ほんとにいるんですねえ。
いやいや、いると聞いてはいたんですが。
目の当たりにしたのははじめてでした。
百貨店で、幼稚園児くらいの子がおもちゃを買ってほしいと、お母さんにせがんでいました。
するとそのお母さんが、
「そうね、ええっと、おくとーばー、のーべんばー、でぃっせんばー……。でぃっせんばーになったら買ってあげる!」
はじめはぼくも、ふざけてるんだろうなあ、と思っていました。
でもその後もお母さんは一生懸命しゃべっていました。
「でぃっせんばーになったらプレゼント、プレゼント・ふぉー・ゆー。わかる? あんだーすだんど?」
出たー、本物だ!
これが本物の、とにかく英語(っぽい言葉)でしゃべることが子どもの英語習得に有効だと本気で信じてる母親だー!
日本語混じりのたどたどしい英語。
もう完全にルー大柴。
聞いてるこっちが恥ずかしい。
ですがお母さん。
安心してください。
あなたのその努力はきっと実ることでしょう。
あなたのお子さんは、きっと将来は流暢なルー語をしゃべれるようになることでしょう。
ちなみに、早期教育が外国語の習得に有効だという説もありますが、教育科学的にはまったく証明されておらず、否定的な研究結果のほうが多いみたいですよ。
……と声をかけようかと思いましたが、やめときました。
だって昔から言うでしょう、「言わぬがフラワー」ってね。
2016年7月29日金曜日
2016年7月28日木曜日
【エッセイ】褒めて伸ばす教育の功罪
3歳の娘と遊んでると、しょっちゅう痛い目に遭うんですよね。
ほら、こどもって手かげんも距離のとりかたも知らないから。
だから油断してると、すぐにみぞおちにパンチ入れられたり、飛び蹴りをくらったり、目つぶしをされたり、ジャーマン・スープレックスをくらわされたりするんですよね。最後のはウソですけど。
ものすごく痛いこともあるんだけど、向こうに悪気はないわけだし、こども相手に怒るのもおとなげないなと思って、ぐっとこらえるわけです。
でも、謝罪のできない子にはなってほしくないので、落ち着いたトーンで語りかけるようにしてたんです。
「お父ちゃんはすごく痛かったから、ごめんって言おうね」
って。
で、こどもがちゃんと「ごめんなさい」と言ったときは、 「わー、ちゃんとごめんなさいって言えたねー! えらいねー!」
と大げさなぐらい褒めてやるようにしてたんです。
ああこれぞ褒めて伸ばす教育だ。
見たか尾木ママ、ぼくは今、いい父親をしているぞとひとり悦に入っていたんです。
が。
子育てってうまくいかないものですね。
根気強く教えこんだおかげで、ぼくが痛がるととっさに「ごめん」と言える子になったんですよ。
でも、その後に必ず「ごめんって言えた!」とアピールしてくる子になったんです。
「ちゃんとごめんって言えたねー! えらいねー!」
と褒めすぎたんでしょうね……。
ぼくのあごに頭突きを決めた後、悶絶するぼくに向かって
「ごめーん。ごめんって言えた!」
と間髪を入れずにうれしそうに声をかけてくる娘。
3歳児とはいえ、そして我が子とはいえ、正直、イラっとします。
そして、我が子の将来が心配です。
政治家になったものの、公金の不適切な使い込みが明らかになって記者会見を開くことになったわが娘。
「心よりお詫び申し上げます……」
と深く頭を下げた後に、
「1、2、3……。ヨシっ、ちゃんと謝罪できた!」
と言わないかと、お父ちゃんは心配です。
2016年7月26日火曜日
【読書感想文】ロバート・A・ハインライン 『夏への扉』
ロバート・A・ハインライン 『夏への扉』
SF史に残る不朽の名作として語られる作品。
今さら読んでみましたが、いやあ美しい小説でした。
「美しい」といっても描写が巧みだとか純愛が描かれているとかではなく(猫に対する純愛は描かれているけど)、ストーリーに無駄も不足もない、疾走感を保ったまま最後まで一気に読ませてくれる小説だということです。
あまりにうまくいきすぎる、ご都合主義的なところもありますが。
SFとしては、今読むとちょっと物足りないところがあります。
『バック・トゥー・ザ・フューチャー』や『サマー・タイムマシン・ブルース』のようなよくできたタイムマシンものを知っている人間からすると、「え? もうひとひねりないの?」と思ってしまいます。
というのは、『夏への扉』があまりにいろんな作品に影響を与えすぎたからでしょう。
現代のタイムトラベルものは直接的にであれ間接的にであれほぼすべて『夏への扉』の影響を受けているといってもよいのではないでしょうか。
『夏への扉』が出版されたのが1957年なので、60年近くも前のこと。
この作品中で描かれる<未来>が、西暦2000年のことですしね。
しかし、ちっとも古びていません。
逆に、よく言い当てているなと感心しました。
たとえばこんな描写。
それぞれ、CADオペレーターやルンバに驚くほどよく似ていますよね。
1957年(まだ日本でカラーテレビの放送が始まる前ですよ!)に書かれたものとしては、ものすごく正確な予言だと思いませんか。
さらに感心するのは、作中に登場するこうした機械にハードウェア・ソフトウェアの概念が取り入れられていることです。
すべての部品を1台の機械に入れてしまうのではなく、マシン自体には最低限の機能だけ持たせておいて、部品を取り替えることで、バージョンアップも修理もかんたんになるという発想。
わくわくさせてくれるストーリーもさることながら、60年前の想像力がふんだんに表現されている細部の描写もおもしろい本です。
あと猫が活躍するという、めずらしい小説でもあります。
