2019年10月28日月曜日

【読書感想文】おもしろさが物悲しい / 又吉 直樹『火花』

火花

又吉 直樹

内容(e-honより)
売れない芸人の徳永は、天才肌の先輩芸人・神谷と出会い、師と仰ぐ。神谷の伝記を書くことを乞われ、共に過ごす時間が増えるが、やがて二人は別の道を歩むことになる。笑いとは何か、人間とは何かを描ききったデビュー小説。第153回芥川賞受賞作。
へそまがりな人間なので、話題作、タレント本というとついつい避けてしまう。
「ふだん本なんて読まないくせに話題になっている本だけ読む」人間だとおもわれるのがイヤなのだ。といっても誰もぼくが何を読んでいるかなんて気にしないわけだから、完全に自意識過剰だ。それはわかっている。わかっていてもどうにもならないから自意識過剰なのだ。

というわけで『火花』も「おもしろい」という評判や、描かれている題材などからすごく興味を持っていたにもかかわらず、テレビによく出ている人が書いた+芥川賞受賞作という超話題作だったためにずっと遠ざけてきた。
しかし、そもそも何のためにやっているのか自分でもよくわからない意地を張っていても何の得もない。
ということで、読みたい本は話題作だろうとタレント本だろうと読むことにしようと決意して『火花』を手に取った。大仰な決意をしないと好きな本も読めないのだから、我ながらめんどくさい性格だ。



『火花』の主要登場人物である徳永と神谷も、負けず劣らずめんどくさい性格の人間たちだ。
芸人である以上、売れたいとおもっている。評価されたい、テレビに出たいとおもっている。
けれど自分がおもしろいと信じていることだけをやりたいともおもっている。
もちろん、自分がおもしろいとおもうことだけをやって、周囲からも認められるのがいちばん幸福だが、そうはいかないのが笑いの世界だ。
どこかで折り合いをつけなければならない、けれど妥協したくない、だけど評価もされたい。

表現の世界に身を置く人間であれば誰でも抱えている普遍的な悩みなのだろう。
しかし普遍的な悩みだからといって当事者にとっては悩みが軽くなるわけではない。
ずっとひりひりした痛みを抱えながら先の見えない闘いを続けるしかない。

これがスポーツならまだわかりやすい。勝ち数が多いとか防御率が低いとか、歴然とした指標があるから。
多少は監督のえこひいきも入るだろうけど、チーム一の成績を出している選手を起用しないことはよほどのことがないかぎり難しいだろう。

しかし「おもしろさ」は数値化できないし時代や場所によっても変わるものだから、芸人はずっと「おもしろい」を模索しつづけなければならない。
しかもおもしろければいいというものでもない。笑いをたくさんとった者が売れるとはかぎらない。

