2017年4月14日金曜日

読書とスーパーマリオブラザーズ3の共通点

本を読む習慣がない人から「なんか読書って敷居が高いよね」と言われた。

まあねえ、慣れてない人にはそうかもねえ、ってそのときは思ったんだけど。

いや待て。
読書って敷居が高いのか?
むしろ、趣味としては相当間口が広いんじゃないのか?

というわけで読書、その中でも小説を読むことの "敷居" について考えてみた。

ハードルを乗り越えた先がいい場所とはかぎらない


もちろん 文字を読めない人にとっては、読書は敷居が高い。とんでもなく高い。
今、たどたどしく一文字ずつ「の、ち、ん、ぽ、が、ら、な、い」と読んでいるうちの3歳児を見ていると、こいつがあと10年もすればたいがいの文章をすらすら読めるようになるとはとても信じられない(3歳児に『夫のちんぽが入らない』を読ますな)。

でも、かなと常用漢字を読める人であれば、読書って十分に楽しめるものだと思う。
古典や翻訳ものはべつにして、軽い小説やエッセイであれば特に前提知識を必要としない。


かたや 他の趣味を考えてみよう。

たとえばプロ野球観戦。
読書でいうところの「文字が読めること」に相当するのが、「野球のルールを知っている」だ。
じゃあ野球の基本的なルールを理解していればプロ野球の試合を観て100%その魅力を味わえるかというと、そんなことはないと思う。たぶん50%ぐらいじゃないだろうか。
両チームが現在何位で、昨年の成績は何位で、ピッチャーは何年目でここまで何勝を挙げていて、バッターはドラフト何位の選手で打率や本塁打数はどれぐらいで、ランナーはどこの高校を出ていてケガをしたのはいつで、センターを守っている選手の肩の強さはどれぐらいで年俸はいくらで昨年までどの球団にいたのか……。

そういうことを把握していたほうが、ぜったいにプロ野球観戦は楽しい。
毎日のようにプロ野球の結果を確認して、選手名鑑を読みこんで、ドラフトや契約更改の情報をチェックして、キャンプ情報なんかも見て、そういうことを何年も何十年も続けたうえで試合を見たほうが楽しめる。

野球を楽しむためには、これぐらいのデータを頭にたたきこんでおく必要はある


こないだ稀勢の里が優勝決定戦で勝利して大きな話題になったけど、あれもあの一番を見ただけではそのすごさがわからない。
貴乃花を最後にずっと日本人横綱が不在で、朝青龍の時代に横綱の品格が問題になって、その後白鵬を筆頭にしたモンゴル勢の時代が続いて、稀勢の里は将来を嘱望されながらなかなか大関に昇進できなくて、師匠が亡くなって、先場所やっと横綱昇進を果たして、場所の途中で怪我を負って出場が危ぶまれていて、対戦相手の照ノ富士はモンゴル出身力士で……という背景を知っているのと知らないのでは、あの一番の重みはぜんぜん違う。

つまりスポーツ観戦を十分に楽しもうと思ったら、少なくとも10年は見続けないといけないと思う。
もちろん初心者でもそれなりに楽しめるけど、10年見続けている人とは理解の度合いに大きな差が生じてしまう。
これを「敷居が高い」と言わずしてなんといおう。

他の趣味でも同じこと。
昨日カメラや自転車や将棋や古銭集めや陶芸をはじめた人が、20年間それを趣味にしている人よりも深淵を味わうことはできないだろう。


だけど 読書については、「これまで教科書以外で小説を1冊も読んだことのない人」と「過去に1万冊読んできた人」が同じ本を手に取ったとき、初心者のほうが深い部分に達することが十分にありうるのではないだろうか。

もちろん、読書にも「前提知識があったほうが楽しめる」部分は存在する(続編とかはおいといて)。
たとえば村上春樹の新作を読んだとき、『ノルウェイの森』を読んだことのある人は「これは『ノルウェイの森』のあの部分と共通するな」といった楽しみ方ができる。
でもそれで増える楽しみって、せいぜい2%ぐらいじゃない?