犬とちがって、猫ってあまり活躍するような生き物じゃありませんからねー。
2016年7月23日土曜日
【読書感想文】角田光代・穂村弘 『異性』
角田光代・穂村弘 『異性』
歌人・穂村弘と小説家・角田光代が、それぞれ男と女の立場から恋愛についてつづったエッセイ。
交互に連載していたらしいので、お互いの書いたものにコメントしつつ「いや私はこう思うよ」「ぼくはこう思うんだけどあなたはどう?」といったやりとりも見られる。
往復書簡のような形が新鮮。
この形式を考案したのは編集者かな。内容にもあってるし、すばらしい発明。
書いている人たちも楽しかったんじゃないかな。
学生時代に好きな女の子と交換日記のやりとりをしていたんだけど、そのときの愉しさを思い出した。
えー内容だけど、ぼくは穂村弘さんのエッセイが大好きなので穂村パートは楽しく読めた。でもふだんのエッセイより腰が引けているというか、マトモなことを書いているのが残念。
妄想が暴走して、読んでいる側がなんだそりゃもうついていけねえ、ってなるのが穂村弘さんのエッセイのおもしろさだ。
でもこの連載では、半分は角田さんに語りかけるように書いているので、あまりにとっぴなことは書かれていない。
女同士の会話って「意見」とか「思いつき」よりも「共感」のほうが重視されることが多いけど、まさにそんな会話を聞いてるみたい。
「あーあるある」って話に終始しているのがもったいなかったなあ。もっと勝手な”決めつけ”を読みたかった。
角田パートのほうは、うーん......。
ぼくが男性だからなのかもしれないけど、共感もできないし、かといって「この感情をそんなふうにとらえるのか!」っていうような切れ味もなく、穂村パートへの前振りになってしまっているような感じ。
角田「男ってこうだよね」
穂村「いや、それはそうじゃなくて、こうなんだよ」
角田「なるほど、そうだったのか!」
ってな流れが多かったなあ。
ぼくが穂村弘びいきになっているだけかもしれないけど。
いちばん大きくうなずいたのはこんな話(穂村パート)。
そうそう!
これ、ずっと思ってた。
マナーにうるさい人ってなんか卑しいし、ファッションについてあれこれ語る人って微妙にかっこよくない(「すごく」じゃなくて「なんか」「微妙に」だめなんだよね)。
たぶん、王室に生まれ育った人ってマナーに無頓着だと思うんだよね。
その人にとってはそれが自然に身に付いているもので、意識するようなことではないから。
同じように、自然にかっこいい人(顔立ちがいいとかじゃなくて身のこなしが優雅だとか内面の魅力があふれているような人)は、お洒落についてあれこれ語らない。
うるさいのはむしろ、自分を実物以上に良く見せようと必死な″おしゃれ成金″の人たち。
ちょっと高級めのスーツ屋なんかに行くと、店員がみんな「なんか惜しい」。
いいスーツを着こなしているし髪型もキマっているのに、どうもかっこよくない。
素敵だな、と思えるような店員を見たことがない。
「ほら、ばっちりキマっているおれってかっこいいでしょ」ってな心持ちが透けて見えてしまう。
そうかあ、あの人たちはみんな″主電源″が落ちていたのかあ。
2016年7月21日木曜日
【エッセイ】レッサーパンダの悲哀
レッサーパンダは、かわいい。
これは異論の余地がない。
つぶらな瞳、平安貴族みたいなちょっと変な眉、寄り目なところ、ちょろりと出た舌、豊かな表情、ずんぐりむっくりした胴体、ぼてっとしたしっぽ、どこをとってもかわいい。
どんなへそまがりな人が見たって、かわいい。
しかも、体長は約50センチ、体重は3~4kg。
これはちょうど人間の赤ちゃんと同じくらいだ。
おまけによちよち歩きで歩く。
もう、人間にかわいがられるために神が創ったとしか思えない。
なのに。
なのに。
レッサーパンダは不遇の扱いを受けている。
かつて、日本では「パンダ」といえばレッサーパンダのことを指したらしい。
ところが、ジャイアントパンダがやってきて、そいつがすっかり人気者になったために、「パンダ=ジャイアントパンダ」になってしまった。
ぬいぐるみやキャラクターも、ジャイアントパンダのほうが圧倒的に多い。
それだけではない。
それまで「パンダ」だった動物は、大熊猫の登場により、「LESSER(小さいほう、劣ったほう)」という不名誉な冠称をつけられて呼ばれることになった。
彼の心中の悔しさたるやいかに。
せめて、「レッドパンダ」とかにしてやれよ……。
中学生のとき、同級生にスガくんがふたりいた。
一方のスガくんは体格が良くてけんかも強かった。
もうひとりのスガくんは、学年でいちばん背が低く、そのせいもあってみんなから低く見られていた。
みんな、背の低い大きいほうのスガくんのことを「小スガ」と呼んでいた。小さいほうのスガだからコスガなのだ。
じゃあ大きいほうは「大スガ」かというと、そんなことはない。
彼は単に「スガさん」と呼ばれていた。
今思うと、「小スガ」は残酷な呼び方だったと思う。
ごめんよ小スガ。
世界史で出てきた「小ピピン」。
新約聖書に出てくる「小ヤコブ」。
彼らも、かわいそうだ。
歴史に名を残すはたらきをしたのに、「小」がついているせいで、どうしても小物感が拭えない。
しかも彼らはべつに小さかったわけではないのだ。
近い時代に同名の人物が歴史に名を残していたため、区別するために後から生まれたほうが「小ピピン」「小ヤコブ」と呼ばれているのだ。
もっと他にあっただろう。
「新ピピン」とか「続ヤコブ」とかさあ。
彼らならきっと、レッサーパンダの悲哀を深く理解できるんだろうなあ。
登録:
投稿 (Atom)