2019年2月13日水曜日

【読書感想文】構想は壮大なんだけど / 北森 鴻『共犯マジック』

共犯マジック

北森 鴻

内容(e-honより)
人の不幸のみを予言する謎の占い書「フォーチュンブック」。偶然入手した七人の男女は、運命の黒い糸に絡めとられたかのように、それぞれの犯罪に手を染める。錯綜する物語は、やがて驚愕の最終話へ。連作ミステリーの到達点を示す傑作長篇。
(ネタバレあり)

学生闘争、ホテルニュージャパン火災、帝銀事件、三億円事件、グリコ・森永事件といった昭和を騒がせた事件を縦軸に、「フォーチュンブック」という人の不幸を予言する本を横軸に組み合わせた連作短篇ミステリ。

うーん……。
やりたかったことはわかるんだけど、壮大なスケールに作者自身がついていけなかったという感じがする。

たしかにスケールが大きい割に構成は緻密なんだけど、作者の自己満足感が強すぎる。


よくがんばったな、とは思うんだけどね。がんばって風呂敷広げたな。くちゃくちゃだけど一応畳んでるしな。よくやった。
だけどおもしろさとはまた別。
いろんな事件を放りこみすぎて無理だらけになっている。世間狭すぎるし。
三億円事件の犯人とグリコ・森永事件の犯人が同一人物とかね。嘘が過ぎる!

最後のほうに「なんとこれが三億円事件なんです! どやっ!」みたいな種明かしがあるんだけど、昭和の事件を扱っていってたら三億円事件が出てくるのは容易に想像がつくので「やっぱりね」としか思えない。意外性ゼロ。むしろ出てこないほうが驚く。

陳 浩基『13・67』は香港で実際にあった出来事をたくさん盛りこんでいるけど、それはあくまで舞台背景であって本題ではないしな。
実在の事件を複数盛りこむってのはとっちらかるだけでいいことないよ。ほら、三谷幸喜脚本ドラマ『わが家の歴史』もクソつまらなかったじゃない。



そして登場人物たちをつなぐ「フォーチュンブック」という本なんだけど……。これ、いる?
べつになくてもよかったんじゃないかね。
「あいつの死はフォーチュンブックに予言されてた」みたいな描写は多々あるけど、「フォーチュンブックがあったせいで〇〇が起きた」みたいなのはほとんどないし(一話目ぐらいかな)。
なくても十分成立したと思うんだけど。
この小道具がなかったら嘘っぽさもいくらか軽減されてたんじゃないかな。
そしてこのタイトル。『共犯マジック』って……。
は? どういうこと?
全部読んでもまったくぴんとこない。タイトルはわりとどうでもいいと思っている派だけど、それにしてもこれはあってなさすぎじゃない?



いろいろ辛辣なことを書いたけど、点数をつけるとしたら百点満点で六十点ぐらい。決して悪い作品ではなかった。
だからこそいろいろ言いたくなるんだよなあ。せっかくの大がかりな構想なんだから、もっとうまく料理できたんじゃないかって。

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【読書感想】陳 浩基『13・67』



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2019年2月12日火曜日

洞口さんとねずみの島


あれはあたしが船乗りのバイトをしてたとき。
時給の高さに釣られて応募してその場で採用されたものの海賊が着てるような派手なシマシマの服は自分で用意してくださいって時点でちょっとあやしいなーと思ってたら案の定メンテのゆきとどいてない船に乗せられて、たちまち沈没。

幸いにしておっぱい(推定Bカップ)みたいな島が見えたからみんなしてそこまで泳ぐことになった。
バイト初日にして知らない人といっしょに泳ぐのやだな、気まずいなーとおもいながら背泳ぎ。
なんで背泳ぎなんだよって声が聞こえたけど、しょうがないじゃんあたし息つぎできないんだから。本人に聞こえるか聞こえないかぐらいの声で言われるのがいちばん嫌なんだよなーと思いながらぐいぐい泳いでたら、あれこれけっこう気持ちいいかもって。
あたし意外と泳ぐのうまくない? 体育の授業のときは沈まないようにするので必死だったのになんで今はこんなにふかふか浮くんだろうっておもって、あそうか海水だからかって気づいた。塩水だから真水よりちょっと重くて、その分身体が浮きやすいんだ。なんかのマンガに描いてたわ。マンガ勉強になるなーって調子に乗ってたら、気づくと誰もいない。