「論理的に批評するのは難しいな。新しい方法論が出現すると、それを実践する人間が複数出てくる。発展させたり改良する人もおるやろう。その一方でそれを流行りと断定したがる奴が出てくる。そういう奴は大概が老けてる。だから、妙に説得力がある。そしたら、その方法を使うことが邪道と見なされる。そしたら、今度は表現上それが必要な場合であっても、その方法を使わない選択をするようになる。もしかしたら、その方法を避けることで新しい表現が生まれる可能性はあるかもしらんけど、新しい発想というのは刺激的な快感をもたらしてくれるけど、所詮は途上やねん。せやから面白いねんけど、成熟させずに捨てるなんて、ごっつもったいないで。新しく生まれる発想の快感だけ求めるのって、それは伸び始めた枝を途中でポキンと折る行為に等しいねん。だから、鬱陶しい年寄りの批評家が多い分野はほとんどが衰退する。確立するまで、待てばいいのにな。表現方法の一つとして、大木の太い一本の枝になるまで。そうしたら、もっと色んなことが面白くなんのにな。枝を落として、幹だけに栄養が行くようにしてるつもりなんやろうけど。そういう側面もあるんかもしらんけど、遠くからは見えへんし実も生らへん。だから、これだけは断言できるねんけど、批評をやり始めたら漫才師としての能力は絶対に落ちる」
「平凡かどうかだけで判断すると、非凡アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで、反対に新しいものを端から否定すると、技術アピール大会になり下がってしまわへんか? ほんで両方を上手く混ぜてるものだけをよしとするとバランス大会になり下がってしまわへんか?」
「確かにそうやと思います」僕は率直に同意した。
「一つだけの基準を持って何かを測ろうとすると眼がくらんでまうねん。たとえば、共感至上主義の奴達って気持ち悪いやん? 共感って確かに心地いいねんけど、共感の部分が最も目立つもので、飛び抜けて面白いものって皆無やもんな。阿呆でもわかるから、依存しやすい強い感覚ではあるんやけど、創作に携わる人間はどこかで卒業せなあかんやろ。他のもの一切見えへんようになるからな。これは自分に対する戒めやねんけどな」と一語一語噛みしめるように言った。
これは『火花』の中で、傍若無人にふるまっているように見える芸人たちが交わす会話だ。
ここまで明快に言語化されているかどうかはわからないが、きっとほとんどの芸人たちはこれに近いことを考えながら生きているのだろう。そして考えれば考えるほど答えがわからなくなる。


ぼくの家の近くには公園があり、そこでよく漫才師の卵が稽古をしている。近くに芸人の養成所かなにかがあるのだろう。彼らは並んで一方向を見ながら派手な身振り手振りで話しているので(でも声は小さい。公園なので)、すぐに漫才の稽古だとわかる。
もちろん公園で練習するぐらいだからプロ未満の芸人なのだろう。だが彼らの顔は真剣そのものだ。稽古をした後は、小声でぼそぼそと話している。あそこがちがう、ここはこうしたほうがいい、などと話しあっているのだろう。
サラリーマンの商談のほうがよっぽど笑顔にあふれてるよ、というぐらい真剣なおももちで話しあっている。

まじめさとふまじめさ、常識と非常識、賢さと愚かさ、新しさと古さ、優しさと冷酷さ。いろんな「相反する要素」を持たないと生きていけない世界。
外から見た華やかさとは真逆の苦しい世界なんだろうなあ。



こういう小説は芸人界の内情を垣間見れておもしろい(フィクションなんだけど作者も芸人だとついつい実在の芸人と重ね合わせてしまう)。
でもこうやって芸人の悲哀を見せてしまうのは、今後の芸にとってはマイナスの影響のほうがずっと大きいんじゃないだろうか。「ぼくらめちゃくちゃ苦労してて命を削りながらネタつくってるんです」って言われると、もう笑えなくなっちゃう気がする。
特に漫才は、ネタのキャラクターと実際の芸人の姿が地続きになっているから。

そういや、高山トモヒロ『ベイブルース 25歳と364日』、ユウキロック 『芸人迷子』など芸人の私小説を読んだけど、どちらもコンビ解散してから書いてるんだよね。又吉直樹さんのピースも、『火花』が芥川賞を受賞してからほどなくして活動休止してるし。
やっぱり内情を暴露してしまうと、もう漫才は続けられないのかもしれないな……。


芸人が書いているだけあって随所にユーモアがちりばめられているんだけど、そのクオリティも十分に高いんだけど、だけどぼくは笑えなかった。
笑いよりも悲哀のほうが先にきてしまったのだ。
笑わせることは物悲しい。

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2019年10月26日土曜日

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2019年10月25日金曜日

神経質とおおらかの組み合わせ


娘(六歳)の友だちに、Nちゃんという女の子がいる。
公園でいっしょに遊んでいると、このNちゃんと娘がよく喧嘩をする。
喧嘩というか、娘がNちゃんに対して一方的に怒っている。

