2019年4月12日金曜日

【読書感想文】半分蛇足のサイコ小説 / 多島 斗志之『症例A』

症例A

多島 斗志之

内容(e-honより)
精神科医の榊は美貌の十七歳の少女・亜左美を患者として持つことになった。亜左美は敏感に周囲の人間関係を読み取り、治療スタッフの心理をズタズタに振りまわす。榊は「境界例」との疑いを強め、厳しい姿勢で対処しようと決めた。しかし、女性臨床心理士である広瀬は「解離性同一性障害(DID)」の可能性を指摘し、榊と対立する。一歩先も見えない暗闇の中、広瀬を通して衝撃の事実が知らされる…。正常と異常の境界とは、「治す」ということとはどういうことなのか?七年の歳月をかけて、かつてない繊細さで描き出す、魂たちのささやき。

「精神病院に勤務する精神科医」と「博物館の学芸員」の行動が交互に語られる。
そして別々の物語が最後にひとつに重なりあう……のかと思いきや、ちょっとしか交わらない。

えっ? なんじゃこりゃ?

別々の物語を交互に書いただけじゃねーか!

いやほんと、「博物館の謎」パートいらなかったな。ぜんぜんおもしろくなかったし。
ここ削って半分の分量にしてくれたらよかった。

「世間がひっくりかえるような秘密」とやらも蓋をあけてみれば誰もが予想する程度のものだったし、だいたいそれが世間がひっくりかえる秘密?
学芸員からしたら大問題だろうけど、ほとんどの人にとっては博物館の所蔵品なんかに興味はない。

なんでふたつの物語にしたんだろう。



ミステリとおもって読んでいたのだが(「このミステリーがすごい!」の2000年度9位作品なんだそうだ)、ミステリとしては楽しめなかった。

前半で「ある人物が墜落死した」と書かれている。その真相は終盤まで引っぱられるのだが、長々と引っぱったわりに「え? そんなしょぼい真相?」という種明かし。

「博物館の謎」もしょぼかったし、謎解きとしてはとことん期待外れだった。


結末もあっけなかった。
精神病なんてかんたんに治るようなものではないからすべてがきれいに解決するものではないのはわかるが、それにしたってこのラストはあまりに投げっぱなしじゃないか?
500ページ以上の分量を割いて、精神科医がやったことといえば「やっと診断を下した」だけ。

まあ精神科医の仕事ってじっさいはこれぐらい気の遠くなるような進捗しかないものなのかもしれないけどさ。でも小説として読んでいた側からすると「これだけ読んできてそれだけ?」って愚痴のひとつも言いたくなるぜ。



……とあれこれ書いてしまったが、この本はすごくおもしろかった。わくわくしながら読んだ。
精神病院パートはすばらしい出来だ。

あれ? これ書いてるの精神科医? と思って途中で作者の経歴を見てしまった。ってぐらい細部まで詳しく書きこまれてる。

ミステリじゃなくてサイコ小説としてなら、知的好奇心を十二分に満たしてくれるものだった。

しかも、珍しい症例をおもしろおかしくふくらませるような書き方ではなく、精神病に対する誤解を打ち消すようにひたすら慎重に慎重に書かれている。
この姿勢には好感がもてる。

話の主題になっているのは、解離性同一性障害(DID)。これはいわゆる「多重人格」で、フィクションの世界ではわりとよく扱われるテーマだ。
フィクションではたいてい猟奇的に描かれるんだけど、この本ではすごく慎重にとりあげている。
 人間の人格というのは、多面体をなしている、という言い方、よくするでしょう。優しい側面。怖い側面。清い側面。下劣な側面。……そういうものすべてをひっくるめて、ひとりの人間ができているんだ、と。そこまではいいんですが、それをさらに敷衍して、<だから人間はだれもがみな多重人格的な存在なんだ。わたし自身もそうだ>なんてことを言う者がいる。しかしね、そういうのは文学的な修辞としては許されるかもしれないが、医学的には、はなはだしい認識の錯誤ですよ。多重人格者の人格は多面体じゃなくて、優しい人格、怖い人格、清い人格、下劣な人格、その他いろんな人格が、それぞれ別個に、独立して存在しているわけです。そんな途方もない状態のことを、多重人格と呼ぶわけですからね。
 だからこそ、ひとりの人間の中での、人格どうしのコミュニケーションなどという奇妙なものが必要になってくる。
ぼくも「多重人格なんて多かれ少なかれ誰の心にもあるもんでしょ。ぼくだって家族と友人と職場の人の前では人格を使い分けてるし」とおもっていた。
「内弁慶の外地蔵」ぐらいのニュアンスで「二重人格」なんて言葉を使ったりもする。