わすれてた。
あたしの背泳ぎは左に左に傾くんだった。いっつもプールのときはレーンを仕切るロープにぶつかってたんだった。隣のレーンを泳ぐミキモトのどてっぱらにつっこんでいって猛禽類みたいな目で睨まれたこともあった。それをわすれてた。や、ミキモトの一件についてはわすれてしまったほうがいいんだけど。

まずいよバイト初日なのにはぐれ狼じゃんってあわてたけど、しかし「待ってください」とも言いづらいよな新人なのに、っておもってたらこっちのほうにもちっちゃな島があることに気づいた。
よし、とりあえずこっちに上陸しよう。そのあと先輩方のいるほうをめざそうってことでちっちゃい島に上陸。おもってたよりだいぶ左の海岸にたどりついた。

泳いでいる間は、あとでBカップ島をめざそうとおもってたのに、陸地に上がってみたら急速にめんどくささがMAX値に。
ずっと前に砂漠をさまよったときにオアシスにたどりついたとたんにもう二度とラクダに乗りたくないって気持ちになったことがあるんだけど、そのときと同じ気持ちっていえばわかってもらえるかな?
いっぺん陸に上がっちゃうとまた海に飛びこみたくなくなるんだよね。陸って偉大。やっぱりあたしって陸棲生物なんだなーってあらためて実感。大地を褒めよ讃えよ土を。

海岸であたしが大地讃頌(アルトパート)を熱唱してたらなんかちょろちょろ動いてる。ねずみだ。それも一匹二匹じゃない。百匹はいた。
ひっと声が出た。べつにこれまでねずみに悪い感情は持ってなかったしどっちかっていったら入浴剤と同じくらいの好き度でいたんだけどね。
かわいくないんだ、ねずみが。ねずみってかわいいかとおもってたらウォルト・ディズニーにだまされてただけか。

あたしが泳ぎついたのはねずみの島だった。ねずみが文明を営んでる原始共産主義国家。

はじめはあたしという巨大生物を遠巻きに見ていたねずみたちだったけど、すぐに食べ物を持ってきてくれるようになった。
ねずみの言葉はわからないから想像でしかないけど、神仏に対するお供えものみたいな行為だとおもう。
なんか知らないけどばかでかいやつが海の向こうからやってきた、なにをするでもないけど下手に刺激したらまずそうだ、ままここはひとつ穏便に。てなかんじで、いちごやブルーベリーやラズベリーを持ってきてくれる。ありがたいけどベリーばっかりじゃん。しかも天然種。口すっぱくなるわ。

ねずみの言葉はわからないといったけど、あたしのおもってることはねずみ側にはなんとなく伝わる。
腹へったとか眠いとかひとりにさせてくれとかそういった程度のことなら身ぶり手ぶりでなんとなく伝えられる。
ねずみ側もジェスチャーでなにやら伝えようとしてきてたけど、あたしのほうはねずみのいいたいことがちっともわからないのであきらめたようだ。
だってあたし目悪いし。背泳ぎしてるあいだにコンタクトが波に呑まれていったし。ねずみの表情なんかちっとも読みとれない。

ねずみたちの粋な計らいによって衣食住には困ることなく、あとは名声だけよねーとあぐらをかいていたら、反乱は突然やってきた。
起きたら大量のねずみにとり囲まれてた。眼の悪いあたしでもねずみたちの眼が怒りに満ちていることだけはわかる。なんでなんでとおもったけど、でもまあそうか。ねずみからしたら食糧をあたしにぶんどられてるような気分だったんだろうね。税の怒りはおそろしい。あたしも以前は納税者だったからその気持ちはわからんでもない。