本というメディアは基本的にその1冊の中ですべての情報が提示されているので、毎回まっさらな状態で接することができる。そこに初心者と熟練者を隔てる大きな壁は存在しない。
だから敷居が低い、とぼくは思う。
(映画も近いかもしれないけど、映画は俳優の過去の出演作品やプライベートな情報が多少乗っかるので、完全にまっさらではないと思う)


逆に 言うと、たくさん読んだからって読書スキルが積みあげられるわけではない。
多少読むのが速くなるぐらいだし、速ければいいというものでもない。

読書は、毎回一からのスタートだ。

スポーツ観戦やギターや蒐集の趣味がオートセーブ型のロールプレイングゲームだとしたら、読書は初代ファミコン版の「スーパーマリオブラザーズ3」。どれだけがんばっても、セーブができないから次回はまた一から。

べつにどっちがいいとかじゃなくて、積みあげていくのも楽しいし、毎回新しい気持ちで取り組める趣味も楽しい。

ただ「読書は敷居が高い」という点だけは否定しておきたいと思う。

1冊読むコストはすごく安いしね。



2017年4月13日木曜日

【読書感想エッセイ】 岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』

岩瀬 彰 『「月給100円サラリーマン」の時代』

内容(「BOOK」データベースより)
戦前社会が「ただまっ暗だったというのは間違いでなければうそである」(山本夏彦)。戦争が間近に迫っていても、庶民はその日その日をやりくりして生活する。サラリーマンの月給、家賃の相場、学歴と出世の関係、さらには女性の服装と社会的ステータスの関係まで―。豊富な資料と具体的なイメージを通して、戦前日本の「普通の人」の生活感覚を明らかにする。

講談社現代新書で2006年に出版されたものの絶版になっていたのを、ちくま文庫から再刊されたもの。
いやあ、いい本。再刊してくれてよかった。筑摩さん、ありがとう。



戦前は意外と今と近い


昭和十年頃(日中戦争、太平洋戦争が始まるちょっと前)の都市生活者の暮らしを、「お金」という切り口で描いた本。

「戦前の生活」というのは江戸時代の暮らしと同じくらい遠い時代のイメージだったんだけど、この本を読むと、サラリーマンはスーツを着て会社に行き、学生は勉強そっちのけでビリヤードに精を出したりしていたらしい。なーんだ、今と似たような生活を送っていたんじゃないか(少なくとも男性は)。
「玉音放送で価値観がガラッと変わった」なんて話をよく聞くけど、大きな断絶があるのは「戦中から戦後になったとき」であって、「戦前の平和な時代と戦後の復興後」はけっこう近い生活をしていたんだとか。

 戦後に人々が復興しようとしたのは、当然のことだが「平和の戦前」であり、復興のスローガンは、戦前で最も経済が安定していたとされる「昭和八年に帰ろう」だった、という。実際、昭和ヒトケタから昭和三十年代なかごろまでの日本人の基本的ライフスタイルはほぼ同じだったといってよい。つまり、戸建ての日本家屋に住み、主に和室で生活し、ふだんの買い物は八百屋や魚屋といった個人商店ですませ、日常の足は公共交通機関に頼るという生活だ。ここに、昭和八年と昭和二十六年の雑誌小説の挿絵を並べてみるが、戦争をはさんで十八年の時差があるにもかかわらず驚くほどスタイルが変わっていないのがわかる。

どうも、江戸時代よりはずっと近いようだ。
といってもこれは都市生活者の暮らしの話で、農村部と都心部の暮らしの差は今よりもずっと大きかったのだろう。
ぼくの父は昭和30年生まれだけど雪国の農家で育ったので、幼少の頃は「牛を飼っていて、冬になると家の中に入れて一緒に生活していた」そうだ。日本昔ばなしみたいな話だけど、昭和40年くらいでもまだそんなところはあったんだねえ(もしかしたら今でもあるのかも)。
母は同世代だけど都会育ちなので、母がテレビで『鉄腕アトム』を観ていたころに、父は「村で唯一電話があるのが自慢だった」という。ずいぶんと差がある。





戦前の金銭感覚について


物価についてはいろいろと説があるようだが、だいたい2,000倍して考えるとだいたい今の価値に近くなる、とこの本には書いている。
外食で30~50銭ぐらい出せばそこそこの食事ができたらしいから、今の価値だと600~1,000円。まあそんなもんだろう(東京だと600円で食事できるところはファーストフードしかないだろうけど)。

