2018年9月25日火曜日

キングオブコント2018の感想と感情の揺さぶりについて


コントという表現手法が持つ強みについて。
単純に「短時間に大きな笑いをとる」という点においては、コントはあまり強くない。
状況説明に時間がかかるし、芝居の設定が乗っているから登場人物のとれる行動に制約がある。使える言葉もかぎられる。

「短時間に大きな笑いをとる」という点で考えれば、漫才のほうがずっと向いている。
キングオブコントがテレビ番組としていまいち成功していない理由もそこにある。老若男女いろんな人が観る、途中から観る人もいる、集中して観る人ばかりではない。そういうテレビの特質には、きちんと作りこまれたコントはあまり向いていない。「一分で笑える爆笑ネタ!」みたいなののほうがよほどテレビ向きだ。
(だからキングオブコントはテレビスタジオではなくどこかの劇場で客を入れてやって、それを中継する形のほうがいいと個人的に思う)

ではコントの強みがどこにあるかというと、多様な感情を引き起こすのに向いている点だ。

笑わせるのはもちろん、悲しさ、哀れさ、気まずさ、怖さ、いらだち、とまどい。さまざまな感情を我々はコントの登場人物を通して感じとることができる。
ただ「笑える」だけなら漫才のほうが向いている。
ぼくがコントを観るときは、そこに「感情を揺さぶってくれるもの」があることを期待して鑑賞する。今風の言葉で言うなら「エモさ」があるかどうか、ということになるだろう(おっさんが無理して使ってみたので使い方があってるかどうかはしらない)。



前置きが長くなったが『キングオブコント2018』の感想。
審査についてはいろいろ言いたいこともあるけど、ここではコントの中身だけ。

やさしいズ


会社の待遇に不服をおぼえる男が会社のビルを爆破しようと深夜のオフィスに忍び込むが、清掃のアルバイトが現れ……。

登場人物のコントラストが効いていたり、ストーリーに起伏があるところなど、いいコントだったと思う。アルバイト役が、ちゃんと「工業高校出て清掃バイトしてるやつ」の風貌をしていたのがすごく良かった。
不穏な空気の冒頭から、能天気だけどポジティブなアルバイトとの会話を通して爆破犯が徐々に心を開いていく様は、まさにやさしいコントだった。
ただ残念ながら、爆破犯役の芝居がうまくなかった。一生懸命演じているのが伝わってしまう。彼がもっと緊張感のある演技をできていたら、その後の展開への落差も大きくなって笑いも増えただろうに。
いきなり「あとは起爆スイッチを押せばビル中にしかけた爆弾が爆発して……」の説明くさい独白から入ったら、緊張感もなにもあったもんじゃないよね。
自然な会話から設定を観客に伝えることができていれば、もっと入りこめたんだけどな。


マヂカルラブリー


コンビニで自分の傘を探していたら、傘を盗もうとしていると疑われる……という日常のとるにたらない出来事がひたすらループする、というコント。

タイムループもののパロディ的なコントなのだが、はたしてパロディになっているのか?
タイムループものの作品は多いが、乾くるみ『リピート』も北村薫『ターン』もアニメ『時をかける少女』も映画『サマータイムマシンブルース』も、わりとどうでもいい日常、しょうもない理由でループしてるんだよね。
「こんなとこじゃなくない?」といわれても、「いや、"こんなとこ"をおもしろく見せるのが腕の見せ所なんじゃないの?」と思ってしまう。

ただ途中から「おじさんもループしている」ことが明らかになって話がどんどん転がっていくあたりはおもしろかった。
「信じたくなくて逆に強くあたってしまった」という妙に説得力のあるセリフや、「この世界はおじさんの夢の中」という不気味さがすごく好き。
タイムループに巻きこまれる怖さを上回る、「あぶないおじさん」の怖さ。ここをもっと前面に出してほしかったな。


ハナコ


犬を演じる、という以外に説明のしようのないコント。

このトリオのコントは以前にも何本か観たことがあったが、これはその中でもとびぬけてつまらなかった。キングオブコント史上もっともおもしろみのないコントのといってもいいぐらい。

