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2018年2月5日月曜日

毎日飲まない大人のほうが多いらしい


うちの両親はビールが大好きで、毎晩ビールを飲んでいる。
母にいたっては、夏の暑い日などは夕方から台所でビール片手に料理をしていた。完全なるキッチンドランカー。


子どもは自分の育った家庭しか知らないから、ぼくは「大人は毎日ビールを飲むものだ」と思っていた。でも、大人になってみてわかったのは、どうやら毎日飲まない大人のほうが多いらしいってこと。

そうか、うちが異常だったのか。
ぼくはお酒が大好きというほどではないので(嫌いではないけど飲むヨーグルトのほうがおいしい)、ふだんは飲まない。実家に行くと必ずビールを勧められるが、断ることもある。すると母に信じられないという顔をされる。
「あんた電車で来てるんでしょ? 風邪ひいてんの?」

三百六十五日毎日飲んでいる母にとって、「車で来ているから」「体調悪いから」以外に、勧められたビールを飲まない理由はないらしい。


毎晩酒を飲んでいるってあんまり褒められたことじゃないけれど、誰かに迷惑かけてるわけじゃないし、節制して長生きするより好きなもの飲んで早死にするほうが幸せだよなあ。

いや、いまだ両親ともにぴんぴんしてるけど。好きなもの飲んで長生きしてるけど。最高じゃねえか。


2018年2月4日日曜日

スーさんの教え


スーさんという幼なじみがいた。ぼくとは同じ幼稚園、同じ中学校、同じ高校に通っていた。小学校は別だったが、ぼくも彼もサッカーをやっていたのでよく顔をあわせていた。

スーさんは出来杉くんみたいな男で、顔が良くて、スポーツ万能で、サッカー部のキャプテンをしていて、勉強もできて、明るくて、ユーモアのセンスもあって、誰に対しても優しくて、当然ながら女子からモテていて、男子からも好かれていた。

そんなスーさんは二十代で死んだ。くも膜下出血で倒れたのだそうだ。
死んだ後、誰もが「あんないいやつが……」と言っていた。死んだからよく言うのではなく、たぶん誰もが本気で思っていた。
根拠のない言い伝えが好きではないぼくでも、「いい人ほど早く死ぬってのはほんとなんだな……」と思った。

スーさんは、小学生のときにお父さんを病気で亡くしていた。早死にの家系だったのかもしれない。



中学生のときだったか、公園でスーさんと野球をした。スーさんは小学校のときからずっとサッカー部のキャプテンをしているのに、野球もうまかった。
野球はテクニックの占める割合が大きいスポーツなので、ただ運動神経がいいだけではうまくなれない。利き腕じゃないほうの手にグローブをはめてボールをつかむのには練習が必要だ。
「ふつうサッカーやってるやつって野球はへたなのに、両方うまいなんてめずらしいな」
と言うと、スーさんは
「昔、親父に教えられてん。サッカーがうまくなるためにはボールの軌道を予想できるようにならないといけない。そのためにはキャッチボールが最適だって言われて」
と答えた。

へえ、と感心した。「サッカーを上達させるためにまず野球のキャッチボールをさせる」という一風変わった練習方法が強く印象に残った。
『ドカベン』で山田太郎が柔道の経験を野球に活かしたり、『武士道シックスティーン』で主人公が日本舞踊の経験を剣道に活かしたりしていたのに近い。

それを伝えたスーさんのお父さんはもう亡くなってしまったし、その教えを守って実際にサッカーがうまくなったスーさんも今はもういない。

だからぼくは、ことあるごとに「キャッチボールをさせるとボールの軌道が読めるようになってサッカーも上達するんだって」と人に伝えている。
それが科学的に正しいかどうかは知らない。でも亡くなった人たちの教えを伝えていかなくちゃいけない、という使命のようなものを感じるから。



2018年2月3日土曜日

大相撲にはストーリーがない


相撲は神事だってことにされてるけど、そうはいってもあれスポーツだよねえ。

相撲をスポーツだと思う原因は、競技の内容そのものより、それに付随している「数字」だ。

今場所はここまで七勝負けなし、対戦相手である前頭三枚目の〇〇とは過去十四回対戦して十勝四敗、今日勝てば三年前の春場所以来となる全勝での中日勝ち越し。

相撲にはやたらと記録がつきまとう。記録で語られる競技は、やっぱり神事ではなくスポーツだ。



プロレスのほうがよほど神事っぽい。

プロレスのことはよく知らないけれど、プロレスを語る人はみんな「記録」ではなく「ストーリー」で語っている。

「このレスラーは通算〇勝〇敗で勝率〇割〇分〇厘だ」みたいな語られかたは聞いたことがない。

そうやってプロレスを観る人もいるだろうけど、多くのプロレスファンは「あの後楽園ホールで××に敗れた□□が雪辱を果たすための因縁のタイトルマッチ」みたいなストーリーを乗せてプロレスを観ている。

リングの上での戦いだけじゃなくて、団体を立ち上げたとか、あいつが陰でこんなことを言ったとか、そういう大小含めてさまざまなエピソードがプロレスの歴史を作っている。

これってもうほとんど神話の世界だ。
ギリシャ神話とか旧約聖書とか日本書紀とかの神話に比肩するって言ったら言いすぎですかね。言いすぎですね。

でもまあともかく、プロレスって祭事っぽい。

だから場面だけを切り出してもよく理解できない。一試合だけ観ても楽しめるだろうけど、それはレスリングであってプロレスではない。

各地方にあるお祭りをはじめて見た人には「なんだこれ。なんの意味があるんだ」とわけのわからないことだらけだと感じるけど、そこにはちゃんとストーリーがある。古すぎて誰も知らなかったりするけれど、しかしいろんな歴史に続くものとして、祭事は存在する。

大相撲は、初見でもわかる。

大相撲観戦には因縁とか境遇とか怨恨とかいったたぐいの「ストーリー」は必要ない。

もちろん個々の力士の内側には「あいつにだけは負けたくない」的な思いもあるんだろうけど、それが大っぴらに語られることはない。



大相撲を神事として扱いたいのなら、品格だとかいって格調高くするのではなく、プロレスみたいにおもいっきり俗っぽくしたらいいんじゃないだろうか。

マイクパフォーマンスを導入して、嫉妬とか私怨とか憐憫とか憎悪とか、そういう感情を存分に表に出してみる。朝青龍みたいに。

中学校では手の付けられないワルだった〇〇が、兄弟子を引退に追いこんだ××とのリベンジマッチ! 先場所卑劣な手で流血させられ「あの胸毛ゴリラ野郎」と息巻いていたが、その雪辱を果たせるか!?

