2018年10月12日金曜日

目覚まし時計との戦い


娘(五歳)は寝起きが悪い。
子どもってみんなそうかもしれないけど「定められた時間に起きる」ことができない。

ぼくも趣味はと訊かれたら睡眠ですと答えるような人間なのでたっぷり寝かせてあげたいけど、そうはいっても早く起きて保育園に連れていかないと仕事に遅刻してしまうので泣く泣く子どもを起こす。社会人って非人道的!

目覚まし時計を買うことにした。
娘を時計売場に連れていって「どれがいい?」と訊くと「(娘)の時計!?」と目を輝かせた。
自分の時計を持てることがうれしくてしかたないのだ。ふっふっふっ。今のうちにせいぜい喜んでいるがいい。

その晩、娘は嬉々として時計に電池を入れ、アラームをセットして枕元に置いて寝た。
翌朝アラームが鳴った。ぼくが娘をゆりおこしながら「ほら、目覚まし時計鳴ってるよ」と告げると、急いでアラームを止め「自分の目覚まし時計で起きれた!」と喜んでいた。


だが娘が目覚まし時計に好感を持っていたのはそこまでだった。
そう、彼女は気づいてしまったのだ。目覚まし時計が安眠を強制的に終了させる不快音発生装置だという事実に。

こうして娘と目覚まし時計の戦いがはじまった。

娘、ぼくの目を盗んで寝る前にアラームをオフにする。

数日後、ぼくがそれに気づいてそっとアラームをオンにする。

娘、アラームのセット時間をずらす。

朝五時にアラームが鳴りだす。

娘、目覚まし時計を布団の下に隠す。

ぼく、それを探しだす。

娘、夜中に目覚まし時計の電池を抜く。

ぼく、電池を抜けないようにテープでふたをがちがちに固定する。


このように、娘は毎晩目覚まし時計と戦っている。
彼女はいつ気がつくだろう。
あれこれ工作しているひまがあったら早く寝たほうがいいということに。
それとも大人になっても気がつかないだろうか。

2018年10月11日木曜日

【読書感想文】一秒で考えた質問に対して数十年間考えてきた答えを / 桂 米朝『落語と私』

『落語と私』

桂 米朝

内容(e-honより)
落語の歴史、寄席の歴史、東京と上方のちがい、講談、漫談とのちがい、落語は文学か、女の落語家は何故いないか等々、当代一流の落語家にして文化人が、落語に関するすべてをやさしく、しかも奥行き深い蘊蓄をかたむけて語る。

人間国宝だった桂米朝氏による、落語についてのエッセイ。
中高生向けに書かれたもの、ということで平易な言葉で語られていて、すごくわかりやすい。
しかし平易だからといって浅薄なわけではない。言葉のひとつひとつに、その道を究めんとする者ならではの奥ゆきがある。

落語のことをよく知らない人に訊かれる「落語と漫談のちがいってなんなの?」とか「古典落語と新作のちがいって何?」みたいな質問に対して、米朝さんは真摯に回答している。
一秒で考えた質問に対して数十年間考えてきた答えをぶつける、みたいな本。



米朝さんは噺家としても超一流だったけど、それ以上に芸の探究者として偉大な人だ。これだけ真摯に落語に向き合った人は後にも先にもちょっといないんじゃないだろうか。

たとえば、噺の冒頭によくある「こんにちは」「おう、まあこっちへおはいり」というやりとりについての考察。
「こんにちは」と言っても「ごめんください」と言っても「コンチハ」とやっても「ごめんッ」とやっても威勢よくやるのと物静かに言うのでは、たいへんにちがいのあるもので、男女の別、老若のちがい、さらに職人か商売人か、そそっかしい男と落ちついた人、それに「こっちへおはいり」という受け手の人物とどちらが目上かということ。また、訪問の目的が、べつに用事もないが、むだばなしにやってくる時と、借金でもしようと思ってくる時とは、調子がちがって当然です。さらにまた、暑い時、寒い時という季節の点も考えにいれておかなければなりません。もう一つ大事なことは、家の構造なり大きさなりです。長屋といっても、戸をあけたら裏口まで見とおせる家もあれば、もうすこし気のきいた小ぎれいな長屋もあります。ガラリとあけたところに相手が坐っているのか、つぎの間(ま)からあらわれて「おう、まあこっちへおはいり」と言うのか、これはこんどは受ける側の問題になってきます。
「こんにちは」とはいってくる人物の場合と同様に、それを見て「おう、まあこっちへおはいり」と言う人の語調や視線も態度もさまざまにあるわけで、「おう」と相手を見た瞬間にいつもやってくる隣人である場合と、めったにこない珍客の時と、来るはずのない意外な人の場合と、それぞれ受け方にちがいがあるのは言うまでもありません。それに落語の内容によって、顔を見たらきびしく意見をしてやろうなどと思っている相手であった時なんか、顔の表情にもそれだけの演技がいるわけです。「こんにちは」「こっちへおはいり」だけでも、いくとおりにも演じ分けられてこそ、玄人のはなし家です。