だが本物の解離性同一性障害はそんなものではない。
ある人格が表に出ている間は他の人格の記憶がすっぽりと抜けたり、自己の内なる人格同士で対話をしたりもするとか。



ところでぼくは「多重人格」の人に会ったことがある。あくまで自称、だが。

十年ほど前。
ぼくが書店で働いていたとき、とある書店が新規オープンするというので一週間だけ手伝いに行った。

一週間働いて、最終日。
仕事を終えたぼくは、一緒に働いていた女性と話しながら駅まで向かった。
年上だったがかわいらしい女性だったので、あわよくば仲良くなりたいとおもい、お茶でもどうですかと喫茶店に誘った。
彼女は承諾してくれた。

喫茶店でたあいのない話をしているとき、ふいに彼女が言った。
「私、多重人格なんですよ」

「え?」
「私の中に何人かいて、ときどき出てくるんです。今の私でいることが多いんですけど、家にいるときはけっこう別の人格が出てきます。中には男性の人格もいます」

ぼくはどう返していいのかわからなくて、「へえ」とかつまらない相槌しか打てなかった。


そしてぼくらは喫茶店を出て別々の電車に乗った。その後は二度と会っていない。連絡先も知らない。

彼女の告白が真実だったのかどうか、わからない。
会って数日、しかももう二度と会わないぼくに向かってなぜそんなことを口にしたのかわからない。

そんな出来事があったのをずっと忘れていたのだが、『症例A』を読んで思いだした。

ひょっとすると、彼女のカミングアウトは本当だったのかもしれない。
もう二度と会わない相手だからこそ、打ち明けることができたのかもしれない。近しい人にはなかなかそんなこと言えないだろうから。


あのとき、「私、多重人格なんですよ」という彼女の言葉を聞いて、ぼくはとっさに「この人とかかわっちゃまずい」とおもってしまった。
そして「あわよくば仲良くなりたい」というぼくの気持ちは雲散霧消した。

案外、それが彼女の狙いだったりして。
「私、多重人格なんですよ」はしつこい男から逃げるための方便だったのかも。


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2019年4月10日水曜日

殺人事件まきこまれ事件


オレは探偵。そしてオレは今、船の中で殺人事件にまきこまれている。
まずいまずい。すごくまずい状況だ。

さいわいオレには確固たるアリバイがあったので真っ先に容疑者から外された。
だが、みんなの目が告げている。
「おまえ探偵なんやろ。事件解決せえよ」と。

ムリだ。ムリに決まってる。
探偵といったって、仕事といえば不倫の調査とか素性調査とかが主で、謎解きなんてやったことがない。不倫の調査だってろくにできないのに。

オレは半年前に探偵事務所に雇われたばかり。有給休暇がとれるようになったので実家に帰ろうとフェリーに乗ったらこのありさまだ。なんてついてないんだ。


こんなことなら昨日、酒を飲むんじゃなかった。
船のバーで知り合った女子大生二人組に「一応探偵やらせてもろてますけど」みたいなこと言っちゃったのがまずかった。
「えー探偵さーんですかー! すごーい!」なんて言うから「いやいや、オレが解決した事件なんて数えるほどしかないよ」なんて言っちゃった。調子に乗りすぎた。
ほんとは解決した事件なんて一個もないのに。
それどころかこないだ不倫調査してたら、ターゲットから「さっきからこっちをじろじろ見て何なんですか」って言われちゃったとこなのに。調子こいたー。