みたいなストーリーで語られるようになったら、そしてそれを長年続けていたら、何十年後かには大相撲神話になるんじゃないだろうか。

ギリシャ神話だってずいぶん俗っぽいし。


2018年2月2日金曜日

適当にプリキュア



娘の保育園の参観日に行ったとき、先生が園児たちに「みんなは何になりたいかな~」と訊いた。

男の子は仮面ライダー、女の子はプリキュアが多かった。

うちの子は何と答えるんだろう。大好きなバズ・ライトイヤーだろうな。でも最近は恐竜も好きだからティラノサウルスかな? とわくわくしながら見守っていた。

娘の番になると、娘は元気いっぱいに答えた。「プリキュア!」

愕然とした。
「いやおまえプリキュア観たことないやん!」

うちの家でプリキュアを観たことはない。べつに主義主張があって観せないようにしてるわけではなく、ただ単に親が興味ないから観ないだけ。娘が「プリキュア観たい」と言ってきたら観せるかもしれないけど、言ってこないから観せたことがない。


娘は、他の女の子がみんな「プリキュアになりたい」と言っているから、周囲に合わせて「プリキュア!」と答えたのだろう。

そういえばぼくも小学生時分、同じようなことをしていた。

うちにはファミコンがなかった。クラスの男子でファミコンを持っていないのは、ぼくを入れて二、三人だけ。クラスの友人たちが「ドラクエごっこ」をはじめると、ぼくもよくわからないまま適当にあわせていた。「くらえ! ホイミ!」とか知っている呪文の名前を適当に唱えて「おまえそれ回復するやつやん」と言われていた。

そんな悲しい少年時代を思いだして(いやそんなに悲しくなかったけど)、よくわからないのに適当にプリキュアごっこをしているであろう娘のことがいじらしくなった。


周囲と話を合わせられるように一度プリキュアを観せてやったほうがいいのかな、でもハマってグッズを買ってくれとか言いだしたら嫌だしなあ。

なんて思っていたんだけど、その後四歳児同士の会話を聞いてたらどっちも自分の言いたいことだけ言いあって相手の話なんてまるで聞いてなかったので、適当にプリキュアの話をあわせてもぜんぜんバレないだろうな、と思ってどうでもいいやという気持ちになったのでした。おしまい。


2018年1月29日月曜日

走ればか正直者



郊外の駅前でバスを待っていたら、バスが少し遅れてやってきた。遅れたといっても二分くらいだけど。

若い運転手は、なぜかただの乗客のひとりであるぼくに向かって
「すんません踏切に引っかかっちゃったので遅れまして」と言い訳にならない言い訳を述べ、「ちょっとトイレ行かせてもうてええですか」と言った。
「だめです。そこで漏らしてください」と言うわけにもいかないので「はあ」とうなずくと、運転手はバスにエンジンをかけたまま駅前のトイレへと駆け出していった。

少しして運転手が戻ってきて、バスは発車。
運転手は、車内アナウンスで「トイレに行かせてもらったために出発が遅れましたことをお詫び申し上げます」と云っていた。


なんてばか正直なんだ。

遅れたことを糾弾されてるわけじゃないんだから
「到着が遅れたことをお詫びします」
「出発が遅れてご迷惑をおかけします」
だけでいいのに。そしたらこっちもなんとも思わない。

だのに
「踏切に引っかかったので遅れました」とか
「トイレに行ってました」とか余計なこと言うから、こちらとしても
(よほどのトラブルならまだしも踏切の時間ぐらい見込んで運行しろうよ)とか(なんでこっちがおまえのトイレを待たなきゃいけないんだよ)とか思ってしまう。
急いでるときに「すんません踏切に捕まったせいで……」って言い訳されてたら、説教のひとつもしなくなってたな。

こんなにばか正直で、ちゃんとやっていけるんだろうか。心配だ。


2018年1月27日土曜日

人生のやりなおし

人生のやりなおしができたら……って考えるじゃないですか。ときどき。
いや私は一日に四回ぐらい考えますって人、お気の毒です。さぞかしつらい人生を送ってるんでしょう。

ぼくは今のところそんなにつらい人生を送ってない。たぶん。未来人から見たら「仕事をしないと生きていけなかった時代にうまれてかわいそうに」って思うかもしれないけど。

そこそこ満ち足りた暮らしをしているつもりだが、それでもたまに「あのときああしていたらどうなってたかな」と考える夜もある。

だけど今の科学技術では人生のやりなおしはできないっぽいので、ぼんやりと考えてはすぐに「ま、考えてもしょうがないしな」とべつのことを考える。



子育てをしていると、「これは人生のやりなおしに近いな」と思う。

子どもと一緒に遊んでいると、子ども時代をやりなおしているような感覚にとらわれる。
ああ、これはぼくが四歳のときにやったやつと一緒だ、と。

子どもは自分だと別人だとわかっているんだけど、ついつい己の姿を重ねてしまう。いってみたらアバター。
スーパーマリオのゲームをやるとき、マリオと自分って重なってるじゃない。コントローラーを握っている間は、マリオは自分でもあるわけでしょ。あんな感覚。
娘とおにごっこをしていると、逃げている自分はもちろん自分なんだけど、追いかけている娘もまた自分なんだよね。自分が自分を追いかけている。「娘にはこう見えているだろうな」と思いながら逃げている。

遊んでいる間、「娘だったらこれはおもしろいだろうな」と思うことをやる。たとえば「お父さんが転んだらおもしろいだろうな」と思う。で、わざと転んでみせる。娘は楽しそうにけたけた笑う。ぼくも楽しい。
この「楽しい」は、「娘が笑っているから父親として楽しい」もあるんだけど、それだけじゃなくて「お父さんが転んだから娘として楽しい」も味わっている。娘に自分の意識が憑依している。

赤ちゃんは自分と母親の自我が分かれていない(母親と自分がべつの存在であることがわからない)と聞いたことがあるけど、親もまたある部分では子どもと同一なんじゃないだろうか。

これは人生のやりなおしだ。



そうは言っても、娘はマリオとちがって思ったとおりに動かない(ぼくはゲームがへたなのでマリオも思いどおりに動かせないけど)。
今は四歳だから「こうやったら楽しいだろうな」とか「こう云われたら怒るだろうな」とかなんとなくわかるけど、もっと大きくなってきたら意識の差はどんどん大きくなっていくのだろう。

