2018年7月31日火曜日

大人の男はセミを捕る


四歳の男の子に「おっちゃん、セミとって」と言われた。

七月の公園。樹にセミが鈴なりになっている。
ぼくのすぐ眼の前にも青く光っているセミがくっついている。鳴いていない。
娘の友だちのKくんはいともかんたんに「おっちゃん、セミとって」と言う。おっちゃんがびびっていることに気づいていない。大人にとってどれほど虫が嫌なものなのかわかっていない。ぼくもそうだった。

ぼくは自他ともに認める虫好き少年だった。幼稚園に行く途中トカゲや虫を捕まえた。「いつも虫を持ってるね」と言われていた。
しかしそれから三十年。虫好きだった少年は、ごくふつうの虫がちょっと苦手なおじさんになった。

「自分でとったらどう?」
 「とどかないもん」
「だっこしてあげるよ」
 「Kくん、手が小さいから捕まえられない。おっちゃんやって」

四歳のくせに理屈こねやがって。
虫取り網なんて気の利いたものはない。手でつかむしかない。
セミかあ嫌だな。カナブンとかダンゴムシとかの堅いやつならわりと平気なんだけどな。セミってお腹の部分が柔らかいし羽根も破れちゃいそうだしお腹からむにゅっとやわっこい臓物的なものが出てきそうだなあ。うへえ。想像したらますます嫌になってきた。


Kくんは「とってとって」と云う。横にいたうちの娘まで「おっちゃんとって」と云う。ちくしょうこいつら、大人の男にできないことなどないと思っていやがる。自慢じゃないがおっちゃんは厚生年金の仕組みすらよくわかってないんだぞ。
「おっちゃんちゃうわ、おとうちゃんや」とぼくは娘に云い、樹に手を伸ばした。
へたに勢いをつけたらセミが動いたときにうっかりつぶしてしまうかもしれない。それだけは避けたい。どうか穏便に、穏便に。
左手でセミの進路をふさぐ。上に向かって飛べないようにしておいて右手をそっとセミにかぶせる。セミは少しも動かない。おい動けよ危機感持てよまったく最近のセミは。右手をじわじわとすぼめてゆく、指の腹がセミの羽根に触れる。

じゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅ
掌の中で激しく鳴くセミ。うへえ、やわっこくてがさがさしたものが掌の中で動きまわっている。『クレイジージャーニー』で観た、昆虫食の好きな女の人のことを思いだす。彼女はセミの羽根をむしってからフライパンで炒めていた。こいつが、こいつの胴体が、油の中で。

だが捕った。どうだ大人の男は。セミを捕ったぞ。

ところがKくんはじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅじゅと鳴き叫ぶセミにすっかり恐れをなして「わあ」と叫んで走りだした。つられて娘も逃げる。こら待ておまえらが捕ってってゆうたんとちゃうんかい、こっちはセミがおしっこかなんか変な液体を出して手を濡らしているのを我慢して握ってるんやぞ。
逃げる幼児、追うぼく、掌の中で暴れるセミ、不快な汁、どこまでも暑くるしい夏。


2018年7月30日月曜日

『りぼん』の思い出


小学生のとき、雑誌『りぼん』を読んでいた。
といっても買ったことは一度もない。姉が購読していた『りぼん』を読ませてもらっていたのだ。姉弟喧嘩をして「もう『りぼん』読ませへん!」と言われてからも、姉がいないときにこっそり部屋に侵入して『りぼん』を読んでいた。

当時はたぶん今以上に男が少女漫画を読むとばかにされる時代だった。男子小学生だったぼくらの間では、当時大ブームを巻きおこしていた『ちびまる子ちゃん』ですら「男が読むもんじゃない」という扱いだった。
「男はジャンプだろ」
男子はジャンプ一択、コロコロ読むやつはガキ、ボンボンはゲーマー、それ以外は存在しない。そんな時代だった。
だからぼくは『りぼん』を読んでいることをクラスの誰にも言ったことがなかった。


『りぼん』を読んではいたが、ぼくが主に読んでいたのは『ちびまる子ちゃん』『こいつら100%伝説』『ルナティック雑技団』『赤ずきんチャチャ』『へそで茶をわかす』だけで、要するにギャグ漫画しか読んでいなかった。亜流だ。
当時はジャンプ黄金期であると一方で女子の間ではりぼん黄金期でもあった(りぼん>なかよし>>>ちゃお みたいな序列があったはず。今はちゃおの圧勝だが)。
当時の『りぼん』には、『天使なんかじゃない』『ときめきトゥナイト』『マーマレード・ボーイ』などそうそうたる漫画が連載されていたが、タイトルしか覚えていない。なぜなら読みとばしていたから。『天使なんかじゃない』は十五年後ぐらいに読みかえしておもしろかったのだが、やはり男子小学生にとっては恋愛の心の機微よりも「宇宙でいちばん強えやつは誰か」のほうが気になるところなので、当時ちゃんと読んでいたとしても楽しめなかっただろう。