この本のタイトルにもなっているように、「月給100円」というのが戦前サラリーマンにとってひとつのボーダーだったようだ。100円稼いでいればそこそこいい暮らしができる、という認識だったみたい。
しかし月に100円ということは、今の価値だと20万円。しかもボーナスを入れての金額なので、毎月支給されるのは10万円をちょっと超えるぐらい。10万円ちょっとで「そこそこいい暮らし」ができたのだから、いい時代だ。

今は30代の平均年収が400万円くらいらしいので(賞与含む)、月収ベースにすると30万とちょっと。
物価は2,000倍で所得は3,000倍以上になっているから、それだけ今の暮らしは楽になっていることになる……。単純に考えるとそうなんだけど、じっさいはそうでもないよね。

 家賃は2,000倍どころでなく上がってるし、昔はなかった家電や携帯電話に使うお金もあるし……。
「平均的な暮らし」をするためのコストで考えると、昔も今もたいして変わらないんじゃないかなあ。



そうしてサラリーマンは戦争へ駆り出された


特に興味深かったのは、最終章の「暗黙の戦争支持」。
日本が勝ち目のない戦争に突き進んだ責任の一端はサラリーマンたちにもあると著者は指摘する。

 当時のホワイトカラーも、極端な貧富の格差の存在や政財界の腐敗には内心怒りを感じてはいた。だが、多くのサラリーマンはただじっとしていた。文春のアンケートで資本主義は行き詰まっていると訴えた二十九歳のサラリーマンは「自分の生活のためと、プチブル・インテリの本能的卑怯のために現代社会生活の不合理と矛盾を最もよく知りながらも之が改革運動の実際に参与出来ない」と言い、それが「一番の不満です」と述べている。

さまざまな問題を知りながら、「自分の生活のため」に目をつぶっていたサラリーマンたち。
民衆の不満はくすぶっていた。その不満を解消する手段として選ばれたのが、戦争だった。
戦争に勝てば景気は沸き、贅沢もできないから格差は縮まり、軍人は大きな顔をできる(戦前の軍人は安月給で扱いも低かったらしい。彼らの鬱屈した思いが戦争を招いたとも言えるかもしれない)。

かくして「今の良くない状況を打開してくれるもの」として戦争支持者は歓声を上げ、日本は後には引けない戦争へと足を踏み入れる。

 満州事変以降、生活の苦しいブルーカラー(つまり当時の日本の圧倒的多数)や就職に苦しむ学生は、「大陸雄飛」や「満州国」に突破口を見つけたような気分になり、軍部のやり放題も国家主義も積極的に受け入れていった。しかし、すでに会社に入っていた「恵まれた」ホワイトカラーはますますおとなしくなっていったように見える。彼らは最後まで何も言わず、戦争に暗黙の支持を与えたのだ。
 彼らもやがて召集され、シベリアの収容所やフィリピンの山中で「こんなはずじゃなかった」と思っただろう。学生時代に銀座で酔っ払って暴れたり、給料日に新橋の「エロバー」まではしごで豪遊したり、三越でネクタイを選んでいられた頃に心底戻りたかっただろう。でも、気がついたときはもう遅かったのだ。


この描写にぞっとした。
そうだったのか。出兵していた兵士たちって、元サラリーマンもいたのか。想像したこともなかった。



今ぼくらが耳にする戦争体験って、昭和生まれの人の話が多い。だって大正生まれはもう90歳を超えているのだから。
戦中育ちの人の戦争体験は、どこか遠い世界の話だった。
でも、サラリーマンも戦争に行っていたというのは、現在サラリーマンであるぼくにとってはかなりショッキングだった。

今の日本も、格差は広がり、ほとんどの若者が豊かな生活を送れていない。今後高齢化は進む一方だから将来的な展望も暗い。
『「月給100円サラリーマン」の時代』を読むと、昭和十年頃の空気はもしかしたら今と同じように閉塞的な雰囲気が漂っていたのかもしれないなと思う。

今、裕福でない家庭に生まれて高い技能を持たない若者にとっては、状況を打開する手段はもはや宝くじで一発当てるか、戦争が起こることぐらいしか残されていない。

だからってすぐに日本が戦争を始めるとは思わないけど、しないとも言い切れない。「防衛のための戦争」という大義名分があれば今の憲法でもできるしね。ちょうど東アジアの情勢が不安定になっていることもあるし。
戦争をしたい人は少ないだろうけど、「戦争をするといわれても積極的に反対はしない」という人も少なくないんじゃなかろうか。