思春期以降、「親が口うるさい」と感じることが多くなるけど、たぶんそれは子どもにとっては親は完全にべつの存在であるのに対して、親にとってはまた子どもが自分と分化されていないからだと思う。
反抗期の問題って子ども側の問題(子どもが成長の過程で不安定になる)として語られているけど、ほんとうの原因は「子どもが自分とはべつの存在だということを受け入れられない親」のほうにあるんじゃないかな。



親が子どもに口うるさく云うのは、自分の人生をやりなおしているからだと思う。

もし人生のやりなおしができたら。
「もっと勉強しとけばよかった」と思っている人は勉強するだろう(たぶん長続きしないけど)。学生時代の自分に会えたら「ぜったいに勉強しろ!」と言うだろう。
そういう人は親になったら子どもに勉強させようとするにちがいない。

「スポーツやっといてよかった」と思う人は人生をやりなおしてもスポーツをやるだろうし、親になったら子どもにスポーツをさせようとするだろう。


ま、どうせ無駄なんだけどね。
勉強しなかった人は何度人生をやりなおしたって勉強しないし、勉強しない親の子どもは勉強しない。

タイムトリップもののSFで「運命は決まっているから何度タイムマシンで昔に戻ってやりなおしても同じ結末になってしまう」ってのがあるけど、あんな感じ。

わかってるんだけどね。
自分の子どもだから程度が知れてるって。
でもやっぱり、自分にできなかったことを子どもに期待しちゃうし、自分がやってきてよかったと思う道を子どもに薦めてしまう。

時代が変わってるから同じことをやってもうまくいくとはかぎらないんだけどね。
英語がしゃべれることが大きなアドバンテージだった時代もあれば、自動翻訳の性能向上により外国語スキルが「電卓が普及している時代の暗算スキル」程度に下落してしまう時代もある(あと数年で到来するだろう)。
でも親の意識は「自分の人生のやりなおし」だから、ついつい「この先どうなっているか知っている未来人」の立場でアドバイスしちゃうんだよね。
縄文時代ならいざ知らず、社会は常に変化してるってことを忘れて。

いや、縄文時代の親だって「悪いこと言わないからお父さんと同じように縄の跡つけた土器をつくりなさい。そんな薄くて軽い弥生式を作ろうとしてもうまくいくわけないだろ」みたいな時代錯誤なアドバイスをしていたんだろうな。

2018年1月26日金曜日

魔女のBtoB


『魔女の宅急便』でキキが空を飛べるからって宅配業をはじめてたけど、個人でやるのはあんまりいい商売とは思えないなあ。
配達自体はほうきに乗ってひとっ飛びかもしれないけど、荷物の保管とかスケジュール管理とか物損のリスクとか考えたら、割に合わない気がする。
じっさい映画の中でも、届ける荷物を落として紛失したり、同時に二件受注しただけでてんやわんやになってた。
個人向けの宅配業というのはある程度規模が拡大することではじめて成り立つ商売だと思う。郵便局みたいに広範囲に拠点があって各地に配送員がいるところじゃないと、新規開業は厳しそうだ。

BtoC(個人向けサービス)じゃなくてBtoB(法人向けサービス)のほうがキキには向いてると思う。
たとえば、ある企業が別の企業に毎月一回商品を納品している。これだったら、決まった日に決まったルートを通ればいいからスケジュールも組みやすい。何社かと契約しても、それぞれ配送日をずらせば個人でも対応できそうだ。「月初は忙しいので5日頃でもよろしいでしょうか」なんてお願いを聞いてくれる会社もあるだろう。


もし個人向け宅配にこだわるんだったら、都市部じゃなくて地方のほうがいいと思う。交通網があまり整備されていないところ。
橋のかかっていない島とか、道路状況の良くない山間部とか。直線距離にしたら大した距離じゃなくても輸送にコストがかかるようなところ。
こういうところだと「空を飛べる」というキキの強みが存分に活かせる。

映画を観る限りキキが暮らしていたのはそこそこ大きな港町だったけど(ストックホルムとヴィスビーという町が舞台らしい)、島嶼部とか山間部の農村とかのほうが商売に向いていたんじゃないかなあ。五島列島とか。


2018年1月25日木曜日

四歳児とのあそび

最近、四歳の娘とやる遊び。
数年後に見返して自分が楽しむために記録。

ジグソーパズル

ジグソーパズルを買ってあげたら、毎日のようにやっている。
ぼくも好きだったなあ。こういう黙々と作業をする遊び。
完成したらすぐにくずしてしまう。で、またやる。

108ピースのジグソーパズルができるようになったので、300ピースのを買ってあげた。さすがにむずかしいようなのでいっしょにやる。ジグソーパズルはあまりうまいへたが関係ないので、大人もいっしょに楽しめるのがいい。
ふつうはカドや端からやるものだと思うが、娘は自分の好きな絵からやる。

レゴ

レゴも好きだ。でも、あまり創作はしない。設計図通りにつくり、できた家や恐竜を使っておままごとをやる。こういうところは女の子だなあ、と思う。教えなくても、遊びかたに性差が出るよね。
ぼくもレゴが大好きだったが「塊をつくり、ぶつけあって壊れなかったほうが勝ち」という遊びをよくやっていた。あと迷路をつくったりとか、首を斬り落としたりとか。男の子だなあ。

都道府県クイズ

娘は地図が好きなので、日本地図を買ってあげた。さすが子ども。すごい勢いで覚える。
保育園に行く途中、毎日娘と都道府県クイズをする。
「"お"ではじまる県は?」
「大阪府、岡山県、大分県、沖縄県。じゃあ"と"ではじまるのは?」
「東京都、栃木県、富山県、鳥取県、徳島県」
みたいなのを言いあう。でも娘は名前は覚えているが、都道府県の概念はよくわかっていない。

恐竜クイズ

娘は恐竜も好きだ。お年玉でトリケラトプスのぬいぐるみを買うぐらい。しょうもないことに金をつかうなあ、と思うが、それでこそお年玉の正しい使い方だとも思う。有用なものはふだん買ってもらえるもんね。
恐竜の名前をたくさん覚えた。
やはり保育園に行く途中、
「頭の後ろが長い恐竜は?」
「パラサウロロフス。じゃあ尻尾の先にハンマーみたいなのがついている恐竜は?」
「アンキロサウルス」
みたいなクイズを出しあいながら歩く。おかげでぼくもずいぶん恐竜に詳しくなった。

ボールあそび

といっても、まだあまり上手に投げることができない。
一メートルくらい離れて、ただ投げあうだけだ。
あと、ボールを転がす遊びもよくやる。どちらが遠くまで転がせるか。勝たないと怒るのでほどほどに負けてあげる。