Nちゃんの性格は、良く言えばおおらか、悪く言えばがさつ。
対する娘は神経質。

よくあるのは、こんなケースだ。
娘がボール遊びをしている。公園の隅に自転車を停めている。
するとNちゃんが娘の自転車に勝手に乗る。
それを見た娘、「勝手に乗らんといて!」と激怒。
Nちゃんは怒られても平気な顔で「だって使ってなかってんもん」とへらへらしている。

傍から見ていると、正直どっちの言い分もわからんでもない。
まあ他人のものを勝手に使うのはよくないな、とおもう。
ぼくだってイヤだ。使ってなかったとかそういう問題ではない。「貸して」と言ってくれれば貸したのに、無許可で使われると腹が立つ。

でも、だからってそこまで大声を張りあげて怒るようなことでもないだろう、ともおもう。
Nちゃんにはまったく悪気がないのだし、実害もないのだから。


よく「自分がやられてイヤなことは他人にしてはいけないよ」と子どもに対して教える。
しかしこの場合、その教えは通用しない。
なぜならNちゃんにとっては「自分が使っていない間に友だちが自分の自転車を使う」のはイヤなことじゃないのだ。

じっさい、Nちゃんが友だちに対して怒っているところはほとんど見たことがない。叩かれたとか、悪意あることをされたときだけだ。
ただ、怒られているところはよく見る。


意地悪をしたり意地をはりあったりしているわけではなく、ただ価値観がちがうだけなのだ。
そしてこういう関係の場合、常にといっていいほど「几帳面/神経質」なタイプが「おおらか/がさつ」に怒りを向けることになる。

ぼくの両親の関係が、まさにそうだ。
常に母が父に小言をいう。「〇〇してよ」「〇〇しないでって言ったじゃない」
父は、うんと返事をする。言い返さない。けれど改めることもない。また同じことをして同じように注意される。

それでも長年夫婦としてやっているわけだから、なんだかんだで相性のいい組み合わせなんだろう。
几帳面同士だとぶつかるし、おおらか同士だとやるべきことがなされないだろうから。
ぼくとしても、母がしっかりしてくれていたおかげで助かったことはよくあるし、父の無神経さに救われたことも(すごく少ないけど)ある。
「叱る側」「叱られる側」に役割分担されていたほうがうまくまわることも多いのだろう。


だから、娘には
「Nちゃんに対して腹の立つことも多いだろうけど、こっちが怒ってもへらへら笑って聞き流してくれる相手ってのはすごくありがたい存在だよ。もしかすると一生の親友になるかもしれないから大事にしな」
と伝えたいんだけど、これを六歳児にわかるように伝えるのは無理かなあ……。


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【エッセイ】無神経な父



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2019年10月24日木曜日

ちくちくの肌着


赤ちゃんの肌着って、縫い目が外側にくるように着せるんですよ。
縫い目とかタグとかがちくちくして赤ちゃんのデリケートなお肌を傷つけちゃうから。

それ聞いたとき、はーん、なるほどーとおもったんだけど、同時に「だったら大人の肌着もそうしたらいいのに」とおもったんですよ。

そりゃあぼくの肌は赤ちゃんみたいにデリケートじゃないですけど、そうはいってもちくちくするよりちくちくしないやつのほうがいいでしょ、誰だって。
外から見えない肌着であれば、見た目よりも肌触り重視でいいじゃない。

サイいるでしょ、サイ。
あのツノでかふとっちょ。
サイの肌ってがっさがさじゃないですか。触ったことないですけど、見るからに。
あれだってね、たぶん内側はぬるぬるしてるとおもうんですよ。血とか粘膜とかで。見たことないですけど。サイの皮めくったことないんで。
あれが逆だったらどうなるとおもいます?
体内側がごわごわがっさがさで、外に出てる部分がぬるぬるだったら。
空気の乾燥したサバンナで生きられないだろうし、めちゃくちゃ痛いとおもうんですよ、サイ自身が。
サイがしゃべれたら「もう絶滅するー!」って絶叫するぐらいの痛みだとおもうんですよね。