まさかバーで飲んでいるあの時にあのおじさんが殺されてたなんてぜんぜん知らなかったよ。おかげでアリバイはできたんだけど。


しかしあの女子大生たち、ちょっとイタい子だな。
死体が見つかって騒然としてるときに、いきなり「探偵さん、解決してください!」とか言うんだもんな。大声で。
ふつう言うかね。勝手に。せめてこっちに来て小声で言えよな。
それに昨夜はかわいく見えたけど今見るとそうでもないし。

おかげで、場がすっかり「探偵が解決してくれる」モードになってしまった。
船のスタッフとかが、頼んでもないのにいちいちこっちに状況報告してくれる。
「被害者が22時に廊下を歩いているところを他の乗客が目撃しています」とか。
いやいやいや。オレ、推理するなんて一言も云ってないから。
船内で殺人が起きて震えてる乗客のひとりだから。


さっき「犯人はこの中にいるってことかな」って言おうとしたら、それまでみんなざわざわしてたのにたまたまみんなが同じタイミングで黙ったせいで急に静かになっちゃった。なんか変な空気になったからオレも途中で言うのをやめた。
そしたら「犯人はこの中にいる……」って、なんか決め台詞っぽくなっちゃった。
あれはしくじった。
あれのせいで「おぉぉ……。さすが探偵だ……」みたいな空気になっちゃったもんな。完全にミスった。

だいたい船の中で人が殺されてんだからそりゃ犯人はこの中にいるだろ。誰でもわかるだろ。
なのに「さすがは探偵は違うぜ」「事件解決は時間の問題だな」みたいことをささやきあってる。こいつらバカなのか。
とても「あと三時間ぐらいしたら港に着くんで、警察に任せましょう」とか言える雰囲気じゃなくなってる。


で、いつのまにやらみんながオレの前に集まってる。
そんで「犯行が可能だったのはこの五人ですね」とかいって容疑者たちがオレの前に並んでる。おまえらもおとなしく並んでるんじゃねえよ。「探偵さん、わたしの無実を証明してください」みたいな目で見てくんじゃねえよババア。

いっそのこと、適当に「謎はすべて解けました。犯人はあなたです」とか言って指さしてみよっかな。確率五分の一だしな。それで的中して、勝手に自白とかはじめてくれたらいいんだけどな。

でも根拠とか訊かれたら困るしな。「いちばん目つきが悪いからです」とかじゃダメだろうな。
まちがってたら名誉棄損とかで訴えられたりするかも。うかつなこと言わないほうがいいな。

一応推理してみるかな。さっきまでの話ぜんぶ聞き流してたから、判断材料はなにひとつないけど。
そういや探偵事務所の先輩に言われたな。「浮気調査をするときは、自分が浮気をするやつの気持ちになって考えるんだ」って。
よしっ、犯人の立場に立って考えてみよう。

ええっと、オレは犯人。船の中で人を殺した。で、死体が見つかった。なんとかして自分に疑いがかからないようにしなければ。
船の乗客には偶然にも探偵がいた。なんか推理らしきものをはじめてる。まずい、このままだとトリックを見破られてアリバイもくずされて自分の犯行だとばれてしまう。なんとかしてこいつの口を封じなければ。一人殺すのも二人殺すのも一緒だ……。


「みなさん、わかりましたよ……。謎はすべてとけました。
 次に狙われるのは……オレです!」


2019年4月9日火曜日

5Wすべて不明


子どもと遊ぶのが好き(「子どもが好き」というより「子どもと遊ぶのが好き」だ)。

だが、どこの馬の骨ともわからないおっさんが子どもと遊んでいたら社会的には危険な存在と見られるので、今までは見知らぬ子に「声をかけたい」という思いを封印してきた。

「ぼくが友人といっしょにいる」+「子どもの中に男の子がいる」
という条件を満たす場合のみ、見知らぬ子といっしょに遊んだりした。
やはりおっさんひとりだと不審者だし、女の子に声をかけるのは良くない(と思われる)ので。



