、自らの行動原理に基づいて動いている。狂人には狂人のルールがある。
パーパーの卒業式コントで描かれる男は、好きでもない女にキスをせまったり、女を5人集めてくることを要求したりと「めちゃくちゃヤバいやつ」だが、彼の言動には彼なりの論理がある(女を5人集めさせる理由の説得力よ!)。
だから観客は共感はできなくても理解ができる。そしてその論理のおかしさを笑うことができる(まあコントはウケてなかったけどね)。
アンガールズが2本目に披露したストーカーのコントも同様で、好きな女性の夫をつけ狙う男は異常者ではあるが彼の行動は首尾一貫している。
だから設定としては破綻していないのだが、残念なのはその行動を自ら説明していること。
ふつうの人は、自分がとった行動とその目的をわざわざ他人に説明したりはしない。そもそも自分の中でも明快な解釈を持っていないことがほとんどだ。
GAG少年楽団も「幼なじみの男女の50年間の微妙な関係性」という壮大なテーマを示しながらも、すべての歴史を台詞で説明してしまったことでずいぶんと安い芝居になってしまった。
あれを台詞ではなく演技だけで表現することができたならまた違った結果になったのだろうが、あまりに時間が足りないよなあ。
コントにリアリティをもたすための処理がうまかったのは かまいたちだった。
彼らが2本目に披露したウェットスーツを脱がすコントでは、序盤に「4時間もウェットスーツが脱げないんです」という状況を説明している(しかも不自然にならないように、店員が本店に電話で説明する形をとっている)。
あのくだりは笑いをとる上では冗長な部分だが、コント全体にリアリティを与えるという意味で重要な役割を果たしている。
「4時間後」から始めることによって、さらに「鬱血してきている」という説明をくわえることで、客が鋭く店員をなじる様子に説得力が与えられる。店員の手違いで着せられたウェットスーツが脱げないまま4時間も待たされたのなら声を荒らげて怒るのも無理はないな、観客は怒っている客に共感できる。
「あれ? 脱げないな」という状況からはじめてもコントとしては成立するが(そしてそのほうが導入はスムーズだが)客が店員に強いツッコミを入れることの説得力は失われてしまう。
さらば青春の光も、大会の常連だけあって説得力を持たせたコント運びをしていた。
2本とも、序盤は違和感を遠慮がちに指摘するだけにとどめ、徐々に不条理さのギアを上げていってから、強めのフレーズで糾弾している。いつのまにかありえないシチュエーションになっているけど、じわじわとエスカレートしていくので無茶めな行動もすんなり受けいれられてしまう。
じつにうまく観客をあざむいている。
さらに彼らはルックスや演技力も設定とぴったりあっていて、そこでも説得力を持たせていた。「居酒屋でひとりでささやかな晩酌をしているサラリーマン」「ちょっと客をなめた感じの居酒屋店員」「40代でバイトの警備員してる人」の風貌してるもんなあ。
先ほど、人はそれぞれ正当な行動原理を持っているはずと書いたが、その行動原理を意識的に破壊しにいったのがアキナだった。
誰もが「これはボールを拾いにいくだろう」と思う状況で行かない、ふつうの人なら言葉にしなくてもわかる暗黙のルールを理解しないなど、静かな狂気を描いていた。
試みは理解できるのだが、共感性を欠く男の狂気性をじっくり描くには時間がたりなかった。わかりやすい記号(サスペンスでおなじみの音楽)を用いたり、わかりやすい残酷性(「ピーターパンも焼いたら食べられる」発言)を入れたりしたことで、常人と紙一重のところに存在する狂気が、ずいぶん陳腐なものになってしまった。
なによりアキナの最大の不幸は、コントを披露する順番が、リアリティや論理性のある言動の一切を放棄したにゃんこスターのコントの直後だったことだ。常識を捨てたコントの後に常識のずれた人物を描いてもパワーダウンの印象は免れない。今大会でいちばんくじ運で損をした組だろう。
にゃんこスターは、リアリティのある設定や人物描写や文脈のつながりを捨て、さらには暗転前に自己紹介を放りこむことで芝居であるという大枠すらぶっこわしてしまった。
(たしかに革新的ではあったがコントの概念が変わると喧伝されていたのはいささかオーバーだ。キングオブコント初代王者のバッファロー吾郎もリアリティを完全に放棄したコントを披露していたではないか)
リアリティを欠いたコントは評価を落とすが、リアリティを捨てたコントは受け入れられる。
それは、ストーリー漫画では設定に矛盾があってはならないが、ギャグ漫画では矛盾が許されるようなものだ。
ギャグ漫画では、爆発の衝撃でふっとんだ人物が次のコマで包帯ぐるぐる巻きになっていて、さらにその次のコマでは完治していてもかまわない。誰も「すぐに包帯を巻けるはずがない。設定が破綻している」とはつっこまない。突拍子もない展開もある種の記号として処理する暗黙の了解が共有されているからだ。
コンテストの結果は、誠実にリアリティを追求したかまいたちが1位、でたらめな虚構世界をつくりあげてショーに徹したにゃんこスターが2位、巧みな嘘で観客を見事に騙したさらば青春の光が3位。
もちろん3組とも大きな笑いをとっていたが、コントに説得力をもたせることに成功した3組が上位を占めたという点で、芝居の構造的に見てもおもしろい大会だったなあ。
【思考実験】もしも選挙で1人複数票制度が導入されたら
少し前に『基礎からわかる選挙制度改革』という本を読んだ(→ 感想はこちら)。
いろんな国の選挙制度が紹介されていたのだが、共通していたのは「1人1票」という点。
先進国はどこも1人1票なのだ(フランスのように複数投票制を採用している国はあるが、1回の投票で投じられるのは1票だけだ)。
1人が複数票を入れることのできる制度があってもいいのではないだろうか?
