2020年11月20日金曜日

テナガザル向けアダルトビデオが存在しない理由

 ふとおもったんだけど、アダルトビデオに興奮できるのって人間だけなんじゃないかな。

 いや、あたりまえなんだけど。人間向けに作ってるから。

 でもさ。
 アダルトビデオってだいたい他人がセックスしてる映像でしょ。
 それで昂奮するのってよく考えたら変じゃない?

「女の裸を見て昂奮する」のはわかるよ。
 女が自分の前で裸体をさらしているってのはセックスに持ちこむチャンスだからね。
 女性とふたりっきりになって、相手が全裸になってくれたら、まずまちがいなくセックスできるわけじゃない。
 そこで「いやそんなつもりじゃないから」って言われることはまずないでしょ。

 でもさ。
「自分じゃない男」と「自分じゃない女」がセックスしていて、自分がそれを隠し見ているというシチュエーション。
 ふつうに考えればそこから自分がセックスできる可能性はほとんどない。
 だから、本来なら昂奮するどころか消沈する状況なわけ。

 じゃあなんで赤の他人同士が性交しているところを見て昂奮できるのかっていったら、人間には想像力があるから。
 ビデオに写っている男優に自分を投影して、自分が性交している感覚を追体験できるから。


 だからさ。
 たとえばテナガザルに、他のテナガザルが交尾してる映像を見せたとするじゃん。
 それで昂奮するかっていうと、しないんんじゃないかとおもうんだよね。
 テナガザルはそこまでの想像力がないだろうから。


 あ、でもチンパンジーはべつだよ。チンパンジーなら昂奮するかもしれない。
 一夫一妻制のテナガザルとちがって、チンパンジーは乱婚型だから。
 他の個体が交尾していてもチャンスがあるわけだから。

2020年11月19日木曜日

手のひらメカ

子どものころは「手のひらにおさまるメカ」に対するあこがれが強かった。

今だと携帯電話を持つのがあたりまえになったので手のひらメカにあこがれたりしないけど、ぼくが子どもの頃は手のひらメカは希少だったし、まして子どもが触ってもよい手のひらメカなんて電卓ぐらいしかなかったからとにかく夢のアイテムだった。

特にほしかったのが時計とカメラだった。


小学四年生のとき、家族で香港旅行に行った。
おみやげとして、蚤の市で目覚まし時計を買ってもらった。

パスポートぐらいのサイズで、ケースもついていて、なんつうか超かっこよかった(ボキャブラリー貧困!)。

折りたたんで持ち運びできて、拡げたら置時計になって、デジタルで、世界各地の時刻がわかって、気温計もついていて、今おもうとぜんぜん〝メカ〟ってほどじゃないんだけど、これがぼくがはじめて所有した手のひらメカだった。

目覚まし時計として使っていただけでなく、どこへ行くにも持ち運んでいた。
夏の暑い日に公園に持っていって石の上に置いてたら温度が50℃になってて仰天した。
それでも壊れなかったのだからなかなかタフな時計だった。


カメラはなかなか買えなかった。
六年生のときにフリーマーケットでプラスチックのおもちゃみたいなカメラを五百円で買った。
おもちゃとはいえ一応写真は撮れるのだが、なんとパノラマ写真しか撮れないというわけのわからんカメラだ。
パノラマ専用のフィルムが必要だし、現像・プリントも特別料金が必要。
とにかくランニングコストが高くついたので、小学生に捻出できるはずもなく、けっきょくフィルム一本分しか撮らなかった。


1996年ぐらいにたまごっちとか携帯テトリスとかが爆発的に流行った。
ぼくはたまごっちは持っていなかったが、携帯テトリスは持っていた。何かの景品でもらったのだ。

あれがあんなに流行ったのは、みんな〝手のひらメカ〟に対するあこがれを持っていたからじゃないだろうか。
冷静に考えればわざわざちっちゃい画面でやりたいほど、テトリスをやりたいわけではなかった。〝手のひらメカ〟を使いたいから携帯テトリスをやっていたのだ。

