2018年4月5日木曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈八〉 美味礼賛』



『上方落語 桂米朝コレクション〈八〉
美味礼賛』

桂 米朝

内容(e-honより)
第八巻は、「美味礼賛」。落語を聞いて「アッ、うまそう!」と思わず口中に唾がたまった経験はありませんか。食べものがテーマ、もしくは食べるシーンが一つの魅力になっている話を集める。最終巻につき、著者ごあいさつあり。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第八巻。

シリーズ最終巻ということで、「美味礼賛」というテーマこそあるものの、実質はいろんな噺の寄せ集め。
『鴻池の犬』『馬の田楽』なんかは、食べ物が主題じゃないしね。『鍋墨大根』『焼き塩』なんか食べるシーンすら出てこないし。『テレスコ』にいたっては食べ物かどうかすらわからないからね。


『桂米朝コレクション』シリーズ全八巻を読んだけど、これはほんとに価値のある本だね。噺を正確に収録しているのはもちろん、時代を映したマクラや米朝さんがどんな点に注意しながら演じているかというメモも残されていて、百年経っても価値を減じない(それどころか時代が立つほど価値が増す)史料になるのはまちがいない。
時代の変化とともにわかりづらくなった点を補足してくれているのもありがたい。

今は記録メディアが発達したのでDVDやYouTubeで正確に落語を残せるようになった。でも「わかりづらいけど解説をすると野暮になるのであえてそのままやる」とか「こういうやりかたもあったが今はこうしている」といった"演じなかったもの" は記録されない。

『桂米朝コレクション』は、そういう「名人の心遣い」の片鱗が見える、すばらしいシリーズだ。



饅頭こわい


若い衆が集まって、好きなものや怖いものの話をしている。中にひとり「饅頭がこわい」という男がいて、他の連中はそいつを怖がらせてやろうと饅頭を買い集めてくる……。

とても有名な噺なので説明する必要もないだろう。
ぼくが小学校のときにはじめて買ってもらった落語のカセットテープが桂米朝さんの『饅頭こわい』で、この噺と『だくだく』でぼくは落語に魅せられた。
この噺の魅力は「饅頭こわい」のくだりではなく、前半のばか話にあるとぼくは思っている。「どんぶり鉢」「おぼろ月夜」もいいし、特に「狐の恩返し」と「おやっさんが体験した怪談話」は、緊迫感のある展開とくだらない結末の落差が大きくて大好きだ。落語入門には最高の噺だね。


鹿政談


奈良の鹿は神の使いとされ、うっかり殺してしまおうものなら死罪となった時代の噺。
奈良の三条で豆腐屋を営む六兵衛という年寄りが、犬がきらず(=おから)を食べていると思い木片を投げたところ、当たりどころが悪かったのか死んでしまう。さらによく見ると犬ではなく鹿だった。
奉行所に連れていかれた六兵衛。しかしお奉行である根岸肥前守の「これは鹿ではなく犬だ」という寛大な判決によって許される……。

善男善女しか出てこないめずらしい噺。だからだろう、笑いどころは少ない。やっぱり強欲なやつや小ずるいやつが出てきたほうがおもしろい。
心優しいお奉行様の名裁き……ということなんだけど、しかしいくら正直なじいさんを助けるためとはいえ、事実をねじまげて、しかも部下たちに圧力をかけて忖度をさせているわけで、これって裁判官としてあかんのちゃうの? と法治国家に住む人間としては疑問を持ってしまう。悪法もまた法だろ、と。
『帯久』のときも思ったけど、お奉行様やりすぎじゃないですかね。

今でも奈良の鹿は天然記念物に指定されているが、昔はもっと厳しく保護されていたらしく、鹿を殺すと斬首されたり、子どもであっても生き埋めにされたり(三作石子詰め)したと言われている。
しかし鹿って農作物は食い荒らすし、発情期はけっこう荒っぽいし、昔は角も伐ってなかっただろうし、あいつらが我が物顔で歩いていたと思うと住人はたいへんだっただろうな。いや今でも我が物顔で歩いてるんだけどね。奈良公園周辺はすごいよ。「鹿飛び出し注意」の道路標識がいっぱいあるからね。


田楽喰い


若者たちが集まって一杯やろうという話になるが、誰も金がない。そこで酒瓶を割ってしまったことにして兄貴の家にある酒を呑ませてもらう作戦を立てる。なかなか計画通りにいかないもののなんとか酒を呑ませてもらえることに。兄貴が「"ん"のつく言葉を言ったやつは、"ん"の数だけ田楽を食っていい」というゲームを発案し……。

落語における「企み」というのはだいたい成功しないものだけど、これはめずらしく(多少つまづくものの)思いどおりにいく。あれ、うまくいっちゃうのか、と拍子抜け。兄貴にばれて怒られるけど呑ませてもらえる、という展開のほうが納得がいくな。
後半の『ん』まわしゲームは、古今東西のようなパーティーゲームの元祖という感じだね。