ということで【1人複数票制度】について考えてみた。
ぼくが提示するのは
という方式だ。
ある小選挙区にA、B、Cという3人が立候補者がいるとする。
有権者は、これまで通り誰か1人に入れてもいいし、AとB、BとCなど2人に1票ずつ入れてもいい。
3人とも支持したいと思えば、AとBとCの全員に1票ずつ入れてもいい。
先ほどの例で言うと、Aと書かれた用紙、Bと書かれた用紙、Cと書かれた投票用紙の3枚を渡される。
有権者は、そのうち何票かを投票箱に入れ、残りは選挙立会人の前でシュレッダーへかける。
このようなやり方をとれば1人の候補者に複数票を入れることはできない。
電子投票にすればもっとかんたんだ。
技術的には十分可能そうだ。
【1人複数票制度】を導入すれば、先ほどの4種類に加えて「AとB」「BとC」「AとC」「AとBとC」という選択肢が増えるので、有権者の意思表示の幅が広がる。
「AとBとC」は当選結果に影響を与えないので無効票と同じじゃないかと思われるかもしれないが、これは微妙に違う。
供託金の返還には大いに影響を与える。
供託金とは選挙に立候補するときに預けるお金のことで、一定数の得票をとらないと没収される。
衆院選の小選挙区では有効投票総数の10分の1の得票がないと没収されるので、「全員に票を入れない」と「全員に票を入れる」では供託金返還ボーダーぎりぎりの候補者にとっては大きく意味が変わる。
また詳しい説明は省くが、小選挙区でどれだけ票をとったかは比例区で復活当選するかどうかにも関わってくるから、やはり「全員に票を投じる」行為は無効票とは別の行動なのだ。
複数の候補者に票を入れたいと思ったことはないだろうか?
「教育に関してはAの候補者に賛成するけど、経済政策に関してはBの言ってることを支持する」
なんてときだ。
こんなとき、【1人複数票制度】であればAとBの両方に票を投じることができるのだ。やったね。
選挙において「誰でもいいけどこいつはいや」ということはないだろうか。
今の制度だと、「誰かを積極的に支持する」「誰にも入れない」しか選択肢がないため、こういう声をすくいとる方法がない。
【1人複数票制度】だと、「Aだけはいや」と思えば「BとCに入れる」ことでその意思を投票に反映させることができる。
投票率も上がるのではないだろうか(個人的には投票率が高いことはいいこととは思わないけど)。
とはいえ「手書きの文字を読み取る」から「あらかじめ候補者名が印刷された用紙を集計する」に変わるので、集計作業を機械化すれば今までより楽になるのではないだろうか。
電子投票にすればもちろんこの点は解決する。
強いて言うなら、高齢者からの支持率の高い候補者は損をするかもしれない。
さて、【1人複数票制度】を導入すれば、どのような変化が起こるだろうか?
候補者たちはどのように変わるだろうか? 有権者はどう変わるだろうか?