「こんにちは」「おう、まあこっちへおはいり」だけのやりとりが、これだけの思慮に裏付けられているのだ。すげー。

もちろん米朝さんのような名人になるといちいちこんなことを考えて演じていたわけではないだろうけど、でもこういう理論に裏打ちされたしゃべりをしているのだから何も考えずに話している人とは説得力がちがう。そりゃ噺に深みが出るわなあ。

きっと米朝さんは演者としてだけでなく、師匠としてもすぐれた師匠だったんだろうなあ。うまく演じることはできても、これだけのことを言語化して伝えられる噺家はそう多くないだろう。
米朝一門から高名な噺家が多く出ているのもむべなるかな。



特に印象に残ったのがこの話。
 つまり、甲がしゃべっている時は、演者は甲という人物になって、甲をあらわしているのはちがいないのですが、その甲の目の使い方と、セリフの内容によって、じつは乙が描かれているのであることを忘れてはならないのです。
甲の姿勢、表情、言葉づかい、話す内容によって、聴き手は「乙は甲の弟分なんだな」とか「ぞんざいな扱いを受けている奥さんなんだな」とか思い描く。
これはひとり芝居の落語ならではの表現だよね。

『ゴドーを待ちながら』とか『桐島、部活やめるってよ』のような、「ある人物を一度も登場させずに周囲の人間のセリフのみによってその人物を描く」という作品があるが、落語は常にそれをやっているわけだ。すごいなあ。
すべての噺家がこれを考えてやっているわけではないだろうけど。


米朝ファン、落語ファンはもちろん、表現活動が好きな人にとってはおもしろい本なんじゃないかな。

じつはこの本、うっかりまちがえて二冊買っちゃったんだけど、でも二倍のお金を払っても損はないと思えるような内容でした。


【関連記事】

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桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈四〉 商売繁盛』

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2018年10月10日水曜日

【読書感想文】ぼくらは連鎖不均衡 / リチャード・ドーキンス『盲目の時計職人 自然淘汰は偶然か?』


『盲目の時計職人
自然淘汰は偶然か?』

リチャード・ドーキンス/著

内容(e-honより)
ベストセラー『利己的な遺伝子』で、生物学ばかりか世界の思想界を震撼させたリチャード・ドーキンス。その彼が、いまだに批判・攻撃を受けるダーウィン理論のいくつかの面をとりあげ、異論のひとつひとつを徹底的に論破していく。本書は鮮烈なまでに見事なダーウィン主義の本であり、自然淘汰による進化が、われわれにとって最大の謎に答えるに十分なほど強力な理論であることを明らかにするだろう。その謎とはこうである―「われわれ自身が存在しているのはなぜか?」。

二十歳ぐらいのときにドーキンス『利己的な遺伝子』を読んでひっくりかえるくらいの衝撃を受けた。
読む前と読んだ後では目に映る世界がちがって見えるぐらいに。
大げさでなく、ぼくの人生を変えてくれるような一冊だった。

『利己的な遺伝子』に大きな影響を受けたのはぼくだけではなかったらしい。刊行直後から、著者であるドーキンス氏のもとには多くの反響が寄せられた。好意的なものもあれば、批判的なものも。

この本は『利己的な遺伝子』に対する反論への反論、という形をとって書かれている。
というわけであまり目新しいことは書かれていない。『利己的な遺伝子』に書いていた進化論を、傍証を交えながらより丁寧に書いている。