せっかく姉の『りぼん』という女子の嗜好を把握するツールが手近にあったのだから、恋愛漫画を真摯に読んで勉強していれば、もっと女心のわかるモテ男になっていたかもしれない。『こいつら100%伝説』ではまったくモテにつながらなかった。



2018年7月28日土曜日

ことわざ分類

【逆説表現】


青は藍より出でて藍より青し

雨降って地固まる

急がば回れ

灯台下暗し

二兎を追う者は一兎をも得ず


【説教】


秋茄子は嫁に食わすな

果報は寝て待て

可愛い子には旅をさせよ

郷に入っては郷に従え

初心忘るべからず

鉄は熱いうちに打て

習うより慣れよ


【そりゃそうだろ】


夫婦喧嘩は犬も食わぬ

井の中の蛙大海を知らず

腐っても鯛

後悔先に立たず

笛吹けども踊らず


【ちがうよ】


五十歩百歩

立つ鳥跡を濁さず

猫の手も借りたい


【やんねえよ】


赤子の手をひねる

石の上にも三年

鵜の真似をする烏

馬の耳に念仏

二階から目薬

糠に釘

猫に小判

暖簾に腕押し

豚に真珠

へそで茶を沸かす


2018年7月27日金曜日

【短歌集】病弱イレブン



チームメイト追悼試合の最中に死んだ選手の追悼試合



リズム感に欠く彼らのドリブルは まるで銃弾浴びてるかのよう



病弱の健闘むなしく無情にも響きわたるはキックオフの笛



勝ったのに2回戦には上がれない トーナメントにスロープつけて



病弱を支えて励ます女子マネが ひそかに計算せし内申点



全員が倒れし後も好勝負演出するはベルトコンベア



負傷者を乗せた担架を持ちあげる隊員たちの強さが際立つ



タックルをしかけた側が倒される サッカーだけに踏んだり蹴ったり



あと一歩 病弱イレブン破れ散る 勝者はお掃除ロボットルンバ



看護師の制止を振り切り出場し 血を吐きながらキックオファァアああ



敵味方 赤と青とに分けるのは ユニフォームでなくサーモグラフィー



永遠のものなどないと思ってた 彼らにとっては終わらぬ試合



2018年7月26日木曜日

中学生が書いたサラリーマン小説


「わかっているだろうな、ホンダくん。これは我が社の命運を賭けたビッグ・プロジェクトだ。決して失敗は許されんぞ」
部長が鼻髭をさわりながら言った。おれは「承知いたしました」と軽く頭を下げて席に戻った。後ろの席の女性社員たちがこちらを見ているのを感じながら、あくまでクールに席についた。

「どうせ失敗に決まってるさ。部長、失敗したらこいつクビですよね」
同期のカワサキが薄笑いを浮かべながら言う。ほんとうにいやなやつだ。社内の噂話と上司へのごますりしか頭にない男だ。おれは聞こえないふりをしながらコンピュータを起動した。二万テラバイトのハイパースペック・マシン。こないだのビッグ・プロジェクトを成功させたお祝いに部長が買ってくれたものだ。こんなところにも部長からおれへの期待が現れている。

「こないだのビッグ・プロジェクトすごかったわね。今度のビッグ・プロジェクトも期待してるわ」
おれの机に湯のみ茶碗を置きながら、会社のマドンナであるレイコさんがささやく。ささやきついでに、おれの手をぎゅっと握りしめていった。カワサキの歯ぎしりがここまで聞こえてくるようだ。思わずにやにやしてしまう。

おれはノートをとりだして、複雑な計算式を書きはじめた。ビッグ・プロジェクトの見積もりを作成するのだ。この計算式はおれにしか書けない。だからいくらカワサキが悔しそうににらんだところで、ビッグ・プロジェクトを任せられるのはおれしかいないのだ。

出た。なんと105万円。
ついに100万円の大台に乗った。たくさんのビッグ・プロジェクトを手がけてきたおれでも、これほどビッグなプロジェクトははじめてだ。
検算をして見積もりにまちがいがないことを確認して、おれは見積もりを真っ白な紙に清書した。