鴻池の犬


ある商家の前に捨てられていた三匹の犬。丁稚がかわいがって育てていると、そのうちの一匹をもらいたいという人がやってくる。聞けば、誰もが知る大金持ちである鴻池善右衛門の息子がかわいがっていた犬が死んでしまったので、そっくりな犬をもらいたいとのこと。
鴻池家にもらわれた犬は身体も大きくなり、あたり一帯の犬社会を牛耳るボスになる。そこに現れた病気でひょろひょろの犬。話を聞いてみると、鴻池の犬の弟だったということがわかる……。

前半は商家の人々のやりとりが丁寧に描かれるのだが、後半はうってかわって犬社会の話になり、犬同士の会話から成る落語になるというナンセンスな展開。
犬が出てくる落語には『犬の目』『元犬』などがあるが、それらは野良犬。ペットとしての犬が出てくるのはめずらしい。江戸時代には、犬を飼うという習慣は(少なくとも庶民には)ほとんどなかったんだろう。
後半は急に漫画的になるのであまり好きじゃないけど、犬をあげたお礼が大層すぎるという理由で番頭さんが小言をいうシーンは商人のプライドが感じられて好き。


鯉舟


磯七という髪結い(出張床屋)が若旦那のお供で鯉釣りに出かける。舟の上で大騒ぎする磯七だが、見事大きな鯉を釣りあげる。しかし鯉を裁こうとどたばたしているうちに鯉が逃げてしまい……。

髪結いが出てくるめずらしい落語。床屋兼幇間(太鼓持ち)みたいな存在だったのかな。逃げた鯉が戻ってきてしゃべる、というばかばかしいサゲはけっこう好き。落語って「え? 今ので終わり?」みたいな唐突な終わり方をすることがよくあるけど、この噺みたいに「はいこれがサゲ!」ってわかりやすいほうが好き。


京の茶漬


京都ではお客が帰るときには「せっかくですからお茶漬けでも……」と声を掛ける習慣がある。辞退するのが礼儀だが、ある物好きな男が一度「京の茶漬け」を食べてみたいと思い、そのためだけにわざわざ京都の知り合いの家を訪ねる。主人は留守で、嫁さんを相手に話しこむ。帰ろうとした男に「ちょっとお茶漬けでも」と声をかける嫁さん、「さよか、えらいすんまへんなあ」と座りなおす男。
ところがご飯がほとんど残っていない。なんとかして残りご飯をかき集めてお茶漬けを出した嫁さんだが、男はなんとかしてお代わりをもらおうとして……。

落語の京都人は嫌味でせこい人物として描かれることが多いが、この噺に出てくる京都人の嫁さんはぜんぜん嫌味なところもなく、たまたまご飯が残っていないところに妙な客人が来て困惑させられてかわいそう。
子どものときに『今日の茶漬け』を聞いてもいまひとつぴんと来なかったが、これは高度な心理戦だから子どもには理解しにくいよなあ。「なんとかして『お代わりでもどうですか』と言わせようとする客」と「その意図に気づいていながらわざと気づかないふりをする嫁さん」という、なんとも繊細なせめぎあい。
大笑いする類の噺ではないが、意地悪い視点ににやにやさせられる。


近眼の煮売屋(ちかめのにうりや)


ある男がごちそうを並べて酒を呑んでいる。やってきた友人がこんなごちそうどうしたんだと尋ねると、煮売屋の近眼の親父を突きとばして盗ってきたんだと冗談で返す。ところが友人はそれを真に受けてしまい、煮売屋に行って親父を突きとばして帰ってくる……。

ずいぶんひどい噺だ。いきなり突きとばされる煮売屋、かわいそう。
総菜屋兼居酒屋のような店だそうだ。『東の旅』の『煮売屋』にも出てくるね。
きずし、このわた、イカの木の芽和え、サワラの照り焼き、焼き豆腐……。ずいぶんうまそうなもの食ってるなあ。


鍋墨大根


振り売り(移動販売)の八百屋、長屋のおかみさんにうまく値切られて安く大根を買われてしまう。悔しいので指定されたのとは別の細い大根を持っていくと「これじゃない。さっき鍋の底の墨を大根につけておいたからわかる」と言われ、その手口に感心する。
八百屋が向いていないので駕籠屋に転身。すると、ちょっと目を離したすきに乗せた客が関取に入れ替わっており、「しもた。さいぜんの客に、鍋墨塗っといたらよかった」……。

小噺のような短い噺。
駕籠の中身が入れ替わっているというくだりは、『住吉駕籠』の後半によく似ている。でも『住吉駕籠』の「こっそり二人で乗っている」というシチュエーションのほうがビジュアル的におもしろいなあ。


焼き塩


商家の女中さんのところに故郷から手紙が届くが、文字が読めないので通りかかった侍に読んでもらう。すると侍が涙を流しはじめたので、「故郷の親の容態が悪いと以前から聞いていたのでこれは悪い便りにちがいない」と女中さんも涙を流す。侍と女中がいっしょに泣いているのを見た塩売りの親父、身分違いの恋がうまくいかなかったのだろうと勘違いしてもらい泣き。しかし侍は文字が読めずに人前で恥をかいたので悔し涙を流していただけだったとわかり……。