ぼくも犬を飼っていたので「あー、あるある」とは思ったが、ただそれだけ。
犬の感情を描くといううっすらとしたユーモアがひたすら続く。NHKの「LIFE!」でやっててもおかしくないぐらい平和なコント(悪い意味で)。
三人目が登場したところで新たな展開があるのかと思いきや、何も起きない。最後に意外な事実が明らかになるのかと思いきや、やはり何にも起きない。
とうとう最後まで「うちの犬もこうだったわ。なつかしい」以外の感情を動かされることはなかった。
これだったら昔セコムがやってたおじさんが犬を演じるCMのほうがずっとおもしろかった。


さらば青春の光


予備校の生徒に対して、熱い言葉で勉強の大切さを説く講師風の男。ところが彼は授業をせず、説教だけをすると他の講師にバトンタッチして教室から出ていく。どうやら「鼓舞する人」という名目で雇われているらしく……。

「感情を揺さぶってくれるもの」という点で、今大会もっとも好きなコントだった。悲哀や憐憫、プライドが折れる様などを短時間でしっかりと表現していた。テレビ審査では明るくハッピーなストーリーが好まれるようだが、劇場でやったらこれが一番になっていたんじゃないかな。

とはいえこの底意地の悪い着眼点のコントが決勝に行けなかった理由は会場の空気にあわなかっただけではない。無駄な演出が多かった。
まず冒頭で講師風の男が生徒に説教をかましているシーン。あの現場に本物の講師がいないほうが良かった。二人いることに違和感があったから、あれでぼくは「こっちが本物の講師かな」と思ってしまった。そのせいで「では先生、お願いします」の衝撃が小さくなった。

また説明過剰だった点も後半勢いづかなかった理由だろう。本物の講師が「あの人は鼓舞する人や」という台詞はまったくの無駄だった。あの説明がなくても観客にはだいたいわかる。
講師が「鼓舞する人」を見下してることもはっきり口に出さずに伝えてほしかった。言葉に出さずに感じさせるのが芝居だし、それができる演技力を持っているコンビなのだから。
チョコレートプラネットの一本目やハナコの二本目は、説明をばっさりと省いて成功した。
さらば青春の光も、もっと観客の想像力に委ねる大胆さがあればパーフェクトなコントになっただろうと思うと残念でならない。


だーりんず


居酒屋で会社の後輩と出会った先輩が、こっそり後輩の分の勘定を済ませてやろうとする。ところが店員に意図がうまく伝わらず、思っていたようにスマートに感情をすることができない……。

ネタは良かった。ありそうなシチュエーション、誰もが持っている些細な見栄、慣れない人がかっこつけようとした結果かっこ悪くなってしまうというコミカルさ。
派手な動きはないが、繊細な心の動きが丁寧に描かれていて、もっと見たいと思わせてくれた。
ただ緊張からか、やりとりのぎこちなさが感じられた。ほんの少しなのだが、コントにおいてはそのわずかなぎこちなさが致命的となる。
これを東京03が演じたらめちゃくちゃおもしろいコントになったんだろうなあ。かっこつけたい角田先輩、めんどくさそうにする飯塚店員、空気を読まない豊本後輩とかでカバーしてほしい。


チョコレートプラネット


見知らぬ部屋で目を覚ました男。首には不気味な装置がつながれ、モニター画面では覆面男が「今からゲームをしてもらう……」という説明をはじめる。ところがつながれた男はパニックになってしまい、ゲームの説明をまったく聞こうとしない……。

前半部分は以前にも見たことがあった。しかしあれがおもしろいのは二分ぐらいまでだろうと思っていたら、謎のにおい、謎の装置、仕掛人登場、新たな仕掛人の存在と新たな展開を見せてちゃんと長尺に耐えられるネタに仕上がっていた。
いやあ、おもしろかった。『SAW』や『CUBE』のようなデス・ゲーム風の冒頭から、ひたすら叫びつづけるばかばかしい展開へ。「においは知らない!」は笑った。
恐怖の象徴のような覆面男がだんだんかわいそうになってくるのがいい。

じっさいにデス・ゲームをしようとしたらこういうことになるかもしれないと思わせてくれるリアリティがあった。フィクションではみんなおとなしくルールを聞いてルールにしたがってゲームを始めるけど、現実にはなかなかゲームが進まないんじゃないかな。