中学生のときに気に入っていた〝手のひらメカ〟は電子辞書だった。
英和・和英辞典と漢字辞典。別々の機種だった。
どちらも家電量販店で1,000円で買った。
こんなすごいものが1,000円で買えるなんて! と感動したことをおぼえている。


中高生になってからは多少使えるお金も増えたので、使い捨てカメラ(いわゆる『写ルンです』)でよく写真を撮っていた。
これはこれで楽しかったのだが、やはり「メカ」という感じはしなかった。
何しろ現像に出したら手元に残らないのだから。

はじめてちゃんとしたフィルムカメラを買ったのは、大学生になって中国に行ったときのことだ。
北京の蚤の市で(蚤の市が好きなのだ)カメラを買った。その名も『長城』。
日本円で千円ぐらいだった。当時は中国の物価は今よりずっと安かったのだ。
だがけっきょく『長城』も長くは使わなかった。
ほどなくしてデジタルカメラを買ったからだ。

このあたりから〝手のひらメカ〟は特別な存在ではなくなった。


今の子どもって〝手のひらメカ〟にあこがれるのかな。
ものごころついたときからスマホやタブレットやデジカメに囲まれて育っているからあこがれないのかな。

とおもっていたが、こないだ娘の進研ゼミの景品カタログを見ていたら「トランシーバー」があって、おおっやっぱり今の子どももトランシーバーにあこがれるのか! とうれしくなった。

いいよなあ、トランシーバー。
スマホ持っててもやっぱりあこがれるぜ。

2020年11月18日水曜日

自分のイヤなところを写す鏡

長女は七歳。

ぼくになついている。すごく。
朝はぼくと手を手をつないで学校へ行き、夜は「おとうさん本読んで」「おとうさん宿題見て」「おとうさんいっしょにピアノ弾こ」「いっしょにお風呂入ろ」と言い、隣で寝る。
休みの日もいっしょに遊ぶし、ぼくが出かけたらついてくる。

始終ぼくといっしょにいる。
そのせいだろうか、ぼくのイヤなところが似てきた。


たとえば他者のルール違反にやたらと厳しいところとか。
ぼくは長女の「約束を破る」とか「嘘をつく」に対してはすごく厳しく叱る。ゲームをしていても、手加減をしたりハンデをつけることはあってもルール違反は許さない。
だからだろう、長女も他人のズルやごまかしに厳しい。

ドッチボールで線を越えて投げたとか、おにごっこでタッチされたのに「タッチされてない」と言い張って逃げたとか。
そういうのを厳しく糾弾する。
しかも、ちっちゃい子がいまいちルールを把握してなくて結果的にずるになってしまった、なんてときにも厳しくたしなめる。

まあルールはルールだし、誰であろうと不正は不正なので、長女の言い分もわかる。
とはいえたかが遊びなので「まあちょっとぐらいはええじゃないか」「ルールの厳密さよりも場の流れのほうが大事だよね」ぐらいのゆるさでやったほうが楽しくやれるのもまた事実。

長女が明らかに意地悪や自己中心的な考えでやっているなら叱るが、正義感でやっているので注意すべきかどうか悩ましい。

おもえばぼくも小学生のとき、通知表に「他人に厳しい」と書かれていた。
イヤなところが似てしまった。


あと長女の次女(二歳)への叱り方とか。
理由はささいなことだ。次女が長女の持ち物を勝手に使ったとか、手を洗う順番を守らなかったとか。
長女は次女を呼びつけ、

「ねえさっき勝手に私のノートに落書きしたよね。ああいうことされたら私はすごくイヤなの。学校で使う大事なものだし。前にも注意したよね? わかる? 今度からはもうやめてほしいんだけど守れる?」