これも小噺のような短さ。
枕の「『司』という字を魚屋に訊いたら『同という字を二枚におろして、骨付きのほうや』という答えが返ってきた」とか、字が読めない父親が子どもに字を訊かれてへりくつをこねるところのほうが本編よりおもしろいな。


小咄・たけのこ


隣家の筍が、塀のこちら側に生えてきた。それを見た侍、使いを隣にやって「ご当家のたけのこが手前どもの庭へ入ってきたので召し捕って手討ちにいたす」と伝えさせる。すると隣家の主人は「お手討ちはやむをえませんが遺骸はこちらへお下げ渡しを」と返す……。

短い噺だが大仰な言い回しがおもしろい。落語に登場する侍はいばりくさっていたり、堅物だったりするけど、こういうユーモアを解する侍ってめずらしいな。
「塀を越えて生えてきたタケノコを取って食べてもいいか」ってよく法律の教科書に出てくるよね。たしかタケノコはオッケーで柿はだめだったはず。


馬の田楽


つながれている馬の前で子どもたちが遊んでいる。ひとりの子どもが度胸試しで馬の尾の毛をまとめて引っぱったところ、驚いた馬が走って逃げてしまった。
馬方が現れ、馬がいなくなっていることに気づいてあわてて追いかける。いろんな人に馬がどこに行ったか尋ねるが誰も協力的でなく……。

まだ馬が街中にいた時代の噺。子どもたちが「馬の腹の下をくぐれるか」「馬の尾の毛を抜けるか」と度胸試しをするシーンが出てくる。
そういやぼくも小学生のころ、「走っている車にどれぐらい近づけるか」「走っている車にさわれるか」という度胸試しをしていたのを思いだした。今考えるととんでもない遊びだけど、昔から男子のばかさは変わらないんだねえ。


ためし酒


尾張屋の旦那が、近江屋の旦那に一升入るという大きな杯を見せる。近江屋の旦那が「うちの下男の権助ならその杯で五杯の酒を呑める」と言いだし、尾張屋は「いくらなんでもそんなに呑めるわけがない」と言う。有馬旅行の旅費を賭けて五升の酒が飲めるか試すことに。
連れてこられた権助は「ちょっと考えさせとくなはれ」とどこかに行ってしまうが、しばらくして戻ってきて酒を呑みはじめる。つらそうにしながらも五升を飲み干した権助。尾張屋が「さっきおまえはどこかへ行っていたが酒を呑めるようになる薬でも飲みに行っていたのか」と尋ねると……。

なんと、元はイギリスのジョークらしい。初代快楽亭ブラック(イギリス人。『美味しんぼ』に出てくる落語家のモデル)がイギリスから持ちこんだ小噺を落語に仕立て直したのだとか。輸入品とは思えないほどどこをとっても見事な落語になっている。


寄合酒


若者たちが集まって一杯やろうという話になるが、誰も金がないのでそれぞれ一品ずつ持ち寄ろうという話になる。酒屋を騙して入れさせた酒、犬から奪いとった鯛、乾物屋が気づかないうちに持ってきた棒鱈と数の子、子どもを脅かして持ってきた鰹節、丁稚から盗んできた味噌と根深(ネギ)など、ろくでもない方法ではあるがごちそうが集まる。
ところが慣れない男たちが料理をするものだから、鯛を犬にやってしまったり、火をつけるのに失敗したり、数の子を焚いてしまったり、酒をひとりで飲み干してしまったり、鰹節でとった出汁を捨ててしまったりと失敗ばかり……。

導入は『田楽喰い』とほぼ一緒だが(『寄合酒』→『田楽喰い』という流れでひとつの噺としてかけられることもあるという)、こちらのほうがわかりやすくておもしろい。
悪知恵をはたらかしていろんな食材を集めるところ、せっかく集めた食べ物をすべて台無しにしてしまうくだりなど、笑いが途絶えることがない。
ここまで笑いどころの多い落語もそう多くないね。


ひとり酒盛


引越してきた男、手伝いにきてくれた友人に「何もしなくていい」と言いながら、あれこれと仕事をさせる。ようやく落ち着いて酒でも飲もうかとなっても、なんだかんだと言いながら自分ひとりで飲んでばかり。ついに堪忍袋の緒が切れた友人が家を飛び出していく……。

この噺は、九割ほどはひとり語りで進んでいく。落語は基本的に会話の芸だが、これはほとんど「ひとり芝居」だ。それでもうまい人がやると他の人物の姿が見える。桂米朝さんの『ひとり酒盛』を聴いたことがあるが、ちゃんと友だちの存在が感じられた。
ここまでやるのならもうぜんぶひとりの台詞にしてしまったほうがおもしろいんじゃないかなと思う(容易にできるだろう)。