今だったらインターネットなんかで意見をぶつけあうところなのかもしれないが、反論に反論するために本を出すなんて、ずいぶんのんびりした時代だったのだなあ。

この内容だったら、アンドリュー・パーカー 『眼の誕生』のほうがずっと充実しているので、そっちを読めば十分という気もする。



「生物が誕生して今のわれわれの姿のような形に進化するのはどれぐらいめずらしい確率か」ということから、「奇跡」の考え方についてこんなふうに書いている。
 われわれの脳は、眼が電磁波の波長を評価するように自然淘汰によってつくられてきたのとちょうど同じように、起こりそうな確率や危険率を評価するように自然淘汰によってつくられてきている。われわれは、人間生活にとって役に立つであろう可能性の範囲内で、危険率や見込みを頭の中で計算する力を身につけている。これは、たとえば、バッファローに矢を射かけたときに角で突き刺されるとか、雷雨を避けて孤立した樹木の下に逃げ込んだときに雷に打たれるとか、川を泳いで渡ろうとしたときに溺れてしまうといったレベルの危険率のことである。これらの容認できる危険というのは、数十年というわれわれの寿命に釣り合っている。もし、われわれが一〇〇万年も生きることが生物学的に可能であり、またそうしたいと望むなら、危険率をまったく別なふうに評価すべきである。たとえば、五〇万年間、毎日道路を横断していれば、そのうち車に轢かれるにきまっているだろうから、道路は横切らない習慣を身につけなくてはならない。
なるほど。
常々、昆虫がリスクの高い生き方をしているように見えることをふしぎに思っていた。
そんなとこ通ったら敵にすぐ見つかるやん、ということばかりするのだ、虫たちは。

しょせんは虫の浅はかさよと思っていたが、もしかすると彼らは我々とはまったくべつのリスク評価をしているのかもしれない。
人間の目から見ると「ずいぶんあぶねえことしてるな」と思うことでも、虫のような命の短い生き物にとっては「これで死ぬのは超運が悪いやつだけ」ってぐらいのことなのかもしれない。アリにとって道路を歩いていて人間に踏みつぶされるのは、無視できるぐらい低い確率の出来事なのだろう。

同じ人間でも、生きてきた人生の長さによって「奇跡」の度合いは変わってくるのだろう。

小学生のとき、自分が投げたボールとべつの人が投げたボールが空中でぶつかったら「すげー!」と言って大笑いした。
大人になった今、そんなことはひとつもおもしろくない。十分な回数の試行をしていればそりゃいつかは空中でぶつかるだろうさ、と思うだけだ。

J-POPの歌詞が「ふたり出逢えた奇跡」であふれているのも、出会ってきた人の少なさによるものなのだろう。
十分長い時間を生きて十分多い人と出会ってきたなら、フィーリングの合う人との出会いも奇跡ではなく必然になってしまうから。



「連鎖不均衡」についての話。
 もし私が長い尾をもった雄なら、私の父も長い尾をもっているばあいの方がそうでないばあいよりも多そうである。これは通常の遺伝にすぎない。しかしまた、私の母は私の父を配偶者として選んだのだから、彼女は長い尾をもった雄を好むばあいの方がそうでないばあいよりも多そうである。したがって、もし私が父方から長い尾のための遺伝子を受け継いでいるなら、母方から長い尾を好む遺伝子も受け継いでいそうである。同じ理由から、短い尾のための遺伝子を受け継いでいれば、おそらく雌に短い尾を好ませる遺伝子をも受け継いでいるのだろう。
 雌にも同様の論法を用いることができる。私が尾の長い雄を好む雌なら、おそらく私の母も尾の長い雄を好んでいただろう。したがって、私の父は母によって選ばれた以上、おそらく長い尾をもっていただろう。したがって、私が長い尾を好む遺伝子を受け継いでいれば、おそらく長い尾をもつための遺伝子も、それらの遺伝子が雌である私の体に発現しようがしまいが、受け継いでいるだろう。そして私が短い尾を好む遺伝子を受け継いでいれば、おそらく短い尾をもつための遺伝子も受け継いでいるだろう。一般的な結論はこうだ。雄にせよ雌にせよある個体は、それがどのような性質であっても雄にある性質をもたせる遺伝子と雌にそれとまったく同じ性質を好ませる遺伝子の両方をもつ可能性が高い。
長い尾を持つ個体は、長い尾を好む性質も持っている可能性が高い。これを連鎖不均衡というそうだ。