特定の政党の党員や候補者の熱心な支持者の行動は基本的に変わらないだろう。
支持する政党の候補者に1票を投じるだけ。
大きく変化するのは無党派層だ。
たとえば先の都議会議員選では、自民党に対する反対の意思表示として都民ファーストの会が票を集めた。
このように「特定の政党に対する反対票の受け皿として1つの政党に票が集まる」ということが今ほどはなくなる。自民党がイヤなら自民以外のすべてに入れることになるので。
ただし1党集中が軽減されるのはあくまで票の行方の話であって、当選議員数の話ではない。
小選挙区制度である以上、少し流れが変わっただけでドミノ倒しのように一気に戦局がひっくりかえることは今後も起こるだろう。
現行の選挙では、とにかく目立つ、名前を覚えてもらうことが重要とされている。
【1人複数票制度】になればそのやりかたが変わるのではないだろうか。
現行制度では「支持する」意思表示しかできないので、候補者にとってある有権者から「関心を持たれない」と「嫌われる」は同じようなものだった。
どちらも票を入れてくれないのだから、無視してもいい。
そこでとにかく目立つ、支持者に対してアピールする、ということが大きな意味を持つようになり、選挙カーや街頭で大声を張り上げる選挙活動が一般的になった。
選挙カーがあれだけ嫌われていてもなくならないのは、自分への関心の度合いを考えたときに「0.5を1にする」ほうが「0を-1にしてしまう」よりも重要だからだ。
だが【1人複数票制度】では「こいつだけはイヤ」というマイナスの意思表示ができるので、嫌われないようにすることも重要な戦略となる。
不祥事なんてもってのほか。
嫌われたら自分以外の全員に票が集まるかもしれない。
そう思うと、選挙カーで大きな音を出して住宅地を走ることはできなくなるのではないだろうか?
また、知名度は高いがアンチも多いタレント候補は、今より不利になるかもしれない。
現行制度では、過半数の票をとれば確実に勝つことができる。
ところが【1人複数票制度】になれば、合計得票数が投票者数を上回るので、50%を獲っても勝てるとはかぎらない。
選挙区によっては70%ぐらい獲らないと勝てないかもしれない。
となると、大半の人に支持してもらえる政策を打ち出す必要がある。
「原発反対」「憲法改正」なんて賛否両論分かれるテーマは怖くて打ち出せない。
結果的に「子どもたちが暮らしやすい日本を」「活力のある世の中を創る!」みたいな誰にも反対されないけど何も言ってないのと同じ具体性のない公約か、
「大幅減税」みたいな現実味のない政策かのどっちかになってしまう。
どの候補者も似たり寄ったりの耳あたりのいい似たり寄ったりになりそうだなあ。
"悪目立ち"をする候補者は不利になる。
現職・与党はどうしても動向が報道される機会が多くなるので、敵を増やしやすい。
「自民党だけはぜったいイヤ」という人はけっこういるだろうが、「社民党だけはぜったいイヤ」と思う人はほとんどいないだろう。
結果、【1人複数票制度】は現職・与党に不利にはたらきそうだ。
【1人複数票制度】が導入されれば、今よりもっと候補者間・政党間での選挙協力が進むだろう。
「うちの支持者に対してあんたにも票を入れてくれと頼むから、あんたも支持者に対してわたしをよろしく言っといてね」
という取り引きだ。
市議会議員選のような中選挙区では言わずもがな、小選挙区でも中間予想で2位と3位の候補者が結託する可能性もある。
勝ちは諦めたが比例での復活当選を狙う候補者が、惜敗率アップ目当てに選挙協力をするケースもあるかもしれない。
そうなると今以上に政治が権謀術数の世界になり、裏でお金が動く可能性も高まるわけで、このへんが【1人複数票制度】の最大のデメリットかもしれない。
いろんな国の選挙制度が紹介されていたのだが、共通していたのは「1人1票」という点。
先進国はどこも1人1票なのだ(フランスのように複数投票制を採用している国はあるが、1回の投票で投じられるのは1票だけだ)。
1人が複数票を入れることのできる制度があってもいいのではないだろうか?
