2017年12月19日火曜日

『約束のネバーランド』に感じた個人芸術としての漫画の終焉


『約束のネバーランド』

白井カイウ(原作) 出水ぽすか(漫画)

内容(e-honより)
母と慕う彼女は親ではない。共に暮らす彼らは兄弟ではない。エマ・ノーマン・レイの三人はこの小さな孤児院で幸せな毎日を送っていた。しかし、彼らの日常はある日突然終わりを告げた。真実を知った彼らを待つ運命とは…!?

宝島社『このマンガがすごい! 2018』でオトコ編1位だったので購入。
本屋大賞は嫌いだけど(理由は これ とか あれ とか)、『このマンガがすごい』は信頼してる。

一見幸せいっぱいに見える孤児院にはじつは裏の顔があった。里親に引き取られていったはずの子が殺されていることがわかり……。
というサスペンスっぽい導入の話。
最新刊(6巻)まで読んだけど、どうやって孤児院を脱走するか、孤児院の外はどうなっているか、世界観から細部までよく練られており、評判にたがわぬおもしろさだった。


おもしろかった。うん、おもしろかった。おもしろかったんだけど……。

なんだろう、あんまりわくわくしなかった。
「この先どうなるんだろう!?」って緊迫感が味わえなかった。
ひとつには、ぼくがおとなになっちまったからってのもあると思う。多くのストーリーに接したせいで感受性が鈍った。
でも、周到につくりこまれた綿密な原作も、"わくわく感" を損なう原因になっているように思う。


このマンガ、ほんとによくできてる。一切の無駄がない。伏線がほどよくわかりやすい形でちりばめられている。どのエピソードもなくてはならない。どうでもいいセリフがない。ひとコマひとコマ丁寧に描かれている。
でもそれがかえって、窮屈な印象を与えている。

主人公たちがどんなにピンチになっても「はいはい原作にのっとってピンチになったのね」って感じしかしない。「おいおいこれ助かるのか!?」って思えない。「予定通りピンチになったのね」と思えてしまう。
よくできすぎてるからなんだろうな。

比べるようなものではないと思うけど、名作『ドラゴンボール』は行き当たりばったり感が強かった。伏線もほとんどなかったし、たぶん作者自身が「次どうしよう」って考えながら描いていたのだろう。当然、読者からしたらまったく先が読めない漫画だった。
だから、悟空が死んだときは「おいおい主人公が死んじゃったよ。どうすんだよ」と思ったし、フリーザ様が「私の戦闘力は530000です」といったときには絶望感しかなかった。
「この先、うまく解決するの?」と不安になった。

たとえるなら、『ドラゴンボール』は道なき道を走る暴走トラックだったのに対し、『約束のネバーランド』はレールの上を一直線に走る快速列車。快速から見える風景もきれいなんだけど、どこに連れていかれるのかわからないドキドキ感はない。

『ドラえもん』に、『あやうし! ライオン仮面』というエピソードがある。
フニャコフニャ夫という人気漫画家が、〆切に追われるあまり先の展開をまったく考えずに連載漫画主人公・ライオン仮面をピンチに陥れてしまう。そしてその先の展開が思いつかず、未来の『ライオン仮面』を読んだドラえもんから続きのストーリーを教えてもらう……というタイムパラドックスを扱った名作SFエピソードだ。
この『ライオン仮面』、たぶん雑誌連載で読んでいるのび太たちにとってはめちゃくちゃおもしろかったにちがいない。だって作者にすら先が読めていないんだもの(もっとも『ドラえもん』の読者からするとぜんぜんおもしろくない)。



『約束のネバーランド』が、漫画界の最高峰といってもいい『このマンガがすごい!』大賞に選ばれたのは、個人の創作活動としての漫画が終焉に近づいているということの示唆なのかな、と思う。

たいていの漫画はプロダクションで複数人によって制作されていると思うが、基本的に作者として名前が表に出るのはひとりだけ。企画も話作りも構成もキャラクターデザインも作画も、作者がやっている(ということになっている)。他のスタッフはその他大勢のアシスタントで、せいぜい誰も読まない単行本最後のページに「special thanks!」みたいな形でちょろっと名前が出るだけだ。

アメリカのコミック、いわゆるアメコミは徹底した分業制をとっているそうだ。話作りと作画と着色とすべて別の人が担当し、さらにそれぞれ複数人が担当している。タイトルは同じ『バットマン』でも、いろんな絵柄の『バットマン』が存在する。バットマンは個人の創作物ではなく、映画のような共同作品だ。

『約束のネバーランド』にも同じようなものを感じた。
原作者と漫画家が別だから、だけじゃない。
丁寧かつわかりやすく伏線が張りめぐらされていること、無駄なエピソードやセリフがないこと、お手本のような起承転結ストーリーになっていること、あまりにもよくできていて「セオリーにのっとってシステマチックに作ったなあ」という印象を受ける。


