2017年6月23日金曜日
言わなくていいことを
書店の社員として働いていたときのこと。
あるとき、大学生のアルバイトを事務所へ呼びだした。
ふだんはバイトに対して強く叱ることのなかったぼくだが、このときだけはつとめて厳しい顔で接した。
「なあ、おまえなんで呼ばれたかわかるか?」
ぼくはわざとぞんざいな口調で言った。
バイトくんは一瞬目を泳がせながら考えていたが、自信なさそうに首を振った。
「いえ、わかりません……」
「そうか……」
ぼくは深くため息をついた。
「この前、給与の計算をしていて気がついたんだけどな」
そこまで言ってから、立ったままのバイトくんに目をやった。おどおどとした顔をしている。
たっぷり間をとってから、ぼくは言った。
「最近よくがんばってるから、今月から時給を50円アップしようと思う。その報告です」
バイトくんは一瞬ぽかんとした顔をしていたが、やがて膝からくずれおちるようにしてしゃがみこんだ。
「ちょっとーやめてくださいよー、そういうドッキリ」
「はっはっは。怒られると思った?」
「ぜったい怒られると思いましたよ。犬犬さん、ふだん怒らないのに今日はめちゃくちゃ怖い顔してるからすげー怖かったっすよー」
「ごめんごめん。ちょっとしたイタズラをしたくなって」
「もー。あやうく言わなくていいことを白状しちゃうとこでしたよ」
「え?」
「いや、何もないです」
もう少し泳がせとけばよかった。
2017年6月19日月曜日
圧倒的スピンオフ作品……!『中間管理録トネガワ』【読書感想】
萩原天晴/原作 橋本智広/漫画 三好智樹/漫画
『中間管理録トネガワ』
福本 伸行『カイジ』シリーズのスピンオフ漫画。
原作の連載がストップしているから場つなぎ的に連載しているのかな……と期待せずに読んだら存外におもしろかったので5巻まで一気に買ってしまった。原作は買ってないのに。
いやあ、笑った。
スピンオフが成功するかどうかの鍵として "原作に対する愛情" があるかどうかが重要なんだけど、まったく問題なし。絵柄、コマ割、セリフ回しなどどれをとってもカイジ。福本伸行本人が描いた『中間管理職トネガワ』も同時収録されているけど、何も知らされなかったらどっちがご本人が描いたものなのかわからない。
「圧倒的〇〇」「悪魔的〇〇」といった "福本節" も元々がシリアスとギャグのスレスレだから、ギャグに仕立ててもちっとも違和感がない。というかぴったりハマる。
「なっとらん…! まるで……! 手洗いとは……ただ泡を立て水で流せばいいという単純なものではないっ…!」
たいしたことは言ってないのに、あの口調で語るだけでギャグになってしまうのは原作の力か。
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実はたいしたことを言ってないのにね |
原作では冷徹な悪人として描かれていた利根川を、上司を立てて部下を想い組織を守ろうとする優れた中間管理職として描いているのも見事。
だめな部下にもあたたかい目を注ぎ、できる部下には少し嫉妬し、上司の前ではついいい恰好をしてしまう。そんな人間味のある主人公を中心に据えたことで、一見無個性な黒服たちも回を重ねるごとに活き活きと輝いている。
トネガワさん、いい上司だなあ。
5巻まで読んだけど失速しない。もうパロディの枠を超え、独自のキャラも増えて『トネガワ』オリジナルのストーリーが回りだしている。
原作がちっとも進まないから追い抜いてしまうんじゃないだろうか、というのが心配点だね。
ちなみに、別のスピンオフ作品 『1日外出録ハンチョウ』 も同じくらい高いクオリティでおすすめ。
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2017年6月18日日曜日
【読書感想エッセイ】 大崎 善生 『赦す人 団鬼六伝』
大崎 善生 『赦す人 団鬼六伝』
人気SM小説作家として財をなしながら、趣味の映画制作や将棋雑誌の刊行に財産をつぎこんでは破産するという激しい浮き沈みの人生を送った団鬼六の生涯を描いた本。
団鬼六の人生は豪放磊落すぎて、平凡な小市民であるぼくからするとうらやましいとも愚かだとも思わない。べつの動物を見ているような気がする。
こんなむちゃくちゃなエピソードがごろごろ出てくる。
この本を読んだ後に団鬼六の代表作『花と蛇』を読んだが、なんとも美しくて驚いた。