欠点を挙げるとすれば、覆面男の声が聞き取りづらかったこと。
あと覆面男の名字が「鈴木」というのはいただけない。名字がベタすぎておもしろくない。「橋本」とか「川谷」とか「石原」ぐらいの名字にしたほうがいいと思う。そこそこメジャーで、四文字の名字のほうがいいな。「群馬!」のところも「前橋!」とか「大宮!」ぐらいのほうがおもしろかったような。
とはいえ、ストーリーが動きながらも前半から最後までずっと笑いが起きつづける展開で、文句なしの一位。


GAG


同級生が居酒屋でアルバイトをしていることに驚く、進学校の生徒。大人のお姉さんの性的魅力に翻弄される少年たち……。

いつの間にかGAG少年楽団から改名してたんだね。「GAG」と「少年楽団」のうち、ダサい方を残しちゃったなあ。
そういや今大会の出場者、名前ダサすぎじゃない? だーりんずもマヂカルラブリーもわらふぢなるおもやさしいズもさらば青春の光もダサい。わざとダサさを狙ったのかもしれないけど、これだけ並ぶと一周半してやはりダサい。まあ名前のダサさではバイきんぐの右に出るものはいないけど。

ボケらしいボケもなく、ふたりの関係性に対するツッコミの視点のみで笑いを取りにいくという姿勢は評価したい。トリオならではだね。
ただしツッコミ役は芝居の中にいながらメタな視点での台詞を入れることになるため、芝居としてのリアリティは完全に壊れてしまう。
それはそれでありだけど、フレーズのひとつひとつが丁寧すぎて、一生懸命考えたなというのが伝わってしまう。舞台裏が見えてしまうのは芝居としてマイナスにしかならない。ぼくたちの努力の結晶です、笑ってくださいと言われても笑えないよね。

とはいえGAG史上最高に良かった。
男子高校生の青くささがびんびんと伝わってきて、村上龍の名作『69』のような味わいがあった。


わらふぢなるお


新しく入ったコンビニのバイトと店長がレジに立つ。ただしバイトにはわかりきったことをいちいち訊く「カラ質問」が多く、店長は次第にいらついてくる……。

人をいらつかせるキャラクター、よく練られた会話、おもしろかった。おもしろかったけど……。
芝居として見るといろいろとものたりない。動きがないこともあるし、「このシーンに至る前」の作りこみが甘いことも不満だ。
「レジの業務をひととおり教えた後」という設定だが、レジの業務を教えている間はカラ質問をしなかったのだろうか? 説明を終えた途端にカラ質問をするようになったのだろうか? だとしたらなぜ?

人生の一部を切り取ったコントではなく、コントのための人生を送っているキャラクターなんだよね。昨年のネタもそうだったし、二本目に演じたネタはもっとひどかった。このコンビのコントは「芸人のコント」なんだよなあ。ぼくは笑える「芝居」が観たい。


ロビンフット


結婚することになった中年男性とその父親。ところが男性は、妻となる女性の年齢を知らないという。わかっているのは干支だけ。たぶん三十六歳だと男は言うが、よくよく話を聞いてみると……。

「年齢がわからず戌年ということだけわかっている」という設定であればこうなるだろうな、という予想通りに話は展開していくが、そのシンプルさがむしろ心地いい。
とはいえこういうコンテストで観たいのは新しい切り口なので、ベテランがベテランっぽいネタをやってもそりゃあ優勝はできないよね。
どんどん年齢が上がってくるのはおもしろいが、そうなると序盤で語っていた「26の子どもがいる」「50ぐらいに見える」という設定が少し苦しくなってくる。その苦しさを強引に押しきるほどのパワーはなかったな。


ザ・ギース


物に触れるだけでそれを使っていた人物の思念を読みとることのできるサイコメトラーの少年。殺人事件の捜査のために遺留品に触れるが、見えてくるのは製造工程ばかり……。

シュールな発想の一点突破ネタで、さすがに五分はきつい。中だるみ感は否めなかった。
終盤の「身近にいる捜査協力者だと思ってた人が犯人」という展開もわりとよくあるやつで、そこまでの意外性はなかった。
さすがはメイドインジャパン、中国製はイマイチ、といった台詞も今の時代にあってなくて笑いにつながらず。

ところで、マヂカルラブリー、チョコレートプラネットといい、ずいぶんSF・サスペンス的なネタが多い。そこまでド定番なネタではないと思うのだが、SFに明るくない人はすっと設定に入れるのだろうか?