かけっこ

四歳ともなるとなかなか速くなってくるので、いっしょに走るのはなかなかしんどい。
これまたわざと負けてあげる。でもあんまり負けすぎると「お父ちゃん、ちゃんと走って!」と怒る。めんどくさい女だ。
なので五回中一回くらいは勝つようにしている。

自転車

少し前に、自転車の補助輪をとった。四歳で補助輪なしというのはちょっと早い気もするが、以前ペダルのない自転車に乗っていたので、バランスをとるのはうまくなった。補助輪なしでもまず転ぶことはない。とはいえひとりで上手に乗れるわけでもないので、ぼくが自転車の後ろを支えながらいっしょに走ることになる。
これがきつい。けっこうな速さで走るし、こちらは幼児用の自転車を支えているから中腰の姿勢になる。このつらさを知らない人は、ぜひ中腰で走っていただきたい、ほんの数十メートルで音を上げるだろうから。

かくれんぼ

ぼくの人間性が四歳児並みなのでだいたい一緒に楽しく遊ぶんだけど、どうもかくれんぼだけは苦手だ。
一歳くらいならいいんだけど、四歳ともなるとそこそこちゃんとしたところに隠れないと納得してもらえない。で、娘から遠く離れた木の茂みなんかに入って身をひそめることになる。
そこで「もういいよー」と大きな声を出すのが恥ずかしい。

また、遠くに隠れると娘はなかなか見つけてくれない。そこに知らないおじさんが通りかかる。大の大人がひとりで木の茂みにうずくまっているのを見て、おじさんはぎょっとした顔をする。そりゃそうだろう。「いやこれはかくれんぼをしていて……」と弁明するのも変だし、ぼくは恥ずかしさをこらえて身をひそめつづける。
ああ、苦手だ。

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2018年1月24日水曜日

銀河帝国軍の悲劇


こないだ『スター・ウォーズ』エピソード7を観たんだけどさ。

帝国軍の宇宙戦艦がダサいんだよね。

まあ昔のシリーズのを踏襲してるからしょうがないんだけど、それにしても古くさい。


SFにおける宇宙戦艦の操縦席ってだいたいあんな感じだよね。

数人が入れるスペースの三方に無数のボタンやら計器やらがあって、その上のでかい窓から宇宙船の外が見える。

なぜかちょっとうす暗い部屋に緑やらオレンジのボタンが光ってて、黒地に蛍光グリーンの罫線が浮かんだ座標軸みたいなのがスクリーンに浮かんでて、みたいな感じ。

まあフィクションにおける宇宙戦艦の典型、みたいなやつだよね。どの作品が発祥か知らないけど、たぶん宇宙戦艦ヤマトの時代からほとんど変わってない。

なんでうす暗いんだろうね。エネルギー節約のためかな。うす暗い部屋で操縦してて眠たくならないのかな。



思ったんだけどさ、操縦席にあんなにボタンいる?

そこそこ広い部屋に何千個というボタンが並んでいる。

明らかに座席から届きにくい位置にあるボタンもあるし、あんなにあったらぜったいに押し間違える。

この何十倍ものボタンやら計器やらがある

マウスとキーボードとディスプレイでよくね?

そしたらボタン百個くらいで済むと思うんだけど。

よく使う機能とか緊急性の高い機能は独立したボタンにしたらいいと思うんだよ。「加速ボタン」とか「ブレーキボタン」とか。

でも、帝国軍宇宙船の操縦席にはあんまり使わないボタン、そんなに緊急性の高くないやボタンもあると思うんだよね。「コックピット内を加湿するボタン」とか「宇宙ラジオのAM/FMを切り替えるボタン」とか。

そういうのにはひとつのボタンを割り当てなくてもいいと思う。キーボードでメニューを呼び出して「環境設定」→「船内環境」→「湿度」→「コックピット」で「50%」を選択するとか。

それが面倒ならショートカットキーを割り当ててもいい。「Ctrl」+「Alt」+「H」で湿度調整、とか。


『スターウォーズ』の時代は、わりと誰でも気軽に宇宙に行く時代っぽい。宇宙船は特別な訓練を受けた一握りの人間だけのものではなさそうだ。

だったらもっと直感的に操作できるデザインにしたらいい。マウスで操作できるとか、タッチパネルにするとか。

千個もボタンを配置してたら、うっかりさわっちゃうこともあるだろうし、押しまちがえもしょっちゅうだと思う。「温度上げようと思ったら有線放送のボリューム上げちゃう」みたいなミスも発生するだろう。宇宙で有線はないか。高齢パイロットがアクセルとブレーキを押しまちがえる、みたいな重大な操作ミスも深刻な社会問題になるかもしれない。もっとミスの起こりにくいデザインにすべきだろう。

映画なんかではよくボタンひとつでミサイル発射してるけど、あんなの危険きわまりない。ちゃんとモニターに「(警告)ミサイルを発射しようとしています。ほんとに発射しますか? <y/n>」みたいな確認メッセージを表示させたほうがいい。


あとさ、『スター・ウォーズ』の映画では直接的なミサイルの撃ち合いばっかりやってるけど、たぶん水面下ではそれ以上に熾烈な情報戦がくりひろげられているはずだ。

フォースの力でチャンチャンバラバラやらなくたって、相手のコンピュータに侵入してしまえば勝ったも同然なんだから。

あれだけたくさんの宇宙船が飛んでるわけだから、それぞれ独立したシステムではなくネットワークでつながっているはずだ。だから常に相手のシステムの隙をつくようなサイバーアタックがしかけられてるはず。システム管理者は、敵に侵入されないように常にシステムを最新の状態にしておかなくてはならない。

だから映画では描かれてないけど、しょっちゅう「システムの脆弱性が見つかりました。プログラムの更新のため、60秒後に再起動します」なんてメッセージが出て、OSの再起動がおこなわれてると思う。

「一斉攻撃だ!」ってタイミングで「て~て~て~てん」ってWindowsの終了音が鳴って勝手に再起動が始まって、「もー! せっかく攻撃目標設定したのに! 保存してなかったのに!」みたいな悲劇もたくさん起こってると思うんだよね。


2018年1月22日月曜日

滅びゆくぼくら


うなぎって絶滅しそうじゃないですか。でもみんな食べてるじゃないですか。
たくさんの人が漁師とか水産庁とか食べてる人とかを批判してるけど、たぶんどうにもならないね。うなぎは滅ぶ。もう止められない。


漁師とか水産庁とかうなぎ食べてる人だけがばかなんじゃなくて、人間みんなばかなんですよ。だめだと思ってもブレーキかけられない。
なんとかなるだろって思ってる。うなぎの絶滅も年金問題も地球温暖化も未来のかしこい人がなんとかしてくれるだろうと思ってる。

ある日コアラが、このままユーカリ食べてたらユーカリが絶滅するって気づいたとするじゃないですか。
じゃあユーカリ食うの抑えようぜってなると思います?
つらいけど我慢して他の葉っぱ食うことにしようぜってなると思います?