いや、もちろんSM官能小説だから書かれていることは下劣な内容なんだけど、なんとも不釣り合いな美しい日本語でつづられているのだ。
1950年代に発表されたものだから、ということをさしひいてもこの流麗な文章はSM小説には美しすぎる。
でも文章が美しいことって、官能小説にとってはあんまりいいことじゃないような気がする。汚い言い方をすると「勃たない文章」なのだ。AVに美しい風景や感動的な音楽があってもじゃまでしかないように、官能小説に美しすぎる文章は妨げにしかならないように思う。だって美しい小説を読みたくて官能小説を手に取るわけじゃないんだもの。
でもそこはさすがというべきか『花と蛇』は、文章は華麗だけどストーリーはとことん俗悪だ。男にとってのご都合主義にあふれ、リアリティも意外性もない。
このへんのバランス感覚が見事で、団鬼六が本当に書きたかった純文学の道では成功しなかったけど大衆文学・官能小説が売れたのは、持ってうまれたエンタテインメント性のためなんだろうね。
たとえば『赦す人』にはこんな一説がある。
これを読んでぼくはこう思った。
「いやいや、ぜったいに "盛ってる" やろ!」
話がおもしろすぎる。
まちがいなく嘘だ。
いや、著者である大崎善生さんが嘘を書いたのではないと思う。彼は、きっと団鬼六本人から聞いたとおりに書いたのだと思う。
そして団鬼六自身も嘘をついた自覚はないにちがいない。このエピソードを何度も語っているうちに、聞き手を楽しませるために少しずつ脚色を加えてゆき、この形になったのだろう。本人もこれこそが真実だと思っていたことだろう。
そういう「相手を楽しませるために嘘をついてしまう」タイプの嘘つきという人は存在する。そして彼らに才能があれば一流のエンターテイナーになる。団鬼六はこういうタイプの人だったのだ。知らんけど。
そしてそういう人だったからこそ、いろんな人が周りに集まり、悪いやつらには利用され、各方面には迷惑をかけながらも「しょうがない人だな」と呆れられながら赦されたのだろうな。
それにしても。
大崎善生さんは他にも『聖の青春』『将棋の子』など、将棋の本をいくつか書いている。いや、将棋の本というのは正確ではない。「将棋に関わる人の本」、もっといったら「将棋に人生を狂わされた人の本」だ。
『聖の青春』では命を削って将棋に人生を賭けた棋士・村山聖の生涯を、『将棋の子』ではプロ棋士を目指しながら夢破れた男たちの姿を書いている。そして『赦す人』で書かれるのはやはり、将棋にはまって財産を投げだしてしまう団鬼六の姿だ(団鬼六は将棋そのものというより棋士に対してお金を使ったわけだけど)。
将棋というものは人生を狂わせてしまうほど魅力があるものなんだなあ。
ぼくはそこそこの将棋好きで、アプリで将棋ゲームをしたり詰将棋を解いたりはする。
だけど人との対戦は嫌いだ。オンラインの対局ですらしたくない。コンピュータ相手の将棋しか指さない。
それは、将棋で人に負けるとめちゃくちゃ悔しいからだ。スポーツで負けることの比にならないぐらい悔しい。
ひとつには、将棋は頭脳戦だということ。そして運が入りこむ余地がまったくないこと。ついてなかったな、という言い訳ができない。将棋で負けたら「おまえはバカだ」と言われているように感じる。全人格を否定されているようだ。
小学生のときは友だちと将棋を指すと、たいてい喧嘩になるか、負けたほうが不機嫌になるかで、いずれにせよ終わった後は気まずい空気になった。
高校生ぐらいになるとある程度は「負けっぷり」も意識して、負けても笑って「いやああの手はまずかったなあ」なんて余裕をかますことができるようになったけど、それでも内心はおもしろくなかった。
だからプロの棋士はすごいと思う。棋力はもちろん、精神力が。「あんな嫌な思いをする道を選ぶなんて」と思う。
強くなれば強くなるほど負けるのが悔しくなるという。遊びの将棋で負けても人間性を否定されたような気がするのだから、プロの将棋ならその口惜しさたるやいかほどだろう。
ぼくのように心のせまい人間にとって、将棋は人間とやるもんじゃない。
観戦するか、文句を言わないコンピュータ相手に「待った」をくりかえしながらなんとか勝つぐらいにしとくのがいいね。
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2017年6月16日金曜日
レトロニム
レトロニム、という言葉があることを知った。
Wikipediaには
とある。
これだけ読んでも意味がわからないけど、