決勝戦


うーん、どれも感想を書きたいネタではなかったので省略。



【関連記事】

キングオブコント2017とコントにおけるリアリティの処理


2018年9月23日日曜日

横で人が怒られてるときの居心地の悪さ


歯医者がすごく感じの悪い人だった。

患者であるぼくに対してはにこやかに接するんだけど、歯科助手に対する当たりがとにかくきつい。

「〇〇出しとけって言っただろうが」
「はぁ? なんで□□だと思うんだよ。チッ」
みたいな感じ。
歯科助手に対してずっとイライラしている。
歯科助手がふたりいてどっちにも当たりがきついから、歯科助手がとりたてて愚鈍というわけではなく、歯科医師側に問題があるのだと思う。


歯科助手へのあたりはきついのに患者であるぼくには「大丈夫ですか~。痛くないですか~」みたいな柔和なしゃべりかたをしてくる。うわこわいこわい。余計にこわい。

全方位的に不愛想なのもイヤだけど、まだマシだ。
自分だけ優しくされたら
「患者に無理して優しくした分のストレスのはけ口が歯科助手に向かってるのだろうか」
と、こっちまで罪悪感をおぼえる。
すまない歯科助手よ、ぼくが来てしまったせいで。だってかんたんに予約とれたんだもん。そりゃ患者寄りつかんわ。



横で人が怒られてるときの居心地の悪さについて。

『孤独のグルメ』という漫画に
「主人公が入った飲食店で、店主が年寄りの従業員を激しくののしっているのを見てげんなりする」
というエピソードがあった。
あの気持ち、よくわかる。

自分が怒られるのも嫌だが、自分と無関係の人が無関係のことで怒られているのはもっと嫌だ。
ぼくは子どもの頃から親や教師に怒られつづける人生を送ってきたので自分が怒られても蛙の面に小便だが(一応反省しているフリだけはする)、それでも他人が説教されているのはつらい。

ヤンキー風の親が自分の子に「うるせえから泣くなっつってんだろ、ボケ!」なんて言ってるのを聞いたときは、自分が怒られたとき以上に胸がいっぱいになる。



わざわざ部外者の前で叱りたおす人は、どういう気持ちでやっているのだろうか。
仮説を立ててみた。

1.相手のプライドをへし折るため

こっそり注意されるよりも人前で口汚く罵られたほうが当然ダメージは大きい。
だから相手を育成するためにプライドをへし折ってやろうと思い、わざと衆人環視のもとで罵倒しようと考えているのかもしれない。
修復できないぐらい信頼関係が傷つくから、育成には逆効果だろうけど。

2.周囲へのアピール

信じがたいことだが、
店だったら「うちはちゃんと従業員教育に力を入れているんですよ」
親だったら「わたしはちゃんと公共の場で子どもを厳しくしつける親ですよ」
というアピールのため、つまりはサービス精神の発露なのかもしれない。
当然ながら逆効果にしかならないわけだが(サービス業なら「感じの悪い店」、親なら「児童相談所案件予備軍」と思われるだけ)本人は「うちはちゃんとやってますよ!」というアピールのつもりなのかもしれない。

3.何も考えてない

これがいちばんありそうだね。
二歳児のように感情をうまくコントロールできないだけ。


2018年9月22日土曜日

なぜ「死ぬ」を「死む」といってしまうのか


五歳の娘は「死ぬ」のことを「死む」と言う。
知人の子ども(六歳)も、やはり「死む」と言っていた。

おや、同じ間違いだ。
と思って調べてみたら、これは幼児によくある間違いらしい。

間違いやすい原因のひとつは、
「死ぬ」が変則的な活用をすることだ。

「死ぬ」はナ行五段活用をする動詞だ。
ナ行五段活用をする動詞は「死ぬ」と「往ぬ」しかない。「往ぬ」は絶滅寸前なので(関西のおじいちゃんとかは使ったりするけど)、「死ぬ」はほぼ唯一無二のナ行五段活用動詞なのだ。