ならないよね。人類もいっしょ。コアラの知性と似たり寄ったりだからね。
うなぎの絶滅くらいなんとも思わないし、このままじゃ五十年後に人類が死ぬぞってわかってもたぶん行動は変えられない。

もう滅びていくしかないね。ぼくらみんなばかなんだから、みんなで仲良く滅びていこうぜ。


2018年1月20日土曜日

バカ舌のしあわせ



大学時代、自称食通の友人がいた。
彼と食事に行くと、「これは化学調味料の味が強くて食えたもんじゃない」とか「これはまあいける」とか言っていた。
当然ながら、彼と食う飯はまずかった。そりゃそうだ。自称食通に「これは食えたもんじゃない」と判定された料理を「うまい、うまい」と食えるわけがない。
ぼくは彼と一緒にご飯を食べに行っても楽しくないので「飯食いに行こうぜ」と誘わなくなった。彼自身もぼくが誘うような安い店に行っても楽しめなかっただろう。



ぼくの姉は栄養士をやっている。
学生時代、姉とふたりで下宿をしていた。姉は料理が好きなので、たいてい食事を作るのは彼女の役割だった。
あるとき、姉がいなかったのでぼくは冷蔵庫の残りもので納豆チャーハンを作った。食べてみて、なかなかよくできたじゃないかと悦に入っていた。
そこに姉が帰ってきた。姉はぼくがつくった納豆チャーハンを見て「ちょっとちょうだい」と言って一口食べ、「イマイチやな」と言った。
それ以降、ぼくが姉の前で料理をすることは一度もなかった。ひとりで料理をしても必ず全部ひとりで食べ、姉のために残すことはしなかった。



幼なじみの友人と食事に行った。彼は板前修業を経て、今は一流ホテルでフレンチのシェフをやっている。
「どこにする?」と言うと、彼は「おれ金ないからあそこでいい?」とある店を指さした。
指さした先にあったのは緑の看板に赤い店名。サイゼリヤだ。

彼は五百円ぐらいのパスタを、うまいうまいと言って食べていた。ぼくが頼んだドリアも少し食べて「やっぱりサイゼリヤはどれもうまいなー」と言った。
「よく来るの?」と訊くと、彼は「ファミレスは安い価格でおいしい料理を出してるからすごく勉強になるよ」とシェフの顔で答えた。



「舌が肥えている」ことは美徳とされているけど、味の違いのわからないバカ舌のほうが人生楽しめると思う。
食品開発の仕事をしている人やソムリエや東西新聞社の文化部記者でないなら、安い料理で「おいしい、幸せだ」と思えるバカ舌のがよっぽど美徳だと思う。

2018年1月19日金曜日

少子化が解決しちゃったら


やれ児童手当だ、やれ待機児童だとみんながお題目のように「少子化対策」と言ってるけど、みんなほんとは気づいてるんでしょ?

消費が増えないとか、格差が拡大してるとか、保険料が高いとか、そういうのの原因は少子化じゃないってことに。
もしも今から子どもがどんどん増えたとしたら、状況は今よりもっと悪くなるってことに。

子どもなんか金は稼げないわ、医療費や教育費はかかるわ、少なくとも格差是正や社会保障費の負担減やらにはちっとも寄与しない。というかマイナスでしかない。
消費拡大にはちょっとは貢献するだろうけど、ほとんどの人は使い道がないからお金を使わないんじゃない。お金がないから使わないだけだ。子どもに金を使うならその分他への支出を削るだろう。

人口が増えたら、住宅難、食糧難などで生活水準は下がる。たぶんいいことより悪いことのほうが多い。


問題はどう考えたって少子化じゃなくて高齢化のほうだ。
仮に子どもが増えて人口が増減なしだったとしても、高齢者が増えて非生産人口が増えれば、平均的な暮らしぶりが良くなるはずがない。稼ぐ人の数が減って使う人が変わらないんだもの。

そもそも少子化と高齢化ってまったくべつの問題なのに「少子高齢化」なんてまとめて語られることがどうもきな臭い。ほんとの問題から目を背けさせたい人がいるんじゃなかろうか。
だからって年寄りを殺せとは思わないけど(将来殺されたくないし)、少なくとも問題の原因ははっきりさせとかないと適切な対処もできないと思うんだけどね。

「少子高齢化」みたいな乱暴な言葉が許されるなら、「少子高画質化」とか「少子ワイヤレス化」とか「少子実写アニメ化」とか、なんでもええやんねえ。


2018年1月18日木曜日

京都生まれ京都育ちの韓国人


学生時代、北京に一ヶ月ほど短期留学していた。
とにかく安いプランを探したところ大学寮の二人部屋に泊まるのがいちばん安かった。すぐに申し込んだ。

寮に着いてから後悔が始まった。
二人部屋。
ただでさえ人見知りなのに、二人部屋。
しかもはじめて訪れる異国の地。
なんでこんな冒険してしまったんだろう、と過去の自分の決断を悔やんだ。

寮の部屋に荷物を置くと、すぐに寮の管理人が一人の男性を連れてやってきた。
「おまえの同室となるやつを連れてきた。韓国人だ」というようなことを中国語で言った。
やべえ。韓国人か。
ぼくは韓国語がまったくわからない。アンニョンハセヨとアボジーとオモニーとかサムギョプサルしか知らない。それだけでは会話にならない。
中国語も英語もカタコトしかしゃべれない。
十分な意思疎通ができるだろうか。ほとんど言葉の通じない人と一ヶ月も同じ部屋で暮らすのか、きついな。
どうしようどうしようと狼狽しながら、部屋に入ってきた韓国人の男に向かってとりあえず「ニイハオ」と言ってみた。

すると彼が言った。「日本人ですよね?」
「えっ?」
「ぼく、在日韓国人だったんです。京都の小学校、中学校、高校に通ってました」

拍子抜けした。
当然ながら彼は日本語ぺらぺら。というより韓国語より日本語のほうがうまい。



同室になったKさんと打ち解けるまでに一週間を要した。お互い人見知りだったのだ。はじめの一週間はお互いすごく気を遣いながらぎこちなくしゃべっていた。
でも人見知り同士というのは一度打ち解けるとすごく親しくなる。
Kさんはぼくよりも八歳年上だったが、ぼくと彼は自転車で二人乗りをしてあちこち出かける仲になった。