ぼくは思う、日本が戦争をすることは、ない話じゃないと。
そしてこうも思う。いざその道に進みかけたときに、ほとんどの人は何もしないんじゃないかと。



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2017年4月12日水曜日

いちばんセンスのないあだ名


4月
といえば、あだ名をつけられる季節。
きっと今頃、いろんな学校やサークルや会社で新しいあだ名がつけられていることでしょう。

あだ名には、つけた人間のセンスが如実に表れる。
世の中にはセンスのいいあだ名をつける人がいる。

ぼくが知っている中で、いちばんセンスを感じたあだ名は「貯金」だ。
大学のサークルに入ってきた新入生を見て、先輩が「おまえ貯金してそうやな」という理由でつけたものだ。
たしかに、その名をつけられた貯金氏はがんばって小金を貯めてそうな顔をしていた(金持ちっぽかったわけではない。本当に「貯金」をしてそうな見た目だった。預金じゃなくて、豚の貯金箱にお金を入れてそうだった)。
しかも「ちょきん」という音の響きは呼びやすいし親しみもある。
「資産家」とか「リッチ」だったら若干の悪い響きも含まれているが「貯金」にはそれもなく、付けられた当人も「貯金ってあだ名としておかしいやろ~」と言いながらもまんざらでもなさそうだった。

  • つけられた経緯がエピソードとして印象に残る
  • 当人のキャラクターにしっくりくる
  • 呼びやすい
  • 言葉に悪いイメージがない
  • オリジナリティがある

と、五拍子そろった秀逸なあだ名だった(しかし五拍子ってリズム悪いな)。



では逆に センスのないあだ名とはどんなものだろうか。

ぱっと思いつくところでは、「名前をもじっただけのあだ名」というものがある。
すなわち「よっしー」「さかもっちゃん」「ナベさん」「はるちん」「ミカピー」みたいなやつ。あだ名を聞いただけで、名前がある程度推測されるやつ。
これはお世辞にも「センスのある」あだ名とは言えない。
ただ、これがワーストかというと、それも違う気がする。だってつけた人は何も考えていないのだから。

こうしたあだ名をつける人は、「狙って」いない。
あだ名をつけることで己のユーモアを示してやろうとか、気の利いた比喩表現を見せてやろうとか、そういった意図がない。
「他人のあだ名という土俵を借りて自分の才覚で相撲をとってやろう」という勝負心がないので、そもそも「センスがあるかないか」という勝負の舞台にすら立っていない。

「坂本くんと呼ぶよりはもうちょっと踏み込んだ関係をあなたと築きたい」という意志表示としての「さかもっちゃん」なので、ある意味これはこれですごく正しい。あだ名って元来そういうものだし。
みんながみんなこういう「狙って」いないあだ名をつける世の中になれば、きっと世界は平和になると思う。それはすごくつまんない世の中だろうけど



じゃあ センスがないあだ名、すなわち己の持てる感性を誇示してやろうと「狙って」つけたにもかかわらず愚かにもその企図が失敗しているあだ名とは何なのか。


ずいぶん前置きが長くなってしまったが、ぼくが思う「いちばんセンスのないあだ名」は

同じ苗字の有名人の名前をつける あだ名だ。

たとえば夏目さんに対して「漱石」とつけるようなやつ。
野口に対して「英世」とか「五郎」とか「みずき」とかつけるようなやつ。

元祖・英世

このタイプのあだ名、誰しも一度は聞いたことがあるだろう。つけられたことのある人もいるだろう。そしてうっすらと嫌な思いをしただろう(わざわざ抗議するほど嫌でもないのが余計にタチが悪い)。

  • 笑えない
  • 当人のキャラクターと何の関連もない
  • オリジナリティがない
  • 呼ばれる側を不快にさせる
  • つけられた経緯が安易に想像できて周囲の人間も不愉快になる

と、悪いところが五つそろった逆ロイヤルストレートフラッシュなあだ名だ。



この手の センスのなさが前面に出たあだ名がつけられる時季は、圧倒的に4月が多い。
こういうあだ名をつけるやつは、ふだんは周囲から相手にされていない分、入学直後とかの新しい環境でまだ嫌われていないときは1年でいちばんイキイキとしていて、
「おまえ速水っていうの? じゃあ "もこみち" って呼ぶわー。もこみちー!」
なんてうすら寒いことを言いだす。