クーデターってほどでもないけど、怒れる納税者たちに囲まれて居座るほどあたしの神経は図太くない。
っちゅーわけで(ネズミだけに)ねずみの島からあたしは逃げだした。もちろん背泳ぎで。

きっとこれから突然島に姿をあらわした怪物を撃退した話として『シン・ゴジラ』みたいにねずみの国に語りつがれるんだろうなーと思いながら。

この後あたしは芋を掘りすぎてえらい人の怒りを買うことになるんだけど、それはまた別のお話。

2019年2月10日日曜日

ものを独占する子にいちばん効果的な方法


五歳の娘のともだちにNちゃんという子がいる。
Nちゃん、ふだんは引っ込み思案な子なのだけれど、他の子と意見がぶつかったときにぜったいに引きさがらない。

たとえば公園のブランコを取り合いになったとき。
Nちゃんはぜったいに引かない。
周りの子どもや大人が
「先に〇〇ちゃんが使ってたから後でね」とか
「じゃあじゃんけんで決めよう」とか言っても、Nちゃんは耳を貸さない。
「Nちゃんが使う!」の一点張り。ブランコを握ったまま意地でも離さない(Nちゃんは身体も大きいので力も強い)。
たまにじゃんけんに応じることもあるが、じゃんけんに負けても泣いてブランコを離さない。

まあそういう子はめずらしくない。ぼくが子どものときにもいた。
きっと大事に育てられているのだろう。
困った子だとはおもうが、よその子のことなので放っておく。

問題は、うちの娘が真正面からぶつかることだ。


Nちゃんがブランコを力づくで独占すると、娘はNちゃんを説得しようとする。
「交代で使ったらいいでしょ」とか「じゃんけんで決めたらいいじゃない」とか。

はっきりいって、ルールを守れない子に対して「説得」はいいやり方じゃない。

二歳ぐらいならいざしらず、五歳なら「公園の遊具をひとりじめしてはいけない」ことぐらいわかっている。
わかっていて逸脱しているのだから、いくら正論でルールを説いたって無駄だ。泣いて抗議をするなんて、わがままな子を喜ばすだけだ。
痴漢に「痴漢、アカン!」というのと同じぐらい無意味だ。


ものを独占する子にいちばん効果的なのは放っておくことだ。
「あっそう。じゃあひとりでブランコ使ったらいいよ。その間にみんなであっちでおにごっこしよう!」
とするのが最適な方法だ。
ルールを守ろうとしない子の相手に時間を費やすなど、人生の浪費でしかない。

「ゆずりあわないと仲間はずれにされる」ということを経験しないとNちゃんのような子はゆずらない。
「我を通してばかりだと長期的にはかえって損をする」ことを学ぶのはNちゃんのためにもなるはず。

だからぼくは「もういいじゃない。あっちでブランコよりおもしろい遊びしよう」と言うのだが、娘も強情なので「いや、先にブランコ使う!」と泣きだしてそこから一歩も動こうとしない。

「困った人は放置がいちばん」ということを教えてあげたいのだが、どうもうまくいかない。
困ったものだ。



子どもの正義感に対して大人はどう対処するのか、いつも困ってしまう。

さっきのブランコの件に関しても、できることなら「Nちゃん、順番に使おうね」と言って、Nちゃんが他の子にゆずるのがいちばんいい。
えほんの中ならそれが「もっとも正しい」回答だろう。

だが残念ながら現実の世の中は「いちばん正しいやり方」と「いちばんうまくいくやり方」はイコールではない。

女の子に特に多いようにおもうが、うちの娘もいい子であろうとするあまり他人の不正が許せないことがよくある。

赤信号なのに横断歩道を渡る人やたばこのポイ捨てをする人を見て「だめなんでしょ?」とぼくに問いかける。
ぼくは答えに窮してしまう。
そう、だめなんだよ。だめなんだけどね……。世の中は、言って分かってくれる人ばかりじゃないんだよね……。