禍は下


網打ち(魚捕り)に行くと言って丁稚の定吉を連れて出かけた商家の旦那。向かった先はお妾さんの家。お妾さんの家に泊まることにした旦那は、定吉に「羽織と袴を持って帰って、途中の魚屋で買った魚をお土産として渡すように」と命じる。
ところが定吉が買って帰ったのはめざしとちりめんじゃことかまぼこ。お内儀さんに「こんな魚が捕れるわけがない」と言われるが、なんとかごまかす。ところが袴の畳み方がきれいだったためにお妾さんの家に行っていたことがばれ……。

「禍(わざわい)は下より起こる」ということわざがあるそうだ。わざわいは下々のことの過失から起きる、という意味だそうだ。あんまり納得のできないことわざだな。小さい過ちは現場のミスかもしれないけど、大きなわざわいはトップの方針の過ち、というケースが多いと思うんだけど。

めざしとちりめんじゃことかまぼこを買って「網にかかった魚です」というところはわかりやすくてよくできたギャグだ。
流れも自然でおもしろいし、知っている人に見つからないように提灯の家紋を隠す、魚捕りやお妾さんの家に行くのに羽織袴を着ている、なんて昔の風俗もちりばめられていて、いい噺だ。


テレスコ


肥前(長崎)で変わった魚が捕れた。めずらしい魚なので、誰もその名前を知らない。代官所が「この魚の名前を教えてくれた者には十両をつかわす」と張り紙を出すと、仁助という漁師が現れて「これはテレスコという魚です」と言うので十両を渡した。
後日、代官がその魚を天日干しにしたところ、元の姿とは似ても似つかぬ形になった。そこで「この魚の名前を教えてくれた者には十両をつかわす」と張り紙を出したところ、また仁助がやってきて「これはステレンキョウです」と言う。
同じ魚なのに違う名前で呼ぶとは代官所をだまして金をとるため、不届き千万ということであろうと仁助は捕まえられ、死罪を宣告される。最期に女房・子供に会いたいという仁助の願いが聞き入れられ、仁助が助かるように火物断ち(火の通った食べ物を断つこと)をして神仏にお祈りしているという女房がやってくる。そこで仁助は「子どもにイカの干したのをスルメと言わすな」と言い、それを聞いた代官が干せば名前が変わることもあると気づいて仁助は無罪放免……。

ずいぶん妙なタイトルだと思ったら、なるほどこういう噺ね。『ちりとてちん』と同じような趣向だね。
元は「イカの干したのをスルメと言わすな」でサゲていたのだが、それではわかりにくいということでこの形に変わったのだそうだ。「スルメと言わすな」のほうがスマートだけど、やっぱりその後の無罪放免となるところまでやったほうが断然いいね。「スルメと言わすな」で終わったら、仁助が打ち首になるかどうかわからなくてもやもやするから。


馬の尾


魚釣りにいこうとする男が、テグスにするために馬の尾の毛を抜く。それを見ていた友人が血相を変えて「馬の尾を抜くなんてなんてことをするんだ!」と騒ぎだした。不安になった男が「馬の尾を抜くとどうなるんだ」と尋ねるが、友人はとんでもないことをしたなと騒ぐばかり。酒や肴をごちそうしてなんとか聞きだそうとするが、友人はなかなか教えてくれず……。

特に何も起こらず、しかも聴いている人には早めに結末がわかってしまう。
個人的には、最後まで真相がわからず後味の悪さを残したほうがおもしろいと思う。落語っぽくはなくなるけど。


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桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈二〉 奇想天外』

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桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈五〉 怪異霊験』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈六〉 事件発生』

桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉 芸道百般』



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2018年4月4日水曜日

改札に引っかかった間抜けの末路


都会の通勤電車における三つの大罪といえば、「歩きスマホ」「傘の先を後ろに向ける」と並んで、「改札退場時に引っかかる」が挙げられることはご承知の通りだ。

ただ、歩きスマホや傘の持ち方とは違い、どれだけ気を付けていても引っかかってしまうのが詐欺と改札だ。
誰もが他人事ではない。「おれはぜったい大丈夫」とは思えない。ぼくも毎朝ラッシュ時に改札を通るときに「引っかかったらどうしよう」と戦々恐々としている。

誰もが陥りかねない罠なのに、改札に引っかかった人に対して周囲の人々がとる対応はあまりにも冷酷。
目の前の人が改札に踏み込んだ瞬間「ピンポーン!」と鳴る。このとき、その直後を歩いていた人が顔をしかめる確率は百パーセントであることが我々の調査でわかっている。ちなみに、二つ後ろを歩いていた人が顔をしかめる確率は八十四パーセントだ。

「あのマザー・テレサですら、前の人間が改札に引っかかったときに舌打ちをした」という話がまことしやかに伝えられている。この話が事実かどうかはわからないが(ぼくが今つくった話なのでたぶん嘘だろう)、さもありなんと思わせるだけの説得力があるのは、それだけ改札に引っかかった人に対して憎しみを抱くのが自然なことだからだ。もしかすると狩猟時代から備わる人間の本能なのかもしれない。それが何の役に立つのかはわからないが、本能とはそういうものだ。