悪口を言ってるみたいになってきたけど、最初にも書いたようにおもしろい漫画だと思う。
ただ、個人芸術ではなくこれはもう工業製品だなー、とも思う。
漫画雑誌は人気競争だから、他の漫画はこの大手メーカーによる大量生産車のような漫画と闘っていかなくてはならない。あと何年かしたら個人の漫画は駆逐され、SNSやブログで細々と発表する趣味のものだけになり、商業漫画は漫画制作会社が会議を繰り返して作った製品だけになるんじゃないだろうか。

それが業界の成熟ってことだろうし全体のレベルが上がって読者としては楽しめるようになるんだろうけど、漫画がシステム化されてゆくことに一抹の寂しさも感じる。



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2017年12月18日月曜日

見て見ぬふりをする人の心理 / 吉田 修一『パレード』【読書感想】


『パレード』

吉田 修一

内容(e-honより)
都内の2LDKマンションに暮らは男女四人の若者達。「上辺だけの付き合い?私にはそれくらいが丁度いい」。それぞれが不安や焦燥感を抱えながらも、“本当の自分”を装うことで優しく怠惰に続く共同生活。そこに男娼をするサトルが加わり、徐々に小さな波紋が広がり始め…。発売直後から各紙誌の絶賛を浴びた、第15回山本周五郎賞受賞作。

吉田修一氏の小説を読むのは『元職員』『怒り』に次いで三作目。
公金を使いこんだ男の逃げ場のない焦燥感がにじむ『元職員』、隣人が殺人犯かもしれないと思い疑心暗鬼になって不幸になっていく人々が描かれる『怒り』、どっちも嫌な小説だった(褒め言葉ね)。
だから吉田修一といえば嫌な小説を書く人というイメージだったんだけど、こんな「四人の若者が共同生活を通して少しずつ変わっていく」みたいな青春ストーリーも書けるのかー。

……と思いながら読んでいたら。
おおっと。後半で思わぬ展開に。
やっぱり "嫌な小説" だった。前半が青春ぬくぬく小説、みたいな感じだったから余計に後半の醜悪さが際立っている。
こういう裏切り、ぼくは好きなんだけど、嫌な人はとことん嫌だろうね。

以下ネタバレ。



『パレード』では、共同生活を送る住人のひとりが通り魔をやっている。それを隠して、同居人に対しては明るく楽しく接している。会社ではまじめに仕事をしている。信頼も厚い。
彼にとっては、友人や同僚の前で見せる面倒見のいいすてきなおにいさんも真実の姿だし、夜道で女性を殴りたくなるのも彼の本当の姿。
怖い。怖いんだけど、でもわかる。
ぼくは通り魔はやらないけど、人に言えない秘密は持っている。家族に見せる顔と友人に見せる顔と仕事の顔と知らない人向けの顔はそれぞれ少しずつ違う。
だから「親しい人の前では気のいいにいちゃんが、じつは通り魔」というシチュエーションは共感はできないけど理解できる。
もしぼくが通り魔だったとしても、24時間通り魔らしいふるまいをしたりはしない。人に親切にすることもあるだろうし、近所の人にはあいそよくふるまうだろう。

『パレード』でぼくが怖いと感じたのは「同居人たちも実は彼が通り魔だと気づいているのに気づかないふりをしている」というとこ。
あえて口をつぐんでいる理由も、同居人が通り魔だと知った後の心境も書かれていない。だから何もわからない。わからないから怖い。



自分の家族や親しい友人が「どうも犯罪者らしい」と気づいてしまったら、ぼくならどうするだろう。
「問いただす」「自首を促す」「本人が自首しないなら警察に通報する」
法治国家の市民としてそれが適切な対応だとわかっているけど、でもいざそういう状況になったときに正しく行動できるか自信はない。
よほど決定的な証拠を見つけてしまわないかぎりは、見て見ぬふりをしてしまうのではないだろうか。ごまかせるものならうやむやにしてしまいたい、と願うのではないだろうか。

以前、自宅の一室に少女を十年近くも監禁していた男が逮捕される、という事件があった(新潟少女監禁事件)。
犯人の男は母親と同居しており、当時「人を部屋に監禁していたら同居人が気づかないわけがない。母親も共犯だったのでは」と問題になった。でも結局、母親の関与はなかったとされて立件はされていない。
ふつうに考えれば「家族が自宅に人を十年監禁していたら気づかないわけがない」だろう。ぼくもそう思う。でも、「気づかないことにしてしまうかもしれない」とも思う。