2019年2月9日土曜日

誰にでもできる仕事


テレビでやっていたのだが、「昔はボウリング場で人がピンを並べていた」のだそうだ。
テレビでは当時の映像が流れていたが、レーンの向こう側に人がいて、一投ごとに倒れたピンをセットしなおしていたそうだ。


高速道路に乗った。
料金所の様子は昔とすっかり様変わりしている。大半の車がETCカードを搭載しているので、ほとんどがETC専用レーンだ。
昔はいた「料金所のおじさん」は絶滅寸前になっている。



便利な世の中になることは、労働者の立場からすると苦しいことかもしれない。

こういっちゃ悪いが、ボウリング場でピンを並べるのも、料金所で通行料を受け取るのも、かんたんな仕事だ。たぶん。
いや、楽だという意味ではない。どんな仕事でもそれなりの苦労はあるだろう。レーンの奥の狭いところに身をひそめてボールが転がってくるのを待つのはたいへんそうだ。事故も多かったんじゃないかな。

でもボウリング場のピン並べに特別な技能は要しない。
たぶん新人が入ってきても
「向こうからボールが飛んでくるから。その間はじゃまにならないように気をつけて。で、ピンが全部倒れたらこうやって十本並べなおす。そしたらまた待機。それだけ。詰まったとかトラブルがあったらでかい声で呼んで」
ぐらいの説明で、あっという間に一人前の労働者になっていただろう。研修五分。

昔の小説や映画を見ていると、コピーをとるとか、電卓を叩いて合計を出すとか、造花にピンをつける内職とか、「かんたんそうな仕事」が出てくる。
今はそんな仕事はほとんど絶滅した。
単調で賃金の安い仕事を人間がしなくて済むようになったのだ。

でもそれって幸せなことなんだろうか。



世の中はすごく便利になったけど、人間はすごく優秀になったわけではない(劣化しているという人もいるがぼくはそうはおもわない)。

むずかしい作業が苦手な人はいつの時代も一定数存在する。
ものおぼえが悪い人、計算ができない人、ものを知らない人、一度にたくさんのことをできない人、人付き合いが苦手な人、不器用な人、身体の弱い人。

誰にでもできる仕事といったら言いすぎだけど、「世の中の八割ぐらいの人ができる仕事」がどんどんなくなっていっている。

よくわかってない人が「仕事なんて選ばなければコンビニでも介護の仕事でもやって食っていける」なんてしたり顔で言うが、コンビニ店員も介護職も技能職だ(どっちもやったことないけど)。
おぼえることが多かったり体力を必要としたり。少なくとも「誰にでもできる仕事」ではない。
「明日一日だけボウリングのピン並べる仕事やってください」と言われたらそれなりにこなせるだろうけど、未経験者が「一日コンビニバイト」になってもまったく戦力にならないどころか足手まといになるだけだろう。

かんたんな仕事は減り、技能や知識や体力を要する仕事の割合が増えた。
その分人々が仕事をしなくて済むようになっていたらよかったんだけど、残念ながら21世紀になってもほとんどの人は働かなければ食っていけない。

「バカでも不器用でも人付き合いが苦手でもまじめにこつこつ働いていればそれなりの暮らしができる」という時代は過去のものになり、むずかしい仕事をできない人の居場所がなくなってしまった。

誰が悪いというわけじゃないんだけど、どうも理不尽さを感じてしまう。

2019年2月8日金曜日

【読書感想文】同一労働同一条件 / 秋山 開『18時に帰る』

18時に帰る

「世界一子どもが幸せな国」オランダの家族から学ぶ幸せになる働き方

秋山 開

目次
Prologue 「幸せ」のためにオランダが選んだ働き方とは?
1 生産性を重視した仕事の基本
2 オランダ型ワークシェアリングの仕組み
3 「同一労働同一条件」が優秀な人材を集める理由
4 オランダ式テレワークがもたらした効果
5 ソフトワークを実現する「チーム主義」とは?
6 社員の「モチベーション」を重視すると企業は成長する
7 「世界一子どもが幸せな国」のソフトワーカーの生き方
Epilogue 「2人目の壁」を突破するために必要なこと