ということで【1人複数票制度】について考えてみた。
1人複数票制度の概要
もちろん「好きな候補者に何票でも入れていい」制度はありえない。そんなことをしたらむちゃくちゃな結果になるのは目に見えている。ぼくが提示するのは
という方式だ。
ある小選挙区にA、B、Cという3人が立候補者がいるとする。
有権者は、これまで通り誰か1人に入れてもいいし、AとB、BとCなど2人に1票ずつ入れてもいい。
3人とも支持したいと思えば、AとBとCの全員に1票ずつ入れてもいい。
具体的に実行する方法
投票所に行って選挙通知書を提示すると、候補者の氏名が書かれた紙が渡される。先ほどの例で言うと、Aと書かれた用紙、Bと書かれた用紙、Cと書かれた投票用紙の3枚を渡される。
有権者は、そのうち何票かを投票箱に入れ、残りは選挙立会人の前でシュレッダーへかける。
このようなやり方をとれば1人の候補者に複数票を入れることはできない。
電子投票にすればもっとかんたんだ。
技術的には十分可能そうだ。
考えられるメリット
意思表示の選択肢が増える
現行制度だと、3人が立候補した選挙区では、有権者の意思表示の方法は「A」「B」「C」「無効票、白票」「棄権」の5種類しかない。【1人複数票制度】を導入すれば、先ほどの4種類に加えて「AとB」「BとC」「AとC」「AとBとC」という選択肢が増えるので、有権者の意思表示の幅が広がる。
「AとBとC」は当選結果に影響を与えないので無効票と同じじゃないかと思われるかもしれないが、これは微妙に違う。
供託金の返還には大いに影響を与える。
供託金とは選挙に立候補するときに預けるお金のことで、一定数の得票をとらないと没収される。
衆院選の小選挙区では有効投票総数の10分の1の得票がないと没収されるので、「全員に票を入れない」と「全員に票を入れる」では供託金返還ボーダーぎりぎりの候補者にとっては大きく意味が変わる。
また詳しい説明は省くが、小選挙区でどれだけ票をとったかは比例区で復活当選するかどうかにも関わってくるから、やはり「全員に票を投じる」行為は無効票とは別の行動なのだ。
複数の候補者に票を入れたいと思ったことはないだろうか?
「教育に関してはAの候補者に賛成するけど、経済政策に関してはBの言ってることを支持する」
なんてときだ。
こんなとき、【1人複数票制度】であればAとBの両方に票を投じることができるのだ。やったね。
「落としたい」という意思表示ができる
先の理由の一部ではあるが「落選させたい」という意思表示ができるのは大きい。選挙において「誰でもいいけどこいつはいや」ということはないだろうか。
今の制度だと、「誰かを積極的に支持する」「誰にも入れない」しか選択肢がないため、こういう声をすくいとる方法がない。
【1人複数票制度】だと、「Aだけはいや」と思えば「BとCに入れる」ことでその意思を投票に反映させることができる。
投票率も上がるのではないだろうか(個人的には投票率が高いことはいいこととは思わないけど)。
考えられるデメリット
集計の手間がかかる?
得票の総数が増えるため、集計の手間や時間は増えてしまうかもしれない。とはいえ「手書きの文字を読み取る」から「あらかじめ候補者名が印刷された用紙を集計する」に変わるので、集計作業を機械化すれば今までより楽になるのではないだろうか。
電子投票にすればもちろんこの点は解決する。
投票ミスが増える
あらかじめ印刷された投票用紙の中から選択する形にすると、どうしても投票のミスが増えてしまう。
「自民党」と書きたかったのに「共産党」と書いてしまうなんてミスはまず起こらないだろうが、「自民党」と書かれた票を入れたかったのに「共産党」の票をうっかり箱に入れてしまう、というミスは一定数起こるだろう。
これは電子投票にしても解決できない(むしろ増えるかも)問題だとは思う。
とはいえ特定の候補者だけが大きく得をするということはないだろうから、しょうがないのかなという気もする。
不正がしやすい
たとえば「投票用紙に票を入れずにこっそり持ち帰り他の誰かに渡す」という不正をするのが、1人1票のときよりずっと容易になりそうだ。
「1票しかない票をこっそり持ち帰る」よりも「複数票あるうちの1票を持ち帰る」ほうがずっと楽だろうし、「1票入れるふりをしながら2票入れる」よりも「2票入れるふりをしながら3票入れる」ほうがずっと楽だろう。
また、1票しかない票を誰かに譲るより、複数票あるうちの1票を譲るほうが心理的なハードルも低そうだ。
まあこのへんも電子投票であればクリアできる問題だけど。
「1票しかない票をこっそり持ち帰る」よりも「複数票あるうちの1票を持ち帰る」ほうがずっと楽だろうし、「1票入れるふりをしながら2票入れる」よりも「2票入れるふりをしながら3票入れる」ほうがずっと楽だろう。
また、1票しかない票を誰かに譲るより、複数票あるうちの1票を譲るほうが心理的なハードルも低そうだ。
まあこのへんも電子投票であればクリアできる問題だけど。
もし導入されたらどう変わるだろうか?
さて、【1人複数票制度】を導入すれば、どのような変化が起こるだろうか?
候補者たちはどのように変わるだろうか? 有権者はどう変わるだろうか?