イエス・キリストは云った。
「自動改札に引っかかったことのない者だけが、改札に引っかかった者に対して顔をしかめ、舌打ちをしなさい」

すると人々はあからさまに迷惑そうな顔をし、舌打ちをしながらイエス・キリストを避けて別の改札に並びなおした。


人種、性別、出自、身体的特徴。
すべての差別がなくなったとしても、「改札に引っかかった人差別」がなくなる日は来ないだろう。

改札に引っかかった人は一瞬にして周囲の注目を集め、冷ややかな視線を浴びることになる。
「後続に迷惑かけてんじゃねえよ」
「まあダサい」
「あら営業一課のハセガワさんだわ。すてきな人だと思ってたのに、幻滅」
「おやあれはハセガワくんか。仕事のできる若手だと思ってたのに、改札に引っかかるようじゃ大事な仕事は任せられんな」
と、たちまち彼の評価は暴落。よくて左遷、悪くて解雇。
状況的には痴漢で捕まったときと同じだ。いや、痴漢の場合は冤罪の可能性があるだけまだましかもしれない。



差別の原因は、「改札に引っかかった人は後退しないといけない」というルールだ。そのせいで著しい通行の妨げになる。

たとえば「料金不足で『ピンポーン』という音が鳴った場合はそのまま改札を出た後に差額を清算しなければならない」だったなら、後続の人たちに迷惑をかけることもなく、犯罪者のような扱いを受けることはないだろうに。

しかしこのシステムを導入すると、料金を清算せずに逃げるやつが現れる。

そこでぼくが提案する唯一のソリューションは、
「改札に引っかかったら床に穴が開いて、引っかかった犯人がそこに転落する」だ。
直後にまた穴がふさがれるようにすれば後続の人たちは滞りなく通過できるし、犯人も周囲から後ろ指をさされることがない。

被害者の便益と加害者の人権の両方を守れるすばらしい制度だと思うので、鉄道会社の人はぜひ導入のご検討を。


2018年4月3日火曜日

いとあざとし


四歳の娘は、ご飯が終わるとぼくの膝に乗ってくる。

ぼくが読んでいる本をのぞきこんで、わからないくせに「なるほど」などとうなずいている様はいとをかし。

しかしご飯がついたべたべたの手で服をさわってくるのは勘弁してもらいたい。


「ごはん終わったら手を洗ってきてね」

「ごちそうさましたら、はみがきしぃやー」

と告げると、娘はこう返す。

「いやや。ここにいる。だっておとうちゃんが好きだから」


ずるい。さすがは女の子。やり口が非常にあざとい。

そんなこと言われたら、ねえ。

もう、ねえ。

ずるいよ、ねえ。

そんなの言われて「早くお膝から降りて手を洗ってきなさい」と言えるお父ちゃんが世の中にいますかっての。

2018年4月2日月曜日

【読書感想】桂 米朝『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉 芸道百般』


『上方落語 桂米朝コレクション〈七〉
芸道百般』

桂 米朝

内容(e-honより)
ますます円熟する上方落語の第一人者、桂米朝の落語の世界。第七巻は、「芸道百般」。さまざまな芸能、芸事にかかわる落語集。いまや失われてしまった芸の中に、大道華やかなりし日本のいにしえを偲ぶことができる。

桂米朝氏の落語書き起こし&解説シリーズ、第七巻。

歌舞伎、浄瑠璃、講談などを扱った噺が多いが、芝居の台詞があたりまえのように引用されていたりするので昔の人にとっての一般教養だったんだな。今だと『となりのトトロ』や『STAR WARS』の台詞が特に説明なしで用いられてもだいたい通じるようなものかな。ま、ぼくは『STAR WARS』観たことないんだけど。


軒づけ


浄瑠璃の稽古に励む若者たち。自分たちの浄瑠璃を聴いてくれる人がいないので、軒づけをしようと考えた。ところがまともに三味線を弾けるものがおらず、どの家に行っても迷惑がられてばかり……。

「軒づけ」とは、一軒一軒家をまわって軒先で浄瑠璃を披露することだそうだ。今でいうストリートミュージシャンのようなものだね。でも駅前とかでやるストリートミュージシャンとちがって知らない人の家の前まで押しかけて浄瑠璃を聞かせるわけだから、昔の人は積極的だったんだなあ。今だったら警察呼ばれるな。

ありがたいことに「軒づけ」という迷惑千万な風習はもうなくなったけど、で、選挙カーはいつなくなるの?


花筏


大坂相撲の大関である花筏が病気で巡業に行けなくなった。そこで花筏に顔が似ており、身体も大きい提灯職人の徳さんが代役をすることになった。相撲はとらなくていいという条件で高砂巡業に行くことになった徳さん。はじめはばれないかとびくびくしていたが、徐々に気が大きくなり、さんざん飲み食いするわ、はては夜這いまでするわで、実は元気なのではないかと疑念を持たれるようになり、地元の力自慢である千鳥が浜との取り組みを組まされてしまった。
一方千鳥が浜は、花筏が自分を殺そうとしていると父親から聞かされてすっかり怖気づいてしまう。
わざと負けようとする花筏(徳さん)と、花筏に殺されると思いこんでいる千鳥が浜の対戦がいよいよ始まり……。