だが、自分に子どもができたことでよその子とも堂々と遊べるようになった。
娘を連れて公園に行ったときは、よその子にもよく声をかける。
「何してんの?」とか「いくつ?」とか。
退屈そうにしている子には「いっしょに遊ぶ?」と声をかけることもある。

もしかすると、自分の子と遊ぶよりもよその子と遊ぶほうが好きかもしれない。新鮮だから。
特に男の子と遊ぶのは楽しい。息子がいないので。
「やっぱり男の子は暴力的だな」とか「同じくらいの歳でも男の子のほうが軽いな」とかいろんな発見がある。



妻は、娘と歩いているとよく見知らぬお母さんからお礼を言われるらしい。
「この前はお父さんと遊んでもらってありがとうございました」と。

そう説明してくれる人はまだいいが、「この前はありがとうございました」とだけ言われることも多いらしい。

妻は一応「はあどうも」と返すそうだが、どこの誰ともわからない人にいつの何かもわからないことに対してお礼を言われるので戸惑うそうだ。

「どこ、誰、いつ、何、なぜ。全部わからないんだけど」とのこと。

さっぱりわからないことに対してお礼を言われるのってずいぶん気持ち悪いだろうなあ(他人事)。

2019年4月8日月曜日

「よそのおっちゃん」だからこそ


よその子に自転車の乗り方を教えた。

娘の友だちのお兄ちゃん。小学二年生。
会えば少し話すぐらいの間柄だ。向こうからしたら「妹の友だちのおとうさん」だから、見ず知らずのおじさんとほぼ同じだろう。

公園で会ったら、自転車に乗って地面を蹴りながら歩いていた。
話を聞くと、小学二年生にしてようやく自転車を買ってもらったらしい。
妹(五歳)もいっしょに買ってもらったのだが、なんと妹のほうが先に乗れるようになってしまったので悔しくて必死に練習しているのだという。



「よっしゃ、おっちゃんが手伝ったろう」

自分の娘にも、その友だちにも、自転車の乗り方を教えた経験がぼくにはある。
妹に先を越されるのはさぞ悔しかろう。
兄貴の名誉のために手を貸すことにした。


ぼくと、アニキくんの特訓がはじまった。

まずひとりで乗っているところを見たが、まったく乗れない。ペダルに足を乗せることすらできない。
ちっちゃいときに三輪車に乗っていただけで、コマつき自転車にすら乗っていなかったというのでまったくの初心者だ。

ぼくがハンドルを支えてやり、自転車と並走する。
アニキくんはこわいこわいと言う。これは時間がかかりそうだ。

だがその状態でぐるぐる走っていると、乗っていることには慣れてきたようだ。たどたどしいがペダルもこげるようになってきた。

「よし、手を放してみるで」「うん」
手を放す。二メートルぐらい走っただけで足をついてしまう。
それをひたすらくりかえす。

横で見ていたアニキくんのおかあさんが「こけないとあかんで! 骨折しない程度にこけろ!」と云う。なかなかタフなハートを持ったおかあさんだ。
おかあさんの言うことも一理ある。こけかたも覚えておいたほうがいい。

娘や、その友だちに自転車の乗り方を教えたときは、何度もこけた。
だが二年生のアニキくんはこけない。こける前に足をついてしまう。
ふうむ。
五歳の妹のほうが先に乗れるようになったのは、このへんに原因がありそうだ。

平衡感覚や筋力などは二年生のほうが上だろうが、二年生だと恐怖心や慎重さがしっかり身についている分、それがかえって技術の習得の妨げになっているのかもしれない。
「こけるのが恥ずかしい」という見栄もあるのかも。