家族が殺人罪で逮捕したら、ぼくは家族の無実を信じると思う。
でもそれは愛情からくる美しい信頼ではなく、「めんどくさいことになってほしくない」という身勝手な願望から信じるだけだ。嫌な事実を受けとめる強さがないから、ありえなさそうだけどあってほしい都合のいい嘘を信じる。新潟少女監禁事件の犯人の母親がたぶんそうだったように。

「人を部屋に監禁していたら同居人が気づかないわけがない」というのはまっとうな言い分だが、みんながみんな強く正しく行動できるわけではないと思う。ぼくも自信がない。

『パレード』は、そんな己の身勝手さ、弱さを眼前につきつけてくるような小説だった。


【関連記事】

吉田 修一 『怒り』 / 知人が殺人犯だったら……

吉田 修一『元職員』




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2017年12月17日日曜日

義父の扱いがひどい

義父の扱いがひどい。
友人の話だ。彼は結婚して、妻の両親と同居している。
そのお宅に招待され、共に食事をする機会があった。

食事の後、子どもたちとシールを貼って遊んでいると、友人が自分の娘に言った。「このシール、おじいちゃんのはげ頭に貼ってみ」

えっ、と声が出た。
娘のおじいちゃんって、つまり義理のお父さんだよね。そんな扱いでいいの?
友人の娘は、おもしろがっておじいちゃんにそっと近寄り、はげ頭にシールをぺたっと貼った。孫娘にいたずらをしかけられたおじいちゃんは笑いながら「こらっ」と叱り、叱られた孫娘はけたけた笑い、いたずらを指図した友人もげらげら笑っていた。

おいマジか。義父のはげをイジっていいのか。
いくら一緒に住んでいるからといって遠慮がなさすぎないか。

ぼくは義父に対してそんな扱いぜったいにできないぞ。実の父に対してでも無理だ。
ところが友人は義父のはげ頭で遊び、友人もお義父さんもいっしょになって笑っている。
なんつう距離の近さだ。感心をとおりこして恐ろしさすら感じた。

後に友人とふたりっきりになったときに「おまえ義理のお父さんに対してあんなことしていいのかよ」と訊くと、「いいのいいの、家族なんだから」と笑っていた。
いや家族でも越えちゃいけないラインがあると思うんだけど。


将来、ぼくの娘が結婚して夫を家に連れてきたとしたら。ぼくは「ぜんぜん遠慮しなくていいよ」と言うだろう。「自分の実家のようにくつろいでくれたらいいよ」と。
でも、その婿が「ぼくブロッコリー嫌いなんでお義父さんに食べてもらおっと」と言って勝手にぼくの皿にブロッコリーを乗せてきたら。自分の子どもをけしかけてぼくの頭にシールを貼らせたら……。
その場は笑って寛容なところを示す。
でもその後で娘を呼び「いくらなんでもあれはだめだろ」と間接的に注意すると思う。「たしかに遠慮するなって言ったけど、ふつうは遠慮するだろ」と。


後日、その友人と会ったとき、友人の娘が「今日はチビが来るんだよ」と言ってきた。
「チビ?」と訊くと、友人が「ああ、うちの親父のこと。背が低いからうちの家ではチビって呼んでるんだ」と教えてくれた。
おお……。義理のお父さんに対してひどい扱いをすると思ったけど、自分のお父さんへの扱いはもっとひどかった。
ということは「はげ頭にシールを貼らせる」ぐらいなら、彼にしたらぜんぜん遠慮してるほうなのかもしれないな。一応敬語は使ってるし。

世の中にはいろんな距離感の家族があるもんだ。

人工知能を大統領に


こんな記事を読んだ(『ニューズウィーク日本版 2017/12/19号』)。
 ロシアのプーチン大統領は12月6日、来年の大統領選への立候補を表明した。一方で、何万人もの国民が新たな未来派候補を支持している。人工知能(AI)搭載音声アシスタント「アリサ」だ。
 選挙運動サイトでは、アリサは感情より論理に忠実で、老化や疲れを知らないなど6つの点で人間に勝ると喧伝。現時点で4万2000人以上が賛同の署名をしている(正式な立候補には30万人の署名が必要)。
なんともすてきな話だ。
大統領なんて人工知能のほうがよっぽどうまくできると思っている人が少なくないのだろう。



今の人工知能にどこまで的確な判断を下せるかどうかはわからないが、某国の大統領や某国の総理大臣や某国の総書記なんかを見ていると、国のトップなんて「的確な判断なんか下さなくていい。いらんことさえしなければいい」ぐらいでいいのかもしれない。官僚が優秀なら誰がなっても大丈夫だろう。

2010年のサッカーワールドカップで勝敗を予想するタコが有名になったが、もしかしたら国のトップなんてタコでも務まるのかもしれない。法案を決める際はA案とB案の容器を並べてタコがどっちに入るか、で決めたほうが案外うまくいったりして。反対派の人もあきらめがつくしね。タコが決めたならしょうがないか、って。