これを知って、いろんなことが腑に落ちた。

ぼくのいとこ(女)は、女性にはめずらしく身長が180センチを超えている。彼女は自分よりもっと背が高い男性と結婚した。
背が高い女性がもっと長身の男性を選んだり、背の低い男性がもっと背の低い女性を好きになったりすることがよくある。
あれは「コンプレックスを隠すため」かと思っていたのだが、もっと根本的なところ、遺伝子で決まっているのかもしれない。
長身の人は長身の人を好きになりやすい。なぜなら自分の親も長身のパートナーを見つけた(可能性が高い)から。「長身になる」遺伝子と「長身の異性を好む」遺伝子の両方を受け継いでいる(可能性が高い)から。

「高学歴な女性は自分以上のステータスの男性を選ぶ」という話を聞いたことがあるが、これも自分の親が持っていた「知能の高い異性を好きになる」という性質を受け継いだからかもしれない。

つまり子どもは親と似た好みを持つ(傾向が強い)。
ということは、娘であれば自分の父親に似た人、息子であれば母親に似た人を好きになることになる。
「身近にいた数少ない異性のひとりだったから」という後天的理由もあるだろうが、遺伝子レベルでも決まっているのだ。たとえば幼いころに両親と引き離された子でも、知らず知らずのうちに親に似た性質の異性を好きになるのかもしれない。

「自分のおかあさんみたいな女性が好き」というとマザコン扱いされてしまうけど、連鎖不均衡が生じる以上、ごくごく自然なことなのかもね。


【関連記事】

自分の人生の主役じゃなくなるということ



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2018年10月9日火曜日

寂しさ VS 忙しさ


妻が出産のために五日ほど入院した。

かねてから心配していたのが、上の娘(五歳)のことだ。

娘はおかあさんべったりというわけではなく、土日はたいていぼくとふたりで遊びに出かけるし、家でも風呂・遊び・絵本はぼくと一緒にやる。
だが「寝るときに娘のおなかをさする」と「起きるときにだっこする」だけはおかあさんでなければならない。
それだけはぼくがやろうとしても「おかあさんがいい!」と言われる。

五歳ともなるといろんなことが理解できるし、親の期待に応えようともする。とはいえまだまだわがままいっぱいの子どもだ。
特に今まではひとりっ子だったので、「おかあさんと寝たい」とか「おとうさんとお風呂に入る!」なんて願いはほぼ叶えられてきた。

そんな娘が「おかあさんの入院」というイベントをどう乗り越えるのだろうか。
ぼくは心配しつつも楽しみに見ていた。



結論からいうと、あっけないぐらいに平気だった。

娘が寂しがらないようにぼくはとった対策は、「寂しがる時間を与えない」というものだった。
ひとりであれこれ考えると寂しくなる。だったらひとりで考えるひまを与えなければいい。

こないだの土曜日は、娘に絵本を読んで、『トイ・ストーリー』のDVDを観て、図書館に行って、娘の友だちと公園で遊んで、病院に行って赤ちゃんを見て、帰ってからプールに行って泳いで、レゴで遊んでからまた病院に行って面会してご飯を食べて、帰って銭湯に行って、絵本を読んでお話を聞かせてから寝た。
日曜日は保育園の友だちと公園にシートを広げてご飯を食べ、野球と相撲と鉄棒と自転車で遊んだ。ぼくは五歳児十人から自転車で追いまわされた。
月曜(祝日)はバーベキューをして、公園でアスレチックをして、銭湯に行った。

これだけハードなスケジュールをこなしていたら寂しがるひまもない。布団に入って灯りを消して小さな声でお話を読んであげたら三分もしないうちに寝てしまった(ついでにぼくも寝た)。
寂しがっている時間などない。

忙しさで埋めつくすことで、おかあさんのいない寂しさは覆いかくせた。
すげー疲れるけど。


2018年10月7日日曜日

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