大正時代に消滅した大坂相撲にまつわる噺。昔の相撲は地方巡業に行くと、その土地の力自慢と対戦していたそうだ。地元の強いやつが大坂の強い力士を破ったりしたら盛り上がるだろうなあ。今もやったらおもしろいだろうけど、力士の大型化が進んでいる今では危険きわまりないだろうな。
徳さんにとって思いもよらぬ方向に転がる展開、徳さんと千鳥が浜それぞれの心中描写、ぐっと引きこまれ盛り上がるクライマックス、そして冒頭の提灯職人を活かしたサゲと、完成度の高い噺。


蔵丁稚


芝居好きの丁稚、仕事をサボって芝居を観にいっていたことが旦那にばれて、蔵に閉じこめられてしまう。腹が減った丁稚は気を紛らわすためにひとりで芝居をすることにし、切腹のシーンを再現する。蔵の中を覗いていた女中が丁稚が本当に切腹しようとしていると勘違いしてあわてて旦那に報告。旦那もあわてて蔵に駆けつける……。

娯楽の少なかった時代、芝居の魅力に憑りつかれる人は今よりずっと多かったのだろう。
なんか見たことあるようなエピソードだな、と思ったらあれだ。『ガラスの仮面』の1巻だ。ラーメンの配達に行った北島マヤが途中でお芝居ごっこにはまってしまい、帰るのが遅くなってめちゃくちゃ叱られるやつだ。あとマヤも少しドラマを観ただけで台詞を完璧に覚えられたしな。一緒だね。千の仮面を持つ丁稚。


七段目


芝居好きの若旦那、商売をほったらかして芝居見物ばかりに興じている。二階に閉じ込められてしまった若旦那は、やはり芝居好きの丁稚をつかまえて一緒に芝居ごっこをはじめる。夢中になるあまり丁稚が階段から転げ落ちてしまう……。

特にこれといったおもしろい展開もなく、ただ芝居ごっこをするだけ。芝居の元ネタを知らないと退屈な噺だ。


蛸芝居


とある商家、旦那はおろか番頭、丁稚、女中などみんなが芝居好きで、なにかというとすぐに芝居の真似事がはじまってしまう。やってきた魚屋も芝居に熱中してしまい、さらには買ってきたタコまでが芝居をはじめて……。

これも『蔵丁稚』や『七段目』と同じく「芝居好きの人物が芝居の真似事をしているうちに熱演してしまう」タイプの噺だが、ユニークなのは「一家そろって全員芝居好き」という点と「タコまでが芝居をはじめる」という後半のナンセンスさ。
どんな会話をしても芝居になってしまうという展開、ラーメンズのコント『映画好きの二人』を思いだした。


動物園


早起きはしなくてよく、重いものも持たず、責任もなく、人としゃべらず、ごろごろ昼寝をしているだけで金がもらえる仕事がしたいという男。持ちかけられたのは、死んだ虎の皮を着て移動動物園の檻の中にいるという仕事。
これは楽だと快適に過ごしていたら「ライオンと虎の対決ショー」が始まると聞いて大あわて……。

わりと有名なストーリーだが、それだけよくできた噺だからだろう。「死んだ虎の毛皮を着て人間が虎のふりをする」という実際にあってもおかしくなさそうな絶妙な設定や、ライオンと対決しなければならない緊張感、その緊張が一気にほぐれる秀逸なサゲまで、どこをとっても無駄がない。

「移動動物園」は今もあって家畜や小動物が中心だが、かつてはカバやゾウを連れて移動していたこともあったらしい。ゾウなんかトラックで運べたのかな。自分で歩かせていたのかもしれない。さすがにトラやライオンはないかな。


あくびの稽古


歌、踊り、浄瑠璃など何を習ってもうまくできず長続きしない男、「あくび」を教えてもらいにいくのでついてきてほしいと友人に頼みこむ。さまざまなシチュエーションでのあくびのしかたを教える先生、なかなかうまくできない男。付き添いで来た友人はすっかり退屈してしまいあくびをする……。

『あくび指南』とも。ロバートのコントってこういう設定が多いよね。変なスクールがあって、うさんくさい講師(秋山)が他のふたりに何の役にも立たないことを教える、っていう構成。


くしゃみ講釈


女と逢引きをしていたら講釈師に邪魔をされた男、仕返しをしてやろうと一計を案じる。胡椒をくすべてくしゃみをさせ、講釈をできないようにしてやろうというものだ。
ところが記憶力が悪いため「八百屋で胡椒を買う」ということが憶えられない。兄貴分は、のぞきからくりの演目『八百屋お七』に引っかけて憶えれば忘れないと説くが、男は八百屋まで行ったもののどうしても思いだすことができないため店先で『八百屋お七』を演じることになる。
胡椒が売り切れていたため、やはりくしゃみが出るという唐辛子を買ってきた男。講釈場に乗りこんでいって唐辛子を火鉢にふりかけると、はたして講釈師はくしゃみが止まらなくなる……。