言われたほうも、他の季節なら「冷ややかな顔で小さくため息をついてから無言で目をそらす」ぐらいのリアクションをとるのだけれど、なにぶん4月は周囲から浮かないように気を付けている時期。「ハハッ」とミッキーマウスのような乾いた愛想笑いをして甘んじて受け入れてしまう。


このような悲劇はもうくりかえされてはいけない。
だから新学期になったら真っ先に担任教師から
「同じ苗字の有名人のあだ名をつけないように。
 あと雑巾2枚持ってくるように」
と伝えることを忘れないようにしていただきたい。


【読書感想エッセイ】 高山 トモヒロ『ベイブルース 25歳と364日』

高山 トモヒロ『ベイブルース 25歳と364日』

内容(「BOOK」データベースより)
「絶対一番なるんじゃ」。かつての野球少年達が選んだ芸人への道。焼け付くような焦りの中を頂点目指してもがき、ついに売れると確信した時、相方を劇症肝炎が襲う。人生を託した相方である友の再起を願い、周囲に隠し続ける苦悩の日々…。今なお、芸人に語り継がれる若手天才漫才師の突然の死と、短くも熱いむき出しの青春が心に刺さる感動作。

ときに「ベイブルース」という漫才コンビをご存じだろうか。
大阪で漫才の賞を総ナメにし、「ダウンタウン以来」とも言われるほどの快進撃を続けながら、人気絶頂の1994年にメンバーの河本栄得の急逝により活動休止したコンビ。

ぼくがお笑いにはまってテレビで漫才番組を欠かさずチェックするようになったのは1995年からなので、ベイブルースのことは「名前だけはちらっと聞いたことがある」という程度だった。
この本を読んで気になったので、YouTubeを検索して、ベイブルースの漫才映像を観てみた。
おもしろかった。20年以上たつのに、その発想は色あせていない(構成は「昔の漫才だなあ」と思うけど)。

そんなベイブルースの「残されたほう」である高山トモヒロの私小説。



なにが 恥ずかしいって、こういう「親しい人が死ぬとわかっている小説」で泣くことほど恥ずかしいことないよね。
なんかすっごくダサい感じがする。作者の狙い通りというか。

まあ、ぼくは泣いちゃったんですけど。しかも電車の中で。


ぜんぜんうまくないんだよ、小説として。へたくそといっていいぐらい。
文章も稚拙だし、芸人が書いてるのに笑えないし、思い出したままに書いているから時系列もめちゃくちゃだし、小学生の作文みたい。
だからこそ、相方が脳死宣告を受けるくだりなんか、ド直球で感情をぶつけられるように感じた。小説を読んでいるというより友人の語りを聞いているような気分。そりゃ泣くぜ。こんなので泣くかいと思ってたのに泣かされてしまった言い訳だけど。

でもこんなの小説として認めないからな!(涙ぐみながら)



ところで ベイブルースというコンビのバランスについて思ったこと。

河本は相方に対して、一字一句間違えず、間の取り方まで寸分の狂いもない「精密機械であること」を要求し、相方もまた「精密機械でいよう」とその期待に応えようとした。

「これからは相方として絶対に絶対に力になるから」
 今さらその考えを変える必要はない。この男について行けばいいだけだ。間違いない。河本の才能があったからこそ、僕も一緒にここまでこれた。僕1人の才能では到底無理だった。
「精密機械になれ」
 その通りにしたら、ここまでこれた。僕のペースにも少しは合わせてほしい……これは少しでも楽をしたいという、僕自身の甘っちょろい考えだ。プロはそんな生ぬるいことなんて言わない。少しでも河本が僕のペースに合わせたら、ごく普通の芸人人生で終わるかもしれない。河本が抱いている大きな夢には届かない。好きにしてくれ、自分が思った通りに突き進んでくれ。それが時にどんなイバラの道に迷い込んでしまおうと、僕はついて行くから。

すごい信頼関係だと思う。でも同時に、怖い、とも感じる。

相方が死んで思い出が美化されて書いているだけかもしれない。
でも元気に活動しているうちから「こいつは天才だから、その才能を輝かせるために俺は自分を殺してすべてを捧げよう」って姿勢でいたとしたら、怖い。
それってどういう気持ちなんだろう。

