2020年2月13日木曜日

気の毒な苗字


ぼくの苗字はごくごくありきたりの苗字だ。
日本の多い苗字トップ10に入っている。

めずらしい苗字にあこがれたこともある。
星野とか桜井とか月島とかの美しい苗字がうらやましい。

しかし「苗字をランダムに変えられるボタン」があってもぼくは押さない。
今より悪い苗字になるのが怖いからだ。

親が様々な想いを込めてつける名前とちがい、苗字は「なんでこんなのにしたんだろ」とおもうものがちょこちょこある。

その苗字で生きている人には悪いが、毒島とか大尻とか。
毒島なんて漢字もひどいし読みも「ぶすじま」で二重苦だ。つくづく「毒島じゃなくてよかった」とおもってしまう。ごめんやで。

江口とか。
ぜったいに小学生のときのあだ名は「エロ」で確定だもんな。

大学生のとき、同級生に田尾さんという女の子がいた。
田尾さんはあまり字がきれいではなく、漢字のヘンとツクリが離れてしまう、横に間延びした字を書く人だった。
あるとき友人のひとりが、左右離ればなれになった「尾」という字を見て「田尾さんの毛がはみでてる」と云った。
ぼくは大笑いしながら「名前が田尾じゃなくてよかった」とおもった。

前の会社に毛尾さんというおじいちゃんがいた。
苗字に毛がふたつも入っている。
当人は少し薄毛で、ぼくは毛尾さんに会うたびに「名前はあんなにふさふさなのに」とおもっていた。

もちろん口に出したりはしない。いい大人なので。
でもこれからも江口さんに会えば心の中で「エロ」と呼んでしまうだろうし、大尻さんに会えばこっそりお尻の大きさを観察してしまうのだ。


2020年2月12日水曜日

喪服のバラ売り

仕事で付き合いのあった方が亡くなくなり、お通夜に参列することになった。

葬儀なんて何年ぶりだろう。
ありがたいことに知人の死とはほぼ無縁の人生を送っている。親戚以外の葬儀に出席するのははじめてだ。

たしか喪服があったはず。ついにこれが役に立つ日が……。
あれ。
喪服はある。ジャケットだけ。ズボンがない。

ズボンだけがない。
衣装棚の服を全部調べた。ない。喪服のズボンだけがない。

そんなことあるか?
こないだ着たのいつだっけ。わかんない。喪服なんてめったに着ないから思い出せない。一度か二度しか着てないのに。

この喪服は、高校を卒業するときに母が買ってくれたものだ。
「こういうのが必要になるときも必ずあるから」と云って、数珠や袱紗と一緒に“葬儀セット”を買ってくれた。
さすがは母親だ。
息子が「こういうの」を自分では買わないことをちゃんとわかっているのだ。
もしものときに備えて買っておくなんてことはぜったいにしないし、いざ「必要なとき」になっても
「喪服買わなきゃいけないのか……。黒っぽいズボンとシャツじゃだめかな。なるべく文字が入ってないやつで」
とおもうか
「別の葬式と重なったことにして『葬式の先約があるんです』と云って行くのやめようかな」
と考えるかで、いずれにせよめんどくさいことから逃げようとする人間だということを、母はちゃんと理解しているのだ。すごいなあ。

その、母が買ってくれた喪服のズボンだけがない。

クリーニングの袋には入ってないから、クリーニングに出したわけではない。なによりぼくの性格的に、目に見えて汚れたわけでもないのにクリーニングに出すなんて面倒なことをするわけがない。

いつなくしたんだろう。喪服のズボンだけがどこかに行くなんてことあるだろうか。
前回お葬式に出たときに、ズボンを履かずに下半身パンツ丸出しで帰ってしまったとしか考えられない。
きっとどこかの葬儀場のトイレの中だ。我ながらうっかりさんだなあ。ウケる。

しかし、ないものを嘆いてもしかたがない。
問題は明日のお通夜をどうするか、だ。

時間はあるから、買いに行くことはできる。家から徒歩五分のところに紳士服屋もある。
さすがに結婚して子どもも持った今となっては「黒っぽいズボンと黒っぽいシャツ」というわけにはいかない。