一方、マ行五段活用の動詞は多い。
「噛む」「飲む」「頼む」「せがむ」「しゃがむ」など。
また、「染む」「惜しむ」「軋(きし)む」「楽しむ」「怪しむ」「訝(いぶか)しむ」など、「-しむ」を含む動詞も多い。

そこで圧倒的多数であるマ行五段活用チームに釣られて、「死んだ」の終止形を「死む」だと思ってしまうわけだ。
「"噛んだ"は"噛む"、"飲んだ"は"飲む"、じゃあ"死んだ"は"死む"だろう」と推測するんだね。



また、多くの親は幼児に対して「死ぬ」にまつわる話題を積極的には口にしない。

幼児に対して
「さあ死のう」(未然形)とか
「死ぬときは一緒だよ」(連体形)とか
「死ねばいいのに」(仮定形)とか
「死ね」(命令形)とか
の活用形は、(ふつうの家庭)ではあまり使わない。

「そんなの食べたら死んじゃうよ」とか「この虫死んでるね」のような使い方が多い。
「死んじゃう」「死んで」は連用形で撥音便化している(「死にて」→「死んで」になる)ため、元の形が分かりにくい。

このことも「死む」を発生させる要因になっているのかもしれない。



ちなみにうちの娘は、「居る(いる)」の否定形を「いらない」という。
これもよく考えたら納得のいく間違いだ。

同じ「いる」という音でも「要る」は五段活用、「居る」は上一段活用なのでごっちゃになってしまうのだろう。
(ちなみに「入る」「煎る」は五段活用、「射る」「鋳る」は上一段活用だ。ぼくらは無意識に使い分けてるけど、改めて考えるとすごくややこしい)

だからこないだ電話で祖母から「おとうさんはいますか?」と訊かれた娘が「いりません!」と答えてしまったのだ。
決しておとうさんが嫌われているからではないのだ。


2018年9月21日金曜日

娘語


五歳の娘語。

「えんとつ」は屋根のこと

「はっぱ」は野菜のこと、または植物全般のこと

「ちいさいおふとん」は枕のこと

カラスやウグイスも「はと」

りんごの芯も魚のしっぽも「かわ」

口にあわないものはすべて「からい」

飲食店のメニューは「りょうりのかみ」

力士が履くまわしは「パンツ」
まわしについてるヒモ(さがり)は「パンツのりぼん」

最上級の悪口は「ばばあ」(相手が父親であっても)

言わんとすることはわかる。

2018年9月20日木曜日

片付けの非合理性


一番きらいなのが「片付け」。家事の中で。

畳んだ服をたんすに入れる、使ったボールペンをペン立てに刺す、乾いた食器を食器棚にしまう。
イヤだ。すごく苦手だ。できることなら一生やりたくない。ごみ屋敷の住人の気持ちがよくわかる。

何がイヤって「また使うのに」片付けないといけないのがイヤだ。
服をたんすに入れたって数日したら出してきて着る。食器棚にしまった皿もすぐまた出してきて使う。
だったら出したままにしとけばいいじゃない。

めったに使わないものなら苦にならない。
喪服を着終わったらちゃんと衣装ケースに入れて吊るしておく。客用ティーカップも使ったら食器棚にしまう。めったに使わないから。

でも一日か二日したらまた使うものは片付けたくない。なんて非合理的なんだろう。

じっさい、ひとり暮らしのときは片付けなかった。
包丁もどんぶりもコップもタオルも出しっぱなしだった。洗いはするが、すぐ使えるところに置いておく。だってまたすぐ使うもの。

でも家族と暮らしているとそうもいかない。つづきを読む本や今晩使うコップや気が向いたときに回したいハンドスピナーであっても、片付けることを求められる。
合理的に生きたいというぼくの崇高な願いは、きれいな部屋で暮らしたいという妻の俗世間的な願いの前に一掃されてしまう。

いいじゃない、片付けなくたって。どうせまた使うんだし。どうせいつか朽ちるんだし。どうせみんな死ぬんだし。