逢引きを邪魔されるくだり、兄貴分から悪知恵を授かる会話シーン、八百屋に行ってくりひろげられるドタバタ、それぞれに笑いどころが多く、また『八百屋お七』や講釈の『難波戦記』を披露するシーンがあるなど、見どころの多い噺。これを演じるのはたいへんだろうなあ。
いかめしい講釈が続いた後にくしゃみの連発、という緊張と緩和も見事。よくできた噺なのだが、それだけにサゲがいまいち腑に落ちないのが残念。
サゲの直前で講釈師が「何か故障でもおありか?」と尋ねるのだが、これの意味が今ではまずわからない。「何かご不満でも?」という意味なのだそうだが、こんな用法他に聞いたことがない。かといって他の言い回しでは「故障」と「胡椒」を引っかけたサゲにつながらないしなあ……。
他のパターンもあるらしいが、どれもいまいち鮮やかに決まらないんだよね……。


蟇の油(がまのあぶら)


往来にて立て板に水の調子で演説を披露してがまの油を売っていた男、酒を飲んでべろべろになったところでもうひと稼ぎしようとするが、今度はろれつが回らずうまく話すことができない……。

まず見事なお手本を見せておいて、その後に失敗例を見せるという「オウム」パターン。
ただし『子ほめ』や『時うどん』のような「オウム」と違うのは、一回目と二回目を演じるのが同一人物という設定。
うーん、「いつもはうまい人が酔っているせいでうまくできない」だと「うっかり者が生半可な知識でやろうとしたせいでうまくできない」ほど笑いにつながりにくいな。「まあ酔ってるからしょうがないね」と思ってしまう。
かといって、この長くて流暢に並びたてる台詞を「一度聞いただけでやってみる」とするには無理があるしなあ。

本筋よりも、昔の大道芸について語ったマクラのほうがおもしろい。

 お客がぎーっちり立って、ここでおかしなこと言うてたら、折角ついた客が離れる。逃げるというときには、また足止めという手があって、客の足をピタッと釘づけにする方法がある。
「ちょっと言うとくけどな、懐中物気ィつけてや。ふところ、財布。こン中にスリが三人おるで。……うそやない、うそやない。長年ここで商売してんねん、わしのにらんだ眼に狂いはない。誰やちゅうことは言わんけど、スリが三人おる。手ェ組んで仕事してんねん。取られてから言うてきても知らんで、気ィつけや。スリが三人おるで、ええか。こういうて逃げた奴がそれや」
 ……ほな、皆動けんようになってしまう。もうボチボチあっちへ行こかいなあ思てても、今動いたらスリやと思われるさかい、しゃあないさかいほとぼりのさめるまで、阿呆みたいな顔してボーと、こう立ってんならんちゅうことになるんでっさかい。


軽業


伊勢参りの帰りにある村に立ち寄ったふたりの男。さまざまな出し物をやっていたので見物することに。「一間の大鼬(いたち)」や「天竺の孔雀」「目が三つ、歯が二本のタゲ」「取ったり見たり」といった見世物に金を払うが、どれもインチキばかり。
これなら騙されないだろうと軽業興行を見物。しかし軽業師が綱から墜落してしまう……。

軽業のくだりは視覚的に見せる部分なので、活字で読んでもさっぱりわからない。
前半の「ものものしい看板」と「ばかばかしい正体」の落差がおもしろい。詐欺なんだけどだまされたほうが思わず笑ってしまような商売も、昔はほんとにあったのかもしれないと思わせる魅力があるね。


看板の一(ぴん)


サイコロ賭博をしている若い衆が、金を持っているところからまきあげようと隠居の爺さんを連れてくる。爺さんが親をするが、サイコロが筒の外にこぼれ落ちていて一の目が丸見え。みんな一に張るが、爺さんは「これは看板の一だ」といってサイコロをふところにしまう。はたして出た目は五。「これに懲りたらしょうもないことを企むなよ」と言い残して立ち去る爺さん。
それを真似しようと考えた男、みんなを集めて同じ手で引っかけようとする。サイコロをこぼしたふりをして全員に一に賭けさせるところまではうまくいったが、筒をあけたら一が出てしまう……。

これは江戸落語を米朝さんが関西に輸入(?)した噺だそうだ。
前半で「ん? 看板の一を見せたところで当たる確率は六分の一のままでは?」と思ったのだが、やはり思ったとおりの展開に。
ということは爺さんは「看板の一」のほかにもうひとつトリックを使っていたんだろうな。むしろそっちのイカサマのほうがメインで、「看板の一」は本命のトリックから目をそらさせるためのミスリードだろう。
「だまされた!」と思ったら、まさかもうひとつもトリックがあるとは思わないもんな。じつに巧妙なやり口だ。どんな手を使ったかはわからないが。


抜け雀


流行らない宿屋にやってきた汚らしい身なりの客。毎日毎日酒を呑んでばかり。宿屋の主人が酒代の催促に行くと、実は金を持ってないことが判明。私は絵師なので代金の代わりに絵を描いてやろうといい、屏風に雀の絵を描いて立ち去ってしまう。
翌朝、屏風から雀が抜けでて飛んでいるところを見た宿屋の主人はびっくり。たちまち評判になり、この雀を見ようと大勢の客が押しかけるようになった。
しばらくして現れた老人が「このままだと雀はもうすぐ死ぬぞ」と言い、屏風に鳥籠を書きそえてやると雀たちは籠に入って休むようになった。
またしばらくして、雀の絵を描いた絵師が現れ……。