ぼくは大学で労働法を専攻していたんだけれど、ちょうどそのころ「オランダではワークシェアリングが導入されている。これを日本にも!」という話をよく聞いた。
日本は不況のまっただなかで終身雇用の崩壊だとか派遣切りだとかが話題になっていたころだったから、これぞ今後の働き方!と思ったものだ。

それから十数年。ワークシェアリングなんてとんと聞かなくなった。
その間、日本では高齢化がさらに進み、若手の数は減り、女性の社会進出は進んだ。ワークシェアリングを必要とする労働者は前よりも増えているはず。しかし働き方改革だなんだと呼び声の勇ましさとは対照的に、働き方はまったく多様化していない。
正社員で働くなら残業もセット。派遣社員だと二年で契約切れ。パートタイマーでは食っていけない。
たとえばシングルマザーの「保育園の送り迎えがあるから長くは働けないけど子どもを養えるぐらいは稼がないといけない」なんて要望は実現不可能というのが日本の現状だ。決して贅沢を言ってるわけではないのに。



だがオランダでは多種多様な働き方が認められているという。
 このようにオランダでは、30年以上もの間、働き方の改革が進められてきました。その結果、男性であろうと女性であろうと関係なく、「どういうふうに働きたいのか」「どれくらい働きたいのか」「どこで働きたいのか」を自ら決めることができるようになったのです(もちろん職業によって制限はありますが)。
 翻って今の日本はどうでしょうか。残念ながら、労働者が主体的に労働条件や環境を求めたり決めたりということは簡単ではありません。「子どもが生まれて間もないのに転勤を言い渡された」「仕事が終わっていても、上司が帰宅するまで家には帰れない」「毎年、有給休暇が余る。それどころか休日出勤の代休すら取れない」といったことは、日常茶飯事ではないでしょうか。
 こういった日本の現状に鑑みれば、働く個人が主体的に自分の働き方を決めることができるオランダというのは、まさに日本が参考にすべき事例なのではないかと感じます。
「夫は正社員として家計を支えて会社の命令なら残業でも転勤でもおこない、妻は専業主婦として家事と育児に専念」
なんてのは戦後数十年のごく短期的な”常識”だったのに(当時ですら幻想に近かったと思うが)、いまだにその例外的な”常識”に基づいた制度がまかりとおっている。

ぼくは以前どブラック企業に勤めていた。年間休日は約八十日。月に百時間を超えるサービス残業。インフルエンザでも休めない。
その会社は結婚を機に辞めた(そしてほどなくして潰れた)。「生活できない」と思ったからだ。

次の会社はいくぶんマシだったが、やはり月に八十時間ぐらいの残業があり、幼い子どもがいても飲み会や社員旅行は強制参加だった。

そして今は、残業は月に一時間程度(つまりほぼゼロ)。強制参加の飲み会もない。
子どもを保育園に送ってから出社し、帰ってから子どもといっしょに晩ごはんを食べ、子どもといっしょに風呂に入り、子どもといっしょに寝る。すごく幸せな暮らしだ。

これが誰にとってもあたりまえになればいい(仕事をしたい人はすればいいけど)。
「給料はそこそこでいいから残業ゼロがいい」という人は多いはずなのに、そんなごくごく控えめな希望ですらなかなか叶えられない。
そんなにむずかしいことじゃないはずなのに。


五人で食事をするのに椅子が四つしかない。どうすればいいか、答えはかんたんだ。
なのに「席が足りないからひとつの椅子にふたりで座ろう」とか「交代で立ちながら食事をしよう」とかやってるのが日本の企業だ。それを毎日くりかえしている。そして、食いづらいとか食うのが遅いとか文句を言ってる。