でもなあ。
ジャケットはあるんだよなあ。
両方なくしたんなら潔く買い替えるんだけどなあ。
ジャケットは一回かニ回しか袖を通してないから新品同様なんだよなあ。ぼくは十八歳のときから体型も変わってないからまだ着られるんだよなあ。
このジャケットを紳士服屋に持っていって「これにぴったりのズボンください」って言って買えるのかなあ。むりだろうなあ。喪服のバラ売りやってないだろうなあ。

試しに他のスーツのズボンをあわせてみる。
いちばん黒っぽいの。
うーん。
やっぱりちょっとちがう。喪服は漆黒だけど、スーツは黒といってもちょっと明るいんだよなあ。
妻に訊く。
「これ、上下ちがうってわかる?」

「んー。明るいところでよく見たらぜんぜんちがう。でもまじまじと見なければ気づかないかも。敏感な人なら気づくかもしれないけど」

おお。
なかなかいい手ごたえじゃないか。
これならごまかせるかも。
そうだよな。よく見なきゃ気づかないよな。
それにお通夜って夜だしな。葬儀場って祭壇以外はそんなに煌々と照らさないしな。
うん、いける。
しかも黒ネクタイとか数珠とかの「葬儀セット」はちゃんとあるしな。そっちに目が行くしな。
そもそも誰も「この人喪服の上下そろってなくない?」なんて疑いもしないだろうしな。

よし、これでいこう!
大丈夫だ!


そして翌日。
喪服のジャケットと黒っぽいスーツのズボンでぼくは出かける。
そして玄関先で気づく。
真っ黒の靴がない。
まあこの黒っぽい靴なら……。黒というかダークブラウンだけど……。


2020年2月10日月曜日

【読書感想文】振り込め詐欺をするのはヤクザじゃない / 溝口 敦・鈴木 智彦『教養としてのヤクザ』

教養としてのヤクザ

溝口 敦  鈴木 智彦

内容(Amazonより)
芸人の闇営業問題で分かったことは、今の日本人はあまりにも「反社会的勢力」に対する理解が浅いということだ。反社とは何か、暴力団とは何か、ヤクザとは何か。彼らと社会とのさまざまな接点を通じて「教養としてのヤクザ」を学んでいく。そのなかで知られざる実態が次々と明らかに。「ヤクザと芸能人の写真は、敵対するヤクザが流す」「タピオカドリンクはヤクザの新たな資金源」「歴代の山口組組長は憲法を熟読している」―暴力団取材に精通した二大ヤクザライターによる集中講義である。
ヤクザに精通したふたり(といってもこの人たちはヤクザではなくライター)による「今のヤクザ」に関する対談。

幸いにしてぼくはヤクザとは無縁の生活を送っているのでヤクザのことなんて映画やマンガで出る覚醒剤、拳銃、抗争、ショバ代……ぐらいのイメージしかなかったんだけど、この本を読むかぎりヤクザはわりと身近なところにいるらしい。

なにしろタピオカ、精肉、漁業、建設、原発などいろんな産業にヤクザが入りこんでいるらしく、そうなるとまったく無縁の生活を送ることはほぼ不可能だ。
溝口 昨年、カナダで大麻が解禁されましたが、それまでマフィアは大麻でも儲けていたわけです。カナダ政府が大麻を解禁したのは、犯罪でなくなれば捜査の手間や経費がかからなくなるうえ、大麻産業から税金を徴収できるようになる。こういうソロバン勘定で、要するに、ヤクザの儲けを政府が奪ったわけです。
 日本のヤクザも、希少な高山植物を採りに行ったり、あるいは禁止されているかすみ網で、鳴き声が綺麗な小鳥を獲ったり。自分が追い込まれたり、困ったりしたら何でもやっちゃうという習性がある。そういう人たちなんです。その習性の一つとしてサカナもあるのかなと。基本的にこの見方はそれほど間違ってはいないと思う。
鈴木 絶滅危惧種だの何だの、「獲ったら大変なことになる。ウナギが食べられなくなる」と煽られれば煽られるほど、ヤクザとしては美味しいシノギになるわけですね。禁漁というルールがあるからこそ、ヤクザの付け入る隙が生まれてくる。
 実際、ウナギの場合は、もちろん減っていることは事実なんですが、必要以上に絶滅危惧種と煽られることで、稚魚であるシラスウナギの密流通の値が上がっている。これは事実です。
なるほど。禁止されているものを扱うのがヤクザの仕事なのか。
だから拳銃や覚醒剤はもちろん、希少なものであればヤクザの商売道具になりうるわけだ。たとえばゲームが禁止されたらヤクザがゲームが扱いだす、という具合に。