献身性って怖くない?
ぼくは、高校野球のマネージャーも怖いんだよね。何が楽しくて他人のためにあそこまでできるんだろうって思う(応援団とかチアリーダーは応援じゃなくて自己満足でやってるように見えるからべつに怖くない)。
いや、マネージャーも自己満足なんだと思う。「みんなのために尽くしてる一生懸命なアタシ」が好きなんだと思う。それはわかる。わかるんだけど、なぜその献身の対象が赤の他人なんだろう。
尽くす対象が「大好きな恋人」とか「愛する我が子」とか「おれのかっこいいバイク」とかなら理解できるんだけど。それは自分の所有物(と思っているもの)だから。
「がんばってる君が好き」よりも「南を甲子園に連れてって」のほうがまだ健全な気がする。

「がんばってる君が好き」という感情って、ほんのちょっと方向性がずれたら、攻撃性に変わっちゃいそう。「がんばってない君は存在しちゃいけない」と表裏一体というか。



この本を読んだ後は「もし河本が生きていたらどうなっていただろう?」と考えずにはいられない。
ベイブルースはどんなコンビになっていたのだろう?
「才能のあるこいつのために俺は精密機械になる」という強い意志は、いつか壁にぶつかって「こいつの才能は枯渇したのかもしれない」となったときに、同じような関係を続けることができたのだろうか?

コンビとしてはどうだっただろう。
ひょっとしたら今でも第一線を走っていたのかもしれないし、生きていたとしてももう活動していないかもしれない。早逝したから実際以上に評価されているだけで、凡百なコンビだったのかもしれない。

こうやってあれこれ想像してしまうのは、ベイブルースというコンビがそれだけ魅力的だったからなんだろうね。



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2017年4月7日金曜日

【読書感想エッセイ】 小松左京・筒井康隆・星新一 『おもろ放談―SFバカばなし』


小松左京・筒井康隆・星新一
 『おもろ放談―SFバカばなし』


1981年に刊行の対談集。もちろんとっくに絶版。

どうですか、このメンバー。一部のファンにとっては垂涎ものでしょう。
20年くらい前に古本屋で買ったもので、ぼくの宝物。
主にしゃべってるのは小松左京・筒井康隆・星新一の3人だけど、他にも平井和正・豊田有恒・矢野徹といったSF作家もときどき参加。
久しぶりに読み返してみたけど、おもしろいなあ。

筒井 まあ、しかし最近世界各地でたくさん飢えて死んでますね。あれ、ひとまとめにして埋めときゃ石油になるのかな(笑)。
小松 そんなに早く石油になるもんか(笑)。まったくもう、血も涙もないな(笑)。
筒井 とにかくね、人間が死んでそのままというのがもったいないんですよ。死にかけてるのを日本へつれてくればね、古々米はいっぱいあるし、残りものでもなんでも食わせてやれば大きな労働力に(笑)。
小松 ひどいことを(笑)。ヒューマニズムのかけらもないな(笑)。
 しかし、本人たちにしてみれば、飢え死にするよりはいいかもしれんぞ。

はっはっは。不謹慎だなあ。
まちがいなく今だったら掲載できないな。冗談と本気の区別がつかない人が多いから。
いや、そこの区別がつかない人は昔もいっぱいいたんだろうけど、無視してたんだろうな。「ばかが文句言ってるわ。ほっとけほっとけ」ってな感じで。

ちょうと最近、筒井康隆が不謹慎なことをTwitterで言ったといって炎上していた。
まあ不謹慎な発言だし、怒る人がいるのもわかる。ぼくも、褒められた発言だとは思わない。
でも筒井康隆は何十年もこんなことを言い続けてきた。本に収録されているだけでもこんなんだから、現場ではもっと俗悪なことも言ってたんだろう。
当時と違うのは、今はこういう発言を拡散したり記事にしたりして、それを聞いて嫌がるであろう人に「あいつがあんなこと言ってますぜ。言わせてていいんですか」とわざわざ届けにいくゲスい人がいること。そのための手段があること。