席が足りないなら椅子を増やせばいい。人手が足りないなら人を増やせばいい。
解決策はいたってシンプルだ。



『18時に帰る』には、さまざまな働き方のケースが紹介されている。
短時間勤務、週四日勤務、テレワークなど。

兼業主婦はもちろん、男性正社員、さらには管理職や経営者までもが家庭の事情にあわせて短時間勤務を選んでいる。
これを支えているのは、ただひとつのシンプルな原則だ。
 これは、今から約20年前の1996年に労働時間差別禁止法(Wet  onderscheid arbeidsduur)によって定められたもので、同法によってフルタイムワーカーとパートタイムワーカーの待遇格差が禁止されました。
 これにより、賃金や手当、福利厚生のみならず、企業が有する研修制度や職業訓練、年金制度などについても、同じ条件で雇うことが義務づけられたのです。働き方に大きく関わる産休・育休制度、介護休暇、有給休暇についても、同様の権利が与えられています。
日本では「同一労働同一賃金にしよう!」なんて叫ばれているけど、オランダはその先をいっていて、”同一労働同一条件”が実現されている。短時間勤務であっても時間あたりの賃金を同じにするのは当然で、雇用形態や福利厚生も同じ権利が認められるのだ。

この原則が徹底されているから、「出産のタイミングで休職する」「子どもが小さいうちは出勤時間を減らす」「親の介護があるから時短勤務する」といった選択が可能だし、なにより子育てが終わったら以前と同じ条件で復帰できるというのが大きい。

日本の働き方だと、「子どもが小さくてもフルタイムで働きつづける」か「パートにして、子育て期間だけでなくその先のキャリアも諦める」の二択しかない場合が多い。
”同一労働同一条件”を実現させないと、やれ働き改革だ一億総活躍社会だと声高に旗を振っても何の意味もない

国会でやるべきことはただひとつ、オランダと同じように労働時間差別禁止法を成立させること。政治家の旦那様連中である経団連の言うことなんか無視して。かんたんでしょ?



もちろんオランダにはオランダの問題があるのだろう。
この本には「オランダの働き方はこんなにすばらしい!」という話しか出てこないが、不満を抱えている人だって当然いるだろう。
(ちなみに”同一労働同一条件”を実現させた後のオランダの経済成長率は、世界的に見ても高い水準を維持している。多様な働き方を選べるようにすることは少なくとも経済的にマイナスにならないようだ)

とはいえ、選択肢を多くすることはまちがいなく労働者にとってよいことだ。
そしてそれは、企業にとってもプラスになる。
 ユトレヒト大学のプランテンガ教授の会話に、とても印象的な話がありました。それは次のような内容です。「働くことに幸せを感じている従業員を増やすことが、企業の生産性を高めるのです。
 なぜなら育成してきた人を失うのは、企業にとってとても大きな損失だからです。まして育児や出産で失うのは、本当にもったいないことです。
前述した、ぼくが勤めていたブラック企業ではどんどん人が辞めていっていた。
たくさん辞めてたくさん採る。求人サイトには常に求人が載っていて、人材紹介会社にも年間何千万という紹介料を払っていた。
社員が辞めるたびに引継ぎコストが発生するし、個人が持っていたノウハウは失われる。
なんて無駄なんだ、新規採用に使う金を、今いる社員を辞めさせないために使えよとずっと思っていた。

だがブラック企業の経営者というのは、合理的な考えが嫌いなのだ。どちらが本当にお得か、なんてことは気にしていない。とにかく「自分が苦労したのに自分のところの社員が苦労していないのが気に入らない」の一心でブラック化に磨きをかけているのだ。
だからどれだけ儲けようと社員には分配しない。待遇も良くしない。

こういう会社がのさばってきたのが日本社会だ。
しかし風向きは変わりつつある。労働者人口が増えつづけていた時代は終わった。若い人はどんどん減ってゆく。不況になったとしても、昔ほど若者が就職に困ることはない。
労働者の立場が相対的に強くなり、労働者が企業を選べるようになってゆく。

こうした流れについていけない会社はどれだけ利益率が高かろうが、人がいなくなってつぶれる。
これからは「社員が辞めない会社」だけが生き残っていく時代になるのだ。

ぼくは経営者ではないが、幸いなことにある程度なら社員の働き方を決められる立場にある。
オランダ式の自由な働き方を導入してみようと思う。



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