水産庁が「ウナギが減っているからウナギ漁を抑制しよう!」となぜやらないのだろうとおもっていたけど、その背景にはもしかしたらこういう理由もあるのかもしれない。
制限してしまうと密漁や密輸が横行してヤクザを儲けさせることになるのかもしれないね。
アメリカの禁酒法がマフィアが勢いづかせることになったように。
溝口 五輪の場合、スタジアムの建設や人材派遣に膨大な人手が必要だから、ヤクザの入り込む余地が生まれる。建設業界は被災地の復興で人が回せないという状況ですからね。人が足りなくなれば、暴力団から人材が供給されることになる。
鈴木 私が東日本大震災後に福島第一原発に潜入取材したときは、五次請けでしたよ。でも周囲には六次、七次、八次という業者もいた。
溝口 八次請けじゃ、暴力団が入っていても元請けの建設会社はわからないよね。
鈴木 わからないでしょうね。実際、福島第一原発の廃炉関連事業には暴力団関係者が相当入っていました。
廃炉作業なんてのはやりたがる人が少ないから、ヤクザを介在させるのは必要なことなのかもしれない。
暴力団関係者を徹底的に排除してしまったら作業をする人間がいなくなってしまう。だから関係者は暴力団関係者とわかっていても目をつぶらざるをえない。
うーむ、こういう話を聞くと、ある分野ではやっぱりヤクザは必要悪なのかなあとおもってしまう。
誰もやりたがらないけどやらなきゃいけないこと、ってのはぜったいにあるもんね。

東日本大震災復興予算のかなりの部分が、被災地と関係のないところに流れたと聞く。それは納税者としても一市民としてもぜったいに許せないことなんだけど、しかし「ヤクザ以外にやりたがらない仕事」のために使われた部分もあるだろうし、そのへんを完全に切り分けるのは難しいだろうから、やっぱり現実問題としてある程度ヤクザやグレーの企業に流れるのはしかたないことなのかなあ。



詳しくない人間からすると「ヤクザ」と振り込め詐欺をするような「半グレ」はどっちも同じようなものなんだけど、当事者たちからするとまったくべつの組織なんだそうだ。

昨年、芸能人が反社会的組織と付き合って話題になった。
ぼくは「ヤクザとの付き合い」だとおもっていたけど、あれはヤクザではないそうだ。振り込め詐欺などは、(基本的には)ヤクザの仕事ではないみたいだ。
溝口 暴力団の看板を一度背負ってしまうと、警察に登録されてしまっているから、今さら半グレにはなれないという現実的な問題もあるんですが、やっぱり、〝ヤクザ愛〟があるんですよ、彼らには。
鈴木 ヤクザとしてのプライドですよね。矜持がある。
溝口 山口組五代目・渡辺芳則は「我々は反社と呼ばれたくない」「反社会的集団ではない」と言った。織田も同じようなことを言っています。彼らの基準では、反社会的集団のなかに半グレも含まれてるし、特殊詐欺のグループも含まれている。そういうのと一緒にするなと。
鈴木 ヤクザであることに強いこだわりがある。ここが一般の人にはわかりにくいんですよね。
 半グレのほうが儲けているかもしれないが、裏社会のトップはあくまでヤクザであって半グレではない。反社のキングはヤクザであって、スリを捕まえて、「盗ったものを返してやれ」と言えるのはヤクザしかいない。
溝口 半グレからヤクザになることはあっても、その逆はない。
もちろんヤクザ(暴力団)は悪しき存在なんだけど、ヤクザと半グレを比べた場合、警察が扱いやすいのはヤクザのほうなんだそうだ。
警察はヤクザの組織構成はだいたいつかんでいるし、警察とヤクザの間である程度の取引もできる(ほんとはよくないことなんだろうけど)。
ヤクザには一種の美学もあるので、「罪のない年寄りをだまして金をまきあげる」ことに抵抗をおぼえるヤクザも少なくないかもしれない。
(だから年寄りを騙して金をまきあげてたかんぽ生命はヤクザではなく半グレ)