- 携帯電話が主流になったので、それまで電話と呼んでいたものを「固定電話」と呼ぶようになった
- 新幹線ができたので、それまでは鉄道と呼んでいたものを「在来線」と呼ぶようになった
といった類の言葉、といえばわかると思う。
「白黒テレビ」「アナログ時計」「地上波放送」など、新しい技術が普及すると古いものは名前を変えることを余儀なくされる。
中にはレッサーパンダのようにひどい例もある。
レッサーパンダはもともと単に「パンダ」と呼ばれていたが、ジャイアントパンダが人気になって「パンダ」といえばジャイアントパンダを指すようになってしまったため、わざわざ「レッサー(小さいほうの)」という言葉を付けられて呼ばれるようになってしまったという。
ぼくの通っていた中学校でも同じことが起こっていた。
シマという苗字の男子生徒が2人いて、身体が大きくて喧嘩が強いほうのシマくんは「シマくん」と呼ばれ、学年でいちばん背の低かったシマくんは「コジマ」と呼ばれていた。
レッサーパンダの件といい、つくづく弱者には厳しい世の中だ。
しかし、おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
どんなものであっても繁栄は長くは続かない。
自動車が普及したことで、それまでただ単に「車」と呼ばれていたものは「人力車」になってしまった。
しかし今ぼくらが「車」と呼んでいるものだって、きっと近いうちに「ガソリン車」とか「手動操縦車」とか「タイヤ車」とか呼ばれるようになるのだろう。
世の中が便利になることはありがたいことだけど、ちょっと寂しい気もする。
年寄りが「昔はよかった」というように、ぼくも歳をとったら「有人店」で「経口摂取食品」や「液体酒」を飲み食いしていた日のことを懐かしむことだろう。
古いものは追憶の彼方へと消えてゆく。
2017年6月15日木曜日
【読書感想エッセイ】我孫子武丸 『殺戮にいたる病』
我孫子武丸 『殺戮にいたる病』
読む前に「驚きの結末」「かなりエグい話」という前評判を聞いていた。
いくつか「驚きの結末」「ラストの大どんでん返し」系のミステリを読んでいる身としては、「たぶん○○は××じゃないんだろうな」と思いながら読むわけで、そういう読み方をしてしまうと正直『殺戮にいたる病』のトリックは予想の範疇だ。
「ははあ、語り手が交代しながらストーリーが進むということはあのパターンね」と思ってしまうわけで、その予想通り「ま、そんなことじゃないかと思ったよ」という結末である。
母親パートのミスリードが強引でフェアじゃないしね。
とはいえ『殺戮にいたる病』が平凡なミステリであるという気はまったくない。
ひとつは、この作品が1992年に発表されたということ。25年前の作品をつかまえて「この手のトリックはもう使いふるされてるよね」とのたまうのはフェアじゃない。25年前にこの作品がミステリ界に与えた影響は並々ならぬものだっただろうと容易に想像がつく。
『殺戮にいたる病』が非凡な作品であるもうひとつの理由は、まったく容赦ないグロテスクな描写で、この点に関しては25年たった今でも少しも古びていない。
ちなみにこの引用部分は、比較的マイルドなところだからね。ただの会話文だし。
犯人がとる行動の描写たるや、ここで引用するのは気が引けるほど。
ぼくは飯を食いながら解剖の話を読んでも平気なぐらいグロテスクな描写に耐性のあるほうだけど(そしてお行儀の悪いほうだけど)、『殺戮にいたる病』で犯人が屍体の一部を切り取って持ち帰るシーンではさすがに「これを読むのは精神的にきついな……」とため息が出た。
ようこんなの書けるわ、と作者に対して感心半分、呆れ半分。
シリアルキラーを主軸に据えたミステリには 殊能将之『ハサミ男』 という白眉があって、これはシンプルながらよくできたトリックがあり、読み終えた後に表紙をもう一度見て「あーそういうことかー」とつくづく感心させられた。
巧みながらわかりやすいトリック、ラストの意外性、後味の悪さ(ぼくは後味が悪い小説が好きなんでね)と、『ハサミ男』のほうは人にも勧められる作品だ。
でも『殺戮にいたる病』はよくできたミステリだけど、人には勧められない。自分の人間性を疑われそうで。
「殺人犯が人を切り刻む描写がいい小説ない?」と聞かれたときには、自信を持ってこの作品を勧めようと思うけどね。どんな質問だ。
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