と、理詰めでねちねち責めたてる。

言っていることはまちがってないのだが、相手は二歳だ。くどくど説明してもわかるわけがない。「だめっ!」とか「やめてね」で十分だ。
なによりイヤなのが、長女の叱り方が、ぼくが長女を叱るときのやりかたであることにそっくりなことだ。

何をしたのか、その行為の何がダメだったのか、どうしたらよかったのか、今後はどうしたらいいのか。
ぼくとしては、こちらが感情的に叱っているのではなく、なぜ叱っているのかを言語で説明するようにしている。
だが客観的に聞いたらこんなにねちねちくどくどと聞こえるのか……。すげえイヤミな口調だな……。きらいだわー……。

「子どもは親の言うことは聞かないが、親の言動は真似をする」
と言われるが、まさにそのとおり。
悪いところだけじゃなくて良いところも似ているのかもしれないが、やっぱり目に付くのはイヤなところ。

自分の声を録音したものを聴くと
「ぼくってこんな気持ち悪いしゃべりかたしてんだ」
と絶望的な気持ちになるが、それとよく似ている。

世の中には「自分の子どものことが嫌い」という人がいるらしいが、きっと自分に似ているからなんだろうなー。


2020年11月17日火曜日

【読書感想文】池上彰のダメ番組のような / 中原 英臣・佐川 峻『数字のウソを見破る』

数字のウソを見破る

中原 英臣  佐川 峻

内容(e-honより)
私たちの身の周りにはさまざまな数字が溢れている。健康診断の正常値や失業率・有効求人倍率、テレビの視聴率など、個人にとっても社会にとっても、数字は大きな力を持っている。しかし、客観的でウソがないように見えるそれらの数字には、そのまま信じると騙されるものもしばしばある。例えば、テレビの視聴率の〇.一%の違いで広告会社は動くが、サンプル調査ゆえの誤差の範囲でまったく意味はない。医療・健康・経済・社会に関するいろいろな数字を取りあげて、そのウラを暴く。

 共著だが、二人が共同して執筆しているわけではなく、前半は医師である中原氏が医療分野について書いて、後半は科学評論家である佐川氏が経済や社会の諸々について語っている。
 ボリュームが足りないので二人の本をむりやりまとめて合本にした、という感じの作り。

 そして前半の中原氏のパートはいまいちだった。
「日本では〇〇という基準で医療をやっているが、欧米では□□という基準が使われている。だから〇〇は適切でない!」
みたいな論調なのだが、正直素人にはそれだけ読んでも〇〇と□□のどちらが正しいのかわからない。日本の基準のほうが正しくて欧米のほうがまちがってるのかもしれないし。

「厚労省が出した数字をそのまま信じるな」というのは首肯できるが、だったら中原氏の出した数字だってそのまま信じられない。
 結局この本を読んだだけだと「厚労省は〇〇と言っているが、反対意見もある」ということしかわからないんだよね。

 医療に関しては万人に通用する正解がない以上、ちょっと疑わしい数字でも「数字のウソ」とまでは言い切れないんじゃないかな。




 佐川さんのパートはおもしろかった。内容は古かったけど(2009年刊行なのでしかたないけど)。

 気象庁の天気予報が雨を降るかどうか的中させる確率は約85%だそうだ。
 85%と聞くとけっこう当たってるなという気がするが、2008年に東京で雨が降ったのは114 日だけ。

 この数字は、東京では、日に関係なく、いつも「明日は晴れです」と「予報」すれば68.8%、すなわち約70%の適中率になることを意味している。
 雨が降る日数というのは、年によっても、地域によっても異なるだろうが、おそらく日本ではところかまわず、「明日は晴れ」と予報しておけば、だいたい7割前後の適中率が得られる。
 ほとんど雨が降らない、たとえばアフリカの砂漠地域での「予報」を考えれば、もっと高い適中率が得られるのは容易に想像できるだろう。極端な例だが、乾燥した地方で、年間に2~3日しか雨が降らないとすれば、「明日は晴れです」という予報の適中率は99%を上回ることになる。
 ここでいいたいことは、日本で85%という数値を評価するときの基準は0%ではなく、70%からどれだけ高いか、ということだということである。それが本当の意味での予報の適中率の評価になる。70%の適中率は素人にも実現できるのだから。
 とすれば、気象庁の予報の適中率は、70%から15ポイントだけ高いということになる。気象衛星からの生のデータや蓄積した膨大な気象データをスーパーコンピューターで計算した結果の予報として、はたしてこの数字は大きなものだろうか。評価の仕方にもよるが、非常に大きいとはいえそうにもないような気がするが、どうだろうか。