一般人からしても、どっちがタチが悪いかといわれれば、ヤクザのほうがまだマシなのかもしれない。
「金さえ払えば超法規的な手段でもめごとを解決してくれる組織」を必要とする人も多いだろうし。

ところが今、暴力団対策法によって暴力団の構成員が生活していけなくなり、昔だったらヤクザになっていたような人間が特殊詐欺グループに行くようなケースも増えてきているらしい。
ヤクザにはヤクザなりの秩序があったわけだが、その秩序すらない犯罪組織がどんどん拡大してきていると聞くと、はたして暴力団対策法っていいことだったのかなとふとおもってしまう。

かといってヤクザが幅を利かせている世の中ももちろんイヤなんだけど。

ヤクザに対する見方がちょっとだけ変わる一冊。

【関連記事】

【読書感想】紀田 順一郎『東京の下層社会』



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2020年2月8日土曜日

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2020年2月7日金曜日

カポエラと不倫

幼なじみの不倫

大学生のとき、幼なじみの女の子Sと同窓会で再会した。幼稚園からの付き合いなので色恋沙汰にはならない。いとこのような感覚だ。
Sは大学を中退して今は仕事をしているという。
すぐ近所に住んでいることがわかったので「じゃあ今度ごはんでも行こうよ」と連絡先を交換した。

それっきりなんともなかったのだが数ヶ月後にSから「カポエラに興味ある?」とメールが来た。

カポエラ?
ネットで調べると、南米発祥の格闘技とのことだった。踊るように戦う武術。
奴隷が格闘技をしていると反抗を企図してるとおもわれるので、ばれないように踊りに見せかけたのがはじまり。鎖につながれたままでも戦えるような動きが特徴で……。

興味あるどころかカポエラについて考えたことすら一度もない。

なぜカポエラなのか尋ねると、今度カポエラ教室の無料体験があるから一緒にいかないかという誘いだった。
自分から新しいことにチャレンジするのは苦手だが、だからこそこういう誘いはありがたい。
授業の終わったあとにSと待ち合わせてカポエラ教室に向かった。

行ってすぐに自分が場違いな存在であることに気づいた。
格闘技とはいうものの「カポエラで楽しくダイエット!」的なレッスンで、ぼくと講師の男性をのぞく全員がOLで、いたく恥ずかしい思いをした。
ぼくは他のOLさんたちからSの彼氏だと勘違いされた。「彼氏?」と訊かれて訂正しようかとおもったが、彼氏じゃないならOLの汗のにおいをかぎにきた変態野郎だということになるので訂正はやめておいた。

カポエラ教室の後、Sと食事に行った。
カポエラの話や共通の知人の話で盛り上がり、Sから「彼女いるの?」と訊かれた。
「いるよ。Sは彼氏は?」
「……いるといえばいるかな」
「どういうこと?」
「わたし、不倫してんねん」
「えっ……」

それからSは不倫について語りはじめた。
相手は同じ会社の既婚男性であること、ごくふつうのおじさんでかっこいいわけでもお金持ちなわけでもないけどそういう関係になったこと、相手には子どももいて子どもの写真を見せてくれたりもすること、別れさせるとか結婚するとかは考えてないこと。

かなり赤裸々に語られたのだが、ぼくはまるでテレビドラマのストーリーでも聞かされているような気持ちだった。

目の前の女性は、今は二十一歳の女性とはいえ、ぼくが幼稚園のときから知っている子だ。
幼稚園では一緒に登園し、プール教室に通いたくないと泣き、ぼくのいたずらを先生に言いつけにいっていた子だ。
小学校も中学校も高校も同じだったので、きょうだいかいとこみたいな存在だった。

かつて五歳だったSと、今不倫をしていると語る目の前の女性とがどうしても結びつかなかった。
んなあほな。五歳だったのに不倫なんかするわけないじゃないか。
もちろん世の不倫女性すべてがかつては五歳だったわけだけど、それでもぼくの知っている元五歳児は不倫なんかするわけがなかった。