Kさんはふしぎな人で、わざわざ中国の大学に短期留学をしにきたというのにほとんど授業に出なかった。
朝は遅くまで寝ている。同室なので、出発前に一応「そろそろ起きないと間に合わないんじゃない?」と声をかけるが「大丈夫、大丈夫」と言って寝ている。
授業は四時間目まであったが、彼は大学に現れるのは三時間目ぐらいから。まったく来ない日もあった。
寝起きが悪い人かと思っていたが、どうやら起きる意志すらないのだとわかり、ぼくも彼を起こすのをやめた。

授業に出ず、かといって観光にも興味がなかった。ぼくが「今日は天安門に行くから一緒に行かない?」と声をかけると「うーん、じゃあ行こうかな」とのっそりとついてくる、という感じだった。
ぼくは一ヶ月の北京生活だからということで精力的に授業に出たり観光地をまわったり近くの商店街に行ってお店の人に話しかけたりしていたが、Kさんはそういったことにはぜんぜん興味がないようで、スーパーマーケットに行って果物やお菓子を少しとたくさんの酒を買いこんできては、部屋で一人で呑んでいた。

ぼくもときどき「一緒に呑まない?」と誘われた。少しだけ付き合うこともあったが、断ることが多かった。
なぜなら大学で出された課題をやらなくてはならないし、翌朝も早くから授業があるからだ。
勉強しつつ観光したり日記を書いたりしていたら、週末以外は酒を呑むひまがない。
Kさんは授業をサボるし当然課題もやらないから、平日も呑んでいた。それも毎晩二時ぐらいまでひとりで本を読みながら呑んでいた。

ぼくが酒を断ると「韓国だったら友だちの酒の誘いを断るなんてありえないよ」と、冗談とも本気ともつかない顔で言ってきた。
ぼくは「京都で生まれて京都で育ったくせに」と言った。



全面的に気が合っていたわけではなかったが、Kさんがときどきぼそっと呟く冗談は毒が効いていてぼくは好きだった。
中国共産党を茶化すような、今にして思うとちょっと危ない冗談もよく言っていた。

一ヶ月の授業が終わった。ぼくは帰る準備をしていたが、Kさんは「ぼくはもうちょっと中国に残ることにするよ」と言った。まったく勉強もせずに、観光も好きでないのに、いったい中国の何が気に入ったのかわからない。Kさんの中国語は一ヶ月前からまったく上達していなかった。なにしろ一から十までの数字を中国語で言うことすらできなかったのだ。

Kさんにメールアドレスを訊かれ、アドレスを交換した。
日本に帰ってからメールを送ると返事があった。だがそれ以降は、こちらが何度メールを送っても返事がなかった。
何か気に障ることでも送ったのだろうかと悩んだが、同時期に留学していた女の子に訊くと、彼女に対してもKさんから一通しかメールが来なかったという。

自分からメールアドレスを訊いてきたくせに、メールをしない。
なんでやねんと思ったが、わざわざ留学したくせにずっと部屋に引きこもって酒を呑んでいたKさんらしいな、という気もした。


2018年1月17日水曜日

自分と関わりのない主張


アンソニー・プラトカニス ,‎ エリオット・アロンソン『プロパガンダ 広告・政治宣伝のからくりを見抜く』に、こんな実験結果が載っていた。


ある問題が個人的に重要である場合は、メッセージの論拠の強さが、説得されるかどうかに強い影響を及ぼした。一方、自分とあまり関わりのない場合だと、メッセージの中身よりもメッセージの送り手が誰であるかが強く影響した。


ふうむ。
たとえば、保育制度のありかたをめぐって、
  • 無名の人がブログに書いた、詳細なデータに基づく論理的な主張
  • 大学教授がろくに調べずに新聞に書いた、きわめて個人的な主張
があった場合、自分がもうすぐ子どもを保育園に入れようと思っている親であれば前者に影響され、子どもを持つ予定すらない人であれば後者の主張を受け入れてしまう、ということだ。

なるほど、なるほど。
よく「情報の正しさを検証しろ」というが、実際問題として、世の中のありとあらゆる問題について深く慎重に検証することは不可能だよね。
自分とあまり利害関係のない話であれば、「専門家が言ってるからそうなんだろう」でじっくり考えずに信じこんでしまうのは仕方ない。


でも、「ぼくらがこういう傾向を持っている」ことを知っておくのはとても大事だ。

たとえば原発をめぐる論争があったとき。
テレビでは、ぜんぜん関係のない専門家っぽい人(たとえば脳科学者とかカリスマ予備校講師とか)があれこれ語る。
脳科学者の言う原発論は、そこらへんのおっさんの飲み屋での話とたぶん大差ない。いや脳科学者ってのはあくまで例であって、べつに茂木さんをばかにしてるわけじゃないですよ。してるけど。

飲み屋のおなじレベルの話だからって、彼らの言うことがすべて誤りだとはかぎらない。
でもまあ信用には足らないでしょう。

原発問題を身に迫った危険と感じていない自分は彼らの言うことを信用してしまいがちだ、ということを自覚しておいたほうがいいね。いくらか割り引いて聞かないとね。

2018年1月16日火曜日

定期購読の恐怖


かつて新聞を購読していたが、今はとっていない。よほど気になるニュースがあったときだけコンビニで買う。
ある週刊誌を定期購読していたこともあるが、それもやめてしまった。
少し前にAmazon Unlimited(月額費を払えばいくつかの電子書籍や雑誌が読み放題になるサービス)に加入していたが、何ヶ月かして解約した。


定期購読というのがどうも性にあわない、ということに最近やっと気がついた。
定期購読は読者を束縛する。
金を払っているのだから読まなくちゃいけない。早く読まないと次の号が届く。だから今すぐ読まなきゃいけない。

「新聞は読みたいときに読みます。だから一週間分ためておいてまとめて読むこともありますね」
ということは社会通念上許されない。新聞の消費期限は一日だ。その日のうちに読んでしまわなきゃいけない。これがつらい。

ぼくは読む本がないと不安になる性分なので、常に未読の本が二十冊くらいは自宅にある。
読まれていない本たちは、おとなしく自分の順番が来るのを待っている。ぼくはそいつらの声にも耳を傾けながら「ちょっと待ってくれよ。今こっちの小説が佳境だから、それが終わったら次はおまえな」とか「君は時間がかかりそうだから通勤電車の中で少しずつ読むことにするよ」なんて云いながら順番を調整している。

ところが、定期購読のやつらは強引に割りこんでくる。
「Amazon Unlimitedです。月間二冊以上読まないと元をとれませんよ。損してもいいんですか!?」
「ちわー。週刊誌です。来週までに読んでよ!」
「こっちは新聞じゃい。なにがなんでも今日中に耳をそろえて読んでもらうで!」
と扉をがんがん叩いてくる。