まあ政治家の仕事って意思決定だけじゃないから、タコに政治家は務まらないだろう。タコに外交はできないからね。
でも人工知能なら外交もうまくやるかもしれない。あと十年したらわからない。2027年にはアメリカを代表する人工知能と日本を代表する人工知能がバーチャルゴルフをしているかもしれない。


政治は難しくても、サッカーの監督なんかはもうAIでも務まるんじゃないだろうか。
ビッグデータと試行錯誤をもとに判断すれば、あっという間に人間の監督よりいい成績を収められると思うんだよね。
どっかのチームでやってくれないかな。


2017年12月15日金曜日

キャバクラこわい



キャバクラがこわい。

って書くと「まんじゅうこわい」的なやつでほんとは好きなんでしょと思われるかもしれないけど、そういうんじゃなくてほんとにこわい。

キャバクラが嫌いな男性ってけっこういると思うんだけど、でもなぜかキャバクラ好きの人って「キャバクラが嫌いな男なんていない!」って思ってる。「連れてってやる!」と言われたことも一度や二度ではない。いやいや。なんで上からなんだよ。

とはいえ三回ほど行ったことがある。一度は「まあ食わず嫌いはよくないだろう」ということで、あとの二回は断りきれなくて。もちろん三回ともつまらなかった。
元来が人見知りだから、はじめて会った人と隣に座って長時間話さないといけないなんて苦痛以外のなにものでもない。年齢も職業も趣味嗜好も違うから共通の話題もないし。いや共通の話題とか探すからだめなのか。自分の好きなことを好きなだけしゃべっていい場なんだよな、キャバクラって。そのためにお金払ってるんだし(身銭を切って行ったことはないけど)。そうはいっても初対面の人に「会社にいるTってやつがほんとに嫌いでさあ……」なんて言ってもしょうがないしな、と思ってついつい「出身地はどこですか?」なんて話題の切りだし方をしてしまう。我ながらつまんねえなあと思い、ますますキャバクラという場が嫌になる。おお、怖い。

キャバクラには逃げ場がない。
パーティーなんかだと、親しく話せる人がぜんぜんいなくても「黙々と食事をする」という手がある。ぼくはカラオケが大の苦手だけど、どうしても断れなくてカラオケに行ったときは「ひたすら曲を探すふりをする」という手を使う。
キャバクラにはそういう逃げ道がない。「しゃべる」しかないのだ。

以前勤めていた会社で社長にキャバクラに連れていかれたとき、やはりキャバクラを苦手としている男がいた。ああ助かったと思い、彼の隣に移動し、男同士で話しはじめた。さして親しいわけでもなかったが、まったく知らない人と話すよりはまだ話題もある。
ところがキャバクラ嬢がぼくらの話に割りこんでくるのだ。男二人につきキャバクラ嬢が一人つく店だったので、自分も仲間に入ってこようとする。なんだこいつと思いながら一応話につきあったが、ぼくらがしていた「最近読んだミステリの本」の話題にはまったくついていけず、とんちんかんな相槌しか返ってこない。知らないんなら黙ってろよと思ったが、話をするのがキャバクラ嬢の仕事なので仕方ないのだろう。
知らない女に会話のじゃまをされるぼくらも不幸なら、まったく興味のない話に入っていかざるをえずおまけにあからさまに迷惑そうな顔をされるキャバクラ嬢も不幸。ぜんぜん楽しんでないぼくらのために金を払う社長も不幸。
なんだこれ。誰も得をしていないじゃないか。

あとキャバクラ嬢は、酒を勝手に注いでくる。これも嫌だ。自分が払うわけじゃないけど、嫌だ。
なぜならぼくは食事に関する脳の回路がぶっこわれているから、目の前に食べ物や飲み物があると口にせずにはいられない。腹いっぱいになっていても目の前に食べ物があれば口に運んでしまう。後で吐くぐらい食べる。
だから「そろそろ腹いっぱい/酔ってきたな」と思ったら食べ物や酒を自分の前に置かないようにするのだが、結婚式場とキャバクラではグラスが空くと勝手に注ぐやつがいる。
なんだそのシステム。わんこそばか。
今どき落語家のお弟子さんでもそこまでしないぞ。最近の落語家弟子事情は知らんけど。
自分の酒は自分のタイミングで飲ませろよ。入れられたら飲んじゃうだろ。話が途切れがちになるから、余計に酒が進む。

というわけで三回キャバクラに行ったときは三回ともべろべろになって、正直何を話したかよく覚えていない。
だから、もしかしたら後半は酔っぱらってめちゃくちゃ楽しくなって「いえーい! キャバクラさいこー!!」と叫んでいた可能性も、ないではない。