だいたい不倫をする女って、もっとセクシーで男を手玉に取るようなタイプなんじゃないのか。
中学校の図書室でメガネをかけて小説を読んでいたSと、ぼくの中にある不倫女性のイメージとはほんの少しも重ならなかった。「互いに素」だ。

なぜSがぼくにそんな話をしたのかわからない。
ごくごくふつうの調子で、「最近海外ドラマにハマってるんだー」みたいな調子で、「わたし、不倫してんねん」と語っていた。
きっと、Sにとってぼくはちょうどいい距離感の人間だったのだろう。
家族や友人ほど近すぎず、かといってまったく知らない間柄でもない。不都合になればいつでも連絡を断つことができる。
だからこそ打ち明けられたのだとおもう。

ぼくは、Sの行為を肯定も否定もしなかった。
「へえ」とか「不倫とか現実にあんねんなあ」と間の抜けた相づちを打っていた。



数年後、Sからひさしぶりに連絡があった。
「東欧に行くことになったから挨拶しとこうとおもって」

東欧?
Sからの話はいつも唐突すぎてわからない。

数日後に会うことにし、喫茶店でパフェを食べながら話を聞いた。

結婚することになった、相手の仕事の都合で東欧に行くことになった、となんだかせいせいするというような口ぶりでSは語った。

不倫関係があの後どうなったのかは聞けなかった。
結婚相手は同い年だと言っていたので、不倫相手と結婚したわけではないことだけは確かだった。

「しかし外国に住むなんてたいへんやなあ。子どもができてもかんたんに親に手伝ってもらうわけにもいかんやろし……」
と話すと、Sは云った。
「子どもはぜったいにつくりたくない」
その強い言い切りように、ぼくは「なんで?」と聞けなかった。
聞けばどういう答えが返ってくるかはわからないが、その答えがおそろしいものであることだけはわかった。



それから数年。
お正月に実家に帰ったら、母から「Sちゃん離婚したんだって」と聞かされた。

その言葉がずしんと響いた。
驚いたのではない。むしろ納得感があった。落ちつくべきところに落ちついた、という感覚。
ビールを一気に飲んで、しばらくしてから溜まっていた炭酸が大きなげっぷとなって出てきたときのような。

よく「不倫するような女は将来結婚しても幸せになれない」という言葉を聞く。
それは事実というより願望なのだろう。他人を不幸にしていい思いをしたんだからしかるべき罰を受けてほしい、という願望。
「嘘つきは閻魔様に舌を抜かれる」と同じだ。

Sの離婚の原因がなんだったのか、ぼくは知らない。
Sが過去にしていた不倫と関係あるかどうかもわからない。きっとS本人にもわからないとおもう。

Sが「罰を受けた」という見方には賛成できない。
Sに与えられたのは、罰ではなく解放だったんじゃないかとぼくはおもう。
離婚を決めたときのSの心に「ああよかった」と安堵する気持ちがちょっとはよぎったんじゃないかと想像する。これで過去の不倫がチャラになる、というような。

なぜなら、ぼくも似た感覚を味わったからだ。
ぼくが不倫をしたわけではない。
でも、Sから不倫をしているという報告を受けたことで、それを咎めなかったことで、Sが不倫をしているということを誰にも言わずに自分の胸に秘めていたことで、知らず知らずのうちにぼくも共犯者になっていたのだ。
まるでぼくがSの不倫相手の家族を苦しめているかのような。

それが「Sが離婚した」と聞かされたとき、ようやく解放された。だからこうして書くこともできる(これまでは匿名であっても書けなかった)。

もちろんSが離婚したことと、Sが結婚前に不倫をしていたこととは無関係だ。不倫の罪(罪だとするなら)が消えるわけではない。
でも、ぼくの中では相殺された。打ち消しあって完全に消えてしまった(当事者でないからなんだろうけど)。


Sに対して、よかったなと言いたい。
皮肉ではなく本心から。

ずっと不倫の過去という鎖につながれたまま戦ってただろうけど、ようやく自由になれたな。
もうカポエラはしなくていいんだよ。