変わるのは無党派層
特定の政党の党員や候補者の熱心な支持者の行動は基本的に変わらないだろう。
支持する政党の候補者に1票を投じるだけ。
大きく変化するのは無党派層だ。
たとえば先の都議会議員選では、自民党に対する反対の意思表示として都民ファーストの会が票を集めた。
このように「特定の政党に対する反対票の受け皿として1つの政党に票が集まる」ということが今ほどはなくなる。自民党がイヤなら自民以外のすべてに入れることになるので。
ただし1党集中が軽減されるのはあくまで票の行方の話であって、当選議員数の話ではない。
小選挙区制度である以上、少し流れが変わっただけでドミノ倒しのように一気に戦局がひっくりかえることは今後も起こるだろう。
選挙カーがなくなる?
現行の選挙では、とにかく目立つ、名前を覚えてもらうことが重要とされている。
【1人複数票制度】になればそのやりかたが変わるのではないだろうか。
現行制度では「支持する」意思表示しかできないので、候補者にとってある有権者から「関心を持たれない」と「嫌われる」は同じようなものだった。
どちらも票を入れてくれないのだから、無視してもいい。
そこでとにかく目立つ、支持者に対してアピールする、ということが大きな意味を持つようになり、選挙カーや街頭で大声を張り上げる選挙活動が一般的になった。
選挙カーがあれだけ嫌われていてもなくならないのは、自分への関心の度合いを考えたときに「0.5を1にする」ほうが「0を-1にしてしまう」よりも重要だからだ。
だが【1人複数票制度】では「こいつだけはイヤ」というマイナスの意思表示ができるので、嫌われないようにすることも重要な戦略となる。
不祥事なんてもってのほか。
嫌われたら自分以外の全員に票が集まるかもしれない。
そう思うと、選挙カーで大きな音を出して住宅地を走ることはできなくなるのではないだろうか?
また、知名度は高いがアンチも多いタレント候補は、今より不利になるかもしれない。
政策が似たり寄ったりになる?
現行制度では、過半数の票をとれば確実に勝つことができる。
ところが【1人複数票制度】になれば、合計得票数が投票者数を上回るので、50%を獲っても勝てるとはかぎらない。
選挙区によっては70%ぐらい獲らないと勝てないかもしれない。
となると、大半の人に支持してもらえる政策を打ち出す必要がある。
「原発反対」「憲法改正」なんて賛否両論分かれるテーマは怖くて打ち出せない。
結果的に「子どもたちが暮らしやすい日本を」「活力のある世の中を創る!」みたいな誰にも反対されないけど何も言ってないのと同じ具体性のない公約か、
「大幅減税」みたいな現実味のない政策かのどっちかになってしまう。
どの候補者も似たり寄ったりの耳あたりのいい似たり寄ったりになりそうだなあ。
現職・与党が不利になる?
現職・与党はどうしても動向が報道される機会が多くなるので、敵を増やしやすい。
「自民党だけはぜったいイヤ」という人はけっこういるだろうが、「社民党だけはぜったいイヤ」と思う人はほとんどいないだろう。
結果、【1人複数票制度】は現職・与党に不利にはたらきそうだ。
選挙協力が進む?
【1人複数票制度】が導入されれば、今よりもっと候補者間・政党間での選挙協力が進むだろう。
「うちの支持者に対してあんたにも票を入れてくれと頼むから、あんたも支持者に対してわたしをよろしく言っといてね」
という取り引きだ。
市議会議員選のような中選挙区では言わずもがな、小選挙区でも中間予想で2位と3位の候補者が結託する可能性もある。
勝ちは諦めたが比例での復活当選を狙う候補者が、惜敗率アップ目当てに選挙協力をするケースもあるかもしれない。
そうなると今以上に政治が権謀術数の世界になり、裏でお金が動く可能性も高まるわけで、このへんが【1人複数票制度】の最大のデメリットかもしれない。
導入される可能性は……
ことわっておくが、【1人複数票制度】はぼくが思いついただけの制度だ。
実際に導入しようという声を聞いたことはないし、たぶんこの先も導入されないだろう。
上でも書いたように、有権者にとっては「意志表示しやすくなる」という大きなメリットがあるものの、不正の温床になりそうな気がする。
なにより、与党が不利になる制度だ。
さらに無党派層の票が増えるので、強い支持基盤を持っている公明党なんかは相対的に票が減ることになるだろう。
自民党に不利&公明党に不利、ということなので、まずまちがいなく導入されることはないだろうね……。
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