がっさがさ

だからね。パンツも内側を優しい素材にしてあげるべきなんですよ。
内側ソフト、外側ちくちく。これでいきましょうよ。
外側がちくちくしてるほうが外敵から身を守るのにも役立つしね。栗みたいに。


2019年10月21日月曜日

力づくで子育て


もう六年ほど子育てをしている。
娘を叩いたことは一度もないが、押さえつけたことやねじふせたことは何度もある。

「魔の二歳児」という言葉がある。
だいたい二歳ぐらいでいわゆるイヤイヤ期を迎えることから、そう呼ばれるのだ。

この時期の、聞き分けのなさったらない。
育児をしたことのない人にはわからないだろう。ほんとにどうしようもない。

泥酔した人って話が通じないじゃないですか。
あれを百倍ひどくしたのがイヤイヤを発動した二歳児だとおもってもらえばだいたいまちがいない。

「くつはかない!」
 「でも靴履かないとお外行けないよ」
「はかない!」
 「じゃあ外行けなくていいの?」
「いや! いく!」
 「じゃあ靴履く?」
「くつはかない!」
 「じゃあどうやって行くの? ベビーカー乗る?」
「いや! あるく!」
 「じゃあ靴履いてよ」
「くつはかない!」
 「じゃあだっこで行こうか?」
「いや! あるく!」
 「じゃあ靴履いてよ」
「くつはかない!」
 「じゃあはだしで行く?」
「いやだ!」
 「はだしが嫌なら靴履いて」
「いやだ!」
 「おとうさんが履かせてあげよっか?」
「いやだ!」
 「じゃあ自分で履く?」
「いやだ!」
 「もうお出かけやめとこっか」
「いやだ! いく!」
 「じゃあ靴履く?」
「いやだ!」
 「なにがいやなの?」
「いやだ!」
 「それじゃわかんないよ」
「いやだ!」
 「もうおうちにいようよ」
「いやだ!」
 「じゃあ靴履こう」
「いやだ!」

これ、ぜんぜんおおげさな話じゃなくて、二歳児のいる家庭では日常茶飯事だからね。

なにがすごいってこれだけ話しても事態が一ミリも動いてないってこと。
官房長官の記者会見ですらこれよりは若干話になる(若干ね)。

二歳児ってなまじっか言葉が通じるから余計に厄介なんだよね。


まあこっちがひまなときであれば、イヤイヤを発動されてもつきあってあげたり、あるいは放置したりするんだけど。
でもそういうわけにはいかないこともある。
五分以内に家を出ないと会社に遅刻するときとか、お店でイヤイヤが発動したときとか、土砂降りの中、道端で急に「歩きたくないしだっこされるのもいや」と言いだしたときとか。

こういうときは力で押さえつける。
自分の左手と左脚と右脚を使って娘を押さえつけ、右手で靴を履かせる。
全力で暴れる娘を、こちらも全力で抱きかかえながら反対側の手で傘をさして雨の中走るとか。

一度、じたばたと暴れる娘を抱きかかえて、通勤鞄を持ち、保育園に持っていく鞄を持ち、保育園のおひるね用布団をかつぎ、傘をさしながら保育園まで走ったことがある。
あのときは千手観音が我が身に宿ったとしかおもえない。


さすがに娘が六歳になった今は、力で押さえつけることはなくなった。
娘も暴れなくなったし、もし六歳が本気で暴れたら抱きかかえることはできないだろうから。

けれど幼いころは、「力づく」に頼る場面は多かった。
おじさんになって運動不足になったという人もいるが、ぼくは子どもができてからのほうが圧倒的に筋力を使うようになった。
子どもをかついだり、ひきずったり、荷物を持ったり、走りまわったり。

子育てに体罰を使うのはよくないが、「力づく」は必要だぜ。