 堀井憲一郎さんが『かつて誰も調べなかった100の謎』という本で、天気予報が当たってるかどうかを検証していた。
 その調査によると、雨が降った31日のうち、7日前に「7日後は雨」と的中させていたのはたったの1回だけだったそうだ。的中率は驚きの3.2%。ゲタを転がすよりはるかに的中率が低い。

 そして今でもほとんど天気予報の的中率は上がってないらしい。週間天気予報は基本的に当たらないのだ。
 そしてこの先も週間天気予報の成績が向上する可能性はほとんどない。どれだけコンピュータが進化しても、天気のような複雑なものを正確に予測するのはできないらしい(カオス理論)。
 だから「週末の天気は?」と訊かれたときは天気予報など見ずに「晴れるよ」と言っておけばいい。2/3以上は当たるから。




 そのほか、地球温暖化、株のナンピン買い、失業率、出生率、平均寿命など雑多な話。
 それぞれ興味深いんだけど、いかんせんテーマが多岐にわたりすぎているのですごく浅い。
「食品が製造年月日表記から賞味期限表記になったのは外国からの圧力によるもの」とかテレビ番組で紹介するぐらいならおもしろい内容だけど、本で読むにはものたりない。
 根拠とか洞察とかがほとんどないんだよな……。最近の池上彰さんの番組みたい。


【関連記事】

【読書感想文】堀井 憲一郎 『かつて誰も調べなかった100の謎』

【読書感想文】 小林 直樹 『だから数字にダマされる』



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2020年11月16日月曜日

古本屋の店主になりたい

古本屋の店主になりたい。

客は来ないほうがいい。一日に三人とか。
ひまなときは(基本的にずっとひまなんだが)本を読む。
だから客は少なくていいが、かといってまったく来ないのは寂しい。

基本的に買取はしない。
面倒だから。
好きじゃない本を店に並べたくないし。

店に並べるのはぼくが読みおわった本だ。
「おっ、それ買うの? お目が高い」
「あーそれね。イマイチだったんだよねー」
「その本は読む人を選ぶとおもうよ。大丈夫かな?」
とか心の中でつぶやきながら売りたい。

買ったけどずっと読んでいない本を店に並べておいてもおもしろいな。
客が手に取ったら「あっ、あっ、それまだ読んでないやつ」とドキドキしたい。
買われちゃったら「あー。あれおもしろかったんだろうなー。もっと早く読んどきゃよかったー」と後悔したい。
だったら店頭に置くなって話なんだが、でもたまにはドキドキしたいじゃない。古本屋の店主って刺激少なそうだもん。

もちろん利益なんかない。
それどころか光熱費にすらならないぐらいの売上しかない。家賃なんかもってのほか。
利益どころか大赤字だ。なぜならぼくが別の古本屋やAmazonで本を買ってしまうから。
もうずっと赤字。
「おっ、今月は赤字が2万円で済んだ。よかったー」みたいな感じでやっていきたい。

あまりにも客が少なすぎて、近所の人たちから
「あそこの古本屋、表向きは古本屋だけど裏でヤバい商売扱ってるらしいよ」
「『小松左京の初版本は入荷したかい?』って言えばカジノにつながる秘密の通路をあけてもらえるらしいよ」
みたいな噂が立つぐらい。

あー、いいなあ!