ネクタイを締めなおし、清書した見積もりを部長に手渡した。窓の外に目をやり、横目で部長の反応をうかがう。
「ひゃっ、105万円……」
部長の声が震えている。当然だろう、なんせ会社の運命を握っているビッグ・プロジェクトだ。
部長の声を聞いていた同僚たちがさざめきあう。「105万円だって……」「いくらビッグ・プロジェクトだからって……」そんな驚嘆の声が聞こえる。
ビッグ・プロジェクトのビッグさに一瞬たじろいでいた部長も、すぐに落ち着きを取り戻して見積もりの内容を確かめはじめた。さすがだ。今はこんな小さな支社にいる部長だが、かつてはニューヨーク支社で数々の大胆な見積もりを世に出してアメリカ中のビジネスマンを驚かせ、東洋の見積もり王の名を欲しいままにしたと聞く。もしかすると、おれの強気の見積もりを見てかつての栄光の見積もりを思いだしているのかもしれない。

「完璧な見積もりだ……。この見積もりなら我が社の危機は救われる……」
うめくように部長が云った。当然だ、百年に一度の新入社員と呼ばれたおれの渾身の見積もりなのだから。
「この見積もりをあれだけの短時間で完成させるとは、まったく大した男だな。ホンダくんは」部長が顔をほころばせる。「それにしても105万円の見積もりとはおそれいったよ、これはもはやビッグ・プロジェクトではない。大ビッグ・プロジェクトと呼んだほうがいいだろうな」
「ははは、部長、大ビッグだと意味が重複していますよ」
「それもそうだ、こりゃあ一本とられたな」
おれの鋭いツッコミに、部長がおでこに手を当て大声で笑った。つられたように社内全体が笑いだす。ひとり苦虫を噛みつぶしたような顔をしているのはカワサキだ。

そのとき扉が大きな音を立てて開いた。顔を出したのはなんと、本社にいるはずの社長だった。
「おや、楽しそうな話をしているな。わしも混ぜてくれんかね」
社長の横では、タイトなワンピースに身を包んだ切れ者秘書のエリカさんが細メガネを光らせている。
「こ、こ、これは社長。どうしてここへ」
部長があわてて椅子から立ちあがる。カワサキがさっそく社長の後ろにまわりこんで、肩をもみはじめる。まったく、わかりやすいぐらいのごますり野郎だ。
だが社長はハエでも追いはらうかのようにカワサキの手を払いのけた。
「完璧な見積もり、という声が聞こえたような気がするが……。それともわしには教えられんような話かね」
社長の目がぎらりと光った。今ではすっかり好々爺然とした社長だが、戦後の闇市で怒涛の見積もりを連発して財を成し、そこから一代でのしあがっただけのことはあり、ときおり見せる鋭い眼光は社員を威圧する。
「ととととんでもございません。たった今、ホンダくんが見積もりをつくったところでして、ぜひとも社長にもお見せしたいと思っていたんですよ」
部長が平伏せんばかりの勢いで見積もりを社長に手わたすと、すかさず秘書のエリカさんが老眼鏡をさしだす。
「ほうほう、これをホンダくんが……」
にこにことした表情で見積もりを眺めていた社長の顔つきが、突如豹変した。「まさか……」「いやしかし……」と独り言が漏れる。
最後まで読みおえると、社長は見積もりを丁寧に封筒に収め、深く息をついた。社長も無言、部長も無言、部署全体が静まりかえっていた。
やがて社長はすっと指を二本立てた。秘書のエリカさんがそこにタバコを差しこみ、流れるような動きで火をつけた。あわてて立ちあがろうとしていたカワサキが「出遅れた」という顔をした。

「いやはや驚いたよ。こんな優秀な社員がうちにいたなんて」
社長はタバコの煙を吐きだしながら声を漏らした。
「わしは長いことこの仕事をやっているがこんなすごい見積もりを見たことはない。このビッグ・プロジェクト、まちがいなく成功する!」
わっと歓声が上がった。社長の威厳の前にぶるぶると震えていた部長が安堵のため息をついた。表情を変えていないのはおれだけだ。ずっと余裕の笑みを浮かべていたからだ。

「よしっ、ボーナスをはずもう。ホンダくん、このビッグ・プロジェクトはすべて君に一任するよ!」
社長とおれはがっちりと握手をかわした。


【次回予告】
完璧な見積もりにより完璧なスタートを切ったビッグ・プロジェクト。すべて完璧かと思われていたが、なんとライバル会社であるイリーガル社がまったく同じ見積もりを作成していたことが判明。完璧だったはずのビッグ・プロジェクトに暗雲が立ちこめる。ビッグ・プロジェクトの見積もりをライバル社に漏らしていたのはいったい誰なのか……。
次回、『カワサキの謀略』。乞うご期待!