ものを表現している以上、誰かを傷つけるリスクはつきまとう。表現者は、それに対して責任を負うべきだと思う。
でも、「代憤(ぼくがつくった言葉。当事者の代わりに勝手に憤慨すること)」をしてるやつはまったく相手にする必要がない。
地震の被災者を冒涜するような発言があったら、被災者は大いに怒ったらいい。謝罪を要求したらい。
でも、被災者でもないのに「被災者の気持ちを考えろ! 謝罪しろ!」と怒ってるやつは、他人の怒りを横取りして溜飲を下げたいだけのクズだから無視すればよい。
身内向けに語られたちょっと不謹慎な発言を「こんなこと言ってるやつがいる。被災者の反発が予想される」なんて煽り文付きで広めようとする記者は、自分で火をつけておきながら第一発見者になる放火魔といっしょだから、火あぶりにされればいい(言いすぎた)。


とにかく、代憤が嫌いだ。それを煽るやつも嫌いだ。
だってみんなトクしないじゃない。
怒ってるやつも、怒られてるやつも、知らなくてもいい不愉快なことを聞かされる本来の被害者も、イヤな気持ちになるだけ。
それを記事にした放火魔だけが第一発見者としてお手柄をあげられてトクをするけど。



「人間を食って何が悪いのか」という話。

小松 ひとつ問題があるのはね、そこでやっぱりヒューマニズムが踏んばらなきゃいけないのは死んだら食ってもいい、しかし生きている人間をぶっ殺して食うのはいかん、つまり食う側の人間と、食われるための人間とを作っちゃいけない、ここを頑張らなくちゃいかん。
筒井 しかし、食われるためのクローン人間を作った場合は、しかたないでしょう。
小松 クローン人間ができるのはまだまだだから、むしろヴァン・ヴォグトの『虎よ虎よ』に出てきた、ニワトリの肉の組織培養、あの方が簡単だろ。
 そんなら、たとえばガンだって、どんどん作っちゃ切り、作っちゃ切りして食えばいいんだな(笑)。
筒井 あれ、食っても大丈夫かな。
小松 一応、焼いて蛋白として食やあ、なんにもねえだろ。ガンのオドリ食いってのはよくないけどね(笑)。
筒井 いやあ、どうせなら、ナマのまま塩もみして、酢のものにして食えば(笑)。
小松 ばか、ばか、やっぱりサッと湯通しぐらいはしろ(笑)。
 人間を食ってはいかんというのは、今、野坂が「四畳半裁判」にかかってるけど、あれと同じだろ。結局もとは(笑)。人間食ってなぜ悪い。
小松 そうなんだ。この問題、とにかく意識の上で突破しなきゃな。不思議な思想だけど、こういうのがあるんだ。紀元前七世紀、ゾロアスターが、最後の審判、つまり最終戦争みたいなものがあって、そのあと人間は復活する、そういう思想を出した。その復活する時にボデーがないと大変である(笑)。その前にも、エジプトでも同じ思想が出てる。それで死体を損壊したらいけないということになったんだな。一方じゃラマ教か何かの風葬みたいに、死体を鳥に食わせるというやつもあるが、これだとエコロジカルサイクルに入ってくる。とにかく、焼くってのがいちばんいかんよ。炭酸ガスになるだけだ(笑)。
 焼くだけのエネルギーもいるしな(笑)。

ばか話をしてたのに、急に知識を放り込んでくる小松左京。
小松左京って知の巨人とか言われてたけど、そういうすごさって書くものより会話に現れるね。とっさに関連知識を引き出せるってのはすごい。
(※ ちなみに、「ヴァン・ヴォグトの『虎よ虎よ』」という一文があるが、『虎よ、虎よ』を書いたのはヴァン・ヴォークトではなくアルフレッド・ベスターなのでこれは小松左京の記憶違いと思われる)

深く考えたことなかったけど、死んだ人間を食うのってそんなに悪いことじゃないよな。もちろん心理的抵抗はあるけど、ちょっと訓練したらその抵抗は取り払えそうな気がする。
今のところは食うに困ってないから必要ないけど、『ひかりごけ』みたいな状況になったときに意識の切り替えができるだろうか。
そうなったときに「ゾロアスター教やエジプトの復活思想があるから食ったらいけないと思われてるんだ」という知識を持っていれば、案外切り替えができるかもしれない。
こういう何の役にも立たなさそうな知識が、極限状態の命を救うかもしれない。