とはいえ慎重さはそうかんたんに拭いされるものではないし、慎重であることが決して悪いものでもない。
無理にこけさせる必要もあるまい。
早めに足をついてしまうことについては矯正しないことにした。

慎重すぎる点はマイナス要素だが、二年生には幼児にはない強みがある。
それは「言われたことをちゃんと行動に落としこむことができる」という言語処理能力だ。

五歳児に教えたときは、口であれこれ言ってもちっとも行動に反映されないので、「ひたすらやらせて身体で覚えさせる」という方法をとるしかなかった。
だが二年生は、言われたことをちゃんと理解して行動に反映してくれる。
「下じゃなくて前を見て!」「ハンドルはまっすぐ!」「ペダルをこぐのを休んだらあかん! 速く走ったほうが安定するから!」と言うと、次からはちゃんと改善される。

これはぼくの娘に教えたとき(当時四歳だった)にはなかったことなので、さすがは小学生だと感心した。アニキくんが賢い子だったのかもしれない。
練習につきあっているうちに、ぼくもおもしろくなってきた。

ずっと中腰でハンドルを支えていたので腰が痛くなってきたが、手を離した後もアニキくんは五メートルほど走れるようになってきた。
五メートル走れたら、自由自在に走れるようになるまでもう一息だ。

周囲が暗くなってきた。
ぼくは目標を立てた。
「よし、今日中に公園一周走れるようにしよう。それまでやろう」
「うん」
アニキくんもうなずく。五メートル走れるようになったことで自信もついてきたようだ。

その後も何度かくりかえし、五メートルが十メートル、十メートルが公園四分の一周、四分の一周が半周、半周が四分の三周となり、あたりがすっかり暗くなったころ、ついに一周することに成功した。

「やったー!」
手を叩いて喜びあった。もうすっかり戦友だ。



気づくと、二時間ぐらい練習していた。
アニキくんは練習している間、ほとんど愚痴もこぼさなかった(妹が自分を追い抜いていくのを見て「あいつ、こければいいのに」と呪いをかけていただけだ)。

思うに「よそのおっちゃん」の指導だったからよかったのだろう。

これが父子だったら、きっとこううまくはいかなかっただろう。

「お父さんがちゃんと持ってないからこけたやん!」
 「人のせいにするな。ちゃんとこがないからやろ!」
「離すタイミングが早すぎる!」
 「離さないと練習にならないやろ!」
「もう疲れた! やめる!」
 「自転車に乗れなくてもいいのか!?」

みたいな喧嘩になることが目に見えている。

”妹の友だちのおとうさん”という微妙な間柄だからこそ、相手のせいにもできないし、「せっかく練習につきあってくれてるのに途中でやめたら申し訳ない」という気持ちも生まれる。

こっちにしても”娘の友だちのおにいちゃん”という微妙な間柄だからこそ、きつい言葉にならないように心がけるし、疲れても辛抱強くつきあってあげる。


「人に教える/人から教わる」ときには、ほどよい緊張感が必要だ。

うちの母親は「あたしがボケたらすぐ施設に入れてな。その分のお金は残しとくから。自分の子どもやお嫁さんに介護してもらうなんてぜったいにイヤやで」とよく口にしている。
ぼくもその考えに賛成だ。身内が介護したらぜったいに衝突する。他人なら許せることでも家族なら許せない。

他人にやってもらうことでうまくいくことは多い。保育、教育、介護。どんどんアウトソーシングしたらいい。



二週間ぐらいして、公園でアニキくんに出会った。
もう自転車をすいすい乗りまわしている。

「おっ、うまくなってるやん。そんなにスピード出して大丈夫かー」と声をかけると、
「大丈夫に決まってるやん!」との返事。
まるで自分ひとりで乗れるようになったみたいな顔をしている。ぼくに教わったことなんてすっかり忘れているみたいだ。

ま、そんなもんだよね。
しょせんはよそのおっちゃんだし。

2019年4月5日金曜日

まるぶた


ぼくは、娘の保育園で「まるぶた」と呼ばれている。


娘の友だちが家に遊びにきたとき、まんまるしたぶたの絵を描いてあげたらその子がふざけて「これおっちゃんにそっくり!」と言いだし、それ以来ぼくを「まるぶた」と呼ぶようになった。