「名人の描いた絵から生き物が出てくる」というのは古今東西よくある怪異譚なんだけど(落語の『ぬの字鼠』もそうだね)、それだけで終わらせずに絵師が残した「ぜったいに売ってはいけない」という言葉やもうひとりの絵師による「この雀は死ぬぞ」という謎めいた言葉など、ミステリアスさを持続するアクセントが効いており、中盤以降は笑いどころがほとんどないのに聞き入ってしまう。

サゲの「親に籠(駕籠)を描かせた(舁かせた)」は『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』から来ているらしいが……、ま、今ではさっぱりわからんね。


一文笛


秀というスリが鮮やかな手口で財布を掏り、スリ仲間に自慢をする。足を洗って堅気になった兄貴に「わしは金を掏られて困るような相手を狙ったことはない。金に余裕のあるやつや悪人からしか掏ったことはない」とうそぶく。
ところが、兄貴から聞かされた話によると、秀が貧しい子どもに恵んでやるためにおもちゃの笛を掏ったことが原因で、その子が泥棒の疑いをかけられ、父親から厳しく責められたことを悲観して自ら井戸に飛びこみ、意識不明の重体だという。
自分のやったことが原因で子どもが危篤状態にあることを知った秀は、匕首で自分の右手の指を切り落とし、二度と盗みはやらないと誓う。
だが子どもを助けるためには高い金を払って入院させないといけないと知り、最後のスリだとして腕は確かだが強欲な医者から金を掏る……。

米朝さんがつくった落語。米朝さんといえば古典落語が多いので創作はめずらしいが、実によくできた噺だ。
意外性のある導入、鮮やかなスリの手口、スリでありながら魅力的な秀というキャラクター、子どもが危篤に陥りスリが自らの指を落とすというスリリングな展開、安易に悪事を讃えない倫理性、人情味のある終盤、そして全体の雰囲気を壊さないサゲ。落語の魅力がぜんぶ詰まったような噺だ。

「長屋の者が気がついてじきに引き上げた。息は吹き返したけど気がつかん、ずうと寝たきりや。おい、子供が可哀そうやと思うたら、たかだか五厘か一銭のおもちゃの笛、何で銭出して買うてやらんねん。それが盗人根性ちゅうのや。お前、何ぞ良え事でもしたように思てたんと違うか。ええ、最前偉そうな事ぬかしたな。この金が無かったら困るような人の懐中はねらわん、それが何でお前にわかるねん。どんな恰好してようと、誰が持ってようと、その金がどんな事情のある金か、回りまわってどこの誰がどない迷惑するか、一ぺんでも考えたことあるのかい。生意気なほげた叩くな」

兄貴が秀にするこの説教、染みるなあ。特に「お前、何ぞ良え事でもしたように思てたんと違うか」が。これ言われたら針のむしろだわ。これは歳を重ねてないとできない説教だ。

前半の「煙草入れを掏ることができなかったから売ってほしいと持ちかけてくるスリ」のくだりはめちゃくちゃ鮮やかだ。と思ったら講談の『仕立屋銀次』などから拝借したものらしい。
こういう、いいものはどんどん取り入れることができるのが落語の強みだよね。著作権の意識のない時代の芸能なので、いいものはどんどんパクる。

著作権がなければ文化の発展速度はめちゃくちゃ上がるだろうね。ある程度は保護したほうがいいけど、著作権は作者の死と同時に消滅するぐらいでいいんじゃないかな。


不動坊


長屋に住む利吉のもとに家主がやってきて、縁談を持ちかける。相手は講釈師・不動坊火焔の妻であるお滝。不動坊火焔が病気で死んでしまったので、葬式代などを立て替える代わりに嫁にもらうということで話がまとまった。
嫁がくるということで浮かれている利吉、銭湯に行って新婚生活の妄想にふけっているうちに、同じ長屋に住む独身男たちの悪口を言ってしまう。それを聞いていた独身男たち、利吉を脅かせてやろうといたずらを企てる。軽田道斎という講釈師をけしかけ、道斎に幽霊の恰好をさせて利吉の家の屋根に昇り、屋根の上からサラシで道斎を吊りおろす。
ところが利吉は幽霊に扮した道斎を見ても怖がらず、逆に道斎が金で買収されてしまう。さらにサラシが切れてしまい道斎が下に落ちて……。

前半は利吉の浮かれ具合が笑いを誘い、後半は独身男三人衆+軽田道斎のドタバタ劇が大笑いを生む。
嫁さんが来ることで舞いあがる利吉、嫉妬から嫌がらせをしようとする男たち、自分をふった女に仕返ししようとするも金に目がくらんでしまう講釈師、それぞれの人間くささが出ていて楽しい。


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