反体制運動について。

小松 反体制運動が続いているけれども、なぜ先進諸国で完全にひっくり返すことができないかというと、実は情報がありすぎるからではないだろうか。たとえばベトナム報道でもそうなんだけれども、これでもかこれでもかと写真を出していると、またか……というんで飽きちゃうんだ。今度は何か知らないけど、資生堂のビッグサマーのほうがいいぞ……ということになっちゃう。
 純粋な反体制がなくなって、売名や利益に結びついちゃっているところがあるな。反体制で新しいことをおっぱじめると、すぐテレビが飛んでくるわ、週刊誌がくるわ……(笑)。ということは、テレビでやれば視聴率も上がってスポンサーも儲ける、雑誌社がそれを広告媒体に使って儲ける。もう、すぐ体制側に組み込まれちゃって、本人もそれでタレント気どりでいい気持になって……。どういうのかなあ。すぐ体制に組み込まれちゃうシステムができちゃったせいじゃないかな。
小松 だまってコツコツやらにゃいかんですよ。
筒井 もっとも、弾圧すればするほど強くなるんですね。あれはいじめないから全然強くならないわけで、むしろそれを育ててやろうというんで、保護的傾向がある(笑)。

SEALDsなんかも見てて思ったけど、反体制運動ってむずかしいよねえ。
権力をひっくり返そうと思ったら、武力だとかお金だとか人気だとかが必要になる。それってつまり、ひっくり返す側も権力を手にするということ。そうなると広い支持は得られなくなるし、権力をめぐって内部紛争も起こる。
そうなると社会党みたいに分裂をくりかえして縮小するか、共産党みたいに「確かな野党」として勝利をあきらめるか、公明党みたいに反体制のふりをしたまま体制につくかしか道はないような気がする。

筒井康隆が言ってるように、弾圧すればするほど結束も固くなって強くなるんだろうな。生死にかかわるような弾圧を受けていれば、少々の考えの違いがあっても目をつぶって団結するしかないもんね。

治安維持法で捕まって獄死した牧口常三郎(創価学会の初代会長)とか、社会主義者だったために処刑された幸徳秋水とか、そういう不遇な目に遭った人がいたからこそ、活動が盛り上がったのかもしれない。
今の日本だと、何を言っても殺されることはないもんね(たぶん)。自由にものが言えるからこそ、逆に発言の重みはなくなって運動を主導する力もなくなるように思う。
イエス・キリストが磔になって殺されてなかったら、はたしてキリスト教がここまで世界中に広まってたかどうか。

逆に言うと、権力を握る側にしたら、言論や思想の自由を与えるほうが体制を守ることになるのかもしれない。
身の危険を感じずに自由にものが言える環境だったら、命を賭してまで体制をぶっこわそうとは思わないもんね。

気に入らないやつには、そこそこいい地位を与えてやる
これこそが賢い権力者のやることかもしれない。



幼稚園の話。

筒井 今の幼稚園、たいていカトリックかプロテスタントかどっちかでしょ。あれももっと、いろんな宗教の幼稚園作れば面白いですよね。邪教のさ(笑)。なんだっけ、ほら、アモン神の、ツタンカーメンとかね(笑)。拝火教なんて。子供がゾロアスター拝んでるの。豚の頭とか(笑)。
小松 大きくなると放火魔になるんだ(笑)。
 今にアラブが作るな。カトリックに対抗して(笑)。イスラム幼稚園(笑)

(中略)

 似たようなものですよ(笑)。フロイト幼稚園(笑)。
筒井 マルクス幼稚園(笑)。
 ソ連も作るべきだな、日本みたいに(笑)。
筒井 ソ連の幼稚園はもともとそうなんだ(笑)。
 だから日本に出店を作るんだ(笑)。

この後「神道の幼稚園がないから靖国神社幼稚園を作ろう」なんて冗談を言い合ってるけど、最近冗談じゃなくほんとにやっちゃった一派があったからなあ。

酒の席でするような、ほんとにくだらない話が満載。
「どんな入れ墨をするのが面白いか。背中にへその入れ墨なんてどうだ」とかね。

小説はけっこう残るけど、こういうばか話はほとんど後世に残らない。
「昭和時代の人が酒を飲みながらどんなばか話をしてたか」ってのを後世に伝える、貴重な史料だね。



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