で、その子がぼくのことを「まるぶたー!」を呼ぶものだから、あっという間に保育園じゅうに広まって、今では娘のクラスのほとんどがぼくのことを「まるぶた」と呼ぶ。

わが娘は家では「おとうさん」だが、保育園では他の子といっしょになって「まるぶた」と呼ぶ。

はじめはぼくが「まるぶたちゃうわ!」と言いかえしていたので、子どもたちも囃したてるように「まるぶた! まるぶた!」と呼んでいた。
だが最近ではその呼び名になじみすぎて「まるぶた、いっしょに遊んでー」とか「ねえねえまるぶた、そのボール貸してー」とか、きわめてニュートラルに「まるぶた」と呼んでくる。

ぼくもすっかりその呼称に慣れた。



だが、まるぶた呼称にひとつの問題が持ちあがった。
保育園の先生だ。

子どもたちがぼくのことを「まるぶたー!」と呼ぶたびに、先生が注意するのだ。
「他の子のおとうさんのことをそんなふうに呼んだらだめでしょ」
とか
「自分がぶたって言われたらどんな気持ちになる? 自分が言われていやなことは人に言ったらだめでしょ」
とか。

それも、ぼくに気を遣ってか、わざわざ小さい声でぼくに聞こえないように叱っている(聞こえてるんだけど)。

ううむ。
ぼくのせいで子どもが叱られているのは心が痛む。

しかも、囃したてるように「まるぶたー!」という子は要領がいいので先生の前では口にせず、他の子の真似をして「よくわかんないけど他の子が言ってるから言ってみよう」ぐらいの感じで言ってるおとなしい子が叱られている。かわいそうだ。

正直に言って、ぼくは「まるぶた」と呼ばれることはちっともイヤじゃない。むしろうれしい。
まず前提として、ぼくはぜんぜん丸くもないし太ってもいない。むしろやせ型だ。

だから「まるぶた」と言われてもぜんぜん刺さらない。
自分のコンプレックスを直撃する「痔持ち音痴」とか言われたら不愉快だが、「まるぶた」は少しもイヤじゃない。
「まるぶた」にはちょっと親しみも感じられるし。「ぶた野郎」だったらイヤだけど。

それに、他の保護者が「〇〇ちゃんのおかあさん」「〇〇くんのおとうさん」と呼ばれる中、ぼくだけ「まるぶた」という固有の名前で呼ばれることはちょっと誇らしくもある。
子どもたちから「〇〇ちゃんのおとうさん」ではなくひとりの人間として認知してもらっているのだ、と思えるから。



だからぼくとしては「まるぶたと呼んでもらってぜんぜんいいですよ」と言いたいところだ。
でも、そうすると先生が困るだろうな。

ぼくが「まるぶたと呼んでもいいよ」と言ってしまうと、子どもが他の子を「ぶた」と呼んだときに注意しにくくなる。

「他の子のことをぶたって言ったらダメでしょ!」「だってあのおっちゃんはいいよって言ってたもん」
となってしまう。

「あの人はちょっとアレな人だからいいけど、ふつうはダメ」なんて説明しても園児たちに理解してもらえないだろう。
「誰に対しても言っちゃダメ!」とするほうがずっとかんたんだ。

だからぼくとしては、子どもたちが先生の前ではぼくのことを「おっちゃん」と呼び、先生の目がないところでは「まるぶた」と呼んでくれるのが理想だ。

ただ最近、他の子のおかあさんからも「まるぶたさん」と呼ばれていたり「ほらまるぶたのおっちゃんに遊んでもらいや」などと言われていることを知り、さすがにそれはちょっと複雑な心境だ。
ちょっと心外でもあり、恥ずかしくもあり、豚と罵られることにぞくぞくとした昂奮をおぼえたり……。