新聞は「おっ小説読んどるんか。えらい余裕があるんやな」と、子どもの貯金箱に手を出す取り立て屋のように睨みを利かせる。
ぼくはおびえながら「この子を読む時間だけは勘弁してください!」と頭を下げるのだが、新聞は耳も貸さずに読みかけの小説を閉じ「届けてもらった新聞は読むのが人の道ってもんやろがい! 小説はいつでもええやろが!」とすごんでくる。そう云われると返す言葉もない。
泣きながら新聞を読み終えると、新聞は「読むもん読んでくれたらこっちも無茶なことはしたくないんや。明日もまた来るで!」と乱暴な音を立てて帰っていく。新聞に読書時間を奪われたぼくは、もう小説を読む気もすっかりなくし、ただ茫然と古新聞を折りたたむばかりだ。

もうそんな思いはしたくない。
だからぼくはもう定期購読とサラ金には手を出さない決意をした。

2018年1月15日月曜日

おまえは都道府県のサイズ感をつかめていない


四歳の娘は地図が好きだ。
なぜかはわからないが、駅に貼ってある近隣図なんかを見つけると、必ず「地図だ!」と云って見に行く。
地図の見方はよくわかっていないが「今はどこ? どうやって行くの?」と訊いてくるので、「今はここで、今からこうやってこうやってこう行くんだよ」と教えてやる。


そんなに地図が好きなら、と思って日本地図を買ってきた。
風呂の壁に貼れるこども向けの地図だ。47都道府県と県庁素材地の名前がひらがなで書いてあるので、四歳児でも読める。

こどもの集中力と吸収力というのはたいしたものだ。
一週間ぐらいで、半分近くの都道府県を覚えてしまった。四歳児にとっては「とうきょうと」も「ほっかいどう」も特に意味のない文字の羅列だと思うのだが、それでもぐんぐん覚える。高級今治タオルのような吸収力がうらやましい。

ただ、都道府県名は覚えても、都道府県の概念はいまいちよくわかっていない。
「ここは大阪府で、おじいちゃんとおばあちゃんは兵庫県に住んでいて、いとこの〇〇ちゃんは京都府に住んでいるんだよ」
と教えると「じゃあ保育園は?」と訊いてくる。「大阪府だよ」「じゃあ保育園の前の公園は?」「大阪府だよ」「じゃあそこのスーパーは?」「大阪府」「大阪府が多いんだね」と云う。
たまたま大阪府が多いわけじゃなくて、ここら一帯が大阪府なんだよ、といってもいまいちぴんと来ていない様子。まあ四歳児にとっては自分の足で歩いていけるところが世界のすべてだろうから、そのへんの距離感をつかめないんだろうな。かわいいやつじゃ。




そのとき「ではおまえは都道府県のサイズ感をどれぐらい正確につかめているのか」という天の声が聞こえてきた。
はっ、言われてみればたしかに、とても正確につかめているとは言いがたい……。

地図で見てだいたいの大きさは知っている。
でもそれは相対的な大きさでしかない。兵庫県が大阪よりずっと大きいことはわかる。でも、そもそも大阪の大きさを、ぼくは知らない。
いっぺんでも端から端まで歩いてみたらわかると思う。徒歩じゃなくても、自転車で縦断するだけで「大阪府ってこれぐらいのサイズか」というのがわかるだろう。そしたら、「大阪府がこれぐらいだったから兵庫県はこれぐらいか」と他の都道府県のサイズ感もつかめるんじゃないだろうか(ただ北海道は大きすぎるのでつかめなさそうだ)。
でもぼくはどこかの県の端から端まで移動したことがない。電車や車で横切ったことはあるが、身体感覚としてはつかめていない。


「おまえがいかに都道府県のサイズ感をつかめていないか自覚できるように、テストをしよう」
また天の声が聞こえた。ぼくは目隠しをされて延々歩かされる。ずっと右側から陽があたっているので東に進んでいることだけはわかる。
大阪をスタートしてかなり歩いたところで「さて、今は何県にいるでしょう?」と天の声がクイズを出した。

「んー……。だいぶ歩いたから……静岡県!」

「ブッブー。まだ大阪府でした」



2018年1月13日土曜日

大声コンテストの真実


NHKのニュースって、どうでもいいニュースやるじゃないですか。
どうでもいいやつです。毒にも薬にもならないやつ。知っても人生に何の影響も及ぼさないニュース。

ちびっ子たくさんと横綱が相撲とってるニュースとか、ホタルイカ漁のシーズンになりましたとか、そういうやつ。
あれ何のためにやってるんだろうね。ニュースの時間と取材陣あまってるのかね。あまったんならその分受信料返金してほしいね。

中でもどうでもいいのは、大声コンテストのニュースね。
丘の上あたりからでっかい声で、「日頃思っていること」という名の超ソフトなことを叫ぶやつ。
「お父さんお母さんいつもありがとー!」とか「もっと給料上げてくれー!」とか。NHKバラエティ班が考えてるのかってぐらいのマイルドさだよね。紅白歌合戦のミニコントレベルのユーモアだよね。いや、いい意味で(そんなわけあるか)。

ニュースの最後には必ず「大語で日頃の不満を発散しました」みたいなナレーションが入るんだけど、大声コンテストに出てくる人ってストレスあるように見えないけどね。

それとも、ニュースでは使われないだけで、大声コンテストの現場ではもっとえげつないこと言ってる人もいるのかな。

「古い常識を押しつけて子育てにケチつけてくる姑のババア、死んでー!!」

みたいなやつ。

ときどきそういうのもあるんだったら一時間くらい見てられるな。



2018年1月11日木曜日

おすすめの本ある?



本が好きだと言うと、
「読書のどういうところがいいの?」
「なんかおすすめの本ある?」
と訊いてくる人がいる。

本気で訊きたいわけじゃなくて話を拡げたいだけだろう。それはわかってる。でも、それにしてもうるせえな、と思う。
なぜならそういう質問をしてくるのは本を読まない人間に決まっているからだ。

現代日本に生まれ育っている以上これまでの人生において読書の楽しさにふれる機会は何万回とあったはずで、それでも読書好きにならなかったということはもうおまえが読書の悦びに目覚める可能性はほぼゼロだから、おまえに読書の愉しみを説いたところで無為だ。だからおまえと読書が価値あるかどうか議論するひまがあったら本読むわ。

とは思うけど、そこはぼくもいい大人だからぐっとこらえて
「やっぱり新しい知識を得られるのってそれ自体悦びじゃないですか」
みたいな相手が欲してそうなテキトーな答えを言って、ああ無駄な時間だこの時間を利用して本読みてえ、と思うのだ。


2018年1月10日水曜日

「この女がです」


吉田戦車『伝染るんです』は漫画史に残る名作四コマ漫画だが、中でもぼくは「この女が」の話がいちばん好きだ。

著作権とかがアレなので画像は貼らないけど、

交通事故が起こり、サラリーマンとよぼよぼのおばあさんがもめている

警官が仲裁に入り、事情を尋ねる

サラリーマンがおばあさんを指さし、「こっちが青信号だったのに、この女が飛び出してきたんです!」

警官「この女が、ですか……」
サラリーマン「この女がです!」

(吉田戦車『伝染るんです』2巻より)

という四コマだ。
「この女」と言われたおばあさんの、はにかんだような当惑した顔も含めてめちゃくちゃおもしろかった。
たったの四コマ。日常的な舞台とシンプルな台詞で、これだけの不条理な世界をつくれるなんてすごい、と感動した。

この話、なぜおもしろいんだろう。うまく説明できない。
笑いにはいくつかのパターンがあるけど、これはどれにもあてはまらないような気がする。

ふつうは、間違ったことをしたときに笑いが生まれる。
サラリーマンがおばあさんを指して「この少女」と言ったら、これは明らかに間違いだ。間違った発言だからこれなら一応ギャグとして成立する(もっともそれで笑うのは五歳児までだだろうけど)。
でもサラリーマンがおばあさんを「この女」というのは、決して間違いではない。おばあさんは女だということは誰だって知っている。

老婆を「この女」と呼ぶのは間違いではないが一般的ではない。 ふつうは、喧嘩をしていたら「このババア」「このばあさん」「このおばさん」だろう。
「この人」なら自然だ。ぼくが見知らぬおばあさんと喧嘩になり、それを当人の前で第三者に説明するとしたら「この人」と言うと思う。
「この男」などうだろう。見知らぬおじいさんを指さして「この男」。これは常識の範囲に収まる気がする。少なくともおばあさんを「この女」と呼ぶときに感じたほどの違和感はない。

おばあさんを「この人」と呼ぶのは違和感がない。若い女性を「この女」と呼ぶのも自然だ。おじいさんを「この男」と呼ぶことにも、それほど抵抗はない。なのにおばあさんを「この女」と呼ぶときにだけ奇妙な感覚にとらわれる。
ということは。
「女」には年齢制限がある、ということになる。
百歳になってもおばあさんは女だが、それは生物学的な話であって、言葉としての「女」の定義からは外れるということだ。

『大辞泉』によると、「女」には
・人間の性別で、子を産む機能のあるほう。女性。女子。⇔男。
・成熟した女性。子供を産むことができるまでに成長した女性。一人前の女性。
という意味がある。
一項目は生物学的な定義だ。「一般的に子どもを産む機能があることが多い側の性」という意味だろう。我々は子宮を摘出した人を男とは思わない(そういう人に配慮して「女」という言葉を定義づけるのって難しいなあ)。
生物学的の意味で言うならばおばあさんは間違いなく女だ。

問題はふたつめ。こちらが、我々がふだん使う言葉としての「女」だ。
おばあさんは、間違いなく成熟している。熟しすぎているといってもいい。一人前だ。
この定義で言うなれば、百歳のおばあさんも女だということになる。
だが、この辞書の編纂者が把握していなかったのか、それともわかっていてあえて配慮して書かなかったのか、この定義は不正確だ。
我々がふだん使う「女」は「子供を産むことができるまでに成長し、子供を産むことができなくなる年齢に達するまでの女性」なのだ。
だから我々は生殖機能を失ったことが明白なおばあさんを「この女」と呼ぶことに違和感をおぼえる。

これは女だけの話ではないと思う。おそらく男も同じだ。
だが、男のほうは「子どもをつくる」という行為においては女よりもずっと寿命が長い。九十代で父親になった人の例もある。そういったケースは例外だろうが、女性でいうところの閉経のような明確なイベントが男にはないため、いつまでたっても「子どもをつくる可能性のある側」でいられる。
だからおじいさんを「この男」と呼ぶことにはあまり抵抗を感じないのではないだろうか。

我々はふだん「女」の定義なんて気にしない。疑う余地もないと思っている。ぼくも今まで気にしたこともなかった。
だけど、暗黙のうちに「子供を産むことができるまでに成長し、子供を産むことができなくなる年齢に達するまでの女性」という定義を共有している。

その不明瞭だけど強固な共有認識と辞書的な定義のずれを鮮やかに切り取って、たったの四コマでギャグとして成立させているのはすごい。



2018年1月9日火曜日

「レゴクリエイター ダイナソー」は大傑作だ


レゴ クリエイター ダイナソー 31058


これ買ったんだけど、めっちゃ楽しい。
レゴと恐竜が好きな娘のために買ったんだけど、何よりぼくが楽しい。
これ、子どものときに欲しかったなー。たぶん死ぬほど遊んだだろうな。

Amazonで買ったんだけど、2,000円以下だったから、しょぼいかもしれないなーと思いながら購入した。レゴで2,000円未満ってかなり安い部類だからね。

でも期待をはるかに上回る出来だった。
何がすごいって、四種類もの恐竜が作れること。

トリケラトプス

ティラノサウルス(レゴフィグはついておりません)

プテラノドン

ブラキオサウルス

全部可動域が広い。ティラノサウルスだったら、あごが開閉するのはもちろん、前足、後ろ足、爪、尻尾がそれぞれ自在に動く。本物のティラノサウルスと同じくらい広範囲に動く。本物のティラノサウルス見たことないけど。
あとちゃんと二本足で直立するのもいい。二本足で立たせるバランスにするのってかなり難しいと思うんだけど、そのへんもクリアしている。ティラノサウルスの指が二本だったりとか、ちゃんと恐竜の生態にあわせている。

かなり造形が細かいのに、四歳児の娘でもつくれる(ただバラすのはできない)。
"シンプルさ"と"奥深さ"というレゴの魅力が存分に発揮された傑作だ。子どもの頃からいろんなレゴシリーズを楽しんできたけど、ぼくの中ではまちがいなくナンバーワンだ。

このレゴクリエイターシリーズって他にもいろんな種類が出ていて、どれも一箱でいろんな作品が楽しめる。
全部そろえたくなってきた……。半年にひとつずつくらいのペースでそろえていったとして、はたしていつまで娘がお父さんと一緒にレゴで遊んでくれるだろうか……。